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たのしいゲーム

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街 サイドストーリー5

2014年05月05日 18時00分00秒 | 街 サウンドノベル
 AM8:00



九郎を捜しているという者のことを考えてみた。

心当たりはなくもないが、なにぶん中国で人を殺しまくってきた。誰に恨みを買ったかなど断定できぬ。

旧友、伐は、その相手を「寧安喰肉公司」の社長であるらしいと言った。

それは何者だろう?

昨日、喫茶店を出た時から九郎と伐を尾行してきた男も関係があるのだろうか。

その時、

誰かが近づいてくる気配を察知した。

自分に用があるらしい。気配で分かった。

九郎は座った姿勢を崩さず、臨戦体勢をとった。

「木曜日」

後ろから声をかけられた。

「ん、なんだ?!」

九郎は拍子抜けしたような顔をした。

振り返ると、日曜日が立っていた。

よくよく考えればこの気配は日曜日のものと断定できたものの、過度に反応した自分が恥ずかしい。

「なんだ、じゃないわ。昨日3時にアン・カフェに来てって言ったじゃないの」

「えっ?」

(……あのメールは日曜日が送ってきたものか?)

「どうしたの。そんなハトが豆鉄砲を食らったような顔をして。アラ、いつもは上げる方だっけ、ウフフ」

九郎は渋面になった。

「どうしたの……怖い顔をしないで。確かに突然呼びつけたのは悪かったけど」

「あのメールは……お主が?」

九郎は訊ねた。

「メール……お手紙のこと? ええ、そうよ」

日曜日は言った。

(そうだったのか……ワシはてっきり。イヤ、待てよ!)

「どうしたの? コロコロと表情を変えて。睨めっこ?」

「イヤ……お主、どうしてワシに本名宛てでメールを送った?」

「本名? 知らないわ。お手紙にはきちんと『木曜日様』って書いてあったじゃない?」

「……『木曜日様』?」

だとすれば九郎はそのメールを受け取っていない。

(アッ……『お手紙』?)

日曜日は「電子メール」のことを言っていたのではなく、アナログの「手紙」のことを言っていたのだ。

そういえば、昨日は伐と一緒に自宅の門をくぐったが、郵便受けの中は見ていないことに気付いた。

「そうか……ワシはお主がワシ宛てに寄越した手紙は見ておらぬ」

「えっ、だってさっき、お手紙がどうとか言ってたじゃない」

「いや、それは電子メールのことで、お主がの手紙のことじゃないんだ。別物だ」

「アラ、じゃアレは見ていなかったのね?」

「ウム……ところでなぜ、電話で呼び出さなかった?」

「電話したわ。でも範囲外だったの」

携帯電話のことを話している。

「おかしいな……昨日は電波の届かぬ処にいたかな?」

「電源が切れていたとか、バッテリーがなくなっていたとか?」

「それはない。いつでも使えるようにしてある」

「変ね……まあいいわ。とにかくその指令は別の人にやってもらいましたからいいんですが」

「そうか……すまぬな」

「いいえ。まずは報告まで。それじゃ、チンチコール」

「ウム、チンチコール」

日曜日は去っていった。

(あのメールは七曜会じゃないのか。では誰が)

……送ってきたのか。

少し考えたが、結局ソレらしい相手は思い浮かばなかった。

九郎に名指しでメールを送り付けたのは何者なのだろう。



 AM10:00 九郎の自宅



伐との約束の時間まで少しある。

九郎は一度、自宅に戻っていた。

郵便受けを確認したが、日曜日の言っていた手紙らしき物は無かった。

既に日曜日の手で回収されたのだろう。

九郎は寝室に入り、障子を開けた。

松の木が日を浴びているのが見えた。

九郎はパソコンの前に座り、電源を入れた。

九郎のコンピュータは、常に電話線と繋がっている。



『メールが1通届いています』。



また画面にこのメッセージが出た。

「オッ?!」

九郎は即座にメールを開いた。



『拝啓 代島九郎様

 昨日は会えずに残念です。

 今度はいつお会い出来ますか?

 私のメールアドレスは……』



そこに、差出人のEメールアドレスが書いてあった。

しかし、名はまた書かれていない。

九郎は通信ソフトの上に、エディタを開いた。

これで通信用の文章を書ける。



『前略、代島九郎です。

 いきなり失礼ですが、あなたは何者でしょうか。

 私の知っている人物なら、最初から名乗ってくださればよろしいのに。

 お会いしたいとおっしゃるのなら、明日、10月14日の午後3時、

 あなたの指定したアン・カフェにてお待ちいたします。     草々』



それをセーブし、また通信ソフトの画面に戻して、相手のアドレスに送り付けた。

明日、という指定は少々先のことのように思えるが、メールを送って「今日会いましょう」ではさすがに不躾というものだ。

それに、今日は伐とまた会う約束を取り付けてある。

(さあ、正体を拝んでくれようぞ)

九郎は鋭い目つきで、『メールを送付しました』というメッセージを凝視していた。



 AM10:30



そろそろ出かける準備をしようと思った。

九郎はステッキを保管してある部屋へ行き、今日手に持つステッキを選んだ。

ちなみに九郎の300本に及ぶステッキはコレクションで、普段持ち歩くステッキは、全く同じものを7本持っており、曜日によって使い分けているのである。

九郎がステッキを手に取り、フィット感を確かめていた時、チャイムが鳴った。

ピンポーン!

九郎は玄関の方へ歩いていった。

扉ごしに見える男のシルエットが、

「宅急便でーす!」

と言った。

九郎は玄関の靴を入れる棚の上のハンコを手にとり、扉を開けた。

「ご苦労様」

九郎はその宅急便を運んできた男の持っていた送付状にハンコを押すと、段ボール箱を受け取った。

直径が3~40センチくらいの長方形の箱で、中身は軽いものだった。

趣味でやっている懸賞にでも当たったのだろうか。

宅急便を運んできた男はハンコの押された送付状をズボンの後ろのポケットにしまう動作をした。

(ン?)

九郎は、逆光でよく見えなかったが、その男の目が怪しく光るのを視界の端で捉えた。

が、遅かった。

男は後ろからスプレーを取り出し、自らは鼻をつまんで九郎に向かって放った。

「フムッ!」

九郎は不覚にもそれを吸い込んでしまった。

男は、九郎が息を吸う瞬間を狙ってスプレーを吹きかけたのだ。

(なんだ、これは……)

九郎の視界は揺らいだ。

焦点がぼやけ、視界は空に向かっていた。

立っていることが出来なくなり、九郎はその場に尻もちをついた……と思ったら、即座に意識を失った。



  4日目につづく









 10月14日 土曜日、昼ごろと思われる(正確な時刻は不明)場所も不明



すべてのことには、必然性があると、五台山の老師は言った。

偶然の一致に見えるものも、なにか神秘的な力によって引き合わされるのだという。

信じられないことだが、思い当たる節もある。

予感が的中する……などだ。

が、人は無意識にいつも「こうなればイイなあ」というような願望を持っている。

その内のほんのいくつかが実現したからといって、偶然に物事が一致したとはいえないのかもしれない。そのほかの無数の予感は、実現していないからである。

予感が外れたことはすぐ忘れ、的中したときのことだけが印象に残っているから、偶然の一致を否定しないのだ。

『そんな気がする……』

という思いは、神秘的な力で引き合わされるのではなく、やっぱり偶然なのであろう。

が、人生には偶然が運命を変えることもある。

だとすれば、その人にとってそれは『必然』ということになろうか。



九郎は暗闇の中で目が覚めた。

頭が痛い。二日酔いの時のような気分の悪さだ。

が、九郎には二日酔いの経験は無く、ただ得体の知れぬ気分の悪さがのしかかる。

九郎は酒に強く、いくら呑んでも二日酔いにならない。

肝臓がとても強いらしい。

(どこだ……ここは?)

九郎は辺りを見回した。

もちろん何も見えない。

どうやら何者かに拉致されたようだが、誰が、何のために九郎をこんな場所に監禁しているのかは分からなかった。

服装は昨日家を出たときのままだったが、財布と携帯電話、ステッキは無かった。

九郎は床に触れた。

長い年月を経てすり減った板張りの床だった。

人が使っていたらしい。

手探りで室内を探ってみたが、6畳ほどの四角い部屋で、九郎の方向感覚では北側に木の扉があった。

体内磁石がよく機能している人は、暗闇でも正確な方位が分かる。

ただ、磁場が狂っている場所にいる場合、方向感覚は掴めない。

富士の樹海などは、磁場が乱れていることで有名だ。

毎年、熟練の探検家でも何人か遭難してしまう。

扉は木製で把手はなく、蝶番も向こう側に打ち付けてあるようで、こちらから取り外すことはできなくなっている。

すき間には目張りがしてあるらしく、光も入ってこない。

そして、何も聞こえない。

地下室だろうか。やたら静かだ。

耳鳴りが鳴っている。

(参ったな……)

九郎は暗闇の中でも落ち着き払っている。普通の精神の持ち主なら、怯えるか、発狂しているところだ。

九郎は気孔で気の流れを読んでみた。

誰かいれば、扉の向こうに気配があるはずだ。

それが……無い。

ということは無人なのだろうか。

九郎は扉を蹴破ることにした。

外に赤外線センサーがあって九郎が飛び出した瞬間に機関銃が火を吹くかもしれないが、その時はその時だ。

九郎は両手を開き、腹に力をためた。気を練って足腰を強めるのだ。

「フンッ!」

九郎は扉を蹴った。

が……破れない。

「ム……」

踵に痛みが走った。

もう一度扉を押してみた。

重い。

(ただの木ではないな……中に鉄板でも入っているのか)

だとすれば九郎の手に負えない。

もう一度室内を歩き回ってみた。

電灯のスイッチが扉の横にあったが、もちろんつかない。

天井に何かあるかもしれないと思って飛び上がってみたが、天井に手は届かなかった。

電灯はむしり取られているらしい。もしくは初めから電灯などなかったのか。

九郎は少し焦った。

(今何時だろう……それにワシをここへ閉じ込めたのは何者だ?)

口の中の入れ歯が気持ち悪くなっているから、かなりの時間が経っているのは確かだ。

入れ歯は夜寝る前に洗浄液につけなければならない。

膀胱は破裂しそうだ。

(マズイな……さすがに生理現象までコントロールすることは出来ぬか)

九郎は部屋の隅で用を足すことにした。

こんなところで小便をしようものなら臭気が室内にこもるのは明らかだが、もとよりこの部屋は得体のしれない匂いで満ちていた。



用を足した九郎は、扉の前に立って考えた。

(扉は破れなくても、壁なら行けるか……?)

壁は普通の木だろう。

だが、試みて分かった。

壁は当然ながら頑丈に出来ている。中にセメントでも流し込んであるに違いなかった。

(参ったなァ……)

九郎は痺れる足をさすりながら思った。

しかし何もせずに座っていては本当に気が狂う。

(そうだ!)

思いついた。

扉のすぐ横のスイッチを破壊して、そこから壁の穴を広げよう。

スイッチの回りの壁はコードを走らせなければならないから、空洞のはずだ。

九郎は扉の横に立ち、スイッチを殴りつけた。

が、なかなか頑丈に出来ているらしい。少しへこんだようだが、壊れはしなかった。

周囲の木を削って引きずり出すか……しかしどうやって?

九郎は考え、入れ歯を外した。

入れ歯の中身はプラチナで出来ている。

(コレでやってみよう)

九郎は入れ歯の犬歯を根元から折った。

それを使って壁をひっかいてみた。

細い傷がついた。

スイッチを削り出すまでには相当時間がかかるだろうが、なにもしないよりましというものだ。

九郎は入れ歯で壁を削り続けていた。



 数時間後(正確な時刻は不明)



気を集中して作業をしていたのでどのくらいの時間が経ったのかは分からないが、3時間ほど経過していようか。

壁を叩いた感触では、スイッチの回りは案の定空洞になっているようだが、その厚さ数ミリの木の板が貫通できない。

腹が減った。

誰も、食事も運んでこぬ。

(ワシを飢え死にさせる気だろうか……)

少し弱気になっていた。

その時だった。

カチャン!

扉のほうから、何かが外れる音がした。

九郎はそちらを見た。

外した入れ歯は口に戻し、犬歯は懐にしまった。

ギギ……。

扉は重い音を立てて開き、外から白熱灯とおぼしき弱い光が差し込む。

九郎にとっては眩しい光だったが。

(何だ……?)

人影が入ってきた。

背が高く、丸眼鏡をかけている。

表情はよく見えない。光が眩しく、人物に焦点が合わないのだ。

「Perdon? Are you Kuro Daishima?」

英語だった。九郎には意味が分からない。

が、自分の名と、語尾の上がり口調から、自分が代島九郎かと訊ねられたらしい。

「ノー、ダイシマ、イエス、ダイジマ」

自分の名は「ダイシマ」ではなく、正しくは「ダイジマ」だと言おうとしたのだが、文法があっているかどうかは分からない。

……と、いうか間違っている。

シルエットの男は困ったような口調で何事かを喋り出したが、九郎には何をいっているのか分からない。

九郎は困った。

「ミー、イングリッシュ、ノー」

九郎は「私は英語が分からない」と言ったつもりである。

男は絶望的とも取れる口調で、

「オーゥ、ソーリィー(Oh,Sorry)!」

と言った後、また訳の分からないことを喋り、部屋を出ていった。

扉は開いたままで、外を見るとまた部屋があり、裸電球がぶら下がっている殺風景な部屋だった。

荒削りの木を組んで作られたテーブルと椅子が真ん中にあり、水の入ったコップと食べかけのパンが転がっていた。

(何だ……ここは?)

九郎は思った。

中国でこんな光景を見たことがある……ここは見張りが控える部屋で、さっきまで九郎がいたような部屋に奴隷として売られる人間が詰め込まれているのだ。

ここはどこだろう。

日本なのか、それとも……。

その時だった。

「代島九郎さん、中国では『仗』と呼ばれた男」

九郎の左手から声が聞こえた。日本語だ。

見れば、そちらに扉があり、黒いスーツの男が入ってきたところだった。

黒いシルクハットを手にもち、深々と頭を下げた。

スキンヘッドで、四角いサングラスをかけていた。

「アンタ……何者だ、ワシをどうする気だ?」

九郎は男を睨んで問うた。

男の背後、扉の向こうに階段があり、上のほうから白い光が見えていた。外光か、蛍光灯の光だ。

「怪しい者ではあり」

「吐(ぬ)かせ、怪しいわッ!」

九郎は怒鳴った。空腹と、口中の気持ち悪さでイラ立っている。

願わくば、入れ歯を洗いたい。

「貴様は何者だ、寧安喰肉公司の手先か!」

「は、ニンアン……?」

「ワシをどうするつもりだ!」

男は少し戸惑ったような表情で、

「あなたは何か勘違いをしていらっしゃるのでは……?」

「たわけッ、ならばなぜワシをこんな場所へ閉じ込めた?!」

九郎はさっきの部屋を指差していった。

「それは、その……手違いでして。まことに申し訳ございません」

「……手違い?」

九郎は渋面で問うた。

「イヤ、その、我々は、あなたを保護するために遣わされてきたのですが……」

男はハゲ頭をハンカチで拭いている。

(……どこが保護だ!)

苦労は呆れた。

「バカが先走って、あなたを拉致した上に閉じ込めてしまったのです」

(……ン?)

よく見たら、男の頬が腫れている。

「俺がやらせたんだ、仗」

中国語だった。

階段を降りてきたのは伐だった。

黒いランニングとジーンズ姿の伐は、

「すまねえな、迷惑をかけた」

といって詫びた。

「何の真似だ、伐」

「順を追って話そう。おととい喫茶店から尾けてきたスーツの野郎が、あんたの家の前をウロついているのを見つけてな、ちょっと脅かしたら正体を表しやがった」

「なに?」

「奴は寧安の手先だった。あんたの首を狙っているらしい。なんでも寧安の野郎は、あんたに親父を殺されたとかで、相当恨んでるらしい」

「……なるほどな」

「覚えてるか、『隻眼の麒麟』の息子だ」

(……あの時の!)

九龍城砦で、「隻眼の麒麟」の首を刎ねた時、その屍にしがみついて泣いていた妻子を思い出した。

あの時、あの子は5~6歳と見えたから、現在では40過ぎくらいだろうか。

運命は皮肉だ。あの子は九龍城を出て、本土で成功者になり、九郎の正体と居場所を執念で突き止め、殺し屋を送り込んできていたのだ。

それだけ「隻眼の麒麟」は妻子に愛されていたのだ。子が、父親の仇討ちをしようとしている。

「……しかし伐、これは何の真似だ?」

九郎を拉致し、監禁したことを指す。

しかも随分と厳重な部屋だった。

「……すまねえ、こいつから聞いたかも知れねえが、バカが先走りやがってな」

伐が黒スーツを指差すと、その男はビクッとした。

頬の痣は、おそらく伐にやられたのだろう。

「……彼らは何者だ?」

九郎は問うた。

「プロフェッショナルさ」

「……プロフェッショナル?」

「ああ。世界を股にかける貿易会社、ヨツビシのな」

「ホー……しかしなぜ、貿易会社に彼らのような胡散臭い者が?」

「ヨツビシは裏の商売にも手を染めているのさ」

「なるほど」

九郎も聞いたことがある。ヨツビシは外国へ兵器を輸出しており、「死の商人」と呼ばれていることを。

伐はヨツビシに繋ぎを持っていたらしい。

九郎のことを調べさせた日本企業というのも、ヨツビシのことだろう。

「昨日の正午に会う約束をしていたが、間に合わないかもしれないと思ってな。ヨツビシに頼んであんたを連れ出してもらおうと思ったんだが、まさか実行者が勘違いするとはな。言葉が通じていなかったらしい。迂闊だった」

「……そうか」

九郎は伐を責めまいと思った。

「で、どうする? 中国へ行って肉屋に話をつけてくるか?」

伐は言った。話をつけるというのは、こらしめに行くという意味もあるのだろう。

「ウーム、確かにこのまま殺し屋を送り込まれ続けるのは迷惑だし、あちらさんの財布の都合もあろうしな」

……つまり、殺し屋を次々と雇い続けてもらうのは気の毒というものだ。

しかも、銃なしで九郎の首を取れるような殺し屋が、この世界に何人いようか。

いうまでもなく、日本で銃はご法度である。

必然、刃物での勝負ということになろうが、肉弾戦で九郎を負かすほどの相手は、そうそう見つからない。

伐でさえ、九郎に勝てないのだ。

「よし、中国へ殴り込みに行くか?」

九郎は言った。面倒なことになる前に、話をつけておこう。

「決まったな。しかし、俺の船は明後日の昼なんだ。明日の夜8時にはここを後にしなけりゃならない。いいか?」

「……まあ、いいだろう。ではいつ待ち合わせる?」

「明日の午後……いや、そうだな、8時に渋谷駅に来てくれりゃいいだろう」

「ウム」

「で、今日はこれからどうする?」

「今、何時だ?」

「午後2時ってところだ」

「帰って旅支度をしなけりゃならんし、今日はこれから待ち合わせがある。この分なら間に合いそうだ」

「……分かった。じゃあ送って行こう」

2人は部屋を出て、階段を上がっていった。伐は突き当たりの扉を開けた。

「ここは……」

どこかのオフィスのようだった。蛍光灯はすべて点いているが、人はいない。

今日は土曜日だった。休業日なのだろう。

「どこだ、ここは……?」

九郎は室内を見回した。

後ろの扉を振り返ると、「機密文書保管室」とあった。

二人はそのビルから出た。九郎が振り返ると、6階建ての少し古いビルだった。

黒地に、剥げかかった金の浮き出し文字で「ヨツビシ 渋谷営業所」とあった。

形がどこか手書き風の明朝体だ。

辺りを見回すと、代々木駅の近くだと分かった。

 PM3:00 七曜会 渋谷本部



……九郎は、七曜会本部にいる。

家に帰るなり、日曜日から連絡があった。

『いますぐに本部に来て』

言われて、今九郎は宮益坂にある雑居ビルに来た。

九郎には外せぬ用があったが、「日曜日には絶対服従」を振りかざされては逆らうワケにも行かぬ。



相変わらず、室内は薄暗い。

見れば、金曜日が台の上に横たえられている。

その時、地面が揺れた。

「ジ……地震!」

金曜日……その頼りなさそうな若者は、見た目を裏切らず情けない声を上げて飛び起きた。

「震度3か4ってところ。大したことないわ」

金曜日の顔を見て、日曜日が言った。

「でも、おかげで気がついたみたいね……チンチコール」

「チ、チンチコール……こ、ここは?」

「七曜会だよ、金曜日君」

九郎はステッキで地面をトントンと突いた。

内心、少し苛立っている。謎の相手との約束の時間は3時なのだ。現在、3時。然るに、約束の相手は既に待ち合わせ場所に来ていよう。

「無事で良かったわね。ラリンコランラン」

土曜日がいつもの謎のステップを踏む。

「オレ……オレはどうして?」

「屋上で気を失っていたのよ」

「屋上で!?……」

彼は腑に落ちぬ、という顔をしている。

「オレ……確かビルから落とされたのに」

「って、思い込んでいたみたいね」

日曜日が言った。

「オレらが抱え上げたときは、しきりに両手で飛ぼうとしてたな」

「ピーヒョロロって、寝言いってたわ」

火曜日と土曜日は愉快そうに笑った。

「そうか。オレ……」

金曜日は思い出そうとしている。

「大松って大男にココ掴まれて、ビルのてっぺんから吊り下げられて……白峰は目の前で封筒をあけた……青ざめるほどのネタでないと、手を放させるって言った」

「まあ。さすがヤクザ。ずいぶんとドラマチックだこと」

「けど……ヘンだな」

「何が」

「白峰組。どうして、殺さなかったんだろ」

「ばかね」

日曜日は笑った。

「ネタが上等だったからよ」

「ああ……」

「脅迫がきいたのよ。つまり、青ざめるホドのネタだった。あなたに何かしたらアトが恐い。彼は七曜会を恐れたのよ」

……日曜日が何の話をしているかは良く見えないが、どうやら金曜日は白峰組を相手に脅迫したらしい。

白峰組。関東一円を束ねる暴力団である。

「そういえば……写真見て顔色が変わった。脂汗浮かしてた。オレ、怒ったのかと思って、もうダメだと」

「金曜日。やったのよ、あなたは」

日曜日は彼の手を取って立たせた。

「チンチコーレ。最後のターゲットを落としたの。おめでとう、金曜日」

「チンチコーレ」

「チンチコーレ、友よ」

九郎と月曜日も祝福した。

「あ……ありがとう」

金曜日はこちらを見て言った。

彼の表情は満足気だった。

「たった4日で7人制覇。金曜日、あなたはウチの新記録に近いわ」

「日曜日……そ、それじゃ」

「金曜日。私は新記録に近い、と言ったのよ。まだ全て終わったわけじゃないわ」

「え……」

日曜日は言った。

「1万円」

「は?」

「忘れたでしょ。白峰から、もらってくるの」

「あ」

なるほど、彼は気絶していてターゲットから1万円を受け取るのを忘れたらしい。

「行って来て」

「え」

「終わらないでしょ。でないと」

「そ……そんな」

「大丈夫……怖がることはないわ。恐がっているのは、アチラなんだから」

「シッ……シカシ」

「ルール7。中途放棄は極刑」

「……ンなこと……いったって」

その時、扉を開けて水曜日が入ってきた。どうやらこの4日間の間に、金曜日は彼女に惚れたらしい。

「す……水曜日!?」

金曜日は彼女を見て声が裏がえった。

「これを飲んで。栄養剤よ」

そう言って差し出したグラスには謎の液体が入っている。

「水曜日……」

「チンチコーレ、がんばって」

「チッ、チンチコーレ!」

少しは中身を疑えばいいものを、彼は一気にグラスを呷った。

彼は一つ身震いした。グラスの中身は何だったのだろう?

……彼はたちまち騎士(ナイト)になった。

「いッ……行ってきます!」

そう言ってナイトは部屋を出ていった。

なぜか月曜日が追って出て行った。



 PM3:30 アン・カフェ



待ち合わせ時間を遅れて、九郎はアン・カフェにいる。

オープンカフェで遅い昼食をとっていた。

離れたところに伐が座っている。怪しい奴が来たら九郎に加勢するためだ。

(待ち合わせの相手は来るだろうか)

その相手とは、九郎に電子メールを送ってきた人物である。

九郎は油断無く周囲を見回したが、ソレらしき人物は見当たらない。

相手は一昨日伐が懲らしめたというスーツの男だったのだろうか?

