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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

カリプソ色の国歌

2006-08-11 00:27:23 | 南アメリカ


 一昨日でしたか、新生日本代表チーム、いわゆる”オシム・ジャパン”の初試合の相手がトリニダート・トバゴであったこと、ワールドミュージック好きのサッカーファンとしては、なかなか血の騒ぐものがありました。

 トリニダードといえば、いわずと知れた(なんか文章、変か?)カリプソの発祥地として音楽の世界では名をはせている次第で、また、人種構成なんかを見るにつけても、南米ながらかなりのアフリカ度の高さであり、どうしても贔屓目に見てしまいます。この間のワールドカップなども初出場ながらなかなかの頑張りも見せ、嬉しくさせてくれたものでした。

 で、今回、私が注意してみたのは試合前の”国歌斉唱”のシーン。思えば、トリニダッドの国歌って、聴いたことがなかった。が、同じくカリブ海の島国、ドミニカ共和国などは、その国歌が同国特産のリズム、メレンゲで演奏されると聴いておりますし(これもまだ、聞く機会がないんだけれど)もしかしてトリニダッドも、素晴らしい聴きものの国歌を持っているのかも。期待はつのります。

 式次第つつがなく進行しまして、さて、壇上に黒人の女性歌手が登り、アカペラで歌いだされるトリニダッドの国歌。

 ありゃりゃ、なんだかマイナー調の哀しげな旋律で、おいおいそりゃないぜと気落ちしかけるのを見透かしたかのように(やっぱり文章、変か?)その歌は途中でパッと長調に転調しましたね。
 ひょっとして、伴奏がついた場合はアタマの短調の部分はカデンツァで、長調に転調してからリズム・インと、そんな構造になっているんではないかと想像してみる。

 で、とにかく転調後のメロディ、これがねえ、期待通りにカリプソの雰囲気漂うものであったのが嬉しかったのでありました。あくまでも陽気で、ちょっぴり甘さを含み、なによりグングンと太陽に向かって伸びて行く若木のような生命力を感じさせる。

もちろん、サッカーの国際試合のイベントに於けるアカペラによる歌唱なんで、かの国の国歌の全容ははかりしれないんですがね。もう一度、今度は伴奏つきで聞いてみたいものであります。

 ところで。この、”カリプソの雰囲気漂う”メロディってのが昔から私は気になっていたんです。初期の、というのは1930年代とか40年代とかのレコーディングなんですが、その頃のカリプソを聴くと、バックの演奏はもろにジャズです。デキシーみたいな編成&演奏で、しかし、歌われるカリプソのメロディは、すでにカリブ海の香り漂う跳ね上がるようなラテンのノリを内包したものだった。

 ここで、歌われるメロディと伴奏との間に、当然ながら矛盾が生まれる。その辺りが相当にドサクサな演奏を無理やりに成立させている感じで、奇妙な快感があり、面白がって何度も聞いたものでした、アメリカの研究家製作になる古典カリプソを集めたカセットなど手に入れた当初は。

 でも、どうなんでしょうねえ。レコーディングという、いわば”公の場”においてはそのような形になっていたが、当時のライブの現場では。もしかして、それなりに歌のメロディとあまり齟齬のないバッキングがついていたなんて想像はどうでしょうね。で、そいつは当時、”アマチュアの演奏家による間違った伴奏”と認識されて、記録に残されることがなかった。だから現在の我々には知る由もない、なんて。

 ここまで来るとSFの領域に入って来ますが。こんな想像をしてみたくなるくらい、当時のカリプソのメロディの完成度と、伴奏のピント外れとの落差は大きく、私には感じられるんですが。
 なんて事を、アカペラで歌い上げられたトリニダッドの国歌と、それに付くのであろう伴奏を夢想しながら考えていたのでした。

 (写真は、トリニダッドの国花、ヒナゲシ)




”月刊川村ゆきえ”批判

2006-08-10 02:05:45 | その他の評論

 長い事、沈黙を続けていた川村ゆっきーのカムバック作が出る。それは良いのだけれど、よりによってピント外れの芸術趣味で評判の悪い”月刊”シリーズで、と聞いて、それはいかがなものかと首をかしげた。そして、悪い予感は的中してしまったようだ。

