11/11/28 23:55
それから幾日か経った『夜』―この月世界においては地球にある概念を模したものであるが―人々が生活を営む時間では既に無く、日中は目も眩まんばかりに輝くクリスタルパレスもまるで闇を吸い込む水晶宮のような佇まいであった。
当然内側も、全てが喪に服すかのような静けさであったが、ただ一部屋だけ。王国の頭脳を統べるメイン・コンピュータルームのモニターが微かな起動音を響かせ、青い光を放っていた。
パレス内には誰でも自由にアクセスできる端末も多々あるが、王国の内部の情報のほとんどが集まっているそこは情報は勿論音や光さえ屋外に漏れることはなく、また、出入りできる人間も非常に限られている特殊な造りだった。王族と、その直属たる守護神、そしてそれらが個々に認め特別な許可を取った者しか入れない―最も、その数限られた者たちの中でも今この場にいるのはただ一人だけだった。
四守護神が一人であり、事実上この王国の頭脳を掌握する知性の戦士、マーキュリー。未だ拝命して幾日も立たない彼女は、既にパレス内が寝静まった深夜、一人モニターの明かりに向かっていた。モニターが放つ青く暗い光がマーキュリーの白い肌に映る。
光源がそれしかない部屋はただ青く、傍目には重く圧倒される雰囲気があった。だが、マーキュリーはそんなことには構いはせず、ただ一心不乱にコントロールパネルに情報を組み込んでいく。
そんな折―マーキュリーの背後で扉が開く重い音と、快活なヒール音が聞こえてきた。本来こんな場所にしかもこんな時間に来訪者など警戒して然るべき事態だが、マーキュリーは作業を止めることも振り返ることさえしない。
「こんばんはーマーキュリー。こんな時間まで頑張るわねー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「やーっと上がったわよ書類。さっさと持って来いって言うくせ部屋いないから探しちゃったわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「はー疲れた疲れた。でもあたし相当頑張ったから!」
訪問者―ヴィーナスは椅子に座したままのマーキュリーの背後までやってくると、持参した書類の束をひらひらと突きつけた。マーキュリーはやはり振り向きもせずに無言でそれを受けとり、パネルの上に置くとぱらぱら漫画をめくるような速さでそれを流し見た。無論、それをしていないもう片方の手は未だにキーボードを叩き続けたまま。
無表情で離れ業を披露するマーキュリーにヴィーナスは舌を巻きつつ、自分の作業は終わったと伸びをしながらマーキュリーに背を向けたところで、ようやくタイプ音が止まった。
「・・・5枚目と27枚目の構成がおかしい、29枚目の8行目、32枚目の9行目に脱字、39枚目の6行目からの章と53枚目からの報告文不可」
「ええっ!?」
マーキュリーの機械のように無表情な声にヴィーナスは仰け反る。必死で纏めた書類に対する労いはおろか欠点のみを大量に指摘されたこともそうだが、この一瞬ででたらめを言っているとも思えないほど正確な指摘にヴィーナスは衝撃を受けた。色々理不尽な思いが湧きあがるが、その間にもマーキュリーはタイプを再開し、絶え間なくぱちぱちと指先が動いていた。
「・・・そ、そんな、マーキュリー、それだけ?これでも夜なべして必死で仕事したんだからっ・・・せめて労いの言葉とか」
「・・・三時間以内に再提出」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「この仕事ばか!そりゃ書類遅れたのもミスもあたしのせいだけど、もーちょっと言い方ってものがあるでしょう!?」
ヴィーナスの言及は続くが、相変わらずマーキュリーは首さえ動かさない。ヴィーナスの言葉などどうでも言いと言わんばかりの態度に、ヴィーナスは下手に出ることをやめた。
「マーキュリー!」
コントロールパネルにヴィーナスは掌を叩きつけた。王国の頭脳を統べるこのコンピュータは、たかがヴィーナスのヒステリーに駄目になるほど脆くはないものの、マーキュリーは冷静に眉一つ動かさずバックアップを取り始めた。そしてそんな態度はますますヴィーナスの不機嫌さをあおるばかりで。
「こっちを向きなさい!」
ヴィーナスはマーキュリーの座す椅子の背もたれを引き、モニターから強制的に目線を外させ両頬を両手で挟み立ちあがらせた。青く暗い光だけが満ちている部屋の中、互いの鼻がぶつからんばかりの両者の距離でようやく二人の目が合った。
奇しくも双方混じりのない青。
ヴィーナスを見つめるマーキュリーの両目は―冷酷なまでに青い。
マーキュリーは突然のことに少し目を見開きはしたものの、すぐにその目を微かに細める。ころころと表情を変えるヴィーナスと対照的に、マーキュリーにそれ以外の表情の変化は全く見当たらない。
