goo blogの思い出
goo blog サービス終了のお知らせ 

TRACE





 マーキュリーとマーズが医務室に担ぎ込まれてからというもの、ヴィーナスは二人を見舞う暇さえなく政務に追われた。
 マーズは大した外傷はなく、次の日には仕事に復帰したが、明らかに不機嫌な様子を隠さずマーキュリーはもちろんジュピターともろくに話していないようだった。ジュピターはそんなマーズを持て余しながら、しかししきりにマーキュリーの様子を気にしている様子だった。
 四守護神の一柱が欠け、しかも人間関係がぎすぎすした状態で業務が滞りなく進むはずがなく、しかし人間関係に心を砕く間もなくヴィーナスはただ政務に駆けずり回った。
 そして数日後、マーキュリーが小康状態に入ったという報告を受け、ヴィーナスは医務室の扉を叩いた。
 マーキュリーは骨が割れる重傷だったので当然のごとく集中治療で面会謝絶、医務室に軟禁状態にあるとヴィーナスは人伝に聞いていた。治療中に脱走した過去があるマーキュリーを医療班は警戒していたらしいが、今回は大人しく治療を受けてベッドで寝ているとも聞いた。そのマーキュリーの『過去』を知っているヴィーナスはそれに驚くことはない。今回は逃げる理由もなく、むしろ医務室にいたほうが安全だろうとも思う。どうせマーズと顔を合わせるとひと波乱あるかもしれないし、とヴィーナスは顔をしかめる。
「・・・マーキュリー、入るわよ」
 扉をノックしてもマーキュリーの返事はなく、しかしこの状況でマーキュリーにプライバシーなどないと思っているヴィーナスは、まったく躊躇することなく部屋に入る。
「生きてる?」
 冗談めかして天蓋付きのベッドのカーテンをめくったヴィーナスは、その中にいるマーキュリーを見て思わず息を飲んだ。どう考えても死んでるとしか思えないような顔色でベッドに臥せっていたからだ。
 あくまで血の気はなく、目は開いておらず、ヴィーナスの訪問に気付きもしないのかベッドの上でぐったりしていた。眠っているようにも見えたが、それにしても一目見ておかしいと思わせるだけの異様な気配が漂っている。
「ま、マーキュ・・・」
 どこが小康状態だ、と思いながらヴィーナスはマーキュリーに駆け寄った。
 生きてはいる。意識もあるようだ。だが、それは限りなく遠い。すぐそばにいるヴィーナスに気付きもしないでマーキュリーは昏々と目を閉じていた。
「マーキュリー!」
 ヴィーナスはマーキュリーの肩を掴み揺すぶると、顔を近づけ声をかけた。割れた骨は既にくっついているのか、何の固定もされていなかったが、それにしてもマーキュリーの様子がおかしい。熱で脳みそまで溶けたか、と冗談とも本気ともつかない思考がヴィーナスの脳裏をよぎる。
 そこで、ふと腕が頬に触れた。
 壊れたはずのマーキュリーの腕がゆっくりとヴィーナスに伸び、冷たい掌が顔に触れる。マーキュリーは顔をしかめ腕を重そうにヴィーナスに伸ばしていた。だがまだ目は開いていない。
 その感覚にヴィーナスが体を震わせると、マーキュリーがもう片手を軸に異様とも思えるほどゆっくり体を起こした。
 ただの寝起きにも見えるその姿。だがあくまで目は開かないままに、マーキュリーはゆっくり顔をヴィーナスに近づける。ヴィーナスは目を見開いたがそのまま動かなかった。
 唇が触れるまで。
 そのまま数秒。唐突なキスにヴィーナスの思考は一瞬固まるが、マーキュリーは気が済んだのか倒れるように再びベッドに背中を預けた。そしてようやく、気怠そうに瞼を開けた。
「・・・・・・おはよう、ヴィーナス」
「・・・もう夜なんだけど」
「・・・そう・・・来てくれてうれしいわ」
 どこか焦点の合わない薄く開いた目で、まるで寝ぼけてるような言葉を吐くマーキュリーに、ヴィーナスはただ困惑する。別にマーキュリーにキスされたところでどうということもないが、普段のマーキュリーの言動から考えるにかなり異様な行動に思えた。
 数日会わなかったから単に素直になっているのか、それともなにか考えてるのか―なにも考えていないということはないだろう。果たしてこの場合のマーキュリーの行動の意図は。
「・・・なにか、企んでる?」
「ばれたかしら」
 意外とあっさり認めたマーキュリーに、ヴィーナスがしかめっ面を見せる。
 しかしよく考えたら、逆らおうが振りほどこうが、それでも結局いつも彼女の掌の上にいる自分。なにか企まれているのなら、自分はこの目の前の半死人の策に乗るしかないのだ。
 マーキュリーはヴィーナスの行動を見越している。そしてたとえ予想外の行動に出たところでそれを策に組み込んでしまう―知性の戦士だから。それだけの経験と信頼があるから。
 そして残念なことに、企みごとをしているマーキュリーが、ヴィーナスは思いのほか好きだった。
「で、あたしの機嫌取っとかなきゃいけないこと?キスまでして・・・」
「・・・そんなつもりはないけど・・・お願いはある」
「もろでそんなつもりでしょうが!」
「いえ、本当に…したくて、した、から」
「・・・え?」
「・・・・・・ヴィーナス」
 マーキュリーの声は抑揚がなく、再び目を閉じた。まるで眠る前のようで、言葉も寝ぼけているようにとぎれとぎれだ。だからその発言は、より物騒に聞こえた。
「見ていてほしい」
 一体なにをする気、という声をヴィーナスは飲み込む。ただ、先ほどのキスは、この世の別れのつもりなんじゃないか、わりと本気でそう思った。



 そこは守護神の定例の場だった。そしてマーキュリーが医務室を出て、初めて四守護神が一同に会した瞬間。
 そこでジュピターは気まずそうに視線をさまよわせた。マーズは不機嫌さをあらわにした。ヴィーナスは期待と不安が入り混じるようにそれぞれの顔を見回した。マーキュリーは無表情にピアスのスイッチを入れた。