 先行して週刊誌に載った宣伝写真を見られた方、あれが強いて言えばこの写真集のベストショットです。あのくらいしか見るところはありません。あとはキリンの首のアップくらいでしょうか(?)なんか、ゆっきーが動物園にキリンに会いに行く設定なんですがね、可愛くもいやらしくもない、何てことない水着姿で。

 露出は低いです。特にサービスショットもありません。全体に、芸術家ぶりたい3流カメラマンが特に好む粒子の粗い写真が使われており、見る者の気持ちを思い切り萎えさせます。

 それにしても。せっかくのカムバック作が”月刊”シリーズとはなあ。誰が思いついた企画か知らないけど、ゆっきーも運の無い女だ。

 (音楽ネタでなくて失礼!いや、あんまり腹が立ったんで、つい)




映画・真夏の夜のジャズ

2006-08-09 01:22:54 | 北アメリカ


 ケーブルテレビの映画チャンネルで、「真夏の夜のジャズ」を見る。1959年、ニューポート・ジャズフェスティバルの記録映画。当時の第一線のジャズ・ミュージシャン総登場である。

 この映画、もう何度も見る機会があったが、どれも飛び飛びに断片的な見方をしていて、おそらくはじめから最後までまともに見るのはこれがはじめてだ。

 相当にお洒落な代物として製作されているのであろう事は、最初に見たときから気がついてはいた。
 会場でアイスクリームを食べる女、演奏にかぶって読み上げられる気象情報や、会場で同時に行われていたヨット大会の映像、ブランコで遊ぶ子供。そして道端に転がっている空き瓶一つまで、いちいちお洒落な映像である。演奏中のミュージシャンは言わずもなが。下からあおる形の照明によって闇の多いステージに浮かび上がる彼らは、クリアに捉えられていながら、どこか強い幻想味を帯びている。
 さらに、演奏に聞き入る観客の一人一人の表情までがすべて絵になっていて、これは見事なものだなあ、などと思っていたのだが、今回、じっくり見直してみると、かなり演出臭い雰囲気がある。少なくとも会場風景には、かなりの部分、”ヤラセ”の映像があるのではあるまいか。

 ミュージシャンの演奏場面にしても、音と楽器の指使いが露骨に合っていない部分があったりする。演奏の”見せ所”の映像に、別の瞬間に演奏されたそのミュージシャンの”聞かせどころ”の音を強引に重ね合わせた部分もあるようだ。いわゆるジャズ・フェスティバルのドキュメンタリーというよりは、今日のプロモーションビデオの作りに、むしろ共通するものを感じる。

 司会者が「ジェリー・マリガン・クインテットでした」と言っているのに、字幕には「カルテットでした」と出てしまうのはご愛嬌。それにしてもジェリー・マリガン、若い!(今、この映画を見れば、どのミュージシャンにだって”若い!”と驚かされるのだが)

 ボーカルものの登場比率が、今のジャズライブものよりかなり高い。アニタ・オディ、ビッグ・メイバル、マヘリア・ジャクソンなどなど。ボーカルものの好まれていた時代だったのだろうか。この辺り、ファンにとってジャズは今とは若干、異なった存在だったのかとも想像される。
 この映画に特徴的な下からの照明に、暗闇のステージ上に浮かび上がった若きチャック・ベリーの顔は、怪談を語る際の稲川淳二に良く似ている。普段はスイングでもやっているのであろう地元のバンドをバックにロックンロール。ギターの音一つ一つが実に禍々しく、血を騒がせる。

 この映画を最初に見た際、非常に印象に残った、”フルートを吹くエリック・ドルフィ”の場面は、脳内で伝説化(?)されていたせいだろうか、実にあっけなく終ってしまう。ドルフィの属するチコ・ハミルトン・クインテットのサウンドがそもそもエキゾティックな志向でもあり、演奏も映像も、ある種隠微な美意識に貫かれ、私にとって、この映画最大のハイライトであるのに変りはないのだが。
 司会者の求めに応じ、ヨーロッパ演奏旅行時の面白エピソードを”いかにも”な白人好みの道化者の黒人を演じつつ語り、会場の笑いを誘うルイ・アームストロング。もはや、そのような愛され方の定着した彼だったのだろう。

