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Reunion







 誰かといっしょに寝たのはいつ以来だろうか、と亜美は思った。
 幼少期からすでに自室を与えられている上、両親は離婚し父とは別居、母は多忙の彼女に家族旅行の経験もなく、家族と並んで眠りについた記憶は果てしなく遠い。記憶を巡らせる。
 学校行事の旅行でクラス全員で布団を並べたことくらいか、友人とのお泊りも経験がある、いや、先日は医者の不養生で簡易ベッドに横たわりながら怒れる看護師に点滴を刺されたはずだが、あれも誰かといっしょにいて横になった状態には変わりない―そんな風に過去の記憶から現状に近い状況を手繰り寄せようとする。だが、現在まで勉学と仕事一筋で生きてきた亜美に、ベッドを共にする、という表現がしっくりくる経験はかつてなかった。

 そして、今、その状況に放り込まれて亜美は大変動揺していた。

 ふと目が覚めたら、薄暗い中天井が見えた。そこまではよかった。まず仕事のスケジュールを脳内で確認し、珍しくオフだからこうやって暗い場所で横になっていられることも思い出した。ほう、と息を吐く。
 薄暗いのは明け方だからかと思ったのはほんの一瞬のことで、すぐに回りだした頭は部屋に薄明かりが付いていることを認識した。亜美は眠る前の自分の行動に意識を戻そうとする。ほんの少し体を動かしただけで肩や腰に重苦しい痛みがのしかかり、頭もどこか気持ちの悪い浮遊感に支配されている。もうしばらく横になっていた方がよさそうだ。

 そうしてまた息を吐き、難儀しながら寝返りを打ったら、向いた方に見知らぬ人物が寝ていたというわけだ。

「・・・な、な、な・・・」

 眠気は一瞬で飛んだ。高速瞬きを十回ほど繰り返してもそれは消えてくれず、寝ぼけているのでも幻覚でもない。飛び上がったり悲鳴を上げたりしなかったのは、単に彼女が疲れ果てていたからに過ぎなかった。

「・・・な」

 四回目の「な」でやや冷静さを取り戻した亜美は、まず自分の身に何か起こっていないかを確認する。縛られていたりはしていない。着ているのは見知らぬ服ではあったが、乱れてはいなかった。暴力的な被害は受けていないようだ。
 そして侵入者、というには穏やかではないが、見知らぬ訪問者は亜美の隣で添い寝でもするようにすよすよと眠っている。体はタオルケットの下にすっぽり収まっていたが、それでもわかる体の線のなだらかさ、薄明かりの中顔に流れる長い髪、輪郭や鼻梁のライン、肩の骨の形からして、女性だ。

 実際の経験はともかく、誰かと一夜を共にすることに大騒ぎする年齢でもないのだが、それでも隣にいるのが女性だと知ってほんの少しだけ亜美は落ち着きを取り戻した。声を立てないように息を飲む。

 そうやって少し落ち着いて考えてみても、一緒にベッドで寝る習慣のあるものもあったものも、亜美の人生にいなかった。死の直前に見る走馬灯のように過去の記憶を巡ってみたが、どこを探してもいやしない。記憶力には自信がある亜美だが、目の前の顔にまったく見覚えがないのだ。

 その彼女があまりにも当然のように眠っているので、暗い中よくよく見まわしてみたらここは自分の部屋ですらない。多忙すぎて滅多に家に帰って来られないとはいえ、そんなことに気付かなかった自分にも動揺した。侵入者は自分のほうではないか。
 それでも、自分の意思とは無関係に知らない場所にいるのは変わらない。ばくばくとうるさい心臓をなんとかなだめすかし、薄明かりの中目をすがめ相手の動向をうかがう。逃げるべきか警察を呼ぶべきか、はたまた戦うべきか。逃げるには目の前の彼女に気付かれずベッドを降りなければならないし、携帯電話も見当たらない。小学生を相手にしても負けそうなほど疲れている体で戦うのは無謀すぎる。そもそも、なぜこんなところに自分がいるのかすら、わからない。
 まとまらない考えの中亜美はなんとか呼吸をしていたが、ふと、目の前の女性がぴくりと動いた。

「・・・ん」

 起きないで、と願ったのは、目の前の彼女か、それとも神様にか。だが友人と違いシックスセンスなど持ち合わせていない亜美に、誰かに心の声を届ける術などない。目の前の彼女は、無情にもゆっくりと目を開けた。

「・・・あ、起きたの」

 それはこちらのセリフでは、と思わず言いたくなる言葉を寝起きのわりになめらかに吐いた彼女は、一度大きな欠伸をするとぱちりと大きな目を開いた。長くてふわふわの髪が顔の前を滑り落ちる。

「・・・あ、あ、あの」
「あれ、まだ夜だよね。もうちょっと寝たら?」
「え、あ」
「あ、でも起きたらなら、もう一度寝るにしてもメイクは落とした方がいいかもね。着替えは勝手にさせてもらったんだけど」
「・・・な・・・!」
「それかお腹空いた?なにか作ろうか?」

 目の前の彼女は、亜美の意志に関わらず自由なことを言っている。なにかの間違いでなく、明確な意思を持って、彼女はここにいる。しかも着替えは勝手にさせてもらったとか、ずいぶんと聞き捨てならないことまで。少なくとも危害を与えられることはなさそうだが、亜美はさらに混乱した。目の前がぐるぐるする。

「どうしたの?まだ具合悪いの?」

 すっと体を起こし、こちらを覗き込んでくる翡翠の瞳。知らない人のはずなのに、既視感に脳が歪む感覚を覚える。むしろこれは違和感と言った方が言った方がいいのかもしれない。知らない。わからない。なのに、目を開いた彼女を見て、脳と胸がざわざわする。

「ああ、だいじょうぶ?」

 目が回る。最後にものを食べた時間が遠すぎて思い出せないのに、吐き気だけはむやみにこみあげてくる。口元を抑えてベッドに手を付いた。手を添えられる。体に力が入らなくて、拒むこともできない。重力が狂ったみたいに体が沈んで、涙で視界が揺れる。それなのに、一度合った目に意識は縫いとめられた。

