端午の菖蒲
現在の端午の節句では影が薄くなってしまったが、かつての端午の節供では、菖蒲が主役として色々な場面で用いられていた。しかし植物としてのショウブを外見だけ見分けることは、現代人にとっては簡単ではない。古くは「菖蒲」と書いて「あやめ」と訓むことが多く、紫色の花が咲く「花あやめ」だと思い込んでいる人がかなりいる。しかし花あやめの葉は菖蒲と区別ができない程よく似ているが、葉や茎に芳香がなく、湿地には絶対に生育しない。現代のこどもの日の情景を描いた絵図には、よくこの紫色のあやめの花が描かれているが、これは本来は端午の節供とは全く関係がない。花あやめと同じような花が咲くカキツバタ(燕子花)は、ショウブと同じように湿地に生育するが、ショウブのように葉の中央部を縦に通る筋がなく、扁平であることで区別がつき、芳香もない。同じような環境に生育するハナショウブはすべて園芸品種である。その原種のノハナショウブがあるにはあるが、滅多に見られない。
それに対して端午のショウブは、地下茎や葉を揉むと爽やかに香る。また湿地や池沼に群生する。花は緑色の蒲(がま)の穂かヤングコーンのような形で、花あやめとは似ても似つかない地味なものである。しかもサトイモ科であるというが、里芋の葉とは全く似ていない。現在では新暦五月になると店頭に並んでいるが、田舎の湿地には持て余すほどに群生していて、店で買うものではなかった。私は今でもその時期になると採りに行くし、庭にも植えてある。
既述したように、『荊楚歳時記』には端午節に菖蒲を細かく刻み、酒に浮かべて飲む菖蒲酒の風習が記されている。室町時代の百科事典『壒嚢鈔(あいのうしよう)』には、「菖蒲の根七茎を取て、長さ一寸にして酒中に漬け之を服す」と記されている。『荊楚歳時記』には菖蒲酒の効能については記されていないが、初唐に編纂されて日本にも伝えられ、日本の知識人や官僚達が座右において、何かにつけて参考にした百科事典である『芸文類聚(げいもんるいじゆう)』(巻八一)には、『神仙伝』という書物を引用して、次のような話が記されている。ある時、漢の武帝が高い山に登ったところ、仙人が忽然と現れ、菖蒲を服用すれば長生できると聞いたので採りに来たと言うなり、忽然と消えたという。つまり菖蒲は長寿をもたらす仙薬であると理解されていたわけである。当時の日本の知識人は当然この話を知っていた。菅原道真撰とされる『新撰万葉集』(六一番歌)と一〇世紀に成立した私撰和歌集『古今和歌六帖』(第一、歳事一〇四番歌)双方に収められている「あやめ草いくつの五月逢ひぬらむ来る年ごとに稚(わか)く見ゆれば」という歌は、日本でも菖蒲が不老長寿の霊力を持つものと理解されていたことを示している。その後日本では、菖蒲の根(実際には地下茎)の長さを長寿によそえて、根の長さを競う根合わせが行われるようになる。寛治七年(一〇九三)五月の『郁芳門院根合』には、「君が代のながき例(ためし)に引けとてや淀のあやめの根ざしそめけむ」という歌があり、菖蒲の根の長さが長寿の予祝として詠まれている。このような菖蒲の「根」にこだわった風習は日本独自のものである。
『万葉集』には菖蒲を詠んだ歌は一二首あるが、そのうち四首は縵(かづら)にすることを詠んでいる。縵(かづら)とは、花や枝葉を髪や冠に挿して長寿や魔除けの呪いとするもののことで、菖蒲の他にも柳・梅・桜など様々な例がある。この縵について、奈良時代の『続日本紀』(巻一七)には、興味深い元正上皇の詔が記されている。「天平十九年五月庚辰(五日)・・・・この日、太上天皇(元正上皇)詔して曰く。昔は五月の節、常に菖蒲を縵(かづら)として用ふ。比来(近頃)已(すで)にこの事停(や)む。今より而後(じご)、菖蒲縵(あやめのかづら)にあらざる者は宮中に入るなかれ」。「昔は五月五日には菖蒲縵(あやめのかづら)を用いていたのに、この頃は行われなくなったので、今後は菖蒲縵を着けていない者は宮中に入ってはならない」、というのである。六八〇年生まれの元正上皇が「昔は」と言うからには、七世紀にはそのように行われていたのであろう。ただし菖蒲縵の風習は中国の文献には見当たらず、日本独自のものであるが、この風習も現在はすっかり絶えてしまった。
同じく絶えてしまった菖蒲の風習に、菖蒲枕というものがある。その形状を示す図がないので詳しくはわからないが、江戸時代の後水尾上皇が編纂した『後水尾院当世年中行事』(五月四日)には、「あやめの御枕、薄やうにつゝむ・・・・其(その)様(よう)、あやめを丈(たけ)五六寸ばかりに切て、五寸廻りばかりに跡(あと)さき(後前)をかうひねり(紙ひねり?)にて結びて、両方の小口に蓬を挿(さ)しはさむ」と記されているから、菖蒲の葉を長さ十数㎝、直径約五㎝の束にして切り揃え、両端を紐で縛り、小口に蓬を挿し挟み、薄手の和紙で包んだものらしい。時代により形状は多少異なったであろうが、要するに菖蒲の葉を束にして切り揃え、枕として用いたり、枕の下に敷いたのであろう。
