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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ジャズ喫茶・忘れた闇の底から

2006-09-21 05:26:31 | いわゆる日記


 ”河出夢ムック・中上健次 没後10年”

 何年も前に出たムックの書評で申し訳ない。

 「河出夢ムック」の中上健次特集を読む。つまらない。面白かったのは、新宿で彼がフーテン状態にあった頃の仲間、川嶋光(その仲間のうちに、鈴木翁二がいた事を知り、ちょっと驚く)による一文だけだ。

 彼は、”あの頃の仲間”の視点を変えず、作家となり、社会的名士と化した中上を、「お前、何をまともな社会人みたいなツラ、してやがんだよう」と、変節したフーテン仲間としての扱いで、皮肉り倒す。湾岸戦争に対して反戦アピールを出した”作家協会の一員”たる中上に対して、「てっきりフセイン支持をぶち上げるのかと思っていたのに」と毒ずいてみせる。

 その死を悼む想いは、あくまでも内に秘められ、最後まであからさまになることはない。作家としての業績に関しても、無名のうちにあって、ジャズ喫茶の片隅で並べていた若き日の中上の益体もないゴタクを、当然の如くに上位に置き、世に文筆業者として名を成して後の業績になど、興味も示さず。その、身もフタもない論旨の偏りが、逆に、いっそ快く感ぜられる。

 その他の記事はいかがなものか。感心できるものは少ない。特に対談。ことに村上龍や某評論家(名も忘れた)などとの対談はクソである。話されているのは結局、「ここにいる俺らって、只者じゃないよなあ」それだけであり、そんな自足の宴に、何の価値があるものか。また、ビートたけしとの対談は、多くの”たけしvs文化人”の通例にもれず中上もまた、インテリをひたすら気取りたがるたけしに調子を合わせ、機嫌取りに終始するのみで、正視し難いものがある。

 そのような人間や、そのような状況を引き寄せてしまい、あるいはど真ん中に入り込んで自足してしまう部分。無駄に限られた時間を使ってしまったなあと、彼の早世を思うと、嘆息が漏れる。そんな連中と付き合っている時間に、1本でも多くの小説を書いておけばよかったのに。
 中上の”紀州・木の国根の国紀行”なる作品には、一読、すげー本だな、とのけぞった私なのである。それだけに。

 まあ人間、なにもかもどこまでもすばらしい、とはなかなか行かないのさ。ということだな。中上に限らずだけど。もちろん。




グレゴリアン・亡霊の囁き

2006-09-20 01:59:00 | ヨーロッパ


 ”Masters Of Chant: Chapter 4”by GREGORIAN

 ロックやポピュラー・ヒットをグレゴリオ聖歌風に歌う、というネタ一発のグループ、というかユニットのアルバムであります。と始める以前に、グレゴリオ聖歌とは何であるか?の説明が必要かもしれない。

 7世紀にカトリック教会の教皇が”精霊の導き”によって作ったと言われる教会のための典礼歌であり、ラテン語の歌詞を無伴奏、単旋律で歌う。まあ、今の感覚で聞けば単調、陰鬱な音楽であり、とうの昔に教会でも歌われてはいない。

 そのような、まあ亡霊のごとくの音楽フォームを埃を払って引っ張り出してきて、”いまどきの流行り歌”を歌ってみせる企画である。

 伴奏は、なんかいまどきの言葉で”アンビエントなサウンド”というらしい代物(この辺の見分けがよく分からない私も、結構、過去の亡霊か)であり、その硬質で無機的な響きは、グレゴリオ聖歌風の歌唱に、よく合っているとも感ぜられる。

 まあ、私のナワバリ的にはこのようなものを聴く機会もなかったんだけど、深夜のテレビでやっている、三輪明宏先生と何とやら言う霊能者(?)による霊感人生相談番組(?)のクロージング・テーマに使われているのが、このアルバムの中の曲であると知り、ちょっときちんと聞いてみたくなった次第。

