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ロストガール






 わりと運のない日だった。

 バレーボールの元代表が直接指導をしてくれるイベントに参加したのは有意義だったけれど、あいにく開場までの道のりはあたしの家からかなり複雑に電車を乗り継がなければならなかった。行きはアルテミスに調べてもらっていたからなんとか迷わなかったけれど、帰り道は逆方向に向かえばいいと軽く考えていたら、気がつけば迷っていた。

「ううーむ」

 迷ったと気づいた時は、駅員さんに聞いたりしていたのに。これでだいじょうぶって思ったら、うっかり電車で居眠りしてわりと悲惨なことになっていた。慌てて飛び下りたはいいけど、よけい悲惨なのではと思ったときには電車はあたしを置き去りにした。
 そして今、見たことも聞いたこともない駅名を前に、首をぐりんぐりんと捻って見ても現状は変わらない。ここってそもそも東京なのかしら。都心とは違って駅の外は緑豊かだし、というかはっきり言って山だし、ぼんやりしているうちにみんな下りてしまったのか周りに人もいない。

「うーん・・・」

 とりあえず反対方向の電車に乗ろうにも、向かいのホームに行くには一度改札を出なければいけない構造みたい。でも女子中学生のお財布は一度精算をするには割と厳しい残額しか残っていない。というか、路線図を見てもここまでいくらかかったのか見当もつかない。
 
 ああもう駅員さんに泣き落とすしかないのかしら。でも駅員さんすら見当たらない。まだ夕方にならないくらいだから、そういえば、あまり大きくない駅はお客さんが少ない時間に駅員さんがいないところもあるんだっけ。じゃあ駅員さんが来る時間まで待つの?
 線路を突っ切るのも、誰も見ていないとはいえ気が引けるし。

 ああもう、こんな美少女が困っているんだから誰か助けてくれてもいいじゃない。改札の前に立って、出るか出まいか迷いながら白馬の王子さまがやってこないかを探す。
 どっかに王子さまはいないかしら。白馬に乗った王子さまでないなら車いすに乗ったおじいさまでもいい。とりあえず誰でも落とす自信はあるからかかってこい!というか誰か来て!

「・・・・・・美奈?」

 頭を抱えていたら、聞きなれた声。一瞬幻聴かと思って振り返る。そしたら、いた、王子さま。あたしをもってしても落としきれない難攻不落の王子さまではあったけど。

「あっ・・・あみちゃああああん!!」

 なんでここにいるの。運命なの。迎えに来てくれたの。ほんとに王子さまだったの亜美ちゃん。なんて今そんなことはどうでもよく、目の前に知っている人がいるのがただうれしくて。
 改札の向こうにいる亜美ちゃんに駆け寄ろうとして、無情にも自動改札のゲートが閉じてあたしのお腹を直撃する。

「へぶっ!」
「美奈っ!」

 改札ゲートに文字通り弾き飛ばされたあたしに、亜美ちゃんもまた改札ゲートから身を乗り出すようにこっちを覗き込んだ。障害がある方が恋は燃え上がるっていうけど、こんな物理的な障害はいらない。しかもお金でしか開かない扉なんて。

「美奈、だいじょうぶ?切符入れなきゃ出られないわよ」
「うええ、亜美ちゃん、ぎゅってしたいからお金貸してええ」
「えっ・・・」

 あたしたちを隔てているのがお金っていうのは、とても残念な問題だと思うのよ。

「ぎゅって、お金って、えっ?ごめんなさい、言っていることがよくわからないわ」
「実はかくかくしかじかでここどこかわかんないしたすけて」

 いきなりお金の話をされた亜美ちゃんはあからさまに面食らってたみたいだけど、事情を説明したら納得したみたいで、口元に手を当てて少しだけ考える仕草をした。

「・・・ここから麻布十番までは少し遠いわね。何度か乗り換えもしなければいけないし・・・確かに、帰るには一度向かいのホームに行かなければいけないわ」
「うぅ・・・やっぱり?」
「もちろんお金は貸すけど・・・美奈、説明したらひとりで帰れそう?」
「えっ・・・亜美ちゃんは・・・?」