 吸い込まれそうな緑の瞳。暗いはずの部屋で、それだけは異常なほど明瞭だ。薄暗さにたわむ瞳孔と、角膜が薄明りを弾き返す角度までが焼印のように脳髄に刻み込まれている。はじめて見たのではない、記憶から一致して、思い出しただけだ。目の前の女性は知らなくとも、その瞳の持ち主は知っている。古くて、深くて、亜美の背骨に食い込んだ記憶。体は間違いなく崩れていくのに、長く使っていなくて錆びついたからくりががらがらと油を得て軋みだしていくような。

 走馬灯は、死の直前に過るものと相場が決まっている。わりと深刻に死に瀕しているのかもしれない、理系感覚ではなく、文学的な感性で亜美は思った。医者でありながら医者になりきれない自分にはお似合いかもしれないとどこか自嘲的に感じたが、今の世の中死ぬのだって難しい。亜美の目の前の女性は、亜美を死なせてはくれないようだ。

「しっかりして!」

 崩れ落ちる体を掴まれたとき、いかずちのように既触感は訪れる。走馬灯よりもっとはっきり、くっきり。

「先生!」

 彼女は、亜美を知っている。亜美が医者だと知っている。だからこんな呼び方をする。更に体が崩れる。抱きとめられる。覚えている目が見えなくなって、距離がゼロになって、鼻腔に懐かしい香りが染み込む。

「あなたは―」

 これらの持ち主を、亜美は間違いなく知っている。だが、目の前の人物のが誰かわからない。だって。あれから、まだ。どれだけ経ったのか。

 思い出せない。

「だれ、」

 という言葉は、空気が掠れる音にしかならなかった。混乱は思考を渦のようにかき混ぜ、亜美の意識を引きずりこんで消えた。





 水野亜美はただの中学生だった。己の進路に悩める、判で押したような平凡な女子中学生であった。ただ、敢えてほんの少し彼女が他と違うことをあげるとするのなら、その頭脳がずば抜けていたということだ。
 高い知能とたゆまぬ勉学への努力、その相乗で得た能力は同世代からはるか抜きんでいた。だが、本来世界を広げるはずの知性は周囲の期待という名のもと、彼女の視野と未来を狭め、困窮させるものに他ならなくなっていた。

 進路という名の迷路。鞄の中の進路希望調査票はただの紙切れであるにも関わらず、妙な重さを伴って亜美の手のひらに食い込んでいる。

「(どうしよう・・・)」

 母が医者だった。だからあまり家族の時間は取れなかったが、それでも母を尊敬していた。人の命を救うということがどれだけ素晴らしい仕事であるかを知って、自然と医者という夢を自分も追うようになっていた。
 だが、いざ、進路の分かれ目で亜美は迷っていた。医者になる意志を伝えれば、おそらく誰もが納得し応援してくれるだろう。母もそれを望んでいてくれている。学力でも、このままだと問題はない。元々勉強は好きだ。問題などどこにもない、はずだった。

 小学生のころはただ、母に憧れていただけだった。だが中学生活も終わりに近づき、自分の意志で進むべき道を選ばねばならない現実を前に、亜美の心は暗い。

 ほんとうに、医者など務まるのか。

 身長が伸びて、胸が膨らんで、月経が来て。そんな誰にだって訪れる二次性徴に心を乱され、命の動きに動揺する。自分のことですらそうなのに、他人の命の息吹に関わることに、ひたすらに怖ろしさを感じた。ひとの命を扱う職業が持つあまりの重さに、目がくらみそうになる。

 鉛のような重苦しい感情を抱え、亜美は彷徨うように通学路から外れた。ささやかな反抗心ではあったが、まっすぐ家に帰る気にはなれなかったのだ。しかし華やかな街の方にも足は向かず、気づけば普段は行かない方面の住宅街に足を踏み入れていた。

 特に知り合いがいるわけでもなかったが、その気兼ねのなさが却って都合がよかった。見知らぬ道に敢えて入るように角を折れる。夕暮れの住宅街は静かで、人の往来も少なく、穏やかな道のりだった。自分を知る人がいない見知らぬ道というのは、ほんの少しの緊張感と高揚感、そして開放感がある。

 案外、進路もこういうものなのかもしれない。医学の道を選べば母はアドバイスをくれるだろうし、周囲も期待し応援してくれるだろう。それは見知った人ばかりの街の道を歩くような感覚に思えた。ひたすらに見守られているが、歩むのも挫折するのも自分自身だ。その場合、向けられる目線が重苦しくもある。
 なら、このように誰も自分を知らない道を彷徨って見るのもいいかもしれない、と亜美は思った。医学に魅力を感じないわけではないが、覚悟が決まらないのに、おいそれと足を踏み入れていい領域ではないように思えたのだ。

 少し足早に、次の角を気まぐれで曲がった。誰もいないと思っていた塀ばかりが並ぶ住宅街、亜美の目線に飛び込んできたのは、背を丸めてうずくまる女性の姿だった。思わず駆け寄ったのは、重責もプレッシャーもなにもない、人としての衝動でしかなかった。


 それは亜美が医者になることを決めた、遥か遠い記憶である。





「―ぁ」

 古い夢を見ていた。
 気がつけばまた目の前は天井だった。だが、先ほどと違い、カーテンに陽の光が透けている。もう朝、と息を吐いて寝返りを打つ。先ほどよりは幾分か体が軽く感じたのは、やはりまともな睡眠をとったからだろう。寝て楽になるのなら日頃からもう少し睡眠時間を確保すべきだったと、ベッドの中で己の日頃の不摂生を呪う。

「ああ・・・」

 今度は寝返りを打った先に誰かが寝ている、ということはなかった。だが、視線を巡らせてみれば、やはり病院でも自分の部屋でもない。先ほどのやり取りは夢ではないようだ。体をゆっくり起こしながら、ようやく余裕をもって自分の置かれている状況を思い出す。

 医師として多忙を極める亜美が、病院を追い出されるように休暇をもらったのは、端的に言えば過労が原因である。
 食事の時間もろくに取らず、睡眠時間を削りに削り、それでも栄養不足と疲労を手っ取り早く点滴と注射でごまかしていた。が、頻度が上がっていくにつれ腕に穴を開ける場所が無くなり、それでも強硬で針を刺したら皮膚が崩れうっかり腕が血まみれになってしまったところをナースに目撃され、それで結局病院を叩き出される、という情けない顛末だった。