 マーキュリーの視線を隠すように現れるゴーグル。目を守るより情報の解析、分析を行うために使われるそれは、身内しかいない場で装着するのは奇妙なことだ。何か事が起こると、誰もが言葉に出さずに身構えた。
 だがマーキュリーは装着したばかりのゴーグルを自分の手で外した。そして、すぐそばにいたヴィーナスに渡して静かに呟いた。
「つけていて」
 一見依頼だが、実際マーキュリーはヴィーナスに目線をやることもなく命令に近い仕草でゴーグルを押し付ける。奇妙ではあるが不快なことを押し付けられているわけではないので、ヴィーナスは大げさに首をかしげながらもそれを受け取り、装着した。
 青く染まる視界にばちばちと瞼を瞬かせながら、ヴィーナスはしきりに首を捻った。
 マーキュリーは何か事を起こそうとしている。だがこうやってジュピターやマーズの前でゴーグルを押し付けるということは、その真意をヴィーナスに口で語ることはないのだろう。そして、そのつもりなら、ヴィーナスはマーキュリーの策など何も知らないように二人の前でふるまうだけだ。事実知らされていないのだし、それもおそらくはマーキュリーが何か考えていての行動なのだろう。
 謀は密なるを以て由とす。ヴィーナスの知らない言葉ではあったが、リーダーである彼女は感覚でそれを理解していた。
「・・・どういうつもりなの」
 そこで、ようやくマーズが、苛立ちを込めた言葉をマーキュリーにぶつける。目の前で奇妙な行動をとられるのは確かに彼女にとっては不快なことなのだろう。ジュピターはそんなマーズをおろおろと見つめる。だがマーキュリーは顔を上げるでもなく、くっついた腕を確認するように手のひらを動かしながら、再びピアスのスイッチを入れた。間もなくマーキュリーを中心に広がる黒い空間。
「戦うつもりよ」
 空間は守護神を飲み込み、一瞬のうちに以前のトレーニングルームにほぼ同じ様相に姿を変えた。これは戦いの折、周囲にダメージを与えないように異次元空間を作る、マーキュリーの技だ。
 そして何のひねりもないマーキュリーの宣戦布告。そう、前回ジュピターとマーズの戦闘を止めた理由は、パレスに被害が出るから、でしかなかった。しかし初めからこの空間を用意しているのならば。そしてマーキュリー本人が戦うという以上。
 他の守護神の前で、骨をぶち割った自分に意趣返しでもするつもりなのか、と声も出さずマーズは身構える。静かに上がっていく熱。だがそんなマーズを無視するかのように、マーキュリーは目線をぐるりと動かした―マーズの隣にいる、最後まで自分を見ようとしなかった彼女に。
「ジュピター」
 それは、とても単純な宣戦布告だった。



「・・・なんのつもりだ?」
 ジュピターの声は戸惑いの色が混じっている。それはそうだろう、彼女からすれば理不尽に戦いの場に放り出されたのだから。それでも、王国を攻める敵であれば彼女は即座に戦闘態勢に移っただろうが、しかし、相手は。
「・・・・・・・・・」
 戦いとはそもそも理不尽なものだ。相手の主張が分からずただその状況に合わせ戦わなければならない状況も、ジュピターは戦士としては幾度も経験してきた。そして戦いのきっかけというのは、大抵子どもの喧嘩を大げさにしたようなもの。相手の主張を退け、或いは分からないまま、或いは聞く耳も持たずに蹴散らし、ぶち倒してきた。
 だが、それにはジュピターは守るべきものがあるからこそ。それこそ、敵から見れば下らないと思われるかもしれない、この王国とプリンセス、そして仲間たちを守るため。
「なんのつもりだ」
 答えないマーキュリーに、今度はジュピターは、口調を上げずに問うた。マーキュリーが自分をこんな状況に放り込んだのに、理由がないはずがない。そしてマーキュリーの宣戦布告に自分が応える理由が見つからない。
 自分が戦う理由は、いつも守ること。守るべき仲間を相手に、理由を持たずに戦うなど。
「・・・探してみればいいわ」
 そう低く呟いたマーキュリーが自分に一直線に突っ込んでくるのを、ジュピターは持ち前の運動神経で受け止めた。きれいな姿勢で放たれた蹴りを腕で防御しながら、マーキュリーを睨む。いつも戦いの場では、ゴーグルに隠されているその両目は。
「・・・マーキュリー?」
 日頃肉弾戦を好まないマーキュリーから、放たれるもう一撃の蹴り。マーズよりは力の劣るそれをかわしながら、しかしジュピターは見たこともないマーキュリーのその目に微かな恐怖すら覚えていた―知性の戦士でありながら、冷静さというものを感じない。あまりにも焼けつくような目をしていたから。



「(なに考えてるんだか)」
 ヴィーナスは青い視界越しに二人の戦いを見ながら、ぼんやりと考える。
 マーキュリーは正直、身内に好戦的とは言い難い。それなのに理由も告げず、守護神を閉じ込め、ジュピターと戦うなど。それにこの密室のようなこの場所で守護神を閉じ込めておくのはどういうことなのかまず、まず考えつかないはずはない。
 王国の防御が手薄になる。むしろ、今万一にも有事が起ころうものなら守護神は完全に後手に回る。
 逆にそのリスクを背負っても、こういう状況を作り上げたマーキュリーには何か彼女らしい考えがあるのだろう。確かにここなら外部に被害が行くことはなくなる。それでいて、ゴーグルが外部とのつながりを作る。これで、異次元空間から出たら王国が廃墟になっていました、なんて間抜けな事態は避けられる。
 きちんと対策をヴィーナスに託して、マーキュリーは戦っている。それは単にジュピターにいらいらしてるといった単純な理由ではなさそうだ。だが何故マーキュリーは脇目も振らずジュピターと戦おうとするのか、その理由そして力の差が明確なはずなのに、何のひねりもない肉弾戦で勝負を挑んでいるのか。
 戦いの理由とその戦術選択の理由は、果たして。
「(単純な喧嘩と言えば)」
 そしてヴィーナスはすぐそばにいるマーズを見る。ああいう直情的な肉弾戦はむしろ彼女の方が似合っているはずだ。マーキュリーに負けず、むしろ誰にも真似できないほど燃えるような目で二人を見ているが、マーズは黙ってこの状況にいる。
