10/05/29 23:57
平和な、朝のはずだった。
ここのところ特に外交問題や国防に頭を痛めるような事象は久しく起こっておらず、穏やかな日々が長く続いていた。
それでも四守護神の朝はそれなりに早い。カーテンの隙間から覗くドーム越しの太陽の光に照らされてヴィーナスはベッドの中で目を覚ました。リーダーの身でありながら寝坊魔遅刻魔である彼女には珍しい静かな目覚めだった。それは普段寝ている部屋ではないと言う事実も手伝ってのことだったが。
四守護神がそれぞれに特別に用意された私室の、一人分と言うにはあまりにも広すぎるベッドの中寝息を立てていた本来のこの部屋の主であるマーキュリー。そこにヴィーナスは身を寄せ合うように眠っていたのである。
「(そー言えばマーキュリーのとこで寝たんだっけ・・・)」
未だ蚕の蛹のように身を硬く顔を伏せ昏々と眠っているマーキュリー。二人は昨夜からこのベッドで並んで一緒に寝ていた。しかしながら二人の間に色めいた事情は無く―ヴィーナスはそのつもりで深夜にやって来たのであるが―マーキュリーもヴィーナスを部屋に迎え入れはしたものの、少しお茶でもとあれこれしているうちに疲れが出たのか、ヴィーナスが何もしないうちに眠り込んでしまったのであった。ヴィーナスも流石にいくら声をかけても起きないほど疲れている人を叩き起こして弄繰り回すほど非人道的ではない。が、朝一番にそのことをほじくり返してからかってやろうと添い寝と洒落込んでいたのだ。
簡易な一枚布を宛がうように纏っただけのマーキュリーの姿は妙に色っぽい。いつも堅物が服を着込んだような彼女の無防備さがやけに可愛く思いながらも、ヴィーナスは軽く肩を揺さぶり彼女の覚醒を促す。
「・・・マーキュリー・・・そろそろ起きなさい?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
マーキュリーの反応は無い。ヴィーナスはマーキュリーが決して寝起きがいい方でないのは知っているが、それでもここまで無反応は珍しい。昨日も当に昏倒するようにベッドに伏せったのだしよほど疲れていたのだろうか。しかし寝かせておくわけにもいかない。
そしてヴィーナスはあることを思いついた。
「起きるの嫌?ひょっとして朝っぱらから誘ってるの?それなら遠慮なく襲っちゃうわよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・い」
そこでようやく、マーキュリーが相も変わらず微動だにしないものの微かにくぐもった声を漏らした。ヴィーナスはうまく聞き取ることはできなかったが、「はい」とかそういう肯定の類の言葉ではありえないのは経験で知っていた。黙っていると肯定を意味するから彼女は返事をしたのだろう。
どこまでもガードの固いマーキュリーであった。ヴィーナスはため息を吐く。
「何?起きてるなら・・・」
「・・・もち・・・わるい・・・」
「えっ!」
「・・・きもち・・・わるい・・・」
「ええっ、ちょ、マーキュリー!」
ヴィーナスがマーキュリーの言葉を聞き取ると同時にシーツをめくり上げた。蚕の蛹のように固まるマーキュリーの顔は蒼白で血の気が無く全身に鳥肌が浮いている。明らかに普通ではない事態をヴィーナスはようやく理解した。
「だっ・・・大丈夫!?気持ち悪いってどこが!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お、なか」
ひたすら顔を伏せていたマーキュリーはそこでようやくヴィーナスの存在を認めるように微かに首を動かし目を開く。そしてヴィーナスと目が合った瞬間彼女のその表情は一変した。それまでひたすらに何かを堪えるよう固く閉じていた瞼が見開かれ、汗が額を流れる。先ほどまでのあまりに緩慢な動作とは裏腹な素早さで口元に手をやり体を起こした。
「・・・う、えぐ」
「ええっ!?何!?洗面器!?洗面器ですか!?」
