11/12/01 23:55
ヴィーナスは思案する。
「(さっきも今もシャボンスプレーの中で技は放ってこない・・・ゴーグルも反応しない・・・あたしたちを狙っているんだったら一体何を以ってあたしたちを判断してるのか・・・)」
シャボンスプレーにまぎれているうちは技を放ってこない。これで敵は、少なくとも地中にもぐり、自分たちの重量に反応して技を放っていると言う可能性が消える。外気温と体温の差が大きくなるので、体温によって反応していると言う可能性も消える。音に反応していると言う可能性も消える。
それならば視覚で自分たちを捉えているというのが最も妥当なところだろう。目で見て敵はこちらに技を放っている。だが、それなら何故、一発目、自分の足を狙うほどの正確性があってマーキュリーの足を封じないのか。
そして正面から攻撃してきて、辛うじて地面から触手のようなものが伸びてくるというヴィーナスの予想は当たっているのは分かった。だが、それが分かったところで対処の術は浮かばない。地面に攻撃を当てても無反応だった。
どうにかして捉えるか、地上に引っ張り上げるか、少なくとも本体を見極めなければいけないのに。
「ああっ・・・もう!ぜんっぜんわかんない!マーキュリー、何か考えてる!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
マーキュリーは返事をしなかった。
しかしいくら知性の戦士とはいえ、頭に傷を負って人一人抱え走り回る者に何かを考えろというのは無謀であるのは分かっていた。もしかしたらと思って聞いてみたものの荒い呼吸音しか帰ってこない。肩が激しく上下している。
そもそも、ゴーグルをつけているのは自分だし動き回っているのはマーキュリーの方だし、随分にちぐはぐな戦い方だ。そもそも足を怪我していなければ、こんなお互いの長所を生かせない戦い方をすることもないのに。お互いにまだベストの状態であればもう少しマシに戦えただろう。
或いは―と、ヴィーナスはまだ見ぬ仲間に思いを馳せる。誰よりも鋭い感覚を備え生まれてくる火星の戦士が仲間であるならば。誰よりも強い力を持つ木星の戦士がこの場にいるのなら、まだ―
そう思ってヴィーナスは奥歯を軋ませた。未だ覚醒せずこの場にいないどころか会ってすらいない二戦士の存在まで考えてしまうなど、随分弱気になってしまっている。これでは勝てるものも勝てない。
だが―あまりにも条件が悪すぎる。やはりいつまでもシャボンスプレーにまぎれている訳にはいかないし、今のままでは敵の正体すらつかめないのだ。このままではやはり二人ともやられてしまう。逃げようが隠れようが、やがてマーキュリーの体力は尽きるだろう。
ならばやはりここはマーキュリーだけでも逃がすのが正しい。そもそもマーキュリーが動き回っているから自分もなかなか思うように攻撃に転じることが出来ない部分はあるのだ。片足を引きずって、応援が来るまでは応戦だってできるはず。
二人で逃げると言う選択肢はない。自分を背負ったマーキュリーでは逃げきれず二人とも捉えられてしまう可能性が高い。それに四守護神の二柱をここまでにしたものを放置して逃げたら、その間どこでどのような災いが起こるか分からない上、月世界において四守護神の能力そのものを問われる事態に陥る。どういう形であれここで何かしらの決着はつけなくてはいけない。
そして何より、もうマーキュリーの体は限界に近そうだ。シャボンスプレーによる視界の制限は本来室内で最もその威力を発揮する。ただ何もなく開けた場所で、長く効果が持たないのも分かっていた。
その瞬間、ヴィーナスの視界ががくんと揺れる。マーキュリーが躓いたのか膝をついたのだ。それでも立ち上がろうとする彼女の足はがくがくと震えていた。
「っはぁ・・・はぁっ・・・はぁっ・・・」
「・・・マーキュリー!もういい!止まりなさい!」
マーキュリーの足がそこでよろめくように止まる。冷たい空気は肺腑を凝らせ、急く息はもう血が混じっているのではないかと言うほど苦しそうなものだった。足もがたがたと揺れている。体勢を立て直す為か、マーキュリーは足を引きずるように肩幅の広さに開いた。
「・・・・・・・っはー・・・・はー・・・」
「・・・マーキュリー、やっぱりあたしを置いて逃げなさい」
「・・・・・・・・・・・・か・・・った・・・」
「・・・今度こそ反論は・・・」
「・・・・・・わか、った・・・」
マーキュリーの言葉は独り言めいた抑揚のなさだった。それと同時にヴィーナスを支えていた腕の力が抜ける。ヴィーナスはそのまま尻餅をつくように大地に落ちた。