 ここで演奏されるジャズは、自らが時代の先端にあり、”生きた音”である事を当たり前の顔で主張している。映画のすべてから、演奏会場が夏のバカンス地であるのも大いに作用していようが、”いつかの、楽しかった夏の記憶”の色を強く感じる。かって、このように生々しく社会に横行し、人々に愛されたジャズなる音楽があり、これはそんな過ぎ去った夏のある休日の記念写真・・・




大島豊様、公開質問です

2006-08-06 20:40:43 | いわゆる日記


 拝啓・大島豊様
 2002年暮れに行いました最初の質問以来、再々質問差し上げましたが回答がいただけないままなので、改めて公開質問させていただきます。

 ラテン音楽誌、「ラティーナ」の2002年11月号における、「アルタン」のメンバーへのインタビューを読ませていただきました。その際の大島さんの発言の一部に納得できないものを感じました。広島への原爆投下を「我々にとっての9・11なのです」などと”説明”しておられる部分です。我々日本人の被爆体験を、そこまで矮小化して語ってしまって良いものか。
 「ある意味で」なる注釈は付いていたものの、その理不尽さへのフォローにはとてもなっていないと感じました。さっそく、それに関する疑問文を、ラティーナ誌の読者投稿スペースである”オピニオン”のページに送りました。そして後日発売された12月号。同ページにそれに対する回答とおぼしきものが掲載されましたが、編集部の不手際が原因であるとの、なんとも因果関係の釈然としない内容でした。そこで、まことにぶしつけなお願いで恐縮ですが、大島さんご自身から、この件に関する説明をいただけたらと思い、ここに公開質問させていただく次第です。よろしくお願いいたします。

 皆さまへ・下が、ラティーナ誌に送付したメールの全文です。文中、”インタビュアーのかた”とあるのは、大島氏を指します。念の為。

    #       #       #

 ラティーナ11月号の、「アルタンまつり2002とマレード・ニ・ウィニー・インタビュー」においてインタビュアーのかたが、広島への原爆投下を「8月6日はある意味でわれわれにとっての9・11なのです」などと表現しておられるのには唖然としました。
 「世界のあちこちにおいて”テロ”を繰り返してきた”テロ国家”であるアメリカが、もう一つのテロ勢力によって攻撃を受けた」すべての民族、国家を公平に考えればそのようにしか要約できない、あの”9・11”の事件と、人類史上初めて行われた、同じ人類に対する核爆弾の投下という重すぎる出来事が、果たしてイコールで結べるものなのでしょうか。(「ある意味で」の一言は、それに対する補足には、まったくなっていないでしょう)
 インタビュアーの方の、あまりにも欧米に対して隷属的過ぎる価値観には、唖然とするよりありません。まるで、「崇高な欧米の皆さんの世界の出来事に比べたら、卑しい我々の世界に起こった事など、持ち出すことさえはばかられる小さな出来事なのですが」とでも言わんばかり。
 平和記念館を訪れ、広島への原爆投下について学ぶべきは、アルタンのメンバーよりもまず、あのインタビュアーのかたではないでしょうか。

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ミャンマーからのカセット

2006-08-05 02:15:57 | アジア


 私の目の前に一本のカセットがあって、ど真ん中にドーンと、まるでヘビメタのバンドのジャケみたいに見えるロゴでタイトルが記されている。

 が、読めない。どう発音するのか、いや、どちらから読むのかも分からない。不思議な形のミャンマー文字であるからだ。その下に英語で”Battle For Peace”とあるので、何とか意味合いの予想は付くのだが。

 これは、もうずいぶん以前、私の町で在日ミャンマー人たちによる、故郷の軍政に反対するパフォーマンスというか、告発集会が行われた際に会場で手に入れたものだ。
 収められている曲はすべてミャンマー語なのだが、歌詞カードに英文対訳が付いているので、意味は掴める。「私たちは、私たちの歴史を血で書く」なんて歌詞が歌われているようだ。