 あの番組は、「テレビをつけっぱなしにしておいたら始まっていた」という形で何度か見ているんだけど、基本的に前世だ霊魂だなんて話は私は信じていません。
 だから番組も外角低めに見送っていたんだけど、そのエンディングの音楽が、なにか気になっていた。いかにも「聖なる音楽だぞ」ってな響きではあるものの、いかにもインチキ臭い響きも同時にあり、こんなものを聞いて良い気持ちになってしまったら、音楽ファンとしては不覚というしかないだろう。

 とはいえ。それは妙に人の心を惹きつけるインチキ臭さであり、何度か聴くうちに、その胡散臭さにあえて身をゆだねてみるのも一興ではないかといつか思い始めていた・・・そしてついに先日、その曲、”メイド・オブ・オリンズ”が収められた”グレゴリアン”の本アルバムを購入してしまった次第。

 で、腰を据えて聴いてみたら、これはそうそうバカにしたものではなさそうだぞ、むしろ相当な曲者ではないかと考えを改めた私なのであった。”裏のそのまた裏”みたいな話なんだけど。おっと、このグレゴリアンなるコーラス集団の首謀者は、ドイツのロック・ミュージシャンなんだな。

 ともかく選曲のセンスが端倪すべからざるものがある。”スカボロー・フェア”や”明日にかける橋”など、非常にベタなものから、マニアなものまで、ゴタマゼで突っ込んであって、その辺、受け狙いなのかジョークなのか、皮膜の間のギリギリを行っているのである。

 ジャケ写真も、これは中世の僧服のつもりなんだろうか、頭まで覆った長衣をまとったメンバーが立ち並ぶ意匠でずっと来ているんだが、どうみてもホラー映画の一場面としか見えず。長衣の下には、人間の姿をしていない何者かが潜んでいるみたいに見える、というか明らかにそんなイメージを抱かせる演出だな。

 そのような怪奇ビジュアルで名曲やら秘曲やらを、時代錯誤の氷の芸術みたいな温度の低い美しさのコーラスで聞かせる。
 イージーリスニングみたいに装ったその底に潜んだ人間存在そのものに対する底意地の悪い悪意みたいなもの。その苦いユーモアの手触りに、いつのまにかこの不気味なコーラス集団、”グレゴリアン”のファンになっている私なのであった。やっぱり不覚か?



旭硝子のショウコ批判

2006-09-19 03:43:28 | いわゆる日記


 旭硝子という会社のシリーズCM、”硝子と書いてショウコと読ませる女子高生の留学物語”ってのが、いかがなものかなあと思われるのだが、どうでしょう?

 続きもののCMによって、”引っ込み思案だったショウコが、ベルギーだかどこだかに一念発起して留学、やがて国際感覚を身に付けた、積極的な生き方を志向する一人の女性に成長して行く”そんな物語を見せたかったわけですな。先刻のワールドカップの際は、「友達とドイツに行きました」とか流行の話題も抜け目なく絡めつつ。

 最終的には広告代理店の決まり文句、「当社はこんな生き方を提案します」で締めたいと意図して作っているんだろうけれど。そこで提示されている”ショウコ像”が、日本の一般大衆には一番嫌悪される帰国子女のパターンをなぞってしまっていることに気がついているんだろうか、製作者は。

 ”西洋じこみの正義正論”を盾に、日本の精神風土を高所から見下ろし、それらを”未開のもの”として一方的に断罪する。そんな存在。そりゃ、嫌われるよ。
 ちなみに、嫌われているのは”正義”じゃなくて、その独善性なんだけど、自身は「正しいことを言っている自分を認めない社会に問題がある」って見解を崩さない。あなたの論が否定されているんじゃなくて、あなた自身が嫌われているんだってば。

 あのCMシリーズが織り成してゆく物語が帰着した結果として出来上がるのは、そのような人間でしかないんじゃないか?外国に行きさえすれば、皆、立派な人間になりますか?オノレの西洋コンプレックスを、キレイ事にまとめて、安い物語を作っているって反省はあるのかなあ。

 別に帰国子女的なものすべてが不愉快とか言っているんじゃなく、その辺の微妙な人心への配慮が出来ない連中が作ってるCMがあり、それがいかにも「良心派が作りました」みたいな顔して日々、流されてるって事実、困ったもんだと言いたかったわけですが。