「(・・・みんな変)」
 この状況に一番いらいらしているのはマーズだ。一悶着起こしそうなのはむしろ彼女なのに、マーキュリーは原因を直接叩くことをせず、今、およそ知性的とは言い難い手でジュピターを挑発している。それは結果としてマーズをの感情をさらに逆なでしている。
「どうしてあんたと戦わないといけないんだ」
 ジュピターの声は、大声ではないがなにもない空間によく通った。本音には違いないだろうが、ヴィーナスやマーズといったギャラリーを意識しているようにも聞こえる。前の戦いでもそうだった。誰かが止めてくれたら、と思っているのかもしれない。
 そのジュピターの気持ちはヴィーナスにはよくわかる。そしてマーキュリーが戦いを仕掛ける理由は、やはり明確には読めない。マーズに意趣返しをする、そんな単純なことのはずはない。だって、見ていてほしいと、確かに頼まれた。
 だからこそ、止めない。決してマーキュリーに頼まれたというだけではない。この戦いの先に何があるのか、ヴィーナスはリーダーとして見届けるつもりだった。



 ジュピターとマーキュリーの戦いは、完全に肉弾戦の様相を呈していた。無論、一方的にマーキュリーが攻めており、ジュピターはそれをなんとかかわしている、という構図だったが。だが、その構図はヴィーナスには見覚えがあった。
 先の対マーズと同じ。
 マーズの攻めを一方的にかわし、いなしながら、期を待つ。反撃でもなく、勝敗を決めるための一手でもない、戦いを終わらせるための一手を。先の戦いでマーキュリーが最後まで読めなかったその結末。それと同じ構図になっているのは意図的なのかそれとも偶然なのか、マーキュリーはおよそ何も考えていなさそうな単純な突きをジュピターの正面にぶち込む。それを受け止めながら、先の戦いとは違い笑みを浮かべることなく、むしろ真剣な表情でいなすジュピター。
 だが前とは違い、使役するのは互いの肉体のみ。剣をぶった切ってしまえば一度はついた決着とは違い、この場では少なくともどちらかが倒れない限り決着とは言わないはずだ。相手を傷つけずに戦いを終わらせることはできない。
 だがジュピターは、いまだ反撃しない。ジュピターに戦う意思がない以上、ここで有用な手は、かなり少なく思えた。
「くっ・・・」
 絞るような声。マーキュリーのブーツのヒールがジュピターの鳩尾に埋まり、ジュピターは呻く。保護の戦士とは思えない大仰な仕草で倒れたジュピターは、あっさりとその場に身を放り出した。
「・・・もういいだろ」
 そう。戦う意思がないのなら、自分の命が危険にさらされない一撃の下、さっさと膝をついてしまえばいいのだ。負けを認めてしまうことは何よりも安全で簡単だ。王国を守護する戦いでならともかく、こんなところでいったい何を守れというのだろうと、ジュピターは思っている。
 戦う意思のない者は、殺すのは簡単だ。だが、戦う意思を引きだして戦わせるのは難しいことをヴィーナスは知っている。寝そべって、反撃しようとすらしないジュピターを、マーキュリーは変わらず燃えるような目で睨んだ。
「(どう出る?)」
 ヴィーナスは首をかしげる。だがマーキュリーは少しも乱れていない様子で歩を進めると、寝そべるジュピターを無慈悲に見下ろす。ジュピターはそれに目線を合わせるが、抵抗はしない。
 一瞬だけ目が合った後、マーキュリーはジュピターの側頭部につま先を勢いよく叩きつけた。
「ぐっ・・・」
 何の容赦もない、小石でも蹴るような無関心さで。
 頭を蹴られた衝撃にジュピターの眼球が揺れる。反射的に浮いた頭に、マーキュリーは更にブーツをジュピターの頭部にねじ込ませた。額を踏みつけ、ヒールでこすりつけるように地面に縫い止める。
 それは、これ以上ないほどわかりやすい挑発行為だ。ほんとうにわかりやすくて、傍から見ていたヴィーナスは却って冷静になる。仲間を痛めつけられている現実が目の前にあっても、ギャラリーである立場としては、どうにも冷静にならざるを得なくなる。
「・・・火山みたいな人ね、あなたって」
 だから、むしろこのわかりやすい挑発行為にマーズが簡単に乗っている事実に嘆きたくなる。
 ジュピターにもいらついていただろうに、こうやって目の前の現実に、ジュピターを踏みつけているマーキュリーに殺意や敵意といったものを濃厚にむき出しにして今にも駆け出しそうだったマーズを、一瞬でチェーンを首元にかけ止めなければいけない。
 マーズの性質。よく言えば情熱的で仲間思いなのだが、悪く言えばほんとうに単純で直情的だ。
「もうちょっとお行儀よくしてましょうね」
 ヴィーナスは、チェーンでマーズの首をぎりぎりと締め付けながら優雅な笑顔を見せる。本来誰よりも感覚がずば抜けているくせに、こうやって簡単に背後を取られて縫い止められているのは、性格と性質のバランスが取れていないからだ。持って生まれた特性を生かせていない。
 燃えるような目をそのままヴィーナスに向けるマーズは何も言わない。もっとも、喉を封されているため文句どころか命乞いさえもできないだろうが。走る犬の綱を引くような感覚で、ヴィーナスはマーズをけん制し、ジュピターとマーキュリーから距離を取った。
 そんなヴィーナスとマーズのやり取りの間、マーズとは逆に身内には火付きの悪いジュピターも、マーキュリーの足の下でようやく静かにティアラを伸ばした。
「・・・足をどけろ」
 今までとは違う、明らかに敵意が滲んだ声。マーキュリーのブーツの下で静かにティアラが帯電していく。両手を大地に勢いよく着けると、マーキュリーの足を弾き飛ばすように立ち上がった。マーキュリーの眉がぴくり、と動く。微かに崩れる体勢。ジュピターがそこに踏み込む。先の戦いでの剣のような動きで勢いよくしなるアンテナ。