 他に、”歓迎されない訪問者””不良少年””真実の瞬間””平和への戦い”などなど、タイトルを挙げると、どんな傾向の歌が収められたものであるか、様子がつかめてくる。ジャケのミャンマー文字の下に、胸を銃撃で打ち抜かれ、血を滴らせる一羽の鳥が描かれている意味も分かってくる。

 さらに、カセットの裏には、「この歌集を自由を愛する人々に手渡してください」との英文も。
 サウンドは素朴極まりないフォークロック調で、60年代、デビュー当時の高石友也などを、ふと想起させる作りとなっている。ジャケのメタリックな仕上がりとの落差が不思議な感じだ。

 カセットが発表されたのは1992年の五月と記されている。そうか、あれからもう、十数年の歳月が流れたのだなあと、会場で知り合った何人かのミャンマー人の顔など思い出してみるのだが。

 その後、ミャンマーの現実もずいぶん変わった。とはいえ、相変わらず軍政は続いており、かの国の”解放”の象徴かとも思われるスーチー女史の軟禁状態も変わらぬままのようだ。
 カセットを作った人々は今、どこでどのような暮らしをし、何を思っているのだろうか。

 あれから私の音盤コレクションには、それなりの量のミャンマー・ポップスなども加わり、カセットを聞き返して、「音楽的には、あのミャンマー音楽独特の”陽気な迷宮”みたいな特色は、まるで生かされていないなあ。どこの国でも聞けるような”反戦フォーク”ぶりで、こういう”開放運動”に関わる人たちの音楽性って、やっぱり似てきてしまうのかなあ」などと分かったような感想を漏らしてみたりするようにもなっているのだが。

 今、イスラエルと、レバノンのイスラム教武装組織との間で風雲急を告げていると傍らのテレビがニュースを告げたばかりだ。目の前のネットからは、その影で、パレスチナの人々がイスラエル軍の圧迫を受け、絶望的な状況にあると情報を伝えてきている。
 そんな世界で、このカセットに収められたタグイの歌は、もう、あえて語る必要があるだろうかと思われるほどの数、作られ、歌われてきた。

 もう、マンネリである。いまどき、こんな歌を話題にすること自体、退屈である。そんな現実が、今日も爆弾の雨を降らし、人々はその下で空を掴んで、ただ死んで行く。歌は、だから今日も生まれ、歌いだす者の数は尽きない。




あ~まいよ~で~問題

2006-08-04 01:58:15 | いわゆる日記


 え~とあれは爽健美茶のコマーシャルでしたかね、スケートの荒川静香選手が出ている奴。あれのバックにヤイコこと矢井田瞳の歌声で、こんな歌詞が流れます。というか、私にはそう聞こえます。

 ”とまらないで あきらめないで
  かなえるわ あ~まいよ~で~♪”

 「あ~まいよ~で」って何だよ?いや、ちゃんと調べればそうは歌ってない、ちゃんと納得できる歌詞を歌ってるんでしょうけどね。でも、何度聞いても私にはそう聞こえるんだ。
 
 もう一つ、今、オンエアされているCMの歌。これは”ウメッシュ”のCMだったな。菅野美穂が緑の牧場かなんかを走っている姿にかぶって、”ガシガシとロックを歌って行きたいと思っている女の子です”みたいな歌唱で、こんな歌詞のバラードが歌い上げられます。

 ”とっかひの ふらんこほりで
  すべりこんでほう よわりこんでよう~♪”

 全然、分からねえ。いや、そう聞こえちゃうんだからしょうがないでしょ。

 民俗音楽研究の権威、小泉文夫氏が生前、よく説いておられましたね、「日本人は、まともに日本語詞を伝えうる歌唱法を失ってしまっている」と。
 いや、別に「正しい発音で歌を歌えるようになるべきだ」とか、つまんない事を力説するつもりもないんですけどね。上に挙げた2例も、理解不能な歌詞が逆にシュールな世界を現出させている感じで、私などは面白がっているのでありまして。

