私の耳鳴りは電子音状であり、自覚性のもの。耳器官でなく、脳内から響いているように思われる。左耳の方が強いが、少しは右耳からも漏れているように思う。音量であるが、静かなところでは誰しも耐えられないものだと感じるだろう。5月以降、死にたいと思うくらい強く悩まされており、かつ不治であるように思う。夏場までは高低2音階が入れ替わるようなうなるようなものであったが、それ以降は比較的に低音で継続している。以前にも書いたが、2年前くらいから耳鳴りは訴えていたようである。昨年1-2月に強くなり、耳鼻科に行ったが老化でしょうと相手にされなかった。3月に虫歯を抜いたがよくならず、5月に精神科医に不調を訴えて処方された抗うつ薬(ジェイゾロフト)を飲んでさらに悪くなった。その薬はすぐ止めた。
ベンゾジアゼピン(デパス(エチゾラム)、終盤2年はソラナックス(アルプラゾラム)も併用)は脳内GABAに結合し、副交感神経系を優位にしようとした。私はその効果を、リラックス効果と感じ、さらにはやる気にさせていると感じていた。であるから、毎日、起き抜けや行事前、夜の仕事をする前に飲む習慣がついてしまった。頓服ではなく、10年間ほぼ常用となってしまった。1日耐容量があるが、その数分の1でも慢性的に摂取しておれば、影響は出るであろう。それから業務量、ストレスについては、職場の中でも屈指のものがあったことを自認する。どれだけすごかったかは分かる人には分かる。ストレスが万病の元といわれるが、相互作用したのは間違いがないと思われる。デパスを10年飲んで、影響が出ない人もいる。私は当面(長年)、副作用を感じなかった。ネットで有害情報も検索せず飲み続けてしまった。
副交感神経を優位にした上で、さらに仕事を重ねて寝る直前までPCに向かって交感神経を高めたまま寝る。起きて薬を飲んで同じような毎日の繰り返し、土日も仕事に出るので休薬もなかったように思う。その結果、交感神経がずっと優位に立ち、最終的に薬を飲んでも効かなくなった。薬の常用量依存(薬自体を飲んでも効かないこと)も既に出ていたのかもしれない。
脳神経系を故障したとこれまで書いてきているが、神経細胞が化学的に壊れた(情報伝達が上手くいかなくなった、受容体結合平衡状態が変わってしまった等)とみるのが科学的な解釈でないかと思われる。中枢神経叢にデパスが作用し、おもむろに神経細胞群に作用する。その結果、情動系に関連する細胞に効いて、薬効を感じるというデザインなのであろう。特定標的(GABA)にヒットするのは確かだが、GABAをもつ細胞群にとにかくヒットし、その細胞群に関し、標的細胞(薬効目的対象となるもの)とそうでないものの選択は基本的にはできないと考えられる。デパスには筋弛緩作用もあるが、これは安定剤としての作用とは別で副次的な産物なのかも知れない。
長年、こういったストレスと投薬の繰り返しを行ってしまった結果、細胞に化学変化が固定化し、正常な機能を果たせないspoilされた細胞が増えてきてしまった。一部細胞は再生不可能なのに死滅したかもしれない。その結果、重要な神経細胞からの下流(末梢神経)への信号伝達がされないようになった。あくまで乱暴なイメージであるが、神経細胞(ニューロン)の発火現象が途中までは起こっているのに、リレーされないようになり、無駄に途中で放電されている状態、これがノイズとなり耳鳴りになっているのかも知れない。これだけのノイズになっているので、細胞の束がやられているのかも知れない。現状の筋減少や歯肉減少のメカニズムもまさにこれと共通するのではないかと思われる。重要な栄養因子伝達を行う神経回路が死滅、もしくは極端に減少してしまった結果、食事を取っているにも関わらず、筋肉の生成、分解の収支が取れなくなった結果、筋肉がなくなってきているのではないかと思っている。筋萎縮ではない、「筋減少」である。部位を構わず、人間の動作にとっての必要性を斟酌してもらえず、指先や足の裏といった生活に不可欠な部分も無慈悲にやられてきている。表層の筋肉や筋膜をやられているが、深層の筋肉の破壊も潜在的に進んでいるのだろうと思う。
