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テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

新年のごあいさつと、木村摂津守・駿吉父子についての講演のご案内

2012-01-10 01:13:53 | Weblog

 新年を機にブログを再開したいと思います。

 ここ十年来の懸案だった「木村摂津守父子」の物語を書く準備がようやく整い、昨年から書き出した。偶然というか、「幕末史研究会」の小美濃清明さんからお誘いを受けていた木村父子の講演が2月25日(土)に決まった。
 小美濃さんとは遊行フォーラムの高須譜生さんのご紹介で知り合い、木村の本が出てから講演したらという話をいただいていた。しかしいつまでも原稿があがらず、のびのびになってきた。今回はここらで発奮させようという小美濃さん、高須さんのご配慮だと思う。心して準備を進めたい。

 幕末の軍艦奉行木村摂津守喜毅は、勝海舟、福沢諭吉らを率いて初の太平洋横断を成し遂げた幕末の偉人である。しかしその人物、業績についてはほとんど知られていない。
 幕府きっての俊才岩瀬忠震に引き立てられて目付にのぼった木村は、軍艦奉行として幕府海軍の創建に尽力、のちの明治海軍、日本海軍の礎を築いた。その功績は勝海舟にまさるとも劣らない。
 また、咸臨丸の渡米前に一介の陪臣であった福沢諭吉を使節団に加える決断をし、世に出るきっかけを与えたのも彼だった。福沢は終生、木村を尊敬してやまなかった。
 咸臨丸渡航に際して、喜毅は家伝の骨董・美術品を売り払い、借金までして3500両の大金を用意した。いざという時に備えるためと、士官や水夫、火夫の不充分な報酬を補うためだった。
 初の大洋横断は困難をきわめたが、彼の清廉・実直な人柄が、外国人士官、日本人士官、水夫などの融和を保ち、航海とその後のサムライ外交を成功に導く原動力となったのは間違いない。
 帰国後、のちの明治海軍につながる大海軍計画を献策したが、幕末期の混乱の中で陽の目を見なかった。最後は勘定奉行勝手方として、官軍への明け渡しという難事を成し遂げて引退。その後は明治政府の要請にも応じず、一切の公職につかなかったのも彼らしい。
 いわゆる勝者史観によって、明治維新の敗者である幕府側の人物は過小評価されがちである。福沢は生前、喜毅の業績が忘れられていることを嘆いて、「わが国の海軍史上に特筆大書してその功労は遂に埋没すべからず」と記している。しかしこの事情は今も余り変わっていない。

 彼のふたりの子息は二男の浩吉が海軍にはいり、日清戦争の黄海海戦で活躍、のち少将にのぼった。三男駿吉はハーバード大学に留学して数学と物理学を修め、帰国後は第一高等学校、第二高等学校をへたのち海軍に転じて、無線機の開発に従事した。
 日本海海戦において哨艦信濃丸が「敵ノ第二艦隊見ユ」とバルチック艦隊発見の報を打電したのは、彼が技師松代松之助とともに開発した三六式無線機だった。これを秋山真之参謀が「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動コレヲ撃滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ波高シ」とアレンジして大本営に打電したのだった。
 秋山と島村速雄参謀長とは、終戦後ただちに駿吉に深甚な感謝の意をあらわし、凱旋した乃木大将、児玉大将、黒木大将らは打ち揃って彼のもとを訪れ、礼を述べたという。
 ちなみに駿吉は無線事情の調査で渡米した折り、かのニコラ・テスラに面会して無線について教えを乞い、その放電パフォーマンスを目撃している。

 近代日本建設に特筆すべき功績を挙げながら、己を誇らず、出処進退をわきまえた一人のサムライと、その意志を継いだ父子の物語は近日大公開というわけで、本年もよろしくお願いいたします。

「幕末史研究会」
http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken