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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

グッバイ、ニューイヤー・ロックフェス

2007-01-08 04:24:03 | その他の日本の音楽

 毎度おなじみ、内田裕也氏の肝煎りで行なわれますニューイヤー・ロック・フェスティバル。今年も行なわれたようで、今、私の前のテレビが中継録画を流しています。

 昨年は、韓国や中国にも会場を設けまして、ますます国際的なロックフフェスに、と言うことだったんだけど、なんか私には日本側のミュージシャンの、韓国や中国のミュージシャンに対する先輩ぶった偉そうな態度が見苦しくて、ちょっと見ていられませんでしたね。どちらかと言えば韓国や中国のミュージシャンのほうが内容のある音楽を聞かせていただけに、なおさら。

 なーにが「中国の連中もうまくなってきたよな」だよ。ロック・ニュージシャンのくせして大日本帝国をカサに着るのかあなたがたは?
 あんな醜悪な権力志向が、"日本のロックミュージシャン"がロックから学んだものなのか?と思うと情けなくて、ロック文化そのものの敗北の証としか思えませんでした。

 さて今年は、アメリカはニューヨークのミュージシャンも出演と。ますますご盛況でご同慶の至りです、ユーヤさん。でも、「日本のロッカーが冷や飯食ってるのに外国のミュージシャンばかりを連れてきやがって」と招聘企業のに殴りこんだのは、若き日のユーヤさんでしたよね。

 なんか、今年のフェスのテーマは”反核”のようで。でもまあ、出演者がカメラとマイクを向けられて、タテマエ通りに「核には反対です」とコメントして、それで一丁上がり、程度の”テーマ提示”では、一体どれほどの社会への訴求力があるんでしょう?
 これも単に箔を付けたいからだけで"反核”の看板掲げただけのように感じられてならないんですが、偏見ですか、私の?

 フェスの音楽面ですが、毎年、70年代だか80年代だかで時の流れが止ってしまったような、カビの生えたような音楽の垂れ流しで、特に論ずべきものは見つかりませんでした。韓国勢の音にある種の新鮮さを感じる瞬間もあったのですが、それは韓国ロックシーンの歴史がまだ浅く、”使い切っていない”せいなんでしょうね。日本勢とアメリカ勢は亡霊の行進としか見えませんでした。まあ、これは大分前からだけど。

 そしてあげくは、”女子十二学房”が出てきてスマップの歌を演奏する。ユーヤさん、これってロックですか?なんて尋ねるのもヤボというものでしょうけどね。

 と言うわけで、グッバイ、ニューイヤー・ロックフェスティバル!



ハングルブルース・メッシン・アラウンド

2007-01-07 01:41:04 | アジア

 あれは”イカすバンド天国”なんて番組が受けていた頃だから、うわあ、もう20年近く前の話になってしまうのか。

 あの番組出身の”人間椅子”ってバンドがアジア音楽祭とかその種のコンサートに出演して、アジア各地のバンドと同じステージを踏んだ、なんて土産話をしているのを、私は行きつけの飲み屋のテレビで見ていたのだった。

 彼らが、その中でも印象に残ったバンドとして挙げていたのが韓国代表のバンド、”新村(シムチョン)ブルースバンド”だった。

 テレビの画面には、背中までの長髪にベルボトムのジーンズ、レスポールのギターを抱えて、という「今はいつだ?1970年代か?」ってな風体をした新村ブルースバンドの面々の写真が映し出され、彼らの曲がほんの数小節、流された。その数小節に非常に深い印象を与えられ、私はいまだにその一瞬が忘れられないのだが。

 流された曲は、いわゆるスローブルースであり、まあ”ブルースバンド”を看板に掲げた連中が演奏して何の不思議もない、むしろありがちなパターンの曲だった。具体的な例を挙げれば、”我が心のジョージア”とかエディ幡の傑作、”横浜ホンキートンク・ブルース”みたいな感じのスロー・ブルース。譜面に書けば何の変哲もない曲だったのだ。私は聴いていてコード進行の予想さえついた。

