AM8:00
九郎を捜しているという者のことを考えてみた。
心当たりはなくもないが、なにぶん中国で人を殺しまくってきた。誰に恨みを買ったかなど断定できぬ。
旧友、伐は、その相手を「寧安喰肉公司」の社長であるらしいと言った。
それは何者だろう?
昨日、喫茶店を出た時から九郎と伐を尾行してきた男も関係があるのだろうか。
その時、
誰かが近づいてくる気配を察知した。
自分に用があるらしい。気配で分かった。
九郎は座った姿勢を崩さず、臨戦体勢をとった。
「木曜日」
後ろから声をかけられた。
「ん、なんだ?!」
九郎は拍子抜けしたような顔をした。
振り返ると、日曜日が立っていた。
よくよく考えればこの気配は日曜日のものと断定できたものの、過度に反応した自分が恥ずかしい。
「なんだ、じゃないわ。昨日3時にアン・カフェに来てって言ったじゃないの」
「えっ?」
(……あのメールは日曜日が送ってきたものか?)
「どうしたの。そんなハトが豆鉄砲を食らったような顔をして。アラ、いつもは上げる方だっけ、ウフフ」
九郎は渋面になった。
「どうしたの……怖い顔をしないで。確かに突然呼びつけたのは悪かったけど」
「あのメールは……お主が?」
九郎は訊ねた。
「メール……お手紙のこと? ええ、そうよ」
日曜日は言った。
(そうだったのか……ワシはてっきり。イヤ、待てよ!)
「どうしたの? コロコロと表情を変えて。睨めっこ?」
「イヤ……お主、どうしてワシに本名宛てでメールを送った?」
「本名? 知らないわ。お手紙にはきちんと『木曜日様』って書いてあったじゃない?」
「……『木曜日様』?」
だとすれば九郎はそのメールを受け取っていない。
(アッ……『お手紙』?)
日曜日は「電子メール」のことを言っていたのではなく、アナログの「手紙」のことを言っていたのだ。
そういえば、昨日は伐と一緒に自宅の門をくぐったが、郵便受けの中は見ていないことに気付いた。
「そうか……ワシはお主がワシ宛てに寄越した手紙は見ておらぬ」
「えっ、だってさっき、お手紙がどうとか言ってたじゃない」
「いや、それは電子メールのことで、お主がの手紙のことじゃないんだ。別物だ」
「アラ、じゃアレは見ていなかったのね?」
「ウム……ところでなぜ、電話で呼び出さなかった?」
「電話したわ。でも範囲外だったの」
携帯電話のことを話している。
「おかしいな……昨日は電波の届かぬ処にいたかな?」
「電源が切れていたとか、バッテリーがなくなっていたとか?」
「それはない。いつでも使えるようにしてある」
「変ね……まあいいわ。とにかくその指令は別の人にやってもらいましたからいいんですが」
「そうか……すまぬな」
「いいえ。まずは報告まで。それじゃ、チンチコール」
「ウム、チンチコール」
日曜日は去っていった。
(あのメールは七曜会じゃないのか。では誰が)
……送ってきたのか。
少し考えたが、結局ソレらしい相手は思い浮かばなかった。
九郎に名指しでメールを送り付けたのは何者なのだろう。
AM10:00 九郎の自宅
伐との約束の時間まで少しある。
九郎は一度、自宅に戻っていた。
郵便受けを確認したが、日曜日の言っていた手紙らしき物は無かった。
既に日曜日の手で回収されたのだろう。
九郎は寝室に入り、障子を開けた。
松の木が日を浴びているのが見えた。
九郎はパソコンの前に座り、電源を入れた。
九郎のコンピュータは、常に電話線と繋がっている。
『メールが1通届いています』。
また画面にこのメッセージが出た。
「オッ?!」
九郎は即座にメールを開いた。
『拝啓 代島九郎様
昨日は会えずに残念です。
今度はいつお会い出来ますか?
私のメールアドレスは……』
そこに、差出人のEメールアドレスが書いてあった。
しかし、名はまた書かれていない。
九郎は通信ソフトの上に、エディタを開いた。
これで通信用の文章を書ける。
『前略、代島九郎です。
いきなり失礼ですが、あなたは何者でしょうか。
私の知っている人物なら、最初から名乗ってくださればよろしいのに。
お会いしたいとおっしゃるのなら、明日、10月14日の午後3時、
あなたの指定したアン・カフェにてお待ちいたします。 草々』
それをセーブし、また通信ソフトの画面に戻して、相手のアドレスに送り付けた。
明日、という指定は少々先のことのように思えるが、メールを送って「今日会いましょう」ではさすがに不躾というものだ。
それに、今日は伐とまた会う約束を取り付けてある。
(さあ、正体を拝んでくれようぞ)
九郎は鋭い目つきで、『メールを送付しました』というメッセージを凝視していた。
AM10:30
そろそろ出かける準備をしようと思った。
九郎はステッキを保管してある部屋へ行き、今日手に持つステッキを選んだ。
ちなみに九郎の300本に及ぶステッキはコレクションで、普段持ち歩くステッキは、全く同じものを7本持っており、曜日によって使い分けているのである。
九郎がステッキを手に取り、フィット感を確かめていた時、チャイムが鳴った。
ピンポーン!
九郎は玄関の方へ歩いていった。
扉ごしに見える男のシルエットが、
「宅急便でーす!」
と言った。
九郎は玄関の靴を入れる棚の上のハンコを手にとり、扉を開けた。
「ご苦労様」
九郎はその宅急便を運んできた男の持っていた送付状にハンコを押すと、段ボール箱を受け取った。
直径が3~40センチくらいの長方形の箱で、中身は軽いものだった。
趣味でやっている懸賞にでも当たったのだろうか。
宅急便を運んできた男はハンコの押された送付状をズボンの後ろのポケットにしまう動作をした。
(ン?)
九郎は、逆光でよく見えなかったが、その男の目が怪しく光るのを視界の端で捉えた。
が、遅かった。
男は後ろからスプレーを取り出し、自らは鼻をつまんで九郎に向かって放った。
「フムッ!」
九郎は不覚にもそれを吸い込んでしまった。
男は、九郎が息を吸う瞬間を狙ってスプレーを吹きかけたのだ。
(なんだ、これは……)
九郎の視界は揺らいだ。
焦点がぼやけ、視界は空に向かっていた。
立っていることが出来なくなり、九郎はその場に尻もちをついた……と思ったら、即座に意識を失った。
4日目につづく
10月14日 土曜日、昼ごろと思われる(正確な時刻は不明)場所も不明
すべてのことには、必然性があると、五台山の老師は言った。
偶然の一致に見えるものも、なにか神秘的な力によって引き合わされるのだという。
信じられないことだが、思い当たる節もある。
予感が的中する……などだ。
が、人は無意識にいつも「こうなればイイなあ」というような願望を持っている。
その内のほんのいくつかが実現したからといって、偶然に物事が一致したとはいえないのかもしれない。そのほかの無数の予感は、実現していないからである。
予感が外れたことはすぐ忘れ、的中したときのことだけが印象に残っているから、偶然の一致を否定しないのだ。
『そんな気がする……』
という思いは、神秘的な力で引き合わされるのではなく、やっぱり偶然なのであろう。
が、人生には偶然が運命を変えることもある。
だとすれば、その人にとってそれは『必然』ということになろうか。
九郎は暗闇の中で目が覚めた。
頭が痛い。二日酔いの時のような気分の悪さだ。
が、九郎には二日酔いの経験は無く、ただ得体の知れぬ気分の悪さがのしかかる。
九郎は酒に強く、いくら呑んでも二日酔いにならない。
肝臓がとても強いらしい。
(どこだ……ここは?)
九郎は辺りを見回した。
もちろん何も見えない。
どうやら何者かに拉致されたようだが、誰が、何のために九郎をこんな場所に監禁しているのかは分からなかった。
服装は昨日家を出たときのままだったが、財布と携帯電話、ステッキは無かった。
九郎は床に触れた。
長い年月を経てすり減った板張りの床だった。
人が使っていたらしい。
手探りで室内を探ってみたが、6畳ほどの四角い部屋で、九郎の方向感覚では北側に木の扉があった。
体内磁石がよく機能している人は、暗闇でも正確な方位が分かる。
ただ、磁場が狂っている場所にいる場合、方向感覚は掴めない。
富士の樹海などは、磁場が乱れていることで有名だ。
毎年、熟練の探検家でも何人か遭難してしまう。
扉は木製で把手はなく、蝶番も向こう側に打ち付けてあるようで、こちらから取り外すことはできなくなっている。
すき間には目張りがしてあるらしく、光も入ってこない。
そして、何も聞こえない。
地下室だろうか。やたら静かだ。
耳鳴りが鳴っている。
(参ったな……)
九郎は暗闇の中でも落ち着き払っている。普通の精神の持ち主なら、怯えるか、発狂しているところだ。
九郎は気孔で気の流れを読んでみた。
誰かいれば、扉の向こうに気配があるはずだ。
それが……無い。
ということは無人なのだろうか。
九郎は扉を蹴破ることにした。
外に赤外線センサーがあって九郎が飛び出した瞬間に機関銃が火を吹くかもしれないが、その時はその時だ。
九郎は両手を開き、腹に力をためた。気を練って足腰を強めるのだ。
「フンッ!」
九郎は扉を蹴った。
が……破れない。
「ム……」
踵に痛みが走った。
もう一度扉を押してみた。
重い。
(ただの木ではないな……中に鉄板でも入っているのか)
だとすれば九郎の手に負えない。
もう一度室内を歩き回ってみた。
電灯のスイッチが扉の横にあったが、もちろんつかない。
天井に何かあるかもしれないと思って飛び上がってみたが、天井に手は届かなかった。
電灯はむしり取られているらしい。もしくは初めから電灯などなかったのか。
九郎は少し焦った。
(今何時だろう……それにワシをここへ閉じ込めたのは何者だ?)
口の中の入れ歯が気持ち悪くなっているから、かなりの時間が経っているのは確かだ。
入れ歯は夜寝る前に洗浄液につけなければならない。
膀胱は破裂しそうだ。
(マズイな……さすがに生理現象までコントロールすることは出来ぬか)
九郎は部屋の隅で用を足すことにした。
こんなところで小便をしようものなら臭気が室内にこもるのは明らかだが、もとよりこの部屋は得体のしれない匂いで満ちていた。
用を足した九郎は、扉の前に立って考えた。
(扉は破れなくても、壁なら行けるか……?)
