秀吉が九州仕置き、で通った道を太閤道といいます。
また、朝鮮出兵(文禄の役)時に肥前名護屋城へ向かった道も太閤道といいます。
今回は「太閤道伝説を歩く」牛島英俊 著 を参考にして福岡市内の一部分(周船寺~今宿)でしたが歩いてみました。また、豊臣秀吉を祭る神社が博多奈良屋町にあると聞き、そこにも寄ってみました。
秀吉は大軍団が通過することで農作地などを荒らしてしまうことに気を使い、迂回できるところは迂回して、場合によっては山林を切り開いて道を作り進軍していったとも伝えられています。
今回のルートは太閤道を周船寺から今宿へ向かうことになり、秀吉の進軍とは逆コースとなります。
糸島市高田で国道202号線より南側に平行して通る県道561号線に入る。その道は国道202号バイパスの徳永東交差点へでます。途中に丸隅山古墳が道路沿いにあります。
さらにそのまま交差点を直進し女原地区を通り今宿はバイパスの大塚古墳の近くにでます。さらにバイパス西消防署付近から南の路地に入り今宿青木を通り八上橋から七身坂池を通りバイパスの下を通り御開池の横を通って長垂山の山中へ入りますが、ここ長垂山から先の道がわからず中止しました。
その先へ行きことができれば長垂山の山中を突っ切り油坂を通り、海岸を通る202号線の大谷へでられるようです。ただ、途中が廃道になっているらしいので藪漕ぎが必須のようです。太閤水や油坂地蔵堂も山中のどこかにあるらしいです。
途中の女原(みょうばる)の名は、その昔、後朱雀天皇の皇女が妊娠され、何かの事情で九州へ来られて皇子をお産みになられた。皇女が住んだので女原と名がついたそうです。
また、油坂は原田氏の砦があった所で秀吉軍と戦があった場所。太閤水は、山中に湧き水があり道中の太閤が喉を潤した所。今は山の中でもあり、しかも途中が廃道となっているようでどうなっているかわかりません。
ここ長垂山は以前ウラニウム鉱物を産出したそうですね。昭和20年まで海軍直営の長垂鉱山がありリチウム鉱物を掘削したとのことでした。
コースには特に秀吉に関連した何かが残っていたわけではありませんでしたが、
文禄の役の時、秀吉が肥前名護屋城に向かって進んだ道です。
次は豊国神社です。博多の豪商 神屋宗湛屋敷跡にあります。
■博多にある豊国神社です。神屋宗湛屋敷跡にあります。
■神屋宗湛屋敷跡の案内板です。
■豊国神社を正面から撮りました。
■豊国神社の石段を登り、拝殿、神殿を撮りました。左右には狛犬があります。
また、拝殿、神殿の左には神輿が飾ってあります。
島津征伐からの帰りに、秀吉はたびたびの戦火により焼野原となった博多を見て、石田三成に町の復興を命じた。その際行った区画整理を「太閤の町割り」という。楽市楽座の掟も制定し博多商人の繁栄を促しました。
秀吉の死後、豪商・神谷宗湛は屋敷内に祠を建てたという。明治19年、町割り300年祭を行ったときに豊国神社となる。町割りに使った6尺6寸の間杖がご神体だったが戦災で焼失した。
神屋宗湛は博多を代表する商人で大阪城の茶会で秀吉から筑紫ノ坊主と呼ばれ、千利休と会席する茶人でもあった。1582年秀吉から宅地をいただき豪商としての特権を与えられた。晩年の秀吉の側近としても活躍した。
しかし、関が原の合戦後、天下人となった徳川家康や藩主の黒田氏からは冷遇されたようです。前政権と結びつきが強すぎたからでしょうね。