 だがその曲は、そりゃまあ韓国のバンドなのだから当たり前といえば当たり前なのだが韓国語で歌われていたのだ。そして、これは共演した人間椅子のメンバーも洩らしていた感想なのだが、その韓国語の響き一発で変哲もないブルースは、どう聴いても演歌としか思えないものに変貌を遂げていたのだった。

 んん、こりゃなんだ?と私はのけぞったのだった。

 私だってそれなりに甲羅を経た猟盤家である。これまでにもイタリア語のブルースやらスエーデン語のブルースなど、妙な代物はいくつも聴いてきたのだが、ブルースが使用言語でここまで別の音楽ジャンルの匂いを発散する結果となった例は知らない。
 ともかく、強力なハングル・パワーが、作法通りに作られているスローブルースを当たり前のような顔をしてド演歌に聞こえさせてしまっていたのだ。

 あれは一体なんだったのか?もう一度聴いてみたいのだが曲名も分からず、かなわずにいる。韓国に今も”新村ブルース”なるバンド名を掲げたグループは存在しているが、特に面白くもないフォーク系の音楽をやっている、との話も聞いた。それは、あの日私が聴いたバンドの、時の流れに流され変わり果てた姿なのか、あるいはまったく別のバンドなのか、知るすべもなし。

 ちなみに”新村”とは韓国の学生街で、日本で言えば、それこそ”御茶ノ水から駿河台~♪”みたいなニュアンスがある場所のようだ。なんて話を聞くと、ちょっと切ないものもあるんだけど。こちらも学生時代、ブルースを演奏することに夢中になっていた時期があり、学生街の楽器屋などを仲間たちとうろついていたりした過去は持ちあわせているんで。

 それにしても。もう一度、あのハングル・演歌・ブルースを聴いてみたいものだなあ。演歌に聞こえた、と言ったらバンドのメンバーは怒るんだろうか、面白がるんだろうか、興味も持たないんだろうか。



ニジェール河のサイケデリック

2007-01-06 03:10:45 | アフリカ

 ”Introducing ” by Etran Finatawa

 アフリカはサハラ砂漠のただ中に浮かぶように存在する国、ニジェール共和国の新進グループのデビュー・アルバム。
 遊牧民たちのディープ・ブルースといったところなんだろうか。いかにもハードな砂漠の暮らしに耐えつつ生きて行く人々らしい、どす黒く重たい、タフな音楽が展開されている。

 編成としては、エレクトリック・ギターが二人に民族楽器とコーラス担当が4名という折衷ものだけど、電気楽器はかの地の伝統音楽の流れに忠実に従い、音楽上の革命を起こすなんて気はないようだ。
 反復される呪術的な重みも伝わる複合リズム。土俗的歌声。エレクトリックギターも地道に反復フレーズを奏で、バンド全体が織り成す複合リズム網の一要素に終始しようとしている。

 聞いているとイメージ的に初期のシカゴ=ブルースとか、その辺を想起させる響きがある。音楽的に似ているわけじゃないんだけれど、地面から引っこ抜いてきたばかりの音楽に、荒々しく重苦しい電気ギターの響きが無理やり乱入した結果、音楽的にはイナカ当時の姿のまま、奇妙に今日的な生々しさを獲得してしまっている、その辺りが。

 その生々しさを持ってワールドミュージック最前線へ、と持ち上げたいところだが、実はひとつ注文があるのであって。
 3曲目だったかな、そこにおいてギターが、ある種サイケデリックというかニューロック的というか、そんな世界を予見させる動きをひととき、見せるのだが、それがある種の妖気を放っていて、ちょっと良い感じだったのだ。

 というか、それを聴いて「おっ!」といきり立ってしまった当方としては、その世界をもっと膨らませて欲しいのだ。こちらの血を騒がせた”サイケな予感”は、その一曲だけで収まってしまったのだが、あれ、全面展開してくれないかなあ。