一七世紀後半の『日次紀事』には、「女児、菖蒲を頭髪に挿し、長命縷(ちようめいる)(五色の糸を編んだ組紐)を背後に繋ぐ」と記され、同時期の『日本歳時記』には、「また今日(五月五日)、婦人女子たはふれに菖蒲を頭上に挿(さしはさ)み、また腰にまとふ。此の如くすれば病を除くと俗にいひならはせり」と記され、『五節供稚童講釈』には「続日本紀にあやめの鬘(かづら)といふ事あり。今も女中の髷(まげ)に菖蒲を結び給ふは、あやめの鬘に似たる事なり」と記されている。『諸国風俗問状答』の淡路国からの報告には、「菖蒲にて髪を結、酒にひたし、また寝所に敷、蚤の咒(まじない?)と云ふ所も有」と記されている。菖蒲で髪を結うのは菖蒲縵の名残であり、寝床に敷くのは菖蒲枕の変形であろう。
近年まで続いていた菖蒲の風習としては、「軒のあやめ」がある。平安時代には邪気を祓う呪いとして、菖蒲と蓬を軒先に隙間なく挿す風習が広く行われていた。『古今和歌集』以後の和歌集には、軒の菖蒲を詠んだ歌が数え切れない程残されている。また『枕草子』には、「節(せち)は五月にしく(及ぶもの)はなし。菖蒲蓬などの香りあひたるも、いみじうをかし。九重(内裏)の内をはじめて、言ひ知らぬたみしかはらの住みか(賤しい者の家)まで、いかで我がもとに繁く葺かむと葺きわたしたる、なほいとめづらしく(大層素晴らしく)・・・・」と記されている。これは「軒のあやめ」と呼ばれ、江戸時代までは普通に行われていた。軒のあやめについては、『東京風俗志』には、「今は殆ど廃れぬ」と記されている。しかし大正生まれの私の親の世代は経験があると話していたから、地域によっては行われていたのであろう。
唯一現代でも変わらずに行われているのが菖蒲湯の風習である。その起源について『荊楚歳時記』には、「五月五日、之を浴蘭節(よくらんせつ)と謂ふ」記されている。この「蘭」とはフジバカマのことで、生の葉を揉むと芳香があり、特に生乾きの時によく匂うので、現代でも入浴剤代わりに利用されることがある。桜餅の桜の葉と同じ香りがするが、クマリンという芳香成分が共通しているという。室町時代初期の百科事典『拾芥抄』には、「五月五日、是日蘭を採り、水を以て之を煮て、沐浴を為(な)す。人をして甲兵を辟除し、悪気を攘却せしむ」と記されていて、その芳香により邪気を祓おうとしたのである。室町時代の公卿万里小路(までのこうじ)時房の日記『建内記』(文安元年五月)には、「五日・・・・蒲節幸甚(こうじん)々々(大層結構なことである)、蘭湯に沐す。壽酒祝著例の如し」と記されていて、フジバカマの湯を浴びているのだが、面白いことにその前年の嘉吉三年五月五日には、「蒲節幸甚、蒲葉に浴し、蒲根を飲む。昨夕蒲根一雙、甘露寺より芳志あり。毎年易(かわ)らざるの儀也」と記されている。毎年菖蒲の根を届けてくれるので、菖蒲湯を浴び、菖蒲酒を飲んだというのである。同じく公卿の三条西実隆の日記『実隆公記』(文亀三年五月)には、「五日・・・・蘭湯蒲酒之興、例の如し」と記され、それ以前にも以後にも同じようにしばしば記されている。このように室町時代には蘭浴の例もあるにはあるが、日本では同じ香草の菖蒲の方が好まれた。室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には「五日・・・・御祝御湯参る。御湯に先夜しなひ候蓬菖蒲入也」と記され、同じく永正八年以降に成立した『年中定例記』には、「昌蒲の御湯の御行水あり」と記されている。室町時代後期の『世諺問答』にも記されていているから、室町時代には公家や在京武家の風習として定着していたようである。一般庶民に広まったのはもちろん江戸時代のことで、『五節供稚童講釈』には、「唐土(もろこし)にて五月五日には蘭湯(らんとう)とて、蘭を湯に沸かして浴びる事あり。日本にて菖蒲湯を浴びるは、彼の蘭の湯に似たる事にて、邪気を祓ひ、悪しき風邪をひかざる薬のためにするなり」と記されている。
菖蒲湯の風習は、歳時記や地域によって四日から六日まで様々であり、あまり五日にこだわりはなかった。『俳諧歳時記栞草』には「六日菖蒲(むいかのあやめ) 京師(けいし)(京都)、屋檐(のき)に葺くところの菖蒲を取て、六日に菖蒲湯となす。五日の夜の露を受る物を用ふ」と記されている。ただし時機に後れて役に立たないことを、「六日の菖蒲、十日の菊」という諺があるが、これとは全く関係はなさそうである。『東京風俗志』には、「此日都下の湯屋にては、其前日より菖蒲湯を設く」と記されている。
