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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

過去の体験や出会いに思う

2020-10-28 23:20:05 | 心理
講習の勉強やワークなどでギターを弾いたり、音楽を聴いたりすることがほとんど出来なくなってしまったが、それもしかたがない。
寝る前に浮かんできたことを、ちょっとメモしておきたい。

最近、自分の過去に起こった出来事、出会った人間のうち、嫌だっったことや嫌だった人間が、長い目で見れば自分に学びや成長の機会を与えてくれていることに気付いてきた。

過去に、もうあんな嫌な目に会いたくないとか、あんな人間と関わったことで人生を台無しにしたとか、思うことが多々あったが、その体験や出会いというのが、今思うと、偶然という要素ではなく、必然的というか、運命として定められていたかのように思えるのである。

人間は精神的に成長するまで、絶え間なく、このような体験や出会いが差し向けられると言える。
嫌な人間と出会い、関わり、嫌な思いをした、ということは、自分の心を成長させる、何か学ぶを得る機会を与えてくれた、という視点でとらえられる心境にまでなれれば、生きることはさほど怖くはないのではないか。
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軽く扱われたときどうするか

2020-10-14 23:18:03 | 心理
最近あることに挑戦し始めたが、それによって時間の使い方にメリハリが出てきた。
寝る前の僅かな時間でも書きたいと思ったときは何のテーマでもいいから、一筆書いておこうと思う。
心理のテーマのつづき。

軽く扱われる
ぞんざいに扱われる
粗末に扱われる

このような扱いを受けると人は自然に怒りが生じる。
この時、この怒りをしっかりと感じ、相手に明確に抗議する人もいれば、怒りを感じても無意識に抑圧(感じないようにして)し、相手の扱いをそれが自分のことにように受け入れてしまう人もいる。

後者のような人が鬱になる。
あるいは鬱になるのを回避するために、自分より弱い立場の人(例えば子供や配偶者、部下など)、あるいは、新聞やネットなどへの投稿などの手段で特定の人物に抑圧された怒りを発散させる人もいる。

鬱になるような人は、親などから理不尽な扱いをそのまま(自動的に)受け入れるように、心のパターンを強固に植え付けられている。
このパターンを崩していくことは並大抵のことではない。
重い人は何十年もかかるだろう。解決しようともがきながら、努力もむなしく一生を終える方もいる。

この強固なパターンを崩す糸口として何があるか考えてみた。

①冒頭にあげた、軽く扱う、ぞんざいに扱う、粗末に扱う人で、恒常的に行っている人というのは、心に深刻なダメージを受けて、そのダメージから生じる不快感に苦しんでいる不幸な人であると理解する。
つまり、自分がダメな人間だからそのように扱われるのではなく、そのような扱いをする人こそが心に深刻な問題を抱えていると、捉え方を変換させる。
他の人には見せないが、自分には見せるその人の本性(真の姿=苦しんでいる)が、その時に現われていると見ていい。

②①のような問題を抱えた人ほどではないが、時に人を軽く扱う面を出す人がいる。
そのような人は、接する相手によって対応を変化させている。
飲食店の店員などにぞんざいな口のききかたをするような人だ。
このような人は、日常接している人に対しても、自分にとって重要性が無ければ丁寧さを欠くふるまいや言い方をする。
このようなタイプの人から、何か言われたときカチンと来ることがある。
この時、かなり強く不快感を感じたならば、過去のトラウマが反応している可能性が高い。
もしくはトラウマが無い場合は、今まで周囲から大事に扱われた経験ばかりで生きてきて、人はお互いに丁寧に対応するのが当たり前と思っているような場合である。
この時かなり強い不快感を感じたことから、その相手に対しその後継続的に敵とみなしてしまうことがあるが、このような捉え方が根付いてしまうと、ますます苦しみのパターンが強化され増幅されていくから避けた方が良い。
このような人の場合、そのような変な一面があるのだ、捉えたい。
そしてその人のそのような一面は、自分の本質には無関係であると気付き、切り捨てることが必要だ。
実際、そのような人は、自分が相手にしたことを特段意識していないし、明確な悪意でしているというより、その人特有の強いていれば避けがたい悪い面が出た、という程度の場合が殆どであろう。

(この続きは後日)
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不平不満の正体と解消方法

2020-09-28 22:02:50 | 心理
先日行った小旅行記を書くつもりだったのだが、なかなか筆が進まない。
明日は在宅勤務で朝は少しゆっくりできるので、寝るまでの間、別のテーマを書くことにした。
人間の心理だ。
「不平不満」の心理について考えて見た。

