豊かだった拇指球にまで横皺が入り、蝕まれてきた。箸は痛くて握れない。指はふやけるように痩せている。前歯までグラグラに動く。地獄。
その後、3時間以上、不快感と強い耳鳴り、寒さに伏してただ、耐え抜くのみだった。毎日、ただこの繰り返し。耐えることが、今後の家族の幸につながれば。
PCのキーを痛々しく、右手の人差し指を避けながら叩いている(触っている)。右手だけではなく、左手も指の腹の筋減少が進んでいる。ものすごい違和感。
筋減少は、身体全体、右半身、左半身均等に生じている。
起床時に動悸(動悸と言うよりは軽度やや中程度の胸の締め付け感)が強い。今もある。また、歩きも筋減少に由来するふらつきがある。階段の上り下りは、壁に手をつかなくてもできるが、健常時に比べると万一という意識をいつも持っている。
耳の穴の入口付近の筋肉が減ったことを感じる。指を入れると入口がグラグラする。
手掌や足の裏のねばねば発汗は相変わらず。
耳鳴りの墜落音は不変。
脱力重力感をいつも感じる。布団やソファーに倒れ込む感じが多くなった。
尿の様子は大丈夫。腎機能に異変は感じない。腸の調子は乳酸菌を飲んでいるが、よくない。
胴体の萎縮が進行した。パジャマが容易に一回転する。凄く細くなった。
食べ物は普通に入る。意識レベルも普通。
末梢的な身体の記述はざっとこんな感じであるが、根本部分がいかれているので(繰り返すが、増薬からの減薬は奏功しないという見立て。せいぜい、ちょっとした延命のみ)、墜落になるのか軟着陸になるのかどうなるのか、異常エンジン音(耳鳴り)を聞きながら、操縦桿が効かない状態で落ちて行っている状況といったら最も的確であろう。
まだ、月単位で保つかも知れないし、急変的な症状があれば明日どうにかなるかも知れない。分かりません。
しかし、肉体的には難しいと思っているので、どこかで誰かとあってどうにかなってしまっても、会った人はご自身ののせいだと思わないで下さい。
それくらい、覚悟はできています。なるべく迷惑をお掛けしたくないですが。入院が無理となったら、実家に帰って親に状況を見せて納得させてという手もありますね。年末年始なので動きづらいのですが。
そういえば、今朝はいい夢をみた。脈絡は夢なので無意味。
仕事仲間と商店街に出張し、天皇陛下が御行幸されて(皇后陛下はいらっしゃらなかった)、ご一緒するという夢。みんな大喜びだったなあ。
何度も書くが、私自身の身体のことであり、私も馬鹿じゃないので(もうこういう言い方しかできません)、5月に急激に悪化した体調は、ベンゾ薬のせいだと悟った。しかも、回復不能だろうということも、7月には理解していた。それでも、これはうつかもしれないな、それだったらいいなという一縷の望みも持っていた。そんな状況と将来に文字通り、臥してもがいていた。そのうちに、身体的な症状(筋肉減少)が徐々に顕在化していった。11月、12月に入り、動作機能にも影響が及んできたので、これはさすがにまずいということで多くの人に連絡を取り始めた。また、自宅にいても苦悩するばかりなので外に出て人と会うようにした。
家族はその姿勢として当然、「大丈夫、治るから。何年かかってもいい。」という考え方である。第三者は、私の言うことを聞いて「そうか、あなたの言う通りかもしれないな。私には何ができる?」という理解をもつことができる。しかし、家族は当事者、利害関係者の最たるものである。本人は冷静に「これは駄目だ」という諦観をもっている。家族はその真反対である。このギャップは埋まらない。こちらは「もう本当に駄目なんだよ」ということをいろいろな症状を都度訴えることにより伝えようとしているが、家族は「ああ、しんどいのね、離脱症状が出ているのね。我慢よ。」という感じである。
最近は、「もう本当に駄目なんだよ」というメッセージを「この人、(精神的にも)あきらめたのね」と受け取られたのかも知れない。「家族のことを顧みず、あきらめたのね」という感じかも知れない。違う、そうじゃない。本当に駄目なんだよということなのに・・・。死ぬその瞬間まで、立派な大人らしく振る舞い行動する人格を確立した人もいるんだろうな。自分がこの立場になってしまって、この擦れ違いは必然とも言える。決して埋まらないということも分かっている。
子供とも仲良く最期までという気持ちもなくもなかったが、自身の苦悩が大きく、休職後、子供の立場に寄り添うことができなかった。これも家人からよくは思われていないと思う。私自身は、「これは明らかに(自分の行く末が)駄目だ、母子で生きていかなければならないのだし、母子でうまくやってくれればそれでいいから」という早期のあきらめを勝手に形にしてしまった。。。
私に万一のことがあり(この衰弱でいくと万万であるが)、家族や親にブログの存在を知らせて、読ませようとしても一読はするかもしれないが、「もう、終わったこと」「戻っては来ない」という心情の方が卓越して余りあるだろう。せいぜい、無邪気な子供が成長する過程でもしくは大人になってから読むのかもしれない。しかし、どれだけ理解、洞察力をもって読めるかは分からない。だから、これは身内でない方々への私のメッセージを綴っていることになる。そんな気がする。