 今度は手間でも首に注射しよう、と反省にならない反省に亜美は頭を垂れ、立ち上がった。微かなふらつきはあったものの、両足でしっかり体を支えることができた。穴だらけの腕に巻かれた包帯はそのままで、医療品独特のよそよそしい香りを残している。あれから何日も経っている、ということはなさそうだ。
 ベッドのすぐそばに、鞄は置いてあった。特に財布などは気にせず亜美は真っ先に携帯を開く。予想通り、ここに来る前の自分の最後の記憶から一晩明けただけの日付と、社会が本格的に動き出すにはいくらか早い時間が表示されており、そして誰からも連絡はない。ため息に安堵とともにほんの少し自虐めいたものが混じっていたことを深く考えず、亜美は更に記憶をたどる。

 帰れと言われて、病人より病人のような顔で病院を出たことは覚えている。タクシーを使ってくださいという看護師の言葉を固辞したのも覚えている。タクシーで座ってしまったら起きられる自信がないというのもあったが、なにより病院で待つタクシーは患者のためのものだ。医者の立場で使うわけにはいかない、そう思ってのことだ。そして、そこからの記憶はほとんどない。

「ここは・・・」

 灯りがなくとも日光が差し込み部屋はすでにほの明るい。改めて見回してみて、やはり見知らぬ部屋だ。
 ほとんど荷物と大量の資料置き場と化している自宅とは違いこじんまりとして、だが、人の手が届いたぬくもりのある部屋。病室の、潔癖じみた清廉さと病がもたらす汚濁が入り混じるひんやりとした印象とは雲泥の差だ。
 自分は自宅にたどり着けなかったのだな、と亜美が他人事のように思ったのは医者のくせに己の命にあまり頓着してこなかったからだ。道端で倒れていたのなら、そのまま死んでしまったり、交通事故に遭ったり狼藉を受ける可能性もあったろうに、その手のことにはあまり危惧を感じなかった。ただ、自分の命を削って医療に従事してきたわりに、死に瀕した時に見えたのは、残してきた自分の加療を待つ患者たちの顔ではなかったことには自嘲の笑みがこぼれた。

 やっぱり、医者失格ね。

 亜美は落ち着いていた。それは、この部屋が妙に心地いいというのもあったが、隣に誰もいないからだ。
 今起き抜けに見知らぬ人のアップを見たら今度こそ悲鳴を上げていたかもしれないが、そうでなかったから亜美には思い出す余裕ができていた。危害を加えられないとわかったのも大きい。おそらく昨夜顔を合わせた人物が助けてくれたのは間違いないだろう。目が覚めたからには非礼を詫びて、ここから出なくては。そう思い、彷徨うように部屋を横切った。

 寝室を出ると、キッチンから音がする。家族や同居人でなければ昨日顔を合わせた人物のはずだ。きちんと迷惑をかけた謝罪をし、今財布にどれくらい入っているかはわからないが、とにかく誠実な態度を見せる。

 そして、着替えて、この家の場所を聞いて、一度家に帰る。そして改めて大人の対応をする。だいじょうぶ、話せる。そう決意して亜美はキッチンを覗く。

「・・・・・・・・・」

 亜美の予想通り、彼女はキッチンに立っていた。ベッドではわからなかったが、すらりとした長い手足に、女性らしさを感じる整った体のライン、さらには高い位置に結われたポニーテールが若々しい。たが、背を向けていることに、亜美は少し声をかけるのに戸惑った。
 キッチンの前に細やかに素早くに動く手は子どもの頃見た母ではなく、医学生時代に見た外科手術をする医師の背中を思い出させる。手術は患者の負担を減らすべくとにかく手際をよくすべし、そんなこと当たり前のことをいまさら思い出させるほど、鮮やかで迷いのない手だったからだ。作業がひと段落するまで待った方がいいだろうかと最初はおろおろと彼女の背中を見つめていた亜美だったが、いつしかその手の動きに目を吸い寄せられていた。

 そうやってしばし見つめていたが、亜美の熱い目線に気付いたのか、ふと、彼女が手を止めた。そして、くるりと振り返る。翡翠の瞳に亜美はどきりとした。

「・・・あ、起きた」
「・・・あ、あの、ご迷惑を」
「起きてこられたんだね。よかった。もう気分は悪くない?」
「え、っ、と」

 頭の中で言うことをいろいろシュミレーションしてきたが、矢継ぎ早に声をかけられ亜美は困惑した。医師になる上で患者との会話のロールプレイングなどの授業も受けたはずだが、学んだのがドイツの大学だったばっかりに脳内はドイツ語しか出てこない。ましてや、医師相手ではないが、自分が患者の立場となると。尋ねられた通り自分の具合を言うべきかまず頭を下げて謝罪するべきか、この状況を聞くべきか。一瞬口ごもった亜美に、目の前の彼女は笑顔を向けた。

「顔色よくなったね。昨日は真っ青になって道でうずくまってるし、昨夜は昨夜で起きたと思ったらまたすぐに倒れちゃうし、ほんとに心配したんだよ」
「え、あ」
「救急車呼ぼうかと思ったら病院は絶対だめとか言うし、もうどうしようかと思ったよ」

 やはり道で意識を失ったのか、と自分の行動と記憶の途切れから合点が言った。病院はだめ、と言った記憶はないが、確かに意識がはっきりしていてもそれは言うだろう。救急車を呼ばれても元来た病院にとんぼ返りになるだけで、救急隊員にも病院にも迷惑なのがわかっているからだ。だが、顔見知りに迷惑をかけないようにするあまり、目の前の見知らぬ女性に迷惑をかけてしまっている。

「やっぱり、私、倒れてたんですね・・・ご迷惑をおかけしました」
「あ、いや、べつに迷惑じゃないけど、とにかくどっかで寝かせないとって・・・あ、ここ、あたしの家なんだけど。ただ、うちに来たはいいけど、もしあたしに手に負えない病気だったらどうしようかと思ってたけど、ほんとうにもうだいじょうぶ?」
「ええ、病気ではないので・・・おかげさまで・・・」
「でも、具合悪いときはちゃんと病院行かなきゃだめだよ」
「・・・すみません」