 ぱちんと弾ける音は雷ではない。マーキュリーの左のグローブが、指先からすさまじい勢いで裂けていく。その衝撃に顔をしかめるマーキュリーはしかし当然のようにその左手をジュピターに伸ばす。
「ああっ!?」
 ヴィーナスは素っ頓狂な声をあげた。ジュピターがマーキュリーのグローブを引き裂いたことではない。確かに、防具でもあるグローブを一瞬で引き裂くその力にも感心はしたのだが、それではない。それに対するマーキュリーの一手だった。
 手に付いた血を払うように、マーキュリーは少し大げさに左手を振った。だがそれはほとんどが彼女の血である。マーキュリーはジュピターがグローブを破った瞬間ジュピターに踏み込んでその顔を引っかいたのだ。
 親指は無事だったが、青い爪がジュピターの目の下に二枚皮膚に食い込むよう突き刺さり、一枚は地面に剥がれ落ち、もう一枚はちぎれかけマーキュリーの指の上にだらしなく浮いていた。それでもマーキュリーは表情を変えない。
 これではジュピターに与えるより自分に来るダメージの方が大きかろうに。第一、こんな戦法は、そもそもジュピターがグローブを破るという先手あってこそで、そしてそこからマーキュリーがジュピターに爪を立てる行動に出たのは本当に一瞬。これは計画に入れてできることではないように思える。
 知性の戦士のくせに、知性を感じさせない戦い方。それが却って不気味だ。それはジュピターも感じているらしく、自分に爪が突き刺さっていることは気にならないように、眼球が先ほどとは違う様子で揺れる。またマーキュリーが踏み込む。
「・・・くっ!」
 ついに攻撃に転じたとはいえ、ジュピターは未だにマーキュリー相手に戦うのには抵抗があるのか、血に汚れた手を再び伸ばしてきたマーキュリーを今度はかわす。マーキュリーのブーツが床を削る音がする。大きく前傾の姿勢でバランスを崩したマーキュリーは、ジュピターに背を向けた形で右手を着いた。
 隙だらけの体勢。手を伸ばせば届く距離。最大の好機と言ってもいいそこで、それでもジュピターからの追撃は―ない。マーキュリーは前かがみになった体勢のまま、自分の足の間から何かを指で弾き飛ばす。
 青いはずなのに赤い軌跡を描くそれは今のマーキュリーの目と酷似している。自分の顔に向かって飛んでくるそれをジュピターは、反射的に身を屈める姿勢でかわす。するとそこに、後ろ向きの姿勢をばねのように体を半回転させその勢いで、マーキュリーの裏拳がジュピターの爪の刺さった頬を抉った。爪がジュピターの顔に埋まり、マーキュリーの手の甲にも深い傷を作る。
「がっ!」
 交錯する二人の視線。
 ジュピターを狙って飛ばしたそれは、マーキュリーの爪だ。落ちていた爪を拾いジュピターめがけて飛ばした。これも計画に入れてできることではないように思える。なにかを飛ばすにしても、マーキュリーなら氷を生成することも可能なはずなのに。その方が安全で、マーキュリーのダメージも軽いはずなのに。
 この戦いでいまだにマーキュリーは水技、氷技といった攻撃を出していない。目先の現実に対する反応の速さは知性の戦士らしいと言ってもいいものなのかもしれないが、自分から吹っかけている割にはいきあたりばったりな戦いを展開していることは否めない。
「(まさかなにも考えてない?)」
 ヴィーナスは口を歪め、うむむ、と唸る。
 しかし爪を剥がして飛ばすなど、計算でやっているとしたらイカれているとしか言いようがない。確かになに考えてるんだかわかんない人だけど、とさらにうんうん唸っているところで、チェーンが緩んで腕の中からマーズがすり抜けた。うっかり落としたか、と思ったら意外と冷静にマーズは立っていた。自分で抜け出したらしい。
 普通首なんて絞めたら文字通り頭に血が上りそうなものだが、マーズは逆に頭が冷えたのか、ヴィーナスに背中を向けたまま首を捻りジュピターとマーキュリーの戦いを注視する。
「そのゴーグル」
「え、なに?マーキュリーよりあたしの方が似合ってる?」
「あなたにそんなものは似合わない」
「な、なんですって!?愛の女神に似合わないものがあるわけ・・・!」
「それでなにが見えてるか聞いてるのよ」
 また怒って猛獣みたいに襲いかかって来るかと思い、ヴィーナスは軽い冗談など言ってみたが、マーズの言葉はこの戦いのギャラリーであることを自覚しているものだった。そう言われれば最初からそうだ。マーキュリーの安っぽい挑発に乗りはしたものの、最初からマーズはあの二人の戦いを見るスタンスを取っていたのだ。妙なところで潔癖だ。
 そしてマーズの言葉で思い出す。このゴーグルは主に情報分析に使われるものだ。ヴィーナスもかつて一度、不完全だが使用者としてお世話になった。
 ここから得られる情報とは。
「えーと・・・今のとこ二人とも大したダメージはないみたいねぇ・・・マーキュリーの爪とかジュピターの顔とか、見た目えぐいけど致命傷になるようなものはないし」
「それだけ?」
「それだけって・・・えーと、あと、ジュピターは、マーキュリーがみぞおち蹴とばしたとか頭がんがんした分とか、それも・・・でも言うほどでもないし・・・えーとえーと」
「マーキュリーは?」
「はえ?」
 ヴィーナスは気の抜けた声を出す。マーキュリーのダメージのことを聞いているのか、と一拍遅れて理解した。だがマーキュリーのどこにダメージが与えられるというのだろう、それでなくてもジュピターは防戦一方、マーキュリーのタメージは自分を顧みずに素人くさい攻撃をして得たダメージだというのに。
 しかし、それは。
「・・・あ、爪が剥がれたのと刺さった以外のダメージがないってことは」
「そっちの機械越しに見ても、ないってことね」
 霊感でもわかっていて、なおかつ数字でデータをきちんと確認するあたり、やはりサブリーダーであるといったところか。直情的なわりに組織人であることもうかがわせるマーズの言葉に感心しつつ、ヴィーナスはゴーグル越しのデータを確認する。