 なんかさっきテレビを見ていたら、硝子チャンの留学も終わったようで、”帰国風景ヴァージョン”みたいなCMが放映されてましたが。さて、この留学物語、どのような総括がなされるのでありましょうか。あ、あのままなんとなく終わり、かな?(笑)



キャトル・コール

2006-09-18 02:30:27 | 北アメリカ


 日曜日の昼下がりのテレビで、二人の女性タレント、”オセロの黒”と”巨乳の優香”によるニューカレドニア島観光案内みたいな番組をぼっと眺めていたのだった。

 サンゴ礁が盛り上がって出来た海辺の長大な壁、という奇景が映し出され、そこでは奇妙なヤマビコのような現象が起こると紹介された際、ふと「それじゃあ、そこで”キャトル・コール”とか歌ってみるのも一興ではないか」とか思い、そんなものをメロディ付きで覚えていた自分に、ちょっと驚いてしまった。

 それはまだ私が小学校の低学年だった頃、テレビなんかまだ白黒で当たり前の時代だった。昭和30年代の出来事。
 テレビや映画でウエスタン・ムービー、当時のいわゆる”西部劇”を、つまり開拓時代のアメリカ合衆国を舞台にした勇敢なカウボーイやヤクザなお尋ね者の活劇であるが。という説明でもしないと誰にも”西部劇”なんて分からないかと思い書いているのだが、くだくだしかったらすいません。

 ともかくその種のものが好きな西部劇マニアの子供であった当時の私は、”アメリカの西部から本物のカウボーイがやって来る”なんて触れ込みの広告を少年雑誌で見かけ、おっこれは!と大いに期待したものだった。腰にガンをぶち込み、馬にまたがった粋なカウボーイたちが日本にやってきて、彼らの生活をテーマにしたショーを行うというのだから。

 当日、東京で行われたそのショーには、残念ながら連れて行ってもらえなかった私だったが、テレビ中継されたカウボーイ・ショーには、当然ながらかじりついた。

 サーカスの興行でも行われるような大きなテントのうちに牧場のそれを模した柵が張り巡らされ、宣伝通りの”アメリカから来た本物の”カウボーイたちが、その中を馬に乗って闊歩していた。
 まるでプロレスの実況のごとくにアナウンサーが、その場で行われていることを実況し、”アメリカ帰りの、アメリカ通の先生”なる人物が解説者としてコメントを述べる形で番組は進行した。

 番組が始まって10分と経たないうちに。「なんだか変だな」と私は感じ始めた。なんと言ったらよいのか、”本場のカウボーイのショー”が、まるで面白くないのだ。それはそうだ。今にして思えば、だが。

 実際にショーを行っているのは数人の馬に乗った外人だけであり、要するにそれだけなのだ。その連中がその場にいもしない”牛の群れ”を追う際の手順などを淡々と演じて見せても、間が抜けているだけで、ショーにも何にもなりはしない。

 今日だったら、たとえば荒馬に乗ってロデオを演じて見せるとか、派手に拳銃を撃ちまくって”ガンマン同志の決闘”などを大いにショーアップして見せるところだと思う。その程度の演出もなく、真っ正直に開拓時代の西部の習俗を演じてみても、そりゃ面白くないよ。

 彼ら”カウボーイ”が”後進国”たる日本を甘く見ていい加減なショーで小金を儲ける気を起こしたのか、それとも現地アメリカでも、そのレベルの”ショー”を行っていたのか知る由もないが、ともかく、鳴り物入りで宣伝し、テレビで中継までする価値のある見世物でないことは、当時まだガキである私でさえわかった。

 中継は、確か呆れた父がチャンネルを変えてしまう、という形で中断されたのだが、私としても文句を言う気はなかった。
 まあ、まだまだそんなものが普通に跋扈する時代ではあった。ようやく”戦後”から抜け出し、高度成長へ向けて走り始めたばかりの日本は。

 後年、五木寛之の小説で、この”ウエスタン・ショー”の背景について読む機会があった。やはりあのショーは、あまりのつまらなさに客が入らず大赤字を出したと。当時、日本のショービジネス界の寵児といわれた人物が、つまずき、没落して行くきっかけを作ってしまったと。

