11/12/03 23:59
ヴィーナスは考える。
マーキュリーの行きそうな場所はどこだろうか。怪我の治療を放棄してまで彼女は一体何をするつもりなのか。
自室に戻っているということはないだろう。普段仕事漬けの彼女が行く場所と言えば、コンピュータ・ルームしかないように思えた。そう思ったヴィーナスはメイン・コンピュータルームに向かう。時折すれ違う王宮勤めの者たちに不審そうな目で見られたが、そんなことに構っていられなかった。
角を折れ、階段を下り、限られたもの以外は近づきすらしないその場所に向かっていると、ヴィーナスは回廊の向かい側で青い影を見た。
ヴィーナスの予想は完全に当たっているわけではなかった。
ゆらゆらと歩く彼女は、限られた者しか入れない王国ほとんどの頭脳を掌握するメイン・コンピュータルームではなく、パレスにいる者誰でもが自由に使える数あるコンピュータルームのうちの一つに吸い寄せられるように入って行った。周囲の者も、その姿も行動も異常すぎて却って誰も声がかけられないようだ。ヴィーナスはそれに気づき、大急ぎで回廊の向かい側に向かう。
そして息急き切らしながら、目的のコンピュータ・ルームに辿り着く。足は痛まなかった。それどころではなかった。
ヴィーナスは扉を蹴破ろうと一瞬足を止めると、その前に扉は向こうから開いた。そしてマーキュリーがその先に、氷のような無表情さで立っていた。
「・・・マー・・・キュリー・・・」
マーキュリーは医療用の、前部で交差する簡易な青い衣服を一枚纏っていただけの姿で。
ぶかぶかの袖からは包帯を滅茶苦茶に巻いた左手の指先がはみ出している。また、その頭部には、右目を覆うように、これもまた乱暴に包帯が巻かれていた。大きく開いた胸元からも包帯が覗いている。足は裸足だった。
青と白。色で言えばいつも彼女が纏うものと変わらない。だが、あまりにも、粗末過ぎる―戦士の、その姿。
「・・・なに、してるの」
ヴィーナスは先ほどまで激昂していたとは思えないほど慎重な声を出した。だがマーキュリーはいつも通り、微かに目を細めただけで。
さっきまで一緒に戦っていたとは思えないほど、感情のない声で。痛々しい外見とは裏腹に痛みを感じさせない歩き方で外に出、ヴィーナスとすれ違い、ヴィーナスに背を向ける。
「・・・どうしても、やらなければならないことがあった」
「・・・それは、今、しなきゃいけないことなの」
「・・・ええ」
「・・・そんな怪我で」
「・・・あなたも、怪我しているわ・・・そんな足で歩いて平気なの」
「・・・・・・・・っ」
その言葉を聞いて、ヴィーナスは頭に血が上った。次の瞬間、怪我をしている筈のヴィーナスの左足はマーキュリーの背中を蹴飛ばしていた。
「・・・っぐ!」
無抵抗に吹き飛ばされたマーキュリーは前向きに転ぶように倒れこんだ。扉を越え廊下をすべり込むその姿に、廊下に控えていた女官や向かい側の回廊の者までがマーキュリーの方に注目し息を漏らす。
ヴィーナスはそんな視線を無視するようにヒール音を響かせ、ゆったりマーキュリーに近寄る。マーキュリーはがくがくと体を震わせながらも何とか右手をつき立ち上がろうとしていた。そんなマーキュリーの頭を見下ろすように、ヴィーナスは移動する。
「あたしの足が平気かって聞いたわよね?今」
「・・・っく」
「おかげさまでね!」
ヴィーナスはそこで再び左足を、体を起こしかけていたマーキュリーの頭に振り落とす。ヒールと頭蓋がぶつかる硬く鈍い音がして、マーキュリーの体は再び廊下に叩きつけられた。
「・・・っあ・・・ぁ・・・!」
「こんなことも出来るくらいにはね」
ヴィーナスは力を込めてマーキュリーの後頭部を踏みつける。頭部に乱暴に巻かれた包帯がたるみ、マーキュリーの顔にはらりと落ちていく。だが、ヴィーナスはそんなことには構わずひたすらにヒールをマーキュリーの後頭部に捻じ込んだ。
マーキュリーがもう一度何とか体を起こそうとしたのを見て、再び槌のようにヒールを、包帯に巻かれた左手の甲に叩き込んだ。ヒールが骨ばった肉に埋まる感覚、床にマーキュリーの体が沈む音が鈍く響いた。
「・・・ぐっ・・・!・・・っく・・・」
「痛い?」
「・・・・・・ヴィー・・・ナス・・・!」
「あなたが無神経なのは知ってるけど、痛くしてるんだから痛がってもらわないと困るのよ」
そこでヴィーナスは爪先でマーキュリーの右耳を狙い横薙ぎに払う。それはまるで小石を蹴飛ばすような容赦のなさで。吹き飛ばされるように横を向いた頭に向かい、こめかみを狙いもう一度ヒールを叩き落した。
「あ・・・っあ・・・・」
頭蓋からみしみしと音がする。
肉体とは意外と脆いものだ。今自分の足の下に王国の全てを掌握する頭脳が転がっているのだと思うと、ヴィーナスの胸中に虚しさと苛立ちがこみ上げてくる。
