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うたことば歳時記

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ブログ引っ越しのお知らせ

2025-06-08 18:36:41 | その他
gooブログ終了に伴い引っ越しをしました。
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引っ越し先は下記リンクよりどうぞ

https://utakotoba-saijiki.hatenablog.com/

改訂版『史料が語る年中行事の起原』第25回 端午の節供(7回目) 端午の菖蒲

2025-06-06 13:38:48 | その他
端午の菖蒲
 現在の端午の節句では影が薄くなってしまったが、かつての端午の節供では、菖蒲が主役として色々な場面で用いられていた。しかし植物としてのショウブを外見だけ見分けることは、現代人にとっては簡単ではない。古くは「菖蒲」と書いて「あやめ」と訓むことが多く、紫色の花が咲く「花あやめ」だと思い込んでいる人がかなりいる。しかし花あやめの葉は菖蒲と区別ができない程よく似ているが、葉や茎に芳香がなく、湿地には絶対に生育しない。現代のこどもの日の情景を描いた絵図には、よくこの紫色のあやめの花が描かれているが、これは本来は端午の節供とは全く関係がない。花あやめと同じような花が咲くカキツバタ(燕子花)は、ショウブと同じように湿地に生育するが、ショウブのように葉の中央部を縦に通る筋がなく、扁平であることで区別がつき、芳香もない。同じような環境に生育するハナショウブはすべて園芸品種である。その原種のノハナショウブがあるにはあるが、滅多に見られない。
 それに対して端午のショウブは、地下茎や葉を揉むと爽やかに香る。また湿地や池沼に群生する。花は緑色の蒲(がま)の穂かヤングコーンのような形で、花あやめとは似ても似つかない地味なものである。しかもサトイモ科であるというが、里芋の葉とは全く似ていない。現在では新暦五月になると店頭に並んでいるが、田舎の湿地には持て余すほどに群生していて、店で買うものではなかった。私は今でもその時期になると採りに行くし、庭にも植えてある。
 既述したように、『荊楚歳時記』には端午節に菖蒲を細かく刻み、酒に浮かべて飲む菖蒲酒の風習が記されている。室町時代の百科事典『壒嚢鈔(あいのうしよう)』には、「菖蒲の根七茎を取て、長さ一寸にして酒中に漬け之を服す」と記されている。『荊楚歳時記』には菖蒲酒の効能については記されていないが、初唐に編纂されて日本にも伝えられ、日本の知識人や官僚達が座右において、何かにつけて参考にした百科事典である『芸文類聚(げいもんるいじゆう)』(巻八一)には、『神仙伝』という書物を引用して、次のような話が記されている。ある時、漢の武帝が高い山に登ったところ、仙人が忽然と現れ、菖蒲を服用すれば長生できると聞いたので採りに来たと言うなり、忽然と消えたという。つまり菖蒲は長寿をもたらす仙薬であると理解されていたわけである。当時の日本の知識人は当然この話を知っていた。菅原道真撰とされる『新撰万葉集』(六一番歌)と一〇世紀に成立した私撰和歌集『古今和歌六帖』(第一、歳事一〇四番歌)双方に収められている「あやめ草いくつの五月逢ひぬらむ来る年ごとに稚(わか)く見ゆれば」という歌は、日本でも菖蒲が不老長寿の霊力を持つものと理解されていたことを示している。その後日本では、菖蒲の根(実際には地下茎)の長さを長寿によそえて、根の長さを競う根合わせが行われるようになる。寛治七年(一〇九三)五月の『郁芳門院根合』には、「君が代のながき例(ためし)に引けとてや淀のあやめの根ざしそめけむ」という歌があり、菖蒲の根の長さが長寿の予祝として詠まれている。このような菖蒲の「根」にこだわった風習は日本独自のものである。
 『万葉集』には菖蒲を詠んだ歌は一二首あるが、そのうち四首は縵(かづら)にすることを詠んでいる。縵(かづら)とは、花や枝葉を髪や冠に挿して長寿や魔除けの呪いとするもののことで、菖蒲の他にも柳・梅・桜など様々な例がある。この縵について、奈良時代の『続日本紀』(巻一七)には、興味深い元正上皇の詔が記されている。「天平十九年五月庚辰(五日)・・・・この日、太上天皇(元正上皇)詔して曰く。昔は五月の節、常に菖蒲を縵(かづら)として用ふ。比来(近頃)已(すで)にこの事停(や)む。今より而後(じご)、菖蒲縵(あやめのかづら)にあらざる者は宮中に入るなかれ」。「昔は五月五日には菖蒲縵(あやめのかづら)を用いていたのに、この頃は行われなくなったので、今後は菖蒲縵を着けていない者は宮中に入ってはならない」、というのである。六八〇年生まれの元正上皇が「昔は」と言うからには、七世紀にはそのように行われていたのであろう。ただし菖蒲縵の風習は中国の文献には見当たらず、日本独自のものであるが、この風習も現在はすっかり絶えてしまった。
 同じく絶えてしまった菖蒲の風習に、菖蒲枕というものがある。その形状を示す図がないので詳しくはわからないが、江戸時代の後水尾上皇が編纂した『後水尾院当世年中行事』(五月四日)には、「あやめの御枕、薄やうにつゝむ・・・・其(その)様(よう)、あやめを丈(たけ)五六寸ばかりに切て、五寸廻りばかりに跡(あと)さき(後前)をかうひねり(紙ひねり?)にて結びて、両方の小口に蓬を挿(さ)しはさむ」と記されているから、菖蒲の葉を長さ十数㎝、直径約五㎝の束にして切り揃え、両端を紐で縛り、小口に蓬を挿し挟み、薄手の和紙で包んだものらしい。時代により形状は多少異なったであろうが、要するに菖蒲の葉を束にして切り揃え、枕として用いたり、枕の下に敷いたのであろう。