 そういえば、亜美ちゃんはこっちの改札をくぐろうとしていた。麻布十番に行くには反対ということは、亜美ちゃんはこれから麻布十番ではない方に行こうとしていたってわけで。
 こんなところに亜美ちゃんがいたこともさながら、亜美ちゃんがさらにここから遠いところに行こうとしているだなんて。

「どこ行くの?」

 あたしの質問には答えず、亜美ちゃんはお金によって隔てられた改札をあっさりくぐってきた。そうよね今はICカードあるから切符買わなくてもいいもんね、というよりこっちに来たってことはやっぱあたしを放ってどこか行っちゃうのね。王子さまにしてはちょっと減点よ亜美ちゃん。
 
 まあこれから用事があるのなら仕方ないけど。

 偶然会えただけでもうれしいし、とりあえず壁がなくなったので亜美ちゃんに抱きついておく。亜美ちゃんはびっくりしてから困ったみたいに笑って、時刻表をちらっとだけ見て言った。

「・・・あなたも乗った方がいいわ」
「えっ」

 間もなくホームに電車が入ってくるベルが鳴る。口を開く前に亜美ちゃんはあたしの手を引っ張ってそのまま走り出した。電車が出るから急いでいたのはわかっていたけど、有無を言わせないくらいのその仕草には正直ときめいてしまった。





「ごめんなさい、美奈、強引なことして・・・」
「あ、えっと、いいんだけど。でも、こっち、麻布十番には反対方向じゃないの?」
「精算するお金がなかったんでしょう?あなたの話を聞いて思い出したのだけど、この次につく駅は、快速が止まるから少し大きいの。そこだとホーム同士が繋がっているから、改札をくぐらなくても反対のホームに行けるわ。きっと駅員さんもいるし、きちんと事情を話せば不正乗車じゃないってわかってもらえると思うから」
「えっ、そうなの!」
「ええ、あそこで駅員さんを待っているより、そうした方が早いと思って。それで反対の電車に乗ればいいわ。途中で乗り換えなきゃいけないけど、快速で帰れば少しは早いし、下りずに戻れば間違えた分の料金はかからないし。もしそれでも不安なら、いくらか貸すから」
「ああ・・・ありがとう亜美ちゃん。助かったわ・・・」

 珍しくお勉強以外で強引なことをされたと思ったら、そういうことだったのね。確かに、説明を聞いている暇はなかったし。
 がらがらの電車の中にふたり並んで座って、ようやく一息。窓から外を見れば見るほど見慣れない場所で、ほんの居眠りだったのにものすごく遠くに来たように感じてしまう。馴染みがあるっていうだけ月のほうがまだご近所だ。

 ほんとうに、会えてよかったわなんて言ってる亜美ちゃんの横顔を見つめる。

「ねえ亜美ちゃん、さっきも聞いたけど、亜美ちゃんはどこ行くの?」
「えーと・・・」
「しかもさっきのとこ、言っちゃなんだけど、すごい田舎じゃない。なにしてたの?」

 いい塾ならどこへでも行くなんて言ってたこともあるらしいけど、塾があったようにも見えないし。
 軽い感じの服装にトートバッグ一つだけだし、そのトートは外から見てもぺったんこで教科書やら参考書やらが入っているようには見えない。ほんとうに、お出かけに必要なものを入れているだけって感じがする。当然、山登りするような格好でもないし。

 亜美ちゃんは黙っている。言いづらいことをしていていて困っている、という感じではないけれど、なんて言ったもんかという表情をしている。あたしも亜美ちゃんにこそこそするような趣味があるとは思えないので、黙って次の言葉を待つ。