「あのねー、あたしが何にムカついてるかって、別に書類云々のことじゃないわよ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「前から思ってたけど!人と話してるときはせめて相手の顔を、相手の目を見なさい!」
そう叫んでマーキュリーを突き放すように手を離すが、マーキュリーはやはり微かに目を細めるだけで、ゆったりとヴィーナスから目を離すと再び背を向け椅子に座り、背中越しに書類の束を手渡した。
「・・・私と話してるだけあなたの睡眠時間が短くなるわ」
「・・・っ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・ああ、あなたはつまりあたしとは最低限の会話すらしたくないって訳ね!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
その言葉を無言で返したマーキュリーにヴィーナスは一瞬息を飲むと、奥歯をぎり、と鳴らし酷く乱暴に足音を響かせコンピュータ・ルームから出て行った。
重い扉が完全に閉ざされヴィーナスのヒール音が聞こえなくなったところでマーキュリーはもう一度振り返り、やはり先ほど同様無表情のまま微かに目を細めると、背もたれに体を預け右手で顔を覆いながら大きなため息を一つ吐いた。
青い光が満ちる中、マーキュリーの口元は―少しだけ歪んでいた。
「調査―ですか」
「ええ」
それから更にもう幾日経っただろうか―マーキュリーのヴィーナスに対する態度は相変わらずで、ヴィーナスはすっかりマーキュリーを避けるようになっていた。マーキュリーの態度は相変わらずで、最初からろくに目を合わしもしない。
そもそも付き合いそのものが浅く、単に同じ四守護神と言う立場であるだけ。
ただ、ヴィーナスは元々敵意が無い限り他人を嫌うことはないし、愛の星を守護に持つ戦士なせいか敵意を持っていない者に嫌われることもない。それゆえにこの状況には酷く違和感を持っていた。
「(何で・・・このあたしがあんな無愛想仕事オタクなんかに!)」
初めて会ったときから、マーキュリーは誰に対しても無表情無愛想を貫いているように見えた。だが、それでもいつも、ヴィーナスを―基本的には顔さえ向けないが―やむを得ず見るときはほんの微かに目を細める。というより顔を顰めるのだ。よほどじっくり観察していないと分からない微かな変化であるのだし、そもそもこれに最初気づいたときには誰に対してもそうなのだと思っていたが、幾度も仕事の場を同じくしてきて、どうやらそのまなざしは自分にだけ向けられるものだと気付いた。
これはつまり、そのポーカーフェイスを崩してしまうほどヴィーナスがマーキュリーに好かれていないことで。誰にも興味がなさそうな風の彼女が、自分をピンポイントに嫌っている事実。
別にヴィーナス自身もマーキュリーを好きではないのだから、蛇蝎の如く嫌われていようがそれは本来一向に構わない筈であった。だが、四守護神として志を同じくしているだけにそれはとても面倒くさいことに思えた。だからそれに気づいたとき、出来るだけ明るく振舞うようにしたし、どういう形であれ彼女の表情が少しでも出て来るよう道化に徹したりもした。
だがそれは逆効果だったようで、マーキュリーの眉間の皺は深くなっていくばかりで。
そして決定的な事項。以前のコンピュータ・ルームのようにろくに返事さえしてくれないのでは話にならない。向こうは最低限のことは言っているつもりなのかもしれないが、それでもこのままでは円滑な業務に支障も出るというものだ。
「(あああ思い出したらムカついてきた・・・!あの偏屈女・・・!)」
自分がマーキュリーを好きでない理由ははっきり分かる。まず無愛想で、徹底した無表情。どこか機械めいている仕事のこなし方が正直不気味だった。
その上誰に対しても心を開いていない。というよりは、本人にまともな心があるのかさえ怪しく思えてしまう。
無論、心があるから月への忠誠心があり、そして、それが彼女が四守護神たる理由の大きな一つであるのだが―その心ゆえ力に驕り、特別に危険人物たる怪しげな行動を犯すような素振りなど、そんなものが僅かでも垣間見えた方がまだ可愛げがあるというものだ―明確に排除する理由が出来るのだから。
しかし、マーキュリーは忠誠以外の心が見えない。
そして、そんな彼女に自分が嫌われる理由は分からない。自分だって王国への忠誠心は揺るぎないものだし、この時点で彼女と志は同じだ。仕事だってマーキュリーのように完璧な型とは言えないかもしれないが真面目にやっているし、誰に対してもあからさまに興味がない彼女に嫌われる理由は浮かばなかった。
