goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の変転・下山日記

ベンゾジアゼピンの遷延性症状に悩む方がおられましたら、情報をお寄せ下さい。このブログは、当方の生きた記録として残します。

日誌(2015/02/05 その1)

2015-02-18 18:07:13 | 日記

町の中心にある落ち着いた喫茶店まで、電車と徒歩で出掛けて、町の風情をしんどいながらも味わう共に、午後2時に兼ねてから約束していた知人(女性)と会った。

休職するまでは仕事の関係でお会いしていたのだが、休職後は自分の生き方、こころの行き先についてメール書簡を交わしていた。仕事を通じて私の筆力を高く評価してくれていた方である。

もっと早くから病気以外の交流を進めていたら、働き過ぎを見直してこのようなことにならなかったかも知れないと思う。

 

病気のことについて話をするだけでなく、周辺にいる人たちの人物譚や自分らしい生き方、人に束縛されない生き方について議論を交わすことができた。

もう死期の近い人間にとってはどうでもいいかもしれない、しかし、説教臭いところがなく、今さらながらしてもいいなと思う話ができた。

 

・病気については休職初期から症状は悪化しているが、ものの考え方は時間と共に変わってくる(時間薬)。そういった心のありようが推移・進化することは大切なので、またそのようになるので焦らないで事態を見守ることも大切である。

・少年期、青年期に競争的社会や考え方に身を置いてしまったことが、責任感を背負い、自由でしなやかな生き方をさせない方向にもっていったのではないか。

・私が元来、文系的な要素も持ち合わせていることも分かる。これから何ができるかは自分で考えなければならないが、そういったものに身を任せてみては。 

・いろいろな情報がつらくて入れないようにしないのは分かるが、入れないようにしようとすると余計につらくなる。受け流すような心持ちにもっていけないか。

・病気はどうなるか分からないが、湯治とか古来から薬などなかった時分からの知恵をいろいろと試すことも一案である。

等々(思い出せば加筆する)

 

2時間があっという間に過ぎ去った。この町が育んだ人だなという印象をもった。

書籍(茂木健一郎 「生きて死ぬ私」(ちくま文庫))をいただくとともに、帰り際には爪もみをしてくれた。慈愛に満ちたものであった。感謝している。

 

茂木自身は文理のバランスも取れた人間と思うが、若い時期に著わした彼なりの人生観が分かりやすく書かれている。「生きていれば何かできるわけであり、生きていることが究極の目的である」と書かれた一節は、今後、究極の状況に持って行かれようとしている自分にとっては苦しいが、参考にできる部分である。また、「去っていたものたち」では同級で既に亡くなった人々(生と死の間の壁を越えていった人)の回顧がなされている。

 

お会いした後にいただいたメールを差し支えない範囲で付す。ありがとうございました。

---------------------------------------------------------

こちらこそ、このあいだは貴重な時間を取っていただいて、色々なお話をすることが

できて、私自身は大変喜んでいます。

(中略) 

個人的に思うに、確かに、ときには身を任せることもあっていいのかな、と思います。

こちらに来られて良かったと思われるのであれば、しばし心に忠実になられてもよいの

ではないかと。こちらにいらっしゃるのであれば、いつでも話したいと思われるときに、

ご連絡いただければ、都合のつく限りお会いしたいと思っています。

  (中略)

このあいだも、お話を聞けて、こちらの話も聞いてもらって、とても充実した時間を共有できて、私は

嬉しかったのです。

 (中略)

私としては、○○(当方)が心から信頼できるお医者さんにお会いされていないことが、とても

残念に思いました。症状を理解してもらって、一緒に治療しよう、治そうと思ってくださる

先生が見つかったら、状況もまた変わるのではないかと思っています。

 (中略)

いつでも、お誘いいただければ、都合のつく限りと思っています。

 


日誌(2015/02/04)