 一七世紀後半の『日次紀事』には、「女児、菖蒲を頭髪に挿し、長命縷(ちようめいる)(五色の糸を編んだ組紐)を背後に繋ぐ」と記され、同時期の『日本歳時記』には、「また今日(五月五日)、婦人女子たはふれに菖蒲を頭上に挿(さしはさ)み、また腰にまとふ。此の如くすれば病を除くと俗にいひならはせり」と記され、『五節供稚童講釈』には「続日本紀にあやめの鬘(かづら)といふ事あり。今も女中の髷(まげ)に菖蒲を結び給ふは、あやめの鬘に似たる事なり」と記されている。『諸国風俗問状答』の淡路国からの報告には、「菖蒲にて髪を結、酒にひたし、また寝所に敷、蚤の咒(まじない?)と云ふ所も有」と記されている。菖蒲で髪を結うのは菖蒲縵の名残であり、寝床に敷くのは菖蒲枕の変形であろう。
 近年まで続いていた菖蒲の風習としては、「軒のあやめ」がある。平安時代には邪気を祓う呪いとして、菖蒲と蓬を軒先に隙間なく挿す風習が広く行われていた。『古今和歌集』以後の和歌集には、軒の菖蒲を詠んだ歌が数え切れない程残されている。また『枕草子』には、「節(せち)は五月にしく(及ぶもの)はなし。菖蒲蓬などの香りあひたるも、いみじうをかし。九重(内裏)の内をはじめて、言ひ知らぬたみしかはらの住みか(賤しい者の家)まで、いかで我がもとに繁く葺かむと葺きわたしたる、なほいとめづらしく(大層素晴らしく)・・・・」と記されている。これは「軒のあやめ」と呼ばれ、江戸時代までは普通に行われていた。軒のあやめについては、『東京風俗志』には、「今は殆ど廃れぬ」と記されている。しかし大正生まれの私の親の世代は経験があると話していたから、地域によっては行われていたのであろう。
 唯一現代でも変わらずに行われているのが菖蒲湯の風習である。その起源について『荊楚歳時記』には、「五月五日、之を浴蘭節(よくらんせつ)と謂ふ」記されている。この「蘭」とはフジバカマのことで、生の葉を揉むと芳香があり、特に生乾きの時によく匂うので、現代でも入浴剤代わりに利用されることがある。桜餅の桜の葉と同じ香りがするが、クマリンという芳香成分が共通しているという。室町時代初期の百科事典『拾芥抄』には、「五月五日、是日蘭を採り、水を以て之を煮て、沐浴を為(な)す。人をして甲兵を辟除し、悪気を攘却せしむ」と記されていて、その芳香により邪気を祓おうとしたのである。室町時代の公卿万里小路(までのこうじ)時房の日記『建内記』(文安元年五月)には、「五日・・・・蒲節幸甚(こうじん)々々(大層結構なことである)、蘭湯に沐す。壽酒祝著例の如し」と記されていて、フジバカマの湯を浴びているのだが、面白いことにその前年の嘉吉三年五月五日には、「蒲節幸甚、蒲葉に浴し、蒲根を飲む。昨夕蒲根一雙、甘露寺より芳志あり。毎年易(かわ)らざるの儀也」と記されている。毎年菖蒲の根を届けてくれるので、菖蒲湯を浴び、菖蒲酒を飲んだというのである。同じく公卿の三条西実隆の日記『実隆公記』(文亀三年五月)には、「五日・・・・蘭湯蒲酒之興、例の如し」と記され、それ以前にも以後にも同じようにしばしば記されている。このように室町時代には蘭浴の例もあるにはあるが、日本では同じ香草の菖蒲の方が好まれた。室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には「五日・・・・御祝御湯参る。御湯に先夜しなひ候蓬菖蒲入也」と記され、同じく永正八年以降に成立した『年中定例記』には、「昌蒲の御湯の御行水あり」と記されている。室町時代後期の『世諺問答』にも記されていているから、室町時代には公家や在京武家の風習として定着していたようである。一般庶民に広まったのはもちろん江戸時代のことで、『五節供稚童講釈』には、「唐土(もろこし)にて五月五日には蘭湯(らんとう)とて、蘭を湯に沸かして浴びる事あり。日本にて菖蒲湯を浴びるは、彼の蘭の湯に似たる事にて、邪気を祓ひ、悪しき風邪をひかざる薬のためにするなり」と記されている。
 菖蒲湯の風習は、歳時記や地域によって四日から六日まで様々であり、あまり五日にこだわりはなかった。『俳諧歳時記栞草』には「六日菖蒲(むいかのあやめ) 京師(けいし)(京都)、屋檐(のき)に葺くところの菖蒲を取て、六日に菖蒲湯となす。五日の夜の露を受る物を用ふ」と記されている。ただし時機に後れて役に立たないことを、「六日の菖蒲、十日の菊」という諺があるが、これとは全く関係はなさそうである。『東京風俗志』には、「此日都下の湯屋にては、其前日より菖蒲湯を設く」と記されている。
 蓬(艾)については、『荊楚歳時記』本文には、「五月五日・・・・艾(よもぎ)を採りて以て人を為(つく)り、門戸の上に懸け、以て毒気を禳(はら)ふ」と記され、その註釈として、五月五日の未明に艾を採り、灸にに用いると効き目があると記されている。蓬には菖蒲と同様に強い香りがあり、それが邪気を祓うと理解されたのであろう。実際、蓬には薬功があり、現在でも灸として据える艾(もぐさ)や漢方薬として用いられている。 菖蒲と共に邪気を祓うという風習はそのまま日本にも伝えられ、『万葉集』(四一一六番歌)には大伴家持が次のように詠んでいる。「大王(おおきみ)の任(まき)のまにまに・・・・霍公鳥(ほととぎす)来鳴く五月の菖蒲(あやめぐさ)蓬(よもぎ)蔓(かづら)き酒宴(さかみづき)遊び慰(な)ぐれど・・・・」。この歌は端午の節供の場面ではないが、五月の酒宴の場で菖蒲と蓬を冠に挿していたことがわかる。そしてその風習は奈良時代以来、江戸時代までは普通に継承され、現在でも一部では行われているのは驚くべきことである。それでも一方では草が生い茂って荒れ果てた屋敷を「蓬生(よもぎう)」「蓬が宿」というように、蓬には荒廃した庭に生える草という印象が伴う。そのためか蓬は菖蒲に比べると、端午の節供では脇役的存在なのである。やはり上巳の節供の草餅の方が、蓬には相応しいのであろう。