 亜美は心底すまないと頭を下げる。その拍子に、微かにまたふらついた。腕を掴まれる。今度は、また意識を失ったりはしない、背中を支えられ抱きとめられるような姿勢になって、亜美ははっきりと女性の顔を見た。
 すう、とその眼球から脳、身体の中心を通り、吸い寄せられるような感触があった。それは苦痛を伴わない、眠りにつく瞬間のような、心地よい、しかし自分の意志では抗えない感覚である。

「・・・ねえ、やっぱりだいじょうぶ?」
「・・・あっ、あの」
「今からでも病院行く?送っていくよ」
「・・・ご、ごめんなさい」

 だが、その亜美の目を覚ませたのは、ほかでもない彼女だ。
 そのとき亜美を惑わせたのは、あの瞳に見つめられたことである。仕事に伴う緊張感とは違う妙な心臓の跳ねに言葉は勝手に震えた。知らないはずはないのに、なぜ、思い出せないか。心がざわざわする。打算も欲望もなくまっすぐ見つめてくるその目線が痛くて、思わず目を反らしてしまった。そのまま、また頭を下げる。

「・・・かえります」
「えっ」
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。近いうちに必ずお礼に伺います・・・いつまでも居座っていてごめんなさい」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「着替えや、なにか汚したものがあったら、それも弁償します。連絡先は名刺を置いておくので・・・」
「待ってってば。急いでるの?」
「そういうわけでは・・・」

 他人に盛大な迷惑をかけている、そういう意味では一刻も早くここを出るべきだ。大人として亜美はそう思ったつもりだったが、却って不作法だったのかもしれない。一歩引こうとした亜美の手は、目の前の彼女にしっかり掴まれている。だが、掴んでおいてどうしたものか、としばし考えあぐねる表情を当の亜美に向けるその態度は、ますます亜美を混乱させた。
 すぐに謝礼が必要なのか、それとも、なにか覚えていない間にとんでもない粗相をしているのか。打算まみれの社会に身を置いてしまった亜美には、こんな、行きずりの病人を拾って看病をして、そこまではやさしさだったり無視することによる寝覚めの悪さという理由は理解できても、これ以上引きとめる理由は見えない。
 だけど振りほどくことはできなくて、亜美は固まった。手のひらはあたたかくやわらかく、日頃触れる患者とは違ういのちの気配を感じる。

「あのさ、もし、気分が悪いとか、すぐ帰らなきゃいけないとかじゃないなら・・・ご飯食べて行きなよ」
「・・・ごはん?」
「食べられそうならでいいんだけど」

 目の前の女性の提案に、まず、断らなきゃ、と亜美は思った。そのあとに理由が浮かんだ。倒れて担ぎ込まれた挙句食事までもらうなど、迷惑の極みではないか。体が食事を受け付けるかどうかもわからない。真っ直ぐ座り続けていられる自信さえない。
 どうやって断るかそればかり考えて、すぐに答えられない。もう、人と会話をするという能力が錆び付いてしまっている。

「というか、もうふたり分作っちゃったんだよね」
「えっ」
「あたし、ひとり暮らしだから、誰かと朝ごはん食べるとかひさしぶりなんだ・・・食欲がないなら、座ってるだけでもいい・・・もし食べられそうなら、食べてみてよ」
「あ・・・」

 ふたり分、ということは、彼女自身と、自分のと言うことだ。そういえば寝るときも同じベッドだった。家族や同居人がいれば、寝具にもう少し余裕はあっただろう。若いひとり暮らしの女性がほぼ不審者の自分を連れ込んだことにも驚いたが、それにいまさら気づいた自分にも呆れた。

 すっと、手を引かれる。断れない。自分の会話能力のなさ以前に、目の前の彼女の伏せた目に、ほんの少し寂しそうな陰りが見えたからだ。

 誰かと共に寝た記憶も遠いが、誰かと食事をした記憶も遠い。手術室に入るのとは全く違う、新鮮で奇妙な緊張を亜美は感じていた。戸惑いながら机に誘導され、椅子に座る。ひとり暮らしのわりに椅子は向かい合って二脚あった。

「前は付き合ってる人がいたんだけどね。今は・・・でも、椅子、無理に捨てなくてよかったよ」

 ふっと微笑む表情は、やはり寂しげだ。なにか言うべきなのか、迷って亜美はやはり何も言えない。恋の話なんて学生時代の休憩時間に小耳に挟むような話をこの年で聞くことになるとは思わなかったのもあったが、その時からすでに他人事のような話、もう、どういう感情を持ったかすら思い出せないのだ。
 誰かと食事をするのが久々と言っても、こんな、ろくに人と話すこともできない、棺桶に片足を突っ込みかけていた医者と向かい合うことで慰められるとは思えない。思い出があって、捨てられないことはこれからの希望であった椅子に座っている自分が、とても場違いに思えた。普段は医療に関わることしか考えなかった、否、考えないようにしていた脳が普段と違うことに思考を巡らせることに、違和感と疲労感を覚えた。

 それなのに心臓は、じく、と音を立てる。血管にようやく血液が流れ込んだような、そんな。妙な感覚だ。

「ちょっと待っててね」

 机には既にふたり分のランチョンマットが並んでいる。明るい色合いで細かい刺繍が施されたそれは、華美ではないが素朴な愛らしさがある。ふだん病院で見ている実用重視、あるいはVIP患者への過剰なハイブランドを振りまくような商品とは大違いだ。見慣れないものに目がちらちらする。
 これも、付き合った人と使っていたものだろうか。椅子がその人のためのものだというのなら、これもおそらくそうなのだろう。ひとり暮らしのなかでこういうものを置いてある心境はいかがばかりか、そしてそれを自分が使ってよいものか。
 そういう風にぼんやりしてたら、目の前におしぼりとマグカップを出された。

「まず、手と顔を拭いて。で、これ、飲めそうなら飲んで」
「・・・す、すみません」

 そういえば顔も洗っていないのではなかったか。顔色の悪さも相まってそもそも人の前に立てるような姿をしていない気がして、亜美は慌てて顔を拭った。熱過ぎないおしぼりから微かに香草の匂いが漂ってきて、亜美は人でも血でも汚物でも薬でもないものの香りにふと、脳髄を刺激された。

