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人生の変転・下山日記

ベンゾジアゼピンの遷延性症状に悩む方がおられましたら、情報をお寄せ下さい。このブログは、当方の生きた記録として残します。

1/12日誌

2015-01-12 10:48:04 | 日記

生きている証としてブログを記す。

朝4時に覚醒。あることないこと頭の中を駆け巡り(日常の記憶のフラッシュバックなのだが、どれもやたらとつらい)、大きなストレスとなっている。6時半にデパスを飲む。年明けからの寝覚めが、症状の進行と相まってとても悪くなっている。

このまま悪くなると、精神崩壊の可能性がある。これまでは耐えることで凌げたのだが、新たな段階を迎えている。

 

すぐに起きれたらよいのだが、外を歩くこともかなわず、新聞を読んでも面白くないので、そのままじっとしているだけ。日中にただ目を閉じているのはろくなことがない。

頭を掻いても皮膚の乾いた破片(フケとも違う)が舞い落ちる。指の状況は目を覆うばかりである。人差し指だけなぜか粉をふいたようになっている。

薬を飲んでいるが、3日に1回はひどい蕁麻疹が生じる。

 

連休中にはわざわざ郷里から友人が見舞いに来てくれた。私のだるさ、弱みをすべてさらけ出して、午後から夜まで話をした。ブログでは分からない身体状況を直に理解してもらうとともに、友人ならではの直言もいくつかもらう。このままで終わるのは残念だが、現状維持も大変である。

年末年始から何人かの人も来てくれている。

 

筋減少は、徐々に身体を蝕んでいく。ただし、即生命を奪うことがないようである。このペースで年単位、耐えるのはつらい。症状が重篤化するにしたがって、精神崩壊の危機があると思い始めた。


一見さんでは分からない

2015-01-09 16:41:05 | 日記

高々、20-30分の医者の見立てでは何も分からないと思います。仕方ないことです。

しかし、足の裏は骨が当たっており、タイプ時には指の骨の部分が痛く、極限状態にあります。医者に認めてもらうのは、もっと症状や外見がひどくなってからでしょう。単に認めてもらうだけですが。

手足口の障害は、都度、専門科に通うしかないのかも知れません。

友人、知人でも服を着た着ぶくれした私と会うくらいであれば、「大丈夫じゃん、こいつ」という感じでしょう。親しい男性の知人の前では脱いで見てもらっています。

私の健常時を知っている人々は、この痩せを異常なものと感じてくれています。

いずれにせよ、なるようになります。それまで出来るだけ、機嫌良く生きていくしかない。暗く落ち込んでいたら家族にも迷惑を掛けます。

もう、私は、筋減少のために手足が思うようにならず、大した活動ができません。心だけ、できるだけ平静に保って生きていく必要があります。

「幸せは自分のこころが決める。」 今、この言葉を真に実践しなければなりません。

 

下記はネットから、拾いました。 http://allabout.co.jp/gm/gc/440944/

エリザベス・キューブラー=ロスは、人は余命が限られていると知らされると、それを受け入れるまでに以下の5つの段階を経ると提唱しました。

  • 第1段階 ショックのあまり、事態を受け入れる事が困難な時期
  • 第2段階 「どうして自分がそんな目にあうのか?」と、心に強い怒りが込み上げる時期
  • 第3段階 事態を打開しようと必死になる時期
  • 第4段階 事態が改善しない事を悟り、気持ちがひどく落ち込む時期
  • 第5段階 事態をついに受け入れる時期

私はいつ死んでしまうのか分かりません。昨年5月から上記の1-4段階を経験しています。第3段階は余りなかったと思います。今は、第4段階で苦しみつつ、第5段階を模索しているところです。

いっそ、復職して死ぬまでという考えも度々よぎるのですが、健常な集団の中で、気丈に振る舞う胆力があるかどうか疑問です。通常の職をこなしながら、殉ずるというのも一興ですが。

 

こんな手なのに、平均レベルなのでしょうか?私の手を知っている人はおかしいと思うはずです。

私の生きる道

2015-01-08 17:28:09 | 日記

今後の私の生き方の提案。やけっぱちではありません。これがベストです。

できるだけ、休職期間中(2017年8月末)までに病死(自然死)で逝きたい。

ここ半年の神経系-筋肉系の病み方からすると、やはり、身体の不調化のスピードは同様か、悪化するとみている、

手足の動くうちは家族の送迎や買い物など、できることをする。

できなくなったら、出来るだけ家で過ごし、這ってでもトイレに行けるよう努力する。流動食になっても我慢する。

どうしても家族の介護が厳しい状態になれば、入院する。そこで散華できればベスト。

指の動くうちは、ブログやPCにいろいろと思うことを記載し、記録する。

気を散らせることがあればよいが、なかなか難しい。散歩、ネット、読書、人との対話か。

 

希望を失うなと言ってくれる人に他力的に無理矢理引っ張られて生き延びてゆくのも一つの手かもしれない。

皆、おそるおそるで声すら掛けられないのが実情だと分かっているが。


やはり精神病扱い(1/8神経内科受診)