2021年、清水書院から『史料が語る年中行事の起原 伝承論・言い伝え説の虚構を衝く』という本を自費出版しました。私の本職は高校の日本史の教諭で、伝統的年中行事についても、授業で少しは学習します。それで教材研究のため、伝統的年中行事の解説書を読み漁ったのですが、例外なしに「・・・・と伝えられている」「・・・・と言われている」というだけで、文献史料に裏付けられていないことに疑問を感じました。これでは再検証しようとしても、検証のしようがありません。
 ほとんどの伝統的年中行事の解説書は、民俗学的著述を参考にしているようでした。そしてそこに大きな問題点を感じました。民俗学では文献史料よりも、近年に採録された伝承が重視される傾向があります。しかしそれでは行事の起原に関しては検証できないのではと思ったのですが、それは歴史的年中行事といえども歴史の一部であるからです。それで数年かけて伝統的年中行事の裏付けとなる文献史料を読み漁ると、解説書に説かれていることと全く違うことが次第に明らかになってきたではありませんか。その結果、私は危機感を懐くようになりました。このまま放置しておけば、日本の伝統的年中行事は、歪んだまま伝えられてしまうのではないかと。それで何とかしなければと、それまでに書きためていたことをまとめて、上記の拙著を出版したわけです。
 しかし今から改めて読みなおしてみると、私の学力と経験不足から、あまりにも初歩的な誤解・誤読が沢山見つかり、恥ずかしい限りです。言い訳になりますが、専門の研究者ではありません。歴史学会で通用するような学術論文を発表したこともなければ、学会に所属したこともありません。まあ素人よりも日本史について勉強はした程度の者です。そのような私が未熟を承知で出版を急いだわけは、自分の健康状態を考えると、余生が長くはないと焦ったからでした。それでとにかく一石を投じておきたい。取り敢えず種を播いておきさえすれば、いずれ力のある研究者がそれに啓発されて、流布している誤った説を正してくれるのではないかと思ったのです。
 もう後期高齢者ですから、さらに時間の余裕がなくなりつつあります。年金生活者には、改訂版を自費出版する経済的余裕もありません。再出版が無理ならば、せめて間違いの多い拙著の問題点を訂正し、新史料を追加したデジタル情報をネット上に残しておけば、誰かが活用してくれるのではと希望を持っています。
 そうはいうものの、多少は改善されても、専門の研究者から見れば、まだまだ問題点は多いことでしょう。歴史的根拠に裏付けされた批判は、甘んじて受けます。しかしどうぞ私の切羽詰まった事情をお察し下さいますよう、お願い致します。
 今後は「史料が語る年中行事の起原 改訂版」という題で、章や節に区分し、順次公表していきます。通し番号を付けておきますので、順に御覧下さい。間違いがあれば、どうぞ御遠慮無くコメントで教えて下さい。全ては、正しい伝統的年中行事を次の世代に伝えていくためなのですから。
令和七年 四月