それは思い過ごしだった。

エスカレーターを降りてくる人影があった。

(あやつか?)

九郎はその男を凝視した。

若い男だった。明るい色のスーツを着込み、髪を中分けにしている。

手にブリーフケースを持っている。あの中に九郎が驚くようなものが入っているのだろうか。

その男は九郎のほうへ歩いてきた。

九郎はその男を見たが、彼は眼を逸らして九郎の横を素通りしてしまった。

人違いだったらしい。

また、エスカレーターを降りてくる人間がいた。

けっこう人が来るので、誰が待ち合わせている人物かは分からない。

今度は白いブラウスの少女が一人で降りてきた。

彼女ではないと思った。

……違った。

彼女はまっすぐ九郎の方へ歩いてくる。

「こんにちは、木曜日さん。遅れてごめんなさい。居て良かった。……わたしのこと、覚えてる?」

……覚えていない。と思ったが、思い出した。

2カ月前に、九郎が七曜会の指令で初めて脅迫した相手、牧野美香だった。

詳しく語っていないが、1日目の午前11時頃の九郎の記憶の反芻を参照していただきたい。

牧野美香は九郎の対面に座った。

彼女は清潔で利発な印象を受ける。

が、九郎に脅迫された内容は……まあ、秘密にしておく。

「なにか注文するかね?」

「後でいいわ。ところで、木曜日さん、いえ、代島九郎さん」

「……なにかな」

なぜ彼女が自分の本名を知っているのだろう。

「中国で殺し屋をやっていたそうですね」

「……なんのことかな」

九郎はしらばっくれた。

「ところで、あの電子メールは君が?」

「ええ、そうです。驚きました?」

「ウ……ウム」

「わたしの父は探偵なんですよ」

「そうだったかな」

……彼女の父は私立探偵で、母は由緒正しい家柄とか。九郎が彼女を脅迫する時に日曜日から渡された封筒に、彼女の個人情報も書き込まれていた。

「わたし、日曜日に昇格したのよ。木曜日さんは?」

「それはおめでとう。……ワシは、まあボチボチだな。そんなことより、ワシをここへ呼び出した理由はなんだ?」

牧野美香は、ハンドバッグから封筒を取り出していった。

「木曜日さんには、お孫さんがいらっしゃいますよね」

「え……ウム」

九郎には死んだ娘の孫がいるが、その夫は再婚し、所在は分からない。

「居場所を知りたくありません?」

「えッ……」

まあ知りたいと言えば知りたいが、もう孫ではないのだ。

が……会って見たくもある。娘が孫を産んで死んだのは6年前……現在では5歳になっていようか。

「まあ……ウム」

九郎は落ち着いた表情をしていたが、内心では明らかに動揺していた。

牧野美香は、なぜ自分の名前や過去を知っているのだろう。

彼女は九郎の前に、封筒を差し出した。

「この中に書いてある処に行けば会えますが……」

九郎は封筒に目を落とし、彼女をを見た。

「条件があると?」

九郎は問うた。

牧野美香は両手を顔の前で合わせた。

「お願い、脅迫のネタ、何か無い?」

彼女は普通の女子高生の態度になった。

六曜日から昇格して、新たに日曜日になった者は、七曜会に7つの脅迫ネタを提供する決まりである。

「脅迫ネタか……そんなモノは君の探偵事務所からくすねればいいではないか」

「そんなこと出来ないわ。ばれたらお父さんに勘当されちゃうもの」

ま、確かに探偵などは職務上クライアントの秘密は厳守である。それを脅迫ネタに使うのはたやすいが、個人情報の漏洩がばれたら信用は無くそう。

下手をすれば社会的に抹殺されることもありえる。

「君はお金が欲しいのか?」

九郎は彼女に問うた。

九郎は七曜会の仕組みをうすうす感付いていた。

要するにネズミ講である。

自分は親になって、子から、孫から、そのまた子からと1万円を徴収すれば、何代目かには大金が転がり込むという仕組みだ。

子、その子、そのまた子は七曜会の場合7人ずつ増えていくから、首尾よく行けば、数代目で1億を越えるのだ。

今、牧野美香は日曜日に昇格し、7人を脅迫して子にしたのだ。その子が子を作り、また子を作る。あとは何もせずに彼女に大金が入ってくる。

が、金蔓となる脅迫ネタが無ければ七曜会が成り立たないから、7人を脅迫して子を作った時点で、七曜会にネタを提供しなければならない。

牧野美香はそれを遂げれば、後は勝手に金が入るのだ。

「お金は欲しいわ。お金がなければ生きられないもの」

牧野美香は言った。

「確かに、金が無ければ生きられぬな」

九郎は言った。

人生は金だけではないと思っているが、金以外だけでもないのである。

その点で、彼女の金に対する欲は正しいといえよう。

「ねっ、何でもいいから、何か無い?」

彼女は懇願した。

「ウーム、脅迫ネタ……思い浮かばぬな」

九郎は考えた。孫の顔は見たいが、人を脅かすのは趣味ではない。

それに、脅迫ネタ、しかも7つもすぐに思い出すのは難しい。

「……ところで」

九郎は牧野美香を正視して言った。

「ワシの個人的なことをどこで調べた?」

「えっ?」

彼女はたじろいだ。

「……しかも、ワシが中国で殺し屋をやっていたなどと」

九郎の目がみるみるうちに鋭くなる。

「その、あの……お父さんの、資料の中に、あなたのことが載ってて……」

彼女は下を向いて言った。

「お父さんの資料?」

九郎は真顔に戻った。

(お父さんの資料……探偵……)

そうか……符合した。

九郎が密航の手助けをした老人、あの「師匠」が九郎の家族について探らせた探偵が、彼女の父だったのだ。

九郎は貨物船の中で師匠に武勇伝を語ったが、それを師匠は探偵に吹いたのだろう。

それを娘に話したとしたら、その娘、牧野美香が九郎の過去を知っているのもうなずける話……だろう。だろうが、どうせ探偵や牧野美香は、九郎の武勇伝を真実と思っていなかったにも違いない。

「……まさかわたしを脅迫した人が、お父さんの探偵依頼書に載ってるなんて思わなかったもの」

彼女はさきほどから言い訳を続けていたらしい。

「ま……いいよ」

九郎は彼女に言った。

「一つ二つならすぐに思いつく」

九郎はいくつかの脅迫ネタを牧野美香に教えた。

その人を社会的に抹殺するような必殺性の高いネタではない。

他人にしてみれば大したことが無く、本人にしてみれば少し悩む程度のヤツだった。

七曜会自体は、大して害のあるものではないと見ていた。

少なくとも、九郎が中国で相手にしてきた悪辣な連中に比べれば。

七曜会は、いま九郎が言ったようなネタでも、案外脅迫になりうるのだ。

どうせ被害額は1万円なので、脅迫されたほうも法に訴えるようなことはしないだろう。裁判にかかる費用のほうが圧倒的に高いのだから。

「……今言ったので足りるかね?」

「ウン、ありがとう。後は何とかするから……じゃ、コレ」

牧野美香は九郎に例の封筒を渡した。

「じゃあ、達者でな。それと、あまり人の道を踏み外すではないぞ」

「わかったわ、じゃあね、木曜日さん」

言い残すと彼女は踵を返し、立ち去った。

それを見送ってから、九郎は封筒に目を落とした。

(……この中に、孫の所在が書いてあるのか……)

九郎は少し考えた。

「なあ仗、なんだったんだ今の」

背後に伐が立っていた。

先ほどから背後の席でこちらを見張ってもらっていたのだ。

再三述べているように、伐には日本語の会話が理解できていない。

「……行かねばならない処が出来た」

「なにッ、敵か?!」

「いや、違う。彼女は何でもない。それより……」

九郎は封筒の口を破った。

彼女は几帳面に綺麗に糊付けしていた。

「今日はここで別れよう。また明日、駅前で会おう」

「……? まあイイや。あんたがそういうなら。じゃあ、また明日な」

「ウム、チンチコール」

「なに、チンチコー……?」

「イヤ、違った、何でもない」

九郎は慌てて首を振った。

「ま、あんたにも事情があるんだろうよ。じゃあな」

伐は九郎のテーブルの上に伝票を置いて去っていった。

九郎はその伝票を見て驚いた。

コーヒー、紅茶、ミックスサンド、シーフードスパゲティ、チョコレートパフェ……随分と派手に食ったものだ。

(……いい年をして!)

九郎は思った。

自分だって自称130歳である。

しかも、かなり色々と注文していた。


 PM4:00 渋谷区内のある幼稚園



九郎は、牧野美香にもらった封筒の中を頼りに、ある幼稚園の前にいる。

幼児が庭ではしゃいでいるのが見える。

この中に孫がいるのだ。

(どこだろう……?)

九郎は見回した。

気づくと、保母さんと思われる女性が、不審そうな目をしてこちらを見ていた。

(おっと……いかん。見知らぬじいさんが子供たちを見ていて怪しまれたか)

九郎は素知らぬ顔をして通り過ぎようとした。

牧野美香にもらった資料によると、この幼稚園は4時になると親が子供を迎えに来るシステムだ。

母親が子供を迎えに来ている光景が見える。

孫はもう帰ってしまったのだろうか。

九郎は門の方へ歩いていった。

そこで……見つけた。

幼い頃の娘にそっくりな孫がいた。

(あの子だ!)

九郎は直感した。そしてその直感は正しかった。

「あッ、九郎さん!」

すぐ横で声がした。

振り返ると、かつて娘の夫だった男が立っている。

「やあ、マコト君。今お迎えかい?」

「……ええ。九郎さんは、どうしてこちらに?」

この、もと義子は、九郎のことを「九郎さん」と呼んでいた。

「今は渋谷区内に住んでいるのでな。通りかかったら孫を見つけてな」

それは出任せである。

「……そうですか、僕の妻が今、2人目を出産中で」

彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。

彼がいう「妻」とは、彼の2番目の妻のことを指す。

「そうか、それはおめでとう」

九郎は言った。

「ええ。でも、これから色々物入りなんでね。僕は大変です」

「……そうか」

九郎は昔の義子が手を繋いでいる孫娘の方を見た。

彼女は父親の後ろに隠れながら、

「……このおじちゃん、誰?」

と、問うた。

「ああ、この人は」

「……お父さんの昔の学校の先生だよ」

九郎は微笑んで言った。

「九郎さん……」

「まあいいから。じいさんは何人もいらぬだろう」

九郎は昔の義子の方を見て言った。

「……はあ」

彼は曖昧に頷いた。

「……まあ、頑張りたまえ。それでは達者でな」

九郎はかつての義子の背中を叩いて、踵を返した。

「それじゃ九郎さん、ごきげんよう」

その声を背中に受けながら、九郎はその場を去った。

……孫の顔を見られれば満足だった。

(彼は九龍の家族のようになって欲しくないものだ)

九郎は自宅の方へ歩いていった。

(……幸福を掴むがいいさ、お若いの)

九郎はかつて義理の息子だった男に心の中で言った。



 PM5:00 繁華街の将棋クラブ



九郎は将棋仲間に別れを言いに来た。

しばらく来られぬと残しに来た。

……相変わらずカウンターにレジ係はいない。

中で将棋を指しているのである。

「王手じゃ!」

「ムムム……」

などと、家にいても暇な老人たちがいつもと同じように将棋を指している。

平和な光景だった。

そしてしばらくこの光景ともおさらばになろう。

短くて一週間、長くて……どのくらいだろう。

「やあ、九郎さん。最近顔を見なかったねえ」

好敵手の五十嵐だった。

彼ともしばらくお別れである。

「五十嵐さん、実はな……」

「まあ座れ。一回やろう」

言い出せぬまま、九郎は五十嵐の対面に座った。



 PM6:00



「王手!」

五十嵐は九郎にとどめの一手を指した。

「しまった……負けたわ」

「……どうしたんだい九郎さん、いつものキレが無いね」

「……ウム、実はな、ワシはしばらく旅行に出ようと思ってな」

「えッ、こりゃまたなんで?」

「エッ、まあ、遠くに会わなきゃならん人がいてな」

「ソレは……ひょっとしてコレか? ヒヒヒ」

五十嵐は小指を立てた。

「……ウム、まあ、そんなところかな」

「いやあ、九郎さんも隅に置けないねえ!」

「ほんとうかい、九郎さん、昔別れた女の処へ行くって?」

近くの老人が身を乗り出してきた。

「エッ、いや、厳密には違うのだがな」

「……なんだ」

その老人はとっとと元の対局に戻った。

「で、いつごろ戻るんだい?」

五十嵐は訊ねた。

「分からん。早くて一週間位で戻るがな」

「まあ、そうですかい。ライバルがいなくなって寂しくなりますな」

五十嵐は言った。

「今日は呑みに行きましょうよ、皆で、パーッと」

「いいですな。しかし出立が明日なので、あまり夜遅くまではお付き合い出来ませんがな」

「なんと、明日? それはまた急な」

「急ぎの用事でしてな」

「……で、どちらまで?」

九郎は少し考えてから、

「……ウーン、ちょっと北海道まで」

「北海道! イイですなあ。お土産、頼みますぞい」

「エッ、ああ……はい」

嘘を言って後悔した。中国で北海道土産が買えようか。

「じゃあ今から行きましょう。呑みに」

「……それじゃそうしますか」

九郎と五十嵐、呼んでもいないのにそこにいた全員が立ち上がった。

「行きましょう、九郎さん」

「アンタのおごりでな!」

調子のいいことを言いながら、九郎たちは将棋クラブを出た。

一人取り残されたのは、オーナーだった。

「待ってくれよ、ワシを置いてかないで!」

彼は慌ててシャッターを下ろし、九郎たちについてきた。



 PM7:00 繁華街の飲み屋



老人たちは酔っていた。

「嫁がなんだーッ、あんなの怖くないぞー!」

「ワシの余命はあといくらぐらいあるんじゃろうな……」

「まあ、生きていればいいこともある」

勝手に酔って勝手なことをほざきあっていた。

店内のサラリーマンがいい迷惑である。

「兄さん、モツ煮込みくれ」

「……あいよ!」

小皿にとられた煮込みが五十嵐の前に置かれた。

「すまんがワシにも」

九郎も注文した。

「しかし九郎さん、あんた、昔は何をやっていたんだい?」

五十嵐は赤い顔で九郎に問うた。

「前に話したことはなかったかな」

九郎は出された煮込みを口にいれながら言った。

「……いや、ないよ」

五十嵐は寝ぼけた目で言った。

早くも酔いが回っているらしい。

「この際話しておくかね」

九郎は言った。

「昔、五十嵐さんも中国へ行ったでしょう」

九郎は戦争のことを言っている。

「イヤ、ワシは中国じゃなくて、えーっと、フィリッピンかな」

「そうですか……大変でしたな」

「イヤイヤ、で、九郎さんは中国でどうなさいました?」

「ワシは戦争が終わっても日本に帰れなかったんですよ」

九郎は五十嵐の方を見ずに言った。

「……ほう?」

「それで、ワシは日本へ帰るために、人の道を踏み外して生きてきたんです」

九郎は、漠然とそう言った。

「なるほど……ご苦労なさったんですな」

何がなるほどなのか分からないが、五十嵐は合点して頷いた。

「いやあ、すっかり酔ってしまいましたな。そろそろ行きますか」

「そうしましょう。男は引き際が肝心」

五十嵐は九郎が密航してきた時の「師匠」と同じことを言った。



 PM7:20



九郎たちは繁華街の入り口に来た。

相変わらず、若者たちが「今が楽しければいい」……という顔で闊歩している。

その光景が、九郎は九龍城砦と似ているような気がした。

見た目にはこちらの方が豊かである。

が、それは物質的な豊かさというまやかしであり、真実の豊かさとは違う気がする。

この渋谷には全てがそろっているが、何も無いのである。

本質的なものを見失った人間が多い。

かといって九郎がそれを知っているかと聞かれれば、自信が無い。

ただ、九龍城砦とこの渋谷の共通点を見出だすなら、人々は何かに抑圧されて生きている。

金と権力……それに屈している。

それらを持たざるものが自分で獲得できるささやかな幸福にすがって生きるなら、それは正しい生き方では無いのではないだろうか。

また、金と権力だけで得られる幸福なら、それも正しい生き方では無いと思う。

全ての人間が幸福になれる権利があるかと言えば、それは無いと思う。

自分で掴める限りの幸福で満足なら、しかしそれも正しい生き方なのかもしれない。

だが、それで本当に満足なのだろうか。

人間は欲を持っており、それを理性で抑制している。

その欲望の全てが叶うまでに、必ず他人を踏み台にしなければならないだろう。

踏み台にされた人間は、果たして幸福だろうか?

平等と自由は共存しえない。

平等は自由に富や力を得ることを抑制し、自由は全ての人間が平等に生きることを否定する。

九龍城砦と、渋谷……この二つの都市は、似ていた。

九龍を支配するのはマフィアだし、それに使われて生きる者がいる。

渋谷には松涛に住む者もいてホームレスも住んでいる。

金のある九郎と、家族のいる五十嵐。

この隣り合って歩く二人は、お互いに満たされぬ思いで生きている。

……九郎は思った。

(何かが欠けているから……人は生き続けるのか)

欠けたものを得るために。

九郎は空を見上げた。

街のネオンで、星は見えなかった。



  5日目につづく










街 サイドストーリー4

2014年05月05日 17時00分00秒 | 街 サウンドノベル
 PM0:10 渋谷 ハチ公前



「待ったかな」

伐は、約束の時間を10分ばかり遅れてやってきた。

「遅いわ、伐」

九郎はたしなめるように言った。

「切符を買うのに手間取った。日本はなんでこんなに混んでいるんだ。どこへ行っても人だらけだ」

「そうボヤくな。それよりも……」

老けた。

かつてあった長髪が、すっかり天辺がハゲてしまっている。

九郎が初めて会った時に彼が20歳だったにしても、あれからゆうに30年が経っている。

しかし筋骨逞しく、また眼光も鋭かった。

「アンタだって老けてるじゃねえか」

伐は九郎を見て言った。

確かに九郎も、髪は白いし、最近は尿が近い。

ところでこの二人、会話は中国語で交わされている。

「して、用件は何だ?」

九郎は切り出した。

伐は少し渋面になったが、

「……ここではマズい。どこかへ入ろう。ちょうど腹も減ったしな」

と言って先に歩き出した。

「まあ待て、渋谷ならワシの方が詳しい」

九郎は伐の前に出た。



 PM0:30 喫茶店



「エアコンが効いて快適だ。中国じゃ考えられない」

伐はそう言って苦笑した。

テーブルの上には、烏龍茶とサンドイッチがある。

「今、何をしているんだ?」

九郎は伐に問うた。

「まだ殺し屋をやっているのか?」

「いや。もう足を洗った。表社会で堅実に生きてるよ」

彼は現在、北京で商店を営んでいるという。

「して、ワシのことを嗅ぎ付けた奴というのは?」

九郎は、伐がわざわざ呼び出した用件の話題に触れた。

「……それそれ。アンタのことを嗅ぎ付けた野郎ってのは、肉屋だ」

「肉屋?」

九郎は片眉を上げた。

「ああ。肉屋っつっても、ただの肉屋じゃねえ。言い方が悪かったかな。食肉工場って言った方が分かりやすい」

「フム」

伐が言う食肉工場とは、広い建物の中で豚や鶏を飼育して、食肉に加工して出荷する、いわゆるブロイラーのことである。

「『寧安(ニンアン)喰肉公司』。寧安は社長の名前だ。」

「なるほど」

「身に覚えはあるか?」

「ない。……こともないかも知れぬ」

「この間、その肉屋の手先が来て、『仗』の居場所を聞いてったよ」

「して、どうした?」

「知らぬと言ってやった。事実、知らなかったしな」

「ウム」

九郎は頷き、腕を組んで少し考えた。

……寧安喰肉公司。

九郎は知らない。聞いたこともない。

「ウーム、何かの間違いじゃないのか?」

「かも知れない。しかし、あんまり穏やかな雰囲気でもなかったぜ」

殺し屋時代の九郎は、洒落ではなく苦労した。

目障りな相手を消すために金を出すことを惜しまなかった悪党もいたし、仕事が終わると九郎に別の殺し屋を差し向ける悪党もいた。

そういった奴も確実に倒してきたが、恨みを買っていないとは言いきれないし、むしろ買っている可能性の方が大きい。

昨日暗殺した幹部のいる組織に今日は雇われて、昨日与していた組織の幹部の首を取りに行ったこともある。

裏社会は、実力が物を言うのだ。

大きな力は、人から尊敬と嫉妬を同時に買うのである。

「ウーム。こう考えるのはどうだ。その肉屋さんは昔マフィアで、今は足を洗って肉屋を経営している、というのは?」

「かもしれないが、足を洗った奴がわざわざ殺し屋に会いに来るかよ」

「ウム、それも一理ある」

……もうしばらく話し合ったが、結局、九郎のことを嗅ぎ回っている相手がどんな奴かは分からなかった。



 PM1:00 渋谷区内



喫茶店を出たとき、九郎たちは尾行されていることに気付いた。

先ほどの店内に、バーコードハゲでスーツ姿の男がコーヒーを啜っていたが、チラチラとこちらを見ていたことは知っていた。

最初は、中国語で会話する二人を珍しがっていただけと見えたが、店を出てから、何だか様子がおかしいことに気付いたのである。

そのスーツ姿の男、目つきが胡散臭い。

どう見てもサラリーマンではなかった。

「……どうする?」

伐は歩きながら九郎に問うた。

後ろのスーツ姿の処遇についてである。

「何者か分からぬのに、下手に手を出したらマズい。少し泳がせよう」

九郎は前を見たまま言った。

「そうだな。ポリス(警察)を呼ばれたら厄介だ」

九郎たちは繁華街に入っていった。



 PM1:10 とある将棋クラブ



九郎と伐は、繁華街にある将棋クラブに入った。

九郎は色々な処で会員になっており、将棋、囲碁、麻雀、ジム、酒、もちろん七曜会の会員でもある。

まあ、最近九郎は七曜会の仕事(脅迫)をしていないが。

将棋クラブに入ると、入り口付近にカウンターとレジがあるが、誰もいない。レジ係で経営者の老人も、中で将棋を指しているのだ。

「やあ、九郎さん、ご機嫌よう。そっちの若いのは誰だい?」

将棋を指している老人は7、8人いたが、その中の丸メガネの老人が九郎を見て言った。「若いの」とは、伐のことを指す。彼にしてみれば若者なのだ。確かに伐はハゲてはいるが、体つきや目はまだ若い者に引けをとらない。

「ああ、五十嵐さん、今日も早いですな」

「楽しみが少なくてのォ。家にいると嫁に邪魔者扱いされるわ」

彼は五十嵐三十郎という名で、九郎の将棋仲間でライバルでもある。目下、九郎の342勝52敗で、九郎が優勢なのだが、この年齢になると勝ち負けにこだわるわけでもないようだ。あくまで趣味ということだろう。