壁は普通の木だろう。
だが、試みて分かった。
壁は当然ながら頑丈に出来ている。中にセメントでも流し込んであるに違いなかった。
(参ったなァ……)
九郎は痺れる足をさすりながら思った。
しかし何もせずに座っていては本当に気が狂う。
(そうだ!)
思いついた。
扉のすぐ横のスイッチを破壊して、そこから壁の穴を広げよう。
スイッチの回りの壁はコードを走らせなければならないから、空洞のはずだ。
九郎は扉の横に立ち、スイッチを殴りつけた。
が、なかなか頑丈に出来ているらしい。少しへこんだようだが、壊れはしなかった。
周囲の木を削って引きずり出すか……しかしどうやって?
九郎は考え、入れ歯を外した。
入れ歯の中身はプラチナで出来ている。
(コレでやってみよう)
九郎は入れ歯の犬歯を根元から折った。
それを使って壁をひっかいてみた。
細い傷がついた。
スイッチを削り出すまでには相当時間がかかるだろうが、なにもしないよりましというものだ。
九郎は入れ歯で壁を削り続けていた。
数時間後(正確な時刻は不明)
気を集中して作業をしていたのでどのくらいの時間が経ったのかは分からないが、3時間ほど経過していようか。
壁を叩いた感触では、スイッチの回りは案の定空洞になっているようだが、その厚さ数ミリの木の板が貫通できない。
腹が減った。
誰も、食事も運んでこぬ。
(ワシを飢え死にさせる気だろうか……)
少し弱気になっていた。
その時だった。
カチャン!
扉のほうから、何かが外れる音がした。
九郎はそちらを見た。
外した入れ歯は口に戻し、犬歯は懐にしまった。
ギギ……。
扉は重い音を立てて開き、外から白熱灯とおぼしき弱い光が差し込む。
九郎にとっては眩しい光だったが。
(何だ……?)
人影が入ってきた。
背が高く、丸眼鏡をかけている。
表情はよく見えない。光が眩しく、人物に焦点が合わないのだ。
「Perdon? Are you Kuro Daishima?」
英語だった。九郎には意味が分からない。
が、自分の名と、語尾の上がり口調から、自分が代島九郎かと訊ねられたらしい。
「ノー、ダイシマ、イエス、ダイジマ」
自分の名は「ダイシマ」ではなく、正しくは「ダイジマ」だと言おうとしたのだが、文法があっているかどうかは分からない。
……と、いうか間違っている。
シルエットの男は困ったような口調で何事かを喋り出したが、九郎には何をいっているのか分からない。
九郎は困った。
「ミー、イングリッシュ、ノー」
九郎は「私は英語が分からない」と言ったつもりである。
男は絶望的とも取れる口調で、
「オーゥ、ソーリィー(Oh,Sorry)!」
と言った後、また訳の分からないことを喋り、部屋を出ていった。
扉は開いたままで、外を見るとまた部屋があり、裸電球がぶら下がっている殺風景な部屋だった。
荒削りの木を組んで作られたテーブルと椅子が真ん中にあり、水の入ったコップと食べかけのパンが転がっていた。
(何だ……ここは?)
九郎は思った。
中国でこんな光景を見たことがある……ここは見張りが控える部屋で、さっきまで九郎がいたような部屋に奴隷として売られる人間が詰め込まれているのだ。
ここはどこだろう。
日本なのか、それとも……。
その時だった。
「代島九郎さん、中国では『仗』と呼ばれた男」
九郎の左手から声が聞こえた。日本語だ。
見れば、そちらに扉があり、黒いスーツの男が入ってきたところだった。
黒いシルクハットを手にもち、深々と頭を下げた。
スキンヘッドで、四角いサングラスをかけていた。
「アンタ……何者だ、ワシをどうする気だ?」
九郎は男を睨んで問うた。
男の背後、扉の向こうに階段があり、上のほうから白い光が見えていた。外光か、蛍光灯の光だ。
「怪しい者ではあり」
「吐(ぬ)かせ、怪しいわッ!」
九郎は怒鳴った。空腹と、口中の気持ち悪さでイラ立っている。
願わくば、入れ歯を洗いたい。
「貴様は何者だ、寧安喰肉公司の手先か!」
「は、ニンアン……?」
「ワシをどうするつもりだ!」
男は少し戸惑ったような表情で、
「あなたは何か勘違いをしていらっしゃるのでは……?」
「たわけッ、ならばなぜワシをこんな場所へ閉じ込めた?!」
九郎はさっきの部屋を指差していった。
「それは、その……手違いでして。まことに申し訳ございません」
「……手違い?」
九郎は渋面で問うた。
「イヤ、その、我々は、あなたを保護するために遣わされてきたのですが……」
男はハゲ頭をハンカチで拭いている。
(……どこが保護だ!)
苦労は呆れた。
「バカが先走って、あなたを拉致した上に閉じ込めてしまったのです」
(……ン?)
よく見たら、男の頬が腫れている。
「俺がやらせたんだ、仗」
中国語だった。
階段を降りてきたのは伐だった。
黒いランニングとジーンズ姿の伐は、
「すまねえな、迷惑をかけた」
といって詫びた。
「何の真似だ、伐」
「順を追って話そう。おととい喫茶店から尾けてきたスーツの野郎が、あんたの家の前をウロついているのを見つけてな、ちょっと脅かしたら正体を表しやがった」
「なに?」
「奴は寧安の手先だった。あんたの首を狙っているらしい。なんでも寧安の野郎は、あんたに親父を殺されたとかで、相当恨んでるらしい」
「……なるほどな」
「覚えてるか、『隻眼の麒麟』の息子だ」
(……あの時の!)
九龍城砦で、「隻眼の麒麟」の首を刎ねた時、その屍にしがみついて泣いていた妻子を思い出した。
あの時、あの子は5~6歳と見えたから、現在では40過ぎくらいだろうか。
運命は皮肉だ。あの子は九龍城を出て、本土で成功者になり、九郎の正体と居場所を執念で突き止め、殺し屋を送り込んできていたのだ。
それだけ「隻眼の麒麟」は妻子に愛されていたのだ。子が、父親の仇討ちをしようとしている。
「……しかし伐、これは何の真似だ?」
九郎を拉致し、監禁したことを指す。
しかも随分と厳重な部屋だった。
「……すまねえ、こいつから聞いたかも知れねえが、バカが先走りやがってな」
伐が黒スーツを指差すと、その男はビクッとした。
頬の痣は、おそらく伐にやられたのだろう。
「……彼らは何者だ?」
九郎は問うた。
「プロフェッショナルさ」
「……プロフェッショナル?」
「ああ。世界を股にかける貿易会社、ヨツビシのな」
「ホー……しかしなぜ、貿易会社に彼らのような胡散臭い者が?」
「ヨツビシは裏の商売にも手を染めているのさ」
「なるほど」
九郎も聞いたことがある。ヨツビシは外国へ兵器を輸出しており、「死の商人」と呼ばれていることを。
伐はヨツビシに繋ぎを持っていたらしい。
九郎のことを調べさせた日本企業というのも、ヨツビシのことだろう。
「昨日の正午に会う約束をしていたが、間に合わないかもしれないと思ってな。ヨツビシに頼んであんたを連れ出してもらおうと思ったんだが、まさか実行者が勘違いするとはな。言葉が通じていなかったらしい。迂闊だった」
「……そうか」
九郎は伐を責めまいと思った。
「で、どうする? 中国へ行って肉屋に話をつけてくるか?」
伐は言った。話をつけるというのは、こらしめに行くという意味もあるのだろう。
「ウーム、確かにこのまま殺し屋を送り込まれ続けるのは迷惑だし、あちらさんの財布の都合もあろうしな」
……つまり、殺し屋を次々と雇い続けてもらうのは気の毒というものだ。
しかも、銃なしで九郎の首を取れるような殺し屋が、この世界に何人いようか。
いうまでもなく、日本で銃はご法度である。
必然、刃物での勝負ということになろうが、肉弾戦で九郎を負かすほどの相手は、そうそう見つからない。
伐でさえ、九郎に勝てないのだ。
「よし、中国へ殴り込みに行くか?」
九郎は言った。面倒なことになる前に、話をつけておこう。
「決まったな。しかし、俺の船は明後日の昼なんだ。明日の夜8時にはここを後にしなけりゃならない。いいか?」
「……まあ、いいだろう。ではいつ待ち合わせる?」
「明日の午後……いや、そうだな、8時に渋谷駅に来てくれりゃいいだろう」
「ウム」
「で、今日はこれからどうする?」
「今、何時だ?」
「午後2時ってところだ」
「帰って旅支度をしなけりゃならんし、今日はこれから待ち合わせがある。この分なら間に合いそうだ」
「……分かった。じゃあ送って行こう」
2人は部屋を出て、階段を上がっていった。伐は突き当たりの扉を開けた。
「ここは……」
どこかのオフィスのようだった。蛍光灯はすべて点いているが、人はいない。
今日は土曜日だった。休業日なのだろう。
「どこだ、ここは……?」
九郎は室内を見回した。
後ろの扉を振り返ると、「機密文書保管室」とあった。
二人はそのビルから出た。九郎が振り返ると、6階建ての少し古いビルだった。
黒地に、剥げかかった金の浮き出し文字で「ヨツビシ 渋谷営業所」とあった。
形がどこか手書き風の明朝体だ。
辺りを見回すと、代々木駅の近くだと分かった。
PM3:00 七曜会 渋谷本部
……九郎は、七曜会本部にいる。
家に帰るなり、日曜日から連絡があった。
『いますぐに本部に来て』
言われて、今九郎は宮益坂にある雑居ビルに来た。
九郎には外せぬ用があったが、「日曜日には絶対服従」を振りかざされては逆らうワケにも行かぬ。
相変わらず、室内は薄暗い。
見れば、金曜日が台の上に横たえられている。
その時、地面が揺れた。
「ジ……地震!」
金曜日……その頼りなさそうな若者は、見た目を裏切らず情けない声を上げて飛び起きた。
「震度3か4ってところ。大したことないわ」
金曜日の顔を見て、日曜日が言った。
「でも、おかげで気がついたみたいね……チンチコール」
「チ、チンチコール……こ、ここは?」
「七曜会だよ、金曜日君」
九郎はステッキで地面をトントンと突いた。
内心、少し苛立っている。謎の相手との約束の時間は3時なのだ。現在、3時。然るに、約束の相手は既に待ち合わせ場所に来ていよう。
「無事で良かったわね。ラリンコランラン」
土曜日がいつもの謎のステップを踏む。
「オレ……オレはどうして?」
「屋上で気を失っていたのよ」
「屋上で!?……」
彼は腑に落ちぬ、という顔をしている。
「オレ……確かビルから落とされたのに」
「って、思い込んでいたみたいね」
日曜日が言った。
「オレらが抱え上げたときは、しきりに両手で飛ぼうとしてたな」
「ピーヒョロロって、寝言いってたわ」
火曜日と土曜日は愉快そうに笑った。
「そうか。オレ……」
金曜日は思い出そうとしている。
「大松って大男にココ掴まれて、ビルのてっぺんから吊り下げられて……白峰は目の前で封筒をあけた……青ざめるほどのネタでないと、手を放させるって言った」
「まあ。さすがヤクザ。ずいぶんとドラマチックだこと」
「けど……ヘンだな」
「何が」
「白峰組。どうして、殺さなかったんだろ」
「ばかね」
日曜日は笑った。
「ネタが上等だったからよ」
「ああ……」
「脅迫がきいたのよ。つまり、青ざめるホドのネタだった。あなたに何かしたらアトが恐い。彼は七曜会を恐れたのよ」
……日曜日が何の話をしているかは良く見えないが、どうやら金曜日は白峰組を相手に脅迫したらしい。
白峰組。関東一円を束ねる暴力団である。
「そういえば……写真見て顔色が変わった。脂汗浮かしてた。オレ、怒ったのかと思って、もうダメだと」
「金曜日。やったのよ、あなたは」
日曜日は彼の手を取って立たせた。
「チンチコーレ。最後のターゲットを落としたの。おめでとう、金曜日」
「チンチコーレ」
「チンチコーレ、友よ」
九郎と月曜日も祝福した。
「あ……ありがとう」
金曜日はこちらを見て言った。
彼の表情は満足気だった。
「たった4日で7人制覇。金曜日、あなたはウチの新記録に近いわ」
「日曜日……そ、それじゃ」
「金曜日。私は新記録に近い、と言ったのよ。まだ全て終わったわけじゃないわ」
「え……」
日曜日は言った。
「1万円」
「は?」
「忘れたでしょ。白峰から、もらってくるの」
「あ」
なるほど、彼は気絶していてターゲットから1万円を受け取るのを忘れたらしい。
「行って来て」
「え」
「終わらないでしょ。でないと」
「そ……そんな」
「大丈夫……怖がることはないわ。恐がっているのは、アチラなんだから」
「シッ……シカシ」
「ルール7。中途放棄は極刑」
「……ンなこと……いったって」
その時、扉を開けて水曜日が入ってきた。どうやらこの4日間の間に、金曜日は彼女に惚れたらしい。
「す……水曜日!?」
金曜日は彼女を見て声が裏がえった。
「これを飲んで。栄養剤よ」
そう言って差し出したグラスには謎の液体が入っている。
「水曜日……」
「チンチコーレ、がんばって」
「チッ、チンチコーレ!」
少しは中身を疑えばいいものを、彼は一気にグラスを呷った。
彼は一つ身震いした。グラスの中身は何だったのだろう?
