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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

アフリカン・ハイライフに乾杯!

2006-08-25 01:39:25 | アフリカ


 ”The Best of Adlib Young Anim of Stargazers Fame ”

 アフリカにおいて様々な土地で様々な形で息付くアフリカン・ポップスの古層を辿って行くと、つまりは”里帰りしたアフロ・カリビアン・ミュージック”という事になるようだ。

 ヨーロッパから新大陸に渡った白人たちの文明とアフリカから連れて来られた黒人たちの文化とがぶつかり合って発生したカリブ海の音楽が、アフリカの地に持ち帰られ(?)て、人々に愛好されるようになった経緯など知りたく思うのだが、その話はここではすっ飛ばして。
 
 西アフリカにおいて発生したと想像されるハイ・ライフ音楽などは、そのもっとも古い例と言えるのだろうが、それだけに良く分からないことも多く、昔々、ある雑誌で行われたアフリカンポップスに関する鼎談においても、「ハイライフって、良く分からない。現地の人に尋ねても、”あれもハイライフ、これもハイライフ”と、どれもハイライフ扱いになってしまう」などと、”お手上げ”の発言がなされていた。

 音楽の形式としては、古いスタイルのカリプソがアフリカ風に変形したもの、という雑なくくりで想像していただければ良いと思うが。

 このアルバムは、ハイライフ音楽が古くから盛んだったガーナで、1950~60年代においてハイライフ界の人気バンドだったスターゲイザースの歴史的レコーディングを集めたものだ。いきなりリーダーの芸名が”アドリブ”ヤング・アニムであるあたりが嬉しい。

 針を落とすと(CDなんだが)聞こえてくる、リズミックに弾む、ややルーズなハモリのホーンセクションの響き。これこれ、こののったりまったりした手触りがハイライフの醍醐味だよなあ。などと和んでいると、トランペットやサックスのソロが始まったとたんに「え?」と驚かされることとなる。

 いわゆるアフリカ風の旋律の中でジャズっぽくスイングしつつアドリブを決める、そのための方法論。それはたとえば渡辺貞夫が”ムバリ・アフリカ”期に盛んに行っていた演奏の軸となるものであるが、それはもうこの時点でほとんど完成されていた事を、このアルバムに収められた演奏が証明しているのである。

 そいつは、半世紀近く前の演奏とは信じられぬほどのシャープな輝きを帯びていて、「いかすぜ、アドリブ・ヤング!」と声をかけずにいられない。いや、かけやしないけどさ、気持ちとしてそんな感じなのさ、凄いのさ、ハイライフという名のアフリカン・ジャズは。

 高価で、弾きこなすにはそれなりの訓練が必要となるピアノの代わりにギターが使われ、それがハイライフをはじめとするアフリカの近代ポップスの個性となって行ったとはよく言われることである。
 このアルバムで聞かれるギターの、トロッと甘く、それでいて切れ味の鋭いフレージングも捨てがたい魅力がありで、奏者の名が不明であること、まことに残念と言わずにいられない。

 やあ、こんな音楽が普通に街角に溢れていた50~60年代の西アフリカの空気って、どれほどの熱気を帯びていたんだろう。ドキドキするよなあ。




稲川淳二の怪談CD

2006-08-23 03:00:50 | いわゆる日記


 秋の夜長のこわ~いお話 by 稲川淳二

 夏にふさわしい話題をとか思ってハワイアンなど、このところ取り上げてきましたが、その流れで稲川サンの怪談音源など。まあ、音楽でなくて恐縮ですが。というか、夏を意識の割にはタイトルが秋になっていますが、それもご容赦。つーか、そもそも今回の書き込みそのものが無茶ですが。

 稲川淳二の怪談音盤は数多く出ていますが、これが歴史的レコーディングという意味では価値が高いでしょう。彼を怪談語りの名人の座へと押し上げた作品、”生き人形の話”のオリジナルが初出収録されている、という事で。

 上に提示した写真は初出のカセットのジャケですが、この作品、CD化もされて、今日でも購入可能です。”生き人形の話”は、ある人形師が製作した人形が呪われていて、さまざまな怪異を引き起こす、というもの。