2015-01-08 17:04:39 | 日記

朝一から大学病院。RIを注射されて脳のCT。血流状態を2-3万払って見てもらう。医師の解析は不十分、検査しただけ。9時から16時過ぎまで一日待ってばかり。

神経内科では、30分くらいの議論の末、やはり平行線。

見た目では問題ない、医師の診た平均の範囲内。私が感じる絶対的な身体の不調や勾配については評価してもらえない。

まだ、歯も抜けていないし、痩せていても、足がぐにゃぐにゃでも普通ですよと。医師曰く、「変容している。」(精神変容:妄想や思い込み。婉曲的に頭がおかしいという意味)「私の言っていることが説得力があるでしょう。」と。

変容がみられ、そのせいで手や足が動かしにくくなっているだって。。。

そんなはずがあるか?肉がなくなっているからじゃないか。しかし、お医者様、あなたの仰ることは絶対ですね。私のことは私でしか分からないから、何を言っても無駄ですね。

かかりつけ医の診断書や私のデパスの服薬歴から、大学の精神神経科に回されることに。だいたい、予想通りだが。

この手の病気は、バイアスで飾られて、もう正当に評価されるのは不可能でしょう。読者でも半数が、私のことを精神病と思っても無理はないのだろうな。

何せ、デパスを10年服薬していたのだから。ま、行き着く先は決まっているので、何の診断であっても構わないが。精神病の方が、私に何かあった場合、労災等、家族にとってためになる。

 

それでも、第一選択は「生きる」にしています。デパスでもデパケンでももう何でもいいから飲みます。確実に痩せて、歩けなくなり、手を使えなくなり、食べられなくなります。医者にいこうがいくまいが、方向性は変わりません。デパケンで、神経が修復できるそうな、嘘ばっかり。

これを書いていてもお尻が痩せていて骨が椅子に当たる。これでも精神症状だとさ。

 結論 心療科に掛かってややこしいことになれば、全て精神のせいにされます。私からの命を込めたメッセージです。お気をつけ下さい。

 

夜、心配して電話を掛けてくる親に苛立ちをぶつける。とんでもない親不孝者である。我ながら、むごいことをしている。


戸塚博士の書籍から

2015-01-07 14:16:51 | 日記

闘病者の同門というには、おこがましい戸塚洋二さんのがん闘病記(既述)を飛ばし読みしている。健常な人が読んだら、すごいなと思われるだろうが(所詮、他人事である)、余り心に残らないと思う。

実際、私は装丁本を買って持っていたのだが、古本に出した。そして、文庫本を買い直した。

一部、引用する(文庫本p263)。

☆自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく

☆自分が存在したことは、この時間とともに進む世界で何の痕跡も残さずに消えていく

☆自分が消滅した後の世界を垣間見ることは絶対に出来ない 

ということに気づき、慄然とすることがあります。

以上

 

<私見>

確かに真理である。ただ、私の場合も、子供という形で生物学的な痕跡を残すことができた。ただ、男性は女性という生き物にDNAを貸して、基本的には女性の種保存に貢献したのであるが。

それから、自分との関わりという形で一定数の人に記憶や情報という形で痕跡を残したとは考えている。

残すのは、子供か、情報かのどちらかしかない。

 

再度、引用する(文庫本p263-264)。

残りの短い人生をいかに充実して生きるか考えよ、とアドバイスを受けることがあります。このような難しいことは考えても意味のないことだ、という諦めの境地に達しました。私のような凡人は、人生が終わるという恐ろしさを考えないように、気を紛らわして時間を送っていくことしかできません。死までの時間を過ごさなければなりません。どんな方法があるのでしょうか。

☆現役なら、仕事が気を紛らわす手段になる。

☆引退したら、何でもいいから、気を紛らわすことを見つけて時間をつぶすことだ。

☆死が近づいてきたとき、むしろ苦痛にさいなまれて(短時間で勘弁してほしい)、もう早く死が来てほしいという状態になったほうが、むしろ楽だ。看取るほうは大変だろうが。

☆自殺は考えない。簡単に負けるのもいやだ。

以上

 

<私見>

仕事でこうなってしまったので、もう仕事で気を紛らわすことは結構だ。平静を保てれば、関係者にアドバイス程度は送ることができると思うが、押しつけになる。家族といる方を選ぶ。

手足口と機動性を奪われてきているので、気を紛らわす手段に乏しいのが課題である。

3番目の件は、大いに納得する、これまでウェブログに書いてきたことだ。

衝撃が余りに大きかったので、自殺はしょっちゅう考えた、仕方ない。今後の苦痛次第で自殺については再度、考えることがあると思う。ただ、自殺を考え出すと精神的ストレスが極端に厳しくなる。生き物としては当然の反応である。それから手足の自由を奪われたら、自殺手段の選択枝が極端に少なくなる。自殺を試みるより、痛みで悶えて悶える方を選ぶ方がいいと思う。ただ、悶える場所は病院にしたい。薬害なので、無慈悲で残酷な症状によって苦しめられる可能性が十分にある。