2015-02-18 14:54:27 | 日記

午後2時に大学の後輩(女性)と会った。うちの家族のことをよく知っており、とても優秀で行動力のある人である。一緒に仕事もしていた。私がどうしようもない状態に陥っていることを、最近連絡を取るまでは知らなかった。私の実情をメールで申し上げ、実際に会って話すと、ポロポロと涙してくれた。私も無念でもらい泣きである。メールで連絡した以降も、彼女の知己と連絡を取って、薬害のことを勉強するなどすごく頑張ってくれていた。

 

「10年粘りましょう」(筆者註:10年持つかどうかは怪しい。)「しかし、こうなった以上、もう仕事はいいでしょう、人の倍やりましたから。」「子供の一人くらい、私が面倒見ますよ」「勝手に兄のように思っていますので」

彼女のエネルギーを全開にしてくれて、ただでさえ忙しいのに、私が粘るのであれば支援をしてくれる旨を言ってくれた。薬害の詳細は理解してくれないかもしれないが、何か起こしてくれるかもしれない(支援と私の病気とは全然、別個独立であることは百も承知しているが)。

 

今、私が住んでいる町やその周辺で医学的に適切なサポートを受けられる可能性は極めて低い。国内はおろか、国外に目を向けなければ、症状を理解してくれる医師は見つからないかも知れない。しかし、今回逗留した町で彼女のネットワークを活かして、また、私の友人のネットワークを使いながら、何とかならないか頑張ってくれると言ってくれた。

 

もの凄く感謝している。回復云々は別にして。どうしようもないことを察して、できるだけ冷静に死ぬことを受け容れようとする自分と「回復を信じて粘れ」という考えはギャップもあるのだが、健常な人は無論後者が大半であろう。その象徴的な存在が彼女である。回復は無理だとそれでも思っている、しかし、受けた思いの分は生きていなければならないのかとも思う。昨日のご夫妻も同じ思いであったので、その意気込みによる「延命効果」は感じた。

 

帰りに商店街でワインを買って義母と飲んだくらいである、会った後、「元気効果」はしばらく持続した。


日誌(2015/02/03)

2015-02-18 14:42:53 | 日記

義母宅の最寄り駅に、学生時代からお世話になっているご夫婦にきてもらって、喫茶店で2時間ほどお話しをした。学生時分から気が置けない場所を提供してくれていたし、就職後も出張の際に、よく立ち寄らせていただいていた。いつでも自然に行けて、話や価値観もあってリラックスできるお相手である。

 

なので、休職後すぐに事情を電話して話していたし、今回も真っ先に会ってくれた。私の性格や仕事ぶりもよく分かっていただいていたので、何が起こっているか私の見立てを信じていただいている。信じる、信じないで人を評価するわけではないが。職務の激烈さについては、同様のことを経験しておられよく理解していただいている。また、12月に電話した際には「身体が厳しくて帰れなければ、私たちがご両親に会って事情を話すから」とまで言っていただいた。

 

現状を踏まえてもなお、良医との巡り会いを探れないか、そして前を向いて生きられないか、自分自身の身体だけでなく、みんなが心配している、みんなの身体なのだからということを言っていただき、親心を感じた。親友と呼ぶには勿体なく、兄貴姉貴、親とも言っていい方々である。本当にできるものなら何とかなりたい、何とかしたい。でも、何ともならなければ、これまで楽しかったご縁を胸に・・・。


義母宅での逗留

2015-02-18 13:55:12 | 日記

2月初旬は義母宅(家内の実家)に逗留して、心やすい人と会ってきた。義母は、元来、「竹を割ったような」さっぱりとした性格で、うちの母が郷里から同行した際には(前に書いたように、病気でしんどいこともあるが、基本的に小学生の子供のときと同様の扱いになって同行したのである)、母の言うことを立てて、母が帰った後は私から私の病気についてきちんと「実情」を聞いてくれたのである。ご自身も半年間寝たきりを、随分過去に1度経験したことがあるので「病気の本当のしんどさは自分にしかわからない」ことは言ってくれて理解してくれた。

 

病気については仕方ないものは仕方ないという割り切りをされている方なので、湿っぽい話をすることはなく、淡々と過ごすように努めた。ただし、ずっと布団は引いていてくれた。