「・・・・・・お昼寝、かしら」
「えっ!?昼寝!?」

 お昼寝って、休みの日に自分の部屋とか、授業中の教室でするもんじゃないの。それとも別荘があるの。亜美ちゃんちお金持ちだからそれもありなのかしら。それかどこかよそのおうちにお邪魔していて、お昼寝してたの。
 それともお昼から寝るって、もしやアレなことでは。だってこんな山の中だし。

「おっ・・・お昼寝って・・・亜美ちゃん、なに?」
「昼に眠ることね」
「いや、言葉の意味は知ってるわよ。いやちょっとアレなことかとは思ったけどっ・・・亜美ちゃんがそんなことするわけないし、とにかく、そこまであたしアホじゃないから!」
「アレなことって・・・」

 亜美ちゃんは困ったような目でぐるりとあたしを見る。いや、突っ込みどころは全面的にあなたの方にあるわよ、と言いたいけど届きそうにないので黙っておく。
 亜美ちゃんが昼寝をするということもだけど、こんなところで寝ていただなんて。山でお昼寝って。それはこそこそするような趣味では。

 ああ、わけわかんないこの人。

 駅が近付くと緑豊かな景色の中には少しずつ建物が見え始めた。看板も見える。どうやら、山は山でも、この駅はハイキングルートの入り口に直結しているから少しは店なんかが出ているみたい。なるほど、さっきに比べてちょっとは大きい駅だ。

「・・・亜美ちゃんも、ここで降りるの?」
「いえ、たぶん、もう少し先なの」
「たぶんって・・・」
「でもあなたはここで降りるといいわ。向かいのホームで快速に乗って、元の駅に戻れば・・・あの、ひとりで帰れそう?」
「あー・・・うん」

 ここで降りない人を、引っ張っていくなんてあたしにはできない。
 でも今の亜美ちゃんは頼りない。亜美ちゃんが下りる駅にたぶんなんて言葉を使うなんて。山の中で(推定)お昼寝して、降りる駅がさらに先(しかも山奥。しかも未確定)でも。

 許されるのなら、ついて行きたかった。でもさっきの駅の改札もくぐれなかったあたしに、その先の改札をくぐるお金はない。貸してくれるとは言ってくれたけど、亜美ちゃんだって持ち合わせにそこまで余裕があるわけじゃないだろうし。

 お金があたしたちを隔ててる。やっぱりそれは由々しき問題だけど、踏み込めない。あたしを避けるためにこんなあいまいな物言いをしているわけじゃないっていうのだけははっきりわかるけれど、あの亜美ちゃんがどこを降りるのかもはっきり答えられないなんて。
 しかもさっきまで山の中でお昼寝してたとか言うし、おかしい。もともとおかしい人だけど、おかしい。

 ああもう、だめだ。駅のホームが見える。

「あのっ、亜美ちゃん。お金貸して!」
「あっ、ごめんなさい。すぐに・・・」
「足りないぶんは、体で返すからっ!」

 体で返すなんて、女の子になんてこと言わせるのよ。でも、放っとくことなんてできない。
 
「亜美ちゃんの持ち合わせが足らないなら、亜美ちゃんおんぶしてあたし家まで走ってもいいからっ」
「美奈・・・?」
「亜美ちゃんについていく!」

 後ろでドアが開く。お金を出そうとしていた亜美ちゃんが目を丸くして、手を止めた。その手をぐっと押し戻して、あたしも止まる。外からの風が背中に当たって、あたしは本当はこっちに来なきゃいけないんだって言われてるような気がした。でも、足を踏ん張って耐えた。
 亜美ちゃんが大きく息を吐いて腕を引っ込めた。呆れているため息なのかと思ったけど、確かに亜美ちゃんは眉尻を下げた表情ではあったけど。