ところで、彼には九郎も知らない秘密があるらしいが、それは九郎も知らない。

人づてに、彼が「七色老人」などと呼ばれているということを噂で聞いたが、本当はどうなのだろう。

「今日はワシの中国の知り合いが訪ねてきてな。東京見物もツマラぬというので連れてきた」

本当は怪しい男をまくために入ったのだが、それは言えない。

「やあ、そうでしたか、ニーハオ」

五十嵐は九郎の後ろの伐に言った。ちなみに彼は中国語が喋れるわけではなく、適当である。

伐は片手を挙げて挨拶を返した。

「そうだ、五十嵐さん、彼に将棋を教えてやってくれんかね?」

九郎は五十嵐に言い、伐に席を勧めた。

「俺は将棋なんて出来ないよ」

伐はとまどったが、

「大丈夫、チェスと大差ない」

九郎は伐を座らせた。

しばらく時間を稼げれば良いのだ。



 PM4:30



3時間ばかり経った。

「チェックメイト」

伐が五十嵐に将棋で止めを刺したところだった。

伐は「王手(おうて)」が発音しづらいので、チェスの「チェック」を使っていた。

「ムムム……参った」

五十嵐は疲れたようにバッタリと畳に倒れ込んだ。

彼は伐を見て、

「今度は麻雀で勝負するかね?」

と言って不敵に笑った。が、伐は「麻雀」以外の部分は良く分からなかったので、

「謝謝(シェシェ)」

適当に礼を述べておいた。

「いい勝負だったようですな」

横で別の対局をしていた九郎が五十嵐に言った。

「この若いの、飲み込みが早い」

五十嵐は九郎に言った。

伐は中国で殺し屋をやっていた男である。勘は人より良い。

「ハッハッハ、そうですか、ああ、すっかり長居した。今日はそろそろ帰らせていただきますよ」

「いいですな、独り身は。怖い嫁がいなくて」

「独りも気楽ですが、寂しくもある。ワシはあなたが羨ましいがね」

「ま、あちらを立たせばこちらが立たぬというワケですな」

五十嵐は笑いながら言った。



 PM5:00 住宅街



住宅街を歩いていると、学生とすれ違う。

道幅いっぱいに広がって談笑しながら歩いているので、すれ違う方は邪魔でしょうがない。

近くには緑山学院高校があり、部活帰りと思われる学生が大勢歩いている。

何か他愛もないことを喋っているが、九郎たちには何のことだかさっぱり分からなかった。

あまり若者の行きそうな場所に行かないので、九郎は彼らを別の世界の住人だと思ってもいる。

かといって、九郎が新しい物に興味が無いという訳でもない。

九郎は日曜日と連絡をとるために携帯電話を持っているし、家には最新型のパソコンや、ゲーム機を何種類も揃えている。

九郎は一人で遊ぶ趣味が多いのである。

しかし、深みにはまることはない。割り切りが出来ているのだ。



 PM6:10 九郎の自宅



九郎と伐は、松濤にある九郎の自宅へ帰っていた。

「豪華な家に住んでるなあ」

伐は門の前で感嘆の声を上げた。

「暗殺で稼いだ金をスイス銀行経由で日本へ送った。そしたらびっくりしたよ。想像以上の額だったのでな」

「ウーン、俺は北京の繁華街の外れに商店を構えるだけで精一杯だったがな」

伐はそう言ったが、なに、伐の商店というのは、食品、衣料、娯楽などが一つになった、ちょっとしたデパート並みの商店なので、それは謙遜だった。

「いや、これは借りているもので、持ち主は今、海外にいるよ」

九郎は言った。九郎がこの屋敷に住まうようになったいきさつもあるが、ここでは説明を控えておこう。

「それに、ワシはこの屋敷をほとんど使っておらぬ」

それは事実で、九郎がこの100坪に及ぶ邸宅のほんの2、3部屋しか主に使っていないし、そのうちひと部屋は九郎が趣味のステッキ収集の保管場所になっている。

2人は門を抜け、長さ10メートルくらいの石畳を踏みながら玄関へ向かっている。

左右に広がる松の木や小池などは、さすがに昔のお屋敷といえる。

しかし、この景観を維持するために、年に2回ほど植木屋を呼ばなくてはならないのが玉にキズだ。

「ここはワシの師匠が住んでいた家でな」

九郎は玄関の鍵を外しながら言った。

「いまワシが使わせていただいておる」

九郎は引き戸をガラッと開けた。

中を覗くと、磨かれた木の廊下が延びている。

「まあ、上がってくれ」

九郎は履物を脱いだ。

九郎の家は平屋で、多くの部屋があるが、先ほども述べた通り九郎自身は数部屋しか使っていない。

九郎は左右のふすまを無視し、奥へ行った。

やがて台所に入った。

台所の床板を外すと、階段が出てきた。

「呑むだろう? いい酒を持ってこよう」

そう言うと九郎は階段を降りていった。2人とも、酒は好きである。

10段あまり降りると、地下室があった。

九郎は電灯のスイッチを入れた。

室内が白熱灯の赤い光に照らされる。

左右に棚があり、紙で密閉された小ぶりのカメがたくさん並んでいる。

紙で包まれた日本酒のビンもあるようだ。

酒、特に日本酒やワインなどは、熱と光を嫌い、地下室か倉に保管するのが普通だ。

フランスでも、ワインはカーヴと呼ばれるこのような薄暗い倉に、樽やビンで保存されている。

九郎はカメを2つ取ると、階段を上がっていった。

「古酒(クースー)だ。もう一つはピータンだ」

「ピータンか、いいねえ」

伐は九郎からカメを一つ受け取ると、大事そうに抱えて出ていった。

「こっちだ」

九郎の先導で、2人は居間に入った。

九郎はちゃぶ台を持ってきて居間の中央においた。

「ちょっと待ってなさい」

九郎は出ていき、すぐに柄杓と椀を持って戻ってきた。

この椀、名のある陶芸家が作ったものと一目で分かる逸品だ。

「ま、やろう」

九郎は伐に椀を一つ渡すと、柄杓で古酒をすくって注いだ。

2人の椀は酒で満たされた。

「再会を祝して乾杯といこうか」

「ああ、乾杯」

2人は一気に呑み干した。

「ウーン、効くねえ。上等な古酒だ。」

「ワシが寝かせたものでな、こだわりもするさ」

九郎は自分で古酒を作る。なお、酒を一から作ると密造酒になるので、買ってきた酒をカメで寝かせている。その際、純米酒できちんと保管された店で買った酒でないと、美味くなどない。先ほどの地下室のような一見胡散臭い店で売っている酒が、実は美酒なのだ。明るくて、包んでいる紙を剥いで売っている店は、消費者に美味い酒を呑まそうという気などないのである。

光が当たると、純米酒でどんなに良い酒でもダメになるのだ。

九郎はその点に気をつけている。

「今夜は泊まっていくんだろ?」

「いや。悪いが遠慮させてもらうよ」

「どうして?」

「他に行く処があるんだ」

「……そうか、残念だ」

九郎は伐の行く先を深く問い詰めなかった。

「あッ、いかん。もうこんな時間か。本当にすまない。行かなきゃならん」

「なんと。もう行ってしまうのか」

「ああ。この埋め合わせは今度必ず」

「いや、そんなに大事な用事なら構わんさ」



九郎は伐を玄関先まで送っていった。

「明日、また会おう。待ち合わせ場所は、正午に、またハチ公前で」

「ウム、分かった。それではな」

「ああ。また明日」

伐は急ぎ足で歩いていった。

九郎はそれを見送っていたが、

「晩飯くらい食っていけばいいのに」

腑に落ちぬという顔で家に入っていった。



 PM7:00 九郎の自宅、居間



「テレビでも見るか」

九郎がテレビをつけると、ちょうどバラエティー番組が始まったところだった。

今しがた届けられた寿司を食いながら、九郎はテレビを見ている。

「くだらぬ。面白いがくだらぬな」

老人らしい愚痴をこぼした。

テレビでは、お笑いタレントが、「アホか!」などといいながら相方をハリセンで叩いている。

「彼らは命を賭けたことが無いのだろうか。ま、今はそんな時代でもないのか」

九郎は中国での生活を思い出していたが、確かに今は命を賭けてなにかをする時代でもないのかも知れない。しかし現代は、物理的な生命よりも、むしろ社会生活における生命の方が重要で、それで死ぬことの方がよっぽど重大なのかもしれない。



 PM7:30 九郎の自宅、寝室



九郎は普段ベッドで寝ている。

ウォーターベッドである。寝心地がいい。

その寝室の電気をつけると、パソコンがあるのが見えた。

最新型だったが、現在では少し古い。

九郎は部屋に入ると、おもむろにパソコンの電源を入れた。

起動するまでに少し時間がかかるのが、最近のパソコンの特徴だ。

コンピュータが起動すると、メールが来ているというメッセージが出た。

「ハテ……?」

九郎はその電子メールを開いた。

『拝啓 代島九郎様

  あなたが『崑崙の黒い虎』と呼ばれていたことを知って驚きました。

  かつて暗殺者として中国を暗躍していた代島様に、折入ってお話がございます。

  つきましては、午後3時に、アン・カフェに来ていただければ幸いです。                                      敬具』

とあり、差出人は書いていなかった。

「なんだと?!」

12日午後3時は今日である。

(しまった……)

しかし、開かれぬかもしれぬメールを送ってきたのは向こうだし、差し出し日付は昨日の午後11時になっている。

非は先方にある。それに、差出人不明のメールなど、どう考えても怪しい。

例えこれを読んでいても、行ったかどうかは分からない。

(送ってきたのは何者だろう……?)

九郎の疑問はそれだった。

伐が言う、「九郎を嗅ぎ回っている奴」からだとしたら、みすみす正体を知る機を逃したことになる。

が、後悔しても始まらぬ。

九郎はゲームファンのサイトに移動した。

『黒豹サンへ。

  ゲーセンには行かずにインドアゲーム派の旦那は、新しいゲームを買いましたか?

  僕は仕事が忙しくてゲームが出来ないっす。

  ゲームのプログラムは良く分からんないけど、

  新しいコーヒー牛乳を開発中なので、今度呑みに……じゃない、

  飲みに来てくださいね!                       猫八』

軽妙な文体でいつも書き込むこの相手、喫茶店のマスターをやっているらしい。

九郎と面識は無い。

(また近況報告を送ってくれているのか。マメだなあ)

筆不精の自分とは大違いである。

九郎は画面上にメモ帳(コンピュータ用の文書を書けるソフトウェア)を通信画面の上に起動し、

『猫八さんへ。

  拙者はバスを運転するシミュレーターを買ったでござるよ。

  人を轢かずに運転するのは結構骨で御座るな。

  ちなみに拙者、運転免許は持ってござらぬよ。いやあ、まいりましたな。

                                    黒豹』

九郎は「黒豹」のハンドルネームで書き込んでいる。

しかも、侍口調である。

パソコン通信とはまことに妙なもので、書いている文体を見て本人に会ってみると、意外な人物だったりするから驚く。

普段パソコン通信で冗談を言い合う仲の人間と、街ですれ違っているかもしれない。

九郎はパソコンをシャットダウンし、寝ることにした。

明日、伐に謎の人物からのメールのことを話そう……と、思った。



   3日目に続く









 10月13日 金曜日、AM6:00 代々木公園



いつものように、九郎は代々木公園を散歩している。

いつもは、どうすれば自然と共存出来るかとか、新しいステッキのことなど、他愛のないことを考えながら歩いているが、最近は、昔のことを思い出す。

昨日、中国の旧友、伐と再会し、昔を思い出すのだ。

昔の罪を思い出すのである。

しかし、昔犯した罪は、現在でも罪なのだろうか。

それは誰も分からない。

過去ではなく、現在と未来にどう生きるかが重要という者もいれば、過去の罪は贖わねばならないという者もいる。

九郎の場合、どうだろう。

生き延びるために人を殺すことは、果たして正義といえようか?

九郎は懐から黒い棒を取り出した。

龍の彫り物をした硯のような棒だったが、実は短剣である。

伐から譲り受けたものである。

(……それが判断出来るのは、ワシ自身ではないのだろうな)

九郎は思った。



 AM6:00 九郎の記憶の反芻



「じゃあな、仗(ジャン)。達者でな」

若き日の九郎と伐(ファー)は、青島(チンタオ)にいた。

この港から、仗こと九郎は貨物船で日本へ渡ろうとしている。

1970年代に入ってからのことである。

九郎と伐は、九龍から北京に帰ってから別れ、別々の道を歩き始めた。

2人とも殺し屋には違いなかったが、手を組むことはせず、一匹狼でやっていくことになったのだ。

お互い、それが性に合っていた。

たまには酒を酌み交わすこともあったが、ほとんどは単独行動で、お互いの連絡先も知らせぬという状況にしておいた。

第三者にもらした情報はどこからか伝播するためである。

九郎は暗殺で充分な金を稼ぎ、日本へ帰ることにした。

日中の国交も回復しつつあったので、日本行きの船が見つかったためだ。

こうして九郎は貨物船に乗り込むことになったが、無論密航である。船長に鼻薬を嗅がせ、かくまってもらうことにした。

日本へ着いたら、乗組員のふりをして荷を降ろし、機を見て脱走する手筈である。

「じゃあな、仗。またいつか会おう」

「ウム。達者でな」

九郎と伐は握手を交わした。

「これをやろう」

そう言って伐は懐から短剣を出した。

彼の商売道具、龍の彫り物を施した短剣である。

「これは……」

「俺のヤツじゃねえ。新しく作った複製だ。これをアンタに上げよう」

伐は短剣を九郎に握らせた。

「ま、俺の形見と思って大事にしてくれ」

伐は、複雑な思いを秘めたような目をしていた。

(伐は、ワシに二度と逢えないつもりでいるのだろうか?)

九郎は少し寂しい気持ちになり、その短剣を懐にしまった。

「それでは達者でな。もう船が出る」

九郎は船の方へ歩いていった。

「あばよ、『崑崙の黒い虎』」

「『九龍の青竜』、強く生きろ」

これが別れの挨拶となった。

九郎は船長に連れられて甲板へ上がっていった。



「彼は日本人で、名を九郎という。彼は中国に20年以上住んでいた。そして今日、故郷へ帰ることになった。今回は彼を乗組員という扱いで密航させるので、皆、それらしくふるまってくれ」

「了解」

20人ばかりの乗組員たちは、こういうケースに慣れているらしく、九郎に制服を持ってきて着替えるよう言った。

「よろしく、仲間よ」

その若い乗組員は九郎に言った。

「ウム、よろしくな」

日本行きのこの船で九郎は制服を借り、船員として日本へ向かう。

20年以上会っていない両親は、まだ生きていようか。

九郎は故郷へ思いを馳せた。



九郎の仕事は倉庫番だった。

この船は、貨物船で、食料や衣類を満載している。ネズミに発生されると厄介なのだ。

九郎は甲板から降り、薄暗い殺風景な倉庫に来た。

木で出来た箱や樽が所狭しと並んでいる。

喫水線よりも低い場所らしく、ギギギ……という、金属の軋む音や、ゴウンゴウン……というタービンの音が不気味に反響している。

もっとも、その音がしている限りは船はきちんと航行しているということだから、この音がしなくなった時の方が問題である。

……九郎が倉庫を見回していると、怪しいものを見た。

樽なのだが、中に人の気配があるのだ。

(これは……)

九郎は考え、樽を横倒しにしてみた。

ゴロンと転がる樽。

そして、

「アタッ!」

という人の声がした。

「何者だ!」

九郎は樽のふたを開けた。

ピッタリ閉じていると思ったら、中からでも簡単に開けられるようになっていた。

中に入っていたのは、頭のツルツルにハゲた白髭の老人だった。

「ウ、ヘヘヘ……」

バツの悪そうな表情をした老人は、愛想笑いを浮かべている。

老人は「よっこらしょ」と言って立ち上がった。

小柄な老人だ。

身長は150センチくらいしか無いのではなかろうか。

薄汚れた格好だが、なかなか上等な着物を着ている。

「何者だ。密航者か?」

九郎はびっくりして問うた。

「いや、あの……中国語はよう分からぬでな。日本語は喋れないかね?」

流暢な日本語だった。

「アンタ、まさか日本人?」

九郎は日本語で訊ねた。

「おお、日本語が話せる! 良かった良かった」

調子のいい口調の老人はその場に腰を降ろした。

「お主も一杯どうだ。なかなか上等な酒じゃ」

老人は樽をパンパンと叩いたが、無論、積み荷である。手を出せば、もちろん吊し上げにされる。

「アナタ、まさかこれを一人で?!」

九郎は呆れた。この老人、ワインの樽を一つ開け、その中に潜んでいたのである。

「……というか、これは大事な商品だ。アンタ、これをどうしてくれる?」

九郎は謗ったが、老人は意に介さないようで、

「まァ、堅いことをいうな。人生は儚(はかな)きもの。楽しく生きねば損じゃて」

老人は全身にワインの匂いを染みつかせながら、酔った顔で言った。

「ワハハ、楽しいなあ!」

九郎はその老人を呆れ顔で見ているしかなかった。



翌日のことである。

九郎は結局、船長に密航者のことは黙っていた。

何故かは自分でも分からないが、自分も密航者だからだろうか。

自分も密航しているのに、他の密航者をしょっぴくのもどうだろう。

「それで……あなたは日本人なんですな」

「そうじゃ。中国へは遊びにいったのだが、カジノで遊んでいたらパスポートまで取られた。惨敗じゃ」

老人はニヤッと歯を見せて笑った。

歯並びが良い。

「実は入れ歯じゃ」

老人はそれを外して見せた。

ところで九郎も差し歯が多い。仕事上、歯をよく折られるためだ。

中国には、正規の医者ではないモグリが多くいる。しかし、腕は確かな者が多い。医者の資格を取るには金がいるのだ。彼らにはそれが無かった。

九郎は頬をさすりながら、日本へ帰ったらきちんとしたヤツを作ろうと思った。

「パスポートの再発行をしようと思ったら、金が無いのを思い出してな、中国から出られなくなってしまった」

現代、当たり前のように普及しているカードも、昔は無かった。

「日本では大金持ちで通っているんじゃがね」

老人は言った。

九郎はそれを法螺だと思ったが、案外老人の言う通りなのかも知れぬ。

身なりはそこそこ良いものを着ているようだ。

「で、なんでパスポートを賭けたんですか。その服の方が高そうじゃありませんか」

「イヤ、なに、賭けるものが無ければパスポートでいいっていうもんでな」

そして、取られたという訳である。

カジノのディーラーたるもの、イカサマの一つや二つはやってのける。

なに、老人は騙されただけなのだ。

そして、パスポートは中国人密航者に高く売れるという。日本国籍のパスポートがあれば日本に入ることが出来るのだ。こうして彼らは日本へ出稼ぎにやって来るのである。

「いやあ、身ぐるみ剥がされる前に帰ろうと思ってな、男は引き際が肝心じゃ」

確かにそうなのだろうが、老人は明らかに引き際を逃してしまっている。



更に翌日、航海3日目のことである。

「……なんと、大日本帝国が無くなった?!」

九郎は驚いた。戦後の日本については何も知らないのだ。

九郎は老人に、終戦になっても中国から帰れず、20年間彷徨ったということだけを告げている。

「……うむ。新たに国民主権の国家になった。政治は国民の代表が担っているのじゃ。天皇陛下は、今は日本の象徴としてのみ存在している」

「象徴?」

「平たくいえば、飾りかのう?」

「はあ……」

なんだか腑に落ちない。九郎は「大日本帝国万歳!」とか「天皇陛下万歳!」という頃の日本しか知らないから、どうにも実感が沸かぬ。

老人は続いて日本の戦後について話した。

20歳以上の全ての男女に選挙権があること、特権階級が廃止されたこと、日本が経済的に成長し、生活が豊かになったこと。そしてそうなった理由は商業の自由競争が保証されていることなどを述べた。

九郎はひとしきり頷き、思った。

(そうか……日本はそんなに変わったのか……親兄弟は生きていようか?)

まだ生きていれば、東北地方で農業を営みながら暮らしている筈である。

「ホホホ、お主、ワシを師匠と呼ぶが良いぞ。何でも教えてやるから」

……老人はまた酔っていた。



更に夜が明けた。

明日未明に、この船は日本へ着く。

「それであなたは、小さな工場から始めて、20年間で財を成したんですか」

「そう。戦後日本は荒れていてな、ワシも裸一貫から始めねばならなかった」

九郎は倉庫で老人……師匠の自伝を聞かされていた。

九郎自身も興味のある話だった。

師匠の立志伝は、九郎が中国で殺し屋をやることを決意したのと似ていた。

「ワシは英語が喋れてな、当時としては珍しい、海外から商品を輸入して売ることにも手を染めた。ソレが軌道に乗って、本格的に貿易会社を始めた。今は社長を退いて、悠々自適な生活をしているよ」

「ホー……ご苦労をなさったんですね」

「ウム。そして色々なことを学んだよ。人間が生きるというのは醜いものでな、他の会社の乗っ取りをやったりして自分の会社を大きくするのじゃよ。ワシは妬まれたり、恨まれたりした。人が路頭に迷うのを見て胸を痛めたりもしたが、もしワシに力が無ければ、その逆もありうるのじゃ。生きるというのは、駆け引きじゃ。駆け引きに勝って『卑怯者』と罵られることもある。その度に後悔などしていては、いつか負けてしまうのじゃ。生きるためには、勇気と根性と、柔軟さじゃ」

「柔軟さ?」

「左様。臨機応変に行動することじゃ。その時々で、自分が正しいと思った行動を取ればよい」

そういえば、九郎の五台山で修業したときの老師も、似たようなことを言っていた。

正しく生きよ。

なるほど、こういうことなのか。

九郎は思った。

生きるには、自分が正しいと思った行動を取ればいい。

失敗しても、反省はしても後悔はしないことだ。

自分を正当化するに過ぎないのかも知れないが、過ぎたことを気に病んでも仕方ないのだろう。

「お主は強く生きてきたか?」

九郎は曖昧に頷いた。

九郎は文字通り生死をかけた生活をしていたが、この老人もまた、同じような辛さを味わって来たのだ。

苦労していたのは、自分だけではない。

その思いは、九郎の励ましになった。

「ご両親を探すのか、頑張れよ、きっと結果は得られる」

「そうですな」

「根性で何とかしろ、お主はまだ若いのじゃ」

「……ええ」

まあ、老人にありがちな根性論でどうにかなるわけでもないが、九郎はできる限りの努力をすべきだと思った。



翌日、午前2時。

船は下関港へ着いた。

九郎は、段取り通り乗組員のふりをして、あの老人の入った樽を担いで船を降りた。

まだ夜明けまでには時間がある。

夜陰に乗じて逃げ出すのはたやすい。

九郎は物陰に樽を置き、老人を中から引きずり出した。

そして制服を脱ぎ、荷物の中に潜り込ませた。

九郎と老人は忽然と姿を消す。

別の船員が、その制服を何食わぬ顔で回収する。

ちなみに、船員は九郎の他に老人が密航していたことには気付いていない。

港から少し離れた処である。

「ワシは渋谷の松濤という処に住んでいる。遊びに来るがいい」

老人は言った。

「いつかお訪ねしましょう」

二人は握手し、別れた。

……かくして密航は成功したのである。



 AM6:20 代々木公園



九郎は木々の合間を歩いている。

いつもの道だ。

(大ボラ吹きのじいさんかと思ったが、本当に金持ちだった)

九郎は結局、肉親の所在を見つけることは出来ず途方に暮れていた時、あの老人の住所を訪ねてみた。

驚いた。

老人は本当に金持ちだったのである。

そして、

「肉親が見つからない? それは困ったな。よし、ワシが調べさせよう」

と言って、警察や探偵に手を回し、代島家の人間を探してくれたが、結局、両親も兄弟も日本に、あるいはこの世にいないことが分かった。

「そう気を落とすな。生きている限りはいいこともきっとある」

老人は九郎を慰めたが、九郎は落胆していた。これでは何のために日本に戻ってきたのか分からぬ。

「そうだ、結婚したらどうだ? 家族がいなければ作ればいいのじゃ」

「しかし、この年齢でワシの連れ合いになってくれる女性などいようか?」

九郎はこの時、もみあげの辺りが白くなってきていた。

「ワシに任せろ」

そういって老人が紹介したのは、若手の女流作家だった。年は30半ばとか。しかしその女性は九郎を気に入り、所帯を持つことになった。

その女性は九郎の生き様を聞き、それを作品にしたいと言い出したが、九郎の反対でやめた。

1年後、その作家は女児を出産したが、産後の肥立ちが悪く他界。

九郎は娘を育てることが出来ず、養女に出すことにした。

その娘を引き取った若い家族は、九郎の訪問を快く承諾し、娘は実の父を知りながら若い家族の元で成長した。

娘は6年前に結婚し、しかしその翌年、彼女は九郎の孫を生んで世を去ってしまった。

そしてその夫、九郎の義理の息子はすぐに再婚したため、九郎とは縁が切れた。

また一人の生活に戻ってしまった。

もっとも、九郎も隠居してしかるべき年齢でもある。郊外に家を建て、一人で暮らしていた。

そんな頃、九郎が中国から密航の手助けをした、自らを「師匠と呼べ」などと吹いていたあの老人が亡くなった。

彼は死の床で九郎に、

「陰陽は相和し、万物は流転する」

と言った。

それは世の無情を表している……と九郎は解釈している。

昼と夜は繰り返し訪れ、形あるものはいつか滅ぶ定めにある、と。

老人の遺言で、彼の財産のほぼ全ては彼の息子、彼の設立した貿易会社の現在の社長に分配されたが、唯一、松濤の屋敷は九郎に譲られた。

彼は理由に、

「我が親友へ」

と残していた。

そういえば、九郎が老人の屋敷を訪れた時、彼はやたらと九郎に屋敷を自慢していた。

九郎は老人にいたく気に入られていたのだろう。

九郎は初めて師匠の息子、現在、貿易会社の社長をやっている男に会ったが、気の良さそうな老紳士だった。パリッとしたスーツに、オールバックにした髪と口髭が素敵な好人物だったが、どこか殺気のようなものも匂わせる不思議な人物だった。

