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トリックスター Ⅹ





 ―目がくらむ。




 目を開けると視界は眩しかった。あまりの眩しさに一度開けた目は生理的に閉じてしまった。
 一度浮き上がった意識の中、頭の中がぐるぐると揺れる心地がして、マーキュリーは再び眠り直すことに決めた。ほとんど寝た気がしないので、先ほど寝付いたところでうっかり目覚めてしまったのだろう、などと、彼女にしては非常に珍しく余計な雑念も入ってこず、本能のままに意識が落ちるのを待った。
「って、寝直すんじゃないわよ!」
 突っ込みが入ってくるまでは。
 誰かに声をかけられたような気がして、それが誰かとゆるゆると考えて、結局誰か分からなくて目を開けた。覚束ない視界はやはり眩しかった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・ん」
「いつまで寝てんのよ」
「・・・え、ぇ・・・?」
「マーキュリー!」
 それは自分のことか、と恐ろしく鈍い頭で考えて、マーキュリーは息を吸って体に覚醒を促す。そこで体を思い切って起こそうとして、肩で何かが突っかかり起き上がれなかった。
 もう面倒になって再び目を閉じたところで、顔にぱちんと冷たい衝撃が広がった。
 それは慣れ親しんだ水の感触。水をぶつけられた、といういささか妙な表現が頭に浮かびマーキュリーは目を開けた。
 滲む視界に、眩いその姿。
「・・・・・・・・・・ヴィー・・・ナス?」
「お目覚めかしら?プリンセス・マーキュリー」
 まずマーキュリーの目に入ったのはヴィーナスの顔。声を出してみて喉はぴりぴりと痛んだが、唇を舐め顔に流れる水を取り入れたことで少し落ち着いた。どんな水か、毒性はないのかなどと言う考えはそのときは浮かばなかった。
 ヴィーナスが自分に覆いかぶさるように顔を覗きこんでいるのが見える。右手はマーキュリーの左肩を、その華奢な腕とは思えないほどの力で押さえつけている。先ほど起き上がれなかったのはこのためか、とマーキュリーは朧に現状を受け止める。
 左手には水の滴った大きなグラスをマーキュリーに傾けていた。つまりその中身を顔にかけられた、ということか、と更にマーキュリーは考え大きな息をついた。頬を滑る水滴や、じっとりと水を吸った服を不愉快だとは思わない。水は好きだったから。
 それよりも問題なのは目の前のこと。
「・・・ここ」
「あたしの部屋よ」
「・・・わたしは」
「三日間寝通し」
 ヴィーナスの返答は淀みがない。
 最後まで質問を投げかける前に答えを返してくると言うことは、何が聞きたいかを分かっていて彼女は敢えてこんな状況を用意していると言うことだ。マーキュリーは寝起きの頭をかちりと動かした。
 そしてようやくマーキュリーはヴィーナスの言葉を噛み砕く。自分はヴィーナスの部屋で、彼女のベッドで、三日も眠っていた?
「・・・嘘」
 全身に纏わりつく眠気から、そんなに眠っていたとは信じがたいとヴィーナスに目線を向けると、ヴィーナスはにやりと優雅な笑みを作った。体勢はそのままで。
「嘘よ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ほんとは一週間」
「・・・嘘?」
「アルテミスがいろいろ処置してくれたとはいえ、あんまり起きないから死んだかと思ったわ。それでもこれ以上ほっとくと腐るだろうからベッドごと燃やしに出そうかと思ったら目開けるから」
 今度は本当だろう、とマーキュリーは思った。わざとらしい笑みと嫌味の向こうの言葉は、真実を置くまでのワンクッションの配慮が感じられたから。いきなり真顔で一週間と言われても信じられないだろうから先に三日と言ったのだろう。
 何となく、ヴィーナスの言葉はマーキュリーを信用させた。
「・・・ごめんなさい」
 そう思って素直に謝る。仕事を一週間も放棄していた上に彼女のベッドを一週間占領していたのも素直に申し訳ないことだと思った。
 だがその言葉を聞いたヴィーナスは引き攣るばかりで。
「あなた、一回死んで生まれ変わったんじゃないわよね?」
「・・・え?」
「何今更その態度。あなたが素直だと気持ち悪い」
 言われてマーキュリーは眉を潜める。そう言われるが、一応自分が悪いと思うことは素直に謝る方だとマーキュリーは思う。
 ただ、今までそういう機会がなかっただけで。
「・・・ともかく、お邪魔したわ」
 だが居心地の悪さを感じたマーキュリーは何とか体を起こそうとするが、やはりヴィーナスの手に阻まれる。ヴィーナスはマーキュリーを起こしはしたが、起き上がらせようとはしなかった。