「・・・少し歩くかもしれないけど」

 背後でドアが閉まる音がした。閉まる前に笑ってくれたから、少しだけ安心した。





「・・・ねえ、で、どこ行くの?」

 そこからさらにものすごく遠くに行くかと思ったら、亜美ちゃんはそのうち降りると言い出した。一旦立ち上がった座席に座り直しながら、亜美ちゃんは、風景を確かめるように窓の外を見ていた。
 そのうちってなんなのよ。そのうちって

「だから・・・もう少し先の駅」
「目的はなに?」
「えーっと・・・」
「無理やりついて来てこう言うのもなんだけど、あたしに言えないようなとこに行くわけ?」
「そういうわけではないのだけど・・・」

 亜美ちゃんはあたしを見ず、窓から目をそらさない。それはむしろ、あたしを見たくないというよりは外の景色を目に焼き付けているように見えた。お勉強しているときみたいに真剣な横顔は、これ以上声をかけて邪魔をしてはいけないような気がする。
 こっちがなにも言わないせいか、亜美ちゃんもそれ以上なにも言わない。結局、次の駅まで、あたしたちは黙ったまんまだった。





 結局、降りたのは、さっきの少し大きい駅からさらに2つ離れた駅だった。
 ハイキングルートとは外れるぶん周りはかなり辺鄙。いちおう道は舗装されていたけど、周りはいかにも田舎の家ですって感じの民家が散らばってるくらいで、近所の住民くらいしか使わないような駅だろう。
 緑豊かな光景で、まこちゃんを連れてきたら喜ぶかもしれないけれど、緑を見に来たわけじゃないあたしは複雑だ。しかも、亜美ちゃんは相変わらず口を利かないできょろきょろしているし。

 そして恐ろしいことに、やっぱりあたしの残金ではひとりでは帰れないみたいだ。しかも駅から出たら、この時代なのに携帯の電波も届いてないし。

「あみちゃーん」

 ちゃんとした用がないとこんなところには絶対降りない。でもこんなところにある亜美ちゃんの「ちゃんとした用」が見当もつかない。そう思っていたら、亜美ちゃんはあたしを置いてざかざかと大股で進んでいた。

「ちょ、ちょっとあみちゃん・・・!」
「・・・ここ、だと思う。ずっと探してたの。さっきから。頭でもそうだって」
「え、なに!?なに探して・・・!」
「スケッチ・・・きっと、この駅だった」

 亜美ちゃんは緑の影の中の道を、ほとんど確信したみたいに早足で進む。あたしのことを振り返らないのは鞄の中からスケッチブックを引っ張り出して、それと景色を交互に見ているからだ。あたしは後ろからそれを追いかける。
 置いて行かれそうだとか、そんな風に不安に思ったわけじゃない。これはきっと、亜美ちゃんにとって、とても大事なことで。でも、言葉にすることが、あの場ではきっと出来なかったんだと思う。
 あの亜美ちゃんがこんな風になるのは、きっと、とてもとても大切なことに向かっているからだと思う。人のためなのか、もののためなのか、場所のためなのかもわからないけど。
 いちおう道になってはいるけど、あまりきれいではない、砂まみれのコンクリートの上を早足で進んでいく。あまり複雑な道のりではないけど、どんどん民家も減って行って、陽も陰ってきて、数少ない街灯がぱちぱちと光りはじめる。帰る時間を考えたら少し危ないんじゃないのなんて思い始めたころに、亜美ちゃんはやっと足を止めた。

「・・・も、もう、暗いわね」
「え、なにいまさら」
「ごめんなさい、美奈、私が確認しなかったせいで・・・帰るの遅くなってしまうわ」
「いや、亜美ちゃんのせいじゃないわよ。あたしが無理やりついてきたんだし」

 あたしの言った言葉は嘘はないけど、亜美ちゃんがそんなことにいまさら気づいたことにはびっくりする。
 最初に言った通り、疲れたんならおんぶするわよと言えば、歩けないほど疲れてるならそもそもここまで来ないというごもっともすぎる返事でなんとも言えなくなる。この人は情緒というものがわかってない。