 というか、かって私はレコードデビューをしそこなった際(そんな過去もあったのさっ)に、「あなたの詞をはじめて見た際、説明し過ぎで煩雑な感じの歌詞なんでどうなるかと思ったんだけど、サンプルテープを聴いてみたら、あなたの発音が不明瞭で、歌詞はほとんど聞き取れないよね。うん、これでいいでしょ」とか、変な納得をされた事があるんで、他人のことは言えません。

 それにしても、ワールドミュージック・ファンにとって”歌詞”ってなんでしょうね。いちいち歌われている言語を理解できるようになっていなければならない、なんて事になったら、あちこちの音楽をつまみ食いしている身としては、言語の習得に忙しくて音楽なんて聴いている暇はない、なんて本末転倒に陥ってしまうだろうし、皆、適当なところで手を打って聞いているんでしょうけどね、ひとっことも分からねえウォロフ語とかガ語の歌を。

 昔々。ボーイ・ジョージなんてイギリスのロック歌手がいましたが、彼が来日の際、YMOの高橋幸弘のラジオ番組にゲスト出演して、国際的に活躍する歌手が歌うべき歌詞の話になり、ボーイ・ジョージが、「どうせなら歌詞の意味が分かったほうがいいだろう?」とか言い、まあ、要するに「英語で歌え」と言うわけだ、日の沈むことなき大英帝国の末裔たるロック歌手は。

 するとそれに返して高橋幸弘は一瞬、言いよどんだ後、「う、うんそうだね」とか答えたと記憶している。高橋は、心中、何を言おうとし、やめといたんだろうか。それを知りたく思う。ご本人はそんなやり取り、もう覚えちゃいないだろうけど。

 ちなみに私は、そのやり取りをラジオを前に一杯やりながら、「バーカ、分からない言葉で歌われる歌のほうが良いに決まってるだろ。響きがエキゾチックで面白いし、意味が分からない分、ボーカルが楽器化して楽しいじゃないか」などとつぶやいていたのだが。



オー、ベネズエラ!

2006-08-03 03:34:04 | 南アメリカ


 ”Equilibrio” by Guaco

 もう日付けとしては昨夜の話になってしまうけれども、ボクサーのカメダの世界戦、あれはひどかったですねえ、完全な負け試合が、判定で「勝ち」になってしまった。
 亀田が勝たないと商売上、都合が悪いから、どう見ても負けていた亀田に「判定勝ち」を与えた、と。これで永遠にお笑い種ですね、亀田クンも日本ボクシング界も。八百長で勝って嬉しいか、亀田ぁ?

 元記事・亀田興毅:立ち上がりにダウン 判定に疑問の声も

 試合を中継していたTBSが、”世界タイトルを取ったあとの防衛戦”の中継を今年の大晦日にすでにブッキングしてしまっていたから、勝たせなけりゃしょうがなかったってのも凄い話ですねえ。
 あと、バックについていたヤ○ザのオヤブンの、試合当日は誕生日だったからあれこれあれこれ、なんて噂話は、うわあ、おっかないからやめときましょうか。いや、よく知らないんですけど、なんかそんな裏話があるらしいですぜ。
 
 ともかくこのインチキな”判定勝ち”を恥ずかしく思った日本のボクシング・ファンが、対戦相手のランダエタ選手の母国、ベネズエラの在日大使館に「あのような結果になってしまって、日本人として恥ずかしいです」なんて贖罪とランダエタ選手への激励のメールを送る運動を始めたそうな。

 それは良いけど、送り先のアドレスを”在日ベネズエラ大使館”にすべきところをうっかり取り違え、”在ベネズエラ日本大使館”にしてしまったそうな。ベネズエラにある日本の大使館でも驚いたでしょうねえ、母国から、なんだか訳の分からない”ごめんなさいメール”が続々と送られて来て。

 まあ、そんなこんなで。今回はどうしてもベネズエラの音楽を取り上げたい。

 で、グアコの”Equilibrio”であります。ベネズエラはマラカイボ地方の独特の祝祭音楽、”ガイタ”の代表的グループの2000年度作品です。これは好きなアルバムだったなあ。今日性と土俗性がシャープに混在していてねえ。