やり手とはこういうものなのだろう、と九郎は思った。

……その時。



 AM7:00



舗装されたサイクリングコースを、ゴロゴロと転がってくる物があった。

見れば、それは人間だった。

不摂生な生活をしていると見え、その女はかなり肥えている。

伸びきった赤いジャージを着て、ダイエットのためにジョギングをしていたといったところか。

その女は噴水付近のベンチに腰を降ろした。

「痛いよーっ、ようちゃーん」

その女はシクシクと泣きだした。

(ふむ、ひとつお節介を焼いてやるか)

九郎はその女に近づき、背中に手を触れた。

「うひゅっ。誰?」

女がビクリとした。

「振り向くでない」

「ち、ち、ちか……」

「ワシはチカンではない」

「す、す、すとー……」

「ストーカーでもない」

女は脅えている様子。しかし九郎はいっこうに気にせず、

「痛みはとれる」

そういっててのひらを上から下に動かした。

「鼻から息を吸いなさい」

女はゆっくり息を吸った。

「そのまま2秒静止。イーチ、ニー。はい、口からゆっくり息を吐きなさい」

女は九郎のいうとおりにした。

「あれ、どうして……?」

女は痛みが徐々に引いていくことに素直に驚いた。

「気の力によるものだ」

「キ……?」

「いわゆる気功というものだ。もう、振り向いてもよいぞ」

「はい」

女は振り返った。

「あ、あなたは?」

「名乗るほどのものではない」

「はあ」

「名前など何の意味もない。単なる記号にすぎん。そうは思わんかね」

九郎は女の横に座った。

「それで、どうしてわたしを助けてくれたんですか」

「気が乱れていた」

「気、ですか」

「さよう。陽の気が減じ、陰の気が強くなっておった。悩みごとでもあるのかね?」

「ええ、まあ」

「イカン。それはイカン。陰の気を多く持てば何事も好転せん。もっと陽の気を全身に巡らせよ」

「おっしゃってる意味が分かりません」

「まあ、早い話、笑う門には福来るということよ、カカカ」

九郎は歯(入れ歯であるが)を見せて笑った。

「でもわたし、笑える状況じゃあ……」

女は暗い表情を見せる。

「さよう。陰陽は相和し、万物は流転する。これすなわち天地の法。いいときもあれば、悪いときもある」

「今は悪いときなのね」

「そういうときは胎息を行いたまえ」

「タイソク?」

「丹田に力を入れよ」

「タンデン?」

「ヘソの下だ」

「こ、こうかしら?」

女はその通りにやってみた。

「そして鼻から深~く息を吸う」

「すぅ~っ」

「もっと腹で息をするっ」

女は腹をふくらませた。

「2秒静止……今度はゆっくり、口から息を吐く」

「はぁーっ」

「どうかな。心が落ち着いたろう」

「……何にも考えてなかった」

「それがよいのだ」

「えっ」

「それこそまさに無我の境地」

九郎はステッキに体重を傾けた。

「心も体も軽くなったろう」

「ホ……ホントだ」

九郎は颯爽と立ち上がった。

「きみにはワシがいくつに見える?」

「え、えーっと、60歳くらい」

「ふはは。世辞は抜きで良い。見たままを言いたまえ。いくつに見える?」

「ゴメンなさい。70歳ぐらい」

「ワシはもっと年寄りだ」

「えっ。じゃあ80? 90?」

「いやいや」

「まさか100歳?」

「当年とって130歳だ」

「ウソッ」

「ウソはないだろう。失敬な」

本当は嘘である。しかし、九郎は様々な環境で生きてきたために、体感時間で130年は生きているつもりになっているのだ。

「でもでもでも、130歳なら日本一、ううん、世界一じゃない」

「フム。そういうことになるかの」

「まさかぁ」

「ほんとうだとも」

九郎は力強く言った。

「無論、証明はできん。ワシが生まれた頃は戸籍もロクに整っておらんのだからな。しかし、ワシはウソは言っておらん」

「でも、どうやって」

「導引によって陽気を多く取り入れ、体内で練り、養生したのだ」

「そんなぁ」

「信じられんか」

「……ちょっと」

「形にとらわれてはならん。本質を見極めるのだ。陽の気さえ取れれば、人間はみな不老不死になれるのだ」

それを身につけたのは、五台山の老師のもとで修業していた頃である。

九郎はその経験を生かし、生き抜いてきたのだ。

「わ、わたし帰らないと」

女は九郎からサッと離れた。

「そうか。残念だ。せっかくだから教えてやろうと思ったのだが」

「せっかくですが、エンリョします」

女はゆっくり後ずさる。

「仕方ない。確かにこれは長生きできるが、ヤセてしまうのが玉にキズだからなあ」

「え……えっ、やっぱり教えてくださいッ!」

とたんに、女はサッと平伏した。



 AM7:20



 二人は芝生の上に移った。

 九郎の教えにしたがって、女は体を動かす。

「円を描くように腕をねじる。そうだ、その調子。ねじるときに息を吸い、戻すときに吐く」

「ブハッ、ブハッ」

「呼吸を乱してはならん」

「はひぃ」

立ったまま、平泳ぎのような体操をする。

「要はイメージだ。自然と合一し、全身に宇宙を感ずるのだ」

「う、うちゅー」

「呼吸を乱すな」

「ふひぃ」

女は九郎のいうとおり、奇妙な体操を続ける。

「あ、あのぅ。先生ぇ」

「何だ」

「これ、いつまで続ければ」

「生気の間中、ずっとだ」

「生気の間って」

「真夜中から正午までだ」

「えええっ」

「呼吸を乱すな」

女の体操は10分も続かなかった。

「ブハァ、ブハァ。もうダメ」

バタンとぶっ倒れ、芝生の上に大の字になる。

「だらしのない女だ」

「だって、ゼッタイ、ムリだよ、昼間で続けるなんて」

「昼までではない」

「ええ? さっき正午までって」

「それを毎日、10年続けないと効果はない」

「10年!」

「長生きのためだ。そんなことでは養生できんぞ」

「わたしはヤセたいだけだもん。」

「何だ。そんなことか」

「そんなことなんていわないで。ヤセるって、すごく大変なんだよーっ」

「それなら導引なぞ必要ない」

「へっ」

「ツボでカンタンにヤセられるわい」

「ツボお??」

「うム」

老人はまた自信たっぷりにうなずいた。

「くるぶしに手を当て指4本分上が三陰交。水太り防止のツボだ」

九郎は女のツボを押した。

「いったーいっ」

「水のたまってるヤツほど痛がる」

「ぶぐぐっ……ううっ」

女はこらえる。



九郎は両足のツボを5分ずつ刺激した。

「むぐぐっ」

手を上へ動かす。

「ヒザの内側のくぼみが血海。足のむくみが取れる。ホルモンのバランスが整うから、生理痛、生理不順にも効く」

それぞれ5分ずつ続ける。

「次は下腹部。ほれっ、何をしてる。早くお腹を出しなさい」

「そんな……」

「ヤセたくないのかね」

「自分でやりますっ!」

「そうか。ヘソ真下、指4本分のところが中極。指をそろえてもみ下げなさい」

女は言う通りにした。

「体の水分を小便といっしょに出すイメージで続けなさい」

「き……きたない」

「バカモン。ションベンもクソも自分の体にあるものだ。内にあるものが外へ出る。それだけだ。汚いことがあるか」

「だってぇ」

「だってもクソもない」

「またぁ。汚いなあ、もぉ」

「ついでに便通も良くしてやろう」

「えー、いいよぉ」

「そうか。老廃物を出せばそれだけで2~3キロはヤセられるものだが」

「や……やっぱり教えて」

「まずは豊隆。足の外側、ヒザとくるぶしのちょうど中間点。骨の前部分。ここだ」

九郎は女の足をとった。

「次は天枢。これは風呂上がりか、寝る前がよい。ヘソの両側、指4本目」

女はそこを指で押す。

「そう、そこだ。親指と人さし指で垂直に押す。てのひらで時計回りにマッサージ。5分ずつやるとよい。……これこれ、後にしなさい」

九郎は止めた。

なぜなら、コレは即効性があるからで、今やれば今日はしばらく腹痛に悩まされよう。

「天枢の下、指4本が水道。宿便取りにはコレだ。水道の外側、指2本が外水道」

「そんなに覚えられないよ」

「覚える必要など無い。名前など何の意味もない。単なる記号だ」

「だったら、いわなきゃいいのに」

「よいか。続けるぞ。水道の下、指2本が帰来(きらい)」

「嫌い?」

「嫌いではない。帰来、帰る来るだ。その外側、指2本が外帰来」

九郎は女のツボをステッキで押さえた。

「水道、外水道、帰来、外帰来で正方形になる。これをまず左から右へ」

九郎は女の腹をステッキでなぞる。

「宿便が右へ移動したところで、今度は右側のツボを垂直に押す。便を出すイメージだな」

「ぶぶっ、汚すぎるーっ」

「たわけっ、体に溜めておく方が汚いわ」

「でもっ」

「まったくその方は、デモとダッテが多すぎる」

「だって」

「……」

「ご……ごめんなさい」

「最後は、関衝と百会。関衝は脂肪を燃焼させ、百会は食欲を抑える。つまりデブのバカ食いを押さえるツボだ」

「わたしにピッタリね」

「そのつもりで、言っておる」

「ひっどい。赤の他人にそこまで言う?」

「赤の他人にツボを教えとるがの」

「アハハ……」

「関衝は薬指のちょい下、これは歯形がつくくらい強めにかむ」

女は早速自分の薬指をかじった。

「よろしい。1回2~3分、暇をみてやると良い」

九郎は女の頭の天辺を押さえた。

「百会はここだ。ム、ぶよぶよに緩んでおる。鉛筆の先などでゆっくり押しなさい。緩みがなくなるまでやるのだ」

「はい。わっかりましたっ」

「……」

「それでそれで、これをやるとどこまでヤセられます?」

「何事も本人のやる気次第」

「17キロくらいヤセられますよね」

「うむ。頑張ればそれくらいはな」

「やったやったーい!」

「まあ、2~3カ月みっちり続ければ、何とかなろうな」

「2~3カ月ーッ!」

「うむ。千里の道も一歩から。三歩進んで二歩退がる。ローマは1日にしてならず、だ」

「だったら、せめて3日にしてよっ」

「無理は良くない。若者はすぐに結果を求める。焦ってはいかん」

「……」

「焦るほどのことはこの世に何もない」

「わかってるけど」

「90年、100年生きれば分かる。いいときもあれば悪いときもある。痩せるときもあれば太るときもある」

「そんなに待ってらんないわっ」

「長生きすることだ」

「ほんと長生きするわよ」

「うむ。ただいま130歳だからの」

「……だめだ、こりゃあ」

女は逃げるように九郎から離れていった。

「おい、どこへ行く」

「あたし、バイトなの」

「そうか、頑張れよ。額に汗して働くことだ」

「……まったく、100年だなんて、つき合ってらんないわ」

女は愚痴りながら、みるみる離れていった。

(老人の戯言と思われたか。ま、確かに130歳とは言い過ぎたが)

九郎も踵を返して林の方へ歩いていった。

街 サイドストーリー3

2014年05月05日 16時00分00秒 | 街 サウンドノベル
 10月12日 木曜日、AM6:00 代々木公園



10月の心地よい風がそよいでいる。

代島九郎は毎朝の習慣となっている、代々木公園の散策をしていた。

「伐(ファー)か……」

九郎は昔を思い出した。



 AM6:00 九郎の記憶の反芻



暗殺拳の使い手「崑崙の黒い虎」こと九郎は、密命を帯びてクーロン(九龍)を訪れたことがある。正しくは九龍は「カオルーン」か「ガウロン」と読む。

その頃九郎は、いっぱしの賞金稼ぎから、殺し屋にランクアップしていた。

賞金稼ぎをやっていた九郎の鮮やかな手並みに、直々に殺しの依頼をしてくる組織が多くあった。

1カ月で両手に余る数の首を持ってくる奴はなかなかいない。

実力のある者にはそういう抜擢もあったのである。

九郎は稼いだ金で、オリジナルの衣装も作った。

幼い頃にマンガで読んだ、全身黒づくめの殺し屋を真似て、黒い格闘衣である。

その格好が後に九郎を「崑崙の黒い虎」と呼ばわしめるようになった。

九郎は首を切るためのナイフと、相手を打擲するための杖を持っていた。

師の教えの中に、棒術もあった。

そういえばこの師、かつて崑崙山で修業していたと言っていた。

崑崙山に伝わる秘拳、その格闘術は多岐に渡る。

刃物、棒、ヌンチャク、もちろん素手で熊を殴り殺すような技もある。

九郎はそれを気功と組み合わせ、独自の暗殺拳を作った。



一度人を殺めた者は、その業を一生背負い続けねばならない。

しかし九郎は、人を殺す以外に生きる方法が無かった。

(日本へ帰るには金がいる……)

戦争は終わっていたが、日本へ帰る方法はなかった。

日本へ行く船が無かったからである。

北朝鮮や韓国へ入ることは事実上不可能だったし、満州から日本軍は既に撤収させられている。

日本軍に虐げられた村々では、九郎は敵(かたき)と見なされよう。

表面上ながら日中の国交が回復するには、今しばらくの時間を必要とする。

現在でも日本軍に置き去られた中国残留孤児の方々がいらっしゃるが、そのように中国人に引き取られて生きるか、さもなくば九郎のように、裏社会で生きるしかなかったのである。

結局、九郎が日本へ帰るには戦争が終わって20年以上を待たねばならなかった。

九郎が暗殺者として大陸で生きていた頃、中国は陰謀が渦巻く混沌とした社会だった。

生きるのに金がいる。

九郎にまっとうな方法で金を稼ぐ方法は無かった。

九郎はやむをえず暗殺を請け負ってきたが、次第にそれを仕事と割り切ることに慣れてきた。

今では九郎は闇に紛れて身を隠す方法や、気付かれずにターゲットに忍び寄る術も身につけ、一流の暗殺者として裏社会に名が知れている。

寸鉄も帯びずに手近な棒が1本あれば、たちまち首を刎ねる恐ろしい技を使うと、「仗(ジャン)」の通り名で恐れられるようになる。

「仗」とは棒という意味だ。

もちろん棒で首を刎ねるなどという人間離れした技を、九郎といえども使えるわけではない。

刃物も携行していたというのが、タネ明かしである。

しかしマフィアにとって、九郎こと仗が恐るべき人物であるということは事実であった。

斬ったと思ったらテーブルとすり替わっているし、八方から銃をお見舞いしても忽然と姿が消えている。

気付けば賞金のかかった首はとっくになくなっているから恐ろしい。

誰もが仗の正体を突き止めんとしたが、仗こと、九郎は足跡を残していないので、彼の過去について知るものはいなかったし、仗が何者かを特定することは出来なかった。

まあ、仗こと九郎は日本人なのだから、中国じゅう探したって彼の正体を知る人間などいやしないのだが。

また、五台山で修業した友も、九郎の過去については知らないし、なにより仗=九郎ということを知らない。

九郎は孤独だった。

中国に友はおらず、裏社会に生きる者の宿命として表社会に出ることも無い。

が、一人だけ、「友」と呼べる人間がいた。

それが「伐(ファー)」だった。



九郎と伐は、初めは敵同士だった。

九郎(仗)は、中国本土のマフィア「炸醤麺(ツァージャンメン)」の手先として香港に潜入、ターゲットが九龍島にいるとの情報を掴んだ。

ターゲットは「竜頭嬢(ロントウニァン)」というマフィアの幹部で、ハゲ頭で片目の男だという。

しかしターゲットも、ただ無防備にその首をさらしているわけではない。

手練の殺し屋を雇っていた。

それが伐という通り名の男だった。

アヘン戦争以後、香港はイングランドの租借地となったが(1997年に中国に返還された)、香港は香港半島側と九龍半島側に分かれ、九郎が訪れたのは、九龍半島側の、九龍城(ガウロンセン)という地帯である。

ここは、「魔都・香港」と聞いて即座に思い浮かべるような、悪と混沌が渦巻く領域であり、本国だったイングランドでさえも、ここを支配することは諦めた。

ところで、日本人が「香港」と聞くと、どういう訳か、麻薬、売春、かどかわしなど「悪の巣窟」といった感を持つが、現実の香港はそれほど危険な街ではない。

かといってポケットから財布が見えているくらい無防備に歩いていると、掏られちゃうから気をつけよう。

さて、九龍城である。

ここは現在は存在しない。1993年に乱立していたビル群は取り壊され、今は香港と変わらぬ普通の街になっている。

が、時代を遡れば、徐々にその混沌とした悪の街が姿を現す。

九龍城、正確には九龍城砦(ガウロンセンツァイ)と呼ばれる地帯だが、ここは香港にあって香港ではなかった。

我々が抱く「魔都・香港」というイメージを再現したのがこの九龍城といえた。

九龍城がなぜこのような混沌とした地帯になったかについて言っておくと、昔、九龍城は、「九龍城砦」の名が示す通り、砦だった。

宋朝の頃、1668年にそこに「九龍烽火台」という砦が建設された。それは外敵を威圧するために建てられた。

イングランドが最初にここを租借地とした時に、香港を、イングランドが支配するが、清朝による管理を認めた。清(中国)の人間がこの地で好きに生活することを認めたのである。

その方針の下、清の行政機関としてその砦は使われた。

太平洋戦争中に日本軍は香港を占拠したが、その時、軍事飛行場を作るのに邪魔な砦の塀が取り壊された。

日本軍が香港から撤退した後、辛亥革命で清朝が倒れたが、1949年に成立した新たな国民政府(中華人民共和国)は、その、(もと)砦に頓着しなくなった。

イングランドのものでも、中国のものでもない不思議な地帯である砦は、たちまち中国からの難民で溢れた。

その治外法権区は難民によって占拠され、それが現在の九龍城の基礎になる。

最初、九龍城砦にはバラック建てのスラムがあったが、1951年、火事で全てが消失、九龍城は新たに、暗黒街として再び出発をした。

九郎がここを訪れたのは、そんな1960年代である。

その頃は最も治安が悪い時代だった。

コンクリートを固めて作った3階建て、5階建てという箱の中に人間が住んでいて、どこから材料を集めたのか、その箱はひしめき合うほど建っている。道幅は3メートルあればいい方である。

文字通り混沌としていた。家の前に用水路と思われる細い掘が視界の続く限りまっすぐ続いている。

視界の続く限りとは、得体の知れない靄が、遠くを霞ませているためである。

漂う紫煙はタバコではなさそうだった。アヘンの煙だろう。

曲がった鉄板に何のインクか分からないが、中国語で「食堂」「医者」「女」などと殴り書かれている。医者といっても、おそらく正式な免許は持っていないと思われる。

道行く人々は(道といえるかは分からないが)、顔色の悪い青年、痩せこけた娼婦、どう見ても麻薬中毒の老人、そして目つきの鋭いやくざ者などだった。

高さ2メートルくらいの建物の壁の処を、およそ水平に細いパイプが走っている。これが水道管だった。見れば、その水道管は何本も束ねられ、目で追うのが面倒なほど分岐して絡み合っている。そこから濁った水が滴り、地面はぬかるんでいる。

そして地面にはゴミや、小動物や人間の死骸が散乱している。

……「悪の巣窟」そのままのイメージである。

九郎が通りかかると、怪しげな女が建物の入り口で闇の中から手招きし、異常な目をした不健康な顔の青年がおぼつかない足取りでウロつき、ぶつかった男に殴り倒されている。

(えらい処だ……)

九郎は思った。北京の暗黒街の方がマシだろう。

こんな人工密集地で果たしてターゲットが見つかるだろうか。

が、九郎が案じたのは杞憂に過ぎなかった。

「竜頭嬢」の看板はすぐに見つかった。案外おおっぴらに看板が出ていることに少し戸惑ったが、かえって好都合というものだった。

九郎はその5階建てのビル(というよりコンクリートの箱)の中に入っていった。

1階部分は酒場だった。暗い室内に裸電球が1個だけぶら下がり、紫煙が満ちている。

座席はさほど多くなく、カウンターにハゲたおやじが立っている。右手の奥に梯子があった。

九郎は睨みつけてきた男を鋭い眼光で制すと、真っ直ぐカウンターへ行き、おやじに問うた。

「『隻眼の麒麟(キリン)』はいるか?」

……「隻眼の麒麟」はターゲットの名である。

おやじは何も言わない。

気がつくと、部屋の四隅に屈強な男が立っている。

先ほどから呑んでいた卑屈な目をした男たちはいなくなっていた。

「帰んな」

おやじはそれだけ言った。

男たちは一歩、間合いを詰めてきた。

「そうもいかない」

九郎は低く言った。

「帰んな」

おやじはもう一度言った。

それが合図だったらしい。

男たちがゆっくり近づいて来る。

「……酒をくれないか?」

九郎は唐突におやじに言った。

男たちは一瞬、動作が止まり、おやじは面食らったような顔をした。

「酒場だろう? 酒をくれ」

九郎は少し微笑んだ。目は笑っていないが。

おやじは一瞬、考えたが、

「やれッ!」

男たちに短く命じた。

男たちは九郎のフェイントの一言で、一瞬、型が崩れていた。

それを見逃す九郎ではない。

九郎は男たちの隙をついて、親指で男たちのツボを突いた。

「ああッ!」

たちまち男たちは股間を押さえて悶絶した。

九郎は、股間が痛くなるツボを突いたのだ。

九郎が向き直ると、おやじは怯えた。

「あ……あっ」

おやじは、床に倒れて泡を吹きながら呻く男たちを見て戦意を完全に失ったらしい。

股間は言うまでもなく急所である。

「な、なにを……したんだ」

「言え、『隻眼の麒麟』はどこだ!」

九郎はおやじを無視して問うた。

「あ、あわわ……」

おやじは失禁寸前だった。

「言え!」

九郎は鋭く言った。

「俺が答えよう」

突然、背後で声がした。

九郎は振り返った。気配を殺して近づいてくるとは、かなりの手練と見ていい。

見れば、紫の格闘衣を着た長髪の男が立っていた。

その紫の男は九郎に言った。

「お前は誰だ?」

九郎は相手の隙をうかがいながら言った。

「……『崑崙の黒い虎』」

「お前が?!」

男は感嘆の声を上げた。

「ならば俺も名乗ろう。『九龍の青竜』」

男は名乗ったが、そんな名は聞いたことがない。

見れば、まだ若い。

九郎は初老に差しかかっていたから、そんな若僧に名乗られても知らぬ。

「売り出し中の殺し屋さ」

男は言った。

(殺し屋に売り出すも売り出さぬもあるか。そんなことを吐(ぬ)かす奴はすぐにくたばるのがオチだ)

九郎は思った。

「俺のクライアントのことを嗅ぎ回っているのはアンタか」

「クライアント?……貴様、『隻眼の麒麟』に雇われた用心棒か?」

「その通り」

「ならば教えてもらおう。『隻眼の麒麟』はどこにいる?」

「ここにはいない。そして教える気は無い」

「ならば体に聞くまで」

九郎は素早く椅子の足をもぎ取り、右手に構えた。

「『崑崙の虎』、通称『仗(ジャン)』か、なるほど。俺は『伐(ファー)』だ。武器はコレよ」

そういうと、「九龍の青竜」こと伐は懐から短刀を取り出し、鞘を抜いた。

伐には、刃物で切り裂くという意味がある。

隙の無い構えだ。

(少しは出来るようだな)

九郎は少し相手を低く評価し過ぎていたらしい。

余裕は隙を生む。

伐の繰り出した突きを、ただの突きと見たのが誤りだった。

九郎はサッと横に身を翻したが、伐の短刀の軌道は即座に九郎の躱した方へ曲がった。

「ヌオッ?!」

九郎は咄嗟に左腕で受け流したが、そのため九郎は左腕に短刀で傷を付けられた。

「クッ!」

左腕に液体が伝い落ちるのが分かった。出血したようだ。

(まずい!)