 ジュピターは一度だけ反撃した。雷を呼んでマーキュリーにぶつけた。グローブを吹き飛ばした―防具であるグローブを吹き飛ばすほどの力をぶつけられながら、そのダメージがマーキュリーにはない。それは防具がマーキュリーの腕を守ったというより、むしろ、ジュピターがグローブだけを吹き飛ばしたと解釈するべきだろう。
 それはやはり、ジュピターは反撃のふりをしているだけということだ。
 ジュピターの戦い方は、マーズも引っかかるものがあるらしい。先の戦いでも思ったのだろう。徹底して相手になんとかダメージを負わせないようにしている。
 そして今の戦いで、戦う意思がない以上、そして早々に膝をついてしまうという手ももう使えない以上、ジュピターに取る手は限られているように思えた。
「・・・あれでは、持久戦にも持ち込めない」
「え?」
「マーキュリーを傷つけないという意思がジュピターにあるのなら、持久戦に持ち込めば・・・マーキュリーの体力が尽きるのを待てば」
「あ、そうよね。あたしも思った。ていうかもうそれしかないでしょ」
「・・・でも、ああやって攻撃技でマーキュリーが自分の体にダメージが行くようなことをしている以上、それを放っておくわけにもいかないでしょう」
「ああー・・・」
 マーズの言葉は的を得ている。
 そして、マーキュリーがあれこれこねる理屈よりもわかりやすい。気配に聡く、そして戦いの戦士だけあってきちんと見るところを見ている。それでマーキュリーの腕を破壊したあの攻撃力。これであの直情さがなければ、もしかしたらマーズはリーダーの器であったのかもしれない、とヴィーナスは思う。まあそれでもあたしには及ばないけどね、とも。
 そしてその言葉は、マーキュリーよりジュピターのことを知っているがゆえに聞こえた。意図してではないだろうが、嫉妬のような感情もにじみ出ている。自分の方がジュピターを知っている、そんな子どもじみた独占欲が混じっているようにもヴィーナスの耳にも届いた。
 だが、マーキュリー以外の人間から戦いのあれこれを耳にするのは新鮮で、しかもマーズから戦いの場でそんな理性的な言葉を聞くのも珍しく思った。言葉など交わす機会がなかったのかもしれない。
 彼女は、いつも戦いの場では最前列に立つから。マーズの少しだけ高い横顔を見、ヴィーナスは微笑む。
「よくジュピターのことわかってるじゃない」
「・・・長く一緒に戦ってたら、わかるわよ」
「あたしもマーキュリーと長いんだけどねぇ。なに考えてんのか今でもわかんないわ」
「・・・彼女は、多分、ジュピターに戦わせたいんだと思う」
 ヴィーナスとてそれはわかっている。むしろ、何のためにジュピターに戦わせたいのがわからない。確かに身内には甘いが、それでも保護の戦士として、王国を守護する戦いにはマーズとともに身を投じているはずだ。戦えない人間ではない。なぜ今になって、この場で、知性の戦士自らジュピターと戦うのかはわからない。
 或いは―ともヴィーナスは思う。その甘さが身内以外に出てしまったら、というのは先の戦いから思う、最も恐れるところだ。身内でさえ、敵に回ったと判断すれば容赦のないマーズとは真逆の性質。もしやそれを矯正すべく、マーキュリーは自分の体を使ってジュピターに荒療治を行っているのかもしれない。ジュピターに身内と戦わざるを得ない状況を作ってしまえば。
 そう思えば筋は通る。だが、その先に何が待っているというのだろう。その仮説が正しければマーキュリーは命のひとかけらでも残っている限りジュピターを殺そうとする。そして、ジュピターもまた、そんなマーキュリーから逃れるために戦い続けて、やがて、マーキュリーが望む結末に向かう可能性がある。ジュピターがマーキュリーを殺す勇気がなければ、マーキュリーは間違いなくジュピターを殺す。
 まだ幼稚な肉弾戦。たかが爪が割れて刺さっただけのような素人くさい戦闘。だが、そこにどちらかが死に至るまでという不穏さが漂っていた。



 マーキュリーの攻撃は続いていた。拳に蹴りといった、どこまでも単純な肉弾戦。やはりジュピターはそれを防戦一方でなんとか受け止めていた。技の一つ一つの攻撃力はジュピターを倒すに及ばないが、ジュピターはなんとかそれを受けている状態だった。目の下に刺さった爪から溢れる血は、遠目に見れば血の涙を流しているようにすら見える。それほど、悲痛な顔で戦っていた。
 マーキュリーのなりふり構わない戦い方を見て、下手に距離を取って様子を見るのも危険だと判断しているのだろう。動揺に揺れる眼球は何とか打開策を見出そうとしているようで、もうマーズとヴィーナスを映すことはない。まっすぐマーキュリーを見つめながら、ジュピターはようやくマーキュリーに向き合った。戦うことを決めた顔。顔に埋まった爪がみしりと軋む音。再び静かに帯電するティアラ。
 これまでマーキュリーの間合いだったものを、ジュピターが踏み込む。体格の差が出たのか、その長い足での歩幅をマーキュリーは埋めることが出来ず、雷を纏ったジュピターの手のひらがマーキュリーの顔面を―
「掴んだ!」
 ジュピターが片手でマーキュリーの顔面を鷲摑みにする。
 急に反撃に来るジュピターに間合いを詰められても、顔を掴まれても、マーキュリーは眉一つ動かさず、そして戦況が変わったのにマーキュリーからは一切の感情の乱れが感じられなかった。
 目の前で戦っているのは確かに仲間たちのはずなのに、悲痛な心持で攻撃を仕掛けるジュピターと、それを受けてもなに一つ心が揺れないマーキュリー。その相反する精神はどちらも戦場にはなじみのないもので、マーズは静かに恐怖に似た違和感を覚える。
「・・・っ!」
 そして顔面を掴まれたその一瞬で、マーキュリーはジュピターの手首を両手で掴み体を支えると、そこを支点に、無防備なジュピターの横っ腹を全体重をこめて蹴り上げる。
「がっ・・・!」