「待ちなさい」
 肩にみしみしと痛みが湧いて、その痛みはマーキュリーに更なる覚醒を促していく。そこでようやく気付いた、マーキュリーは自分がベッドの縁に両手をまとめて括りつけられていることを。
 固く両手首を結わっているのは、あの見覚えのある赤いリボンで。
「一週間もこの部屋で寝込んどいて、まさか、このまま帰ろってんじゃないでしょうね?」
「・・・何?お金?」
「誰がそんなもの部下からカツアゲするってのよ!あのねー、二人っきりなのよ?」
「・・・だから?」
「誰も邪魔はなし・・・変な気遣いとか無しで、ケツ割って話そうじゃない?」
「・・・間に合ってるわ」
「もっと割るのよ」
 ヴィーナスの顔が近過ぎて却って表情が分からない。息がかかるような距離でマーキュリーは目を細め、また気付いた。そして目を見開いた。
「・・・わたしの」
「愛の女神の美貌を片目でしか見られないんじゃ、人生の半分を損したも同じでしょう?触れる感触が無いなら丸損よ」
 ヴィーナスはことごとくマーキュリーの心を読むように内心の疑問を返していく。計算がおかしいなどという野暮な突っ込みは湧かない。それを考えるほどの余裕はまだ湧いてこない。
 失明を覚悟した右目に映るのは確かにヴィーナスで。押さえつけられている肩は外傷の痛みは消え、リボンで括りつけられている左手は血が通っている心地がした。
 それに気付くと同時に、マーキュリーの脳裏に強烈にリバースしていく、記憶。星の欠片。地面を踏む感触。受けた傷。飛ぶ血飛沫。彼女の表情の変化。
 銀水晶の力。
 マーキュリーの目が光を取り込むように見開かれる。そして動かない肩をそのまま首だけ伸ばしてヴィーナスの足を確認した。
「・・・足」
「あら?この脚線美に酔った?」
「・・・傷」
「あなたがヨダレ垂らして寝てる間に治ったわよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「優しいのね、気遣ってくれて」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ヴィーナスはやはり鼻がぶつかりそうな距離でマーキュリーに向かい笑っているが、隠そうともしない悪意が滲み出ている。そもそも医務室でないベッドに寝かしておいたのも、括りつけておくのも何らかの意図がなければ、わざわざしたりはしないだろう。
 いつもの愛の女神然ではない、歪んだ笑顔。
 それにマーキュリーの胸がざわついて、何とか動く首を反らそうとした。反射的な行動だった。だがそれはヴィーナスの手にあっさり阻まれる。未だ片手で肩を押さえ込んだまま、もう片方、グラスを無造作に放り投げた手でマーキュリーの顎を乱暴に掴み固定させた。
 既にヴィーナスは笑っていない。
「前にも言ったはずよ。人と話す時は相手の目を見ろって」
「・・・あなたは、これを会話と言うの」
「普通じゃあなたは逃げちゃうでしょう。いつもそうやってすぐに逃げるからよ」
「付き合う義務は無いわ」
「命令よ」
 マーキュリーがその一言に一瞬澱む。あの星では逆らったが、今はこの場から抜け出すのも困難なのだ。
「・・・どういうつもり?」
「あたしはあなたと二人きりで話したかったのよ。だから目が覚めたとき、また逃げたりしないようにここに置いてた」
「・・・燃やしに行こうとしてたんじゃ」
「起きなかったらの話よ。もう起きないかと思ったけど」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「生きてるのもびっくりだけどね」
 ヴィーナスの言葉に、今目覚めて良かったと思うべきなのかもしれない、とマーキュリーは思った。折角あの場で生きて帰ってこられたと言うのに、睡眠中にヴィーナスに火葬されるなんて、守護神としてはあまりに惨めな結末だ。
「・・・何を」
「?」
「何を話すことがあるの」
「そりゃもういろいろあるわよ積もった話がね。仲間だもの」
「・・・仲間?」
 耳慣れない言葉にマーキュリーが眼球をぐるりと動かす。
 ヴィーナスは何をしたいのか、何を伝えたいのか。だが目覚めていく頭脳は、彼女の行動が何に基づくかを理解した。
 これは『悪意』でなくどこまでも『配慮』だ。
「仲間なのよ。あなたは嫌かもしれないけど」
 覗き込んでくる顔には普段愛の女神然の笑顔でも、先ほど見せた自分が圧倒的に有利であることをこれでもかと言うくらい見せ付けるような表情でもなく、ただの少女のようだった。それはマーキュリーが初めて見る表情で。