 まあ、彼らがベースとしているのであろう現地の民俗音楽の、ろくな知識もない当方なのであって、まるでむちゃくちゃな要望を出しているのかも知れないが、いや、おいしかった料理は何度でもリクエストする、客としての当然の権利として、勝手な事を言わせていただく。それに、私のような物好きがもっといたとしたら、めっけものじゃないか。



ハングル・アフリーク

2007-01-04 01:39:14 | アジア

 ”Lextacy” by Lexy

 韓国ネタが続きますが・・・

 彼女、レクシーは、韓国で”2大ロング美女”とか言われてるポップスシンガー二人のうちの一人だそうです。どちらも長い足とセクシーさが売り物だそうで。ありがたいことであります。
 そんなレクシーの、これはアフリカ音楽に挑んだ最近作。とはいっても、ワールドミュージック・ファンがいきり立つ必要はないです。それほどディープなアプローチをしているわけではない。

 なんちゃってアフリカといいますか、中ジャケに豹の写真があるんですが、その首に首輪がしっかりしてあって、アフリカの大地じゃなく、ソウルかどこかの動物園で取った写真だなとモロ分かり。アルバムの含む”アフリカ性”も似たようなもの、昔の冒険マンガの中で見られたような、書き割り的アフリカ像が安易に展開されているのでありました。

 1980年、アフリカの音楽を大々的に取り入れた衝撃的なロックでスキモノを騒がせたトーキング・ヘッズのアルバム、”リメイン・イン・ライト”なんて作品がありましたが、あの音作りから芸術性と音楽的深みを抜き去り、代わりに休日の動物園の賑わいなど放り込んでみました、みたいな感じ。でも、この底の浅い書き割りワールドのチープなファンク・サウンドの楽しみ、私は別の意味で好きですね。

 こいつも一つの駄菓子屋系の気の置けない楽しみと申せましょうか。別に感動なんかに誘われないけど、ひとときのリズミックな慰謝を与えてくれるし、インテリっぽい音楽への洞察の変わりに、”セクシーなお姉さん+アフリカの野生のイメージ=もっとセクシーなお姉さん”の法則(?)が発動しまして、打ち出されるファンクサウンドとハングル・ラップのむこうに、なかなかにエッチな雰囲気が醸造されているのであります。

 そんな訳で。
 以前、タモリがテレビで「我々は豹を見ても別にセクシーと感じないのに、豹柄の服を着ている女性はセクシーに感ずる。これは一体、どういうわけだろう?」なんて疑問を口にしていました。
 このアルバムを聞いていると、豹柄のミニドレスを身に付けてステージで腰を振り倒して歌っている”ロング美女”レクシー嬢の姿など浮かんできまして、このタモリの疑問に対する回答が容易に見つけられそうな気がしてくるんでありました。



痛快トロット・アイドル、ノユニ

2007-01-03 00:34:57 | アジア
 ”Love Always Finds a Reason” by NOYUNI

 ノユニ、と読むのでしょうかね、韓国の新人女性歌手のミニ・アルバムです。鮮やかな赤を基調にしたジャケに、ノユニの清楚そうな写真が掲げられ、英語のアルバム・タイトルが記されています。

 こんなのを見たら、さぞ純情なアイドル・ポップスが収められているんだろうと思いますが、聴いてみるとこれがノリノリのディスコ・サウンドに乗って歌われる、韓国で言うところのトロット、つまりはド演歌なんだから驚いたしまう。しかも、すべてアップテンポ。

 ドスンドスンと打ち込まれる快調なリズムと男性コーラスによる豪放な掛け声を従えて、凛々しいを通り越していっそ雄雄しいと表現したくなるノユニの力強い歌声が韓国演歌特有の塩辛いメロディをドーン!と歌い上げます。まあ、えげつない世界ですなあ。あ、これはもちろん、誉めて言ってるんですが。

 このジャケの清純イメージとの落差がほんとに楽しくて、誰彼かまわずつかまえて聞かせてみたくなってしまうんだけど、この時点ですでにこちらの脳内がトロット乗りに感化されてしまっている可能性大。

