栄えていた国が滅びるということ 第3回
1) 最盛期のローマ帝国ー両アントニウス帝(五賢帝時代)
最盛期のローマ帝国とは、2世紀の5賢帝時代なかでもマルクス・アウレニウス帝の時代のことを指す。マルクス・アウレニウス自身の皇帝としてストイックな志はマルクス・アウレーリウス著 「自省録」に述べられている。ギボンは、アウレニウス帝の没後不肖の息子コンモドゥス帝(在位180-192年)の暴政より帝国の衰退が始まるとしている。ローマの隆盛はカエサルより始まる。カエサルのガリア(フランス)征服の戦いは、カエサル著 「ガリア戦記」 に詳しい。まさにもぐらたたきゲームのような戦いであったようだ。これによりライン川が外部(敵)とした諸部族との境界線となった。カエサルはブリテン島(イギリス)にも遠征したが確固たる成果は挙げていない。カエサルの暗殺後、オクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を得て共和政を尊重しながら絶大なる独裁権を獲得した。まさに皇帝といっていい存在となった。オクタウィアヌス・アウグストゥス初代皇帝はアグリッパを用いてイベリア半島を征服し、地中海帝国としてのローマ帝国を完成した。またドルスス、ティべリウスを派遣して、ライン以東の諸部族を服従させ、ティべリウス2代皇帝のときにはドナウ川との三角地帯「アグリ・デクマテス」に防衛施設リメスが置かれた。またケルンをコロニア(植民市)とした。3代皇帝カリグラとクラウディウス帝の時にブリテン島をローマ属州とし、ハドリアヌスの長城を作って防壁とした。こうした征討の結果広大な地域がローマ帝国に加わった。
次に帝国支配のありようをみてゆこう。ローマ市やイタリアの風景とは異なった、森林と河川沼地が中心で寒冷な土地をローマ人はどうローマの都市文明を伝えたのか。部族集落の生活集団、組織・部族国家などを統治の基本単位として、有力者にはローマ市民権を与え、徴税や兵の補充を行わせた。行政の単位を「キウイタス」と呼ぶ。部族の生活共同体キウイタスはローマの都市に変わっていった。ローマ征服軍が要塞を構えると周囲に住民の村落ができ「カナバエ」と呼ばれた。正規軍が駐屯するカナバエは恒久化して町になり都市となった。ローマに名を持つ都市名が欧州の各地に残っている。ケルン(コロン:植民市に由来)はその代表である。都市の法的な特権的地位としては、ムニキビウム(自治市)、次にコロニア(植民市)という格が与えられた。主要都市は数万人がすむアクィンクムと呼ばれた。ローマ最盛期にはローマ人はどこへでも広がるという「限りない帝国」、「国境線なき帝国」が信じられていた。ローマ人と蛮族を分かつ明確な軍事国境線は存在しなかったという。212年アントニウス勅令によって、帝国内の自由人にはローマ市民権が与えられ、出身部族を問わない普遍的なローマ人の帝国が成立した。ローマ人であるという自己意識を持つことがローマ帝国の内部であった。帝政前期の最盛期のローマ社会の最上層階層には「元老院議員」身分があり、皇帝もこの階層から選ばれた。約600人がいたという。次の階層は「騎士」身分があり(約2,3万人)、第3身分としては「都市参事会員」身分(約10万人)があった。さらにその下層には解放奴隷、奴隷がいた。この身分区分は固定的ではなく、社会階層の流動性的・上昇的傾向は帝政後期には顕著となった。ローマ帝国の国家には常備軍隊が存在し騎士身分が指導した。行政を担う中央官僚は約300人ほどで元老院議員や騎士身分が占めた。行政の実際を担当したのは都市機能であった。都市参事会を構成する地方の有力者が行政を担ったのである。属州の有力者がローマ帝国に参加するメリットを感じて、「ローマ人」たらんと努力することが「ローマ化」ということである。ローマ人であるというアイデンティティに多様な人を統合する魅力と機能を備えていた。筆者はローマ人と蛮族ゲルマン人という対立図式で帝国衰退過程を説明することに異議を唱えるのである。小さな部族はあったが「ゲルマン民族」という敵対勢力は存在しなかったという。東からフン族に追われた周辺部族がライン川以西に流れ込んだことが帝政後期の現象であった。