「維新三傑」の死 日本史授業に役立つ小話・小技 82

2025-06-03 12:27:46 | 私の授業
82、「維新三傑」の死
 一般に「維新三傑」に数えられるのは、西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通の三人とされています。どこかで選ばれたわけではないのですが、明治11年、つまり大久保が殺された年には、既に大久保・木戸・西郷の伝記をまとめた岩村吉太郎編『皇国三傑伝』が刊行されていましたから、それ以後そのような理解が国民の共通理解となっていたのでしょう。西郷が逆賊の汚名を雪いで名誉を回復されたのは、明治憲法発布に伴う大赦でしたから、明治22年のことです。大久保政権が西郷を逆賊と見做したのは、その経緯からやむを得なかったとしても、国民感情としては必ずしもそうではなく、早い時期から「維新三傑」に数えられていたのでしょう。ウィキペディア情報で申し訳ないのですが、前越前藩主の松平春嶽は、「御一新の功労に智仁勇があった。智勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷である。この三人がいなければ、いかに三条公岩倉公の精心あるとも貫徹はしなかった」と回想しているそうです。
 最初に亡くなるのは木戸孝允です。西南戦争が始まると、政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督に任命し、木戸は明治天皇に扈従して京都に行きます。この時木戸は既に重度の大腸癌だったのですが、5月26日、京都の別邸で亡くなりました。臨終で意識が薄れゆく中、大久保の手を握りながら、「西郷もいいかげんにせんか」と漏らしたとされています。享年は45歳、満年齢なら43歳でしたから、まだまだ活躍して欲しい年齢でした。西郷が亡くなったのは9月24日で、享年は51歳、満年齢なら49歳でした。大久保が亡くなったのは翌年明治11年5月14日のことでした。馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近付近で、石川県士族島田一郎ら6人の不平士族により惨殺されました。享年は49歳、満年齢なら47歳です。
 こうしてこの三人は明治10年から翌年に掛けて、立て続けに亡くなるのですが、授業ではその順番と最期の様子が亡くなった順を理解するのに重要であると話します。幕末から西南戦争までの政局は、間違いなくこの三人が重要な役目を務めていました。そして大久保が失われた後の政局の中心になったのは、伊藤博文と大隈重信でした。明治六年の政変に続く民撰議院設立建白を契機に、既に自由民権運動が始まっていましたが、大久保亡き後は、早期に国会開設を主張する大隈重信と、議会の必要は認めつつも、漸次に君主権の強い憲法の制定を主張する伊藤が対立をし、明治十四年の政変へとつながって行くのです。政府要人の死が政局を左右することは当然のことですが、ここまで明確に決定的に影響を与えたのは、実に珍しいことと思います。この三人の死の順番が狂えばどんなことになっていたのでしょう。西郷が死んで西南戦争が終わったことは誰もが当たり前に理解できます。そしておそらくは西郷の死に限り無く同情する不平士族の恨みをかって、大久保が翌年に殺されたこと。また木戸の臨終の言葉を理解しておけば、政局の流れを理解しやすくなるはずです。授業者にとっては余りにも当たり前のことですが、生徒は木戸の臨終の様子は知らないでしょう。

改訂版『史料が語る年中行事の起原』第24回 端午の節供(6回目) 端午の節供は女性の節供?