「おんぶはともかく、ほんとに遅くなってしまうわね。帰りましょう。美奈、きちんと家まで送るから」
「いや、遅くなるのは亜美ちゃんだってそうでしょ」
「私は、母が出張で家にいないから、遅くなっても問題ないわ。でも、美奈は・・・ご家族が心配するわ。ごめんなさい、景色ばかり見ていたから時間を全然気にしていなくて」

 気にしてなかったのはあたしの存在じゃないの?という言葉をぐっと飲み込む。声をかけてくれただけ、進歩だ。

「ああ、確かにママはおっかないけど・・・ねえ、そろそろ聞いていい?」
「え?」
「ここになにしに来たのよ。いいかげん教えて」

 あたしの質問に、亜美ちゃんは暗がりの中、本気でびっくりした顔をした。あたしが気にしていないとでも思ったのかしら。ああやだ、天才ってそうやって勝手に自己完結してたりするんだから。

 あたしが亜美ちゃんのことならなんでも気にしてるってことに気付かないのかしら。

「・・・あの、ほんとに大した用じゃないのよ」
「大した用もないのにこんなとこまで来るの?さっき駅で会ったときも、お昼寝してたとか言うし・・・なにが起きてるの」
「それは・・・説明するのは難しいのだけれど・・・」

 亜美ちゃんは口元を手で押さえると、少しだけ考える仕草をした。天才が説明するのが難しいとはこれいかに。言えないわけではないだろうにわざわざ言わないということは、難解なのか、それとも。

「えっと、すごく小さいころ、ここに来たことがあるの」
「えっ、そうなの」
「ええ、ほんとうに小さいころ。だから、駅の名前とかを覚えているわけではなくて・・・」
「ああ、そりゃすごく『小さいころ』でしょうねえ・・・」

 小さいころの亜美ちゃんに会ったことはないけれど、たぶん生まれたときから天才少女の亜美ちゃんが駅の名前を覚えていないくらいっていうんじゃ、相当だろう。もしかして、おむつつけてたりして。
 でもそれじゃひとりで来ないわよね。じゃあ誰かと。小さい頃なら、家族とか。そんな風にぶらぶらとついて行くと、亜美ちゃんはやっとこさ足を止めた。

「・・・ここ」
「え?ここ?」

 声を出したのは、疑問しかやってこなかったから。だって、目的地なんて、言われなくてもわかるようなわかりやすい、建物だったり自然のものだったりがあるものだと思っていたから。でも、目の前には、こぢんまりした、崩れかけた民家がひとつあるだけだった。

 昔ながらの一階建てのその家は古くて小さくて、屋根は剥がれているし窓なんかも泥だらけでがたがたで、もう誰も住んでいないのは確実だった。ものは使っていくことで古くなったり傷んだりするはずなのに、家というものは、誰もいなければいないほど壊れていく。家のことなんてなにも知らないあたしにもそう思わせる風合いで、長いこと誰の立ち入りもなく雨や風にさらされてきたのが見て取れた。

 こんな廃墟になんの用があるというのだろう。でも、亜美ちゃんはしばらくそこに立って、スケッチブックを持ったまま家をまっすぐ見つめているだけだった。もしかしたら昔住んでいたとか、なにかいわれがあるような場所なのかとか、ちょっと思ったけど、

 その横顔はお勉強中とも戦ってるときとも違う、とても真剣な顔をしていたから声がかけられなかった。でも、かわいいともかっこいいとも違う、とても、とてもきれいな横顔だと思った。

「・・・帰りましょうか」
「えっ?」

 しばらくそうしていると思ったら、亜美ちゃんは一分もしないうちにそう言った。ただこの家を見るだけにここに来たのだろうか、ほんとうに?確かになにもないからなにもすることはないけど、なにもないのに、ここに来るなんて。