常に不平不満を抱えた生き方って辛い。
恒常的な不平不満でやっかいなのは、その感情が正義感、正論、といったものに姿を変えて表現されることだ。
当の本人は不平不満をこのようなものに置き換えて表出していることに気付かないし、このような偽装された感情を向けられた側もなかなか気づけない。
私の経験上、もっとも避けなければならない人間関係というのがこのパターンだ。

では何故、人間は恒常的な不平不満を持ってしまうのか。
いくつかの原因を考えてみた。

①人生のプロセスで不幸な人間関係から受けたトラウマなどが原因で自分の潜在意識の深いところに、自分の本当にやりたいこと、本当の感情の表現を規制する働き(心理的ブロック)が根付き、その規制の働きと自分の本当の感情との間の葛藤が怒りの感情を生みだし、その怒りをストレートに表現できない状態が、不平不満という形となって表れる。
この規制は強い恐怖と結びついた想念のようなものである。

②①のような自分の気持ちに規制がかかった状態だと、自分の気持ちのとおりに行動することが出来ない。だから自分で行動しないで他人に依存することになる。
自分の力で気持ちを満たすよりも、他人に何かをして欲しい、他人に何かをしてもらいたいという心理傾向が恒常的となる。
その結果、ますます自分が頼りなく感じるようになり、それがまた他人に対する依存心を助長させていく。

要は不平不満とは、心の中に自分でどうすることも出来ない心理的な規制があるために、自分の気持ちを自分の力で満足させることが出来ず、その結果、他人に何とかしてもらおうと依存する状態で出てくる感情なのだ。
だからこの気持ちがストレートに現れずに、他人や政府、政治家などに対する批判とか、有名人のスキャンダルに対する誹謗、中傷などといった形で現れることもある。
自分のその感情を認められないからである。

ではこの不平不満を解消するにはどうしたらよいのか。
まず2週間でもいいから、この不平不満を封印する。
不平不満がいつものように出そうになったら、ガマンする。
自分の心の問題から来る不平不満を、他人などへの正義、正論といった批判の形で、偽装された転換をしない。

こういうことを実践していけば、自分の心の中に強い恐怖とセットなった心の規制が存在していることに気付くに違いない。
そしてこの規制と自分の本当の気持ちとの葛藤が不平不満を生みだしていることに気付いていく。

しかし気付いたからと言って、この規制は簡単に取れるものではない。
まずはこの規制の存在に気付きながらも、心の奥底の本当の気持ちを満たしていく。
要するに規制と自分の本当の気持ちとを切り離してみるのである。
規制は多くの場合、強い恐怖であるが、この恐怖を感じながらも、自分の本当にしたいことに気付き、それを実行していく。
そうすると他人に対する依存する気持ちもなくなっていくのではないか。
他人に依存して不平不満を言っているくらいなら、自分のしたいことを実行した方が、よっぽど気持ちいいということが体感されていくからだと思う。

規制が強い人は、人に心を開いていけない。
規制の強さに押しつぶされて、エネルギーを消耗しつくしている。
辛い思いをしてまでエネルギーを枯渇させるくらいなら、独りでいた方がましだ、という心境であろう。
だからあえて人と関わらずに、自分の世界の中で楽しみを見いだす人もいる。
このようなタイプの人は不平不満は少ないが、孤独で、人と関わる喜びを体験していないから、世の中で生きるという現実感を感じていない。

規制の強さには個人差があるだろうが、強い規制がある人が自らの力でそれを解消していくことは並大抵のことでないと思う。

次回の心理のテーマではこの「規制」とどう向き合うかについて考えていきたい。
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正義中毒に注意

2020-06-05 22:24:17 | 心理
最近、SNSなどのネット上のコミュニティで、誹謗・中傷による被害を受けることが問題視されるようになってきた。
何故、ネット上で誹謗中傷が激しくなるのか。
誹謗中傷を行う人間は一体、どのような人物なのか。

こういう場、すなわち自分の素性が分からないのをいいことに誹謗中傷を行う人間とは、恐らく、現実の世界では、他人から面と向かって嫌なことを言われても直接対決できないような人間に間違いないであろう。
例えば、職場の上司に「お前は仕事のろい。お前、本当につまらない奴だな」などと言われても、真っ向から戦わないような人間なのである。
以前、ある人のブログのコメント欄で、人格否定するような誹謗中傷が相次いで、その書き込みをした人間が警察により特定され、7人の人間が起訴されたというような記事を読んだことがあるが、その書き込みをした人間とは、ごく普通の真面目でおとなしいサラリーマンやOLだったという。