2025-06-02 08:34:04 | 『史料が語る年中行事の起原』
端午の節供は女性の節供?
 江戸時代の端午は男児のための節供であったが、民俗学者がそれとは逆に、端午は女性のための節供であったという説を唱えている。柳田國男の弟子和歌森太郎は、その著書『花と日本人』の中の「花の来世とうつし世と」で、次のように述べている。「五月五日の節供は、この時代まだ男児のそれではない。サツキとして、サナエをもって田に植える月、サオトメを中心にして、精進のための忌籠りの一夜を過ごすことに由来する節供であったから、どちらかといえば女性にとっての節供なのである。その前日、忌籠りのために、悪邪の魔鬼を追いはらうので、においの強い菖蒲の葉を家の軒に葺いたものである」、というのである。
 この書物は雑誌『草月』に連載された文章をまとめた単行本で、華道に関係ある多くの人が読んだ。そのためその影響は大きく、さらに尾鰭が付いておよそ次のような解説が定説のように流布している。
旧暦の五月は田植の月で、昔は早乙女と呼ばれる若い女性がするものであった。田植は神事であり、早乙女たちは田植の前に、男性が戸外に出払った菖蒲を葺いた屋根のある小屋に集まり、穢(けがれ)を祓って身を清めた。これを「五月忌(さつきいみ)」と呼び、女性が大切にされる日であった。日本の端午の節供は、この五月忌と中国から伝えられた端午の風習が、習合したものだと言われている、というのである。誰もが男児の節供と思っているところに、「実はその反対であった」というのは話としては面白く、誰もが興味を覚えることであろう。しかしそのような風習がいつ頃始まりいつ頃まで続いていたのか、その時期については何一つ言及されていないだけでなく、そのことを証明する文献史料は、現在に至るまで何一つ提示されていない。ただ和歌森太郎の引用部分にある「この時代」というのは、引用部前後の文脈から平安時代と思われる。
 この説の鍵は「五月忌(さつきいみ)」という言葉にある。もちろん現代の古語辞典類には「五月忌」という言葉は一切見当たらない。江戸時代の膨大な口語辞典である『俚言集覧(りげんしゆうらん)』には、「さつき忌 五月の婚を忌むを云・・・・五月に初めて逢ふ事を忌むよし、伊勢物語宇津ほ物語などにも見えていと古し・・・・」と記されている。つまり「五月には女性と逢ったり結婚することを忌む」という意味で、『伊勢物語』や『宇津保物語』にも記される古い言葉であるという。『宇津保物語』の「藤原の君」には、「かく、人の忌ましむる五月は往(い)ぬ。今はかのことなし給へ」という場面がある。これは「もう人が結婚を忌むという五月は過ぎた。さあ、あのこと(結婚)を進めるのだ」という意味である。『源氏物語』の「蛍」の巻にも「兵部卿宮(ひようぶきようのみや)などは・・・・五月雨になりぬる愁(うれ)えをしたまひて」と記されているが、これはその「五月忌」を指している。江戸時代の膨大な百科事典的随筆『嬉遊笑覧』には「五月忌」について、「今世も正五九月には婚姻を忌む。これを齋月(いみづき)といふ」と記され、『俚言集覧』とほぼ同様である。そして和歌森の説くような「五月忌」はその片鱗さえ見当たらない。「葺き籠もり」という言葉で説明する解説書もあるが、『俚言集覧』にも『和訓の栞』にもそのような言葉はない。とにかく古典的文献史料の中から、早乙女が田植に先立って菖蒲を葺いた小屋に集まって潔斎(けつさい)をするという「五月忌」「葺き籠もり」の例文は、未だかつて一つも提示されたことはない。あると言うなら、一例でもよいから見せて欲しい。それがないのに、「早乙女たちは田植の前に、男性が戸外に出払った菖蒲をふいた屋根のある小屋に集まり、穢を祓って身を清めた」などと、まるで昨日見てきたかのように具体的な様子がなぜわかるのだろうか。
 そもそも軒に菖蒲を葺く風習は、奈良時代には確認できない。『万葉集』には菖蒲を詠んだ歌は一二首あるが、軒に葺く歌は一首もない。「菖蒲を葺いた小屋に女達が忌み籠もる」というなら、それは平安時代以降のことである。ならば平安時代に菖蒲を葺いた小屋に女達が「五月忌」で籠もったことを示す史料はいったい何所にあるというのか。
 確かに全国各地に、五月五日やその前夜に「女の宿」「女天下」「女の家」という行事が行われているという、民俗学的調査報告があるという。しかし伝承や現代に採録された民俗的事例を、初期の端午の節供にまで遡らせることには無理がある。伝承ではいつまで遡れるか全くわからないし、検証のしようがないではないか。ある人が提唱したことでも、世代が重なれば伝承になってしまうのだから、伝承があったことを示す古い証拠がなければ、伝承は根拠にはなり得ないのである。学問の成果とは、第三者が再検証可能でなければ認められないのであって、それができなければ単なる思いつきに過ぎない。
 確かに田植は女性がするものとされていた。そのことは多くの文献や絵画史料によって確認できる。江戸時代後期文化年間の『諸国風俗問状答』には全国各地から約二〇の報告があり、そのほとんどに田植の風俗が記されていて、女性が主役であることは確認できる。しかし田植に備える女性が潔斎して籠もったことを示す史料は何一つない。そもそも田植の時期はそれぞれの地域の気候条件により異なるのであって、端午の節供に行わなければならないのでは、稲の育成に不都合が生じる地域が少なくないはずである。
 端午の節供が女の節供であったということの文献的根拠としては、一八世紀の初めの近松門左衛門の書いた脚本『女殺油地獄』下巻の冒頭部が示されている。それは「葺きなれし、年も庇(ひさし)の蓬菖蒲は家ごとに、幟(のぼり)の音のざわめくは男子児(おのこご)持ちの印かや。・・・・嫁入り先は夫の家、里の棲み処(すみか)も親の家、鏡の家の家ならで、家といふ物なけれども、誰が世に許し定めけむ、五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」という記述である。これは女性にとっては本当に安らぐことのできる場所はどこにもないという「女三界に家なし」という諺を説明する件(くだり)で、端午の節供の日の夜は「女の家」と呼ばれるというのである。この程度の文献史料から、平安時代の「五月忌」の具体的内容をどうして論証できるのか、誰が考えても飛躍しすぎであることは明々白々である。
 江戸時代に五月五日を「女の家」と呼んだのは、実は別な理由があった。前掲の『諸国風俗問状答』の三河国吉田藩からの報告には、「五月五日・・・・この日一日は男子出陣の留守にて、家は女の家なりなどいふなり。但(ただ)、これみな武家のみのこと」と記されている。端午の節供は男児の節供だからこそ、留守番するその日の家を「女の家」と呼ぶわけである。そうすると『東都歳時記』に、「五月・・・・六日、今日婦女子の佳節(せつく)と称して遊楽を事とすれども、未(いまだ)その拠る所を知らず」と記されていることがよく理解できる。五月五日が男児の節供であるからこそ、翌六日は「婦女子の佳節(せつく)」となるが、その由来は不明であるというのである。
 「五月忌」という言葉は我田引水のように曲解されているので、「端午は女の節句」説の根拠にはならない。伝統的年中行事の解説書、特にネット情報には「端午は女の節句」説が氾濫していて、初めて読む人は皆信用してしまう。しかしもともと二〇世紀になって民俗学者によって提唱された新しい解釈であり、その民俗学者さえ根拠となる文献史料を提示していないのである。