ヴィーナスがベッドであたふたとしている間、マーキュリーはその質問に答えることなく、口元に手を当てたまま脱兎のような勢いで洗面所に走っていった。
ベッドにはヴィーナスが取り残された。
四守護神の朝はそれなりに早い。特にマーズの朝は早い。彼女はいつも朝一番に座禅で精神を統一させてから仕事に向かうのが常であった。定期的に朝一番で四守護神の会合があるのだが、その場にはいつも座禅を終えたマーズが一番に入る。マーキュリーは資料を揃えるためそれより遅く来ることが多く、ヴィーナスに至っては「大物は最後」などとのたまう遅刻の常習犯なので、マーズが一番に顔を合わせるのはいつもジュピターだった。そして今日も変わらず一番に会議室にいたマーズに一番に挨拶したのはジュピターであった。そして何を隠そう、ジュピターこそが朝一番のマーズの折角の精神統一を誰よりもかき乱す張本人でもある。
「おっす、おはよ」
「・・・ジュピター」
「やっぱりいつもマーズが一番だねーいやーえらいえらい。今日は特にいい朝だなー」
「・・・・・・・・・・・・・」
窓から差し込む日の光に向かい暢気に伸びをするジュピターに対しマーズは酷く不機嫌だった。その原因がいつも同様暢気であると言う事実がマーズをいらだたせる。直にマーキュリーもやってくるだろうしとマーズは、とっとと自分の不満をジュピターにぶつけることにした。
「昨夜どこに行ってたの」
「・・・ん?」
「昨日の夜あなたの部屋に行ったら留守だった」
「・・・あ、え?」
「結構遅い時間だったって言うのに、誰と一緒にいたのよ?」
マーズは腕を組みぶっきらぼうに尋ねる。ジュピターと言えば思い当たりがあるらしく苦笑いをして人差し指を顎に当てた。
「あー・・・昨夜、来てくれたんだ?ごめん気付かなくて」
「約束していたわけではないのだから謝罪はいらない。私はどこに行っていたのと聞いているのよ」
「やー・・・その、ねぇ・・・」
ジュピターは忙しなく視線を彷徨わせ、繁くドアの方を見つめた。マーキュリーが来ないかとそわそわしているのが目に見えたマーズはジュピターを睨むが、そこで派手な足音が近づいてきた。タイムアップに顔を顰めるマーズに対しジュピターは少し安堵したが、訪問者はマーキュリーではなく。
「・・・ヴィーナス?珍しいな、あんたがマーキュリーさんより先に来るなんて」
「って、寝巻きのままじゃない。ヴィーナス」
「っはっ・・・っはっ・・・そ、そんなことより・・・」
息急きかけてきたリーダーをジュピターは好奇の目で、マーズは非難の目で見つめたがヴィーナスはそれを無視し目の前の二人にまくし立てた。
「たっ・・・大変なの!マーキュリーが、あたしのマーキュリーがっ」
「いちいち『あたしの』とかつけなくていーから」
「マーキュリーさんに朝っぱら怒られて逃げてきたのか?懲りないねぇあんたも」
「違うそーじゃなくって!」
そこでマーズとジュピターは佇まいを少し直した。ヴィーナスの剣幕はいつもと違う様子を帯びていたからだ。本当に何か有事が起こったのではないかと微かに緊張が走った。
「え、マーキュリーさんに何かあったのか?」
「・・・朝あたしたちらぶらぶで揃って寝てたんだけどっ!」
「ああそう」
マーズの声は再び冷ややかになる。が、ヴィーナスもやはりそれを気にする様子は無い。
「マーキュリーが起きなくて、で起こしたら真っ青な顔していきなり気分悪いって」
「え、マジで!?」
「で、あたしの顔見るなり戻しちゃってっ」
「・・・寝起き一番で見たヴィーナスの顔がよっぽどショッキングだったんだな」
「・・・マーキュリー・・・心中察せられるわ」
「ちょっとどーゆー意味よ!?あんたら普通に失礼よこの美の権化に向かって!まともな目玉ついてんの!?」
「ああ、いつものヴィーナスだな。分かったからちょっとは落ち着け」
「なっ・・・」
ジュピターとマーズの顔は大真面目だった。一人だと、特にマーズ単品だとそれほどではないが、この二人が結託すると途端に扱いづらくなるのは、実はヴィーナスの悩みどころの一つである。無論、マーキュリーには及ばないが。