10年飲んだら、早々治らないし、筋肉や歯肉が神経原性作用によりやられているのなら、再生は難しいと考えるのが常識的な考え方である。真っ暗闇になってしまう理由はここにある。症状が進行しているため、冷静に無理だと思う。休職後、筋肉の減り方が加速した。5月末に耳鳴りが決定的になり、不眠になった時点が、筋減少加速の転換点(重要細胞をやられた、もしくは一定数以上の細胞に影響が及んでしまった)であろうと踏んでいる。しかし、思い返せば、何となく手の動きが、足の動作がおかしいなと感じたときや歯肉が赤いなと感じたときが数年前からあった。徐々に症状は潜在的に進行していたのだろうと考えざるを得ない。
医者はそんなメカニズムまでろくに勉強せず、薬の組み合わせやとっかえひっかえで、また、効いた効かないだけで日々の診断に終始する。断薬もへったくれもない、薬をくれという患者に合法的に処方した「合法薬」を盛るだけである。離脱医の育成や精神薬理学の発達は、精神医療の健全化とセットで必要である。もうちょっと製薬メーカー関連の利権を離れて、安全衛生科学として考えてほしい。無理だろうが。日本はアジア諸国の中で発展途上であるというのもこれまで数名の医者にかかりその姿勢をみて本当によく分かった。もう、自分にとって遅いが。
私がなぜブログに「これは死ぬ」「死にたい(死んだ方がまし)」と書いているか。それは上述の筋減少が平衡状態(停止)に至らずさらに進行すると、これまでの観察経緯を踏まえて判断できるからである。筋減少が進むとどうなるか、手足口に現れているようによりよく生きるために必要な身体の部分をやられてきている。そして歩いたり、ものを触ることすら気持ち悪い。特に足の筋肉をやられており、恒常性維持(体温保持)に困っている。布団で寝ていた方がましである。だから臥している。本当に絶望する。毎朝、望みない状況や症状の進行を確認して憂鬱になる。
循環器系にはいずれ影響するのか、もう影響しているのかも知れないが、呼吸筋をやられたりすれば生死に関わるだろう。ALS並みに、いやそれ以上に進行が早く、無分別にひどい症状である。そして、前例が見当たらない(デパスは発売後、30年経っているので日本人でも自分と同様な事例は数名はいると思うが、正当に診断されず葬り去られている可能性がある)。薬でやられた筋肉支配神経の影響範囲がどこまでなのか分からないが、全身の表層筋肉を軒並みやられている。筋肉の神経による支配様式を医学書で確認すれば分かることであろうが。毎日、生殺しの状態でこれを週、月、年単位でじわじわやられるということはどれだけの拷問か分かってほしい。さっさと殺してほしいと書いているのは、家族や友人の意志を別にすれば、切実な願いなのである。健常な人にはエゴとしか取れないだろうが、当の本人にはどれだけの苦痛か。死にたいのではない、死んだ方がまし、覚悟の上死ぬしかないといった感情が正しい表現なのである。
本当に情けなく、悔しい日々である。
実家に帰省した翌日、そしてもう一度、電話で高校の恩師(女性)と会話した。現在もメールでやり取りを続けている。
もう齢は75を超えておられるが、現在の自分よりはずっと元気で行動的な方である。高校時分には、1年次に現代社会を教わった方であるが、自作の教材を使い、それから保守的な教育界に対して反骨性をもった方であり、私なりに薫陶を受けた。同時に私のことを気に掛けてくれ、また私の文章力を評価してくれて、取り上げて伸ばしてくれた方である。2年前に25年ぶりに再会し、定期的にお会いしようとしていた矢先の私の病気であった。
ヴィクトル フランクルの「夜と霧」、それを取り上げた宮田光雄の「きみたちと現代」が授業の最初の教材であった。「きみたちと現代」は未だに手元にある。病身で人生の意味をもう一度確認するには助けとなる読み物に違いない。
先生はまず、柔らかだが気骨ある物言いで「○○君ね、簡単にね、あきらめないの」と仰ってくれた。私には高校時分から「二軸」が備わっていたらしいこと、一つは仕事の軸、そしてもう一つは仕事とは違う専門性というか、仕事に縛られない信念というか価値観があるということを伝えてくれ、「今こそもう一つの軸を使って生きていきなさいよ」と助言いただいた。この十数年、仕事軸ばかりに注力してやってきたので、今さらもう一つの軸をといっても、こうなった以上、元も子もないではないかというもどかしい気持ちを電話口で持つに至った。しかし、今考えるに、仕事や収入や世俗といったことを超えて、一人の人間としてどう生きるか残り時間で試されているのよという根源的な助言なのではないかと思っている。進学一辺倒の教育システムに異を唱えたり、問題を持った学生に対しても正面から向き合ってきた方である。護憲が専門であり、現状の世の中も深く憂えておられる。また専門が人文科学であることもあるが、「人生は科学だけでは片付けられないのよ、こうなったからこそ、文理関係なく総動員して生きるの」ということも言われた。