 いくらコスチューム越しとはいえ、急所を直接蹴られたことは、流石のジュピターにも堪えたようだ。ジュピターの手が離れた反動で、二人の体は反発しあうように離れる。マーキュリーはしゃがむような体勢で着地、ジュピターは数歩後退しよろめいた。
 マーズはその光景を見、不機嫌そうに目を細めた。
「・・・マーキュリーは、ノーダメージ?」
「え、どうなんだろ。ていうかジュピターなにしたの?」
 頭に電撃?とヴィーナスがとぼけた声を出す。マーズもそこまでは察知できないらしく、黙って首を振った。
 マーキュリーは伏せた顔を手のひらで覆っていた。その指の隙間から煙が出ていたが、体がふらつく様子もない。意識ははっきりしているようだ。
 ヴィーナスはむむ、と唸ってゴーグル解析を見る。一瞬とはいえ雷の影響を受けないでいられるとは思えない。やはり反撃するふりをしているだけのジュピターのはったりなのだろうか、と思ったら、意外にもその答えを出したのはジュピターだった。
「マーキュリー!もう退け!」
 腹部を押さえ、顔をしかめながらもジュピターは姿勢を正し通った声を出す。マーキュリーは緩やかに手のひらをずらし顔を上げる。顔は少し煤けていたが傷はない。重そうに瞼を上げ、ジュピターを見上げるマーキュリーの仕草はいつもと変わらず、ここで負けを認める要素はないように思えた。
 だが。
「・・・あ」
「え?」
「ゴーグル解析でわかったけど、今のフラッシュで目が」
 自分で言って、なるほど、とヴィーナスは思った。強烈な光で視力を奪う、これは確かにジュピターにしか使えない手だ。単純な目くらましならフラワーハリケーンといった技もあるが、それはあくまで目を眩ませてから追撃を行う、あるいはなんらかの次の手を用意している場合の話。
 そして視力そのものを奪われることは、戦いの場では相当に深刻な事態となる。それゆえ、ダメージがなくとも、これは相当にいい手だ、と思った。むしろ相手を傷つけたくないと思っているジュピターなら奥の手と言ってもいいだろう。視力なしでジュピターに勝てるとは、リーダーである自分でさえ思わない。
 ヴィーナスは頭ではそう思う。だが、期待する心は止められない。
 マーキュリーはそのまま手をどけ顔を上げる。見えない目でしかしジュピターに向き合うその姿は、やはり負けを認める態度には見えなかった。むしろ燃えるような目はまるで変わらない。
 正直、マーキュリーがこの展開を予想できなかったとも思わない。ゴーグルをしていないのは仕方ないにしても、知性の戦士ならその程度の予測はしているだろう。なんせ相手は属性から力量まで知り尽くした相手なのだから。
 ヴィーナスはほくそ笑んだ。視力がおぼつかない状況も敵が身内であることも含め、それこそこういう彼女の戦いは初陣の時からよく知っている。知性の戦士はまともでは務まらない。
「・・・なに笑ってるのよ」
 そして、そんなヴィーナスを見たマーズが不快感をあらわにした表情を向ける。また暴れられるのはごめんだとヴィーナスは両手を上げる。そして黙ってマーキュリーとジュピターを指す。
 戦いが動いた。



「・・・誰が」
 マーキュリーの低い声。しゃがんだままの低い体勢のまま、見えない目で何の迷いもなくジュピターに突っ込む。何の面白味もない体当たりはしかし、目が見えていないという事実の元ではジュピターには恐怖だった。マーズほど気配に聡いのならともかく、マーキュリーがまるで見えているかのように迷いなく肉弾戦を仕掛けてくることに。
 ジュピターはマーキュリーの体を足音を立てないようにかわす。再び交錯する二人の体。それでも決してジュピターを目線から外さない、マーキュリーの燃えるような目。
「・・・退くって」
 再び飛んでくる爪―剥がれかけのを自分でちぎり飛ばしたようだ。見えているような正確さで飛んでくるジュピターの顔に飛んでくる血まみれの爪、ほぼ同時に体勢を戻すマーキュリーは真っ直ぐに手を、指を伸ばしてくる。正確にジュピターの右目を指で抉り出そうとするマーキュリーの手首を掴んで、何とか指先にまつ毛が触れる距離で止める。
 その手首を軸に足技が来るのをジュピターはなんとか弾く。だが、そこから息をつく間もなく額に来る衝撃にジュピターは首をのけぞらせよろめいた。一瞬で視界が赤く染まり、ティアラがみしりと音を立てたのが聞こえた。
「・・・ぐっ!」
 がんがん痛む頭と血に染まる視界で、それでもマーキュリーに頭突きを食らわされたことを認識する。霞む目で見たマーキュリーは砕けたティアラを足元に、額から血を流してよろめきながら立っていた。ティアラ同士がぶつかる衝撃で、互いに額を切ったようだ。そしてマーキュリーからどろりと鼻血ががあふれる。
 確かに視力を奪ったはずなのに、それを疑ってしまうほど動きは正確にジュピターを狙っていた。今だって、決してマーキュリーの目線はジュピターから外れない。
 自身のティアラが砕けるほどためらいのない頭突きといい、頭突きの前に指で眼球を掴みだそうとしていたことといい、あんなでたらめな戦い方の中でもきちんとされたことをやり返そうとしているのなら。そんな理性と思考の元こんな戦いをやっているのなら。
 額からの出血はジュピターの視力を奪う。そして、ジュピターの目が完全に塞がってしまったら、この戦いでもしや本当にマーキュリーに殺されてしまうのかもしれない。自身の命の危機に、ようやくジュピターは恐怖した。
 額からとめどない出血。瞼を通ってまつ毛に溜まり落ちていく。拭ったところでしばらくは止まりそうになく、マーキュリーに隙を見せるような真似も避けなければいけない。どんどん赤くなっていく視界の中、この状況でどうマーキュリーと戦えというのだろうとジュピターは思案した。
 見えなくなってしまっては終わりだ。殺されてしまうかもしれない。見えなくなる前になんとか決着をつけなければいけない。



「・・・わお、流血試合ね」