 注意して聞いてみると、バックのギターなんかも憑かれたように”正調ヘビメタ演歌の世界”みたいな異種混合プレイに没頭しまくりで、それのみに注意を払って聞いていても十分楽しい。この辺のやり過ぎの激走魂が韓国大衆音楽の醍醐味でありましょうなあ。

 ジャケと収められている音楽の落差に妙に受けてしまったのだけれど、韓国の人にしてみれば「何が不思議なの?」ってなものなのかなあ。清純そうな女の子が腹の底からハスキーボイスをゴリゴリに押し出して演歌を怒鳴り上げる。何がおかしいの。普通じゃん。・・・うん、そうかもなあ。

 冬の夜、日本とは一段深さの違う寒波に覆われたソウルの街で、唐辛子のきっちり利いた食べ物を腹に収め、きつめの酒に酔う。そんな、かの地の平均的市民生活には、こんな豪放な”アイドル”も似合いかも知れないのであります。

 それにしても、これが5曲(プラス・カラオケ3曲)入りのミニ・アルバムであるのが残念でならない。フルアルバムだったら、年間ベスト10とかに選出してみるのも痛快だったろうになあ。



カメルーンの”みんなの歌”

2007-01-01 23:50:04 | アフリカ

 ”Studio Cameroon”
by Sally Nyolo and the Original Bands of Yaounde

 明けましておめでとうございます。

 さて、新春初聴きはこれ。アフリカはカメルーンのベテラン女性歌手、サリー・ニョロのプロジェクトによる実験作です。かの地の伝承音楽を基にした、創作ポップス集。アフリカど真ん中の地に根ざした、カラフルな不可思議サウンドが楽しめます。

 使用楽器も、ギターやドラムやシンセの絡むものから、ほぼ民族楽器のみ、みたいな素朴なものまで。でも、ちゃんと統一感があって、全体で一つのサウンドと聴けますな。

 といってもややこしいお芸術作品やハッタリかました”世界を標的”の商品じゃなく、彼女が身近かなカメルーンの伝承音楽を基に遊んでみた新しいサウンドの試み、といったところ。欧米から白人のプロデューサーなんかが”降臨”して、現地の音楽を勝手にいじくり回したわけじゃないんで、奔放ながらもなかなかに人懐こい暖かい音が楽しめます。

 特に冒頭の3曲などは、使われている音階の日本民謡との近似性や、漂うユーモア感覚など、なんというか”子供好き”のするひょうきんな音なんで、このままNHKの”みんなの歌”とかで流しても通用してしまうのではないかって気がします。

 アルバムの主催者、サリー・ニョロって、この作品を聴く限りでは結構インテリの人じゃないかって感じがするんだけど、それが冷たい方に作用せず、むしろ”機知に富む”という形で音楽に投影されている、それが良かったみたいですな。先にあげた冒頭の数曲などに現われたユーモアの感触も、その現われではないでしょうか。
 
 ともかく、まだまだアフリカから楽しめる音は出てきそうだなと、これを聴いて安心した次第。



星へのきざはし

2006-12-31 02:19:25 | ものがたり


 星へ通ずる小道はいつも、変哲もない裏通りのさらに横道、そんな場所にひっそりと存在している。
 私の町で言えば、市街地を抜けた国道が大きく曲がって海沿いの崖の上に向かって伸びて行くあのあたり、もう使われていない倉庫や、住む者もなく朽ち果てるにまかされた家々が立ち並ぶ淋しい通りの裏にあるのだが、知る人はもちろん少ない。

 まるで近所の銭湯にでも出かけるようなサンダル穿きでその通りを歩いてみれば、ほんの一筋裏に入っただけなのに、国道の喧騒は気配も伝わらず、いつもシンと静まり、人影もない。小道は働き者のオヤジがいつまでも元気な、あの布団屋の自宅である、大きな庭のある日本家屋と、東京の大会社の社長の別宅であるとか聞く、生垣に囲まれた古い洋館との間に、緩やかな傾斜を持って裏山に続いている。
 小道に踏み込み緩やかな坂を登って行けば、道の片側に、ゲームセンターで使われるタイプの大振りなゲーム機が何台も何台も放棄されているのが見える。どれもかなり古い形式のものである。どのような事情でそんな場所に捨てられたのかは分からない。