残念ながら現在の私には、社会情勢もへったくれもない、自身の「着陸」をどうするか、身体的な悩みに悶々としているのが現状である。当然、病気のことについてもいろいろとアドバイスをいただいた。また、労働組合の活動者であった立場から先生の知人にすぐに連絡を取ってくれてアドバイスをいただいた。症状についても興味をもっていだたいて、なぜ急激に断薬してはいけないのかなど科学的な疑問を寄せられた。上記のことは、自分なりに斟酌して、消化する必要があるのだが、昨年からこれはまずい、どうしようもないという焦りで生きてきた中で一つの異なる視点を与えてくれたことは間違いない。しかし、やはり耐えがたい身体症状の中で正気を保つのに必死なのであるが。
数日後に再度、電話で話をする。労災関係の助言であった。これについては、職場の方が非常によく尽力下さっていて、既に手を打てていることもあるが、下記のことを連絡下さった。
・勤務先と絶縁せず、最後まで良好な関係を保つこと
・有能な弁護士との相談が望ましいこと
・その上で、権利として行使できることは行使して、享受できる権利を活用すること
・自身の記録(勤務内容、その苛烈さ)はできれば肉筆で残しておくこと
携帯で月、2,800円を上乗せすれば、掛け放題になるからいつでも入って電話してこいとも言われた(メールで連絡を続けている)。
自宅に戻ってからはさらに手元の書籍を送っていただいた。これについてはまた別に機会があれば記載することにする。
懇意にしている知人から言われたし、私も同じ頃に同じことを実感していた。
本当に人の心に残る働きを残した方には共通する三つの経験があると言われている。
その三つとは「投獄」「戦争」「大病」であり、またそれは本人が望む、望まぬに係わらず、ある意味で、
天がその人を選び、与える体験だと語られている。
これで大病が治れば、絶対腹が座り、いいものはいい、駄目なものは駄目と言える人間として世に自分を活かせると心から思う。
しかし、この神経症状であれば無理である。夭逝してしまう。本当に残念である。
なぜ、無理であると言えるかは私の状況に皆がなってみないと実感できない。
しかし、誰しも経験できないことである。経済的に幸せで問題なく人生を暮らしたなどという人よりは生き甲斐はあるのだろう。
そう思わないとやっておられない。また、来世はないと思っているが、来世で何かいいことあるんだろう、でなければ家族にいいことがあるだろうとくらい考えておきたい。
身体中、その表面が床や家具や日用品に接触する度、骨が当たり、気持ち悪い。表層の筋肉が本当に失われたんだと思う。
歯を噛みしめる度、何かいつもかみ合わせの位置がずれている。顔の筋肉も徐々に失われ、目が落ちくぼんでいる。
電気信号音の耳鳴りがそういった不快感に常に加担する。合掌。
私自身が実家、家内の実家に無理にでも帰り、両親と義母にきちんと身体を見てもらって、今後の話等をしておくことが今やっておく一番大切なことと思って、寒い時期であったが帰省した。
両親との話の概要を記録する。
休職当初は「うつではないか。きちんと薬を飲むように」くらいに考えていたようで、その後もずっと薬を飲めなどという的外れな電話での会話になっていて全くどうしようもなかった。こちらが悪いのに理解のない親を恫喝してしまったことも多い。もちろん、家系的にそんな病気もなく、向精神薬や精神科医といったものに全く両親は知識がなく、もらった薬はきちんと飲めとの一辺倒であって、電話の度、衝突して心配を掛けていた。父親は病気で長時間の旅が難しく、母親が私の家に出てくることを計画し出した。私は両親二人に話しておきたかったし、とにかく気持ちを奮って私から帰った。帰省自体、公共交通機関の座席に座るとお尻が痛くて、本当に辛うじて帰った。実家でもほとんど寝ていた。実際、病気である父の方が私よりはるかに元気であった。親との連絡を一時、取り持ってくれた妹にも来てもらって説明した。
父母としては普段通り私に接し、三度の食事や喫茶、数回の外出(外食)、寝床、暖房を整えることに精一杯骨を折ってくれた。それしかできないといったところだろう、済まなかったと思う。