九郎は肘の裏側にある血管を右腕で押さえた。伐が短刀に毒を塗っていた可能性がある。

「毒などと小賢しい真似はしねえ。男は正々堂々と闘うものだ」

伐が余裕の表情で言った。

九郎は出血のひどい腕を押さえながら言った。

「殺し屋に卑怯もなにもあるのかな?」

「俺は卑怯な真似が嫌いなんだ。そういう奴を見ると虫酸が走らあ。特に、アンタのような悪者になりきってねえ奴……実力のある奴には卑怯な真似はしたくねえ」

「……どうしてワシが卑怯者でないと分かる?」

「目で分かる。卑怯者はそんな目をしちゃいねえ」

「……目?」

実力の無い者が、卑怯に走るということか。

「あばよ、命は助けてやる。まだこの街を嗅ぎ回るなら容赦しねえぜ」

九郎を無視して伐は出口の方を向いた。

「俺の攻撃を避けるとは、やるな、『崑崙の虎』」

伐はそう言って出ていった。

それと同じことを九郎も思った。

(ワシが避け切れぬとは……やるな、『九龍の青竜』)

九郎は立ち上がった。

カウンターの下で震えているおやじに、

「『隻眼の麒麟』に伝えろ。その首、『崑崙の虎』が貰い受けるとな」

そう言って九郎も建物を出た。

見回しても、コンクリートの塊がずっと続いていた。

コンクリートに出来た隙間のような道路に伐はいなかった。

薄汚い景観がずっと続いていた。



(目か……)

九郎は辺りにいるガラの悪い男たちを見回した。

どれもこれも、目つきが悪いだけで、まるで負け犬のような目だった。

伐は九郎に、「悪者になりきっていない」と言った。

どういうことだろう。

そういえば、伐の目は、何だか「生きていた」ように思えた。

この辺りにいる人間は、すべからく死んでいる。虐げられることを受け入れた目をしている。

金、権力、その他の欲望……ここでそれらを得られたのは少数だろう。

あとは皆、それらに屈しているのだ。

(ワシはどうだろう……)

どっちだろう。前者なのか、後者なのか。

どちらでもない気もするし、そうでない気もする。

そして、伐と自分は似ている気がした。



九龍城砦……この街にはすべてがある。そして、何もない。



 AM9:00 代々木公園



九郎の思考は突然中断された。

ピピピピピ……ピピピピピ……

九郎の携帯電話が鳴ったのだ。

九郎は懐から携帯電話を取り出し、

「もしもし」

『チンチコール、日曜日よ』

「ム、チンチコール」

『金曜日は見込みがあるわ。この分だとすぐに日曜日に昇格よ』

「そうか。よかったな」

九郎はちっとも良くなさそうに言った。

『機嫌が悪いわね』

「そんなことはないさ」

『金曜日に次の指令をあげてもらえるかしら。資料は』

「……ここにあるわ」

九郎が振り向くと、そこにいつの間にか日曜日が立っていた。



 AM10:00



九郎が、代々木公園の池の前のベンチに腰かけハトに豆を撒いていた時、金曜日が小走りにやって来た。

「チンチコール」

金曜日は九郎の横に立って、右手を上げ挨拶した。

「チンチコール」

九郎も返す。

金曜日は九郎の横に座った。

「おお来たな、金曜日君」

「ハイ」

金曜日は九郎に好意を持っているようである。

「聞いたよ。昨日は大したお手柄だったらしい」

「いえ、それほどでも」

「……続きそうだ」

「は?」

「七曜会がさ。きみは相性がいいらしい。……やってみるかね?」

九郎は金曜日にハトの豆を分ける。

「前の金曜日は長続きしなかった」

「はあ……」

「初日からつまづいてしまってね」

九郎はそういって笑った。

「なぜか金曜日は長続きしない。私が来てからでも、きみは四人目だ。日曜日はきみをえらく買っている」

「三人の人たちは、どうなったんですか」

「ああ」

九郎は遠くを見るような目をした。

「きみは何といわれたね」

「は……?」

「日曜日にさ。命令通りにしないと、どうするかと」

「え……それは、ツマリ、全てを何もかもバラすと」

「そうされたのさ。金曜日君、やめていった三人はね」

金曜日は気の毒そうな顔をした。

「だが、きみは大丈夫そうだ。七曜会の期待も大きい」

九郎は励ますように言った。

「……七曜会の目的はなんなんです? そして七曜会を作ったのは……」

金曜日は九郎に聞いてきた。

九郎は平然と言った。

「それを訊ねるようにいわれたかね?」

「いえ……」

「ルール6、組織の秘密を洩らすな」

九郎は低い声で、彼に諭すように言った。

「す……すみません」

九郎はハトに向けて豆をひとつまみ放ってから、

「いろんなハトがいる。きみもエサをやってみるといい」

九郎は膝の間に立てたステッキに顎をのせて言った。

いわれるままに金曜日はハトに豆をやった。

「見なさい。ずいぶんと攻撃的だ。ハトが平和のシンボルだなんて、いったい誰が決めたのかな」

その通りであった。

横取りするハト。出しゃばるハト。自己主張するハト。攻撃しあうハト。妨害するハト。

「ほんとだ。今まで気付きませんでした」

「エサなど与えるべきではない」

そういって九郎は再び豆を撒いた。

「だが人はエサを与える。なぜかな、金曜日君?」

金曜日は、少し考えているような顔を見せた。

「向こうのカラスを見なさい」

九郎はステッキで正面の木に止まるカラスを示した。

「私はカラスにもエサをやるが、決してカラスは争うことはない」

「はあ」

「だがハトは平和のシンボルであり、カラスは不気味な象徴のままだ……なぜなのかな、金曜日君?」

金曜日は考えている。

「さてと、行こうか」

九郎は立ち上がった。

「ハイ」

金曜日も立ち上がった。

「うん。10月の代々木公園はイイ」

歩きながら、九郎はステッキを振って大きく深呼吸する。

「金曜日君」

「ハイ」

九郎はステッキで木々を差す。

「あれが、もみの木。その隣が、椎の木。次が樫」

「ハイ」

「あれが、桜……あれは、梅」

九郎はそれらの木々を順に解説して歩く。

……九郎は立ち止まった。

「金曜日君」

「ハイ」

「これこそが、イチョウの木。樹齢およそ500年だ」

「はあ……」

「金曜日君」

「ハイ」

「人間、木の名前を知ることは大切だ。それが自然と生きるということだ。」

「はあ」

「うん」

九郎は満足げにうなずく。

「あの……木曜日さん」

「何だね、金曜日君?」

「ハトや木と七曜会が、どう……?」

金曜日は訊ねた。

「え」

「は、あの……いまの。たとえ話じゃなかったんですか。ハトと木を七曜会にたとえて、何かを……」

九郎はあせった。別段、考えがあってそんな話をしていたわけではない。

「ええッ……そ、そうだったのか」

「ちがったんですか?」

「うーん……すまん。ちょっと待ってくれ。ハトと七曜会。むうん、今考える」

「あ。木曜日さん。結構です。ムリしないでください」

「いやそうもいかん。ハトは七曜会……うーん」

「いえ、ほんとうに、木曜日さん」

「金曜日君、七曜会とカラスでもいいかね」

「ハイ……あの、いえ」

「七曜会とカラス。うーん……」

結局それにも意味は無かった。

「ほんとに。もういいですから」

「ん。よし……金曜日君。歩こう」

九郎はごまかすことにした。

「健康には歩くのがいちばんだ。走るのがいいという者もいるが、あれは命を縮めるという者もいる。歩きについては誰もなにもいわん。それは、歩かない人間はいないからだ」

「あの、木曜日さん」

「ん?……何だね、金曜日君?」

「たとえ話は諦めましたが、今日のデータを」

「ん?……えッ?!」

「ターゲットの資料です。日曜日からは、ここであなたから受け取れといわれて来たんですが」

「あッ……いかん」

そうだった。話に興じているうちに忘れていた。

九郎はステッキで近くのベンチを示した。

「座ろう。金曜日君」

「ハイ」

「では、金曜日君、いいかな」

「ハイ」

九郎はステッキに顎をのせた。

と、ここでさっきの続きを話していないことに気付いた。

「……ハトが争い合うのは、強いものと弱いものがいるからだ。ハトがいつまでも平和のシンボルであり続けるのは……誰かが昔、ハトを平和のデザインに使ったからだ」

「はあ……」

金曜日は釈然としない顔だ。

「と、ワシは思う。そのとき商標登録しておけば、彼は大儲けできたハズだ」

「木曜日さん……」

「ん?……金曜日君、そうか。感動してくれたか!」

「木曜日さん、ハトの話はもういいですから、今日のデータをください」

「はは、金曜日君」

「はあ」

「若いうちはとかくそのようにアセりたがるが、人間、焦ってはいかん」

「はあ……」

「金曜日君、ワシは君が好きだ」

「はあ。ぼくもです、木曜日さん。」

「はは、ワシらは同志だ。長生きしろ!」

九郎はバンと金曜日の方を叩いた。

「ゴホゲホガホ……」

金曜日はむせた。

「ガホ……ですから、木曜日さん」

「きみはきっと、いい会員になる」

「はあ……」

九郎は視線を池の方に移して言った。

「きみに罪の意識はあるか?」

「は……?」

「七曜会の行動にだ。良心の呵責のようなものが、きみにあるか?」

「はい、あの……」

「きみにはある。罪の意識がある。しかし、快感もある。人を脅迫する喜びに、君は目覚め始めている」

金曜日は何も言わない。

「それは、きみが善人だからだ」

「え、善人……」

「そうだ。善人で、弱いからだ」

九郎はステッキをついた。

「実はワシもそうだった。善人で弱い……だから、この仕事に耐えられる。相手の痛みが分かるからだ。強いものにはムリな仕事だ。長続きせず、1日2日で挫折する」

「な、何だか逆のような気もしますが」

「はは、金曜日君」

「ハイ……」

「きみも、ワシのような年になれば分かる」

……はずだ。

「ハイ」

金曜日は正直に頷いた。

「善人は弱い。善人にはこの仕事は辛い……だから、勤まる」

九郎は淡々と続けた。

「善人には相手の痛みが分かる。それは思いやりだ。だから、それが快感になる……強者にはここの理論が分からない。なんとなれば、強者は、悪者で、鈍者だからだ」

金曜日は黙って九郎の言葉に耳を傾けている。

「金曜日、きみは見込みがある……これは今日のデータだ」

九郎はやっと金曜日に封筒を手渡した。

「強者には弱者たれ。弱者には強者たれ。これはワシの持論だ。ハトは争う。カラスは黒い。きみはスジがいい。チンチコール」

九郎は金曜日を励ますように肩を叩いた。

「ゴホゲホガホ……」



 AM11:00 渋谷区内



九郎と金曜日は、あるビルの前に立った。

「あそこだ」

九郎はステッキで示した。

美容院だった。

「カットスペース『トゥルー』」。

看板には洒落た書体でそう記されていた。

「まあ、行ってきなさい。きみなら一人でやれる。チンチコール」

「え……行っちゃうんですか」

「私にはこれから、ちと別件がある。がんばりたまえ」

金曜日は九郎の手を握ってきた。

「チンチコール」

「チンチコール。立派な金曜日になることだ。そして、立派な日曜日に」

金曜日は一瞬、九郎の目を見た。その目には、ちょっとした驚きが含まれている。

(そうか、彼は知らんのだったかな?)

……7つのノルマを果たした後、日曜日に昇格するということを。

「では、金曜日君」

九郎は軽くステッキを上げて金曜日に背を向けた。

「また逢いましょう」

去りゆく九郎に金曜日は言った。

「チンチコール!」

もう一度金曜日は九郎にそう言った。

九郎は無言でステッキを上げた。

(もう逢うこともないだろう、な……彼とは良き友になれそうだったが)

……こういう出会い方でなければ。

九郎はゆっくりステッキを降ろした。

彼は七曜会でうまくやっていくだろう。



 AM11:30 渋谷駅前(ハチ公口)



約束の時間まで、まだ30分ばかりある。

九郎はベンチに腰かけ、ボーッと忠犬像を眺めている。

(おや?)

……水曜日がいた。

七曜会の会員、水曜日は女子高生である(と、本人は吹聴している)。

水玉のワンピースを着て、誰かを待っているらしい。

目が合った。

……が、無視する決まりである。

お互い、即座に目を逸らした。

九郎が再びそちらを見たとき、水曜日はいなかった。



 AM11:40 記憶の反芻



九郎が「伐(ファー)」と再会したのは、ターゲット「隻眼の麒麟」の自宅だった。

「隻眼の麒麟」は、九龍城のとある貧しい家に、家族と住んでいた。

九龍城はコンクリートを固めただけのような建物が地上、地下に渡ってひしめいているが、人々は3~5階建ての建物の一室で貧しい暮らしをしている。日本の住宅事情がウサギ小屋に例えられるが、ソレ以上の悪環境で生活しているのだ。

そんな建物にさえ住めないものが、町中でブラついている。

九郎が踏み込んだのは、せいぜい6畳くらいだろう。コンクリート地に囲まれた殺風景な部屋に、「隻眼の麒麟」の一家は、暮らしていた。

幼い子供を抱えて怯える妻が奥におり、九郎の目の前には、背丈の大きいスキンヘッドで眼帯の男が立っている。

「出ていけ」

男は九郎に言った。

「首をもらう」

九郎は冷たい目で腰の短刀を抜いた。

「『伐』ッ!」

「隻眼の麒麟」が短く言うと、九郎の背後に伐が立っていた。

殺気が満ちている。

「帰れと言ったはずだぜ」

伐は九郎から数メートル離れた処に立っている。

「仕事なんでな」

九郎がこの場所を突き止めるのに2日かかった。

これが「仕事」でなければ、このような街からはすぐに逃げ出していたろう。

掃きだめのような街で九郎が見たのは、人々の失意だった。

持たざる者は持つ者を羨み、妬む。

欲望と殺意が満ちる腐った街で、九郎は人々に幻滅した。

人は弱い。

弱い者が集まると、強い者になった気になる。

一人で生きている九郎には、それが愚かしくも、また羨ましくもあった。

「出てって、出てってよッ……」

「隻眼の麒麟」の妻は先ほどからヒステリックに叫ぶだけだし、子供は火がついたように泣き叫んでいる。

九郎は動けない。

背後に伐がいるからだし、また、「隻眼の麒麟」の首を、今ここで刎ねるのにためらいもある。

目の前で、夫の首を刎ねようとしている男を見て、妻はどう思っているだろう?

「『崑崙の黒い虎』、アンタは話の分かる男だと思っていたが」

伐は九郎にそう言って、腰から短刀を抜いた。

「やめて、出てって、子供がいるのよォ……!」

「隻眼の麒麟」の妻は子供をかばっている。

「話は外でしよう」

「隻眼の麒麟」は九郎と伐を見て言った。

九郎が振り返ると、伐は消えていた。

先に行ったらしい。

九郎は「隻眼の麒麟」の方に向き直って、頷いた。



正確な時刻は分からない。

九龍城の中は一日中電気をつけねばならぬほど薄暗いので、今が何時かは不明である。

九郎が建物から出ると、伐が待っていた。

「決着をつけようぜ、『崑崙の黒い虎』」

伐はニヤリと笑んで言った。

九郎は再び抜刀した。

「お前はなぜこのような稼業をしている?」

九郎は問うた。

「……」

伐は黙っている。

「お前は一人か?」

「……」

伐は黙って短刀を構えた。

「ワシはこの街に2日間いたが、生きる意味を見いだしている人間がいたろうか」

「……何を言いたい?」

伐は油断なく腰を落とした。

「この街には人工物しかない。自然なくしても人は生きられる。しかし自然への憧憬を抱きながらな。この街には何でもあるが、何も無いのだよ」

「……戯れ言を」

「自然が存在しないんだ。自然のままなのは人間だけだ」

「……」

伐は少し思案しているような表情をした。

「君は自然が無くても生きられるかね?」

「……不便に思ったことはない」

「なるほどな。逆にワシは自然しかない生活をしていた。モンゴルにいたことがある。山奥で修業していたこともある。不便だったよ。全てを自然物から編み出さねばならなかった。人工物に憧れたが、逆に人工物にばかり囲まれると、人の心は荒(すさ)むということも分かった」

「……?」

「例えば、君だ」

「……俺?」

「お前さんはここで、この街で一人で生きているのか?」

「……ああ。物心ついた時にはこの街にいたよ。俺は、香港で……」

伐は言いかけてやめた。

「そんなことはどうでもいい。かかってきな、『崑崙の黒い虎』!」

「前は油断したが、今回はああはいかんぞ」

九郎は腰から短刀ではなく長さ50センチほどの棒を抜いた。

「てめえ、おちょくってんのか?! 刃物を抜けッ!」

伐は怒鳴った。

「お前に刃物を向けると、殺してしまう。君に死んで欲しくないのだ」

九郎の目に迷いは無かった。落ち着き払った表情で九郎は棒を構えた。

「君とワシは似ている。君は居場所がないという思いを抱いたことがあるはずだ。そして頼れるのは己の腕のみだった」

「……御託は沢山だぜ。俺は仕事を果たすまで」

「ワシも同じよ。来いッ!」

九郎は腰を落とした。

「ハッ!」

伐は短く叫び、九郎に突きかかってきた。

「同じ手は通用せぬぞ」

九郎もプロだ。伐の予測不能な軌道を直感で捉えていた。

九郎は素早くかわすと伐の腕を恐るべき膂力で掴み、その背中に棒の柄を叩き込んだ。

「げフッ!」

伐は一瞬、呼吸が出来なくなって倒れた。

「か……カァッ!」

伐は呼吸が出来ずに苦しんでいる。

その目に、信じられぬという恐怖と絶望が浮かんでいた。

「とどめを刺すまでもない。生きろ。君はまだ若い。」

九郎は短く言い、伐から離れた。

伐は脊椎を殴打され、痛みが引くまでしばらく立てないだろう。

屈辱感に満ちた目で九郎が歩いて行くのを見ている。

九郎は真っ直ぐ「隻眼の麒麟」の方へ歩いて行った。

「伐は倒されたか」

「隻眼の麒麟」は神妙な顔で立っていた。

「相手が悪かったな」

九郎は言った。

「俺も格闘家のはしくれよ。ただ首を差し出すわけにはいかぬ」

「隻眼の麒麟」は背中に手を回し、

「死ねやあッ!」

銃を抜いた。

パンッ!

火薬の弾ける音がこだましたが、九郎は既にそこにいない。

「笑止ッ!」

これは日本語だ。

九郎は即座に「隻眼の麒麟」の背後に回り、短刀で首を掻き切っていた。

地面に落ちた首は仰向けに転がり、数秒間九郎を睨みつけた後、静かに瞳孔が開いていった。

「……成仏しろ」

九郎は首を拾い上げようとした。

その時、

「あんたあッ!」

「父ちゃんッ!」

建物の中から様子を伺っていた「隻眼の麒麟」の妻子が、同時に飛び出してきた。

九郎から奪うように首を抱きかかえ、倒れた「隻眼の麒麟」の胴体にすがりついて泣き叫んでいた。

「あんた、あんたあッ!」

「父ちゃーん!」

後は言葉にならぬ。

ひたすら泣き叫んでいた。

……それを見て九郎は思った。

(彼には守るべきものがあった。しかしワシには無い。そして彼はワシに倒された。なぜなら、弱いからだ。弱いから、死んだ。しかし……)

……しかし、ワシは、強いのだろうか?

九郎は繰り返し自問した。

そしてターゲットの首を持ち帰るのを諦め、その場から立ち去った。

「隻眼の麒麟」の家族は、九郎に仇討ちを挑まないだろう。自分たちが弱いことを知っているからだ。

九郎は灰色に淀んだような心で、九龍城砦を後にした。



九龍城砦は、遠くから見ると、なるほど砦のように見えた。

黄昏時に、それは人工的な丘として、夕日を背にそびえ立っている。

それは威圧的な姿だったが、中に人が生きている。愛憎を持った人間が住んでいる。

掃きだめのような腐った街だったが、心を持つ人がいるのだ。

守る者、守られる者、そして孤独に生きる者。

九郎は少し九龍城を見ていたが、身を翻して再び歩き出した。

「首はいらないのか?」

気がつくと、少し離れた場所に伐が歩いていた。

「ああ。ワシも弱い人間の一人だからな」

自嘲気味に呟いた。

「お前さんはどうなんだ?」

九郎は伐に問うた。

「俺はもう九龍には、いられねえ。弱い奴は生きていけないのさ」

伐も自らを嘲った。

「……お前さんは、泣き叫ぶ家族を前に、首をとれるかな?」

「……出来ねえだろうな。いや、時と場合に……いや、やっぱり出来ねえかも知れない。ところでアンタ、任務を放棄して、故郷に帰れるのかよ?」

伐は九郎についてくる。

「任務を遂げた証拠はあるさ」

九郎がそう言った刹那、

「ご苦労だったな、仗」

後ろから黒塗りの車が走ってきて、中の男が言った。

伐はぎょっとしてその車を見た。

「首はないが、任務は終えた」

九郎は中の男に言った。

「ウム。我々は貴兄の働きに大いに感謝しよう」

「ついでだ。ワシとこの若者を北京まで送ってもらえぬか」

「ウム、乗れ」

男が言うと、後部座席のドアが開いた。

が、中から黒スーツの男たちが3人出てきた。

「何の真似だ?」

九郎は鋭い目を運転席の男に向けた。

「『隻眼の麒麟』が死んだ以上、お前に生きていてもらっては困る。我々がなぜフリーランスのお前を九龍城に差し向けたか分かるか?……我々の存在を嗅ぎつかれぬためよ」

「……」

九郎は男を見た。

「報酬を受け取るまでは、ワシは貴様らの仲間だ」

「その通り。しかしお前は生きて北京に帰れなかった。報酬を渡す相手がいなくて残念だよ」

「貴様ら如きに、ワシが消せるか?」

「しょせんは流れ者よ。手練の我々に敵うはずが無いさ」

男は笑った。

「やれ!」

男は短く出てきた男たちに命令した。

男たちは銃を抜き、九郎に狙いを定めた瞬間、

ボキッ!……というイヤな音がした。

男たちの一人がうずくまった。否……と、見えたらバッタリと倒れ込んだ。

倒れた男の場所に、伐が立っていた。

「卑怯もんどもには手加減ナシだぜ」

伐は不敵に笑っている。

「あ、てめえッ!」

残った男たちは伐に向けて発砲したが、既に伐はそこにいない。

しかも向き合って発砲したため、お互いの胸を射ち抜くという皮肉な結果になった。

「あ、あ……」

車の男が怯えて車を発進させようとしたが、

「おっと、ワシらを北京まで送ってくれるんじゃなかったのかの?」

九郎は男の胸ぐらを掴み、車から引きずり出し、首の横から手刀を叩き込んだ。

男の首が変な方向に曲がり、そのまま倒れて動かなくなった。

「フン、あっけねえ」

伐が吐き捨てるように言い、近くにいた男のポケットから財布と銃を抜き取った。

「金と武器がいるだろうからな」

伐はニヤリと笑んだ。

九郎も笑った。

北京までの道程は長い。

街 サイドストーリー2

2014年05月05日 15時00分00秒 | 街 サウンドノベル
木曜日 「虎の見た夢」

作者名 T.M

 10月11日 水曜日、AM10:00 代々木公園



茶人のような姿をした老紳士がステッキを持って颯爽と代々木公園を歩いている。

「今日も晴天だ。結構ケッコウ」

公園の木々の合間を散歩しながら、代島九郎は一人言ちた。

朝早くから代々木公園を訪れるのは日課になっている。

散歩することは健康を保つ一つの方法でもある。

彼はけっこう金持ちである。老後を優雅に過ごせるのも、若い頃にかなりの稼ぎがあったためである。

九郎には家族がいない。

妻はとっくに死んでいるし、名の示す通り9番目の子で末っ子なので、親兄弟もすでに鬼籍に入ってしまっている。

妻との最初で最後の娘は、孫を産んですぐ死亡し、その夫である義理の息子は再婚したらしいが、だとすると既に彼とは親子ではない。

では九郎と血が繋がっているのはその孫のみということになるが、義子とは音信不通である。

つまり九郎は天涯孤独の身である。

が、九郎は数々の趣味に明け暮れるだけの余裕があるので、寂しさはない。

ピピピピピ……ピピピピピ……

その時、電子音がした。

見れば、九郎が懐から携帯電話を取り出した。

彼は老人にしてなかなか近代的なモノに理解があるとみえる。

九郎は受信ボタンを押して、携帯電話に耳を当てた。

「もしもし」

『……チンチコール、木曜日。ご機嫌はいかがかしら?』

相手の女は、意味不明な暗号のような言葉と……九郎のことを「木曜日」、と呼んだ。

「チンチコール。何か用かね、日曜日」

九郎……木曜日も、電話の相手を「日曜日」と呼んだ。

『今日、新しいメンバーが入会することになるわ。金曜日よ』

今日は水曜日である。

が、今日の曜日のことを言ったのではなさそうだ。

「金曜日か……今度のはもうチト骨のある者がよいな」

九郎は言った。

『ええ。すこし頼りなさそうだけど、彼ならきっといい脅迫者になれるわ』

電話の相手は物騒なことを言う。

『あっ、彼が来たわ。チンチコール、木曜日』

「ウム、チンチコール」

九郎がそういうと、相手は電話を切った。

「やれやれ、忙しいのォ」

といっているワリに、九郎は面倒そうな顔をしていない。

むしろ、新しい愉しみが出来たといわんばかりに、満足そうな表情をしている。

九郎は代々木公園を後にした。



 AM10:20 代島九郎の記憶の反芻



あれは、2カ月前ほど前のことだった。

九郎は日課として毎朝代々木公園を散歩する。

昼過ぎに自宅へ帰ると、待っていたように電話が鳴った。

(……将棋仲間ではなさそうだな)