……彼はたちまち騎士(ナイト)になった。
「いッ……行ってきます!」
そう言ってナイトは部屋を出ていった。
なぜか月曜日が追って出て行った。
PM3:30 アン・カフェ
待ち合わせ時間を遅れて、九郎はアン・カフェにいる。
オープンカフェで遅い昼食をとっていた。
離れたところに伐が座っている。怪しい奴が来たら九郎に加勢するためだ。
(待ち合わせの相手は来るだろうか)
その相手とは、九郎に電子メールを送ってきた人物である。
九郎は油断無く周囲を見回したが、ソレらしき人物は見当たらない。
相手は一昨日伐が懲らしめたというスーツの男だったのだろうか?
それは思い過ごしだった。
エスカレーターを降りてくる人影があった。
(あやつか?)
九郎はその男を凝視した。
若い男だった。明るい色のスーツを着込み、髪を中分けにしている。
手にブリーフケースを持っている。あの中に九郎が驚くようなものが入っているのだろうか。
その男は九郎のほうへ歩いてきた。
九郎はその男を見たが、彼は眼を逸らして九郎の横を素通りしてしまった。
人違いだったらしい。
また、エスカレーターを降りてくる人間がいた。
けっこう人が来るので、誰が待ち合わせている人物かは分からない。
今度は白いブラウスの少女が一人で降りてきた。
彼女ではないと思った。
……違った。
彼女はまっすぐ九郎の方へ歩いてくる。
「こんにちは、木曜日さん。遅れてごめんなさい。居て良かった。……わたしのこと、覚えてる?」
……覚えていない。と思ったが、思い出した。
2カ月前に、九郎が七曜会の指令で初めて脅迫した相手、牧野美香だった。
詳しく語っていないが、1日目の午前11時頃の九郎の記憶の反芻を参照していただきたい。
牧野美香は九郎の対面に座った。
彼女は清潔で利発な印象を受ける。
が、九郎に脅迫された内容は……まあ、秘密にしておく。
「なにか注文するかね?」
「後でいいわ。ところで、木曜日さん、いえ、代島九郎さん」
「……なにかな」
なぜ彼女が自分の本名を知っているのだろう。
「中国で殺し屋をやっていたそうですね」
「……なんのことかな」
九郎はしらばっくれた。
「ところで、あの電子メールは君が?」
「ええ、そうです。驚きました?」
「ウ……ウム」
「わたしの父は探偵なんですよ」
「そうだったかな」
……彼女の父は私立探偵で、母は由緒正しい家柄とか。九郎が彼女を脅迫する時に日曜日から渡された封筒に、彼女の個人情報も書き込まれていた。
「わたし、日曜日に昇格したのよ。木曜日さんは?」
「それはおめでとう。……ワシは、まあボチボチだな。そんなことより、ワシをここへ呼び出した理由はなんだ?」
牧野美香は、ハンドバッグから封筒を取り出していった。
「木曜日さんには、お孫さんがいらっしゃいますよね」
「え……ウム」
九郎には死んだ娘の孫がいるが、その夫は再婚し、所在は分からない。
「居場所を知りたくありません?」
「えッ……」
まあ知りたいと言えば知りたいが、もう孫ではないのだ。
が……会って見たくもある。娘が孫を産んで死んだのは6年前……現在では5歳になっていようか。
「まあ……ウム」
九郎は落ち着いた表情をしていたが、内心では明らかに動揺していた。
牧野美香は、なぜ自分の名前や過去を知っているのだろう。
彼女は九郎の前に、封筒を差し出した。
「この中に書いてある処に行けば会えますが……」
九郎は封筒に目を落とし、彼女をを見た。
「条件があると?」
九郎は問うた。
牧野美香は両手を顔の前で合わせた。
「お願い、脅迫のネタ、何か無い?」
彼女は普通の女子高生の態度になった。
六曜日から昇格して、新たに日曜日になった者は、七曜会に7つの脅迫ネタを提供する決まりである。
「脅迫ネタか……そんなモノは君の探偵事務所からくすねればいいではないか」
「そんなこと出来ないわ。ばれたらお父さんに勘当されちゃうもの」
ま、確かに探偵などは職務上クライアントの秘密は厳守である。それを脅迫ネタに使うのはたやすいが、個人情報の漏洩がばれたら信用は無くそう。
下手をすれば社会的に抹殺されることもありえる。
「君はお金が欲しいのか?」
九郎は彼女に問うた。
九郎は七曜会の仕組みをうすうす感付いていた。
要するにネズミ講である。
自分は親になって、子から、孫から、そのまた子からと1万円を徴収すれば、何代目かには大金が転がり込むという仕組みだ。
子、その子、そのまた子は七曜会の場合7人ずつ増えていくから、首尾よく行けば、数代目で1億を越えるのだ。
今、牧野美香は日曜日に昇格し、7人を脅迫して子にしたのだ。その子が子を作り、また子を作る。あとは何もせずに彼女に大金が入ってくる。
が、金蔓となる脅迫ネタが無ければ七曜会が成り立たないから、7人を脅迫して子を作った時点で、七曜会にネタを提供しなければならない。
牧野美香はそれを遂げれば、後は勝手に金が入るのだ。
「お金は欲しいわ。お金がなければ生きられないもの」
牧野美香は言った。
「確かに、金が無ければ生きられぬな」
九郎は言った。
人生は金だけではないと思っているが、金以外だけでもないのである。
その点で、彼女の金に対する欲は正しいといえよう。
「ねっ、何でもいいから、何か無い?」
彼女は懇願した。
「ウーム、脅迫ネタ……思い浮かばぬな」
九郎は考えた。孫の顔は見たいが、人を脅かすのは趣味ではない。
それに、脅迫ネタ、しかも7つもすぐに思い出すのは難しい。
「……ところで」
九郎は牧野美香を正視して言った。
「ワシの個人的なことをどこで調べた?」
「えっ?」
彼女はたじろいだ。
「……しかも、ワシが中国で殺し屋をやっていたなどと」
九郎の目がみるみるうちに鋭くなる。
「その、あの……お父さんの、資料の中に、あなたのことが載ってて……」
彼女は下を向いて言った。
「お父さんの資料?」
九郎は真顔に戻った。
(お父さんの資料……探偵……)
そうか……符合した。
九郎が密航の手助けをした老人、あの「師匠」が九郎の家族について探らせた探偵が、彼女の父だったのだ。
九郎は貨物船の中で師匠に武勇伝を語ったが、それを師匠は探偵に吹いたのだろう。
それを娘に話したとしたら、その娘、牧野美香が九郎の過去を知っているのもうなずける話……だろう。だろうが、どうせ探偵や牧野美香は、九郎の武勇伝を真実と思っていなかったにも違いない。
「……まさかわたしを脅迫した人が、お父さんの探偵依頼書に載ってるなんて思わなかったもの」
彼女はさきほどから言い訳を続けていたらしい。
「ま……いいよ」
九郎は彼女に言った。
「一つ二つならすぐに思いつく」
九郎はいくつかの脅迫ネタを牧野美香に教えた。
その人を社会的に抹殺するような必殺性の高いネタではない。
他人にしてみれば大したことが無く、本人にしてみれば少し悩む程度のヤツだった。
七曜会自体は、大して害のあるものではないと見ていた。
少なくとも、九郎が中国で相手にしてきた悪辣な連中に比べれば。
七曜会は、いま九郎が言ったようなネタでも、案外脅迫になりうるのだ。
どうせ被害額は1万円なので、脅迫されたほうも法に訴えるようなことはしないだろう。裁判にかかる費用のほうが圧倒的に高いのだから。
「……今言ったので足りるかね?」
「ウン、ありがとう。後は何とかするから……じゃ、コレ」
牧野美香は九郎に例の封筒を渡した。
「じゃあ、達者でな。それと、あまり人の道を踏み外すではないぞ」
「わかったわ、じゃあね、木曜日さん」
言い残すと彼女は踵を返し、立ち去った。
それを見送ってから、九郎は封筒に目を落とした。
(……この中に、孫の所在が書いてあるのか……)
九郎は少し考えた。
「なあ仗、なんだったんだ今の」
背後に伐が立っていた。
先ほどから背後の席でこちらを見張ってもらっていたのだ。
再三述べているように、伐には日本語の会話が理解できていない。
「……行かねばならない処が出来た」
「なにッ、敵か?!」
「いや、違う。彼女は何でもない。それより……」
九郎は封筒の口を破った。
彼女は几帳面に綺麗に糊付けしていた。
「今日はここで別れよう。また明日、駅前で会おう」
「……? まあイイや。あんたがそういうなら。じゃあ、また明日な」
「ウム、チンチコール」
「なに、チンチコー……?」
「イヤ、違った、何でもない」
九郎は慌てて首を振った。
「ま、あんたにも事情があるんだろうよ。じゃあな」
伐は九郎のテーブルの上に伝票を置いて去っていった。
九郎はその伝票を見て驚いた。
コーヒー、紅茶、ミックスサンド、シーフードスパゲティ、チョコレートパフェ……随分と派手に食ったものだ。
(……いい年をして!)