 マーキュリーは一瞬目を伏せる。そしてタイミングを見計らい、ベッドから体をヴィーナスごと跳ね起した。意外とヴィーナスから抵抗は帰ってこない。だが自分の体から抵抗は来た。
 一週間眠っていたのは本当だと筋肉の動きで分かる。固まってがちがちになった筋肉がみしみしと軋む。アルテミスのケアがあったからこの程度で済んでいるにせよ、頭に血が上り締め付けられるような痛みが走る。だがそれと同時に水が顔を滑り落ちる感覚で冷えていく。
 押さえつけられて開放された左手に改めて血が通っていく心地。手首から先のさまざまな関節を戻していく作業はいつもより少し時間がかかる。抜けた手首には傷跡はおろかリボンの跡も残っていない。
 ヴィーナスは特に驚く風でもなく、マーキュリーが縄抜けしたリボンを拾い上げただ感心したように唇を歪ませる。
「器用な縄抜けの仕方するのね」
「・・・これは手間のかかる方法だけど」
「どうして楽な方しなかったの」
 分かっているくせに、とマーキュリーは掌を開閉させる。切断すら覚悟した左手は今マーキュリーの意のままに動く。
 ヴィーナスがマーキュリーを縛っていたのは体をわざわざ動かさせるためで、マーキュリーが縄抜けをしたのは理由が二つあるからで。だからお互いにこんな回りくどいことをしている。
 そもそも、ヴィーナスは、本気でマーキュリーを拘束する気なら誰も来ないところでチェーンで余すところなく縛り付けておけばいい。ベッドに寝かしておくのも、水をかけたのも、体を押さえつけておくのも、ヴィーナスとアルテミスしか出入りしないこの部屋に寝かせておいたのも全てヴィーナスの『配慮』だ。
 どういうわけか彼女は随分自分に優しい。あの時の暴行だって、結局はマーキュリーのためだった。
 それがマーキュリーには理解できない。
「・・・話ってなに」
 マーキュリーは不自然な角度で曲がる手首の関節を何食わぬ顔で戻す。ぱき、と薄氷が割れるような音がして、手が、風穴が開いて凍傷を起こしていたとは思えないほどにいつも通りになる。マーキュリーはそれを一度光を失ったはずの目で確認した。
 縄抜けの技術は戦士として持っているが、こんな回りくどいことをしなくてもリボンを氷で切断すればいい。そのほうが時間もかからないし音も立たない。だが、手が思うままに動く実感が欲しかった。
 そして、もう台無しにしたくなかったから。
 マーキュリーは再び目線をヴィーナスに向ける。ヴィーナスは初めから縄抜けを期待してた顔をしている。だがマーキュリーはその表情に期待を抱くことは無い。
 ヴィーナスは当たり前のことを言うような口調でマーキュリーに問うた。
「どうして笑ったの」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
 しかし、ヴィーナスの言葉にマーキュリーは覚えがない。彼女の前で笑顔を作った記憶などない。だが、マーキュリーの反応が鈍いと見るや、ヴィーナスの眼光は鋭くなった。
「あたしがグルだって言ったあのとき、あなたは確かに笑ってた」
 言われてマーキュリーは己の思考の海をたどる。それはクイーンの御前でのこと。謎ときの最後のひとかけら。
 マーキュリーが最後まで確信が持てなかった、ヴィーナスが敵であるかということ。それを暴いた、あのとき。ヴィーナスが自分の敵だったと、声を出して彼女に問うたあの瞬間。
 あのときの表情を笑顔としてとらえたのなら、否定はできない。あの瞬間確かに自分は微笑んでしまうほどに嬉しかったのだ。
 自分の予想が確信に変わったからではない。自分が彼女に全く信頼されていないという事実を自分の口から出すことで改めて実感できたから。
 ヴィーナスはマーキュリーを少しも信頼していない。だから試されていた。だから、それで彼女の月への揺るぎない忠誠心が見えたから。自分だけが部外者であるという点で、『マーキュリー』という共通の敵の前で、この王国は自分以外が固く信用し合っているという関係がはっきり見えたから。
 だからこそ、これからヴィーナスに万感の信頼を以て仕えることができると微笑むことができた。
「・・・どうでもいいでしょう」
 だが、そんなことを聞かせる必要はない。それは自分が勝手に思っておけばいいだけの話。
 答える気がないマーキュリーを、ヴィーナスは意外にも更に詰問することはしなかった。
「そう。なら、もう一つ聞くわ」
 だが、やはり鋭い視線でマーキュリーを見据えるのみで。マーキュリーは構えて次の言葉を待った。
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