 いかに、病院に居過ぎたのか。自分は医者ではなくただの病院の一部になってしまっていたのか。そうでなければ医者などし続けることはできなかったというのに。

「・・・い、いただ、きます」

 消毒液でささくれた指先に、カップの熱が伝わってくる。戸惑いながら口をつけたカップの中身は白湯だった。
 味のないただの白湯は、喉の動きもぎこちない亜美の中に抵抗なく入り込み、内臓に熱を染み込ませ、蒸気を肺腑に送り込み、血管を押し広げほぐしていく。体の内側にじんわりと熱が灯った。点滴で疲労を飛ばすのとはまた違う、いのちの反応だった。

「どう?入る?」
「・・・あ、は、はい」
「じゃあ、もう少し重いものでもだいじょうぶかな」
「・・・・・・ええ」

 朝食なら、ミルクやコーヒーや紅茶などが出ても不思議ではないのに。
 身元も知らない不審者同然の自分に、まず白湯を与える知識とやさしさ。若く見えるが医療関係者なのか、過去にもそういう経験があるのか。こくこくと少しずつ白湯を飲み下しながら、目の前のテーブルにものが増えていくのを亜美は見届ける。

 トースト、色とりどりの野菜が乗ったサラダのボウル、バター、ジャム、スクランブルエッグ、ハム、紅茶の入ったポット、慣れたように置かれていく朝食の、豪華ではないがホテルのような品数に亜美は目を見開いた。同じひとり暮らしでも、自分はコンビニで買える携帯食などを書類片手に流し込むだけという生活を送っていたからだ。

「で、もし食べられそうなら好きなもの取ってくれていいけど、まずはこれね」

 亜美の前に置かれたのは、ひとつのスープ皿。透けるように薄い色がついて、具も浮かんでいないが、野菜の香りは付いている。回復食だ。なぜ病院でもないのにここまでで出るのか、亜美が呆然としていると、目の前の彼女は気がつけば目の前に座っていた。

「いただきます」

 そして、座るや否や目の前の亜美を気にしないように食事を取り始めた。いつもそうなのか、朝からよく食べる。
 しばらく戸惑っていたが、亜美もスプーンを手に取った。ゆっくりゆっくり、口に運ぶ。目の前の彼女が三口食べる頻度で、亜美は一口。薄味のスープは、白湯と同じようにあたたかく亜美の体に染み込んでいく。
 喉を通るかというような不安は、二口目で失せた。食事を取るのは本能だ。白湯で錆びついていた洗い流されて本能が流されて内臓が動き出して、スープを消化する能力が起動していた。ガソリンが投入された乗用車のようだ。少しずつ味に意識が行く。
 ほとんど出汁を取っただけのような、塩味もほとんどない薄い薄いスープ。しかし、亜美のための、亜美を生かす意思のもとにあるスープ。ふたり分朝食を作ったなんて嘘だ、この品は亜美だけのためにわざわざ作られたものだ。

「・・・・・・おい、しい」
「あ、ならよかった」

 それはぽろりとこぼれた言葉だったが、目の前の彼女には届いたらしい。聞かせる意図のない言葉が自然と出たことに亜美は赤面したが、顔を上げれば目の前の彼女はにひ、と笑っていた。

「食べられるなら、だいじょうぶだよ」

 医療従事者である亜美にとって、食べられるからだいじょうぶ、など根拠のない言葉である。食事の不摂生をこじらせて結果亜美の手にかかる患者は数えきれないほどいた。その中で患者に横柄で傲慢な態度を取られることも少なくはなかった。指示に従ってもらえないことも多々あった。だが、そんな苦い思い出ごと飲み込んで、自然とうなずいていた。

 睡眠とともに、食事とは、生きるためのものだ。それを長らくおざなりにしていた。そんな子どもでも知っていることも、医者である自分は忘れていた。

「ねえ、よかったらなにか話してくれない?」
「え」
「なにか聞きたいんだ」
「話・・・」

 そういえば、食事を共にするということは、その空間を共有するということだ。ただ生命の心配をしてくれているだけなら目の前に座ったりはしないだろう。会話というやり取りが必要になるのは当然だと思えた。この時には脳に栄養が回っていたせいか、亜美の思考回路もややスムーズになっていた。
 だが、話など、必要な報告以外久しくしていない。お世話になった彼女に倒れた理由を言うべきか、いや、名刺を渡し損ねたので彼女は自分がどこの誰かも知らないはずだ。間抜けにも病院の近くで倒れたのが医者だと、事細かに説明すべきか。
 それともとぼけて、適当な話題でこの場を乗り切るべきか。だが、医療関係以外の話など、できるのか。

「なんの、はなしを」
「なんでもいいよ。込み入ったこと言いたくないなら、べつに天気の話でもいいし、テレビの話でもいいし・・・でも、なにか言って」
「なにか・・・」
「先生のこと聞きたいけど、病院の話したくなさそうだし」
「・・・・・・え」

 そこで亜美は、昨夜、目の前の彼女に先生、と呼ばれたことを思い出した。そして、今、間違いなく医者と知られていると気づいた。はっと顔を上げる。
 亜美を医者と知って先生と呼ぶのは、同じ病院に勤めているか、自分が実際に診た患者くらいしか思い浮かばない。勿論同僚にはいないし、患者も、過去に診たとしても亜美が受け持つ中でこんな若い女性は少ないので、印象強く覚えているはずだ。もしかしたら患者の家族や知人で、お見舞いなどで顔を合わせている可能性も考慮してみたが、それでも、一度会ったら忘れるはずがないと思った。

 華奢だが決して小柄ではない亜美が、見上げなければいけないくらいの長身。細く長く繊細な指。ふわふわだで手入れの行き届いた髪。無防備な部屋着をふくらます豊かな胸。ひとり暮らしであることや、道で倒れた病人を連れ帰る度胸や雰囲気から成人はしているだろうが、両耳の薔薇のピアスは、派手と言うよりもかわいらしい印象を与える。