九郎は思った。
自分だって自称130歳である。
しかも、かなり色々と注文していた。
PM4:00 渋谷区内のある幼稚園
九郎は、牧野美香にもらった封筒の中を頼りに、ある幼稚園の前にいる。
幼児が庭ではしゃいでいるのが見える。
この中に孫がいるのだ。
(どこだろう……?)
九郎は見回した。
気づくと、保母さんと思われる女性が、不審そうな目をしてこちらを見ていた。
(おっと……いかん。見知らぬじいさんが子供たちを見ていて怪しまれたか)
九郎は素知らぬ顔をして通り過ぎようとした。
牧野美香にもらった資料によると、この幼稚園は4時になると親が子供を迎えに来るシステムだ。
母親が子供を迎えに来ている光景が見える。
孫はもう帰ってしまったのだろうか。
九郎は門の方へ歩いていった。
そこで……見つけた。
幼い頃の娘にそっくりな孫がいた。
(あの子だ!)
九郎は直感した。そしてその直感は正しかった。
「あッ、九郎さん!」
すぐ横で声がした。
振り返ると、かつて娘の夫だった男が立っている。
「やあ、マコト君。今お迎えかい?」
「……ええ。九郎さんは、どうしてこちらに?」
この、もと義子は、九郎のことを「九郎さん」と呼んでいた。
「今は渋谷区内に住んでいるのでな。通りかかったら孫を見つけてな」
それは出任せである。
「……そうですか、僕の妻が今、2人目を出産中で」
彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。
彼がいう「妻」とは、彼の2番目の妻のことを指す。
「そうか、それはおめでとう」
九郎は言った。
「ええ。でも、これから色々物入りなんでね。僕は大変です」
「……そうか」
九郎は昔の義子が手を繋いでいる孫娘の方を見た。
彼女は父親の後ろに隠れながら、
「……このおじちゃん、誰?」
と、問うた。
「ああ、この人は」
「……お父さんの昔の学校の先生だよ」
九郎は微笑んで言った。
「九郎さん……」
「まあいいから。じいさんは何人もいらぬだろう」
九郎は昔の義子の方を見て言った。
「……はあ」
彼は曖昧に頷いた。
「……まあ、頑張りたまえ。それでは達者でな」
九郎はかつての義子の背中を叩いて、踵を返した。
「それじゃ九郎さん、ごきげんよう」
その声を背中に受けながら、九郎はその場を去った。
……孫の顔を見られれば満足だった。
(彼は九龍の家族のようになって欲しくないものだ)
九郎は自宅の方へ歩いていった。
(……幸福を掴むがいいさ、お若いの)
九郎はかつて義理の息子だった男に心の中で言った。
PM5:00 繁華街の将棋クラブ
九郎は将棋仲間に別れを言いに来た。
しばらく来られぬと残しに来た。
……相変わらずカウンターにレジ係はいない。
中で将棋を指しているのである。
「王手じゃ!」
「ムムム……」
などと、家にいても暇な老人たちがいつもと同じように将棋を指している。
平和な光景だった。
そしてしばらくこの光景ともおさらばになろう。
短くて一週間、長くて……どのくらいだろう。
「やあ、九郎さん。最近顔を見なかったねえ」
好敵手の五十嵐だった。
彼ともしばらくお別れである。
「五十嵐さん、実はな……」
「まあ座れ。一回やろう」
言い出せぬまま、九郎は五十嵐の対面に座った。
PM6:00
「王手!」
五十嵐は九郎にとどめの一手を指した。
「しまった……負けたわ」
「……どうしたんだい九郎さん、いつものキレが無いね」
「……ウム、実はな、ワシはしばらく旅行に出ようと思ってな」
「えッ、こりゃまたなんで?」
「エッ、まあ、遠くに会わなきゃならん人がいてな」
「ソレは……ひょっとしてコレか? ヒヒヒ」
五十嵐は小指を立てた。
「……ウム、まあ、そんなところかな」
「いやあ、九郎さんも隅に置けないねえ!」
「ほんとうかい、九郎さん、昔別れた女の処へ行くって?」
近くの老人が身を乗り出してきた。
「エッ、いや、厳密には違うのだがな」
「……なんだ」
その老人はとっとと元の対局に戻った。
「で、いつごろ戻るんだい?」
五十嵐は訊ねた。
「分からん。早くて一週間位で戻るがな」
「まあ、そうですかい。ライバルがいなくなって寂しくなりますな」
五十嵐は言った。
「今日は呑みに行きましょうよ、皆で、パーッと」
「いいですな。しかし出立が明日なので、あまり夜遅くまではお付き合い出来ませんがな」
「なんと、明日? それはまた急な」
「急ぎの用事でしてな」
「……で、どちらまで?」
九郎は少し考えてから、
「……ウーン、ちょっと北海道まで」
「北海道! イイですなあ。お土産、頼みますぞい」
「エッ、ああ……はい」
嘘を言って後悔した。中国で北海道土産が買えようか。
「じゃあ今から行きましょう。呑みに」
「……それじゃそうしますか」
九郎と五十嵐、呼んでもいないのにそこにいた全員が立ち上がった。
「行きましょう、九郎さん」
「アンタのおごりでな!」
調子のいいことを言いながら、九郎たちは将棋クラブを出た。
一人取り残されたのは、オーナーだった。
「待ってくれよ、ワシを置いてかないで!」
彼は慌ててシャッターを下ろし、九郎たちについてきた。
PM7:00 繁華街の飲み屋
老人たちは酔っていた。
「嫁がなんだーッ、あんなの怖くないぞー!」
「ワシの余命はあといくらぐらいあるんじゃろうな……」
「まあ、生きていればいいこともある」
勝手に酔って勝手なことをほざきあっていた。
店内のサラリーマンがいい迷惑である。
「兄さん、モツ煮込みくれ」
「……あいよ!」
小皿にとられた煮込みが五十嵐の前に置かれた。
「すまんがワシにも」
九郎も注文した。
「しかし九郎さん、あんた、昔は何をやっていたんだい?」
五十嵐は赤い顔で九郎に問うた。
「前に話したことはなかったかな」
九郎は出された煮込みを口にいれながら言った。
「……いや、ないよ」
五十嵐は寝ぼけた目で言った。
早くも酔いが回っているらしい。
「この際話しておくかね」
九郎は言った。
「昔、五十嵐さんも中国へ行ったでしょう」
九郎は戦争のことを言っている。
「イヤ、ワシは中国じゃなくて、えーっと、フィリッピンかな」
「そうですか……大変でしたな」
「イヤイヤ、で、九郎さんは中国でどうなさいました?」
「ワシは戦争が終わっても日本に帰れなかったんですよ」
九郎は五十嵐の方を見ずに言った。
「……ほう?」
「それで、ワシは日本へ帰るために、人の道を踏み外して生きてきたんです」
九郎は、漠然とそう言った。
「なるほど……ご苦労なさったんですな」
何がなるほどなのか分からないが、五十嵐は合点して頷いた。
「いやあ、すっかり酔ってしまいましたな。そろそろ行きますか」
「そうしましょう。男は引き際が肝心」
五十嵐は九郎が密航してきた時の「師匠」と同じことを言った。
PM7:20
九郎たちは繁華街の入り口に来た。
相変わらず、若者たちが「今が楽しければいい」……という顔で闊歩している。
その光景が、九郎は九龍城砦と似ているような気がした。
見た目にはこちらの方が豊かである。
が、それは物質的な豊かさというまやかしであり、真実の豊かさとは違う気がする。
この渋谷には全てがそろっているが、何も無いのである。
本質的なものを見失った人間が多い。
かといって九郎がそれを知っているかと聞かれれば、自信が無い。
ただ、九龍城砦とこの渋谷の共通点を見出だすなら、人々は何かに抑圧されて生きている。
金と権力……それに屈している。
それらを持たざるものが自分で獲得できるささやかな幸福にすがって生きるなら、それは正しい生き方では無いのではないだろうか。
また、金と権力だけで得られる幸福なら、それも正しい生き方では無いと思う。
全ての人間が幸福になれる権利があるかと言えば、それは無いと思う。
自分で掴める限りの幸福で満足なら、しかしそれも正しい生き方なのかもしれない。
だが、それで本当に満足なのだろうか。
人間は欲を持っており、それを理性で抑制している。
その欲望の全てが叶うまでに、必ず他人を踏み台にしなければならないだろう。
踏み台にされた人間は、果たして幸福だろうか?
平等と自由は共存しえない。
平等は自由に富や力を得ることを抑制し、自由は全ての人間が平等に生きることを否定する。
九龍城砦と、渋谷……この二つの都市は、似ていた。
九龍を支配するのはマフィアだし、それに使われて生きる者がいる。
渋谷には松涛に住む者もいてホームレスも住んでいる。
金のある九郎と、家族のいる五十嵐。
この隣り合って歩く二人は、お互いに満たされぬ思いで生きている。
……九郎は思った。
(何かが欠けているから……人は生き続けるのか)
欠けたものを得るために。
九郎は空を見上げた。
街のネオンで、星は見えなかった。
5日目につづく
九郎を捜しているという者のことを考えてみた。
心当たりはなくもないが、なにぶん中国で人を殺しまくってきた。誰に恨みを買ったかなど断定できぬ。
旧友、伐は、その相手を「寧安喰肉公司」の社長であるらしいと言った。
それは何者だろう?