「美奈、遅くなるわ」

 今度はちゃんと振り返ってくれた。それがうれしくて、でもあたしがいたせいで亜美ちゃんはさっさと引き上げることにしたんじゃ、なんて思ったら少しだけせつない。

「・・・いいの?」
「いいの。気が済んだから」
「でも・・・」

 ほんとに、見たかっただけだから、そう言って亜美ちゃんは手に持っていたスケッチブックを渡してくれた。少し暗いけど、元祖セーラー戦士の視力は伊達ではない。
 スケッチブックというだけあってほんとに内容はスケッチで、色はない。でも、鉛筆だけで紙いっぱいに描かれた絵は、芸術なんてよくわからないあたしでもすごいものだっていうのがわかるくらい精密だった。

 それは目の前の廃墟の絵。ものがものだけに暗い絵だけど、ひと筆ひと筆から、この場の、死んでいく家の様子が伝わってくる。生き生きしてる絵というのはあるかもしれないけど、死んでいく絵なんて。
 少し、ぞっとする。

「これ・・・この家」
「ええ」
「亜美ちゃんが描いた・・・んじゃないわよね」
「それ、この間、父が描いて送ってきたの」
「え、亜美ちゃんのパパ?そう言えば画家だっけ・・・でも、ここ」
「昔、父と来たの」

 そう言うと、亜美ちゃんは鞄からもう一冊スケッチブックを引っ張り出した。暗がりで少しだけ目をしかめて、ページをめくる。いやにリングが軋んで、表紙の端がめくれていたりでかなり古いスケッチブックなことがわかる。
 あるページで、亜美ちゃんはもう一度あたしにスケッチブックを渡してきた。そこにあったのは。

「・・・10年以上前の絵だけど」

 絵を見比べないとわからないくらいだけど、紙の上にあったのはこの廃墟だ。いや、廃墟じゃなかった頃だ。生きている、と絵を見て思った。筆も、絵になった場所そのものも。

「・・・ここ」
「ほんとに小さいころ、この近くに父のスケッチ旅行に連れてきてもらってね。いつもさっきの大きい駅で降りて、だからそこだけは覚えてたのよ。自然の中歩きながら、あなたに会った駅の近くのところにある山小屋で休憩して・・・ほんとに、あの駅からいろんな方向に、たくさん歩いたわ。小さいのにどこまでもついて行ったの」
「・・・・・・」
「で、その旅行中に、父に連れられてここに来たの。で、そのとき、だいぶご年配のご夫婦がやっていたお店で・・・すごく感動したわ。歩きづめでくたくただったせいもあるけど、こんなおいしいものがあるんだって」
「・・・・・・」

 スケッチブックに描かれていたのは、小ぢんまりとした家。暖簾と甘味処と書かれた旗がなければ店だとわからないくらい、質素だ。でも、窓は開いて、家の周りに花壇や鉢があって、柱や屋根、ひとつひとつの様子が、ここは生きている、と思った。
 知る人ぞ知る、だったのかもしれない。

「ここのあんみつ、本当においしかったのよ」

 おいしい、ではなくておいしかった、と亜美ちゃんは言う。すでに失われてしまった。その店をやっていた夫婦はもしかしたら単に引っ越したのかもしれないし、店が続けられなくなったのも何か事情があるのかもしれない。でも、亜美ちゃんの知っていた場所は、パパと来たって言ってたこの場所はもう、死んでしまったんだ。

 それをこんなめんどくさい手段で確認に来た亜美ちゃんの横顔がせつなくて、泣きたくなった。少しもさみしそうな顔をしないこの人を見るのが悲しくて、気がついたら抱きしめていた。亜美ちゃんは、拒絶も否定もしない。むしろ、あたしを慰めるみたいに、ゆるっと頭をなでてくれた。