 独特のノリを示すラテンの伝統音楽ガイタに、サルサやヒップホップの要素も貪欲に取り入れ、ブーガルーになるかと思えばレゲのリズムも忍び込む、実に軽快なフットワークの雑食音楽だった。

 そういえば最近、この音楽の噂も聞かないなあ。まあ、私のアンテナに引っかかってこないだけで、これだけのバイタリティのある音楽だもの、元気に盛り上がっているだろうけど。

 ちょっと不思議なのは、さっきから出ている”ガイタ”なる語。これはスペイン語でバグパイプのことを普通、指すんだけど、なんでその語が、このベネズエラのダンス音楽の名でもあるんだろう。
 これ、まったく関連性が分かりません。仮説も立てられない。もちろん、ベネズエラのガイタに、バグパイプは使われません。

 この秘密の回答、在ベネズエラ日本大使館にでも尋ねたら、教えてもらえるんだろうか(笑)
 



国境の南に

2006-08-02 02:13:04 | 南アメリカ


 ”Mis Mejores Canciones”by Nat King Cole

 タモリがデビュー当時に出したギャグばかりのアルバムに、”俺のカツサンド、明日食わんど、あさっても食わんど~♪”なんて歌が入っていたが、あれの元ネタは、昔々に漫才のコロムビア・トップライトがやっていた、”金のあるときゃカツサンドハムサンド~♪”だろうな、なんて誰も興味を持たないであろう無駄情報など書いてみる。
 まあ、あの歌が流行った当時の日本人に耳には、歌詞がそんな具合に聞こえたって事ですな。

 いやでも昭和30年代には、そのくらいこの歌、つまりナット・キング・コールのラテン・ナンバー、”キサス・キサス・キサス”は、我が国でも普通に皆に愛された一曲だったのだ。とも言えよう。

 その、語学の知識のない者が聞いてもアバウトな発音なのだろうなと、なんとなく見当がついてしまう、独特のスペイン語の響きが漫才のネタにされたり、といった具合の、気のおけない愛され方だった。
 マイナー・キィの歌謡曲調、下世話なラテンのメロディラインが、我が日本の歌好きの琴線に触れもした。

 キング・コールが残した、そんなラテン・ナンバーのレコーディングを集めた、これはスキモノにはこたえられない、そしてジャズボーカルのファンからは、きっと無視なんだろうなと想像される、つまりはこの場では超一級の扱いで迎えさせていただきたいアルバムである。

 いつもは、時に粋に、時にヤバく、都会の夜の憂愁を歌うキング・コールが、夏の休暇にちょっと羽目を外してアロハシャツなんぞ羽織って南国の祭りに出かけた、みたいな軽快な華やぎのある作品集となっている。

 今日の”ラテン”の相場(?)から行くと、ちょっと違う感触の曲も多い。何かと思えば、”マリア・エレナ”などをはじめとする”メキシコ・ネタ”の曲が収められているのだ。
 このアルバムに含まれるレコーディング曲が世に出た当時、つまり1960年代は、音楽シーンの一方には、かなりの厚みを誇るラテン音楽の”ブーム”があり、その最先端、つまりは当時の世界音楽の最先端に、メキシコ音楽がいた。その証左である。

 日々の生活に疲れたアメリカ市民がふと妄想した甘美な夢の行き所としての国境の南、メキシコ。当時の世界の政治地図などを改めれば、また新しい発見があるかもしれない。



”あきれたぼういず”を歌ったオヤジは

2006-08-01 04:14:09 | いわゆる日記


 そのラーメン屋が私の町に店開きしたのは私がまだ頑是無いガキの頃と記憶しているのだが、そこに貼られていた”トピック写真”の内容から思うと、その頃私は高校生位になっていてもおかしくない気がする。なんたって「新宿のフーテン族は今!」だものなあ。いや。そのタグイの風俗が登場して来たのって、何年くらいが最先鋭だったんだ?とか、そっちの方の考察が目的ではないので、いい加減に流しますが。