長生きすると直感が働く。

理屈ではない。電話の相手が、おそらく自分の知らない相手であろうことを予測することができた。

そしてイタズラ電話や間違い電話でもないことを。

また、この電話に出ることで、何か厄介なことに巻き込まれることになることまでが直感で分かった。

しかし九郎は受話器を取った。今さら何に怯える年齢でもない。

「もしもし、代島九郎でございますが」

九郎はあえてフルネームを名乗った。

『……代島九郎さんですね』

電話の相手もこちらのフルネームを反芻した。

相手は女だった。若い女である。九郎がここまで予測できたかは分からないが。

『……私は日曜日と申す者です。あなたにご用があります。明日10時に代々木公園へいらっしゃってください』

「なぜかな?」

九郎は問うた。

『……なぜ? あなたは来なければなりません。あなたの過去を、暴かれたくなければ』

「なに?」

九郎は少し声がうわずった。

『それでは、明日10時に代々木公園へ。合言葉は『木曜日』』

電話の相手、日曜日は無駄なく用件だけを告げると、電話を切った。

「ウム……仕方ない。彼女がワシの何を掴んだかは知らないが、行ってみるとしよう」

九郎は毎朝代々木公園を訪れるから、特に面倒でもない。



 AM10:30 記憶の反芻、その翌日



代島九郎は代々木公園の池の前のベンチに座って、ボンヤリとハトを眺めている。

豆がもらえると思ってか、ハトは九郎の回りに集まってくる。

ふいにハトの波が割れた。

その間を、女が歩いてくる。

昨日の電話の女だった。

「木曜日ね」

聡明だが、自身の感情を押し殺しているといった風情の女だった。

口だけに笑みを浮かべている。

清潔そうな白いスーツをまとっている。

「日曜日さんとやらかね?」

九郎の問いに、女……日曜日はうなずいた。

「して、用件は何だ」

「気が早いことですわね」

言いながら、日曜日は九郎の隣に腰を降ろした。

「フム、今日は上野の方まで新しいステッキを見に行こうと思ってな」

これはいま取って付けた理由で、九郎は直感でこの女が危険だということを察知していた。ゆえに、これ以上関わるのは危険と見た。

しかし言ってから、なんだか本当に新しいステッキが欲しくなった。ステッキ集めは九郎の趣味でもある。

「あなたはご自宅に300本以上も、ステッキを集めていらっしゃるものね」

「……?」

日曜日の言葉に、九郎は首を傾げた。

「なぜお前さんがワシの趣味のことを知っておる?」

女は全てを見透かしているというような顔で、

「買っていただきたいものがあるんですの」

九郎を無視して、日曜日はハンドバッグから写真を取り出した。

(……仏像でも売りつける気か?)

と、九郎は思った。

写真を見て、一瞬なにが写っているか判断しかねたが、すぐに理解した。

「これは……」

九郎の表情が変化するのを、日曜日は面白そうに見ている。

「ぬかったな。まさか写真を取られていようとは」

言って九郎はカカカカ……と笑った。

そこには、プリクラの機械の前に立つ九郎の姿が写っている。

隣に、顔は分からないが制服姿の女の子の姿もある。

「これをお友だちに配ったら、どんな顔をするかしら?」

「フム、死んだカミさんを裏切って、女子高生とこんなモノに興じていたと、ひやかされよう」

カラクリはこうだ。

九郎はある時、センター街を散策していた。

その時、九郎の不思議な雰囲気に目を付けた女子高生が、

「一緒にプリクラとってくださ~い」

と声をかけてきた。

九郎は、

「は、ぷりくら……?」

……てな具合だった。

九郎は日曜日に言った。

「ワシにこれを買えと? しかし、こんなモノでワシを脅迫しようとは笑止千万だの」

「ええ、確かに。『崑崙の黒い虎』ともあろうお方が、プリクラですからね」

「ム……」

「買っていただきたいのはこちらの写真ですの」

日曜日は別の写真を取り出した。

「あなたは昔、そのステッキの代わりにコレを持っていらっしゃった」

写真には、木曜日の姿が写っていた。

眼鏡の若者の襟首を掴み、その脇腹に、黒い短刀を突き刺している。

写真の右下にあるオレンジ色の日付を見ると、およそ1年前のものだった。

「あなたは暗殺拳の使い手だった」

日曜日は、また群がってきたハトの方を見て、世間話をするかのごとく言った。

「……」

九郎は何も言わない。

……少し間があった。

「……ぬかったわ。まさか、写真を撮られていようとは」

先ほどのプリクラ写真の時と同じことを口にした。

が、今度はシャレではない。

本当の脅迫である。

「『崑崙の黒い虎』と渾名され、本名は不明、通称は『仗(ジャン)』」

仗とは、棍棒や柄の長い武器のことである。

「仗、か……」

九郎は遠い目で呟いた。

日曜日は続ける。

「中国を股にかけた暗殺者で、黒い衣装をまとって仕事を全うした。そのシルクの服は月光を反射して煌いた。その動き時に繊細、時に大胆。不可能な仕事を可能にしたという……」

「……そんなヤツもいたかの。ワシは知らんな」

「しらばっくれないで。『仗』には、杖に寄りかかるという意味から、転じて、強いものをアテにするという意味にも取られるが、『仗』は主に一人で行動したという。それで、虎。『崑崙の黒い虎』。……『仗』こと『崑崙の黒い虎』、その正体は日本人だった。代島九郎、あなたよ」

日曜日の声は興奮を帯びている。

九郎は、一拍、間を置いてから、

「……知らんな」

トボけた。

「いいえ。あなたは日本に帰ってから1度だけその手を血に染めた。トボけても無駄よ。我々の組織はその現場を押さえた。」

「組織?」

イヤな響きだった。九郎はその言葉を反芻した。

「……組織、か。して、お前さん方の組織はワシが何をしたことを突き止めたと?」

「写真の通りのことですわ」

日曜日はニコリと笑みを浮かべた。

「……観念したよ。で、その組織とやらはワシに何をやらせようというのかね?」

組織という漠然とした言葉に出会った場合、相手の規模が分からない。

その組織が巨大ならば敵に回すのは得策とは言えない。

中国にいた頃の九郎の経験でもある。

「あら、まだあなたがなぜこの写真のようなことをしたか話していませんわ」

「……いや、いい。ワシはその写真の通りのことをした。それだけのことだ」

九郎は言った。

「で、その写真をいくらで買えと?」

「ネガ込み、10億円」

日曜日は平然と言った。

「10億!」

九郎は呆れ声を上げた。

「ウウム、お前さんを脅迫罪の現行犯で警察に突き出すのはたやすいが、それではワシの過去がバレてしまうか」

「その通り、分かっていらっしゃいますわ」

日曜日は手を、パン、と叩き合わせた。

「もちろん、支払えませんわね」

「当然だ。いかにワシが松濤住まいとはいえ、財に限度はある」

「では、まけて差し上げましょう。1万円」

「……?」

九郎は訝しげに日曜日を見た。

「1億?」

「1、万、円です」

日曜日は「万」を強調した。

「ただし、条件があります。あなたに我々の組織に入っていただきます。」

「……」

九郎は渋面を作った。

もう怪しげな組織に組み込まれるのは御免である。余生を一人で気ままに暮らしたい。

「あなたに人を殺して欲しいと言っているのではありません」

日曜日は取り繕うように言った。

「ではどうしろと?」

「この写真をネガ込み10億で買うか、この写真を当局に突き出されるか、さもなくば、1万円払って組織に入るか。これで聞くのは最後。どうしますか、九郎さん」

「勿体振るな。10億は払えん」

「では組織に入っていただけますね」

「ウ……ウム」

もう後にはひけない。謎の組織に入らざるを得なくなった。

「では誓っていただきます。『日曜日には絶対服従』」

「お前さんに?」

「私があなたの直属の上司ということになるわ。そしてあなたは『木曜日』」

「『木曜日』……それが組織におけるワシの名、とな?」

「そう。私の命令には絶対服従よ」

「フム、そうか……で、ワシに何をやらせようと?」

「……まず、1万円を上納しなさい」

今までの敬語はなくなった。代わりに日曜日の口調は上司としてのソレになっている。

「フム」

木曜日こと九郎は、あまり厚くはない皮の財布から1万円札を取り出した。

日曜日はそれを受け取ると、ハンドバックに滑り込ませた。

「これであなたは木曜日」

「ウム……」

九郎はまだ腑に落ちぬという感が残っている。

いつの間にか謎の組織に組み込まれてしまったが、自分に課せられるのはかつて本業だった暗殺ではなく、他の何かだという。

そして、組織に入るというのになぜ1万円を支払わされたのか。

「繰り返して。『日曜日には絶対服従』」

「……日曜日には絶対服従」

「さて、それでは最初の命令を与えます」

「ウム」

「やれるわね」

九郎は目だけを日曜日に向けた。

「簡単なこと。……脅迫」



 AM10:40 記憶の反芻



木曜日となった九郎と日曜日は、渋谷駅前にいる。

忠犬の像の前である。

この忠犬ハチ公、待ち合わせ場所としては最もポピュラーな場所の一つである。

今日も若者が無数、たむろしている。

「人込みは苦手だ」

「そう言わずに。さっき打ち合わせた通りにコトを運べばいいのよ」

「ウム」

九郎は、懐に茶封筒を携えている。

コレが脅迫の要である。脅迫のネタ……写真が入っている。

七曜会では、指令は書類の形で与えられるらしい。

「それでは、頑張って。木曜日」

九郎は日曜日の声を背に受けて歩き出した。

(やれやれ、面倒なことになったな)

九郎は突然我が身に降りかかった厄介事に、呆れると同時に、あんな写真を取られた自分に恨めしさも感じていた。

現在11時50分を回った頃。

約束の時間は12時。

脅迫相手はまだ現れていないようである。

さすがに老人が忠犬像の前に立って待ち合わせていては少し恥ずかしい。

少し離れたゴミ箱のそばで、封筒の中の脅迫相手の資料を出してみた。

牧野美香。16歳、女子高生。

脅迫内容は大したことではなかったが、それでも子供を脅迫するには充分だろう。

(難しい年頃だからな)

九郎は思った。

資料の写真を見る限りでは、普通の女子高生のように見えた。

が、脅迫されるようなことをするタイプの人間というのは、えてしてそういうモノである。

実際に九郎も、虫も殺さぬような顔をした人間を数多く葬ってきた。



 同時刻 記憶の反芻、かなり昔



「わたしが何をしたっていうんだ!」

中国のとある廃村。

黄昏時に、朽ち果てた家屋が不気味に浮かび上がる。

代島九郎、中国名仗(ジャン)は、黒い絹の格闘衣をまとい、同じ材質の帽子を被って、眼光鋭く目の前の男を睨んでいる。

「悪く思うな。これも仕事なんでな」

九郎は流暢な北京語で言った。

そういうと、九郎は2本の指で男の首筋を突いた。

男は動けなくなる。

「わたしをこんな処に呼び出して、貴様、わたしが何をしたというんだ!」

痩せぎすな男は、震える体で気丈に声を張り上げている。

九郎は懐から短刀を取り出した。

初め、飾り気の無いただの木の棒のように見えたが、その中ほどが切れ、中から刃渡り12センチくらいの刃が顔を見せた。

「自分で分かっているだろう、オレは知らん。任務を全うするだけよ」

言い終わらないうちに、九郎はスッと相手に近づき、短刀を鳩尾に刺した。横隔膜に穴が開き、これで相手は呼吸ができない。

「う、ぐッ……グッ」

男は目を一杯に見開いて、九郎を見た。

九郎は、いつもそこに絶望の色を見る。

九郎は短刀を抜き、すぐさま相手の喉を切り裂き、男を蹴倒し、すぐに後ろに飛びすさる。

この動作、目にも止まらぬ速さである。さもなくば返り血をしこたま浴びる。

倒された男は、地面を大量の血で濡らしながら痙攣している。

それを九郎は黙って見ている。

かつて師から教わった拳法に改良を加えて出来たのが、九郎独自の暗殺拳だった。

九郎は山に籠る師につき、気功と拳法の修業をしていたことがある。

その師は、多くの弟子に拳法と人の生きる道を説いた。

しかるに、九郎はその教えに背いている。



 AM11:00 渋谷区内の喫茶店



九郎は宮益坂にある喫茶店に入った。

マスターに、コーヒーとスパゲティを頼んだ。

(生きるために、仕方なくやっていた)



 同時刻 記憶の反芻



九郎は金を積まれればどんな殺人も請け負った。

「崑崙の黒い虎」の名は、中国、香港の裏社会に伝播していた。

香港マフィアの根城に一人で乗り込んで首領の首を上げた時、ある者が九郎の殺人技を見て、崑崙山で人知れず伝承されているという拳法に似ていると言い出した。

九郎が「崑崙の黒い虎」と異名をとったのはそれ以来のことである。

目にも止まらぬ俊敏さと短刀さばきは、なるほど虎の爪と牙だった。

が……ある時を境に、「崑崙の黒い虎」は、大陸から姿を消す。

他の殺し屋や賞金稼ぎに殺されたと言う者もいれば、病死したと言う者もいた。

が、実際は九郎は、人殺しに飽きたのだ。

目が覚めたといってもいい。

九郎は暗殺で稼いだ金を貿易会社に積んで、貨物船に紛れ込んで故郷の日本へ帰っていたのである。



……戦争で兵士として中国に上陸した若き日の九郎は、人殺しがイヤだった。

戦争はイヤだった。

が、それを言えば殺される時代でもあった。

日本軍は中国を席巻した。

ところが九郎は、ある村落を夜襲するときに隊から逃げた。

バカげた人殺しはたくさんだった。

脱走は重罪、銃殺か斬首である。

九郎は逃げた。

日本軍は言うに及ばず、自分を敵とみなす中国人にも怯えて走った。

九郎は逃げ続けた。

西へ向かって歩き続けた。

万里の長城を伝って歩くと、いつしかモンゴルにいることに気付いた。

不毛の砂漠で息絶えようとしていたとき、九郎は助けられた。

モンゴルの民は九郎を手厚く迎え入れてくれた。

自分たちと良く似た同じ顔だちをしたモンゴルの民に親近感を覚えた。

大平原に暮らす内、九郎はいつしかモンゴル人になっていた。

言葉はすぐに覚えた。九郎は耳聡く、言葉の飲み込みが早かった。

九郎はそこで結婚した。妻子と共に幸せな時が過ぎた。

しかし幸福は長く続かなかった。

九郎のいた集落はソビエト軍の通り道になった。

九郎と仲間たちが狩りに出ている間に、ソビエト軍によって集落は蹂躙された。

村人は皆殺し、家畜は奪われた。

九郎は嘆いた。

戦争の愚かさを憎んだ。

根が正直で純情だっただけに、九郎は復讐を決意した。

仲間は止めた。

故郷に帰れと言った。

「なぜなら、お前は弱いから」

友人は言った。

次の瞬間、九郎は殴られて気を失っていた。

気がつくと、一人だった。

万里の長城の見える場所に倒れていた。

(今までのことは夢か……?)

否、九郎は日本軍の制服ではなく、モンゴル人の格好をしている。

手に、羊の骨で作られたお守りが握らされていた。

友人がくれたものだった。

(これからどうしよう?)

九郎は考えた。

あれから2年が過ぎている。バカげた戦争は終わっていようか。

九郎は東へ向かって歩き出した。

が、帰る術は知らない。



九郎は北京にいた。

街は活気に満ち、戦争が終わったらしいということを知った。

が、日本に帰る術は見つからなかった。

九郎はアテもなくさまよった。

川を遡って行ける処まで行こうと思った。



いつの間にか九郎はウータイ(五台)山にいた。

岩肌が露出した荒々しい景色が広がる。

川の流れは少しずつ細くなってゆく。

そこで九郎は奇妙な物を見つけた。

白い部分を残した大根の葉っぱの部分が流れている。

それは明らかに包丁で切られていた。

(上流に人がいる!)

九郎はさらに川を遡った。



崖をよじ登ると、信じられないものを見た。

かなり広い地面が平らに均されている。

川が流れる回りに、広大な平地が姿を現した。

そこに、若者たちが大勢寝ていた。

ざっと見て20人ほどいようか。思い思いの格好で仰臥している。

「何だ……?」

九郎は呟いた。

近くにいた若者が、九郎の姿を見つけて近寄ってきた。

「あなたは誰ですか?」

若者は中国語で九郎に話しかけてきた。

「ワタシ、コトバ、ワカラナイ」

九郎は片言の中国語で若者に言った。

「……? モンゴル人かな」

若者は九郎の格好を見て言った。

九郎は、服装は中国人だが、モンゴル人のフリをするために象徴的な首飾りを付けていた。

「お師匠さま!」

若者は向こうへ走って行った。

見れば、その向こうにお寺が見えた。

九郎はその若者の背を見ていたが、気がつくと、若者たちに囲まれている。

皆、髪を剃った坊主頭で、汚れた麻の服を着ている。

若者たちは九郎を珍しそうに見ている。

その時、

「こんな人里離れた場所に迷い込んだのはどなたかな?」

若者たちの背後から老人の声がした。

モンゴルの言葉だった。

九郎を取り囲む若者たちの輪が分かれ、後ろから小さな老人がやって来るのが見えた。

さっきの若者を従えている。

老人は、ツルツルに禿げた頭と、長い白髭が目を引き、使い込まれた黄色の胴着を着ていた。

腰に瓢箪をぶら下げている。

老人は背を丸め、手を後ろに回していた。

悪意の無い表情が安心感をもたらす。

「あんたが迷い込んだというお人かの?」

老人は九郎に声をかけた。

「はい、あの……あても無く旅をしています」

九郎はモンゴル言語で言った。

「お前さんはモンゴル人じゃないね。日本人だろう?」

「えっ?」

老人は九郎の正体を即座に見破った。

「なぜ分かったんです?」

「その弱そうな腕っぷしを見れば明らか。モンゴルの男は力持ちじゃ。それにお前さんのしゃべり方に妙な発音が混じっておる。しかも中国語の訛り方じゃないからな」

九郎は老人の言うことに納得した。

「さしづめ、戦争で大陸に渡ってきたはいいが本国に帰れなくて彷徨っているのじゃろう。どうじゃ、ここで修業していかんか?」

「修業?」

「心と体を鍛えるのじゃ」

「はあ……」

老人の漠然とした思想よりも、九郎は老人の人柄が気に入った。

それに、これ以上彷徨っていても行くあては無い。

日本にも帰れない。

「ここにいる若い弟子たちは皆さまざまな事情でこの山に迷い込んできた。罪人や、戦争で家族を失った者。しかし、ここでは世に恨みつらみを持たずに生きてゆくということを教えておる。悟りを開くための修業じゃ」

「悟り? 老師さまは、開いたのですか?」

「ウム、ワシなりにな。正しく生きることじゃ」

「正しく……?」

「口で言っても良く分からぬだろうから敢えて説明はせんよ。どうするかね、ここで修業してみるか?」

九郎に他に選択の余地は無かった。

ここで修業をしてみよう。未熟な自分を変えられるかも知れない。



5年間、そこで九郎は拳法と気功の修業をした。

その間に、九郎は中国語を使えるようになった。

そして人間に流れる「気」を読めるようになった。

人間を一撃で殺す急所を知った。

しかし老師は言った。

「力というものは人を傷つけるためのものではない。人を守るためにあるものだ」

九郎は気功や拳法が、人の活殺を握るものだと知った。

気功で人を癒すことも出来るが、誤った使い方をすれば人を傷つける凶器となる。

拳法で人を守ることは出来るが、使い方を誤れば人を殺めることも出来る。

そして老師は、

「力は、お前たちが正しいと思った使い方をすればよろしい」

と、つけ加えた。



九郎が山を降りる日は唐突に訪れた。

老師が亡くなったのである。

寺のお堂で、弟子たちに囲まれて老師は息を引き取った。



九郎は北京にいた。多くの弟子たちは山に残ったが、九郎は山を降りた。

ここへ来たからといって、日本に帰るアテがあるわけではない。

いつしか九郎は街の裏側にいた。

北京という街は、異常な人の群れと活気を誇るが、そんな雰囲気とは別の、暗黒の様相を呈している。

どこか後ろめたい面構えをした男女が死んだ目をしている。

よそ者が入ってくれば、その雰囲気に嫌悪感を露にしよう。

九郎も例外ではない。

(暗黒街……なんて酷い処だ)

焦点の定まらない目でボンヤリしている大男や、キツネのような目をした娼婦がこちらを見ている。

(しかし、オレにはお似合いなのかもしれないな)

自分は日本人で、侵略者である。表社会に居場所など無いだろう。

九郎は危険な雰囲気を醸し出す酒場の前に、何枚かの人相書きが貼られているのが目に止まった。

「お尋ね者 殺した奴に賞金を払う」。

中国語で書いてあるが、漢字と大差ないので九郎にも何となく意味は分かった。

「首を持ってこい」。

賞金首の人相書きである。面構えはどれも不敵だし、賞金の額も、結構なものである。

(イチかバチか、やってみようか)

こうして九郎は暗殺者になる道を歩み始めることになる。

あの世の老師が見ていたら、何と言うだろうか。

……九郎は賞金首を追った。

人を傷つけることは師の教えに反することであった。

が、生き抜くためにはこうするほか思いつかなかった。自分を守るためには。

九郎は恐怖に戦(おのの)きつつ、大躯を誇る料理屋の親父を倒すことになった。

その賞金首は包丁を振るって九郎を殺そうとしたが、素人に負けるほど九郎は弱くない。

大陸を彷徨い、五台山で修業した九郎は逞しくなっていた。

賞金首の包丁をユルリと躱して、懐に飛び込んで頸椎を折った。

……なぜこの料理屋に賞金がかけられていたのかは知らぬ。

ただ、首を持っていけば賞金を受け取ることが出来る。

九郎は厨房にあった包丁で首を切ろうとしたが、なかなか切れない。

九郎は次第に気分が悪くなり、ついに吐いた。

(なんでオレはこんなことをしてるんだろう……?)