2021年、清水書院から『史料が語る年中行事の起原 伝承論・言い伝え説の虚構を衝く』という本を自費出版しました。私の本職は高校の日本史の教諭で、伝統的年中行事についても、授業で少しは学習します。それで教材研究のため、伝統的年中行事の解説書を読み漁ったのですが、例外なしに「・・・・と伝えられている」「・・・・と言われている」というだけで、文献史料に裏付けられていないことに疑問を感じました。これでは再検証しようとしても、検証のしようがありません。
 ほとんどの伝統的年中行事の解説書は、民俗学的著述を参考にしているようでした。そしてそこに大きな問題点を感じました。民俗学では文献史料よりも、近年に採録された伝承が重視される傾向があります。しかしそれでは行事の起原に関しては検証できないのではと思ったのですが、それは歴史的年中行事といえども歴史の一部であるからです。それで数年かけて伝統的年中行事の裏付けとなる文献史料を読み漁ると、解説書に説かれていることと全く違うことが次第に明らかになってきたではありませんか。その結果、私は危機感を懐くようになりました。このまま放置しておけば、日本の伝統的年中行事は、歪んだまま伝えられてしまうのではないかと。それで何とかしなければと、それまでに書きためていたことをまとめて、上記の拙著を出版したわけです。
 しかし今から改めて読みなおしてみると、私の学力と経験不足から、あまりにも初歩的な誤解・誤読が沢山見つかり、恥ずかしい限りです。言い訳になりますが、専門の研究者ではありません。歴史学会で通用するような学術論文を発表したこともなければ、学会に所属したこともありません。まあ素人よりも日本史について勉強はした程度の者です。そのような私が未熟を承知で出版を急いだわけは、自分の健康状態を考えると、余生が長くはないと焦ったからでした。それでとにかく一石を投じておきたい。取り敢えず種を播いておきさえすれば、いずれ力のある研究者がそれに啓発されて、流布している誤った説を正してくれるのではないかと思ったのです。
 もう後期高齢者ですから、さらに時間の余裕がなくなりつつあります。年金生活者には、改訂版を自費出版する経済的余裕もありません。再出版が無理ならば、せめて間違いの多い拙著の問題点を訂正し、新史料を追加したデジタル情報をネット上に残しておけば、誰かが活用してくれるのではと希望を持っています。
 そうはいうものの、多少は改善されても、専門の研究者から見れば、まだまだ問題点は多いことでしょう。歴史的根拠に裏付けされた批判は、甘んじて受けます。しかしどうぞ私の切羽詰まった事情をお察し下さいますよう、お願い致します。
 今後は「史料が語る年中行事の起原 改訂版」という題で、章や節に区分し、順次公表していきます。通し番号を付けておきますので、順に御覧下さい。間違いがあれば、どうぞ御遠慮無くコメントで教えて下さい。全ては、正しい伝統的年中行事を次の世代に伝えていくためなのですから。
令和七年 四月