「・・・泣かないで」

 あたしにそう言うけど、あたしがいなければ、亜美ちゃんは素直に泣くことができたかもしれないのに。





 もうすっかり暗くなって、亜美ちゃんは確認が足りなかったとこちらが恐縮するくらい謝ってくれたけど、帰り道とても自然に手をつないでいた。周りに人がいない暗い道のりだからかもしれないけど、電車に乗ったときみたいに強引でもなく、どちらともなく。それがとてもうれしかった。

「ほんとうにごめんなさい。帰るのが遅くなってしまって」
「もう謝らなくてもいいわよ。あたしが勝手についてきたんだし。それに、ふたりのほうが安心だわ」
「でも・・・」

 あたしのせいでひとりでここに来させることはできなかったけど、ひとりであの家の前にいさせることができなかったけど、亜美ちゃんがこうやって暗い山道をひとりで帰らないで済んだだけ、あたしはここにいていいんだって思えた。

「・・・あたし、亜美ちゃんはパパ似なんじゃないかって思うの」
「えっ、美奈、私のパパに会ったことがあるの?」
「そうじゃないけど、そう思った」
「・・・どうして?」
「どうしてって・・・」

 すっとぼけたことを言いながら、父、ってよその人に向けるカタい言い方じゃなくてパパって言葉を使ってるのは少し距離が近まったみたいに思えてうれしい。
 亜美ちゃんのパパに会ったことはないけれど、離婚して別居してる娘に絵を送ってくるくらいだから愛情がないはずはない。なにより、小さいころに連れて来てもらった店をわざわざ探す亜美ちゃんを見てたら、近くにいなくてもパパのこと好きで大切なんだなってわかる。

 でも、言葉も添えずに、思い出の場所が廃墟になってるスケッチだけを送って来るなんて、どういう父親なのよって正直思う気持ちもある。そしてこれだけを持って、記憶もあやふやな場所にひとりで向かおうとする亜美ちゃんも正直どうかと思うし。
 きっと、愛情表現が下手くそで、でも少しもそれを疑問に思ってなくて、それが相手に通じるなんて思ってる。それか、通じようとする意図もないのかもしれないけど、確かに愛はある。

 変な父娘。きっとやっぱり亜美ちゃんはパパに似ている。

「そんなの、見たらわかるわ」
「でも、会ったことないんでしょう?美奈ってたまに変なこと言うのね」
「亜美ちゃんには敵わないわよ」

 亜美ちゃんは解せない、という顔をしたけど、あたしの意見はきっと正しいと思う。

 やっぱり亜美ちゃんは、パパがいなくてさみしいなんて思うんだろうか。パパのいない生活なんて、あたしは想像できないからわからない。うちのパパはママほどではないけど口うるさいし、夜は酔っぱらってステテコ一枚で寝こけてたりするし、正直うっとーしいとかめんどくさいとか思うこともあるけど。

「・・・あ、電波、届いた」

 なんとなくくさくさした気持ちになって携帯を開くと、普通に電波が通っていた。ここだってまだまだ田舎には違いないけど、今となってはあの場所に向かっていた時間はいろんな意味で死んでいたんじゃないだろうか、と思う。まるで切り取られたような時間と世界だった。
 思い出の場所、なんてきれいなものなら、よかったのに。

「ほんとう?なら、美奈、家に連絡した方がいいわ。ここから電車に乗っても時間がかかるから・・・ご家族が心配するわ」
「あ、うん、そうする」
「もし、聞いてもらえるならちゃんと私も謝るから・・・」

 亜美ちゃんはあたしが作業をしやすいように手を緩めたけど、あたしはその手を握り返した。そのまま手を離さないで、片手で電話をかける。

「・・・あ、パパ、うん、あたし」

 家の方にかけたら、さほど待たずにパパが出た。電話に出たのがママでなくてよかった、ママだったら亜美ちゃんに聞こえるくらいの雷が落ちているかもしれない。

「ごめんね、実は電車間違えちゃって・・・うん、帰ってるところなんだけど、もうちょっとかかりそうかも・・・だいじょうぶ、亜美ちゃんもいっしょだから」

 亜美ちゃんは手を離そうとして、あたしは離したくなくてさらに手を握りしめる。

「え、うん、途中で会ったんだけど・・・ちゃんと連れて帰るから」
「美奈・・・!?」
「うん、そのまま泊まるから・・・亜美ちゃんの分もご飯作って待っててってママに言っといて」
「ちょ、ちょっと・・・!」