 それでも。私の記憶の中には。奇妙なことに、あの時、”カウボーイ”(いまや、それだって、本当に本物だったか怪しいが)が馬上で歌っていた牛追いの歌、”キャトル・コール”のメロディが生き残っているのだ。子供の頃の記憶というのも凄いものだが、それにしても。テレビで一回聴いただけだぜ?我がことながら驚いてしまう。

 おそらくはケルト起源と思われる、つまりはその方面からのアメリカへの移民者たちに歌い継がれて来たのであろう、美しい三拍子のメロディ。”トゥ~トゥ~トゥルゥリィォ~♪”という、そのメロディが、日米、どちらの関係者にとってもおそらく忘れ去りたいようなドジ公演の置き土産として、なぜか私の記憶の中に、いまだに生き残っており、歌えといわれれば歌える状態にあるのだ。

 ある意味、呪いといえようか。なんで私にかかってくるのか知らないが(笑)




死んだ女の子

2006-09-16 02:54:05 | いわゆる日記


 ナジム・ヒクメット(Nazim Hikmet)
 1902年 オスマン帝国サロニカ生まれ、
 1963年6月2日モスクワで死亡。
 詩人、劇作家、小説家。

 ××さん、はじめまして。
 ご紹介の「死んだ女の子」を、一昨夜、元ちとせが歌うのをテレビで見ました。
 今になって、あの歌をあのような形で聴くことがあるとは思ってもいなかったので、ちょっと驚きでした。どのような経緯で彼女は、あれを持ち歌にするようになったんでしょうね。

 「死んだ女の子」は、高校時代、友人が持っていた高石友也のLPで聴き馴染んでいた歌でした。
 今、あの歌の歌詞を思い出そうとすると、ほぼすべて、記憶に残っているので驚いてしまいます。広島への原爆投下により、7歳で死んでいった女の子が「炎が子供を焼かないように、平和な世界にして」と人々の戸口を訪ね歩く歌。

 (中本信幸訳、外山雄三作曲)

 あけてちょうだい たたくのはあたし
 あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたく
 こわがらないで 見えないあたしを
 だれにも見えない死んだ女の子を

 あたしは死んだの あのヒロシマで
 あのヒロシマで 夏の朝に
 あのときも七つ いまでも七つ
 死んだ女の子はけっして大きくならないの

 炎がのんだの あたしの髪の毛を
 あたしの両手を あたしのひとみを
 あたしのからだはひとつかみの灰
 冷たい風にさらわれていった灰

 あなたにお願い だけどあたしは
 パンもお米もなにもいらないの
 甘いあめ玉もしゃぶれないの
 紙きれみたいにもえたあたしは

 戸をたたくのはあたしあたし
 平和な世界に どうかしてちょうだい
 炎が子どもを焼かないように
 甘いあめ玉がしゃぶれるように
 炎が子どもを焼かないように
 甘いあめ玉がしゃぶれるように

 ずいぶん古い歌なのに、それを時代遅れのテーマに出来ない私たちの”今”を恥ずかしく思うべきでしょうね。

 この歌詞を書いたトルコの人、ナジム・ヒクメットは大好きな詩人で、昔、角川書店から出ていた「世界反戦詩集」に収められていた、「そしてこの夜明けに」なんて詩は、おりに触れ口ずさんできた、そしてこれからも、何度も思い出さずにいられないであろう一篇です。

「人々が苦しみの中で死んで行き、権力者は企みを抱き、そして朝焼けの空を、原子爆弾を積んだ爆撃機が出撃して行く。そんな夜明けに希望はあるのだろうか。希望。希望。希望は人間のうちにある」

 そんな詩でした。 カッコ悪い話ですが、深夜、一杯やりながらこの詩を読んでいるとボロボロ涙が流れて止らなくなることがあります。一体、何が悲しくて自分が泣いているのかも良く分からず。いや、悲しくて泣いているのか感動して泣いているのかもよく分からず、ですが。