 そしてなにより、澄んだ眼球の、深く美しい翡翠の瞳。
 その目を見て、亜美はまた既視感に襲われる。だが、どうしてもそれが誰か知っている人物と結びつかない。脳の奥を掻かれたような心地にしばし茫洋と思考の海に漂っていた亜美を引き戻したのは、またも、彼女。小さくない身長差を詰めて、首を傾げて、同じ高さで目を合わせてくる。

「ねえ、ほんとにだいじょうぶ?」
「・・・どう、して」
「え?」
「どう、して、私が医者だと」
「知ってるよぉ。有名でしょ、水野先生」

 有名とはどういうことか。やはり病院で見られたのか。だから知っているのか。なぜ。どこで。どうして。

「若いのに、すごい名医だってね」
「・・・違う。名医なんかじゃない」
「そんな」
「私は・・・名医なんて、とんでもない」

 話すことを探していた時と違い、言葉は懺悔のようにぽろりと出た。見知らぬ人物にこんなことを言うのは危険だと思ったが、気がつけば言葉は傾いたコップのようにこぼれていた。

「・・・私は、留学して、ドイツの大学で医学を学んだんです」
「うん、知ってる」
「・・・・・・なぜ?」
「何年か前にね、図書館のね、雑誌で見たんだ。ドイツに若い日本人ドクターがいて、すごく優秀だって」
「・・・そんな昔の・・・でも、だから知ってたんですか」
「記事を読んでも難しいことはよくわからなかったけど、すごいなって思ったよ。ええっと、いつだったかな。確か・・・あの街にいたから、四年前だ」
「四年前、まだドイツにいたとき・・・私は大学を出たばかりで・・・だから、もしほんとうにそんな記事があったとしたらたぶん教授がインタビューを受けたときに話したのが掲載されてしまって、でも、それは買い被りで・・・それからすぐ日本に戻ってきたんです。どうしても日本でしなければいけないことがあると思ったから」
「そうなんだ」
「でも、私、座学や手術はできても、人と話すのがあまり得意ではなくて・・・患者さんの気持ちに寄り添えなくて・・・同僚ともうまくいかなくて」
「・・・・・・・・・‥」
「・・・ほんとに、いろいろあったんです」

 これ、と言うことがあったわけではない。なにかひとつ、がすべてでこんなことになったわけではない。
 日本の大学病院が持つ強い派閥意識や権威欲に馴染めなかった。出身校ひとつで差別に近い言動がまかり通っていた。ドイツの大学を出た自分にはそもそも居場所はなかった。同じく医者であった母の尽力と、そして能力だけは買ってもらえ医者として生きていたが、それだけだった。能力だけで社会に耐えうる人格が伴わなかった。
 若くして高い技能をつけていたことにやっかみもあった。それをはね飛ばすだけの力もなかった。高すぎる技術も若さゆえに信用がないと一蹴されたこともあった。立ち向かうほどの情熱が湧かなかった。

 待合室で何時間も待つほんとうに医療が必要な人を尻目に、病院に利益の高い人物や地位の高い人物ばかりを優先的に相手させられるのに辟易した。しかし、貧しい人が正しくて金持ちを救いたくないのは、それこそ傲慢で金で命を差別している行為だと言われた。

 心が折れた。思考するのをやめた。医者ではなく、医療を加えるだけの機械に成り下がった。

 命を金で差別したことへの贖罪でもあったと思う。高慢な年よりだろうが孤独でか弱い子どもだろうが、等しい。だから、罪の意識から病院が病院のためにあつらえたような患者ばかりと戦ってきた。そして、ますます孤立していった。

 手術の替え玉も数えきれないほど行ってきた。若すぎる医者の技術は信用されない。だから。そうやって患者と直接向き合うことなく、ひたすら技術と知識ばかりを手に入れてきた。やがて患者が症例そのものにしか見えなくなって、手術で切り刻む肉体がただの物質にしか見えなくなった。それでも働いた。少しでも気が緩むと気が変になりそうだったから。休む時間もなく働く姿は鬼気迫っていたように思う。そうしていれば、よけいなことは考えずに済んだし、正体もわからない敵に足をすくわれる心配もなかったから。

 気がつけば医者になる道に進んで10年が経っていた。医者になって4年が経過していた。同い年の医者がようやく研修を終え一人前となる中、すでに誰よりも知識と場数を踏んでいた。

 だが、結果、身体に限界が来てこのざまだ。必死で働いてきたのに、一晩病院を空けて、しかし病院からすら連絡はない。自分がいなくても病院は回るのだ。それなのに必死にしがみついて、愚かとしか言いようがないではないか。

 人間としての容量が白湯とスープの余裕すらない亜美は、白湯とスープを取り込んでしまった以上溢れたものを吐き出すしかなくなっていた。回らない舌と頭で、子どものように主語述語もめちゃくちゃな日本語で、そういうことを告げたと思う。目の前の彼女は、ひたすら黙って聞いていた。

「・・・・・・っ」

 こうやって、見ず知らずの人の前で、命のやり取りがない場でこんな話をして、ふと亜美は冷静になった。こんなことを聞かせてしまって、迷惑以外の何物でもない。ひとり暮らしでひさしぶりに誰かと食事をとる人に聞かせるべき話題でもない。ましてや数年前の雑誌ひとつで亜美のことを知っているということは、ほんとうに亜美が覚えていないだけで患者の関係者で心に留められていたからだという可能性もあるのだ。今飲み込んだスープが、一瞬にして胃袋の中で膨らんだように重くなる。

「・・・っ、ごめんなさい、こんな話を」

 亜美は慌てて立ち上がった。ふらついた。目の前の彼女も立ち上がった。テーブルを迂回してこっちに歩んでくる。亜美にはどこか断罪を行うような、死刑執行人のような足取りに見えた。それは自分が罪びとという意識で生きているからに他ならなかったのだけど。

 抵抗できない。抵抗する気もない。軽蔑するならすればいいし、いっそ裁いてくれればいい。こんな時でさえ相手の気持ちに寄り添えず自分のことしか考えていない亜美に自虐の笑みがこぼれたのは一瞬のことで、やって来たのは罵声でも暴力でもないやわらかい感覚だった。