「でも、ヴィーナスの顔が原因で無いとすると・・・マーキュリー、どうしたのかしら?」
「あたしの顔を原因のいちいち第一候補にあげないで!仮にあたしのせいだとしたら・・・もっ・・・もしかして、マーキュリー・・・妊し・・・」
ヴィーナスが言葉を言い切る前に彼女の頬を炎の矢が掠め、背後の壁に刺さる直前で火花と散っていった。言わずもがな射手のマーズの手袋からは煙が上がり額の血管は静かに浮き上がっていた。一瞬の早業、マーズはこの手の冗談を極端に嫌うのである。
流石のヴィーナスもジュピターも一瞬唖然としたが、ここでマーズを突っ込むのは筋違いだろう。ジュピターは、恐怖のため今更わなわなと震えるヴィーナスに何事も無かったかのように声をかけた。
「・・・って、マーキュリーさんそんなに具合悪いのか?ってことは今は寝てるんだな?あんたの部屋だったらあたしが運んで・・・」
「・・・あ」
「あって何だよ。ちゃんと寝かしてきたんだろ?」
「洗面台にダッシュしてるの見て慌ててこっち来たからあのまま放置してきた・・・!」
「Σ何だとぉっ!?どっちの部屋だ!?」
「マーキュリーのっ・・・」
「マーキュリー!!」
ジュピターはそこでようやく血相を変えるとわき目も振らずにマーキュリーの部屋に走った。その行動は雷のように迅速であった。
それを思わず呆と見つめるヴィーナスを、マーズが背後から冷めた目で見つめる。
「さっさと着替えなさい」
「マーキュリーっ!!」
ジュピターは蹴破るようにマーキュリーの私室のドアを開いた。ひょっとしたら洗面所で昏倒しているのではないだろうかと言うジュピターの予想に反し、マーキュリーはベッドの傍のドレッサーに力なくもたれかかっていた。しかも裸同然の格好で。ジュピターは慌てて背を向ける。
「ああっ・・・ごめん!そ、そんなつもりじゃなかったんだ!」
「・・・・・・・・ジュピター・・・?」
マーキュリーは緩慢な反応を見せる。いつもの彼女なら即座に眉を潜めてノックくらいはという反応が返ってくるものだが。
「具合悪いってヴィーナスに聞いたんだけど・・・大丈夫?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・ええ。会合・・・遅れて、しまったの、なら・・・ごめんなさい」
言葉もいちいち歯切れの悪いマーキュリーにジュピターは重症だと判断し、再びマーキュリーに顔を向ける。どうやら彼女は着替えの最中だったらしくとろとろと衣装を身に纏っていた。足もとには畳んだ提灯のような形で脱ぎ散らかされた寝巻きがあり、「ヴィーナスと一緒で」裸で寝ていてそのままだったと言う懸念は外れた。内心そのことに安堵しつつ改めてマーキュリーを見ると、彼女は目に覇気が無く顔も真っ青、吹けば飛んでしまいそうなほどであった。医務室より墓場が似合う有様である。
「・・・マーキュリーさん、まさか今から仕事する気じゃないよね」
「・・・わたしのせいで遅れてしまったけれど・・・資料はきちんとそろえてあるから・・・」
「いやいや、あんた死神に取り憑かれた人みたいな顔してるよ!?おとなしく寝てなよ!」
「・・・大丈夫、出したら、少し・・・すっきりしたから」
「・・・少しじゃ駄目だよ!」
わたわたとするジュピターを尻目に、マーキュリーは生まれたての小鹿のような足取りでふらふらとデスクに向かう。脱いだ服をそのまま放置している辺りが普通の彼女ではない。ジュピターは慌ててその背中を抱くように捕らえた。
「―は、なして」
「・・・大人しく寝てるって約束したら離す」
「・・・・・・・い、や」
「素直に言うこと聞いてくれないと服ひん剥いて縛ってベッドに押しこめないといけないな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あ、や、変な意味じゃないよ?でもこういうのは客観的な意見のほうが正しいのは知ってるだろ。あんまりわがままを言われるとあたしも実力行使に出るしかないんだけど」