 政治的混沌のうちにあった当時のトルコの地で民族解放運動に加わり、ために17年の長きに渡って獄に繋がれもしつつ、その筆の力によって民衆をいたわり、勇気付け続けたヒクメット。
 そんな彼らしい結論と言えるでしょう、すべての希望がかき消されたかに見える朝焼けの空に向かって、「希望は人間のうちにある」と歌い上げるのは。


シェラレオネのファンク帝王

2006-09-15 00:10:13 | アフリカ


 ”Heavy Heavy Heavy”by Geraldo Pino

 お~これは気持ちの良い一発に出会ってしまったなあ。

 という訳で、西アフリカはシェラレオネ出身の歌手&ギタリスト&バンドリーダーであるジェラルド・ピノの”Heavy Heavy Heavy”であります。
 どうやらこの人は1960年代から70年代のアフリカン・ポップス界の最先鋭を突っ走っていたんじゃないか。この盤は当時のレコーディングを集めたものなのだが、今聞いても相当なカッコよさなのである。

 現代アフリカの大衆音楽といえば、新大陸はカリブ海からアフリカの地に先祖がえりしてきたアフロ=キューバン系音楽が根となり、それにアフリカ的洗練が加えられる形で形成されてきたものが大勢を占めると考えていいのだろうが、ピノの場合、その辺すっ飛ばしてかのファンクの帝王、ジョームス・ブラウンのフォロワーとして西アフリカに狼煙を挙げた人物なのである。

 そもそも収められた曲の曲名がすでに”来て”いる。”Africans Must Unite”である。”Power To The People”である。そんなのばっかしである。まさに絶頂期のジェームス・ブラウンを師と仰ぎつつ、のピノの鋼の喉が、そんなソウルまみれのメッセージをパワフルにシャウトするのである。これはかっこ良いよ、めちゃくちゃ。

 サウンドは、帝王JBのファンク・サウンドに多くを負う尖がったファンク・サウンドなのだが、その一方でまったりとたゆたうアフリカ特有の地母神の湿り気みたいなものも懐に抱いている、そんな奥行きも感じる。

 顕著な特徴として、ファンクとはいえどホーンセクションは存在しない。これには

 1)必要としなかった。
 2)入れたかったが奏者がいなかった。
 3)奏者はいたが雇う予算がなかった。

 などなど、様々な理由が考えられるが、どれを正解とする根拠も資料不足で見つからない。けれど、ホーンズのない空白を埋めるかのように饒舌に弾きまくるオルガンの響きがそれを補って余りある、というより、ピノのファンクサウンドに独自の魅力を生み出す結果となっている。

 そのオルガンの奏者名が分からないのが非常にもどかしい。実にイマジネイティヴなプレイであり、弾けまくるリズム隊を従え、湧き出る泉のごとくにファンキーなフレーズを連発するさまは素晴らしく、”ホーンセクション抜き”のサウンドを、むしろ非常に今日的なものとなって響かせることに成功している。
 リアルタイムではどのような受け取り方がなされていたのか、非常に知りたく思えてくるのだった。

 あっと、最初に言っておくべきだったが、このピノのサウンドは、フェラ・クティのアフロ・ビートの形成に大いに影響を及ぼしたと、これはフェラ自身のコメントである。凄い人はまだまだいるねえ、アフリカには。




「フォークであること・・・高田渡と高石ともや」

2006-09-13 06:07:44 | 60~70年代音楽


 ひょっこり録画したビデオが出てきたので、2年ほど前にNHKテレビの”ETV特集”で放映された「フォークであること・・・高田渡と高石ともや」なるドキュメンタリーを見直す。ともに、60年代から”日本のフォーク”を唄い続けて来た二人の、それぞれの人生を追ったもの。

 これは何度も繰り返した話なんで、聞かされる人には「またか」であろうが、私の通った高校はフォークソング大好き、それも、当時流行の学生運動と絡めて反戦フォークを聞いたりするのが極めて意識の高い人間である、との認識が多数の暴力といいたいような形で出来上がっている学友諸君が跋扈する場所だった。その中での少数派、ロック大好き少年だった私には、そんな環境は居心地のいいものではなく、”日本のフォーク”なるものにも、当然、反感を感じずにいられなかったのである、当時は。