つまりネット上のような匿名性の高い場所で、口汚くののしったり、人格否定するような言葉を平気で使う人間は、表向きは普通でおとなしい人間だけど、弱いうえにずるくて卑怯な最低の人間なのだ。
堂々と犯罪を犯す人間と同じ心理状態なのに、他人から巧妙に分からないように実行するのが特徴だ。

こういう影で人を中傷するような人間も、過去の生育過程で親や先生、同級生などから虐待されたり、傷つけられたり、仲間外れにされたり、本来は救われなければならなかった人間たちなのである。
このような人間は、過去の恐ろしいトラウマから絶えず生じてくる怒り、憎しみ、不満などの耐えがたい、自分ではどうすることもできない悪感情に日常的に苦しんでいる。
しかしその自らの悪感情と向き合い、その悪感情の元となっているトラウマに直面し、自分自身が幸せになるために地獄のようないばらの道を歩んでいくような生き方を選択することを拒否している。
地獄のような苦しみを味わうくらいなら、人に分からないように、巧妙なやり方で自分の悪感情を吐きだした方が楽だからである。
しかし、その代償は大きい。
ずるい手段で誹謗中傷を日常化させることでは100%幸福になれない。
意識しなくても、無意識では自分が卑怯なことをしていることを知っている。
やればやるほど無意識の世界では、自分が最低の人間であることが深い根雪のように刻まれていく。
無意識は真実を知っている。

誹謗中傷に類するもので、「正義中毒」というものがある。
以前にも記事にしたことがあるが、「正義」、「正論」、「モラル」といったものを隠れ蓑にして、癒し難い恒常的な不快感情を吐きだすことを意味している。
「偽装された憎しみ」という言葉が、心理学の書物に出てくる。
恐ろしい言葉だ。
ちょっとした失敗、不注意、失策、過ち等、人間である以上免れないものを見つけ出し、これでもかと「正義」、「正論」を盾にとって責め立てる。
このような人間から日常的にからまれたら恐ろしい結末が待ち受けている。
これは非常にたちが悪い。なかなか見分けがつかない。
何故ならば、正義、正論で責められると、真面目な人、自責の念が強い人、優しいけど弱い人などは、自分が悪いから責められるんだと解釈し、自分を追い詰めてしまうからだ。
責めてきた人間の心の裏に潜む真の動機に気が付くことができない。

正義中毒者による責めは、ときに人の心を破壊するほどの力を持っていることがある。
「魂の殺人」という言葉を、昔、心理学の本で見たことがあったが、そのときぞっとしたのを憶えている。
先に書いたように真面目な人や、弱く心の優しい人間はこの責めをまともに受け止め、真面目であればあるほど自分を変えようと凄まじい努力をする。
しかし努力すればするほど心が破壊されていく。いきつく先は自殺である。
恐らく責めた相手の方がおかしいのではないかと気づかなければ、自殺して不思議ではない。
しかし中には、そこに気付かなくても自殺しないで済む人がいる。
これはどういうことか。
これが冒頭に述べた誹謗中傷する人間である。
彼らは魂を悪魔に売った人たちである。

自殺した人は、心が破壊され苦しみもがきながらも、最後の最後まで良心を捨てることが出来なかった。
自らの命と引き換えにそれを守り通した人たちなのである。

よく自殺した人間を弱い人間だ、という話を聞く。
とんでもない。何も分かっていない人である。地獄の苦しみを味わったことがないから、いとも簡単にそのようなことが言えるのである。
自殺という行為はどんな決断も及ばない、究極の決断と言える。
誰もその行為を責めることは出来ない。
まして弱い人間なんかが出来るはずがない。

誹謗中傷や正義中毒による責めを受けたとき、その瞬間、何か理不尽な釈然としない気持ちが湧き起る。
この気持ちは無意識の真実の感じ方から来ている。
自分の心を破壊する方向に向かわせないためにも、この感じ方を重要視することが大切だ。
自我が確立していないと、なかなか相手の真意を見抜くことができない。
しかしこのことに気が付けば、誹謗中傷者や正義中毒者という人たちが、最低の卑しむべき人間であることが見えてくる。
これが出来るようになってくれば、そのような人間からいくら言われても、取るに足らないと感じることが出来るようになる。
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新聞の読者投稿に思う