「がんばったんだね」

 誰かに抱きしめられるのは、10年ぶりのことだ。そのときとはあまりにも違う感覚だったが、亜美ははっきりと思いだした。そのときはがんばってねと言われて抱きしめてもらった。今度視界が歪んだのは既視感ではなく、涙のせいだったけれど。

 言葉を吐き出しただけでは、白湯とスープの容量を賄えない。抱きしめられた体を抱き返すこともなく、呆然と立ち尽くしたまま亜美は静かに涙を流した。





「・・・ほ、ほんとうに、ご迷惑を」
「いや、迷惑とは思ってないけど」

 亜美は泣くだけ泣いてすっきり、と言うわけにはいかなかった。身元がばれても相変わらず自分は不審者で、いるべき場所でない場所に居座っている迷惑な存在に変わりはない。そして、挙句医者としての心持ちを疑われかねないような言葉を吐いて、それで慰めてもらうなど。
 亜美が彼女の腕の中で抵抗するように身をよじると、彼女は実にあっさりと手を離した。そして元いた席に戻ると、けろりとした表情で再びトーストをかじりだす。わりとマイペースなようだ。

「・・・・・・・・・」

 自分の身元を明かしたはいいものの、よく考えたら目の前の彼女のことはなにもわからない。過去に関わったことがある人物なのか。倒れた自分に白湯や回復食を出してくるからには、医療従事者なのかもしれない。こうやって不審者をのらくらと相手にするところも、踏んできた場数が見て取れた。過去に雑誌で亜美を見たと言うからには医療系の雑誌を読んだのだろう。そういうものに手を伸ばすということは、やはり医療従事者の可能性はある。なら、病院や学会などで目撃した可能性はないわけではない。既視感はそこから来ているのかもしれない。

「ねえ」
「は、はい」
「先生が日本に戻ってきた理由、聞いていい?」
「えっ・・・」
「しなければいけないことがあるから戻ってきたんだろ?あ、座ってよ」
「・・・えーと」

 亜美は戸惑いながらも、元いた席にかけた。
 もしゃもしゃとサラダを頬張る彼女の姿は、ほんとうに友人のような気さくさがある。迷惑だとばかり思っていたが、よく考えればいっしょに食事と言うからには彼女が食事を終えるまではここに留まるべきだし、聞かれたことには答えなければ、という義務感のようなものも湧いてきた。

 病院にいる時とは違い、目の前に為すべきことがあって、それに応えるため生きている、という妙な実感があった。亜美はスープの残りを啜りながら、ぽつりと答える。

「・・・ある人と、約束、したんです。ちゃんと医者になって戻って来るって」
「・・・・・・・・・」
「今どこにいるのか、そもそも私のことを覚えているかもわからないけど・・・私はその人がいてくれたから、医者になるって決めたんです」
「・・・・・・そう」

 特に面白味のない回答だったのかもしれない。目の前の彼女は、静かな表情で紅茶を啜っている。
 だが、言葉にすることで亜美は自分が身を削ってでも日本の大学病院に留まる理由を思いだした。患者の命を助けなければ。受け持っている患者がいる以上身動きが取れない、忙殺される中でそういう理由にすり替わっていたが、ほんとうは。ここにいる理由ではなく、ここに戻ってきた理由は。

「中学のとき、ある人に会って・・・それがきっかけで医者になることを決めました。そこからしばらく離れてたけど、18歳になって、ドイツの大学に入る直前にその人に再会したんです。不思議な縁があったような気がして、会えるだけ会いに行きました・・・そのときに・・・改めてこの人に恥ずかしくない医者になろうって決めて・・・がんばってって、言ってもらったんです」
「・・・・・・・・・」

 最後に人に抱きしめてもらったのは10年前、そのときだ。ドイツに発つその直前のことだ。

「医者には、なれました・・・でも、その人に恥ずかしくない医者には、なれていません」
 
 10年前、18歳だった亜美が病院で出会った人物。さらにその三年前、まだ中学生だった15歳の亜美の進路を変えるきっかけになった人物。忙しすぎて記憶の奥底に仕舞い込んでいたが、ほんとうは気づいていて、見ないふりをしていたのかもしれない。あの頃の自分が抱きしめてくれたその人に誓った医者としての自分が、今の自分とあまりにも乖離していることに。

「・・・・・・ふーん」

 ふと、目の前の彼女のどこか低いトーンの声に亜美は気付いた。顔を上げれば、彼女はすでに朝食の皿を積み重ねている。

「・・・ねえ先生、もう、家に帰る?」
「え、あ」
「帰るなら送っていくけど。駅の方じゃない道にいたから、家、実は近所だろ?」

 それまで引き止めるようなそぶりをされていたのに、唐突に帰る話を出されて、亜美は戸惑った。だが、よく考えれば、目の前の彼女の食事は終わっている。いっしょに食事という行為が果たされた今、いよいよここに居続ける理由はない。

 暗い話をしてしまった。迷惑をかけてしまった。医者としても人としてもどうしようもない。

「か、帰ります!でも、送ってもらわなくても・・・」
「いや、送ってくよ。まだ先生と話したいし・・・正直ここにいて休んでもらっててもいいんだけど、なにもないし、あたしもそろそろ出なきゃだから」

 出なきゃだから、と言う言葉に亜美ははっとした。朝だ。社会が動き始める時間だ。誰でも家に一日いるわけではない。目の前の彼女にも日常が、仕事があるのだろう。また申し訳なさが積もっていく。
 だが、まだ話したいし、と言われるほど楽しい話題や時間を提供できているとは思えなかったが、どこかそう言ってもらえて喜んでいる自分もいる。

 目の前の彼女のことを、なにも知らないのに。

「ああ、お皿そのままでいいよ、帰ったら洗うから」
「そ、その、最後までご迷惑を」
「迷惑じゃないってば。あ、待って、まだいて。ちゃんと送るから・・・服はそこのハンガーに掛けてあるから、着替えるならどうぞ。あたしも着替えなきゃ」

 言って、彼女は慣れた行為であるのかてきぱきと食器を流し台に下げ、キッチンを片づけ忙しなく動き回った。亜美はおろおろとしていたが、とりあえず自分の衣服を見つけ、駆け寄った。亜美が困ったように目をやると、なにかを察したのかたまたまなのか、彼女は部屋をすっと出ていく。