 あらゆる怪談のパターンがブチ込まれて波乱万丈、一時間かけても語りつくせない、大作?です。いろいろな場で語られているので聞かれた方も多いかと思いますが、怪談としてはいまだ進行中であり、新しいページが現在進行形で書き加えられている、というのもワクワクさせてくれます。

 で、このレコーディングで聞かれる稲川淳二の語りは、意外や今よりずっと滑らかです。力も抜けていて、今日の力の入った、ある意味演出過剰な語りに較べると、ほとんど世間話のように物語を進行して行きます。

 逆に、最近のレコーディングになればなるほど、稲川の口跡は怪しくなり、言い間違いも多く、非効率な繰り返しも多くなります。そして、そのどちらが耳に”聞く楽しみ”を与えてくれるかと言えば、それは欠陥も多いはずの最近の録音なのですね。

 この辺の違いなど聞き比べていると、稲川怪談も時を経るうちに、ある種の語り物として音楽にきわめて近いものになりつつあると感じてしまうのです。語り物が音楽へと変質する瞬間に知らずに我々は立ち会っているのかも知れない・・・

 実際、稲川怪談は日本の伝統音楽の失われた何かしらの要素(それが何なのか、今はまだ説明不能なのですが)の代わりとしてそこにあるなんて、夏の夜、一杯やりながら、このレコーディングを聞きつつ、仮説を試みたりしているのであります。




レスポールのハワイ幻想

2006-08-22 01:57:51 | 太平洋地域


 ”LOVERS' LUAU”by Les Paul & Mary Ford

 先日のアンディ・ウィリアムスに続いて、50~60年代制作の、大物によるハワイアン・アルバム。ギターの神、レス・ポールのハワイアン曲集であります。

 レス・ポールといっても、彼の名を冠したギターは、それは目にも耳にも馴染んでいるものだけれど、レス・ポール自身の演奏って、そんなに聞いてないでしょ?

 私なんかが若い頃によくラジオで流れていた「世界は日の出を待っている」くらいしか聞いていない人がほとんどじゃないだろうか、普通の音楽ファンだったら。私も実はこれがレス・ポールのアルバムを丸ごと一枚聞くのは初めてだったりするのだった。

 聞いてみてまず思うのは、いや、このオヤジ、相当のオタク魂を持ってるわ、ということ。「あれ、チューニング、狂ってないか?」とさえ思わせるようなあたりのアウト気味の音から入って来たりするプレイといい、凝ったコード感覚といい。

 それから、いろいろ種類も豊富な今日から見れば可愛いものではありますが当時としてはおそらく最先端のエフェクター各種を動員しての、不思議な手触りの異世界創造に取り組むあたり、ね。
 スタジオに篭って、あーだこーだと工夫を凝らし、時の経つのも忘れるタイプなんだろうなあ。

 その結果、現出しているのは、レス・ポールのテクノロジー信仰によって分解と再構築のなされた、まるでプラスティックで合成されたような硬質なファンタジーとしての”ハワイ音楽”であります。なんだか昔のSF映画に描かれた異星の風景みたいな、ワイキキの浜辺なんだなあ、見えてくるのが。

 うん、面白かった。彼の他のアルバムも聞いてみる価値はあるだろうな。こうして聴いてみて分かったんだが、レス・ポールの音楽の魔法は、いまだ無効になっていないから。


失われた”日本のロック”

2006-08-21 01:58:44 | その他の日本の音楽

 ”スーパー・ライブセッション”by ゴールデン・カップス

 先日のスポーツ紙に「また沖縄から旋風」なんてタイトルで”かりゆし58”なんて新人バンドの話題が出てました。地元での4週連続1位を受けて、デビュー盤がこの23日に全国発売されるとか、そんな記事。

 この連中のデビュー曲って、先日、ラジオから流れてくるのを偶然聞いちゃったんだけど、何がロックだよ、詞も曲も、まるでさだまさしじゃないか。
 もののたとえじゃなくて、ほんとにさだそっくりの世界でね、なんか、母親のことを歌っているみたいですよ。不良の息子が母を想い更正する、とかね。生暖かい、生暖かい世界。

 もうとっくに葬り去った筈の退屈な人情話が棺を押し開けてまた地上を徘徊する。”感動”ですか。”ぬくもり”ですか。”ちょっと良い話”ですか。とうに聞き飽きましたが。

 そんなものが”ロック”として認知されちゃう我が国が情けない。やりきれないです。
 ともかく、何かというと金八先生がしゃしゃり出て説教垂れる、そんなものでしかないんですかね、我が国の大衆文化ってものは。そんなものじゃなかったはずです。