実際ジュピターに実力行使をされてはひとたまりもない。マーキュリーがいつもより数倍働きの悪い頭でとろとろと考えていると、いつの間にか膝の裏に手を入れられていた。視界が一瞬で上下する。
「大丈夫?すぐだからね」
まるでお姫さまのように抱えられた一瞬の動きで内蔵が揺すられるような感覚を覚え、吐き気がじわりと膨らんだ。目先の僅か数歩分のベッドまでの移動の間に口を開くことが出来ず、マーキュリーは思わずジュピターにしがみついた。ジュピターはやっぱりと内心で肩をすくめ、わずかな振動に気をつけながら静かにマーキュリーをベッドに横たえた。マーキュリーはぐったりしていて抵抗どころか微動だにできない。
「着替えられる?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「じゃああたしが脱がして・・・」
「・・・・・・じぶ、ん・・・でする・・・も、って・・・きてくれたら・・・うぐ」
「・・・洗面器も持ってこようか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙は往々にして肯定を意味する。が、実のところ口を開けると吐いてしまいそうだったのだ。そんなマーキュリーを見、これで仕事しようだなんて、と言う文句を飲み込んでジュピターは寝巻きと洗面器を取りにマーキュリーの部屋を彷徨う。そしてその際使用済みのカップ二脚とポット、皿とフォークが片付けてられていないままなのを見たジュピターは嫌な予感を感じながら足早に戻り、枕元に洗面器を置き独り言のように尋ねた。
「・・・昨日さー・・・何食べたんだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「もしやヴィーナスが持ってきたものを食べた・・・なんてことはないよね」
「・・・ええ」
「ええっ!?いや、あれは駄目だろ!」
先ほどよりはっきりした声に、横になり落ち着いたことで吐き気の波は少し引いたらしいが、いずれにせよ仕事などありえないコンディションであるのは間違いない。返事が返ってくるとは思って無かったジュピターは拾った寝巻きをマーキュリーに手渡しながら激しく突っ込んだ。
ヴィーナスに手作りを教えたのはジュピター張本人なのだ。そしてあまりの酷さに絶句もしたのだ。
昨夜はお菓子の新しいレシピでも試してみようかと上機嫌で調理場を使っていたところ、偶然ヴィーナスがつまみ食い目的でやってきてジュピターのやっていることに興味を示し―そしてジュピターは、同じ材料を使って何故こうなるかという暗澹な結果を見たのである。だが、作る前に、マーキュリーに持って行きたいとちらりと健気な発言をしていたヴィーナスにうっかり心動かされたジュピターは、数時間寝かせておくから後で取りに来るように伝え調理場を追い出した。そしてその間、何とかヴィーナスの作ったそれに似せて尚且つまだ口に入れられるものを作ってすり替えたのである。
自分のやっていることが結果としてヴィーナスを裏切る行為であることも自覚していたが、目先のマーキュリーの命を救いたかったのだ。そして自分はそれに時間を割いたせいで昨夜のマーズの訪問に遭遇できず、あまつさえ浮気疑惑までかけられているのである。しかし今朝マーキュリーがいつ入ってくるか分からない会合の場で、昨夜自分がケーキを作っていたと弁解してそれがマーキュリーの耳に届けば、聡い彼女は自分の下らない手回しの全てを悟ることだろう。だからあの場は必死で黙っていた。全てを知るのは自分だけでいいと思っていた。
それなのに、この現状を見るにどういうわけかヴィーナスは自作のものを持って行ったらしく、結果としてマーキュリーは死にそうだしマーズは怒るしヴィーナスを傷つける行為をしたことには変わりないと言う、ジュピターにとってはあんまりな結末となってしまった。