薬を飲んだことについては私を一切責めない。そんなところで仕事して、もっと楽しておいたらよかったとか、そんなところに行くべきではなかったと言われた。こうなった以上、そうも思える。しかし、「もうこうなったからには人を恨むな、仕方ない。苦しくなるだけだ。」という達観したことも言われて、少し驚いた。
親元を離れてから帰省の度、身体には気をつけるように口酸っぱく言われていて、野菜や栄養食品をかいがいしく送ってくれていたのに、悪くなるまでその金言に気がつかなかった。最大の親不孝である。
症状は、典型的な離脱症状を超えており、実際に足の裏の肉がなくなって骨と化しており、指先が真っ赤で皮が薄くなり使えない状態であること、動作、日常生活が成り立っていないことを見て認識してもらった。中枢神経系の異常であることは間違いない旨を主張してそのようだなと認めてもらったが、「いい病院でいい医者を探せ」と言われたので、それは宝くじより困難だと答えておいた。
父親からは、病気はなるようにしか、ならない、最早、気楽に、そうなった以上、栄養、ある程度の運動、太陽を浴びるなど、他の身体の部分が悪くならないよう規則正しい生活を送ってほしいと言われた。薬害の抵抗できない勢いの前に最早、なすすべもないがうなずいておくほかない。退職前後以降、大病を数度、患っている父からは自身の主治医から「細胞の新陳代謝を進めるために、少なくとも水はいっぱい飲む」ように言われた経験等を話してくれた。それから、希望を見出さないと真っ暗闇になるから、希望だけは持っておけと。
母親は、45歳の息子も小学生と変わらないような扱いであった。とにかく、悲痛で痩せさせたように思う。本当に済まない。食べ物や医者、薬の話ばかり勧められた。
これまで父母には苦労らしい苦労を掛けず、本当に優等生であった。ここにきて、こんなことになって一番の親不孝はこれだなと思った。
その上で、父親から「話は変わるが」万が一の時にどうするという冷静な話をされた。私も、この話で合意を得ておきたかった。
今、私が生きて休職というプロセスにいる以上、子供が学校に馴染んでいる以上(これから進路を考えていく以上)、家内は今の住まい(のある町)を離れないだろう。しかし、難しい状況になったら(私が死ぬことを含めて)、家内がどうするか決断するだろう、それまではよっぽどの段階にならない限り、私から縁起でもない話をすることはできない。親は全員、郷里に戻ってこい、受け入れる準備はするし、家の中も整えるという具体案まで踏み込んで話をしてくれた。このことは家内にも伝えている。核家族はもろいことを今回のことで思い知った。ありがたい申し出であるし、私もそれを喜んで受け入れる。親には感謝している。
逆縁は心理的に絶対、受け付けないだろう。それは子孫を残す生き物にとってはあってはならないことだから。
父母へ(父ちゃん母ちゃんへ)
私を小さい頃から愛情をもってきちんと育ててしつけてくれて、胸の張れる教育を受けさせてくれました。受験期はもとより、いろいろと進学に気を揉んでくれて(期待してくれて)私を大学の下見に連れて行ったり、予備校の講習予約に行ってくれたり、いいと思ったことをどんどん進めてくれて、進取の気持ちを植え付けてくれた父。小学校の時分に私に体力をつけさせるために、早朝に一緒に走ってくれ、中学では早朝5時からの勉強のためにきちんと起こしてくれて温かい飲み物を絶えず出してくれた母。そういった一つ一つの思いを病身になっても(なった故か)、きちんと覚えています。仕事に全力投球になって迂闊な薬に手を出してしまい、こういうことになってしまったが、学生、社会人になってきちんとお付き合いできた人が国内外に多くいて、毎日お見舞いや励ましの連絡、支援をたくさんいただいています。これは父母が私に掛けてくれた手間暇を社会に還元できた証なのだろうと勝手に思っています。家庭をつくり、家内と暮らし、子供に恵まれたことを含めて、上述の情報(人間関係や業績)やDNA(子供)を残せたことは、どうか一つの親孝行と考えて下さい。病は不治の見込みが高く、どうにもならない、苛立ちを申し訳なくも理不尽にぶつけたこともあったけれども、心底感謝の念しかないから。できるだけ生き抜きたいけれど、信じられないほど身体がいうことをきかなくなってきている。こうなったら多くの人を巻き込みながら過ごしていくしかない。受け入れがたい状況だけれども、どうか宜しくお願いします。