 バブル期に建てられた、入居者がいるのやらどうやら、いつみても閑散とした感じのマンションが曲がり角の先に唐突に巨大な姿を現したり、まるで中世の古城のような奇矯なデザインの一戸建てを見つけて怪しんで表札を検めれば、高名な建築家の別荘であることに驚かされたりする。そんな風に道は続いている。
 道は、ゆるゆると曲がりくねりながら裏山を縫って登って行く。次第に道の両側に家屋も少なくなり、雑木林がその層を厚くして行くばかりである。木々の間からときおり町の姿が、意外なほど下の方に広がっているのが見える。

 喉の渇きに、道端の自販機に寄って清涼飲料を求めようとするが、収められている缶入り飲料はどれもその表面に記された文字が見たこともない、もちろん判読の仕様のないものばかりであり、困惑させられる羽目になる。何とか見当をつけて購入してみると、不思議な文字が記された缶にふさわしい、奇妙な飲み心地のものである。それでも良く冷えた水分を取ったことで、それなりに生気を取り戻すことは叶い、再び道を登って行く事となる。

 どれほど歩いたろう、気がつけば足は地面を踏んでいない。何もない空間を、中空をただ歩き続けている自分である。裏山は、いつのまにか足下遠くに広がる箱庭の如くであり、そのさらに遠くに、もはやジオラマと化した町の風景がある。広がっていた青空はすっかり漆黒へと変化し、星々の輝きはすぐ傍、まるで手を伸ばせば届くかと思われるほど近くに感じられる。やがて地球は、暗い中空に浮かぶ一個の球体に過ぎなくなる。

 歩き続ける。あるいは星々の生成を見、あるいは凍りついた永遠の時を見る。歩き続けて、やがて一つの惑星に下る小道を辿る事となる。
 その日、星は祭りだ。輝く青空の下で紅い幟、青い幟が風にはためき、ときおり花火が打ち上げられる音が響く。星の人々は、こちらが外界からの客であろうと気にする気配もなく魚の言葉で話しかけ、笑いかけて来る。風は涼やかで、すべてが幸運に包まれていることを示す感触が空気を充たしている。

 時はいつか過ぎ、ふと、あの星への小道の登り口に立っている自分に気がつくこととなる。星で過ごした時と、自分が帰り着いた時との矛盾は、いつものことである。星へ旅立ってから、数年後に小道に帰る場合もあれば、星への旅に立つ数日前に帰り着いてしまった例もある。この場合は、まだ旅立つ前の自分自身と間の悪い邂逅をしてしまう事となる。
 いずれにせよ、星々への旅に出るなら徒歩に限る。ただ、あなたが星へ向かう小道を見つけることが出来ればの話ではあるのだが。



銀座ACB、1968年・冬

2006-12-30 01:54:14 | 60~70年代音楽


 ACB、と書いて「アシベ」と読む。グル-プサウンズがブ-ムだった頃には、その生演奏に接することの出来る店があちこちにあり、それらは「ジャズ喫茶」と呼ばれていた。「ジャズのレコ-ドを聞く場所」と、名称としてはごっちゃだが、誰も気にしてはいなかった。今でいうライブハウス、と言ってしまうとどこかニュアンスが違うような気もする。もっと「芸能界」っぽい匂いがあった。芸能大手プロダクション系列の経営が多かったのかも知れない。
 名称から察するに、戦後すぐのジャズブ-ムの際に生まれ、そのままロカビリ-・ブ-ム、GSブ-ムと、洋楽指向の日本のバンドの最前線の現場として受け継がれていったのだろう。マスコミが「今日の奇矯な若者風俗」を取り上げる場合、客席で熱狂する女の子たちの様子とコミで、そこにおける「青春スタ-」たちのステ-ジ写真を添えるのが、まあ、当時の定番だった。