下から見上げるマーキュリーの背中は、あまりにも細く心許ないとヴィーナスは思った。今までずっとこれにしがみついていたのだ。
どうせ最初からこうなることは分かっていたのに、妙な意地を張り、今、ここまでぼろぼろになって息をついている彼女は全く馬鹿だと思う。先に言ったはずだ、最初から、自分を置いていけばよかったのに。
攻撃をするわけでも何かをするわけでもなく、本当に自分の盾になるように駆けずり回っていただけで。結果は現状を悪くしてしまっただけで何の術も取らなかった。戦士としてはあまりにもお粗末な行動だ。
知性の戦士に相応しくない―そんなことが頭に浮かび、ヴィーナスは自虐的に口角を上げた。
「・・・あなたは、戦士失格だわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「マーキュリー、逃げなさい。すぐに」
「・・・ごめん・・・なさい・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・盾に・・・なってでも・・・あなたを守ると・・・約束したのに・・・」
「最初から、あなたが守るのはあたしではないはずよ」
そこでマーキュリーが振り向いた。緩んだリボンは右目を完全に隠していたが、乾いた血の跡が残る頬に再び血が伝ってさながら血の涙を流しているようだ。
圧迫と時間の経過でも未だ止まらない出血はマーキュリーの顔の半分を、リボンをどす黒く染めて、ぽたぽたと汗と同時に絶え間なく滴り、コスチュームに大量の血痕を散らせていた。汚れすらない純白と青のみで構成されたその姿に、混じりない赤は奇しくも映えている。
肩は破れて、襟に血が滲んでいる。酷く細めた左目は、傷を負った右目に連動して薄らいできているのはヴィーナスから見ても確実だった。
―ずっとこれで今まで自分を背負って戦っていたのか。
「・・・目が駄目でも帰れるわね」
「・・・ヴィーナス」
「何?」
マーキュリーが放った技のせいか、周囲の空気は冷えて、そのためなのかこの状況でも頭は酷く冷静で、ヴィーナスの余計な雑念が消えていく。彼女は一秒でも早くこの場からこの場から離れなければいけないのに。
「・・・やっと・・・分かった・・・」
「・・・そうね。あなたはここから今すぐに・・・」
「どうすればいいのか・・・ずっと・・・考えてた・・・」
「・・・マーキュリー?」
「そばにいて・・・あなたを・・・守ることが・・・出来ない、けど・・・」
「・・・え?」
「・・・あなたを危険な目に遭わせることは・・・しないから」
「待ちなさい!あなた、何する気なの!?」
「あなたは下がってて・・・大丈夫、必ず連れて帰る」
「マーキュリー!」
ヴィーナスの声を振り切るようにマーキュリーは歩みを進める。ヴィーナスは後を追おうとして足を引きずるが、あっという間に距離は開き白い視界にマーキュリーは薄らいでいく。
「(何する気なのよあのばか!)」
ヴィーナスは尚も足を引きずりながら、左目を閉じゴーグル越しの視界のみを確保する。やはり絶え間なく砂嵐のようなものが流動しているが、マーキュリーは見つかった。震える足を止めることなく、霧の外に向かっている。やがて、白んでいる場所と霧が晴れる場所の境目―霧を構成する水滴の一つ一つが空気にさらさらと溶けていくのが見える場所―そこでマーキュリーは足を止める。肌で感じているのか自身が放った技の狭間だからなのか、まるで見えているように正確だ。
背中に霧を背負うような形で、マーキュリーはまるで幽霊のように佇んでいた。
「まさか・・・!」
ヴィーナスは必死で足を引き進むが既にマーキュリーは遠い。マーキュリーは何をする気なのか。必死に顔を上げ、ゴーグル越しのマーキュリーの背中を見つめる。するとそのゴーグルの画面がぴん、と一本線を張った。ヴィーナスの血の気が一気に引く。
「・・・マーキュリー!!」
ヴィーナスが叫んだのと、何かを抉るような音がしたのは同時だった。マーキュリーの頭部付近に向かい何かが突き刺さっていく影のようなヴィジョンがゴーグルに浮かぶ。
ヴィーナスは体を引きずっていては間に合わないと判断し、腕の力で腰を浮かすと上半身の力だけで進む。表面が微かに凍りついた剥き出しの岩に這う足全体が擦れ血が滲んだが、それでも止まるわけには行かなかった。
やがて霧が薄らいでいく場所まで来た頃、ようやくヴィーナスは肉眼でマーキュリーを捉えた。霧が晴れた先は、砂煙すら立っていないほど視界は鮮やかなもので。
「・・・な」
「・・・っぐ、ぅ」
ヴィーナスの目に映ったのは異常な光景だった。
カテゴリー:長編