2019-12-27 22:31:26 | 心理
ここ2,3年、新聞を読んでいて気になることがある。
購読している新聞には読者の投稿欄があるが、投稿の中に、いつも何か嫌なものを感じるものがあるのだ。
その投稿とは、現政権、とりわけ安倍首相を異様なほど批判するものである。
それは単なる批判を超えて、個人を貶めるほどの強い感情を感じさせるものである。
投稿者は高齢者が多い。
人生の先輩という自意識が強すぎるのか、一国の首相ですら平然と見下しても一向に構わないという姿勢が透けて見える。
今問題として報道されている「桜を見る会」に対する批判が多いが、誰かが投稿すると待っていましたと言わんばかりに次々と同じような批判投稿が連日のように寄せられる。
つまり自分が首相を批判しても、自分以外にもたくさんの人が同じように批判しているのだから、批判することに抵抗を感じない、ということなのであろう。
一方、反面、北朝鮮、韓国、イラン、テロ、トランプ大統領などに対する批判投稿は皆無である。
これも不思議だ。これらの問題は「桜を見る会」のような問題よりもはるかに議論すべきテーマとして取り上げられなければならないものだろう。
何故投稿しないのか。それはこれらの問題に投稿したことで不利益や報復を被る恐れがあるからであろう。
気になったのは、この人たちは本当に、「桜を見る会」を問題視して、改善を促すために投稿したのであろうか、ということだ。
本当のところは、「桜を見る会」はどうでもいいと思っているのではないか(恐らくそうは意識していないかもしれないが)。
「桜を見る会」でも「モリカケ」でも何でもいい。首相が安倍さんでなくてもいい。
もちろん全てにあてはまるとは思っていないが、この投稿を読んでともかくも私が感じたことは次のようなことだ。

人は、怒りや憎しみなどの癒し難い負の感情を日常的、恒常的に抱えていて、かつその感情を明確に意識できない場合、無意識に、最も安全でかつ、解消効果の高い対象に毒を吐きだすという側面を持っているということだ。
安倍首相などが矛先に選ばれるのは、最も安全(すなわち誰もが批判しているから自分は正しいのだという合理化が可能)で、毒の出し甲斐のある(一国の首相よりも、自分を一段高い位置に感じられる)からだ。

心理学などの本を読むと、「偽装された憎しみ」という言葉に出くわすことがある。
「偽装された憎しみ」とは、正義や正論の仮面をかぶった憎しみや怒りのことである。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、最も注意しなければならない人だ。
ヤクザ以上に。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、耐えがたい、恒常的におきている深刻な不快感情の原因を自ら意識し、自分で解決しようとしない。
それらの不快感情が自分の心の中の原因で起きていると自覚できずに、無関係の他人にその感情の原因を求める。
ターゲットとされる無関係の他人とは、自分のやっていることの真意に直面しなくて済むような安全な存在、すなわち、自責の念の強い人、やさしいが弱い人、孤独な人、自信が無く自我が確立していないような人である。
程度にもよるが、偽装された憎しみを持つ人は、このような人たちの心を強固に破壊する。
際限が無い。場合によっては死に至らしめることもある。
いじめによる自殺がそのいい例だ。
偽装された憎しみを持つ人は、心理的弱者の心を破壊していることに全く気付いていない。
自分の行為を合理化して正統だと思っているか、良心が麻痺しているかのどちらかだ。
案外、このような関係は日常的に起きているのではないか。
夫婦間、親子間、上司と部下、同僚との間、級友、先生と生徒、恋人どうし、等々。

このような人に巻き込まれ、心が破壊されてしまうと、再生するのは容易ではない。
程度にもよるが、回復するのに何十年もかかる。一生かかるかもしれない。
だから人間関係で何よりも最も注意しなければならないのである。
だだ、犠牲になった人は決して自分を責める必要はない。
自分には疑いもなく人間的な「良心」があったのである。

人間を表面だけでしか見れないと、このようなことに巻き込まれる可能性は十分にある。
人の心の真の動機が明確に認識でき、客観的に相手を見れるようになるまでに成長していることが必要だ。
そして、何かの機会に、偽装された憎しみを持つ人に関わり、負の感情を吐き出されたときに、それがどんな状況であれ、その人がどんな立場の人であれ、「相手のしてきたことは自分には全く無関係だ。今されたことは自分に原因があるのではなく、相手の心の問題だ。」と切り捨てられるようになるまで、心理的成長(=自我の確立)していることが求められる。

かなりドロドロした話になってしまったが、ちょっと感じたことを書いた。
こんな話はあまらさまに口頭では出来ない。
文章にすると、何かとても暗いものになってしまう。しかしあえて書いた。

人間の心理を考えるようになって、30年。
心理的な幸福を得るためにどうしたらよいのか。人は愛されなかったとき、どう生きればよいのか。
私にとっては日常の最大のテーマであり、多分一生続いていくのではと思う。
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