改訂版『史料が語る年中行事の起原』第23回 端午の節供(5回目) 男児の節供

2025-05-27 13:36:24 | 『史料が語る年中行事の起原』
男児の節供
 既述したように、武士の時代ともいうべき鎌倉時代、「菖蒲」が「尚武」「勝負」に通じることから、端午の節供が「男児の節供」になったわけではなかった。端午の日に天皇が競馬や騎射を御覧になるのは大宝元年には始まり、その後も断続的に続いていた。また印地打と称して石礫(いしつぶて)を投げ合ったり菖蒲刀を振り回す戦(いくさ)ごっこは、平安時代には既に始まっていたし、江戸時代でも行われていた。慶安三年、江戸幕府が「年始嘉節大小名諸士参賀式統令」を発令し、端午の節供もふくめて「五節供」を幕府の式日と定めたことは、端午の節供をさらに「男児の節供」とするのに影響したであろうが、端午の節供の行事は、もともと他の節供と比べて尚武的要素が強かったのである。一般的には、「もともと女性の節供だったが、武士の時代となって男児の節供となった」と説かれることがあるが、史実はそうではない。
 一七世紀後半の京都の歳時記である『日次紀事(ひなみきじ)』には、端午の日の市中の様子が次のように記されている。「市中の家々、菖蒲艾(よもぎ)葉を檐(のき)の間に挿(さ)し、各粽を造りて之を食し、或は互に相贈る。また細かく菖蒲の葉を刻み、酒中に入れて之を飲み、瘟(やまい)を辟(さ)くと云ふ。・・・・また児童、冑・槍・長刀・胞衣(えな)・旌旗(せいき)(幟旗)を門楣(もんび)(門の上の梁)に飾り、柳の木を以て大小の刀を作る。是を菖蒲刀と謂ふ。男児之(これ)を横にして腰に著(着)し、頭巾(ときん)(山伏用の八角形の被り物)を著(着)し、山伏の躰(てい)に倣(なら)ひ、晩に及びて鴨河辺に出て左右に分列し、礫(つぶて)を擲(なげ)て相戦ふ。これを印地と謂ふ。・・・・女児は菖蒲を頭髪に挿し、長命縷(ちようめいる)を背後に繫(つな)ぐ。・・・・今夜大人小児、菖蒲枕を用ゆ」。また『日次紀事』とほぼ同時期の慶長年間から寛文・延宝年間の風俗を記述した『むかしむかし物語』にも、次のように記されている。「五日、節句翌六日は、男子共七歳許(ばかり)より十二三歳迄、大将に成るべき子は兜(かぶと)をかぶり、菖蒲刀をさし、采(さい)を持、供に連(つる)る子共は菖蒲刀を指(さし)、菖蒲にて鉢巻させ、螺(ほら)貝吹きて備立(そなえだて)して、ゐんじゅ切(印地打?)といふ事をして遊ぶ。是軍陣の稽古也」。一七世紀末の『民間年中故事要言』には、「紙冑人朔日(さくじつ)(一日)より五日まで、童の遊に紙の冑を作り、或は板にてもこしらへ、亦は張拔(張子(はりこ))の人形に甲(よろい)させて、弓箭(ゆみや)を持せて、合戦の勢をなさしめて、戸の外に立侍る、これを冑(かぶと)人と云ふ。また紙の旗に色々の絵を書き、または絹にてもこしらえて、これを竿につけて同く立侍るなり。これをのぼりと云ふ」と記されている。
 市民社会が成熟してくると、さすがに流血の市街戦のようなことはなくなったであろうが、子供達は紙や板で鎧兜や武者人形や幟を作り、戦(いくさ)ごっこを楽しんでいたのである。初めのうちはこのように手作りの幟や人形であったものが、雛人形の諸飾りと同じで、職人が作った豪華なものが、仮設の市で売られるようになったのであろう。『東都歳時記』には、「今日(四月二十五日)より五月四日まで、冑人形・菖蒲刀・幟(のぼり)の市立。・・・・その外(ほか)和漢の兵器・鍾馗(しようき)像・武将勇士の人形等を商ふ」と記されている。また成人も親族に男児が生まれると、菖蒲刀と称する装飾的模擬刀を贈って祝っていた。寛政の改革を推進した老中松平定信の伝記である『守国公御伝記』(巻四)には、「寛政三年九月十三日、正室に男子誕生し玉ひ、上下挙(こぞり)て歓抃(かんべん)(喜んで拍手すること)限りなく、・・・・翌年五月初幟の祝式、旗、弓、鉄砲、長柄の槍を飾り玉ふ。・・・・菖蒲兜の類は到来に任せて並べ立玉ひ・・・・」と記されている。寛政三年の松平定信と言えば、事実上幕府の最高権力者であるから、その嫡子の初節供は庶民とは比べられないが、そのような各種の武具を新調して祝う風習は、そのまま江戸の武士に伝染するように伝えられ、参勤交替によって地方の武士にも伝えらたことであろう。また江戸の武士の風習は、作法見習いと称して武家屋敷に奉公する江戸の女性たちにより、そのまま庶民にも広がって行った。『守貞謾稿』(巻二七)には、「菖蒲刀 端午の飾刀にて、親族出生の男子等に之を送る。木刀也。金銀紙等で之を飾る」と記されている。現在でも男児が生まれると武者人形や飾冑を贈ることがあるが、この風習は江戸時代に始まっているのである。
 そのほか男児らしい遊びとして、文化年間の『諸国風俗問状答』の秋田城下からの報告には、「菖蒲と蓬を縄にてからげ縛りて太刀の形になし、これを以て地上を打つによく響くものなり。この日の夜の明けぬに、童部ども、人の門戸を起きよ起きよとて打ち歩く事も候。古の菖蒲切りの余風にて候はん」と報告されている。越後国長岡からは、「男の子供は菖蒲を束ね縄にて巻き、本の太き方にて地を打つに、音の高きを勝とさだむ」と記されている。これは菖蒲打ちという民俗的遊びで、昭和期までは各地に残っていた。
 『東都歳時記』の「端午市井図」は、江戸市中の端午の節供の様子がまるで写真のように活写されているので、丁寧に解読してみよう。左下には立派な門構えがあり二本の毛槍が立てられていることからして、武家屋敷であろう。数メートルはありそうな吹き流しと、一メートル余の鯉幟が一匹揚げられた竿の頂部には、矢車と籠玉が付けられている。籠玉は六芒星の籠目紋が連なっていて、魔除けの意味があった。幅広で丈が短い四半旗(しはんばた)には、辟邪の武神である鍾馗(しようき)が画かれている。路上には紙製の一尺もなさそうな鯉幟を売り歩く男や、柏餅を道路に落としてしまった男児、身の丈に余る「菖蒲刀」を持つ男児もいる。台に粽を載せている親子も見える。天秤棒を担いでいるのは、柏餅用の柏の葉を売る商人であろうか。右下には節供拝賀のため登城する上級武家の行列の先頭が見える。向かいの商家の軒先には菖蒲の葉と蓬が隙間なく葺かれ、店頭には節供用で小ぶりの幟や千成瓢箪(ひようたん)の纏(まとい)が立てられている。右端の鎧兜は菖蒲の葉で飾られた菖蒲冑であろう。幟には上下二つの家紋が染め抜かれているが、上は父方の紋、下は母方の紋であることが多い。軒先には菖蒲と蓬が隙間なく葺かれている。
 このような江戸市中の風習は、参勤交代などにより江戸と地方の交流が行われ、江戸の風習が諸藩に伝われば、次第に全国に広まることになる。一八世紀末の『長崎歳時記』には、「市中の端午の用意とて、家々の軒には萱(かや)に蓬(よもぎ)を取そへ葺ならべ、布(きれ)のぼりとて、一幅または二幅の木綿のぼり、或は布幟いづれも上に家の定紋を染出し、下には雲龍鶴亀其外宝尽(たからづくし)又は鳴戸(なると)の模様などつく。多くは男子壱人毎に壱対をたつ。そのもとには冑立鳥毛鑓(けやり)長刀台笠たて、笠青竜刀などの造り物を立ならぶ。また豪家は物すきにて、五百枚千枚の紙幟を拵(こしら)へ、源平の武者また鍾馗関羽の類、いづれも勇猛の人物を画(えが)きて、きれ幟の傍にたて添るもあり。貧家下賤の族(やから)は、木綿布の類を用ゆる事あたわず。二十枚または三拾枚の紙幟をたつ。また吹きながしあり。あるひは吹貫、または鯉の魚、風車をつくりて、竹竿の頭上にゆひ付る。右切のぼりのした毎には人々鈴を付るゆへ、風を請(うけ)てなる音いさまし」と記されている(『日本庶民生活史料集成』第十五巻所収)
 その後明治時代になると端午の節供に限らず、伝統的年中行事はすっかり廃れてしまった。明治三一年の『風俗画報』一五九号には、「(菖蒲を飾ることについて)慣例を逐ふ者はほとんど稀なり。・・・・(鯉幟は)明治以来一時廃絶の姿なりしが、漸次復興し・・・・」と記されるまでになってしまった。現在行われているこどもの日の風習は、一度廃れてから復興されたものであり、江戸時代の端午の節供の風習そのままではないことに留意しなければならない。