 東京の銀座ACBは、その本家みたいな存在で、新宿ACBというのもあった…ような気がする。ジャズ喫茶チェ-ン店「ACBグル-プ」が存在していたのだ。あのタイガ-スなども、確か大阪のACBに出演していた際に内田裕也オヤブンに見いだされ、デビュ-のきっかけをつかんでいる。

 あれは1968年のクリスマスも近い頃と記憶しているが、当時、そこら辺のガキだった私は、東京のイトコの家に遊びに行ったついでに、その銀座ACBを覗いてみたことがある。

 妙に天井の高い、が、それ以外は単なる普通の喫茶店だな、というのが第一印象だった。思っていたより古び、薄汚れた感じだな、とも感じた。店の片側に、不自然なくらい高くそびえ立った、円筒形のステ-ジがあった。(立ち上がった状態の、私の肩より高かった)あるいは2階席があったのかも知れないが、その時には気がつかなかった。8分の入りくらいで、席を探す必要もなかった。

 ステ-ジは、まず、店のハウスバンド?の演奏で始まり、全体の司会も兼ねるそのバンドのボ-カル氏に呼び出される形で、その日の出演バンドが登場する仕組みになっていた。今思えば、その「座付きバンド」は、演奏はそつがないが花もなく、陽の当たるチャンスもないまま、とうにアイドル年齢は過ぎていた、みたいな哀愁があってなかなかイイ味を出していたのだが、もちろんバンド名なんか覚えていない。

 私が行った日の出演バンドは、491とジャガ-ズだった。491について説明の必要があるかどうか分からないが、フォ-・ナイン・エ-スと読み、GS時代のジョ-山中の在籍バンドだ。と言って、期待を抱かせてしまったとしたら申し訳ない。ジョ-は、というより491というバンド自体、特に光るものを感じさせるバンドではなかった。(その日は、なのか、その日も、なのかは分からないが)バンドのユニフォ-ムである白いス-ツに七三分けサラリ-マン髪形でシャウトするジョ-の姿だけは記憶に残っているのだが。491のシングル曲なんて知らないし、それ以外にやったのは地味なR&Bのカヴァ-ばかりで、盛り上がりようがなかった、という事情もあったが、客席の反応も、冷やかなものだった。

 そういえば、忘れないうちに書いておくが、当時、私は、主に2流のGSのライブを幾つか見ているのだが、どのバンドも、ライブでやる外国曲のカヴァ-は、ロックよりもR&Bネタの方が多かった気がする。この傾向はカップスばかりではなかったのだ。タイガ-スとかテンプタ-ズとかの「一流の」バンドはどうだったのか、見たことがないので分からないが。

 491のパッとしないステ-ジが終わり(ヤバイなあ、ジョ-、読まないだろうなあ、この文章)、バンドチェンジの際、近々レコ-ドデビュ-すると言う女の子の歌手が「本日の特別ゲスト」として出てきて、座付きバンドをバックに「いかにも歌謡曲」な歌を歌った。この辺が、今日のライブハウスと違う「芸能臭」が漂うところだな。バンドの演奏の慣れ具合から、彼女が向こう一ヵ月位の間、連日、この店で「本日の特別ゲスト」を勤めて来ただろう事は、想像に難くなかった。更に1曲、当時流行っていた「サマ-ワイン」を、バンドのボ-カル氏とデュエットで歌ったが、彼女は、それだけ覚えているらしい1コ-ラス目の歌詞を、2コ-ラス目も3コ-ラス目も繰り返し歌っていた。うら寂しい光景だった。

 短い中休みをはさんでジャガ-ズ。やはりヒット曲のあるバンドの華やぎを、そこそこ感じさせつつの登場。しかし意外にも、と言うべきか、客席の冷やかな反応は491の時と大した変わりはなかった。そして私の関心も、演奏自体よりメンバ-の持っている楽器に向かっていた。「おお、本物のリッケンパッカ-だ!」などと。それは、彼等が私にとって、特に思い入れのあるバンドでなかったせいもあるが、なんというか、彼等の演奏自体も、客席の温度の低さに呼応するように、とりあえず予定をこなしただけと言うか、あまり熱の感じられないものではあったのだ。