 そんな二人を見て、ヴィーナスはできるだけ軽い声を出した。だが隣の熱がまた洒落にならなくなってきたか、と少しだけ思う。たぶん自分が隣にいなければマーズは今にでもあの二人を止めに入っただろう。
 そしてマーキュリーとジュピターの戦いそのものも洒落にならなくなってきた。マーキュリーは意識がもうろうとしているし、額を打って鼻血を垂れ流しているということはかなりまずいことになっている。そして、惑って、なんとか現状から逃げるばっかりだったジュピターの目つきが変わり始めた。
 マーズとは真逆に火付きがとにかく悪いが、そろそろ戦いに決着もつくだろう。決着と同時にきっと見えるものがある。
 ヴィーナスはそれが見たいと思った。だからマーズを制止する。この戦いで彼女はあくまでもギャラリーだ―そう思っていたヴィーナスの耳にぱちんとなにかが弾ける音が届いた。
「えっ」
 だがヴィーナスの一瞬の思考の間、決着はついていた。
 ヴィーナスが二人の戦いに意識を戻した時、ジュピターは黙って立っていた。亀裂の入ったジュピターのティアラはいつの間にか帯電し、マーキュリーはその足元に力なく転がっていた。
 悲痛な面持ちでマーキュリーを見つめるジュピター。どう見ても決着は、ついていた。
「えっ、なにしたの!?」
 殴った形跡も、電撃を浴びせた形跡もない。ゴーグルで分析するに、マーキュリーの肉体に倒れ伏すような新しいダメージはない。だがジュピターのティアラは帯電し、マーキュリーは確かに倒れぴくりとも動かないという現実が目の前にある。
 ジュピターは疲れ果てた表情でマーキュリーの傍に膝をつく。
「・・・一体、なにを」
「・・・耳」
「耳!?」
「マーキュリーの耳になにかしてた」
 マーズの呟くような言葉。ヴィーナスは慌ててゴーグルの解析を進める。調べてみると、ヴィーナスが考える、打撃や電撃によるわかりやすい損傷はなかった。
 しかしヴィーナスの意識がそれたほんの一瞬、ジュピターの電撃による攻撃はあった。それは耳の中に電撃を当て、三半規管を痺れさせ平衡感覚を麻痺させている―ゴーグルの理屈っぽい分析はそういう答えをヴィーナスに突き付ける。
 ほんの一瞬で、ジュピターはマーキュリーのほとんどの動きを奪うことに成功した。視力もなく、額を激しく損傷し、平衡感覚まで奪われたとなってはもうマーキュリーは立つこともままならないだろう。
 これは本当にジュピターの奥の手だ。しかも、目が見えずに体のダメージもそれなりにあるという今でこそ、平衡感覚を奪い相手の動きを封じるという行為に最大限の効力を発揮する。
 こういう手を最初から狙っていたわけではなく、マーキュリー同様行き当たりばったりで技を重ねて言った末の手だろう。結果的にそれは最良の手だ。
 ほんとうに、なんの文句もない戦いの終わり。先の戦い同様、最後に立っていたのはジュピターだった。
「ヴィーナス!ここから出せ!」
 ジュピターからヴィーナスに怒号が飛ぶ。これで彼女には戦う理由も、ここにいる理由もなくなった。確かに自分の力で勝利を掴んだ。だがその表情に喜びや安堵といったものはない。今の今まで戦っていたマーキュリーを安全な場所にとでも思っているのか、ひどく急いた様子でぐったりした体を抱きかかえた。
 その姿は、やはり先の戦いで意識を奪われたマーズを抱きかかえる姿とシンクロした。血に濡れた顔で吠えるジュピターの顔は、見知った保護の戦士そのもの。彼女にとってマーキュリーは守るべき存在だ。
 それでも―と、ヴィーナスは思った。だからマーキュリーの指先がぴくりと動いたのを、何の驚きもなく見ることができた。
 そこから先の動きは、スローモーションで一コマ一コマ確実に認識させるようにヴィーナスの脳に入ってくる。視力を奪われ平衡感覚を奪われ、自分の力で体を起こすことさえできないはずのマーキュリーは、それでも、ジュピターに抱えられた体勢のまま腕を伸ばし体を起こし、そのまま―
「・・・!」
 マーズの息を飲む声と、血しぶきが飛ぶのは同時だった。
 何もできないはずのマーキュリーは、体を起こしていた。そしてジュピターの首に噛み付いていた。ただ噛むと言った表現が生やさしく感じるほど、まるで捕食する肉食獣のような獰猛さでジュピターの喉を噛み砕いている。
「・・・ごぼっ」
 そこから少しも待たず、ジュピターは吐血した。既に喉が破れているのか、鼻から口からこぼれだす血を抑えることも出来ずになすがままでいる。それでもマーキュリーは止まらない。意識があるのかないのかもわからないまま、ぐしゃぐしゃと音を立ててジュピターを破壊している。
 ジュピターは鼻から血泡を吹き震えながら膝をついた。だが、それでもマーキュリーはジュピターから離れない。
 自らのあごを軋ませ歯で喉を割いた。びちゃびちゃと不快な音を立て、栓を抜いた樽のように首から吹き出す血。二人のセーラーカラーが真っ赤に染まる。
「・・・・・・が・・・ご」
 マーキュリーはジュピターを食い殺している。
 本気で食い殺す気なのか、とヴィーナスは思った。知性を捨てたようなマーキュリーのその行動に、仲間が仲間を食い殺している目の前の光景に絶句した。血が溢れ出す音以外には、ひゅうひゅうと開いた喉から漏れる空気の音と微かな呻き、それしか聞こえない。それはジュピターの断末魔の声に間違いなかった。
「・・・・・・い」
 だから次の言葉は、微かだがはっきり聞こえた。
 ヴィーナスははっと息を飲む。強烈な血のにおいが肺腑に沁みこんだ。ジュピターはがくがくと震えながらも決してマーキュリーからは離れようとはしない。もともと額から出血していたせいもありどこもかしこも血まみれになった顔は、それでも目をはっきりと開かせていた。
「・・・あら・・・・・・せ」
 三度、急激に帯電していくジュピターのティアラ。ゴーグルが唐突に訳の分からない数字の羅列を並べて点灯する。濃厚な血のにおいの中に、確かに水気のようなにおいが鼻につく。