昨日、喫茶店を出た時から九郎と伐を尾行してきた男も関係があるのだろうか。
その時、
誰かが近づいてくる気配を察知した。
自分に用があるらしい。気配で分かった。
九郎は座った姿勢を崩さず、臨戦体勢をとった。
「木曜日」
後ろから声をかけられた。
「ん、なんだ?!」
九郎は拍子抜けしたような顔をした。
振り返ると、日曜日が立っていた。
よくよく考えればこの気配は日曜日のものと断定できたものの、過度に反応した自分が恥ずかしい。
「なんだ、じゃないわ。昨日3時にアン・カフェに来てって言ったじゃないの」
「えっ?」
(……あのメールは日曜日が送ってきたものか?)
「どうしたの。そんなハトが豆鉄砲を食らったような顔をして。アラ、いつもは上げる方だっけ、ウフフ」
九郎は渋面になった。
「どうしたの……怖い顔をしないで。確かに突然呼びつけたのは悪かったけど」
「あのメールは……お主が?」
九郎は訊ねた。
「メール……お手紙のこと? ええ、そうよ」
日曜日は言った。
(そうだったのか……ワシはてっきり。イヤ、待てよ!)
「どうしたの? コロコロと表情を変えて。睨めっこ?」
「イヤ……お主、どうしてワシに本名宛てでメールを送った?」
「本名? 知らないわ。お手紙にはきちんと『木曜日様』って書いてあったじゃない?」
「……『木曜日様』?」
だとすれば九郎はそのメールを受け取っていない。
(アッ……『お手紙』?)
日曜日は「電子メール」のことを言っていたのではなく、アナログの「手紙」のことを言っていたのだ。
そういえば、昨日は伐と一緒に自宅の門をくぐったが、郵便受けの中は見ていないことに気付いた。
「そうか……ワシはお主がワシ宛てに寄越した手紙は見ておらぬ」
「えっ、だってさっき、お手紙がどうとか言ってたじゃない」
「いや、それは電子メールのことで、お主がの手紙のことじゃないんだ。別物だ」
「アラ、じゃアレは見ていなかったのね?」
「ウム……ところでなぜ、電話で呼び出さなかった?」
「電話したわ。でも範囲外だったの」
携帯電話のことを話している。
「おかしいな……昨日は電波の届かぬ処にいたかな?」
「電源が切れていたとか、バッテリーがなくなっていたとか?」
「それはない。いつでも使えるようにしてある」
「変ね……まあいいわ。とにかくその指令は別の人にやってもらいましたからいいんですが」
「そうか……すまぬな」
「いいえ。まずは報告まで。それじゃ、チンチコール」
「ウム、チンチコール」
日曜日は去っていった。
(あのメールは七曜会じゃないのか。では誰が)
……送ってきたのか。
少し考えたが、結局ソレらしい相手は思い浮かばなかった。
九郎に名指しでメールを送り付けたのは何者なのだろう。
AM10:00 九郎の自宅
伐との約束の時間まで少しある。
九郎は一度、自宅に戻っていた。
郵便受けを確認したが、日曜日の言っていた手紙らしき物は無かった。
既に日曜日の手で回収されたのだろう。
九郎は寝室に入り、障子を開けた。
松の木が日を浴びているのが見えた。
九郎はパソコンの前に座り、電源を入れた。
九郎のコンピュータは、常に電話線と繋がっている。
『メールが1通届いています』。
また画面にこのメッセージが出た。
「オッ?!」
九郎は即座にメールを開いた。
『拝啓 代島九郎様
昨日は会えずに残念です。
今度はいつお会い出来ますか?
私のメールアドレスは……』
そこに、差出人のEメールアドレスが書いてあった。
しかし、名はまた書かれていない。
九郎は通信ソフトの上に、エディタを開いた。
これで通信用の文章を書ける。
『前略、代島九郎です。
いきなり失礼ですが、あなたは何者でしょうか。
私の知っている人物なら、最初から名乗ってくださればよろしいのに。
お会いしたいとおっしゃるのなら、明日、10月14日の午後3時、
あなたの指定したアン・カフェにてお待ちいたします。 草々』
それをセーブし、また通信ソフトの画面に戻して、相手のアドレスに送り付けた。
明日、という指定は少々先のことのように思えるが、メールを送って「今日会いましょう」ではさすがに不躾というものだ。
それに、今日は伐とまた会う約束を取り付けてある。
(さあ、正体を拝んでくれようぞ)
九郎は鋭い目つきで、『メールを送付しました』というメッセージを凝視していた。
AM10:30
そろそろ出かける準備をしようと思った。
九郎はステッキを保管してある部屋へ行き、今日手に持つステッキを選んだ。
ちなみに九郎の300本に及ぶステッキはコレクションで、普段持ち歩くステッキは、全く同じものを7本持っており、曜日によって使い分けているのである。
九郎がステッキを手に取り、フィット感を確かめていた時、チャイムが鳴った。
ピンポーン!
九郎は玄関の方へ歩いていった。
扉ごしに見える男のシルエットが、
「宅急便でーす!」
と言った。
九郎は玄関の靴を入れる棚の上のハンコを手にとり、扉を開けた。
「ご苦労様」
九郎はその宅急便を運んできた男の持っていた送付状にハンコを押すと、段ボール箱を受け取った。
直径が3~40センチくらいの長方形の箱で、中身は軽いものだった。
趣味でやっている懸賞にでも当たったのだろうか。
宅急便を運んできた男はハンコの押された送付状をズボンの後ろのポケットにしまう動作をした。
(ン?)
九郎は、逆光でよく見えなかったが、その男の目が怪しく光るのを視界の端で捉えた。
が、遅かった。
男は後ろからスプレーを取り出し、自らは鼻をつまんで九郎に向かって放った。
「フムッ!」
九郎は不覚にもそれを吸い込んでしまった。
男は、九郎が息を吸う瞬間を狙ってスプレーを吹きかけたのだ。
(なんだ、これは……)
九郎の視界は揺らいだ。
焦点がぼやけ、視界は空に向かっていた。
立っていることが出来なくなり、九郎はその場に尻もちをついた……と思ったら、即座に意識を失った。
4日目につづく
10月14日 土曜日、昼ごろと思われる(正確な時刻は不明)場所も不明
すべてのことには、必然性があると、五台山の老師は言った。
偶然の一致に見えるものも、なにか神秘的な力によって引き合わされるのだという。
信じられないことだが、思い当たる節もある。
予感が的中する……などだ。
が、人は無意識にいつも「こうなればイイなあ」というような願望を持っている。
その内のほんのいくつかが実現したからといって、偶然に物事が一致したとはいえないのかもしれない。そのほかの無数の予感は、実現していないからである。
予感が外れたことはすぐ忘れ、的中したときのことだけが印象に残っているから、偶然の一致を否定しないのだ。
『そんな気がする……』
という思いは、神秘的な力で引き合わされるのではなく、やっぱり偶然なのであろう。
が、人生には偶然が運命を変えることもある。
だとすれば、その人にとってそれは『必然』ということになろうか。
九郎は暗闇の中で目が覚めた。
頭が痛い。二日酔いの時のような気分の悪さだ。
が、九郎には二日酔いの経験は無く、ただ得体の知れぬ気分の悪さがのしかかる。
九郎は酒に強く、いくら呑んでも二日酔いにならない。
肝臓がとても強いらしい。
(どこだ……ここは?)
九郎は辺りを見回した。
もちろん何も見えない。
どうやら何者かに拉致されたようだが、誰が、何のために九郎をこんな場所に監禁しているのかは分からなかった。
服装は昨日家を出たときのままだったが、財布と携帯電話、ステッキは無かった。
九郎は床に触れた。
長い年月を経てすり減った板張りの床だった。
人が使っていたらしい。
手探りで室内を探ってみたが、6畳ほどの四角い部屋で、九郎の方向感覚では北側に木の扉があった。
体内磁石がよく機能している人は、暗闇でも正確な方位が分かる。
ただ、磁場が狂っている場所にいる場合、方向感覚は掴めない。
富士の樹海などは、磁場が乱れていることで有名だ。
毎年、熟練の探検家でも何人か遭難してしまう。
扉は木製で把手はなく、蝶番も向こう側に打ち付けてあるようで、こちらから取り外すことはできなくなっている。
すき間には目張りがしてあるらしく、光も入ってこない。
そして、何も聞こえない。
地下室だろうか。やたら静かだ。
耳鳴りが鳴っている。
(参ったな……)
九郎は暗闇の中でも落ち着き払っている。普通の精神の持ち主なら、怯えるか、発狂しているところだ。
九郎は気孔で気の流れを読んでみた。
誰かいれば、扉の向こうに気配があるはずだ。
それが……無い。
ということは無人なのだろうか。
九郎は扉を蹴破ることにした。
外に赤外線センサーがあって九郎が飛び出した瞬間に機関銃が火を吹くかもしれないが、その時はその時だ。
九郎は両手を開き、腹に力をためた。気を練って足腰を強めるのだ。
「フンッ!」
九郎は扉を蹴った。
が……破れない。
「ム……」
踵に痛みが走った。
もう一度扉を押してみた。
重い。
(ただの木ではないな……中に鉄板でも入っているのか)
だとすれば九郎の手に負えない。
もう一度室内を歩き回ってみた。
電灯のスイッチが扉の横にあったが、もちろんつかない。
天井に何かあるかもしれないと思って飛び上がってみたが、天井に手は届かなかった。
電灯はむしり取られているらしい。もしくは初めから電灯などなかったのか。
九郎は少し焦った。
(今何時だろう……それにワシをここへ閉じ込めたのは何者だ?)
口の中の入れ歯が気持ち悪くなっているから、かなりの時間が経っているのは確かだ。
入れ歯は夜寝る前に洗浄液につけなければならない。
膀胱は破裂しそうだ。
(マズイな……さすがに生理現象までコントロールすることは出来ぬか)
九郎は部屋の隅で用を足すことにした。
こんなところで小便をしようものなら臭気が室内にこもるのは明らかだが、もとよりこの部屋は得体のしれない匂いで満ちていた。
用を足した九郎は、扉の前に立って考えた。
(扉は破れなくても、壁なら行けるか……?)