 そんな私にとって、高田渡は、反感を抱く事のない、数少ないフォーク歌手の一人だった。勝手な正義を声高に叫ぶ事もなく、飄々と世相を皮肉る姿には、なかなかに好もしいものを感じていたのだった。一方、番組のもう一人の主役、高石ともやは、まさに反戦フォークの嚆矢とも言うべき存在だったのだが、私がフォークに反感を感じ始めた頃には、後発の岡林信康が”フォークの神様”として崇められる時期に入っており、高石はもはや”硬派のフォークファン”にとっては鮮度の落ちた存在であった。あまり学友諸君も熱い思いを語ったりする対象ではなくなっていた。のであったので、岡林に対するほどは反感を抱く事もなく、まあ、特に関心もない人物、というのが正直なところであった。

 そんな二人の人生に、”テレビの中の映像”として、あらためて向かい合ってみたのだが。

 ごひいきであった高田渡が、飲んだくれつつステージでギターを弾き語り、単なる酔っ払い状態の語りを披露する、そのありさまを見ているうちに、なんだか”高田渡演ずるところの高田渡”なんてショー見物の気分になってきたのだった。

 ことに、”ステージの最中、酔って寝てしまう”なる伝説を、カメラの前で”実演”して見せた際には。ほろ酔いシンガーたる高田が、時にそのような惨状を呈するとは聞いていたが、こうも都合よくテレビカメラの前で実例を見せられるとは。それを見て、「あ、始まった!」と笑い転げる客たち。これでは、ジェームス・ブラウンの”マント・ショー”ではないか。

 いや、わざと演出で、高田がそのような振る舞いに出たとは思わない。そこまで器用なことの出来る男ではない。偶然、テレビカメラの回っている場所で、”例の奴”をやってしまったのだろう。
 が、無意識に自分の”高田渡ブランド”をなぞって生きてしまっているってのは、あるのではないか。作り上げた自己のイメージをなぞり、再生産する事。それが、ステージ上で、というより生き方そのものになってしまっているのでは?そんな風に、実年齢より以上も老けて見える高田渡のすっかり白くなったひげなど見ながら考えた。
 そして・・・そう、高田はもう、帰らぬ人となってしまっているんだなあ。

 ステージの前にあおる酒、場末のたち飲み屋での、”そこらのオヤジ”たちとの交歓。などなど。テレビサイドの演出もまた、伝説の再現に興味の中心はあるかに思えた。
 狭いライブハウスのステージ。客たちは、すでに持っているレコードで聞き覚えているはずの風刺ソングの歌詞に、まるでその場で初めて聞いたかのように反応し、「これはやられたな」みたいな思い入れを込めて苦笑してみせる。それらもまた、”共犯”としての伝説の再現。
 などと因縁をつけても仕方がないだろう。そのような”芸能”として、高田渡は完結したのだ。そして多分私も、客席のその場にいたら、”ショー”を十分に楽しんだに違いないのだ。そのようにして時は流れた。今更、何がどうなるというのだ。

 高石ともやは。
 アメリカの”社会派フォークの第一人者”であるピート・シーガーに感動し、自身の”社会を鋭く斬る”歌を歌い始めた。それが当時、60年代末の”造反有理”の風潮に乗り、今風に言えば”ブレイク”するのだが、その風潮のエスカレートにより、「もっと意識の高い歌手であれ」との、今にしてみりゃよく意味の分からない(というか、当時だって皆、訳も分からなかったはずだ。にもかかわらず、そんな事を怒鳴りあうのが流行だったのだ)非難を、かっての支持者から浴びせられ、嫌気がさして田舎に引きこもる。田舎の生活の中で、自分にとって自然な唄とは何かを再発見し。ついでに、市民マラソンランナーとしても、名を馳せてしまう。

 こうして彼の歌手としての人生をなぞって書いていても、・・・まあ、なんというベタな人であろうか、と感心してしまうのだが。そんな彼は、所望されれば番組の中でも自分の唄を朗々と歌い上げる。しかも、フルコーラス。照れとか、そういうものはない。普通に嬉しそうだ。そういえば高石の顔の照り、なんだか長嶋監督のそれとよく似ている。同じ人種なのではないかと、ふと思った。