 ともかくある日突然、我が眠ったような温泉町の川沿いに、その屋台のラーメン屋は店開きをしたのだった。その店の周囲は即日、ちょっとした人だかりが出来たのだが、中に入って物を食おうとする者はあまりいなかったのではないか。皆、その店を遠巻きにし、恐る恐る中の様子を覗うばかり。
 なぜって、その店の周りには、先に書いたが「新宿のフーテン族」とか、なにやら薄汚い若者風俗を写した生写真が大量に貼られ、その傍らには黒々と、「今、世界の最先端の風俗は斯く斯くである」とかなんとか写真の解説が汚い字で大書されていたからだ。そして店名は「当地初のゲテモノ・ラーメン屋、×××」とあった。

 今日のタフな感性のヒトビトとは違い、当時はまだ人心も純真なものであり、そのような恐ろしげな店の中にホイホイ入って行く勇気は”普通の人々”は持っていなかったのである。
 とは言え、それなりに物好きな客も付いて行ったとみえ、いつかそのゲテモノ・ラーメン店は屋台から出世し、表通りに面した飲み屋街の一角に店を構えることとなった。食い物には結構保守的な私は、それでもその店に足を運ぶことはなかったので、その店のラーメンがその程度のゲテモノであったか、いまだに知らないままなのだが。

 それからいきなり20年ほど時間が飛んで申し訳ない。すっかりオトナとなった私は友人と、バンドマンのチョーさんがやっているスナックで一杯やっていたのである。チョーさんのギターをバックに、「ディック・ミネのダイナとエノケンのダイナの歌い較べ」などという、地味な物真似ごっこに興じていたのである。と。

 カウンターの隅で我々のバカ騒ぎを聞いていた、痩せこけた銀髪の片腕の老人が「これは俺も負けちゃいられないな。おいチョーさん、いつもの奴をやってくれ」と言い出し、するとチョーさんもニヤリと笑って、「こりゃお珍しい」と弾き始めたギターのイントロは。あの”あきれたぼういず”の「地球の上に朝が来る~♪」だったのである。

 あっ。ここで”あきれたぼういず”の説明が必要になるのか。う~む、すでに文章が長くなり過ぎているので、恐縮ですが、検索でもしてみてください。戦前の日本を席巻した元祖コミックバンドです。外国のポップスから浪曲まで、さまざまな音楽の混在する、偉大なる大衆音楽を創造したグループでした。

 で、その老人は、それまでの店のカウンターに染み付いたシミであるかのような物静かな酒飲み振りとは打って変わった陽気なエンターティナーぶりで、ある時はコブシコロコロと浪曲をうなり、あるいはジャズの小唄を差し挟みと、我々スキモノ音楽ファンには伝説の巨人たちである”あきれたぼういず”のネタを演じきって見せたのである。そんなものをナマで聞けるとは思わなかった。うへえ、なんだい、この爺さんは。
 
 チョーさんに紹介されてさらに驚いたのだったが、その爺さんこそ、先に書いたゲテモノラーメン屋の創業者である人物だった。今はもう店は息子に渡しての隠居生活ではあるが、体調を崩して、老後の唯一つの楽しみだった飲み歩きもままならないと笑う。若い頃は、まだ最先端の歓楽地であった東京は浅草で鳴らしたモダンボーイであり、若き日の思い出の歌を我々が歌っているのを聞き、嬉しくなって久しぶりに昔の得意芸を披露してしまったとの事。
 
 これは面白い人に出会ったな、そうかあ、ガキの頃の私を恐怖させた、あの禍々しきゲテモノ店は、この爺さんの建立したものだったのか。こんな形で交流を持つことになろうとはなあ。

 まあ、昔の音楽話などおいおい聞き出そうなどと頷きあった我々だったが、飲み終えた彼が店のママに助けられつつ立ち上がるのを見て、さらにのけぞった。彼は、ほとんど半身不随といってよい体の状態だったのだ。自力で立ち上がることも危ういのだ。
 にも関わらす、連日、夜のチマタに繰り出して飲んでいるとは。これは酒飲みの鑑だなあ。と、私と友人は最敬礼で彼を見送ったのだった。