壁は普通の木だろう。
だが、試みて分かった。
壁は当然ながら頑丈に出来ている。中にセメントでも流し込んであるに違いなかった。
(参ったなァ……)
九郎は痺れる足をさすりながら思った。
しかし何もせずに座っていては本当に気が狂う。
(そうだ!)
思いついた。
扉のすぐ横のスイッチを破壊して、そこから壁の穴を広げよう。
スイッチの回りの壁はコードを走らせなければならないから、空洞のはずだ。
九郎は扉の横に立ち、スイッチを殴りつけた。
が、なかなか頑丈に出来ているらしい。少しへこんだようだが、壊れはしなかった。
周囲の木を削って引きずり出すか……しかしどうやって?
九郎は考え、入れ歯を外した。
入れ歯の中身はプラチナで出来ている。
(コレでやってみよう)
九郎は入れ歯の犬歯を根元から折った。
それを使って壁をひっかいてみた。
細い傷がついた。
スイッチを削り出すまでには相当時間がかかるだろうが、なにもしないよりましというものだ。
九郎は入れ歯で壁を削り続けていた。
数時間後(正確な時刻は不明)
気を集中して作業をしていたのでどのくらいの時間が経ったのかは分からないが、3時間ほど経過していようか。
壁を叩いた感触では、スイッチの回りは案の定空洞になっているようだが、その厚さ数ミリの木の板が貫通できない。
腹が減った。
誰も、食事も運んでこぬ。
(ワシを飢え死にさせる気だろうか……)
少し弱気になっていた。
その時だった。
カチャン!
扉のほうから、何かが外れる音がした。
九郎はそちらを見た。
外した入れ歯は口に戻し、犬歯は懐にしまった。
ギギ……。
扉は重い音を立てて開き、外から白熱灯とおぼしき弱い光が差し込む。
九郎にとっては眩しい光だったが。
(何だ……?)
人影が入ってきた。
背が高く、丸眼鏡をかけている。
表情はよく見えない。光が眩しく、人物に焦点が合わないのだ。
「Perdon? Are you Kuro Daishima?」
英語だった。九郎には意味が分からない。
が、自分の名と、語尾の上がり口調から、自分が代島九郎かと訊ねられたらしい。
「ノー、ダイシマ、イエス、ダイジマ」
自分の名は「ダイシマ」ではなく、正しくは「ダイジマ」だと言おうとしたのだが、文法があっているかどうかは分からない。
……と、いうか間違っている。
シルエットの男は困ったような口調で何事かを喋り出したが、九郎には何をいっているのか分からない。
九郎は困った。
「ミー、イングリッシュ、ノー」
九郎は「私は英語が分からない」と言ったつもりである。
男は絶望的とも取れる口調で、
「オーゥ、ソーリィー(Oh,Sorry)!」
と言った後、また訳の分からないことを喋り、部屋を出ていった。
扉は開いたままで、外を見るとまた部屋があり、裸電球がぶら下がっている殺風景な部屋だった。
荒削りの木を組んで作られたテーブルと椅子が真ん中にあり、水の入ったコップと食べかけのパンが転がっていた。
(何だ……ここは?)
九郎は思った。
中国でこんな光景を見たことがある……ここは見張りが控える部屋で、さっきまで九郎がいたような部屋に奴隷として売られる人間が詰め込まれているのだ。
ここはどこだろう。
日本なのか、それとも……。
その時だった。
「代島九郎さん、中国では『仗』と呼ばれた男」
九郎の左手から声が聞こえた。日本語だ。
見れば、そちらに扉があり、黒いスーツの男が入ってきたところだった。
黒いシルクハットを手にもち、深々と頭を下げた。
スキンヘッドで、四角いサングラスをかけていた。
「アンタ……何者だ、ワシをどうする気だ?」
九郎は男を睨んで問うた。
男の背後、扉の向こうに階段があり、上のほうから白い光が見えていた。外光か、蛍光灯の光だ。
「怪しい者ではあり」
「吐(ぬ)かせ、怪しいわッ!」
九郎は怒鳴った。空腹と、口中の気持ち悪さでイラ立っている。
願わくば、入れ歯を洗いたい。
「貴様は何者だ、寧安喰肉公司の手先か!」
「は、ニンアン……?」
「ワシをどうするつもりだ!」
男は少し戸惑ったような表情で、
「あなたは何か勘違いをしていらっしゃるのでは……?」
「たわけッ、ならばなぜワシをこんな場所へ閉じ込めた?!」
九郎はさっきの部屋を指差していった。
「それは、その……手違いでして。まことに申し訳ございません」
「……手違い?」
九郎は渋面で問うた。
「イヤ、その、我々は、あなたを保護するために遣わされてきたのですが……」
男はハゲ頭をハンカチで拭いている。
(……どこが保護だ!)
苦労は呆れた。
「バカが先走って、あなたを拉致した上に閉じ込めてしまったのです」
(……ン?)
よく見たら、男の頬が腫れている。
「俺がやらせたんだ、仗」
中国語だった。
階段を降りてきたのは伐だった。
黒いランニングとジーンズ姿の伐は、
「すまねえな、迷惑をかけた」
といって詫びた。
「何の真似だ、伐」
「順を追って話そう。おととい喫茶店から尾けてきたスーツの野郎が、あんたの家の前をウロついているのを見つけてな、ちょっと脅かしたら正体を表しやがった」
「なに?」
「奴は寧安の手先だった。あんたの首を狙っているらしい。なんでも寧安の野郎は、あんたに親父を殺されたとかで、相当恨んでるらしい」
「……なるほどな」
「覚えてるか、『隻眼の麒麟』の息子だ」
(……あの時の!)
九龍城砦で、「隻眼の麒麟」の首を刎ねた時、その屍にしがみついて泣いていた妻子を思い出した。
あの時、あの子は5~6歳と見えたから、現在では40過ぎくらいだろうか。
運命は皮肉だ。あの子は九龍城を出て、本土で成功者になり、九郎の正体と居場所を執念で突き止め、殺し屋を送り込んできていたのだ。
それだけ「隻眼の麒麟」は妻子に愛されていたのだ。子が、父親の仇討ちをしようとしている。
「……しかし伐、これは何の真似だ?」
九郎を拉致し、監禁したことを指す。
しかも随分と厳重な部屋だった。
「……すまねえ、こいつから聞いたかも知れねえが、バカが先走りやがってな」
伐が黒スーツを指差すと、その男はビクッとした。
頬の痣は、おそらく伐にやられたのだろう。
「……彼らは何者だ?」
九郎は問うた。
「プロフェッショナルさ」
「……プロフェッショナル?」
「ああ。世界を股にかける貿易会社、ヨツビシのな」
「ホー……しかしなぜ、貿易会社に彼らのような胡散臭い者が?」
「ヨツビシは裏の商売にも手を染めているのさ」
「なるほど」
九郎も聞いたことがある。ヨツビシは外国へ兵器を輸出しており、「死の商人」と呼ばれていることを。
伐はヨツビシに繋ぎを持っていたらしい。
九郎のことを調べさせた日本企業というのも、ヨツビシのことだろう。
「昨日の正午に会う約束をしていたが、間に合わないかもしれないと思ってな。ヨツビシに頼んであんたを連れ出してもらおうと思ったんだが、まさか実行者が勘違いするとはな。言葉が通じていなかったらしい。迂闊だった」
「……そうか」
九郎は伐を責めまいと思った。
「で、どうする? 中国へ行って肉屋に話をつけてくるか?」
伐は言った。話をつけるというのは、こらしめに行くという意味もあるのだろう。
「ウーム、確かにこのまま殺し屋を送り込まれ続けるのは迷惑だし、あちらさんの財布の都合もあろうしな」
……つまり、殺し屋を次々と雇い続けてもらうのは気の毒というものだ。
しかも、銃なしで九郎の首を取れるような殺し屋が、この世界に何人いようか。
いうまでもなく、日本で銃はご法度である。
必然、刃物での勝負ということになろうが、肉弾戦で九郎を負かすほどの相手は、そうそう見つからない。
伐でさえ、九郎に勝てないのだ。
「よし、中国へ殴り込みに行くか?」
九郎は言った。面倒なことになる前に、話をつけておこう。
「決まったな。しかし、俺の船は明後日の昼なんだ。明日の夜8時にはここを後にしなけりゃならない。いいか?」
「……まあ、いいだろう。ではいつ待ち合わせる?」
「明日の午後……いや、そうだな、8時に渋谷駅に来てくれりゃいいだろう」
「ウム」
「で、今日はこれからどうする?」
「今、何時だ?」
「午後2時ってところだ」
「帰って旅支度をしなけりゃならんし、今日はこれから待ち合わせがある。この分なら間に合いそうだ」
「……分かった。じゃあ送って行こう」
2人は部屋を出て、階段を上がっていった。伐は突き当たりの扉を開けた。
「ここは……」
どこかのオフィスのようだった。蛍光灯はすべて点いているが、人はいない。
今日は土曜日だった。休業日なのだろう。
「どこだ、ここは……?」
九郎は室内を見回した。
後ろの扉を振り返ると、「機密文書保管室」とあった。
二人はそのビルから出た。九郎が振り返ると、6階建ての少し古いビルだった。
黒地に、剥げかかった金の浮き出し文字で「ヨツビシ 渋谷営業所」とあった。
形がどこか手書き風の明朝体だ。
辺りを見回すと、代々木駅の近くだと分かった。
PM3:00 七曜会 渋谷本部
……九郎は、七曜会本部にいる。
家に帰るなり、日曜日から連絡があった。
『いますぐに本部に来て』
言われて、今九郎は宮益坂にある雑居ビルに来た。
九郎には外せぬ用があったが、「日曜日には絶対服従」を振りかざされては逆らうワケにも行かぬ。
相変わらず、室内は薄暗い。
見れば、金曜日が台の上に横たえられている。
その時、地面が揺れた。
「ジ……地震!」
金曜日……その頼りなさそうな若者は、見た目を裏切らず情けない声を上げて飛び起きた。
「震度3か4ってところ。大したことないわ」
金曜日の顔を見て、日曜日が言った。
「でも、おかげで気がついたみたいね……チンチコール」
「チ、チンチコール……こ、ここは?」
「七曜会だよ、金曜日君」
九郎はステッキで地面をトントンと突いた。
内心、少し苛立っている。謎の相手との約束の時間は3時なのだ。現在、3時。然るに、約束の相手は既に待ち合わせ場所に来ていよう。
「無事で良かったわね。ラリンコランラン」
土曜日がいつもの謎のステップを踏む。
「オレ……オレはどうして?」
「屋上で気を失っていたのよ」
「屋上で!?……」
彼は腑に落ちぬ、という顔をしている。
「オレ……確かビルから落とされたのに」
「って、思い込んでいたみたいね」
日曜日が言った。
「オレらが抱え上げたときは、しきりに両手で飛ぼうとしてたな」
「ピーヒョロロって、寝言いってたわ」
火曜日と土曜日は愉快そうに笑った。
「そうか。オレ……」
金曜日は思い出そうとしている。
「大松って大男にココ掴まれて、ビルのてっぺんから吊り下げられて……白峰は目の前で封筒をあけた……青ざめるほどのネタでないと、手を放させるって言った」
「まあ。さすがヤクザ。ずいぶんとドラマチックだこと」
「けど……ヘンだな」
「何が」
「白峰組。どうして、殺さなかったんだろ」
「ばかね」
日曜日は笑った。
「ネタが上等だったからよ」
「ああ……」
「脅迫がきいたのよ。つまり、青ざめるホドのネタだった。あなたに何かしたらアトが恐い。彼は七曜会を恐れたのよ」
……日曜日が何の話をしているかは良く見えないが、どうやら金曜日は白峰組を相手に脅迫したらしい。
白峰組。関東一円を束ねる暴力団である。
「そういえば……写真見て顔色が変わった。脂汗浮かしてた。オレ、怒ったのかと思って、もうダメだと」
「金曜日。やったのよ、あなたは」
日曜日は彼の手を取って立たせた。
「チンチコーレ。最後のターゲットを落としたの。おめでとう、金曜日」
「チンチコーレ」
「チンチコーレ、友よ」
九郎と月曜日も祝福した。
「あ……ありがとう」
金曜日はこちらを見て言った。
彼の表情は満足気だった。
「たった4日で7人制覇。金曜日、あなたはウチの新記録に近いわ」
「日曜日……そ、それじゃ」
「金曜日。私は新記録に近い、と言ったのよ。まだ全て終わったわけじゃないわ」
「え……」
日曜日は言った。
「1万円」
「は?」
「忘れたでしょ。白峰から、もらってくるの」
「あ」
なるほど、彼は気絶していてターゲットから1万円を受け取るのを忘れたらしい。
「行って来て」
「え」
「終わらないでしょ。でないと」
「そ……そんな」
「大丈夫……怖がることはないわ。恐がっているのは、アチラなんだから」
「シッ……シカシ」
「ルール7。中途放棄は極刑」
「……ンなこと……いったって」
その時、扉を開けて水曜日が入ってきた。どうやらこの4日間の間に、金曜日は彼女に惚れたらしい。
「す……水曜日!?」
金曜日は彼女を見て声が裏がえった。
「これを飲んで。栄養剤よ」
そう言って差し出したグラスには謎の液体が入っている。
「水曜日……」
「チンチコーレ、がんばって」
「チッ、チンチコーレ!」
少しは中身を疑えばいいものを、彼は一気にグラスを呷った。
彼は一つ身震いした。グラスの中身は何だったのだろう?