「く、もを・・・べ」
 そこでヴィーナスの視界に真っ二つに亀裂が入る。ゴーグルの分析能力が狂い始めると同時に、ヴィーナスは戦士として頭と感覚で現状を把握する。ジュピターの言葉は、死の間際の呻きではない。あれは、雷を呼ぶ技のいつもの詠唱だ。
 そして、この空間そのものがすさまじい勢いで帯電している。
「っこの!」
 ヴィーナスは不穏な空気の中、まっすぐチェーンをジュピターに伸ばす。もうギャラリーでい続けるわけにはいかなかった。
 チェーンは難なくジュピターの額にぶち当たり、既にひびの入ったティアラは簡単に砕けた。しかし空間の帯電は解消される気配を見せない。それと同時に、さらにゴーグルの亀裂が進みヴィーナスの視界がみしみしと音を立てひび割れていく。
 とっさにヴィーナスはチェーンから手を離しその場を離れたが、既にグローブの手のひらが焦げ付き煙が上がっていた。ざらざらと身勝手なデータを細切れに浮かばせるだけのゴーグルは、この空間が電気の飽和状態にあることを示している。異次元で作り上げたはずの空間がうねりだし、足元がぐらぐらと揺れた。
「(まずい!)」
 チェーン越しの電撃―意図があるのか単にもうそこまで意識が回っていないのか、それとも制御が利かないのはわからないが、少なくともヴィーナスに電撃を加えようとした時点で、ジュピターはギャラリーの助けを意識してはいない、あるいは拒絶している。傍に寄るのは危険だった。
 だがこの空間そのものがもう相当危険な状態だ。元来敵を隔離するためのはずの技が、ジュピターの力で破れようとしている。むしろ、異次元空間を破るほどの力がこの場から溢れだし王国に被害を及ぼすようなことがあってはいけないはずなのに。
 ティアラを破壊しても帯電のエネルギーは止まらない。むしろ、より制御が利かなくなったようにばちばちと静電気が空間に渦巻き、細かい稲妻が四方に飛び散る。
 ならもうジュピターを倒してしまうしかない。そうしなければ、王国に甚大な被害が出る。マーキュリーが『食べ終わる』ことなど待っていられない。ヴィーナスはぎしぎしと音を立てて軋む空間を、バランスを取りながら走る。
 近寄る事すら難しい。チェーンも使えない。足元もおぼつかない。クレッセントビームではこの状況でうまく狙えない上に、ジュピターを倒してしまうには弱すぎる。
 いっそ単身突っ込むか、危険だが王国の安全には代えられない―
 ぱきり、とゴーグルの一部分が割れ落ちた。青一色の世界の隙間から真っ赤な色が飛び込んでくる。未だにびちびちと吹き出す血はもう二人の足元に血だまりを作っていた。ここまでしてそれでもジュピターは放電をやめず、マーキュリーはジュピターを食い殺すことをやめない。自身の額からの出血とジュピターの返り血を浴びてどこもかしこも赤いマーキュリーの顔は、それでも青い目がぐらぐらと煮えていた。赤の中の青は奇しくも映えている。
「(そういえばマーズは?)」
 ヴィーナスは無作為に飛んでくる放電をかいくぐりながら、赤、という自分の思考に今更、自分同様ギャラリーであったマーズを思い出した。彼女のことだからこの状況に一番に飛び出してもよさそうなものなのに―と視界の端でマーズを探す。
「(え?)」
 ヴィーナスが見つけたマーズは、その場から少しも動いてはいなかった。この状況で放電から逃げようともせず、足元のバランスを崩すこともなく、ただ黙ってマーキュリーがジュピターを食い殺すそのシーンを見つめている。
 あまりの光景に我を忘れているのか、とも思ったが気配は至って冷静だ。
 そして気づいた。ゴーグルのひび割れた隙間から見える、マーズの目は真っ赤に染まっている。
 彼女が戦うときの記号のようなものだ。戦う時は瞳の色が変わる。前の対ジュピターでは見せなかった、敵にしか見せないその戦神の姿。しかし炎熱よりも濃い赤からはなんの熱さも感じない。むしろこの状況で少しも揺れも乱れもしない、氷のように冷たい瞳がただ二人を見据えるのみだった。
 マーズは静かに弓を引く仕草をした。一拍遅れ赤く灯る炎の矢。演武のような、無駄のない、本物の戦いの場とは思えないきれいな仕草。本物の炎熱より赤いのに、やはりその瞳はどこまでも冷たい。
「(どこを狙ってる!?)」
 マーズの心が読めない。この空間そのものを危険にさらしているジュピターを狙っているのか、しかし普段のマーズならジュピターを食い殺そうとしているマーキュリーを狙うはずだ。だが、今のマーズは普段ヴィーナスが見知った直情的なマーズとは違う。
 マーズの足元が揺れる。稲光が体に向かい弾ける。マーズは少しもぶれない。狙いをすまされているジュピターとマーキュリーも少しもぶれない。ジュピターは電気の檻になったこの空間の中心でマーキュリーを抱くようにして顔を伏せており、なんとか呼吸をしている。平衡感覚と視力を失ったマーキュリーは、焼けつくような目で、もう狂犬のようにジュピターの喉をちぎろうとしていた。
 燃えるような青と、絶対零度の赤。
 ヴィーナスもまた、リーダーである責を背負いなんとかジュピターの圏内に入る。覚悟を決めて拳を伸ばす。
「―いかずちを」
 ジュピターの詠唱の最後は、もうほとんどが空気の漏れたすかすかした音だった。マーズのフレイムスナイパーが文字通り火を噴いた。空間が伸縮性を超えた生地のように破れていく。ジュピターを目前にヴィーナスのゴーグルが粉々に砕け、ばらばらと落ちた。

 これらはほぼすべて同時のことだった。

 砕けゆくゴーグルの破片の隙間と稲光の狭間から、ヴィーナスの目の前で、炎の矢がマーキュリーの脳天をぶち抜くのが見えた。
この広告を非表示にする


サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了しました。

バックナンバー

2022年
2021年