 

滞在中は、外食しない限りは、3食を定時につくって出してくれた。私は何もできず、寝ているかテレビを観ているか、時間になったら人と会うために出て行くか、完全におんぶにだっこであった。

 

滞在中も、身体の違和感は常に感じていたが、やはり義母は血のつながっていない他人であるので、できるだけちゃんとしようとする。なので、8時前にはきちんと起き出す、身だしなみにできるだけきちんとするなど、生活リズムをよく見せるようふるまったつもりである。散歩もしたりしたが、やっぱり足や身体の痛むところは痛む。つらいものはつらい。現実の心境と他所宅での振る舞いと両立させるのに必死であった。

 

10年以上過ごした町である。来てよかったと思う。しかし、意識の半分は身体のしんどさに耐えるのに不本意ながら必死であった。いつまでこんなに我慢して生きなければならないのだろう。


2015/02/18日誌

2015-02-18 11:25:18 | 日記

筋力の低下がよく分かる。二の腕と太もももすごく細くなってきた。往年の面影はない。友人に会っても驚かれた。昨日は座るとお尻の筋肉が切れて骨が刺さるような嫌な感覚、足の裏は依然、寝て起きるとパチパチと筋肉の網が切れているような鋭い痛みが走る。9月くらいは肩や腰の筋肉が消えつつあると同時に、凝りも感じたのだが、今はその筋肉自体がなくなり凝りはおろか、力が出ない。例によって、膝の内側の筋肉が見える形で痙攣している、ほぼ24時間。正常な筋維持ができず、どうしようもなくて痙攣している。痙攣だけならよいが、そのあと筋肉が落ちる結末となっている。顔面の筋肉がなくなっていることと関係しているかもしれないが、視力が落ちてきた。ピント合わせのところか、眼球の保持に関係する場所かわからないが。

 

この症状を単なる離脱症状と捉えられるとつらいものがある。痛みや凝り、不快感だけで終わらずに、身体のマス(肉体)がなくなっていっているので。運動しない痩せとも種類が違う。歯肉や指の腹、足の裏が、精神的なストレスで痩せるわけがない。このことも周りから十分理解されていないのがつらい。医学的診断がつかないと、みんな信じないのが事実。これは二次ストレス。

 

筋肉だけではない、髪質、皮膚、内臓(腸)も異常のまま。異常が多く、対症療法では切りがないところが根本問題の重大さを示していると思う。catastrophic biasでなく、本当に信じられないことが起こっているというのに。まぁ、自分の身体に起きてしまったことは自分で責任を取らなければならないさ。困るのが本人と家族。

 

心気症と診断されたら、それで医学からは見放されたということだろう。確かにもともと異変には神経質な方であるが、ここまで症状が進み、時系列で確認してきたことを初見やそこらで心気症と言われたら、もう終わりだと思う。隠遁して、できる限り生きて死だけ待ちます。症状は確実に死にもっていく方向のものだから、死ぬ。

 

心気症という「バイアス診断」対策としては、あまりこっちから躍起にならず、冷静に自己所見を述べて、向こうの言うことをふんふん聞いて従うことだろうな。結末とは関係ない空しい作業だが。今考えると、職場の上司や同僚は私の言うこと(病気の見立て)をほぼ信じてくれたのだろうなと思う。それは私が真面目に仕事をしたり、お世話をしたりしてきたからだろうと思う。要は信頼関係が全てなのだ。

 

心ある人の助けには身体が動く限り乗っかりたいが、いずれ寝たきりになる。自身の本意とは別に、底打ちが見出せない以上、そうなるという主観的確信がある。がんと同じ。望んで治らない類であろうと思う。治りたいと思っているのに、どんどんひどくなるのを体感するのはもの凄いストレスである。それを治す気力がなかったら駄目だよと言われるのは、心底つらいものがある。

 

帰省時、それ以降にいろいろな人とあって話ができた記録を時系列で書きたいのだが、しんどいのでそのままにしている。きちんと話ができて有意義だったので書いておきたいのだが。