……彼はたちまち騎士(ナイト)になった。
「いッ……行ってきます!」
そう言ってナイトは部屋を出ていった。
なぜか月曜日が追って出て行った。
PM3:30 アン・カフェ
待ち合わせ時間を遅れて、九郎はアン・カフェにいる。
オープンカフェで遅い昼食をとっていた。
離れたところに伐が座っている。怪しい奴が来たら九郎に加勢するためだ。
(待ち合わせの相手は来るだろうか)
その相手とは、九郎に電子メールを送ってきた人物である。
九郎は油断無く周囲を見回したが、ソレらしき人物は見当たらない。
相手は一昨日伐が懲らしめたというスーツの男だったのだろうか?
それは思い過ごしだった。
エスカレーターを降りてくる人影があった。
(あやつか?)
九郎はその男を凝視した。
若い男だった。明るい色のスーツを着込み、髪を中分けにしている。
手にブリーフケースを持っている。あの中に九郎が驚くようなものが入っているのだろうか。
その男は九郎のほうへ歩いてきた。
九郎はその男を見たが、彼は眼を逸らして九郎の横を素通りしてしまった。
人違いだったらしい。
また、エスカレーターを降りてくる人間がいた。
けっこう人が来るので、誰が待ち合わせている人物かは分からない。
今度は白いブラウスの少女が一人で降りてきた。
彼女ではないと思った。
……違った。
彼女はまっすぐ九郎の方へ歩いてくる。
「こんにちは、木曜日さん。遅れてごめんなさい。居て良かった。……わたしのこと、覚えてる?」
……覚えていない。と思ったが、思い出した。
2カ月前に、九郎が七曜会の指令で初めて脅迫した相手、牧野美香だった。
詳しく語っていないが、1日目の午前11時頃の九郎の記憶の反芻を参照していただきたい。
牧野美香は九郎の対面に座った。
彼女は清潔で利発な印象を受ける。
が、九郎に脅迫された内容は……まあ、秘密にしておく。
「なにか注文するかね?」
「後でいいわ。ところで、木曜日さん、いえ、代島九郎さん」
「……なにかな」
なぜ彼女が自分の本名を知っているのだろう。
「中国で殺し屋をやっていたそうですね」
「……なんのことかな」
九郎はしらばっくれた。
「ところで、あの電子メールは君が?」
「ええ、そうです。驚きました?」
「ウ……ウム」
「わたしの父は探偵なんですよ」
「そうだったかな」
……彼女の父は私立探偵で、母は由緒正しい家柄とか。九郎が彼女を脅迫する時に日曜日から渡された封筒に、彼女の個人情報も書き込まれていた。
「わたし、日曜日に昇格したのよ。木曜日さんは?」
「それはおめでとう。……ワシは、まあボチボチだな。そんなことより、ワシをここへ呼び出した理由はなんだ?」
牧野美香は、ハンドバッグから封筒を取り出していった。
「木曜日さんには、お孫さんがいらっしゃいますよね」
「え……ウム」
九郎には死んだ娘の孫がいるが、その夫は再婚し、所在は分からない。
「居場所を知りたくありません?」
「えッ……」
まあ知りたいと言えば知りたいが、もう孫ではないのだ。
が……会って見たくもある。娘が孫を産んで死んだのは6年前……現在では5歳になっていようか。
「まあ……ウム」
九郎は落ち着いた表情をしていたが、内心では明らかに動揺していた。
牧野美香は、なぜ自分の名前や過去を知っているのだろう。
彼女は九郎の前に、封筒を差し出した。
「この中に書いてある処に行けば会えますが……」
九郎は封筒に目を落とし、彼女をを見た。
「条件があると?」
九郎は問うた。
牧野美香は両手を顔の前で合わせた。
「お願い、脅迫のネタ、何か無い?」
彼女は普通の女子高生の態度になった。
六曜日から昇格して、新たに日曜日になった者は、七曜会に7つの脅迫ネタを提供する決まりである。
「脅迫ネタか……そんなモノは君の探偵事務所からくすねればいいではないか」
「そんなこと出来ないわ。ばれたらお父さんに勘当されちゃうもの」
ま、確かに探偵などは職務上クライアントの秘密は厳守である。それを脅迫ネタに使うのはたやすいが、個人情報の漏洩がばれたら信用は無くそう。
下手をすれば社会的に抹殺されることもありえる。
「君はお金が欲しいのか?」
九郎は彼女に問うた。
九郎は七曜会の仕組みをうすうす感付いていた。
要するにネズミ講である。
自分は親になって、子から、孫から、そのまた子からと1万円を徴収すれば、何代目かには大金が転がり込むという仕組みだ。
子、その子、そのまた子は七曜会の場合7人ずつ増えていくから、首尾よく行けば、数代目で1億を越えるのだ。
今、牧野美香は日曜日に昇格し、7人を脅迫して子にしたのだ。その子が子を作り、また子を作る。あとは何もせずに彼女に大金が入ってくる。
が、金蔓となる脅迫ネタが無ければ七曜会が成り立たないから、7人を脅迫して子を作った時点で、七曜会にネタを提供しなければならない。
牧野美香はそれを遂げれば、後は勝手に金が入るのだ。
「お金は欲しいわ。お金がなければ生きられないもの」
牧野美香は言った。
「確かに、金が無ければ生きられぬな」
九郎は言った。
人生は金だけではないと思っているが、金以外だけでもないのである。
その点で、彼女の金に対する欲は正しいといえよう。
「ねっ、何でもいいから、何か無い?」
彼女は懇願した。
「ウーム、脅迫ネタ……思い浮かばぬな」
九郎は考えた。孫の顔は見たいが、人を脅かすのは趣味ではない。
それに、脅迫ネタ、しかも7つもすぐに思い出すのは難しい。
「……ところで」
九郎は牧野美香を正視して言った。
「ワシの個人的なことをどこで調べた?」
「えっ?」
彼女はたじろいだ。
「……しかも、ワシが中国で殺し屋をやっていたなどと」
九郎の目がみるみるうちに鋭くなる。
「その、あの……お父さんの、資料の中に、あなたのことが載ってて……」
彼女は下を向いて言った。
「お父さんの資料?」
九郎は真顔に戻った。
(お父さんの資料……探偵……)
そうか……符合した。
九郎が密航の手助けをした老人、あの「師匠」が九郎の家族について探らせた探偵が、彼女の父だったのだ。
九郎は貨物船の中で師匠に武勇伝を語ったが、それを師匠は探偵に吹いたのだろう。
それを娘に話したとしたら、その娘、牧野美香が九郎の過去を知っているのもうなずける話……だろう。だろうが、どうせ探偵や牧野美香は、九郎の武勇伝を真実と思っていなかったにも違いない。
「……まさかわたしを脅迫した人が、お父さんの探偵依頼書に載ってるなんて思わなかったもの」
彼女はさきほどから言い訳を続けていたらしい。
「ま……いいよ」
九郎は彼女に言った。
「一つ二つならすぐに思いつく」
九郎はいくつかの脅迫ネタを牧野美香に教えた。
その人を社会的に抹殺するような必殺性の高いネタではない。
他人にしてみれば大したことが無く、本人にしてみれば少し悩む程度のヤツだった。
七曜会自体は、大して害のあるものではないと見ていた。
少なくとも、九郎が中国で相手にしてきた悪辣な連中に比べれば。
七曜会は、いま九郎が言ったようなネタでも、案外脅迫になりうるのだ。
どうせ被害額は1万円なので、脅迫されたほうも法に訴えるようなことはしないだろう。裁判にかかる費用のほうが圧倒的に高いのだから。
「……今言ったので足りるかね?」
「ウン、ありがとう。後は何とかするから……じゃ、コレ」
牧野美香は九郎に例の封筒を渡した。
「じゃあ、達者でな。それと、あまり人の道を踏み外すではないぞ」
「わかったわ、じゃあね、木曜日さん」
言い残すと彼女は踵を返し、立ち去った。
それを見送ってから、九郎は封筒に目を落とした。
(……この中に、孫の所在が書いてあるのか……)
九郎は少し考えた。
「なあ仗、なんだったんだ今の」
背後に伐が立っていた。
先ほどから背後の席でこちらを見張ってもらっていたのだ。
再三述べているように、伐には日本語の会話が理解できていない。
「……行かねばならない処が出来た」
「なにッ、敵か?!」
「いや、違う。彼女は何でもない。それより……」
九郎は封筒の口を破った。
彼女は几帳面に綺麗に糊付けしていた。
「今日はここで別れよう。また明日、駅前で会おう」
「……? まあイイや。あんたがそういうなら。じゃあ、また明日な」
「ウム、チンチコール」
「なに、チンチコー……?」
「イヤ、違った、何でもない」
九郎は慌てて首を振った。
「ま、あんたにも事情があるんだろうよ。じゃあな」
伐は九郎のテーブルの上に伝票を置いて去っていった。
九郎はその伝票を見て驚いた。
コーヒー、紅茶、ミックスサンド、シーフードスパゲティ、チョコレートパフェ……随分と派手に食ったものだ。
(……いい年をして!)