 なんてことを想いながら今、なつかしの”実力派GS”、ゴールデンカップスのアルバム、”スーパー・ライブ・セッション”を聞いているわけです。彼らが”日本のニューロック”の最先端にあった60年代末、同じ横浜のこれも先鋭的バンド、”パワーハウス”のメンバーとセッションをした記録。

 今聞いてみればまだまだ未完成な”ロック”の姿ですが、今日のバンドには持ち得ない、なにやらカオスというしかない、みたいな音像が渦巻いています。漂うのは、ご禁制の”紫の煙”よりも、”不良の面影”って奴じゃないでしょうか。

 昔々、ロック少年をやっていた頃にこいつを聞いて、そのヤバめの轟音にずいぶんドキドキしたものですよ。
 いや、不良なら偉いってものじゃないです、そういうことじゃないんですがね。この頃の”日本のロック”が孕んでいた可能性ってもの、何処へ消えうせてしまったんだろうな、なんて不思議に思ったりするのです。




遠ざかるマダガスカル

2006-08-20 01:48:52 | アフリカ


 ”musique du monde”by Tombo Daniel with Toamasina Serenades

 もう何年前になるのかな、楠田江梨子がキャスターとなって、アフリカ沖に浮かぶ不思議の島、マダガスカル島の自然誌を何回かのシリーズでNHK-BSが放映したことがある。

 あれはなかなかに面白い番組で、ビデオに録って置かなかった事をいまだに後悔しているのだ。ブライアン・オールディスの書いたSF、”地球の長い午後”では、人類の文明が没落した後の遠未来、地球を覆いつくすことになっている”ベンガルボダイジュ”の生態など、実に味わい深かった。
 
 ベンガルボダイジュ、と書いた。ベンガルといえばインドの地名なのであって、その辺が出自の巨木が繁茂している大地なんてのも、アフリカというよりはインド洋文化圏として語りたくなるマダガスカル島を象徴するようなエピソードだった。

 そのような土地柄ならば当然、アフリカの要素とアジアの要素が激突、ユニークな音楽が生まれて当然なマダガスカルの、これは当地の民俗楽器、”ヴァリハ”をメインに押し立てた、かなり民謡色濃いアルバムである。

 ヴァリハは共鳴板に弦を張り渡した、ちょうど琴のような構造になっている楽器であって、そいつを体の前に突き出すように構え、掻き鳴らす。写真での見かけに比すると、ずいぶん分厚い音像を持つ。

 こちらはいかにもアフリカ色濃厚な女性コーラスとシンプルなパーカッション群をバックにヴァリハを奏で、渋い声で主人公のトンボ・ダニエル(なんか、突っ込みたくなる名前だ)は、やはりアフリカ色は強いものの、どこかしらに枯れた、不思議な寂寥感の漂うメロディを歌う。

 こうしてマダガスカルの音楽を聞いているとしかし、浅学の私などはアフリカとアジアの激突というよりむしろ、ラテン音楽、それもカリブ海周縁のベネズエラやコロンビアあたりの平原部の音楽に似ているな、などと感じてしまうのだった。

 独特の、前につんのめりそうになりながら疾走する”タタタ タタタ タタタ”と聞こえるノリのハチロクのリズムも似ているし、ヴァリハの奏でる和音の響きも、南米で広く使われている小型のハープ、”アルパ”の響きに極似していると感じられて仕方ないのだ。

 まあ、実際にはマダガスカルと南米、あまり関連性もないと思われるし、似ているとしても偶然でしかないんだろうけど。
 そういえばマダガスカルの沖に浮かぶ小島、レユニオン島の音楽を聴いた際にも私は、そのメロディラインに南米のフォルクローレ的な匂いが仄かに含まれていると感じた、そんな記述を以前、この場で行ったものだった。

 うん、これ以上はSFの領域に入ってしまうので論じるのは止めておくけど、もう少しか後の音楽について知識が深まれば、何か見えてくるものがあるのかも知れない。まあ、それまで宿題という事で。