 演奏はそのまま、ヒット曲にR&Bカヴァ-(彼らもだ!)を取り混ぜて淡々と進み、そして終わった。数人のファンの女の子がステ-ジ下に行き、飛び跳ねながら(なにしろステ-ジは高い位置にある)去りかけるメンバ-に握手やらサインやらをねだっていたが、ほとんどの客は、三々五々、特に感動も無さそうに席を立ち、出口へ向かった。

 まあ、私のその日の目的は「あのACB」をこの目で見ることだったので、十分目的は果たした筈だったのだが、妙な割り切れなさが残った。だって、491はともかく、「若さゆえ~」のジャガ-ズと言えば、GSとしてはビッグネ-ムなんじゃないのか?にもかかわらず、あの「現場」の、ヒンヤリした空気はなんだ?オトナたちに顰蹙を買っているはずの「GSに熱狂する頭のおかしいムスメたち」は、どこへ行った?「八分の入り」の客席はなんだ?ステ-ジ上のメンバ-に飛びつこうとするのが「数人の女の子」でいいのか?

 1968年といえば、例えばタイガ-ズの「君だけに愛を」や、テンプタ-ズの「エメラルドの伝説」「純愛」オックスの「スワンの涙」等々の、GSを象徴するようなヒット曲が大量に生まれた年であり、ついでにいえばカップスだってこの年にデビュ-しているのだ。そんなレコ-ドのリリ-ス状況、売れ行き状況だけ見れば、豊作といえる年だった筈だ。

 私は恐らく、GSブ-ム退潮の、最初の波の一つに立ち合ったのではないか。変わらず全国に吹き荒れているかに見えた「GSの嵐」も、その時、「ジャズ喫茶」という最先鋭の場では、もはや女の子たちの興味の中心からは外れ始めていた。都市の奥深くで発生した「ヒップな現象」(それの源流の多くは、都市辺縁部やら本当のイナカであったりするのだが)が、商業化しつつ、始めは無関心だったイナカ方面へ支持を広げ、やがて全国的な流行現象としてビッグ・ビジネスと成り上がる、が、その頃、実はその現象の発生源、根っこの部分はすでに腐り始め、シ-ン全体の崩壊への序曲が奏でられている。あの日私が見たのは、そんな現場だったのだろう。

 良いものを見た、ある意味では。と、思う。そして、明けて69年、GSの終焉は予感から現実へとなって行くのだが。


少年の朝

2006-12-29 02:45:16 | ものがたり

 あ、僕の配達受け持ち地区ですか?河出町から山鳴町までです。はい、自転車で配達するにはずいぶん広いですが、お給料をたくさんいただくためにはね!
 はい、父は交通事故で亡くなりました。母もその前から病いがちで寝たきりです。父が亡くなった後、お金がなくて、僕等一家はすぐに家賃を払うのにも困りました。困っている僕たちを見かねた、近所の親切なおじさんが紹介してくれたのが、このエロ乳配達のお仕事なんです。
 ええ、エロ乳を配った後は学校がありますし、すごく眠いですけど、病気の母をお医者様に診せる費用も必要ですし、弟と妹も小学校にやらなければなりません。中学生の僕が頑張らなくちゃ、そう思うとモリモリ力が湧いて来ますよ。
 それに、毎朝玄関の前にご夫婦揃って全裸で立って、僕がエロ乳を配るのを待っていてくれる、たくさんのお得意様たちを見ると、疲れも眠気もふっ飛びますよ!
 あの通りの向こうのヤマガキさん、僕がエロ乳のビンを差し出すと、その場で一息に飲み干してくれるんですよ。すると、それまでうなだれていたヤマガキさんのチンコが、一瞬にしてピーン!と勃起するんです。朝の澄み切った空気の中で湯気をあげて大きくなるヤマガキさんのチンコ、見せてあげたいなあ。
 この仕事をやっていて一番嬉しいのは、そんな風に皆に喜んでもらえた時ですね!弱音なんて吐いてはいられませんよ。
 さあ、僕はもうひとっ走りエロ乳配達をしなければならないんで、これで失礼します。