……と思ったが、生きるためには仕方ないと自分に言い聞かせ、九郎は賞金首の首をもぎ取った。



 PM0:00 渋谷区内の喫茶店



九郎は、運ばれてきたスパゲティを口にいれた。

入れ歯では味が良く分からない。

上顎で食感を感じられないためである。

(やれやれ。今に始まったことではないが、入れ歯は不便じゃのォ)

九郎は思った。

(虎も、牙が折れたものよ)



 PM1:00 七曜会本部



九郎は雑居ビルの前にいた。

この7階に七曜会の本部がある。

九郎はエレベータで7階へ行き、ある一室の前で、戸をノックした。

「チンチコール、木曜日だ」

ガチャンとロックの外れる音がして、ドアが開いた。

「チンチコール、木曜日」

出てきたのは、男前の青いスーツを着た青年だった。

が、所作が少し怪しい。手を胸の前で合わせ、首をちょっと傾げながら、

「今日もシブいわね、木曜日」

女の口調で言った。彼はオカマらしい。

「土曜日か。ご機嫌いかがかな?」

彼は土曜日というらしい。

九郎は室内に入った。

会議用のテーブルが部屋の中央にあり、その上に銀の燭台が載せられている。

見れば、部屋の四隅にも燭台が立っていた。

いずれも火はついていない。

「よう、じいさん。元気か」

ハリセンを持ったゴツゴツした体躯の男がいた。

ハリセンは彼の武器である。

「チンチコール、火曜日」

九郎は言った。

男は火曜日といった。

ここにいる3人、どう見ても共通点は無い。

続いて入って来た2人を見ても、共通点はうかがえない。

「チンチコール、今宵はフルムーン」

「あなたはいつでも満月ね。心の中の月だけど」

丸いサングラスに赤いバンダナの、無精ヒゲのヒッピーみたいな男と、清潔感のあるセーラー服に身を包んだ女子高生であった。

ところでこの女子高生、学校はどうしたのだろう。

(案外、学生ではないのかもしれんな)

……と、九郎は見ていた。真相は分からないが。

ヒッピーは月曜日、セーラー服は水曜日である。

「チンチコール、みんな」

水曜日はニコッと微笑みながら室内の3人に挨拶した。

ジリリリリ……ジリリリリ……

室内のどこかで電話が鳴った。見れば、電話はテーブルの下にある。

「ワシが取ろう」

年長の九郎が受話器を取った。

『……チンチコール。どう、集まった?』

日曜日だった。

「ウム。皆、時間には正確だ」

『いま金曜日はMISSION・1をやっているところよ。2時までに準備しておいて』「ウム。分かった」

『それじゃあね、チンチコール』

電話は切れた。

「なんだって、じいさん」

火曜日が言った。

「2時までに準備しておくように、とのことだ」

「やれやれ、面倒くせえなあ。儀式なんて別にいいじゃねえか」

「火曜日、今の発言、日曜日に報告しますよ」

水曜日が火曜日に向かって言った。

彼女は、相手が目上でもはっきりとモノを言う。

「あわわ、分かったよ。いいんだろ、やりゃあ」

火曜日は日曜日に怯えているようだ。

「さ、早く着替えましょ」

どこからともなく土曜日が黒い物を持ってきた。

良く分からない材質で出来ている黒いマントだった。

「着替えたら、電気を消してお待ち申し上げましょ、新しい金曜日を」

土曜日はウキウキしながら言った。



 PM2:00 七曜会本部



九郎たちは、三角の帽子を被り、怪しいマントを羽織って所定の位置で待機している。

今日、金曜日が来るというので集まった面々だ。

(七曜会とは、なんだろうな……?)

九郎は思った。九郎の左右に待機する他の会員は、何をして脅迫されたのだろう。

まさか自分のように暗い過去を持っている訳ではあるまい。

が、九郎は今までに何件か七曜会の指令で脅迫を請け負ってきたが、大した脅迫内容ではなかった。

彼と産婦人科に入る優等生や、相手に八百長を強制する有名テニスプレイヤーなど、日常生活をちょっと踏み外せば誰しも犯すような過ちばかりである。

が、これは五台山での老師が言った、「正しく生きる」という教えに反することといえようか。

その点では、因果応報といえなくもない。

しかし、七曜会は神ではあるまい。道を踏み外したものを脅迫することすら、道を踏み外した行いといえるのではなかろうか。

人に人は裁けぬと、九郎は思っている。

なぜなら、正しく生き続けることなど、生きている限り不可能だからだ。

五台山の老師だって、きっと若い頃に過ちを犯すことを繰り返して、正しく生きる方法を学んだに違いないのである。

九郎は以前に、日曜日から七曜会の入会規約を見せてもらった。

七曜会にはシンプルで確実な規約、ルールが設定されている。



七曜会のルール

 1:商談中は相手を見る

 2:日曜日には絶対服従

 3:本名を出さない

 4:処分を受けた者はその処分者に従う

 5:別の会員に恋愛感情を抱いてはならない

 6:組織の秘密を洩らしてはならない

 7:中途放棄は極刑とする

 8:新・日曜日は七つのネタを奉仕する



ルール8の「新・日曜日」という記述が気になったが、日曜日は「七つの生贄を捧げた時に日曜日に昇格する」と言っていた。

七つの生贄、それはつまり7人を脅迫するということだろうか。

……その時、

「わっ」

日曜日に連れられ、男が入ってきた。

一瞬逆光に映った男は、まだ若い。

扉が閉まると、部屋は闇に閉ざされる。

「い……一寸先も見えない」

若者はうろたえた。

「いいのよ金曜日、あなたは中央に立って」

日曜日が若者に声をかける。

「と、といったって……ドコが隅やら真ん中やら」

若者は既に怯えている。

『シッ!』

『シッ!』

『シッ!』

何人かが同時に若者を黙らせた。

バシッ!

「アタ……」

火曜日が若者をハリセンではたいた音らしい。

「こ……これって、秘密組織デスか?」

若者は火曜日に小突かれながら部屋の中央あたりに来た。

「あへ、あははは……」

「入会式を始めるわ」

若者のへつらったような笑いをさえぎって日曜日は言った。

「ニュウカイ……シキ?」

若者は驚いた声を上げた。

「これから金曜日には、正式に七曜会のメンバーになってもらいます」

日曜日は言った。

「せっ、正式になんてそんな、大それた……りゃ、略式でケッコウです。ハイ」

誰も笑わない。

「あ、あの……別に逆らっているワケじゃなくて、あへ、あははは……」

若者が一歩下がった……気配がする。

「ボ、ボク、いい加減な性格なので、せ、正式メンバーになんかは……」

若者は後ろへ下がる。

「逃げる気?」

誰かが部屋の扉に鍵をかけた。

若者は閉じ込められた格好になる。

「せ、正式メンバーになんかは……」

用意されていた蝋燭に火がつけられた。

部屋は一瞬にして不気味な厳粛さを漂わせる。

「……ゼ、ゼヒ、加えてください……」

怯えた若者の顔が浮かび上がった。

日曜日が蝋燭に火を灯している。

蝋燭の炎は、日曜日の端正な顔を、神々しくも禍々しくも映し出す。

火を灯し終えると、日曜日はゆっくり右手を上げた。

「これより、金曜日の入会式を行います」

九郎を含め5人は闇の中で立ち上がった。

「金曜日」

掲げた日曜日の手に剣が握られている。

そしてそれは金曜日に向かって振りおろされた。

「きゃッ」

切っ先が若者の喉元に突きつけられる。

「金曜日」

「ハ、ハイ……」

「誓え」

「え……な、ナニを?」

日曜日は剣でテーブルの上の本を指し示す。

「こ、これにデスか」

若者は急いでその古びた本を手にした。

七曜会の経典である。

「こ……これを、どうすれば」

日曜日は剣で経典の頁をめくった。

「誓え」

「よ、読むんですか」

その時、若者の左側から剣がもう一本突き出された。

「ひえッ」

さらに若者の四方から次々に剣が突き出される。

『誓え』

九郎たちは唱和した。

「金曜日」

「ハイ……あ、あの、よ、読みマス!」

若者は経典に目を落とし、読み上げる。

「わ、われ……我は誓う、七曜会の会員として、ナ、七つの巡礼を行い、七つの位階を極め、七つの……こ、こんなコトをいうんデスか?」

『誓え』

若者に答えず、声が唱和する。

「ハ、ハイ。七つの……七つのイ、生贄を捧げる」

剣は引かれた。

日曜日は左手で燭台を掴んだ。

「ここは混沌の大地」

そして厳かに唱え始めた。

「七つの道が走り、七つの川が流れる七つの丘……」

日曜日が詠唱する間、5人は若者の周囲の蝋燭を灯す。

日曜日は剣を振り上げた。5人も剣を取り、日曜日の周囲で輪になった。

6本の剣が交差する。

「その剣を取って」

日曜日は若者に言った。

若者は言う通りにした。

「合わせて」

若者も剣を振り上げ、交差に加えた。

「七つの柱の神殿はここにそびえたり」

『七つの柱の神殿はここにそびえたり』

日曜日に合わせ、全員が唱和した。

6本の剣が合わせられた。

「我らは七つの法に従い、七つの法に生き、七つの法に殉ず」

剣が振りおろされ、それぞれが空を切る。

白銀の刀身がスレスレにきらめく。

若者……金曜日もあわてて真似をした。

「チンチコール!」

『チンチコール!』

蝋燭が吹き消され、部屋に暗闇が戻った。

「さあ」

日曜日が金曜日に声をかけた。

「終わったわ。こっちよ」

金曜日は隣室に連れていかれた。

九郎をはじめ五人は儀式用の衣装を脱ぎ、気配を殺して隣室の各自の席についた。

暗闇にも関わらず、その動きは迅速である。

最初に日曜日が声を上げた。

「チンチコール!」

『チンチコール!』

すぐさま他の五人は唱和した。

金曜日の向こう正面の壁に緑色の紋章が浮かび上がった。

「ただいまから、金曜日を正式会員として認めます」

五人は拍手した。

それと同時に明かりがついた。

「紹介するわ。カレが金曜日」

日曜日は改めて紹介した。

五人はうなずいて金曜日を見た。

(ふむ……)

別段、特徴もない普通の若者だった。

ちょっと気弱そうな顔をしている。

『チンチコール!』

五人は挨拶した。

「ど、どうも……チンチコール」

金曜日は精一杯同志っぽく挨拶を返した。

「何だ。ガキじゃないか」

火曜日はそう評した。

「彼は火曜日」

日曜日が金曜日に紹介する。

「ふん。こんなガキで大丈夫か」

火曜日は金曜日をにらんだ。

「気にするな。火曜日には文学のハートがない」

火曜日の隣に座る月曜日が言った。

「月曜日は詩人なの」

「違う。ぼくは月光で生きている」

月曜日はハムレットのように言った。

「わたしは水色が好き」

火曜日の逆隣の水曜日が言った。

「彼女は水曜日」

「ナイス・トゥ・ミーチュー!」

「ハ、ハイッ」

金曜日は慌てて返した。

「木曜日だ。よろしくな」

九郎が自己紹介した。ここでは「木曜日」を名乗る決まりである。

「木曜日は手品が得意」

日曜日は笑った。

「ハイ、この通り」

九郎は入れ歯をはずして見せた。

「入会おめでとう」

「最後が土曜日」

土曜日は金曜日の手をぎゅっと握った。

「あなたの手、やわらかいのネ……」

「わ……うわ?!」

そのまま土曜日は金曜日の手にキスした。

「オ、オカマ……デスか?」

「ああン、そんな目で見つめちゃ、イヤ」

土曜日はくねくねと腰を振った。

「や、やめて……」

「ほほ、おバカさん。冗談よ」

金曜日は九郎と土曜日の間の空席に座らされた。

「さあ、今日から新メンバー。久しぶりに七曜会のフルメンバーが揃ったわ」

月曜日は詩人でハムレットヒッピー。

火曜日はガラの悪い岩石男。

水曜日はセーラー服の女子高生。

木曜日は九郎。

金曜日は普通っぽい若者。

土曜日はオカマのハンサム。

日曜日はミステリアスな美女。

……それが七曜会のフルメンバーだ。

「金曜日、立ちなさい」

金曜日は遠慮がちに立ち上がった。

全員の目が集中する。

「報告するわ。金曜日はMission・1に成功しました」

日曜日は一同にいった。

『チンチコーレ・チンチコーレ!』

五人は拍手で金曜日を讃えた。

「ミ……Mission・1って?」

金曜日は日曜日を見た。

「さっきのユスリ。あなたはMission・1をパス」

「え……マサカ、あの津川佳代子まで八百長ってこと……?」

「ちがうわ。あなたは実地にパスしたってこと」

「つ、津川夫人が実地……?」

「日曜日、チンチコーリ!」

その時、水曜日がまっすぐ手を上げた。

「水曜日、ハイ」

「処分を。いま金曜日はルール違反!」

「わかっているわ。いま注意するわ」

「えっ……オ、オレが、何か?」

金曜日はうろたえた。

「ええ、金曜日。あなたはミスを犯したわ」

「ルール3、本名を出さないこと」

「そ、そんなルールは聞いてなかった」

金曜日は慌てる。

「言い訳はヤメ。聞きなさい。わたしは日曜日。あなたは金曜日です」

「は、はあ」

「何のための暗号名だと思っているの。ルール3、本名を出さないため」

「い、いや、オレはただ津川佳代子のことを……」

「ホラ、またいった。ターゲットの個人名を明かすことはゼッタイ禁止」

「ハ、ハイ……」

金曜日は釈然としない様子である。

「たとえメンバーでも、自分の名前や身分がバレるようなことは慎みなさい。仮に町なかで出会っても知らんフリよ」

「ハ……ハイ」

「では、指令を与えます」

「ハ……ハイ」

「日曜日。その前に処分を」

水曜日が言った。

「水曜日、処分は指令に代えます」

「甘いわ日曜日! 金曜日の処分を要求します!」

水曜日は引かない。

「ショ、処分だなんて」

金曜日は鼻白んで水曜日を見た。

水曜日には、時に高校生とは思えぬ大人びた冷たさがある。

「マ、マダ新米なんだから。ど、どうか大目に見てください」

「ふん、甘ったれるな」

横から火曜日が言った。

「組織は規律の中にある。規律は処分の上にある」

「さんせい……苦しむ男は画になるわ」

土曜日が腰をくねらせる。

「何事も初手が肝心」

九郎はステッキで床をトントンと突いた。

「月桂樹の苦痛は月見草の悲しみ」

詩人月曜日も髪をかきむしる。

日曜日は全員を見渡した。

「わかったわ。処分決定」

「ウフフ、執行官は誰?」

土曜日が嬉しそうに言った。

「ご異議がなければ、あたしがやります」

一同の前に水曜日が進み出た。

「チンチコーレ!」

「チンチコーレ!」

全員から異議無しの声が出た。

「では、処分は水曜日に」

水曜日は金曜日の前に立った。

「チンチコーラ?」

水曜日はニコリと笑った。

「は?……ハイ、あの、チンチコーラ……」

……次の瞬間、

バシッ!

「あわッ」

強烈なビンタが金曜日を襲った。

九郎も一瞬目を閉じる。

「チンチコーレ!」

「チンチコーレ!」

皆が処分を祝福した。

金曜日は涙目になって頬を押さえる。

「……鏡、見せてください」

「どうするの?」

「見たいんです。ほっぺたが、壊れてないかどうか」

見れば、彼の左頬には水曜日の手形がくっきりと残っている。

土曜日の貸した鏡を覗きながら、金曜日は左頬をさすっている。

「チンチコーレ」

水曜日が金曜日を見つめて言った。

「チ……チンチコーレ」

なぜか金曜日はどぎまぎしている。

「処分終了」

日曜日が立ち上がった。他の四人も立ち上がる。

「今日の会も終了。金曜日への指令は規則通り。解散。……チンチコール!」

『チンチコール!』

金曜日と、彼に指令を与える役目の水曜日を残し、皆引き上げてゆく。

……ルール4、処分を受けた者はその処分者に従う。



日曜日はビルの別のフロアに消えていったが、月、火、土曜日、そして木曜日こと九郎はエレベータに乗り込んだ。

エレベータは一階に着いた。

「チンチコール。ごきげんよう」

オカマ土曜日は、早足でどこかへ消えていった。

「じゃあな、じいさん」

火曜日も立ち去った。

「チンチコール。それではご機嫌麗しゅう、サースデイ」

月曜日も去った。

九郎はビルの入り口にひとり残された。

「チンチコール。さて、ワシも帰るかの……そうだ、新しいステッキを見に行こう」

九郎は駅方面に歩き出した。



 PM7:00 九郎の自宅



九郎が松濤にある自宅に帰り、食事を取ってくつろいでいると、電話が鳴った。

九郎は受話器を取った。

「もしもし」

『……『仗(ジャン)』だな』

中国語だった。

「……?! どなたかな」

『俺は日本語を知らない。あんた、ジャンだろう』

「さあ……存じませんが」

『だから俺は日本語を知らない。しらばっくれるのはよしてくれ、日本名ジューラン、もとい『崑崙の黒い虎』』

「ホホウ、ジューラン(九郎)とな。おたくは誰なんだ?」

九郎はやっと中国語で話した。

『『龍』……』

「『九龍の青竜』、伐(ファー)か」

『その通り』

「生きておったか」

『見くびるな。容易くは死なん』

「どうしてここを知った?」

『ジャンが日本にいると突き止めたヤツがいる。お前を追って日本へ殺し屋を送り込んだらしい』

「なんだと?」

『妙なヤツを見なかったか?』

「1年ほど前に、ワシの前に現れたチンピラがいたが……」

その時の写真が七曜会の脅迫に使われた。

『なんと、そんなに前からお前狙われていたのか』

「丁寧に『故郷へ帰れ』と言ってやったがな」

その割に致命傷になりかねない一撃を与えている。

『そうか、オレはコネクションを駆使してお前の居場所を突き止めた。なに、日本の企業のコネだ。ところで俺は今、渋谷にいる』

「なんと!」

『明日、会えるか?』

「ウム」

『場所は?』

「駅前、ハチ公という犬の像がある」

『知っている。しかしあんな処で老人が待っていて恥ずかしくないか?』

「かまわんさ。人混みの中にいた方が安全だ」

『わかった。それでは明日、そうだな……正午』

「ウム、分かった」

九郎は受話器を置いた。



九郎の家に電話をかけてきた「伐」とは何者だろうか。

九郎との関係は?



   2日目に続く












街 サイドストーリー1

2014年05月04日 15時00分00秒 | 街 サウンドノベル
末永 晶子 「トラウマ」

作者名 M
10月11日



 未来は霧の中……。



 朝。

 目が覚める。

 外を見れば昼近い日の光。



 時計を見る。

 11時半。

 いつも通り。



 やりきれない。

 <いつも通り>の朝。

 最悪。

 最低。



 そう思ってもう何年になる……?

 こんなに続くとは思っていなかった毎日。

 朝は混沌。昼も、夜も、毎日が、混沌。



 体の為に無理矢理朝食を摂る。

 バターと、トーストと、コーヒー。

 小学校に入学してから一度も変わらないメニュー、そして一人での朝食。



 母は画家だった。

 学校の時間は、母の朝よりも早かった。



 窓を開けて風を入れる。

 鍵はかかっていない。

 泥棒や強盗に入られるリスクを負ってまでかたくなに守り通すこの癖も変わらない。



 だが、何の為に……?



 幼い頃の記憶は殆ど無い。

 この妙な癖が生まれた理由も、いつから始まったのかも覚えていない。



 今日も予定は何もない。

 <いつも通り>ならアトリエへ向かう時間だ。

 ……今日も何事もないまま終わってゆくのか……

 市川。

 市川は今何をしているだろう。

 私はこういう時決まって彼を思い出す。

 市川は今何を見ているのだろう。



 私は市川の元へと向かった。



 市川の住むホテルは目前だったが所在の確認に電話を入れる。



 珍しく数回のコールで相手が出た。

 『はい市川……』

 「私」

 『ああ君か。今ちょっと忙しいんだ』

 「じゃあそっちに行っていい」

 『……いや、こっちが行くよ。今どこ』

 私はいつも待ち合わせに使う喫茶店を指定し、自らもそこへ向かった。



 彼がすぐやってくるとは思えなかった。

 <元>文学新人賞受賞作家、市川文靖。

 <現>テレビプロットライター、中島哲雄。

 業界人は時間を守らない。



 時計を探した。

 腕時計はつけていない。

 5時20分。

 市川はまだ来ない。



 人は何をもって恋人と呼んでいるのか。

 私は市川を前に「恋人」という言葉を使ったことが2回ある。

 「私は貴方の恋人かしら」

 「私は貴方の恋人じゃないわね」

 市川は2回とも「そうかもしれない」と言った。



 私と市川の関係は今も出会った頃のままだ。

 

 私は吸わない煙草に火をつけた。



 気がつくと市川がすでに来ていた。

 「何だ、話って」

 ウェイトレスが来ているのにも気付かずそう言った。

 「ねぇ、何か飲むの」

 「あ。コーヒー」

 ウェイトレスはそれを聞くと奥へと去っていった。

 私は改めて市川を見た。

 「寝てないの……目が赤い」

 「寝たさ。だから赤いんだ」

 「最近ますますひどくなってる」

 「あ?」

 「前はそんなんじゃなかったもの」

 「何がだ」

 「貴方のその様子。身体も、心も」

 「医者みたいだな」

 医者は私にとって身近な存在だ。

 幼い頃から体が弱かった私は入退院を繰り返していた。そのせいか、他人の健康状態にも過度に反応するところがあった。

 「何かあったの。このところ、何かに怯えているように見えるけど」

 「何もないさ。全く、何もないんだ……怖いくらいにね」

 「……そうね、怖いくらいに当たっているみたい。貴方の作品。でも貴方、いつからテレビ原作者になんかなったの? 今やってるあのバカ騒ぎドラマのどこまでが貴方の責任? テレビなんか早く辞めて、本当に書きたいものだけを書くんじゃなかったの?」

 私は一方的に<苦情>を述べ、続けさまに言った。

 「それに随分とやせちゃったみたいだけど、何かやってるの」

 「何かって、何だ」

 「ドラッグ」

 「君はやっぱり医者にはなれないな。そんなんじゃあない」

 「じゃあ、何。ねぇ、そんなんじゃない、ってことは別の何かだってことでしょ」

 「いや、別の何でもない、ってことさ」

 嘘。こんな状態が何でもないはずがない。

 市川は私に本当のところを見せようとしない。これまでも、多分これからも。

 「あ、そ……じゃ、ならいいわ。私帰る」

 相変わらずの態度に私は席を立った。

 「何て顔してるの。貴方の生き方が変わったんならそれでいいじゃない。どうせ人それぞれなんだし、そういうのって、よくあることだし。……それにね、くだらないけど面白いわよ。アレ」

 市川の反応を見ることなく私はそれだけを言い残して店を出た。



 市川は今の自分が書くものが文学でも何でもないことを知っている。私も、自分の作品が芸術でないことを知っている。

 それから脱け出したいのも共通の思いだ。



 本当の自分でいられたら……

 この半端な虚無も感じることはないのか?



 私はそのまま自宅へ向かった。



 ベッドにもぐり込む。

 結局私は何も出来ない。



 市川文靖の作品を読んだ時、今まで触れたことのない世界に私は訳も分からずただただ落涙した。

 しかし以後の作品はいずれも私の心をゆさぶることはない。作品の中に彼を見つけることすら出来ない。

 書けないならそれでいい。

 生き方を変えたのならそれでいい。

 でも、違う。



 彼に、何が起きている……?

 

 眠りに落ちようとしている私の中で誰かの声が、聞こえた気がした。



 長い間求め続けていた今日を私はようやく終え、明日が長い一日になることを予感しながら、私は穏やかな眠りへと吸い込まれていった。









10月12日



 ……鳥の声がする。電話だ。

 私はベッドからはい出て電話に出た。



 「はい……」

 『ああ良かった、晶子ちゃんいたわね。ママです』

 「……何?」

 『晶子ちゃんお部屋あまってない? 絵を置かせてもらおうと思って』

 「絵? 何でわざわざうちになんか……」

 『いいじゃない、娘なんだから。送るから、よろしくね』

 それだけ言うと電話は切れた。



 母はいつでも一方的で自分勝手だ。

 普段嫌っているはずの<母>という称号を盾に、娘だから、という理由だけで色々なものを押し付けてくる。



 絵なんて……

 どれだけ送ってくるつもりだろう。

 この家だってそんなに広いわけではない。

 母の絵はどれだけのスペースを占領するのだろう。



 私の居場所は残されるだろうか……。



 私の居場所。

 私はそれを求めている。

 どこでもいい。どこかへ行きたい。



 その思いで4年前私はN.Y.へ向かった。

 予想に反してN.Y.では優しい人にしか出会わなかった。そしてその人々の純粋で明確な芸術への賛同にいたたまれなくなり私は逃げるように日本へ帰って来た。



 私の作品は芸術などではない。

 そして私は芸術家ではない。



 芸術には情念でどろどろになった血を溶かす作用がある。それと同時に、芸術は個々を隔てるもろもろの壁をとりはらい、心の交流を可能にし、人々の結びつきを強める手段として存在する。



 私は、芸術家ではない。



 N.Y.で支援者達の好意を踏みにじってまでして日本に帰ってきたというのに、私はまたどこかへ行こうとしている。



 地球儀が目に留まった。

 これも母が勝手に送ってきたものだ。



 私は一度も使われることなく埃をかぶった地球儀を引きずり出した。

 私は地球儀に回転を与える。

 地球儀は不気味な色を出してぐるぐる回る。

 距離を置いて立ち、手にダーツの矢を取った。そして回転を続ける地球儀にダーツの矢を放った。



 どこでもいい。

 当たった所に私は行こう。



 矢は北半球につきささった。

 私は回転を止め、場所を確認する。

 <SPAIN>

 スペイン。

 そう、私はスペインに行く。その国で、私は再び新しい生活を展開させるのだ。

 再び……

 再びこの生活を繰り返すのか……? ただ場所だけを変えて。

 それでいいのか?