 妙な動悸を感じながら、亜美は慌てて誰もいない部屋で着替える。道中倒れたわりに服に汚れなどもなく、おそらく彼女が細やかに気を配ってくれたのだろう。着せてくれていた服をなるだけ丁寧に畳んで、鞄を探り名刺と財布を取り出す。亜美本人は気づいていなかったが、病院にいるときよりも体の動きは遥かに軽かった。
 いまさらに緊張を感じつつ、亜美は待てと言われたので直立不動して待った。彼女はしばらくして、鞄片手に戻ってくる。今度こそなにか声をかけるべきかと亜美がおろおろしていると、彼女は『いつもの動き』と言わんばかりの滑らかな動きで部屋中を回りながら、亜美に声をかける。

「ねえ先生」
「・・・は、はい」

 彼女は、部屋の隅に屈み込み、霧吹きで観葉植物に水をかける。亜美の方を見てはいないが、亜美に声をかけている。

「あたしの話、聞いてもらっていいかな」
「・・・はい?」

 彼女は立ち上がり、冷蔵庫の中からお弁当箱とボトルを取り出す。その流れで霧吹きをキッチンの傍らに置く。
 なんの話があるのだろう。彼女の動きを阻害できないまま、亜美は直立不動の姿勢のまま固まっている。

「あたしにも昔、お世話になった人がいるんだ」
「・・・はあ」
「その人がいなきゃ、生きてこられなかったんじゃないかっていうくらい」
「・・・・・・・・・」
「いや、その人がいなきゃ、産まれてもこられなかったかもね」

 亜美は返事ができない。生きてこられなかった、産まれてこられなかったとは重大な話だ。もしや亜美の病院にいる誰かが、彼女を救ったのかもしれない。その関わりで、自分のことを知っていたのかもしれない。直接関わりはなくとも、近いところにはいたのかもしれない。
 彼女は更に移動を続ける。窓の戸締りを確認し、布巾を干し、電化製品のコンセントや電源を確認して回っている。そして亜美が着替えているときは席を外したのに、本人は特に気にすることなく亜美の前で服を脱ぎ始めた。他人の身体など死体も含め飽きるほど見てきた亜美だが、さすがにこんな若い女性、しかも健康な体と生々しいシチュエーションとあっては動揺を隠せなかった。だが、それでも聞けと言われたので話を聞いていた。

 聞かなければ、と言う気がしていた。

「あたしの両親、飛行機事故で早くに亡くなってさ、そのときに一時病院に預けられていたんだけど、そのときに毎日病院に来て励ましてくれた人がいて」
「・・・え?」
「あとあと聞いたら、その人、あたしが生まれたときにもお世話になったらしくて。あたしがお腹にいるとき、お母さんが外で具合が悪くなって―その時その人が助けてくれたんだ。それで、あたし、生まれてきて」
「・・・・・・・・・」
「そのあと、あたしもその人も遠くに行っちゃったんだけど、今は」

 彼女の、飛行機事故、と言う言葉に内臓がざわ、となった。飛行機の事故自体が、珍しいことだ。それで、ひとりぼっちになった子どもを、亜美は知っている。
 とてつもない違和感。あのとき、まだあの人は亜美の半分ほどの背丈しかない子どもだった。彼女は今いくつになっているだろうか。どうしようもない既視感。もう、頭ではない、感覚が正答を告げている。

 中学生のとき、その人は生まれてくれたことで亜美の人生を変えた。進路に悩む15歳だったあの日、あのとき道で倒れていた妊婦を助け、病院まで付き添い励まして命の誕生を目の当たりにして、そのときの経験から医学への道を決めた。
 大学生のとき、同じ病院でまた出会った。家族を飛行機事故で亡くしてひとりぼっちのその人に、不思議な縁を感じて、毎日会いに行った。あのとき、その人、否、その子はまだ3歳だった。

 翡翠の瞳の持ち主。小さな体で、大きな目で、たどたどしい言葉で、いろんな話をしてくれた。命の息吹を感じた。そして、自分が寂しいはずなのに駄々もこねず、ドイツに行く亜美に、がんばって、と言って、抱きしめてくれたのだ。

「あ―」

 目の前の彼女は。

「雑誌で見つけて、うれしかった。ちゃんとお医者さんになったんだね。でも、戻ってると思わなかった」

 亜美は、がくがくと体が震えた。体調のせいではない。
 だって、こんなに大きくなって。ひとりで暮らして、自己管理もできない大人を拾って、医療従事者かと思わせるほど、しっかり保護できるほどに大きくなって。付き合ってる人がいたとも言っていた。あれから何年経ったのか。目の前の現実についていけなくて、先ほどできていた単純な計算もできない。
 あまりにも心も体も大きくなりすぎて、大人になりすぎて、あれほど既視感を感じても気づかなかった。でも、どれだけ大きくなってもその瞳だけは変わっていない。

 見える世界の色が変わる。

「あなたは―」

 ばくばくと心臓が動く。微かに耳鳴りもする。いつしか不作法も忘れ、着替えている彼女に亜美の目は吸い寄せられていた。仕事に行くために着替えていると思っていた体を包んでいるのは―学生の象徴である、セーラー服だ。

 13年前、この人の産声を聞いて医者になることを決めた。10年前、この人に誇れる医者になろうと思った。痛みや悲しみの中で苦しんでいる子どもをただ励ますだけでなく、寄り添って助けることができる医者になりたかった。そのときからずいぶん経ったようで、でも、その彼女は、まだ、子どもだ。
 あれから10年、今は、彼女は、13歳になっているはずだった。

「―まこちゃん」
「思いだしてくれたね、亜美ちゃん」
 
 やっと気づいてくれた、と言わんばかりの安堵の顔は、親を見つけた子どものような顔で。
 亜美の視界が歪むのは、見られたくない自分を見られたこと以上に、歓喜の感情が湧いてきていたかもしれない。だが、亜美の錆びついた心身はそんなことを理解できなくて、ただ、油を差したからくり人形のように、体が、心が、運命ががらがらと音を立てて動き出していく予感がしていた。











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