内田穣吉先生とは、奈良県開発審議会でご一緒させていただいた。当時、先生が会長で私は一委員だった。内田先生は、その頃、奈良県立短期大学の学長だった。1912年のお生まれだから私より29歳上だった。そして10年前程に亡くなられたと思う。正確な没年月日は調べてみないと分からない。先生は70歳を越えてから詩集を出すことを思い立たれて、関西書院から『内田穣吉』詩集を出され、私にも一冊恵送していただいた。奥付きの「自己紹介」もユニーク、1912年この国に生まれた、とある。先生との会話情報では、福井県若狭地方の出身、和歌山高等商業専門学校卒業だったと思う。現在(1985年) 日本学術会議会員(1964~)、奈良県立短期大学長(1970~) 専攻 経済学(方法論、現代資本主義論論)比較社会史 経済学博士 歌集『たたかひの獄』1948『東欧の旅』1975『巴里から巴里へ』1977『訪中学術調査団』(山形敬一との共著)1981となっている。会話情報では、富山大学経済学部に勤めていた時に、教授会で「大喧嘩」をして辞めた、といっておられた。筋金入りのマルクス主義経済学者だったが、歌集、詩集を出される情緒豊かな話好きの紳士だった。日本学術会議会員を長く勤めておられたので学界でも人望があったと思う。西山卯三先生との学術会議を通じての付き合いについても伺った。内田先生は、この詩集を出された後、学長も会長も辞められ、お宅も奈良市の法蓮から平城ニュータウンに移された。私が、現在地に12年前に移ってから高の原駅で奥さん共々会ったことがあるので、亡くなられたのは10年前位では思う。晩年まで闘志満々だった先生に見習いたい。頂いた詩集の表紙裏に「西村一朗大兄に」とあって「Taxi 呼びて朝を Seineに沿いて去る Parisよさらばと 振り返る 穣吉」と書かれている。今度、巴里に行ったら、この「巴里から巴里へ」を内田先生を思い出しつつ、味わってみたいと思う。