@テーマソング

僕のあだ名を知ってるかい? エロ乳太郎というんだぜ
エロ乳配って もう三月 雨や嵐にゃ慣れたけど
やっぱり朝には チンコ立つ~~~♪

すまんm(__)m



アイラ・ヘイズのバラッド

2006-12-28 04:11:23 | 北アメリカ


 ”The Ballad Of Ira Hayes ”by PETER LAFARGE

 昨日書いたと同じ”第2次世界大戦に米軍兵士として参加するアメリカ先住民”ネタとして思い出さずにはいられなかったのが、60年代、ピーター・ラファージというシンガー・ソングライターが創唱した、”アイラ・ヘイズのバラッド”だった。

 戦場で武勲を立て勲章を得てヒーローとなる、アメリカ先住民の兵士、アイラ・ヘイズ。
 だが、戦争が終わり故郷へ帰ると、彼はそれ以前と同じ、アメリカ社会では疎外された少数民族の一人でしかなかった。望んだような職も得られず、いつしか酒におぼれて現世を忘れようと努めるようになる。
 そしてある朝、泥酔した挙句にアイラ・ヘイズは溝にはまって息絶えていた、そんな歌である。

 現実はそのようなものだろう。昨夜、論じた映画、「ウインドトーカーズ」に出てくるような”不思議な魔法を操る、愛すべき、妖精のごときアメリカ先住民”なんて扱いが絵空事であること、考えなくとも想像は付く。

 ピーター・ラファージのアルバムは昔々、シンガー・ソングライターの音楽が興味の中心だった頃に手に入れ、聞いてみたことがある。が、アメリカ先住民の血を引く歌手のアルバムというので、その民族色豊かな世界を期待していたのに、さほどその色は強くなく、60年代の平均的なアメリカの”フォークシンガー”としか感じられず、拍子抜けしてしまって、すぐに手放してしまったのだった。(ちなみにラファージは60年代、何枚かのアルバムを世に問うた後、その才能を期待されながらも事故で夭折している)

 彼と同じく、アメリカ先住民の血を引くシンガー・ソングライターとしては、同じく60年代から70年代にかけて活躍した、パトリック・スカイなどという人も思い出される。彼もまた、60年代のグリニッジ・ヴィレッジ色というか、当時のアメリカン・フォークの土壌の中でその音楽を展開した人で、先住民色はまるで感じさせはしなかったものだ。

 その一方で奇妙なビブラートを効かせた歌い振りで印象に残っている、バフィ・セントメリーなどという”先住民系シンガーソングライター”もいたのだが、こちらは逆にその音楽の神秘めかした手触りが私にはわざとらしく感じられてしまい、こちらも逆方向で好きになれなかったものだ。

 その他、民俗音楽としてのアメリカ先住民の音楽という奴も、興味を持っていくつかを聴いてはみたのだが、どれもなんだか昔ながらのウエスタン映画に出てくる”アメリカ・インディアンの音楽”を想起させる神秘めかした感じの太鼓のリズムや笛の音などばかりで、あまり面白いものではなかった。私の選んだサンプルが悪かったのだと信じたいが。

 先に挙げた”先住民系フォークシンガー”たちの仕事があまりはかばかしいものではなく、一方、民俗音楽系もまたそのような具合であること。これは、かのアメリカ合衆国の先住民たる彼らの蒙った社会的抑圧が彼らの文化をも押しつぶしてしまった結果とも思え、なんだか寒々しい気分になってくるのだが。この印象は私の、彼らの音楽に関しての無知ゆえから来ていると信じたいのだが・・・
 
 付記。ちなみに、ラファージが歌にした「第2次世界大戦中にアイラ・ヘイズが立てた武勲」とは、現在クリント・イーストウッドの映画で話題になっている”硫黄島”でアメリカ国旗を戦勝の証に丘に突き立てた、あの兵士のうちの一人だったことであるそうな。