 亜美ちゃんが横からなにか言いそうだったし、ママに代わられちゃかなわないのであたしはさっさと電話を切った。

「そんな、いきなり・・・!ご迷惑だわ!」
「だいじょうぶよ、うちのパパとママも亜美ちゃんのこと好きだし、信頼してるもん。むしろ、亜美ちゃんいたらママの雷落ちないから助かるわ」
「だからって・・・!」
「亜美ちゃん、家に誰もいないんでしょ?ならいいじゃない」

 ひとりにしてあげることはできなかったから、ひとりにさせない。

「うちでご飯食べて、いっしょに寝ましょう」
「・・・でも」
「でもはなし。なにか問題でも?」
「・・・着替えとか、持っていないし」
「服くらい貸すわよ。あたしの服、亜美ちゃんに似合うかしらって思うのもあるし」
「・・・でも」
「でも、はなしだって言ったでしょ。もしかして、いやなの?」
「いやじゃないわ!けど・・・」
「いやならいいじゃない。あたしは亜美ちゃんといっしょにいたいの」

 パパがいなくて、ママが留守で、さみしいなんて、あたしが勝手に思ってるだけだ。亜美ちゃんはそんなこと言わないし、あたしは間違ってもこんな変な人にはなれないから気持ちの全部が全部理解できるわけじゃない。こんなところをひとりでうろうろするつもりだったのは未だにどうかと思うし、今からおうちにひとりなんてあたしが耐えられない。

「で、明日はどこか調べて・・・ふたりであんみつ食べに行きましょう」
「・・・美奈」

 あそこは、亜美ちゃんが大切だっただろう、パパとの思い出の場所は死んでいたけど。
 これからの思い出に、あたしがいてもいいはずだ。

「・・・ありがとう」
「うむ、素直でよろしい」

 手をつないだまま歩いてたら、やがて駅が見えてきて、ふたりで顔を見合わせて笑った。来た時とすっかり違う気持ちで改札をくぐりながら、ふと、あの亜美ちゃんに会った駅前で、ほんとに迷子になっていたのは亜美ちゃんじゃないかって思った。パパとはぐれて、ひとりで駅名も思い出せないような場所をさまよって、そこで、あそこであたしの前に現れた。

「亜美ちゃん」
「え?」

 改札をくぐるために、名残惜しいけど、いったんつないでいた手を離す。ひとつしかない改札をあたしが先に通って、そして、亜美ちゃんが改札をくぐったのを真正面から見届けて、出迎えるみたいに抱きしめた。

「・・・おかえりなさい」
「・・・美奈?どうしたの?」
「愛に物理的な障害は要らないのよ」
「美奈って、やっぱりときどき変なこと言うのね」
「やっぱりそれ、亜美ちゃんには言われたくないわー」
「なんだかわからないけど・・・ただいま」

 迷子は、ちゃんと帰る場所がいる。あたしが迷ったのは、迷子になった亜美ちゃんを迎えるためなんじゃないかって思ったら、今日はとてもいい日だ。そして、まだもうちょっと続く。だから早く家に帰らなくちゃ。

 でもふたりでいられる時間がうれしくて、あたしたちはベンチに座って、電車が来るまで、何度かキスをした。









                       **********************************


 亜美ちゃんが、サンドイッチ好きな理由が片手で食べられるなんて合理的なものだったので、あんみつが好きなのはめっちゃ不合理な理由からだったら良いなあとか。
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