グローバル・スタンダードなる身勝手

2006-09-12 03:30:07 | 時事

 記事としては一日遅れになってしまいましたが。というか、この話、まだする必要があるとは思わなかったんだけど、ネットのあちこちを覗いたら、そうでもなさそうだと今ごろになって気がついたもので。

 そう、いまだに”9・11”をまるで人類史上最も悲惨な事件が起こった日、みたいな扱いで語る人がいる事実に、むしろ私は慄然としてしまうのであります。

 たとえば、ついこの間までレバノンで、あるいはこの瞬間にもパレスチナで、イスラエルという国家による”テロ”により、多くの人々が死んでいっている訳ですが。
 そしてその蛮行の後ろ盾になっているのは、まさにその”9・11”の”被害者”たるアメリカという国であるわけですが。

 あるいはそのアメリカが今この時間にもイラクの地において行っていること、それ一体、なんなのでしょうね?

 「あの日を境に世界は以前と違うものになった」とか言う人もいます。

 ベトナム戦争の際、アメリカ軍の行った北ベトナム(当時)への爆撃に、一体どれだけの爆弾が投入されたか、どれほどの薬品がベトナムの野を焼いたか、お調べください。
 それに比べたら、”9・11”にアメリカに”命中”した”爆弾”は、”微小”とさえ言える規模のものです。
 
 その程度でいちいち歴史が変わっていたら、当時のベトナムでは分刻みで歴史が変わっていたでしょうね。まあ、遠くの地に思いをはせるまでもない、近所のお年寄りに東京大空襲の際の思い出話でも聞いてみるのが良いでしょうけれど。

 アメリカ人でもないのに、アメリカが”始めての本土爆撃”を食らったのがいまだにそんなにもショックな人たちって何でしょう?不思議でならないのです、私は。




サリフ・ケイタを聴かない理由

2006-09-11 02:48:45 | アフリカ


 ”RAIL BAND・SALIF KEITA & MORY KANTE - MALI STARS VOL.1”

 こんな話、わざわざすることもないんだけど、寄る年波、ここらで書いておかないと本格的に忘れ去ってしまう危険も見えてきたので。

 いつぞや、ワールドミュージック・ファンとして、サリフ・ケイタの話でもしておけばもっと多くの方がこのブログを見に来てくださるかも知れないものを、何の因果で自分は、タンゴやハワイアンと言った、「いまどきの青少年が、それでは盛り上がらないだろう」って方向の音楽にばかり心惹かれるのだろう、とかぼやいた事があった。

 そう、そもそもなんで私は、ワールドミュージックの世界の一枚看板とも言える存在のサリフ・ケイタを聞かなくなっちゃったのだろう?以前は私も普通に、サリフ・ケイタの音楽を楽しんでいたんですよ。それが。
 まあ、首を傾げるまでもなく、その契機となった事件を私ははっきり覚えている。事件てのもオーバーな言い回しだが。

 あれはずいぶん前のこと、”ミュージック・マガジン”の記事ではなかったかなあ。来日したサリフ・ケイタのステージ評だった。そこに、サリフのステージ上の様子が報告されていた。いわく、サリフは演奏中、ふいにバックバンドのギタリストの襟首を掴み、鬼神の表情でステージ上を引きずりまわした、と。

 その様子はまさに気高き芸術家誕生の姿、などと賞賛の言葉と共に、報告されていたような記憶がある。だが私はそれを読んで・・・「サリフって、嫌な奴なんだなあ」としか思えなかったのである。そのような振り付けになっていたのか、それとも自然発生的に起きた事柄なのかは、もちろん知らないが。
 
 私だったらバックを固めてくれるミュージシャンにはもっと敬意を持って接したい。彼らは”子分”じゃないんだから。

 それよりなにより。そんな風にして芸術家ぶって客席に見得を切るサリフって、なんだか”ベルリン・フィルを指揮するフェルベルト・フォン・カラヤン”とかと、その権威主義において、なにも変わらないじゃないかと思えてきて、しらけちゃったよのなあ。