 本当に、それでいいのか?



 ……雨の音がする。

 雨が降ってきた。

 私は雨が好きだった。

 澄んだ空を黒く覆い、涙を落とす姿を自分とダブらせて見てしまうせいか、それとも乾いた私の心を潤す慈雨を待ち焦がれているせいなのか。

 私は鍵のかかっていない窓を開き、その景色を眺めていた。目をつぶって、雨の音に耳をかたむけていた。



 突然その中に鳥のさえずりが加わった。

 電話だ。電話のコール音は鳥の鳴き声だ。

 私は電話に出た。

 「はい……」

 『あ、晶子? 五十嵐です』

 「……先生!」

 五十嵐郁子。

 彼女は私の担当医だった人だ。

 幼い頃より彼女は医師という職業の範囲を超え、母よりも母らしく私に接してくれた人だ。そして今もなお、その関係は続いている。

 「……どうしたんですか」

 『どうしたって……久し振りじゃない! 元気にしていましたか?』

 「ええ……ごめんなさい、今ちょっとぼんやりしていたもので……」

 彼女は私と違って極めて現実的な考え方をする人だ。私と現実とをつないでいるのは彼女であり、彼女のおかげで私はかろうじて踏みとどまってこられたのだ。

 私にとって貴重な種類の人間だった。

 『これから出てこられる?』

 「今からだと……ちょっと時間がかかるかもしれませんけど……」

 『ええ、かまいませんよ。それじゃ、待ってます』



 店に入ると先生は私をすぐに見付けた。

 「どうです? 最近は」

 彼女との会話はいつもこの問いかけから始まる。

 「どうって……普通、です」

 「お仕事の方はどうなってるの?」

 「仕事? 仕事は……」

 私は自分の創作活動を仕事とは思っていなかった。あんなものは、仕事でも何でもない。

 「……それより私、ちょっとスペインに行こうかと思うんです」

 「スペイン?」

 先生はまゆをひそめた。

 「また、そんな急に……N.Y.の時を思い出すわね、あの時も、ある日突然……」

 「思いつくのがいつも突然だから……」

 「……」

 先生は少しの間黙り込み、そして毅然とした口調で言った。

 「何をしに行くの?」

 「え?」

 「スペインには、何があるの?」

 「……」

 「N.Y.には、何があったの?」

 「……」

 「黙らないで、ねえ、その場所に行く必要が本当にあるの?」

 「……」

 「それに晶子、このまま美術をやっていくつもりなの?」

 核心にせまる発言だった。

 「美大にいた時も、N.Y.で成功したっていう時にも、それに今だって、そんな顔をするのね。相変わらず、初めて会った時のまま……」

 「……」

 「あのね、晶子、好きなものに、本当に好きなものにはすがりついてもいいのよ? 嫌々続けているくらいならそんなもの、今すぐやめてしまいなさい」

 先生は釘をさすような目をして、その場を去った。



 私はしばらく座ったままだった。だらしなく立ち上がり、市川に電話を入れる。

 「……あ、私。突然なんだけど、またスペインへ行こうと思うの。今度はいつ帰るか分からない。それじゃ、またいつの日か」



 スペインなんて、本当は行きたくなんかない。ただ、ここにじっとしていて自分の作品と向き合っていたくないだけ、私の、この今の私から逃れられるなら、どこにだって行く、それだけだ。その気持ちだけだ。



 変わりたい。

 もう、このままではいたくない……。





10月13日



 鳥……電話が鳴っている……

 取ろうと起きあがったがそれを待たずに切れてしまった。時計を見るともう12時だった。

 今度は玄関のチャイムが鳴った。

 宅配便だ。

 かなり大きく、数も多い……母だ。絵を送るとか言っていたそれだ。包みをほどき内容を確認する。

 「ちょっと……何これ……」

 出てくる絵という絵、全てがどす黒い色で塗り潰されている。

 怖い。

 こわい、こわい、こわい……

 これは、

 これは、忘れていた私のトラウマじゃないか!!!

 そう、そうだ、美術は私の傷そのもの、その傷の中でもがき続けていたのは、この、私だ……!

 なぜ、「私」はこんなことを忘れていたのか……

 父は家を出て行った。絵という絵、全てを塗り潰して出て行った。

 母は母であることを否定して、妻であることも否定した。父とは結婚することなく離婚した。

 父は私を<姫>と呼んでいた。

 姫には王子様がいるはずだった。幽閉された姫を連れ出す為に、深夜窓からしのび込む王子様が、いるはずだった。私は窓に鍵をかけることをやめた。

 心の傷は時に芸術を生む。

 私はそのころから不気味な物体をつくりだしていた。幼稚園では先生も友達も皆気味悪がったが母だけは、今まで見たこともないような顔で喜んだ。自分をはるかに越える<才能>を喜び、そして<才能の所有者>である私を愛するようになった。それが才能などではなく、心の傷から出てくるものとも、そしてその傷をつくることに自分が関わったことにも気付かずに。

 どんな人でも母は母だった。

 幼い私は母の愛を得ようと必死だった。 

 <私>は私でいることをやめた。<私>はものを吐き出し続けるただの<もの>だった。

 塗り潰された絵は手厚く保護された。

 その絵が怖かった私は存在を無いものと思い込み、母が私を<もの>としてのみ愛している事実を封印した。

 ……王子様は、来なかった。

 そうすることで普通に生活を送ることが出来、私は少しずつ歳を重ねていったがその間もずっと、廊下に、寝室に、食堂に、アトリエに、ずっとずっとこの絵は存在し続けていた。

 私の作品はひとつの核から始まる。

 私は時間をかけて核と対峙する。すると発生が起こり、核は分裂を繰り返し、増殖し、狂気、怒り、悲しみ、悔やみ、痛み、渇望、恐怖、絶望、憎悪、ありとあらゆる念がくねり、よじれ、私の補助を受けてそのグロテスクな正体を完成させる。その造形のおぞましさを前に、<私>はいつも不思議なやすらぎを得ていた。

 造形のおぞましさは、<私>に封印された私の感情のうねりだった。

 母は自分の作品を国外へ持ち出したことがないせいか、しきりに<私>を国外へ出そうとしていた。<私>はそれに従いN.Y.へ渡った。

 しかし<私>は日本に帰って来た。帰らせたのは母ではなかった。<私>の中の私がたったひとつの言葉を勇気に<私>を日本へ帰らせた。

 「でも、帰って来るんだろ?」

 N.Y.に発つ前に市川が私に言った言葉だ。



 ……封印から解き放たれ<私>は私にかえる。ようやく、私の時間が流れ始めていた。私は、私。もうどこへも逃げない。「私」のつらい経験は影となって私を支え、より苦しみの少ない方向を示唆してくれる。

 やっと、やっと、私の人生が始まる……!

 外は雷雨となっていた。激しい雨が窓にぶつかっている。雷が鳴る。その光と音を浴びるうち、しだいに私は意識の上へと戻ってきた。生まれて初めて現実感というものを感じている気がした。

 私が、生きている。他の誰でもない私が。

 窓を開け、全てを洗い流すような気持ちがいい程の集中豪雨をしばらく眺めていた。

 そして窓を閉め、鍵をかけた。

 母の絵は再び送り返された。



 バスルームで湯舟につかる。寝間着に着替えてミネラルウォーターをひと口ふくみ、ベッドの上に大の字に寝ころんだ。目を深くとじ、息を吐く。そして浅く吸い込んだ。気持ちがいい。体が、そして心が軽く感じられた。そのまま眠りに吸い込まれそうになっているとふいに鳥のさえずりがきこえた。電話だ。

 それは思いがけない人物からの電話だった。

 『スエナガ、起きてた?』

 「……井端君?!」

 井端和孝、高校の3年間、ずっと同じクラスに在籍していた友達だ。

 「どうしたの? 珍しい」

 私の言葉を遮るように井端は言った。

 『高峰が帰って来た』

 高峰!

 『今ここに、一緒にいるんだ。奴が席をはずしているうちに知らせておこうと思って……今は、それだけ。また連絡する!』

 電話はたちまち切られた。

 高峰隆士……3年前、突然姿を消した元恋人。何も言わずにいなくなった、あの人が帰って来た……

 ……高峰といい市川といい、私が惚れるのは変な男ばっかりだ……







10月14日



 昨日約束した通りに、井端は再び電話を入れた。私にかけるようにと、高峰のいるホテルのナンバーを無理矢理教えて電話は切れた。

 高峰も同じ高校に通っていた。2年次に同じクラスに入ったが、それまでに悪い噂を沢山聞いていた。私は目も合わせないような態度でいたのだが、高峰とは何もかもが正反対のような井端がなぜか高峰と意気投合し、必然私も言葉を交わすようになっていった。

 近くで見てみると、高峰は噂されているような人でもなかった。ただ、相手が出方をあやまって接すると、それを受け流すことも無視することも知らないかのようにくってかかるので、色々と問題が起こるらしい。気付くと友達とは呼べない程仲良くなってしまっていた。

 恋人ではなかった。と、私は思っている。しかしそれ以外の言葉があてはまらないのも事実だった。

 沢山話をした。人として、色んな話をした。判り合える、少なくとも私はそう感じていた。しかし3年前高峰は突然姿を消し、しばらくして人づてに日本を出たことを知らされた。高峰にとって、私は取るに足らない存在でしかなかったと言われた気がした。ひたすら黙っていたこの時期の私を井端は見ていた。

 しかし、そのまま時は過ぎ、高峰は私の思いを知ることもなくどこかで息をして、私は市川と出会っていた。



 正午……市川はもう起きているはずだ。昨日2回も電話をもらっていた。そっちが先だ。

 私は市川に電話をかけた。

 『もしもし? 市川文靖ですが』

 まるで私からだと分かっていたようにフルネームを名乗る。

 「あぁ、私。どうしたの? 何か用?」

 『何してた? ……忙しかったの?』

 「そうよ、あと少しで仕上げなきゃならない作品があるの」

 作品? ああ、そうだ、スペイン、スペインに行くとかいうことを……

 「留守電に入れといたでしょ……」

 忘れていた。2日前までそんなことを考えていたのだ。

 「……それより、何? 用は」

 『うん、まあね、……ちょっと声が聞きたくなったんだ。発つ前に会えないか?』

 「……何か変。どうしたのよ急に。まぁ、いいわ、じゃ、今日ね?」

 私は時間と場所を指定して電話を切った。



 さて……もう一本かけなければいけない。

 何て言おう。何て聞かれるのだろう。考えもまとまらないまま電話はつなげられた。

 「……もしもし? 高峰君……?」

 『ああ……』

 「本当に、高峰君なの……?」

 『ああ……。どうしてここが分かった?』

 「井端君が調べたらしいわ。それで私に電話をしてきたのよ」

 『……』

 「愛想のなさは相変わらずなのね。……今までずっと、何してたの?」

 『……』

 「ねえ? ……高峰君?」

 『ああ、聞いてるよ』

 「じゃあ話を変える。どうして、帰って来たの?」

 『……』

 「あなたがどこに行こうと勝手よ、それでいいわ。止める気もないし、止められないのも分かってる。でもあんな風に出て行って、何で今、帰って来たの? どうせまたいなくなるつもりなのに」

 『どこまで奴から聞いたんだ』

 「何もかもよ。今までアフリカにいたらしい、そして今は日本にいる、それだけで全部だけど、それでも何もかも、よ」

 『何も言わないで出て行ったのは悪いと思ってる。あの頃の俺には何も……』

 出来なかった、とでも言うつもりか。だんだん頭に血がのぼってきた。井端には会いに行ったのに、私には連絡もなし、相談もなし。「とにかく、これで井端君への義務は果たしたわよ。あなたも用が済んだのならさっさといなくなって、私の前になんか2度と現れないことね」

 『なあ、話をさせてくれないか。……俺も悪いとは思っているけど、本当に、どうしようもなかったんだ……』

 みえみえの、ご機嫌取りの嘘が出た。

 『……俺ももうすぐこの街を出るし、今度こそ帰って来ない。だからその前に一度だけ、会って話がしたいんだ』

 うってかわって子供みたいな本音。

 『会いたいんだ』

 「……」

 何も言えなかった。高峰が時と場所を告げるのを聞くとたちまち電話を切った。高峰は何も変わっていない。好きな部分も、嫌いな部分も。

 高峰は昔の<私>と同じく同じところをぐるぐる逃げまわっているにすぎない。自分が逃げていることにも、何から逃げているのかも知らずに。

 私は証となるべく最後の作品の仕上げに取りかかった。



 しばらくすると、出入り口に置いたストーブの上のケトルが鳴っているのに気付いた。振り返ると、そこには市川がいた。

 「ええっ?! もうそんな時間?」

 耳栓を外して時計を見る。市川との約束の時間にはほど遠いが高峰との待ち合わせの時間はあと少しのところまでせまっていた。

 「いや、ちょっと時間が余ったものだから。……これ」

 市川はリボンのついた包みを差し出した。

 「あら、珍しい……ごめんなさい、今バタバタしてるから、後でね」

 作品に向き直ろうとした時市川の左手が白い手袋をしていることに気付いた。しかも何かでしばってある。様子をうかがいながら再び作成に戻ると今度はコーヒーが差し出された。

 「そのタイトルは?」

 「……『無駄にあがくヴィーナス』」

 市川と高峰の状況に皮肉のつもりで嘘を言った。

 「何かあったの?」

 「どうして」

 「今までこんなとこよりつきもしなかったくせに。それに何? その手」

 「ああ、コイツか。不義密通をはたらいたものでね。重ねて四つだ」

 「ふーん……まあ、後で聞くわ、時間、約束通りでいいんでしょ?」

 「ああ。じゃあ俺、出直すことにする」

 市川はそう言うとさっさと立ち去った。



 高峰との待ち合わせの場所に出向くとすでに高峰は席にいた。目線で座れとうながす。「……来る気なんて、なかったのよ」

 遅れた言い訳のようなものをして、ウェイターにジントニックを頼む。

 「俺もだよ」

 「え?」

 「俺もだって言ったんだ。あのまま、この国には戻らないつもりだった」

 「……ずっとアフリカにいるつもりだったの」

 「分からない……でも、あそこには仲間がいた」

 「……この日本にはいないっていうわけ」

 「……」

 「……何が言いたいのか分からないんだけど……」

 静かな怒りがふつふつと湧いてくるのを感じていた。

 「……結局あなたは逃げ出した理由を人のせいにしているだけなのよ、どうせ帰って来たのだって、何か別の理由か何かで逃げたかっただけなんでしょう」

 「……かもしれない。その通りだ」

 「ねえ……いつまでそんなこと、続けていくつもり?」

 少しづつ。少しづつ怒りは熱をおびてきた。

 「……あなたって、そんな人だった? ……いいわよ、逃げ回ってれば。アフリカでもニカラグアでもどこへでも、一生やってなさいよ」

 「待てよ、俺の話も聞いてくれよ、ケンカをしに帰って来たわけじゃない」

 「じゃあ話してよ! 何で私に会いたいって、話がしたいって言ったの……!」

 「……」

 ずっと耐えていたが限界だった。涙が出た。言いたいことは少しも言葉にならず、もう自分でも何が言いたいのか分からなくなってきていた。私は高峰に送られたピアスを取りだし突き返し、顔も見せずに出口へ向かった。高峰は、追って来ない。

 私はそのまま高峰をあとにした。



 数分後、私は市川と向かい合って座っていた。ちゃんとした店で、ちゃんとした食事をする。最近ではもうこんなことすらなかった。

 しかしその左手はさっきのままだ。

 「ねぇ、その手袋、何とかならないの?」

 「芸術だよ。動くオブジェさ。少なくともキミの作品よりは分かりやすい」

 「それに……どうしたのよ、まるで何日も食べてなかったみたい」

 「食ってないさ。酒だって、もう何百日も飲んでないんだ」

 「まずい。あのころウチで飲んでた安ワインの方がうまいな」

 「冗談」

 「本当さ。少なくとも、ちゃんと酔えた」

 「……今だって十分酔ってるじゃない?」

 「そうさ酔ってるさ、だが俺は酔ってはいないんだ……って俺、ヘンか?」

 「変よ。……でもその話、聞くわよ私」



 席をかえる。市川のバーに入る。座ると市川が小声で何か言った。

 「俺死に体だよ」

 私の口元が少しゆるんだのを見付けて言う。

 「何がおかしい」

 「だって、それ政界用語でしょ……血は争えないのね」

 「……」

 「それで?」

 「あ?」

 「さっきの続き」

 「ああ……何、こいつがさ、眠ってる間に反乱を起こすんだ」

 「……でも見たわけじゃない、んでしょ?」

 「眠ってて目を開けられなかった。でも声を聞いた。間違いない」

 「私だったらこの目で見るまで信じないけど……?」

 「見たさ。ちゃんと見たんだ。夢じゃない」

 「……お医者様は何て言ったの? 行ったんでしょ、精神科。あなたのことだもの」

 「……医者には疲れているだけだと言われた……けど俺だって最初はそうだと思ったさ、だけど現実に、原稿が、出来ているんだ。俺が眠り込まされている間に、知らない原稿が、あがっているんだ……!」

 「……」

 「俺は徹夜でダイヤモンドを磨く。朝になると突然眠らされる。眠っている間に左手の5本の指は小人になってやっと磨きあげたダイヤを粉々にして代わりに泥を置いていく……しかもそいつが金になる! こんなに楽しいことが他にあるか……?」

 「……分からないけど、でもそういうのって、誰にでもあることなんじゃない? 自分の意識の……何してるの?」

 「手が……重い。それに、何だか痛い」

 「……バカね当たり前よ、大変、早く解かなきゃ……」

 「おい、おい、罪人を解き放つとえらいことになるぞ……五人組の反乱軍だ!」

 「分かったから黙ってて……」

 固く結ばれたひもを切ると、そこには紫を通り越して赤黒くなりかけた左手があった。

 「本当にもう……バカじゃないのこんなことまでして……」

 「いいんだ、当然の刑罰だ。もういいだろ。さあ、縛ってくれ」

 「嫌」

 「何?」

 「……」

 「何だよ……」

 「……」

 「何黙ってんだよ……何だよその目は!」

 「……」

 「ああ、そうだよ、もういいよ。行けよ。早く。早く! いや違う、俺だ、俺が出て行くよ。お前はそうしてろよ……ばかやろう……俺はただ、俺は、この手袋の端を縛って欲しかったんだよお前に! キツく、ガチガチに!」

 市川は泣いていた。私は放心したように、ただ座っていた。

 ドアが閉まり、市川が見えなくなると、目からは涙が落ちていった。









10月15日



 私は家に帰っていた。

 そしてやはりただ座っていた。考えを巡らせているわけではない。座っている。それだけだった。

 電話が鳴った。

 市川でないことは確かだった。

 無視をきめこんでいたがあまりにしつこいので嫌々立ちあがった。



 出てみると警察だった。<タカミネ>がどうだとか言っている。

 「……知りません」

 高峰と警察に何の関わりがあるのか知らないが、とにかく警察に関わるような<タカミネ>は私の知っている高峰ではない。

 「本当に知らないんです。その人」



 警察は意外にあっさり引きさがり、電話はそのまま切られた。私は元の場所に戻り、再び座っていた。

 手の中には市川の手帳があった。バーに忘れて置いてあったものだが、それが意図的なものか計りかねていた。

 それでも、行くしかない。

 行っても多分何にもならないことは見えている。しかしそれでも今会いに行かなければ、本当にこのまま二度と会えない気がしていた。

 私は市川のホテルへと向かった。



 市川はいなかった。

 私は一人でソファーに座って市川を待つ。

 ホテルとはいえ、長年市川が使い続けているせいでこの空間には市川の空気が漂っていた。一人でこの部屋にいるようなことは今まで一度もなかった。

 お互いに互いの生活にも仕事にも干渉しない。大人の付き合いではない。ただの、あきらめだ。深く知れば知る程同時に壁がどれ程までに厚いものかも思い知らされる。もしかしたら、一生交わることもないまま終わるのかもしれない。一番分かり合いたい人なのに。そのことを避けるように、私達は目をそらし続けた。愛しさからも目をそらした。誰よりも共有する時間が少なくても恋人と言えるのだろうか……?

 物理的、個人的障壁を理由に市川を切り捨てて、それでも私は生きていくのだろうか……?

 しかし、物事を考え進めるだけのエネルギーがこの空間からおぎなわれているのを感じていた。

 なんで、どうして、たった一人の人間が私にここまでの影響をおよぼすのか。

 市川がいない世界であったとしても、私は生きていくだろう。でも、今、この世界に、市川はいる。いることが分かったら、無視することなんて、忘れることなんて、初めから出来ないことなのだ。

 市川が好きだ。

 それはもう、仕方のないことなのだ。

 突然けたたましい音と共に市川が飛び込んで来た。私は一気に正気を取り戻す。

 「あ、あなた、いつもそうやって部屋に入るの?!」

 市川は私の姿を認めるとその場にくずれた。

 「ちょっと、文靖……!」

 「……いや、大丈夫」

 「大丈夫って……何なの、そんな……」

 「君こそ何やってんだ人の部屋で」

 「……ずいぶんなゴアイサツね、忘れ物届けに来てあげたのに。……それに、あんな風な別れ方、したくなかったし……」

 市川は黙っていた。私も何も言えなかった。かける言葉のないことを分かっていながらここに来たのだ。しかし、あのまま一生会わなくなると思われた事態はさけられたように感じられた。それが分かれば、もう十分だった。

 「帰るわ」

 「ああ……」

 ドアの向こうへ消えようとした時、市川が何かを言ったのが聞こえた。

 「……え?」

 「膝枕を、貸してくれ」

 膝枕。耳慣れない言葉だ。そんな言葉は私の中に存在しなかった。まるで初めて耳にした言葉のように聞こえた。

 不思議な感覚の中で、私は市川を見ていた。

 「ねむい……」

 市川がつぶやく。眠りなさい。私の王子様。疲れ切った、本当の市川ではない顔を上から眺めていた。

 「ひどい顔……」

 突然何かが起こった。苦しい。目が開かない。その苦しさを越えるとなぜか次第に楽になり、うっすら目を開けることが出来た。

 首をしめられている。市川に。なぜ? 分からない。体はどんどん軽くなる。携帯が鳴った。市川は私を解放する。息が吸えた。身体の重みが戻ってきた。

 「……何の真似?! 殺す気なの?!」

 「ま、待ってくれ、何のことだか……」

 「とぼけないでよ、いくら私でもそこまで手に負えないわよ!」

 「ちょ、ちょっと待て。俺は、君を殺そうとした、のか……?」

 「……本当にしっかりしてよね……」

 うろたえるばかりの市川は私の首に残る跡を見つけると一変して落ち着いた調子で言った。

 「……分かった。分かったよ。悪かった。帰ってくれ頼む。出て行くんだ、スペインでもどこでもいいから早く発て。早く、帰って、支度でも何でもしてくれ! 早く!」

 事態を飲み込めないまま私は外へと追い出された。市川の言葉通り、私は家に戻った。突然の睡魔におそわれ私はそのまま眠った。

 目が覚めると午後の6時半をまわっていた。市川に電話をかけた。出なかった。

 私はお茶を飲みに向かった。

 上の階の為窓の外には下界が広がって見える。車のライトが流れている。窓には明かりが見えている。暗闇の中で、大勢の人間が動いている。

 何かの音がした。

 花火だ。

 窓の外を探すと小さく、花火があがっているのが見えた。ガラス越しに、ひなぎくのような花火が次々と咲いていく。

 人間はどれほどおろかな存在かもしれない。けれど花の美しさを見付けたのもまた人間であると、誰かが言っていた。



 私は市川の元へ向かった。結婚しませんか? ……そうきくつもりでいた。

 恋人と夫はどう違うのか、独身と既婚がどう違うのか、見えるものは同じなのか、何も分からない。なんで結婚なのか、それも分からない。ただ、市川の求める何かは、近くにいないと私には見えない気がした。それだけだ。

 

 私は両腕を広げた。

 私は大気に溶け、そして夜の一部になった。