ジュピターは頭を抱えながらも、せめてもの救いのように片付けられていないティーセットを思い出した。
「・・・でもさ・・・マーキュリーさん、あれ・・・食べたんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「匂いとか一口めで駄目だって思わなかったのか?」
「・・・自分の味覚や嗅覚が完璧なわけでもないのに・・・人の作ったものに文句なんか・・・言わない」
「いや、でも、味覚嗅覚って、もともと危険物を判断する為に発達した器官であって・・・」
「・・・わたしは・・・自分の不摂生で体調を崩した・・・だけよ」
「・・・随分愛してるんだね」
何だか妙に見せ付けられる形になったジュピターは肩をすくめた。下手な小細工などない真っ向さを、まさか自分がブレーンであるマーキュリーに教えられるとは。
「スープでも作ろうか?そのままじゃ薬も飲めないだろ」
「・・・今は・・・何も口に入れられそうにないわ」
「じゃあ置いとけるようにしとくよ。大人しく寝てるんだよ?」
「いえ、別に私に構わないで・・・あなたも、仕事、あるでしょう・・・?」
「マーキュリーさんの方が大事だよ。じゃあちょっと待っててね、すぐ帰ってくるから・・・あ、なんかあったら無言でもいいから通信機とか。あたしでなくてもきっと誰でも来てくれるよ」
「・・・わたしの不摂生のせいでみんなに迷惑を・・・」
「いいからさっさと寝てるの!」
ジュピターはぼすぼすとマーキュリーに布団をかぶせ額に手を当てる。熱は無いようだね、流石に死ぬような材料は入ってなかったしきっと大丈夫だよと緩やかに笑んで静かに部屋を出た。
取り残されたマーキュリーは、仕事に後ろ髪を引かれつつも、先ほどジュピターに抱かれたことを思い出していた。一度吐いてしまったのでまだ少しは落ち着いているが、あんな僅かな動きだけで口も開けられないほどなのでは確かに仕事になるまい。そして一度横になってしまったのでもう立ち上がれそうにない。
「・・・うぅ」
ジュピターが去った室内で暫くマーキュリーはベッドで顔を顰めて耐えていた。仕事を諦めたマーキュリーはとにかく着替えなくてはと、ベッドの中でもそもそと芋虫のように寝巻きを探り、出来るだけ楽な態勢を維持しようとしながら仕事着を脱いでいく。ジュピターはすぐに戻って来ると言っていたし、それまでにせめて何か着ておかなければいけない。先ほども見られたのだし今更見られて困るようなものでもないとは言え、わざわざ見せたくは無い。
それでも僅かな動きが内臓に負担をかける。いっそ別の病気なんじゃないかと思えるほどの吐き気に顔を顰め寝返りを打つ。すると扉の蝶番が微かに軋む音がした。ジュピターがもう来たのだろうかと思ったが、それなら一応声をかけてくれるはず―と目を開くと美しい黒髪がぼやけて見えた。
「マー・・・ズ・・・?」
普段ハイヒールな訪問者の足音が聞こえないことを微かにいぶかしみながら目を凝らすと、マーズは手にハイヒールを引っかけ裸足でマーキュリーの枕元まで歩いてきた。
「・・・マーキュリー」
マーズは何も言わずにマーキュリーの額に手を乗せる。マーズのこの静かで些細な行動は今のマーキュリーにはありがたかった。そしてマーズの訪問そのものが嬉しかった。彼女自身仕事もあるだろうし自分が抜けたこともあるのに文句も言わずに黙って傍にいてくれる。声をかけず静かに入ってきたのも足音を立てなかったのも、ジュピターとはまた違った優しさのためだ。
そう思って目を閉じると、その瞬間にマーズから感じる静かな空気が一変した。寝込んでようが普段デスクワーク漬けだろうがマーキュリーとて戦士である、それくらいは分かる。何事かと再び目を開いたところでベッドが激しく軋んで揺れた。マーズがベッドに馬乗りになるように飛び乗ったのである。普段は鮮やかだと思うその動きも、今のマーキュリーには吐き気を揺り起こすものでしかなかった。