 聴いていると、何かしら”透明な悲しみ”なんて言葉が連想される。まだ手の届かないずっと遠くから、風に吹かれて飛んできたマダガスカルの歌声は。




××しか聴かない人

2006-08-18 02:51:14 | 音楽論など


 音楽にもいろいろジャンルというものがあるわけですが、ワールドミュージック・ファンの中にも、”この音楽しか聴きません”と高らかに宣言する人ってのがいるんですよね。「そりゃいるだろうよ、誰でもが”どんな音楽でも全部聴きます”と言うわけには行かないさ」とおっしゃいましょうが、いやまあ、その生態、まことに不思議であったりするんです。
 
 たとえばですねえ、掲示板なんかで他のワールドミュージック好きの人に遭遇した際、その人は真っ先に言うわけです、「どんな音楽が好きですか?ちなみに僕はパキスタンとセネガルの音楽しか聴きません」なんて。で、それに対して相手が何か答えたとしても興味を示すでもなく、会話は続行しません。ただ板にヌスラット・ファテ・アリ・カーンやらの写真をコメントもなしのまま貼って、後は音沙汰なしとなったりする。

 何のことはない、ご自身がパキスタンのカッワーリーや、アフリカはセネガルの音楽のファンであり、”それ以外は聞かない”主義の人であることを他人にアピールできればそれでいい、それ以外のことには興味がないって人なんですね。
 そんなファン活動して何が面白い?と思うんだが。いやまあご本人がそれで楽しければいいんで、他人の私があれこれ言うことでもないんですがね。でもなあ。

 「××しか聴きません」っての、つまりは自分のリスナーとしての可能性を狭めてしまっていますって宣言しているのと同じでしょ?それをなぜ、そんなに誇らしげに言い放てるのか、不思議です。しかも。
 もう一度言いますが、世界にはさまざまな音楽が溢れている、そいつを楽しんでしまおうってのがワールドミュージックのファンであると私は理解してるんで、それのファンがそんな事を言うのって、ますます不思議。
 
 思い返せば、普通にロックファンをやっていた青春時代、同じような事を言ってる仲間がいました。「俺はブリティッシュ・ハードしか聴かないから」と、やはり同じように誇らしげに胸を張ってね。なんなんでしょ、あれ?自分はそれほど好きな音楽に忠誠を尽くしている、それが自慢だ、とでも言いたいんでしょうか。

 ともかくこれに関しては完全に理解不能です、私。これも先に言いましたが、誰もがすべての音楽のファンになれるものじゃない。それは当たり前。私だって耐えられない音楽はいくらでもあります。
 でも、「自分はこれしか聴かない」ってのが出会う人ごとに言って回りたいほどの自慢に思えるってのは。謎だよなあ???



恋人よ、アロハ♪

2006-08-17 02:05:51 | 太平洋地域


 ”トゥ・ユー・スウィートハート、アロハ”by アンディ・ウィリアムス
 
 アンディ・ウィリアムスといえば。と書いて自分で笑っちゃうんだけどね。だって、この歌い手に今、それも”ワールドミュージック”と銘打った場で、誰が興味を持つってんだ。

 けど、”ハワイ音楽の第一人者、山内雄喜の監修で1950年代から60年代にかけて米CBSに録音されたハワイの名盤を集めた`魅惑のハワイアン・サウンド`シリーズ”ってのを、この夏、順に聞いているところで、先に書いたゴードン・ジェンキンス楽団なんかもそのシリーズなんだけど、これがそのアンディ・ウィリアムス編という次第。

 で、アンディ・ウィリアムスといえば。時代が完全に”ロックの時代”に移行しても、古きよきクルーナーの流れを汲む歌唱法でそれなりにヒットも出し、生き残っていた美声歌手だった。

 自分の番組でゲストに「お前、そのカーディガン、奪ったろか?」とかからかわれているのを見たことがある。つまりアンディ・ウィリアムスが、いつも人畜無害な家庭的温かさを売り物にしている歌手であること、それを演出するのが、彼がテレビのショーでいつも着用している”舞台衣装としてのカーディガン”である、その辺を突かれたってことなんだけど。