容姿や性格には自信があったし、そもそも彼女が顔や性格の良し悪しで好き嫌いを判断しているとは思えなかった。彼女の好き嫌いは月への利害―それを善悪や正義という綺麗ごとめいた言葉を使うが―に対してのみ発揮されるものだろうから。
それを思うと、四守護神のリーダーである自分が彼女に嫌われる理由はますます見当たらない。
「(いや、そりゃーあれに好かれてても気持ち悪いけど・・・誰にも興味ないくせあたしだけは嫌いって・・・まだ全く興味なんて持ってくれないほうがましだわ)」
彼女に好かれること以上に嫌われることは特別なように思えて。どういう形であれ好きでない人の特別にはなりたくないものだとヴィーナスは思った。
「ヴィーナス?酷く機嫌が悪そうだけど・・・」
「ああーアルテミス?」
いつの間にか足もとにやってきていたパートナー、アルテミスをヴィーナスは拾い上げた。目線を合わせるようにアルテミスを睨みつけると、ヴィーナスは大きなため息を吐いた。
「・・・ヴィーナス、どうしたんだ?クイーンの部屋から出てきたところなのにそんな表情で」
「・・・どーしてこのあたしがあの女なんぞとっ」
「あの女?・・・マーキュリーのことかい?そういえばさっきメイン・コンピュータルームで会ったとき聞いたよ、クイーンの勅命の任務でマーキュリーに同行するんだって?」
「・・・ただの調査なんてその辺の誰かに行かせばいいのに・・・」
「責任者が直接把握するに越したことはない事態なんじゃないのか?クイーンだってまるっきり的外れなことを言ってるわけじゃないだろう」
アルテミスはどこか感心したように言葉を告ぐ。
事実、拝命してから、いくら個人として避けようと同じ守護神である以上、マーキュリーの仕事ぶりは嫌でもヴィーナスのもとに結果としてやってくる。
正直、能力に関しては想像以上だったとヴィーナスは眉をしかめる。
「それはまあそうかもしれないけど・・・だったら尚更何であたしがついてかなきゃいけないのよ。子どものお遣いじゃあるまいし、一人で行って一人で帰ってくればいいだけじゃない!マーキュリーだってそこまでばかじゃないわよ」
「そこまでばかじゃないどころか、君より遥かに頭いいだろ、彼女は」
「お黙りっ!そりゃあたしだってマーキュリーが脳みそイっちゃってるのは認めるわよ。あたしが仕事でわざと間違えたところを一瞬で指摘するし、気持ち悪いくらい」
「・・・・・・?」
ヴィーナスは煩わしそうにアルテミスを上下に振った。アルテミスは目をぐるぐると回しつつ、ヴィーナスの言葉に眉を潜める。
「ヴィーナス、わざとってどういうことだ?それにさっきから妙にマーキュリーに棘があるように聞こえるけど」
「・・・こないだマーキュリーに頼まれた書類仕事が遅れたとき、いらいらしてるだろーと思ってわざといくつか間違ったのを出したのよ」
「・・・?」
何でそんな真似をするか分からない、と丸い頭をごろんと傾げたアルテミスにヴィーナスは大きなため息を一つ。
「マーキュリーってあんまり怒ったり笑ったりしないじゃない?」
「確かに・・・僕は最近メイン・コンピュータルームでよく彼女に会うけど、あんまり感情的なところは見ないな」
「あんまりって言うか皆無だけど。でさ、どーせ遅れた書類なら一回くらい思いっきり怒らせてやろうと思ってわざと間違いだらけの書類を出したわけ」
「(性格悪いなコイツ・・・)」
アルテミスはパートナーに対し色々失礼なことを思ったが、口に出すのはやめておいた。
「そ、れ、な、の、に~!マーキュリー一瞬であたしの書類のわざとミスかんっぺきに指摘して、挙句脱字や本気でやった最後の報告文まで却下するし!しかも無表情だしあたしの顔さえ見ないし!ああ~ムカつく!何なの!?美しいものを目に映したいって思うのは全宇宙共通の心理じゃないの!?」
「(それは完全に逆ギレじゃないのか・・・?)」
やはり思ったが、やはり口にはしないアルテミスであった。彼は密やかにマーキュリーに同情の念を抱くと同時に、もう一つの疑念が頭に浮かんだ。
「・・・ヴィーナス」
「何よ?」
「きみがさっきから機嫌が悪いのは・・・マーキュリーに間違いを指摘されたことか?それとも彼女がきみの顔を見なかったことか?」
「・・・強いて言うなら、マーキュリーの存在そのものが煩わしいってことかしら?」
愛の女神はそこでこれ以上ないほどの優雅な笑みをパートナーに向けると、しゃがみこむ形でアルテミスを離した。そして投げキスを送ると、アルテミスに背を向けヒール音を響かせマーキュリーの元に向かった。
アルテミスは口元を歪める。
「・・・煩わしいなら、普通は排除しようと思うものだけどね」
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