「仮にも四守護神の一柱がそんな格好で出歩くなど、どれだけ周囲に不安を与えるのか分からないの?無神経なあなたじゃ分かんないからやってるんでしょうけど」
「・・・ぅ・・・ぐ・・・」
「それとも、それだけの傷を負ってあたしを守った、と言うことを周囲にひけらかしたいわけ?その傷を以ってあたしは頼りないリーダーだ、と周りに知らしめたいの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「守ってくれたことは感謝するわ。だけどあの行動は戦士として正しくなかった。二人とも生きて帰ることが出来たのは結果であって、言ったはずよ?あそこであたしを置いて逃げなければ反逆者とみなすと」
「・・・・・・・ぁ・・・ぅぅ・・・」
「あなたは知性の戦士に相応しくない」
いつの間にか、周囲の気配はすっかり消えていた。いたたまれなくなって皆逃げてしまったのだろう。実際に、あまりにも見ていられない行動をしているのはヴィーナスにも分かっていた。愛と正義と平和のために戦う四守護神が、愛の女神が、こんなことでは。
だが、やらなければいけなかった。
ヴィーナスの意識が少し思考に沈んだところで、足の下のマーキュリーが微かに身じろぎした。頭を踏みつけられるなど、自尊心というものを粉々にされる行為である。ヴィーナスにはマーキュリーにそんなものがあるのかすら確信が持てなかったが。
「何?言いたいことがあるなら聞いてあげるわよ?」
ヴィーナスはできるだけ残酷な口調でマーキュリーを挑発すると、ようやく頭から足をどけた。そして顔を伏せているマーキュリーの顎に爪先を引っかけ無理矢理持ち上げる。
跪く者と見下ろす者。
ようやく、目が合った。
「・・・・・・・・・・・・め・・・な・・・さい」
「何?」
「・・・やめなさい・・・ヴィーナス」
マーキュリーの顔はほどけかけた包帯がはらはらと滑っており、表情を隠していた。だが辛うじて覗く左目は特に屈辱に塗れているわけでも反発しているわけでも許しを請うているわけでもなく、ただ氷のように冷たいいつも通りの表情だった。
「・・・やめて欲しいなら靴でも舐めてみなさいよ」
その表情が、ただヴィーナスの神経に障る。だがマーキュリーは片方だけの瞳でただヴィーナスを見据えるのみで。
「・・・自分の評価を下げる真似はやめなさい」
「・・・な」
ヴィーナスは予想外の言葉に愕然となる。マーキュリーはその隙に顔を顰めながらも立ち上がる。包帯が更にゆるゆると首下まで落ちていく。
そして、ヴィーナスと同じ高さで目線を合わせた。
「・・・私がこの王国でどれだけ嫌われていようが、今この状況を見聞きした者は少なくとも私に同情する。ましてやわざわざ人前で、私があなたを体を張って守ったなんてあなた自身が口に出したら、今のあなたは完全な悪役だわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「私の傷を晒すのが人に不安をもたらすものだとあなたは言っていたけど、それなら尚更私に罰を与えるのも誰も知らないところでやるのが道理でしょう」
「・・・マーキュリー・・・」
「あなたが私を守ったなんて口にしなければ、むしろ今回の任務の件を知っている者が見れば、この姿は私があなたの足を引っ張ったように見えていたはず」
「・・・っく」
「リーダーであるあなたが私を反逆者と呼ぶのならそれで構わない。でも私のためにあなたが自分の評価を下げる真似をするのは許さない」
「・・・うぬぼれもいいところね」
ヴィーナスは吐き捨てるように言った。それでもマーキュリーの態度は変わらなかった。冷たい目線で射抜かれて暫くにらみ合っていたが、ヴィーナスはふと表情を歪めた。
「・・・もし、そうならどうだっていうの?今からパレス中に触れ回る?ヴィーナスは私のためにこんな行為をしましたって」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ここまで正確に当てられると、却って否定出来ない。
だが否定も肯定もしないまま、ヴィーナスは更にマーキュリーの心を逆なでする。そうでもしなければ、彼女の心がどこにあるのか、彼女に心があるのかすら分からないから。水のように形がなく、霧のように存在が朧で、それでもあのとき命令に背いてでも守ると言ってくれた心が、確かに彼女にはあるのだと思いたかったから。
「言えるわけないわよね。誰があなたの言葉に耳を貸すっていうのよ。人望の欠片もないあなたに」
「・・・そうでしょうね」
「そもそも周りがあなたの命令を聞いていたのは一応四守護神の名を冠しているだけで、誰もあなた自身に敬意を持っているわけではないわ」