 まあ、そんな感じの人で、あんまり興味もなかったんだけど、聞いてみて、この作品だけは気に入った。傑作といっていいんじゃないかな。

 ともかく表題曲の歌いだしの色っぽさ、これに尽きる。この歌唱は、これがいわゆるビロードの肌触りって奴なんだろうなあ。小市民が貪る生暖かい平和を、そこはかとなきエロスの香りで覆す。底知れぬ快楽の奈落に誘う悪魔のささやきともいえよう、その低音の響き。なにがカーディガンだ、ってなものでね。

 あとは、以前、フラ・ビリーのマーティ・ロビンスの時にも書いたけど、歌詞に頻出する”貿易風”の一言で気分は決まり。南の島への粋なロマンスの旅に、味気ない飛行機で一っ飛びの時代は、まだやってきていない。船旅ですよ、豪華な船旅。デッキの上で、海を渡る貿易風に吹かれて。

 まだアメリカの人々にもハワイが”夢の島”だった頃の甘い幻想が詰まったアルバム。本物のハワイ音楽よりも、ハリウッド映画あたりが出自の国籍不明のエキゾチック・ソング、”マナクーラの月”などがムードメイカーとしてアルバム中央に鎮座ましまして。
 夏の夜、虚構の、書き割りの、夜店で売っている影絵みたいなチープでカラフルな幻想が舞い踊る、なんだか懐かしい世界にひととき遊んでみるのも一興であります。




パシフィック・スイング

2006-08-16 03:11:12 | 太平洋地域


 “Kiyoshi Kobayashi / pacific swing”

 日本における代表的なジプシー・スイング演奏家として知られるキヨシ小林氏は、ギターばかりでなくウクレレ演奏にも力を入れていて、何枚かの興味深いアルバムを出している。とか言っても、実はこれが始めて聞いた一枚なんだけどね。

 アルバムの構想としてキヨシ氏いわく、「ハワイへジャンゴ・ラインハルトが海辺の休暇を過ごしに行ったイメージで」と。正確にこうだったか覚えていないんだけど、そのような事を言っておられた。

 で、実際にアルバムを聞いてみると。収められた曲のソースは特にハワイアンにこだわっていない。”ムーンリバー”もあれば”ブラジル”もあり、といった具合で、要するに、リゾート地にふさわしい気軽なノリで好きな曲を気ままに楽しみつつ奏でてみよう、そんなところではないだろうか。

 その意図は確かに成功していて、古今の名曲が素直な歌心で奏でられ、スタジオのミュージシャンたちの過ごしている楽しい時間の感触がそのまま伝わってくるような、素敵なアルバムとなっている。

 でも、ハワイっぽさってのはどうかなあ?なんか、あまりにも達者でお洒落なキヨシ氏のプレイのせいで、ハワイらしいのったりとした時の流れが感じられないんだなあ。あまりにもハイ・テクニックで弾かれちゃうと、ウクレレもまるで小型のギターみたいに聞こえて来て、それではあえてウクレレを手にする必然性もないんじゃないかなあ、なんて思ってしまったりする。

 ん、いや、こんなアルバムを聞いてそんな事を気にするのは、重箱の隅をつつくみたいな話なんですけどね。それにしても暑いですねえ。残暑お見舞い申し上げます。ご一同様。




VOXのギターが欲しかったんだ

2006-08-14 21:10:09 | 60~70年代音楽


 ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが使っていたVOX製のビワ型ギターが欲しかったのさ、シンプルにロック好きなガキだった中学から高校にかけて。
 初めて買ったレコードが、ストーンズの「黒く塗れ」のシングル盤だった。その後、”ニューロック”の嵐に洗われるまで、イギリスのビートバンドのファンとして過ごしたのだった、我が音楽ファンとしての幼年時代は。

 レコードコレクターズ誌の8月号がブライアンの特集だったので、同誌を久しぶりに買ってみたのだったが、やっぱり何を考えて生きていたのかもう一つ分からない男で、だから早死にし過ぎだってんだよ、ブライアン。ミック&キース路線で巨大ビジネスとしてのロックを邁進してしまったその後のストーンズなども思うにつけても。
 
 いや、ブライアンが生き残っていたからどうなるというものでは全然ないのだが。

 今回の特集などを読んでも、そもそもブライアンの肉声といったものもろくに残されていないと分かる。ともかく、「彼はそのとき、このように考えたのではないか」なんて推測ばかりではないか、書かれているのは。他人の記憶やら伝聞やらのフィルターをかけられた後のブライアン像。
 
