昨日は両国シアターXで、白石征演出「泥棒論語」の再演を観てきた。原作は花田清輝。花田といえば、戦後アバンギャルドのカリスマとして一世を風靡した批評家、文学者である。戦後左翼世代には文学者の戦争責任を巡る吉本隆明との論争(「花田・吉本論争」)が鮮烈に残っているだろう。
わたしは学生時代、SF作家小松左京の影響で彼の「復興期の精神」を読んだことがある。「楕円幻想」というエッセーでは、焦点は2つ、中心は1つという楕円の幾何学から、たくみなレトリックで暴力と平和、正義と悪のはざまに第三の道を模索する作者の強靱な精神に強く惹かれた覚えがある。
その後、戯曲(「鳥獣戯画」「爆裂弾記」)にも手を出したが、こちらは理屈っぽさが裏目に出ている気がして挫折した。世代的にも離れていることがあって、それ以上の関心はもてなかった。
昨年の初演では、そのレトリックと論理の鬼のような花田作品を白石氏がどう料理するか。期待と不安を胸に劇場に足を運んだ。冒頭たちまち不安は吹っ飛んだ。
書かれざる土佐日記をめぐって、作者紀貫之とそれを奪おうとする悪党、革命家が虚々実々の駆け引きを展開する。古今集の「たをやめぶり」と万葉集を対比させ、たおやめの強靱性に非暴力の可能性を追求するところや、貫之の娘紅梅姫、平純友、平将門、陰陽師阿部幽明などの登場人物が入り交じり、正統と異端をかいぐぐる議論を展開するところなど、いかにも花田らしい。
白石版「泥棒論語」は花田の政治性や論理性は残しながらも、政治と革命の問題は政治と文学や政治と芸能に再解釈され、痛快なエンターテインメント作品に仕上がっていた。とくに貫之と紅梅姫の掛け合いが楽しかった。
今回はさらにグレードアップし、前衛の花田が現代に蘇ったようなポップで、アバンギャルドな作品になっていた。前回から引き続き登場のちねんまさふみ、中村真知子、特別出演のベテラン横山通乃など、役者陣もよかった。
最後に映し出されるニュース映像には賛否両論があるようだが、わたしはなくてもよいと感じた。それでなくてもテーマの現代性は充分に感得できたからである。
考えてみれば白石氏には、寺山修司のアクロバティックな作品を鮮やかに料理した「瓜の涙」や「十三の砂山」のような秀作がある。難物の演出はお手の物といってよいだろう。白石氏が次にどのような古典作品相手に腕を振るうか、その挑戦を期待しつつ待ちたいと思う。
わたしは学生時代、SF作家小松左京の影響で彼の「復興期の精神」を読んだことがある。「楕円幻想」というエッセーでは、焦点は2つ、中心は1つという楕円の幾何学から、たくみなレトリックで暴力と平和、正義と悪のはざまに第三の道を模索する作者の強靱な精神に強く惹かれた覚えがある。
その後、戯曲(「鳥獣戯画」「爆裂弾記」)にも手を出したが、こちらは理屈っぽさが裏目に出ている気がして挫折した。世代的にも離れていることがあって、それ以上の関心はもてなかった。
昨年の初演では、そのレトリックと論理の鬼のような花田作品を白石氏がどう料理するか。期待と不安を胸に劇場に足を運んだ。冒頭たちまち不安は吹っ飛んだ。
書かれざる土佐日記をめぐって、作者紀貫之とそれを奪おうとする悪党、革命家が虚々実々の駆け引きを展開する。古今集の「たをやめぶり」と万葉集を対比させ、たおやめの強靱性に非暴力の可能性を追求するところや、貫之の娘紅梅姫、平純友、平将門、陰陽師阿部幽明などの登場人物が入り交じり、正統と異端をかいぐぐる議論を展開するところなど、いかにも花田らしい。
白石版「泥棒論語」は花田の政治性や論理性は残しながらも、政治と革命の問題は政治と文学や政治と芸能に再解釈され、痛快なエンターテインメント作品に仕上がっていた。とくに貫之と紅梅姫の掛け合いが楽しかった。
今回はさらにグレードアップし、前衛の花田が現代に蘇ったようなポップで、アバンギャルドな作品になっていた。前回から引き続き登場のちねんまさふみ、中村真知子、特別出演のベテラン横山通乃など、役者陣もよかった。
最後に映し出されるニュース映像には賛否両論があるようだが、わたしはなくてもよいと感じた。それでなくてもテーマの現代性は充分に感得できたからである。
考えてみれば白石氏には、寺山修司のアクロバティックな作品を鮮やかに料理した「瓜の涙」や「十三の砂山」のような秀作がある。難物の演出はお手の物といってよいだろう。白石氏が次にどのような古典作品相手に腕を振るうか、その挑戦を期待しつつ待ちたいと思う。