「うぶっ・・・!」
思わず上を向いたまま手で口元を押さえたが、マーズは何も言わずマーキュリーの上に乗ったまま掛け布団を乱暴に剥いだ。着替えてる最中の裸の状態が露わになりしかもベッドに押さえつけられているマーキュリー。本来貞操の危機を感じて然るべき事態だが、マーキュリーは内臓の中身を吐き出さないのだけで必死だった。色気も何もない。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
「・・・・・・・・・・・・・・・!?」
「悪霊退散っ!!」
「ぶはっ!」
そして叩きつけられるような勢いで額にお札を貼られたマーキュリーは、内臓がひっくり返るような感覚に見舞われ溢れ出すものをこらえきれなかった。だが、マーキュリーの懸念とは違いそれは灰墨色の気体のようなもので、口と言わず鼻から耳からもくもくと煙のように出、マーキュリーとマーズの頭上で雨雲のように固まり始めた。マーキュリーの体からその煙が完全に出たのを確認したマーズはその体勢のままそれを見据え、無言で炎を放つ。そしてその煙の塊は一体どこが声帯なのか黒板を大音量で引っかいたような不快な悲鳴を響かせ炎と共に消えていった。
マーズは一仕事終えた、と言う顔をしマーキュリーに向き合ったが、マーキュリーの顔は益々蒼白になった。
「・・・わ、わたしの体から何かがっ・・・」
「ここに来てあなたの顔見た途端何か不穏なものが憑いてるって分かったのよ」
「・・・よ、妖魔の類いかしら・・・?」
「いいえ、それならヴィーナスもジュピターもあなた自身も気づいたはずでしょう。さっきジュピターから聞いたんだけど、あなたヴィーナスの作ったものを食べたんですって?」
「・・・え、ええ」
「おそらくヴィーナスの作ったものの成分が、あなたの体内で奇跡的に魔性のものに変化し留まってたみたいなのよ。ただ、完全なものでなかったから・・・私が気付いたからよかったようなものの」
ジュピターの言う「死神に取り憑かれたみたい」はあながち間違っていなかったらしい。マーズは紙に書かれているものを読むように淀みなく言ったが、マーキュリーは正気では聞いていられなかった。マーズの能力に全幅の信頼があるし魔性のものの存在に対しても頭は柔らかいつもりであるが、たかがキッチンにあるものがそんなものに変化されてはたまったものではない。智将として興味深くはあるが、全く以って歓迎できない奇跡であった。
「とにかくこれであなたの中にあった魔性のものは祓っ・・・マーキュリー、まだ顔色悪いわね」
「え、ええ・・・確かに毒気は抜けた気がするんだけど、今の説明を聞いて・・・精神的に・・・気分が・・・」
「次々違う理由で気分悪くなれるなんて随分器用なのね」
「そういう問題じゃないと思うのだけど・・・」
「いずれにせよ、自主的に危険物を摂取するなんて感心しないわね。どうして最後まで食べたの」
マーズの言葉は呆れはあれどどこかからかいめいた響きがあり、マーキュリーを、ヴィーナスを本気で非難しているわけではないのは分かった。マーキュリーはマーズのこういう部分を決して嫌いではないのだが、毒気が抜けて少しは回り始めた頭は反論の言葉を組み立てた。
「危険物って・・・わたしは、ブレーンとして、どんな状況に遭っても表情に出さずに物事を達成する能力が必要だと思っただけで・・・」
「その結果ぶっ倒れてるんじゃ駄目だと思うわよ。本当にブレーンなら、相手に気付かれずに危機回避する方法を取るべきだと思うけど?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ヴィーナスを傷つけたくなかったのは分かるけど」
マーズはにやりと笑んだ。彼女にしては珍しい表情だった。
「わたしは・・・そんなつもりは・・・」
「はいはい」
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