(つづく)
1) 最盛期のローマ帝国ー両アントニウス帝(五賢帝時代)
最盛期のローマ帝国とは、2世紀の5賢帝時代なかでもマルクス・アウレニウス帝の時代のことを指す。マルクス・アウレニウス自身の皇帝としてストイックな志はマルクス・アウレーリウス著 「自省録」に述べられている。ギボンは、アウレニウス帝の没後不肖の息子コンモドゥス帝(在位180-192年)の暴政より帝国の衰退が始まるとしている。ローマの隆盛はカエサルより始まる。カエサルのガリア(フランス)征服の戦いは、カエサル著 「ガリア戦記」 に詳しい。まさにもぐらたたきゲームのような戦いであったようだ。これによりライン川が外部(敵)とした諸部族との境界線となった。カエサルはブリテン島(イギリス)にも遠征したが確固たる成果は挙げていない。カエサルの暗殺後、オクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を得て共和政を尊重しながら絶大なる独裁権を獲得した。まさに皇帝といっていい存在となった。オクタウィアヌス・アウグストゥス初代皇帝はアグリッパを用いてイベリア半島を征服し、地中海帝国としてのローマ帝国を完成した。またドルスス、ティべリウスを派遣して、ライン以東の諸部族を服従させ、ティべリウス2代皇帝のときにはドナウ川との三角地帯「アグリ・デクマテス」に防衛施設リメスが置かれた。またケルンをコロニア(植民市)とした。3代皇帝カリグラとクラウディウス帝の時にブリテン島をローマ属州とし、ハドリアヌスの長城を作って防壁とした。こうした征討の結果広大な地域がローマ帝国に加わった。
次に帝国支配のありようをみてゆこう。ローマ市やイタリアの風景とは異なった、森林と河川沼地が中心で寒冷な土地をローマ人はどうローマの都市文明を伝えたのか。部族集落の生活集団、組織・部族国家などを統治の基本単位として、有力者にはローマ市民権を与え、徴税や兵の補充を行わせた。行政の単位を「キウイタス」と呼ぶ。部族の生活共同体キウイタスはローマの都市に変わっていった。ローマ征服軍が要塞を構えると周囲に住民の村落ができ「カナバエ」と呼ばれた。正規軍が駐屯するカナバエは恒久化して町になり都市となった。ローマに名を持つ都市名が欧州の各地に残っている。ケルン(コロン:植民市に由来)はその代表である。都市の法的な特権的地位としては、ムニキビウム(自治市)、次にコロニア(植民市)という格が与えられた。主要都市は数万人がすむアクィンクムと呼ばれた。ローマ最盛期にはローマ人はどこへでも広がるという「限りない帝国」、「国境線なき帝国」が信じられていた。ローマ人と蛮族を分かつ明確な軍事国境線は存在しなかったという。212年アントニウス勅令によって、帝国内の自由人にはローマ市民権が与えられ、出身部族を問わない普遍的なローマ人の帝国が成立した。ローマ人であるという自己意識を持つことがローマ帝国の内部であった。帝政前期の最盛期のローマ社会の最上層階層には「元老院議員」身分があり、皇帝もこの階層から選ばれた。約600人がいたという。次の階層は「騎士」身分があり(約2,3万人)、第3身分としては「都市参事会員」身分(約10万人)があった。さらにその下層には解放奴隷、奴隷がいた。この身分区分は固定的ではなく、社会階層の流動性的・上昇的傾向は帝政後期には顕著となった。ローマ帝国の国家には常備軍隊が存在し騎士身分が指導した。行政を担う中央官僚は約300人ほどで元老院議員や騎士身分が占めた。行政の実際を担当したのは都市機能であった。都市参事会を構成する地方の有力者が行政を担ったのである。属州の有力者がローマ帝国に参加するメリットを感じて、「ローマ人」たらんと努力することが「ローマ化」ということである。ローマ人であるというアイデンティティに多様な人を統合する魅力と機能を備えていた。筆者はローマ人と蛮族ゲルマン人という対立図式で帝国衰退過程を説明することに異議を唱えるのである。小さな部族はあったが「ゲルマン民族」という敵対勢力は存在しなかったという。東からフン族に追われた周辺部族がライン川以西に流れ込んだことが帝政後期の現象であった。
(つづく)