 それから老人との交流は続き、と言いたいところなのだが、一二度、チョーさんの店で杯を重ねただけで終わってしまったのだ、彼との付き合いは。なぜって、それからほどなく、ゲテモノラーメン店の創立者氏は、かって浅草を震撼させた、老いたる不良少年は、あっけなくこの世を去ってしまったからだ。彼が逝ってから、私はチョーさんに一本のカセットテープを手渡された。老人からの贈り物だと言う。

 「昔のジャズソングが好きならって、あんたに渡してくれと頼まれたんだが、まるで形見分けみたいになっちゃったね」と、チョーさんは苦笑した。
 家に帰って聞いてみると、片面には、それこそ浅草でボードヴィル全盛の頃の大スター、二村定一の、もう片面には今で言うデブキャラ・コメディアンにして、なかなかに粋な戦前のジャズシンガーである岸井明の音源が入っていた。
 それぞれ老人が秘蔵のSP盤からダビングしてくれたものだった。岸井のものは入手のむずかしいものゆえ、なかなかにありがたかった。

 それにしてもなあ。もっと早く知り合って、爺さんのライフ・ストーリーや昔の日本のボードヴィル事情など聞いておきたかったのだが。などなど悔やんでももう遅く。いやそもそも、そのラーメン屋自体がもう廃業してしまって、跡を継いだ息子氏もどこへ行ったやら分からない。諸行無常と言う奴ですな。



パリの灯、アフリカの輝き

2006-07-31 02:48:43 | アフリカ


 ”Nyboma & Kamale Dynamique”

 ブラック・アフリカを席巻したコンゴのルンバ、わが国で言われるところの”リンガラ・ポップス”に展開の3つの道あり。本場コンゴの音楽の都、キンシャサで猛者のバンドたちと切磋琢磨する、あるいは西に向かい、ヨーロッパ行きの道が控えているコート・ジボワールでのレコーディングに賭ける、さらにもう一つは東はケニア方向へ向かい、異郷、異文化の元での銭儲けに邁進する、と。

 この構図を知ったのはもう20年も前のことになるのだが、今でも情勢は変わっていないんだろうか。当時の私はケニアあたりで行われているいかにも辺境、といった荒削りな輝きのあるサウンドに惹かれていて、なかなか手に入らないケニア盤を追いかける、報われない日々(?)を送ったものだったが。

 この”アフリカ一の美声の持ち主”とまで言われた男、リンガラ界の人気歌手ニボマは、コートジボワール経由でヨーロッパ、つまりはパリのアフリカ音楽シーンで活躍したリンガラ・ミュージシャンの代表格とでも考えたらいいんだろうか。ヒット作の”ペペ”などは”ケニア派”の私も当時、購入して、結構楽しんで聞いたものだったが。そんな彼が70~80年代に世に問うた作品群からのベスト盤が昨年出ていた。

 さすがに人気者、と言った華やぎが横溢した、楽しい盤になっている。パリに向かうとはつまり、かの地におけるアフリカ音楽愛好シーンに飛び込むわけだが、その需要のありよう、要するに銭金の動きって、どうなっていたんだろう。かっては音楽のありようだけしか興味もなく、「ヨーロッパに行けば、そりゃ儲かるんだろうな」とか浅くしか考えていなかったのだが。

 ニボマを迎えたヨーロッパの観客たちの構成を想像するに、パリに滞在するアフリカ人たち、あるいはアフリカ音楽を好んで聞く、ワールドミュージック好きのヨーロッパ人などになるんだろうが、どれほどの厚みがあったのか。

 今、CDのジャケを見ていて、ニボマが当時使っていたレコーディング・スタジオが名門、パテ・マルコーニだと知り、へえと思ったのだが、さすがにサウンドは洗練されている。流麗なギターの響きに導かれ、黒光りのするニボマの歌声が鞭のようにしないつつ躍動する様は、まさにアフリカの若大将であり、当時のアフリカ音楽の盛況を物語っている。一時代を築いた、といっていいんだろうな。

 この輝きは、今でもパリの街の片隅で失われずにいるのだろうか。そういえばシンガラの新しい情報って、さっぱり入って来ないなあ。私が追うのを怠けているだけかも知れないが。80年代、アフリカ音楽が迎えていた一つの高揚の確かな証ともいえる作品集である。