「・・・知っているわ」
「だけどそれももう終わる。あなたはあたしの命令に背いた。戦いの場においてあなたは―」
「任務は戦闘ではなかった!」
そこまで淡々と目の前の事実を受け止めていたマーキュリーはそこで声を荒げた。ようやく感情が僅かに射した―それもほんの微かなものであったのだが、瞳が揺れる。
「・・・私が与えられた任務は、戦闘ではなくあの地の調査だった」
顔の包帯が滑り落ちていく。元々巻き方が乱暴であったせいもあり、首辺りに中途半端に引っかかる形になっていた。もう傷を覆うものとしては役に立っていない。
ようやく、ヴィーナスの目にマーキュリーの顔が隠れず映った。
額から瞼にかけてぱっくりと裂けてリボンで無理矢理止血していたその傷は、幸いにも前髪に隠れて見えなかった。
ただ、右目が。
「・・・・・・・・・・・・・!」
前髪では隠れない右目が、破けた瞼から溢れ出さんばかりに膨らんでいた。だがヴィーナスが驚いたのはそれではない。
色が。
白目にあたる部分が、リボンの色が移ったのではないかというくらいに鮮やかに赤い。顔や体は蝋のように白く、髪や纏っているものは青いだけに、ぽつんと点を穿つように赤いその部分は異様な存在感を示している。そして中央にある収縮しきった青い瞳が、赤に飲み込まれているように弱弱しかった。
吐き気すら催すようなコントラストに、嫌でも目線は引き寄せられる。感覚が残っているのかすら分からない右目は虚ろにヴィーナスの姿を鏡のように映す。そこに微かに動揺している自分の姿が見えて。
ほんとうに、化け物みたいだった。
「・・・・・・・あなた、は」
マーキュリーは戦闘が任務ではないと言った。では、最初から戦闘の任務を受けていたら、マーキュリーは傷を負った自分を背負うこともなく自分を見捨ててでも戦ったのだろうか。ゴーグルを覗きポケコンを携え、寸分の隙もない知性の戦士として。
だが結局生命の危機に陥りながらもマーキュリーはそれをしなかった。結果、ゴーグルは半壊し、両手が塞がったためポケコンが使えず、スピードが落ちたため傷を負う羽目になった。
最初の一撃の光景。砕け飛ぶ金属片と吹き飛ぶ血飛沫。決して離れなかった体。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ヴィーナスは唾を飲み込むと顔を顰めマーキュリーの顔に手を伸ばした。意図せずとも、あの場での、マーキュリーがヴィーナスからゴーグルを外す時にその仕草は似ていた。
マーキュリーの右目の下を、ヴィーナスの左手の親指が滑る。マーキュリーは微動だにしない。
「・・・見えていないの」
「あなたには関係ない」
「こんな目で―戦ってたの」
「任務遂行のためよ」
マーキュリーの言葉はどこまでも残酷で。だがその残酷さはヴィーナスに向けられたものではない。彼女自身に対してだ。
こんな傷を負った。仮にも知性の戦士を拝命した者が、ここまで理屈一辺で今までヴィーナスを言葉で説き伏せてきたマーキュリーが、あの時命令に逆らって、理屈に合わない真似をして、負わなくて済むかもしれなかった傷を。
本当に地質調査のためにあの場に逃げずに残ったのなら、本来はマーキュリーがヴィーナスを盾にしてでも任務を遂行しなければいけなかったはずなのに。
知でも理でもないその行動。確かにそれは自分の知りたかった彼女の意思なのかもしれない。だがこの赤い目はあの時のヴィーナスを淡々と責め苛むようで。ただ存在するだけでヴィーナスの心を抉るようで。
あまりにも見ていられない傷だった。
「・・・あなたに」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ほんの僅かに震えるヴィーナスの手は緩やかにマーキュリーの、その、あまりにも赤い眼球に伸びる。傷口をむき出しにして晒しているようなものなのに、マーキュリーは動かなかった。
裂けた瞼から今にもこぼれそうな眼球は、まるで禍々しく満ちた月のように円を描く。
「あなたに―赤は似合わない」
ヴィーナスは指先に力を込めると、その眼球を探るような手つきで触れて―マーキュリーが微かに息を飲む。だが、それでも、マーキュリーは全く抵抗しようとはしなかった。
それが更にヴィーナスの心をささくれ立たせ、指が眼球に沈もうとしていたときだった。
「ヴィーナス、そこまでです」
大きくはないが張りのある声がヴィーナスとマーキュリーに届いた。二人は同時に声の方向に顔を向ける。
「・・・クイーン・・・!?」
二人の目に映ったのは、確かにこの王国を治める女王の姿だった。
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