 延々と書いてきましたが、まあ要するに偉そうにする奴は嫌いだよ」って、それだけの話であります。ちなみに、私が最も好きなサリフ絡みのアルバムは・・・
 ありゃりゃ、現物がどこかにもぐりこんでしまって出て来ないんだが、”レイルバンド・デュ・マリ”とか言うバンドのアルバムでした。サリフが、まだしがないローカルバンドの構成員でしかなかった頃の音源ですね。

 ここでのサリフは、邪念のない素朴な一人の歌い手でしかなく、そのメリスマのかかった歌声のむこうに、砂埃に襲われるチンブクトゥの町や、雄大なニジェール河の流れ、それらに囲まれて生きて行く人々の暮らしの匂い、そんなものが立ち上がってくるようで、なかなか快かったのでありました。



レゲとレガエの頃

2006-09-09 03:29:47 | 南アメリカ


 それはまだレゲという音楽をレゲと呼ぶのが正しいかレガエと呼ぶのが正しいか、なんてのどかな議論がなされていた頃の話であるが。あっと、”レガエ派”の急先鋒は中村とうよう氏であったのだけれども。で、もちろん、アナログ盤の時代の話ね。

 あの頃、「世の中にはレゲ(レガエ)などという音楽があって」という”紹介もの”としていくつかコンピレーションもののアルバムが出されていた。まだ出す側もあんまりレゲという音楽の何たるかも。まあ、分かってはいたかも知れないが、どのように売って行ったら良いのかに関しては手探り状態であったはずだ。

 その辺のアルバムに入っていた音楽って、ちょっと好きだったなあ。ジャケには椰子の木なんかがあしらわれ、まだラスタがどうの、といった影も見えず、なんだかハワイアンのアルバムと見た目は変わらない。音楽自体は軽いノリのR&B曲カヴァーが主体だった気がする。

 気がする、というのは、もうそれらは手元には残っていないからなのだが。その後に出された”本格もの”を聞くにつけても、それらはいかにも入門用のサンプルっぽい匂いがして、もう持っている必要がない、というか持っているのが格好悪く思え、さっさと始末してしまったのだ。

 これはつまらない選択だったなあ。あれってなかなか良い雰囲気の音楽だったぞ。いま思えば。実にシンプルにアメリカのR&Bのカヴァーであり、その安易さ、腰の軽さが、いかにも大衆音楽の楽しさを伝えていた。大衆の甘やかでいい加減な夢の集積としての愛しきポップ・ミュージックの顔をしていた。

 後に知ることとなるジャマイカの現実、それを伝える音楽としての重い手触りなどとはずいぶん様相の違う代物。

 あのようなものをレゲの入門用に持ち出したことを、紹介者側は”レゲという音楽に誤解をもたらす反省すべき選択だった”とか考えているんではないかなあ。その後の”日本のレゲ・シーン”が辿ったシリアス路線を思えば。

 その背後に控えるシリアスなメッセージなど語るほうが、そりゃカッコイイし、ワカモノたちにも話題として売り易いんだろうけど。でも、”偉大な芸術家の高貴な芸術音楽”よりも”庶民の低レベルな娯楽”の中に瞬間宿る輝き、そんなものに心引かれる性分の私としては、あの”軽レゲ”路線がそのまま続いていたら、今ごろ結構なレゲ好きでいられたのではないかなどと思ったりもするのだ。

 なんて事を言うと、本格派のレゲファンに叱られてしまうのかも知れないが、あの”椰子の木陰のお調子者の娯楽音楽”が、今となってはいとおしい私なのであった。

 それにしても、あれらのアルバムに収められていたミュージシャンって、誰だったのか。調べれば分かることでもあるんだろうけど、そうせず放ってある。
 それらを手放してこれだけ時間が経ってしまうと、思い出の中でイメージが増殖して、いざ本物を聞いてみたら「なーんだ」ってなことになる場合も往々にしてあるからね、思い出のままに置いておく方がいいのかも、とか思って。

 微妙なものであります、音楽との出会い方、付き合い方も。