 そもそも私が夢中になっていた現役時代も、曲を作っているいないの問題もあるんだろうが、ブライアンが何を考えているのか、よく分からなかったし、音楽的な主張というものも分かったような分からないような。そしてそれでも確かにストーンズには”ブライアンのいた頃の音”というのは存在している。そしてその音が、私にとっての”好きだった頃のストーンズの音”にそのまま重なる。
 
 シタールやらマリンバやらダルシマーやら不思議な楽器群を弾きこなし、モロッコの民俗音楽を”遺作”として残している事実を思えばストーンズのサイケ部門を担っていたかに見えるのだが、レココレ誌の”ベガーズ・バンケット”に関わる(そしてブライアンの、ストーンズからの解雇に関わる)記事にあたると、「ようやくストーンズが彼の志向する音楽性に戻ったにもかかわらずブライアンは」なんて書かれている。これをどう理解したらいいのか。

 どっちなんだ、ブライアン?お前はサイケでありたかったのか、デビュー当時のようにブルースを、アメリカの黒人音楽をやりたかったのか?自身のコメントが明確に残されていないだけじゃなく、今、こうして読んでみる”後世の評価”もまた、それぞれ矛盾しているようだ。

 と書いている私にしてからが、ブライアンのどこが好きだったのか、考えてみれば良く分からない。ブライアンが丸ごと自力で作った曲が残されているわけでもなし、彼の放っていた妖気のファンだったとでも言うしかない。ストーンズを夢中で聞いていた頃は、聞こえてくるギターのどれがブライアンのものかも知らなかったし、それどころか彼の得意としていたスライドギターの何たるかも分かっていなかった。

 それでも、ブライアンの突然の死をまるで契機とするかのように私はストーンズに興味を失っていったし、いや、ロックそのものの本流にも興味を失っていったのだった。そして結局、この件に関して確信を持っていえることは、ブライアンの使っていたVOX製のビワ型ギターが欲しかったなあ、あの頃。これだけだったりするのだった。




レバノン不良事情?

2006-08-12 23:49:24 | イスラム世界


 ”Dakhilo” by Fares Karam

 それは私も国際情勢にかんがみ、レバノンの大衆音楽などこの場で取り上げてみたくはあったんだけど、かの国にはファイルーズという偉大な歌手がおられて、この人をまず語らねば話は始まらないだろう、という感触がある。けどまあ、偉い人の苦手な私でありましてね、そこのところで立ち止まっていたわけです。

 けど、こんな盤だったら、私が語ってもよろしいかもと、謙虚な私は思うのです。

 ファレス・カラムと読むんでしょうか、地下鉄辺りで撮ったみたいなジャケ写真で、上着を羽織りながら無精ひげでこちらを斜に構えて覗うさまは、不良少年が歳食って、でもまだチョイ悪オヤジの境地に至るにはストリートの悪ふざけに未練もあり、みたいな風格のレバノンの若手男性歌手であります。

 歌声のほうも、下世話な街角の血の騒ぎ感覚横溢のワイルドなものであり、イスラミックなコブシが狂おしく脈打つさまは、聴いてるこちらも思わず握りこぶしに力が入る、といった逸物。

 サウンドも、歌声に劣らぬ荒削りな迫力が炸裂するアラビアン・ポップスであり、これはたまりません。

 不勉強で名が分からないのだが、強力な低音の響きの民族打楽器が演奏をリードしており、というか音像のど真ん中に位置して暴れまわるこのタイコと、ファレスのワイルドな歌声が四つに組んで取っ組み合っているみたいなサウンドであります。それ以外の男女混声コーラスや電子楽器の響きなど、吹き飛ばされるほどの勢い。

 ともかくレバノンの”今”を伝える一発。かっこいいなあ。ところでこのタイトル、”Dakhilo”って、まさかとは思うが、”ダークヒーロー”の意味じゃないよね?いや、そうであっても納得できるようなジャケ写真とサウンドではあるんで、ちょっと考えてしまっているんだけど。

 それはともかく。レバノン爆撃やめなさい。アメリカもさあ、オノレの国に一発食らえば、やれテロのなんのと大騒ぎするくせに、このイスラエルのご乱行は見てみぬ振り、というか影で援助って、ふざけた話じゃね~か。というわけで、頑張れ、ファレス・カラム。