 

2021年、清水書院から『史料が語る年中行事の起原 伝承論・言い伝え説の虚構を衝く』という本を自費出版しました。私の本職は高校の日本史の教諭で、伝統的年中行事についても、授業で少しは学習します。それで教材研究のため、伝統的年中行事の解説書を読み漁ったのですが、例外なしに「・・・・と伝えられている」「・・・・と言われている」というだけで、文献史料に裏付けられていないことに疑問を感じました。これでは再検証しようとしても、検証のしようがありません。
 ほとんどの伝統的年中行事の解説書は、民俗学的著述を参考にしているようでした。そしてそこに大きな問題点を感じました。民俗学では文献史料よりも、近年に採録された伝承が重視される傾向があります。しかしそれでは行事の起原に関しては検証できないのではと思ったのですが、それは歴史的年中行事といえども歴史の一部であるからです。それで数年かけて伝統的年中行事の裏付けとなる文献史料を読み漁ると、解説書に説かれていることと全く違うことが次第に明らかになってきたではありませんか。その結果、私は危機感を懐くようになりました。このまま放置しておけば、日本の伝統的年中行事は、歪んだまま伝えられてしまうのではないかと。それで何とかしなければと、それまでに書きためていたことをまとめて、上記の拙著を出版したわけです。
 しかし今から改めて読みなおしてみると、私の学力と経験不足から、あまりにも初歩的な誤解・誤読が沢山見つかり、恥ずかしい限りです。言い訳になりますが、専門の研究者ではありません。歴史学会で通用するような学術論文を発表したこともなければ、学会に所属したこともありません。まあ素人よりも日本史について勉強はした程度の者です。そのような私が未熟を承知で出版を急いだわけは、自分の健康状態を考えると、余生が長くはないと焦ったからでした。それでとにかく一石を投じておきたい。取り敢えず種を播いておきさえすれば、いずれ力のある研究者がそれに啓発されて、流布している誤った説を正してくれるのではないかと思ったのです。
 もう後期高齢者ですから、さらに時間の余裕がなくなりつつあります。年金生活者には、改訂版を自費出版する経済的余裕もありません。再出版が無理ならば、せめて間違いの多い拙著の問題点を訂正し、新史料を追加したデジタル情報をネット上に残しておけば、誰かが活用してくれるのではと希望を持っています。
 そうはいうものの、多少は改善されても、専門の研究者から見れば、まだまだ問題点は多いことでしょう。歴史的根拠に裏付けされた批判は、甘んじて受けます。しかしどうぞ私の切羽詰まった事情をお察し下さいますよう、お願い致します。
 今後は「史料が語る年中行事の起原 改訂版」という題で、章や節に区分し、順次公表していきます。通し番号を付けておきますので、順に御覧下さい。間違いがあれば、どうぞ御遠慮無くコメントで教えて下さい。全ては、正しい伝統的年中行事を次の世代に伝えていくためなのですから。
令和七年 四月