蓬(艾)については、『荊楚歳時記』本文には、「五月五日・・・・艾(よもぎ)を採りて以て人を為(つく)り、門戸の上に懸け、以て毒気を禳(はら)ふ」と記され、その註釈として、五月五日の未明に艾を採り、灸にに用いると効き目があると記されている。蓬には菖蒲と同様に強い香りがあり、それが邪気を祓うと理解されたのであろう。実際、蓬には薬功があり、現在でも灸として据える艾(もぐさ)や漢方薬として用いられている。 菖蒲と共に邪気を祓うという風習はそのまま日本にも伝えられ、『万葉集』(四一一六番歌)には大伴家持が次のように詠んでいる。「大王(おおきみ)の任(まき)のまにまに・・・・霍公鳥(ほととぎす)来鳴く五月の菖蒲(あやめぐさ)蓬(よもぎ)蔓(かづら)き酒宴(さかみづき)遊び慰(な)ぐれど・・・・」。この歌は端午の節供の場面ではないが、五月の酒宴の場で菖蒲と蓬を冠に挿していたことがわかる。そしてその風習は奈良時代以来、江戸時代までは普通に継承され、現在でも一部では行われているのは驚くべきことである。それでも一方では草が生い茂って荒れ果てた屋敷を「蓬生(よもぎう)」「蓬が宿」というように、蓬には荒廃した庭に生える草という印象が伴う。そのためか蓬は菖蒲に比べると、端午の節供では脇役的存在なのである。やはり上巳の節供の草餅の方が、蓬には相応しいのであろう。
2021年、清水書院から『史料が語る年中行事の起原 伝承論・言い伝え説の虚構を衝く』という本を自費出版しました。私の本職は高校の日本史の教諭で、伝統的年中行事についても、授業で少しは学習します。それで教材研究のため、伝統的年中行事の解説書を読み漁ったのですが、例外なしに「・・・・と伝えられている」「・・・・と言われている」というだけで、文献史料に裏付けられていないことに疑問を感じました。これでは再検証しようとしても、検証のしようがありません。
ほとんどの伝統的年中行事の解説書は、民俗学的著述を参考にしているようでした。そしてそこに大きな問題点を感じました。民俗学では文献史料よりも、近年に採録された伝承が重視される傾向があります。しかしそれでは行事の起原に関しては検証できないのではと思ったのですが、それは歴史的年中行事といえども歴史の一部であるからです。それで数年かけて伝統的年中行事の裏付けとなる文献史料を読み漁ると、解説書に説かれていることと全く違うことが次第に明らかになってきたではありませんか。その結果、私は危機感を懐くようになりました。このまま放置しておけば、日本の伝統的年中行事は、歪んだまま伝えられてしまうのではないかと。それで何とかしなければと、それまでに書きためていたことをまとめて、上記の拙著を出版したわけです。
しかし今から改めて読みなおしてみると、私の学力と経験不足から、あまりにも初歩的な誤解・誤読が沢山見つかり、恥ずかしい限りです。言い訳になりますが、専門の研究者ではありません。歴史学会で通用するような学術論文を発表したこともなければ、学会に所属したこともありません。まあ素人よりも日本史について勉強はした程度の者です。そのような私が未熟を承知で出版を急いだわけは、自分の健康状態を考えると、余生が長くはないと焦ったからでした。それでとにかく一石を投じておきたい。取り敢えず種を播いておきさえすれば、いずれ力のある研究者がそれに啓発されて、流布している誤った説を正してくれるのではないかと思ったのです。
もう後期高齢者ですから、さらに時間の余裕がなくなりつつあります。年金生活者には、改訂版を自費出版する経済的余裕もありません。再出版が無理ならば、せめて間違いの多い拙著の問題点を訂正し、新史料を追加したデジタル情報をネット上に残しておけば、誰かが活用してくれるのではと希望を持っています。
そうはいうものの、多少は改善されても、専門の研究者から見れば、まだまだ問題点は多いことでしょう。歴史的根拠に裏付けされた批判は、甘んじて受けます。しかしどうぞ私の切羽詰まった事情をお察し下さいますよう、お願い致します。
今後は「史料が語る年中行事の起原 改訂版」という題で、章や節に区分し、順次公表していきます。通し番号を付けておきますので、順に御覧下さい。間違いがあれば、どうぞ御遠慮無くコメントで教えて下さい。全ては、正しい伝統的年中行事を次の世代に伝えていくためなのですから。
令和七年 四月