九郎は思った。
自分だって自称130歳である。
しかも、かなり色々と注文していた。
PM4:00 渋谷区内のある幼稚園
九郎は、牧野美香にもらった封筒の中を頼りに、ある幼稚園の前にいる。
幼児が庭ではしゃいでいるのが見える。
この中に孫がいるのだ。
(どこだろう……?)
九郎は見回した。
気づくと、保母さんと思われる女性が、不審そうな目をしてこちらを見ていた。
(おっと……いかん。見知らぬじいさんが子供たちを見ていて怪しまれたか)
九郎は素知らぬ顔をして通り過ぎようとした。
牧野美香にもらった資料によると、この幼稚園は4時になると親が子供を迎えに来るシステムだ。
母親が子供を迎えに来ている光景が見える。
孫はもう帰ってしまったのだろうか。
九郎は門の方へ歩いていった。
そこで……見つけた。
幼い頃の娘にそっくりな孫がいた。
(あの子だ!)
九郎は直感した。そしてその直感は正しかった。
「あッ、九郎さん!」
すぐ横で声がした。
振り返ると、かつて娘の夫だった男が立っている。
「やあ、マコト君。今お迎えかい?」
「……ええ。九郎さんは、どうしてこちらに?」
この、もと義子は、九郎のことを「九郎さん」と呼んでいた。
「今は渋谷区内に住んでいるのでな。通りかかったら孫を見つけてな」
それは出任せである。
「……そうですか、僕の妻が今、2人目を出産中で」
彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。
彼がいう「妻」とは、彼の2番目の妻のことを指す。
「そうか、それはおめでとう」
九郎は言った。
「ええ。でも、これから色々物入りなんでね。僕は大変です」
「……そうか」
九郎は昔の義子が手を繋いでいる孫娘の方を見た。
彼女は父親の後ろに隠れながら、
「……このおじちゃん、誰?」
と、問うた。
「ああ、この人は」
「……お父さんの昔の学校の先生だよ」
九郎は微笑んで言った。
「九郎さん……」
「まあいいから。じいさんは何人もいらぬだろう」
九郎は昔の義子の方を見て言った。
「……はあ」
彼は曖昧に頷いた。
「……まあ、頑張りたまえ。それでは達者でな」
九郎はかつての義子の背中を叩いて、踵を返した。
「それじゃ九郎さん、ごきげんよう」
その声を背中に受けながら、九郎はその場を去った。
……孫の顔を見られれば満足だった。
(彼は九龍の家族のようになって欲しくないものだ)
九郎は自宅の方へ歩いていった。
(……幸福を掴むがいいさ、お若いの)
九郎はかつて義理の息子だった男に心の中で言った。
PM5:00 繁華街の将棋クラブ
九郎は将棋仲間に別れを言いに来た。
しばらく来られぬと残しに来た。
……相変わらずカウンターにレジ係はいない。
中で将棋を指しているのである。
「王手じゃ!」
「ムムム……」
などと、家にいても暇な老人たちがいつもと同じように将棋を指している。
平和な光景だった。
そしてしばらくこの光景ともおさらばになろう。
短くて一週間、長くて……どのくらいだろう。
「やあ、九郎さん。最近顔を見なかったねえ」
好敵手の五十嵐だった。
彼ともしばらくお別れである。
「五十嵐さん、実はな……」
「まあ座れ。一回やろう」
言い出せぬまま、九郎は五十嵐の対面に座った。
PM6:00
「王手!」
五十嵐は九郎にとどめの一手を指した。
「しまった……負けたわ」
「……どうしたんだい九郎さん、いつものキレが無いね」
「……ウム、実はな、ワシはしばらく旅行に出ようと思ってな」
「えッ、こりゃまたなんで?」
「エッ、まあ、遠くに会わなきゃならん人がいてな」
「ソレは……ひょっとしてコレか? ヒヒヒ」
五十嵐は小指を立てた。
「……ウム、まあ、そんなところかな」
「いやあ、九郎さんも隅に置けないねえ!」
「ほんとうかい、九郎さん、昔別れた女の処へ行くって?」
近くの老人が身を乗り出してきた。
「エッ、いや、厳密には違うのだがな」
「……なんだ」
その老人はとっとと元の対局に戻った。
「で、いつごろ戻るんだい?」
五十嵐は訊ねた。
「分からん。早くて一週間位で戻るがな」
「まあ、そうですかい。ライバルがいなくなって寂しくなりますな」
五十嵐は言った。
「今日は呑みに行きましょうよ、皆で、パーッと」
「いいですな。しかし出立が明日なので、あまり夜遅くまではお付き合い出来ませんがな」
「なんと、明日? それはまた急な」
「急ぎの用事でしてな」
「……で、どちらまで?」
九郎は少し考えてから、
「……ウーン、ちょっと北海道まで」
「北海道! イイですなあ。お土産、頼みますぞい」
「エッ、ああ……はい」
嘘を言って後悔した。中国で北海道土産が買えようか。
「じゃあ今から行きましょう。呑みに」
「……それじゃそうしますか」
九郎と五十嵐、呼んでもいないのにそこにいた全員が立ち上がった。
「行きましょう、九郎さん」
「アンタのおごりでな!」
調子のいいことを言いながら、九郎たちは将棋クラブを出た。
一人取り残されたのは、オーナーだった。
「待ってくれよ、ワシを置いてかないで!」
彼は慌ててシャッターを下ろし、九郎たちについてきた。
PM7:00 繁華街の飲み屋
老人たちは酔っていた。
「嫁がなんだーッ、あんなの怖くないぞー!」
「ワシの余命はあといくらぐらいあるんじゃろうな……」
「まあ、生きていればいいこともある」
勝手に酔って勝手なことをほざきあっていた。
店内のサラリーマンがいい迷惑である。
「兄さん、モツ煮込みくれ」
「……あいよ!」
小皿にとられた煮込みが五十嵐の前に置かれた。
「すまんがワシにも」
九郎も注文した。
「しかし九郎さん、あんた、昔は何をやっていたんだい?」
五十嵐は赤い顔で九郎に問うた。
「前に話したことはなかったかな」
九郎は出された煮込みを口にいれながら言った。
「……いや、ないよ」
五十嵐は寝ぼけた目で言った。
早くも酔いが回っているらしい。
「この際話しておくかね」
九郎は言った。
「昔、五十嵐さんも中国へ行ったでしょう」
九郎は戦争のことを言っている。
「イヤ、ワシは中国じゃなくて、えーっと、フィリッピンかな」
「そうですか……大変でしたな」
「イヤイヤ、で、九郎さんは中国でどうなさいました?」
「ワシは戦争が終わっても日本に帰れなかったんですよ」
九郎は五十嵐の方を見ずに言った。
「……ほう?」
「それで、ワシは日本へ帰るために、人の道を踏み外して生きてきたんです」
九郎は、漠然とそう言った。
「なるほど……ご苦労なさったんですな」
何がなるほどなのか分からないが、五十嵐は合点して頷いた。
「いやあ、すっかり酔ってしまいましたな。そろそろ行きますか」
「そうしましょう。男は引き際が肝心」
五十嵐は九郎が密航してきた時の「師匠」と同じことを言った。
PM7:20
九郎たちは繁華街の入り口に来た。
相変わらず、若者たちが「今が楽しければいい」……という顔で闊歩している。
その光景が、九郎は九龍城砦と似ているような気がした。
見た目にはこちらの方が豊かである。
が、それは物質的な豊かさというまやかしであり、真実の豊かさとは違う気がする。
この渋谷には全てがそろっているが、何も無いのである。
本質的なものを見失った人間が多い。
かといって九郎がそれを知っているかと聞かれれば、自信が無い。
ただ、九龍城砦とこの渋谷の共通点を見出だすなら、人々は何かに抑圧されて生きている。
金と権力……それに屈している。
それらを持たざるものが自分で獲得できるささやかな幸福にすがって生きるなら、それは正しい生き方では無いのではないだろうか。
また、金と権力だけで得られる幸福なら、それも正しい生き方では無いと思う。
全ての人間が幸福になれる権利があるかと言えば、それは無いと思う。
自分で掴める限りの幸福で満足なら、しかしそれも正しい生き方なのかもしれない。
だが、それで本当に満足なのだろうか。
人間は欲を持っており、それを理性で抑制している。
その欲望の全てが叶うまでに、必ず他人を踏み台にしなければならないだろう。
踏み台にされた人間は、果たして幸福だろうか?
平等と自由は共存しえない。
平等は自由に富や力を得ることを抑制し、自由は全ての人間が平等に生きることを否定する。
九龍城砦と、渋谷……この二つの都市は、似ていた。
九龍を支配するのはマフィアだし、それに使われて生きる者がいる。
渋谷には松涛に住む者もいてホームレスも住んでいる。
金のある九郎と、家族のいる五十嵐。
この隣り合って歩く二人は、お互いに満たされぬ思いで生きている。
……九郎は思った。
(何かが欠けているから……人は生き続けるのか)
欠けたものを得るために。
九郎は空を見上げた。
街のネオンで、星は見えなかった。
5日目につづく