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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

引っ込め、スピリチュアル・ユニティ野朗!

2007-04-20 03:27:48 | 音楽論など


 沖縄民謡界のドン、と言っていいのかな、登川誠仁って人がいるでしょう。古典の伝承を行なうかと思えば、私のヒイキだった故・照屋林助氏とコミックバンドを組んでみたり、なかなか自在な音楽活動を行なってきている人である。

 それはいいのだけれど・・・この人が沖縄ローカルではない、”本土”のレコード会社から出しているアルバムのタイトルって、何やら妙なものばかりなのはなぜなんですかね?
 いわく。「ハウリン・ウルフ」「スタンド!」「スピリチュアル・ユニティ」など。どう考えてもこれ、1930年生まれ、一貫して沖縄の大衆音楽の現場で生きて来た登川氏ご当人が思いついたものではないでしょ?

 「ハウリン・ウルフ」は、シカゴ・ブルースの巨人、ワイルドな歌いっぷりでついでに顔もでかい、なかなか豪快な個性のブルースマンだった、あのハウリン・ウルフの名を拝借したのだろう。
 「スタンド!」は、おそらくスライ&ファミリーストーン、1960年代から70年代にかけて活躍し、ファンク音楽に新しいページを開いた、あのバンドの代表作からの、「スピリチュアル・ユニティ」は、前衛ジャズの風雲児、アルバート・アイラーの、これまた代表作の、それぞれタイトルを拝借したのだろうと思われるのだけれど。まあ、いずれもいかにもな印象を与える物件となっている。

 なんかさあ、これ、盤を製作したスタッフが「俺って、いけてるよなあ。センスいいだろ?」とか自己満足のしたり顔をしている様子が目に見えるようで、不愉快なんですわ。アルバムの主人公たる登川氏は、あんまり細かいことにこだわる人じゃなさそうだし、いいわいいわでタイトル決めるのもまかされちゃっているのを良いことに、調子に乗ったんじゃないの?

 いや、いいですよ、沖縄島歌のアルバムに英語のタイトルをつけたって。ただ、”いかにも俺ってセンスいいだろと言いたげな命名感覚”が不愉快だって話です。音楽聴くこちら側はレコード会社のスタッフのファンじゃなくて、あくまでもミュージシャンのファンなんだからね。”センスのいい俺”には引っ込んでいて欲しい。と思うのである。

旧墓地

2007-04-19 04:47:15 | アジア


 私の家の墓というのは菩提寺の墓所になぜか二箇所あった。一番日当たりの良いあたりに曽祖父の代あたりから入っているメイン(?)の”新墓地”があり、場所の外れの方に、それ以前の人々が埋葬されているらしい”旧墓地”があり、墓参りの時期ともなると2箇所に詣でなければならず、面倒といえば面倒な思いをしていた。

 そこで今日、寺に頼んで墓の一本化を行なってもらった。旧墓地の”御魂”の新墓地への移動、ならびに旧墓地の廃止である。そんなこと、とっくにやってもらえば良かったのであるが、そこをダラダラと「いつかやろう」で引き伸ばしてしまうのが我が家のだるい家風とでも言うのだろうか。

 旧墓地の廃止の行にかかる前に、住職が調べてくれた旧墓地の由来など聞いたが、ちょっと奇妙なものであった。なんとなくそんなものではないかと想像してはいたのだが。

 まず寺の過去帳を遡ると我が家は文政期まで辿れるそうで、これはえらいことだな、一応土地では旧家となっているのだが、なるほどと坊主ともども感慨にふける。講談等でも「頃は文化文政の頃でございます」なんて決まり文句があるが、何しろ200年も前である。そんなに前から我が一族はこの街に住んでいたのか。それ以前は?と一瞬興味を持ったが、さすがにそこまでは分からず。

 奇妙なのは、旧墓地に立っていた墓石3つの銘である。理屈から行けば曽祖父のその前、”ひいひいじいさん”からそこにいるべきなのだが、3つとも、その名ではない。だったら誰の?ということだが、どうも寺の過去帳を見ても該当する戒名が刻まれていない。ひいひい爺さんの兄弟であるとか、そのあたりが紛れ込んでいるのでは?というのが住職の推測である。

 そもそも、昔は大人数の兄弟が普通であったのに、帳面にはひいひい爺さんの名しか記されていないのだが、普通に考えてそれ以外の兄弟もいたはずであり、墓石にあるのはその人たちの名ではないかとのこと。まあ、そのように考えるしかないのだろう。「いろいろ今回は勉強させていただきました」と、住職は苦笑する。

 ひいひい爺さんの来歴にも不思議なものがあり、まず二人の女性と結婚しているようなのだが、同じ名である。厳密に言えば、同じ発音の女性名の、ひらがな表記の人とカタカナ表記の人、二人である。そのうちの一人は21歳で早世しており、最初の奥さんが早くに亡くなったので後添えを貰ったのでは?との住職の、これも推測であるが、しかし同じ名前とは?偶然なのだろうか。あるいは記帳の際のミスか何か?

 ちょっと粛然とさせられた事があるのだが。
 まず、私の曽祖父の代に、女の子が何人か生まれたのだが、ほんの幼い頃に次々に亡くなるという事情があり、これはひょっとして呪われているのではあるまいかとして、隅に守護を祈る仏像などが立てられているのが、我が新墓地の目を引く特徴だったのだが、過去帳を見ると、その先代、ひいひい爺さんの頃にも、そのような事件があったようである。

 「○○童女」なんて戒名が名簿に続いている。遠い昔、私の家系で、まだ年端もゆかぬ内に、生まれては亡くなっていった女の子たち。まあ、今と比べて乳幼児の死亡率も高い頃でもあったのだろうが、ひい爺さん、ひいひい爺さんと2代続けて同じようなことがあったのか、と。しかも女の子ばかり。
 なるほどねえ、と住職と茶をすすりながら溜息をつく。それしか出来る事もなかったのであるが。

 過去を探る旅が終わり、旧墓地へ出かける。墓所に清めの塩や酒を振りかけ、豊饒を祈る米粒を撒き、香を上げ、住職が魂を抜くための経を挙げる。初めて聴く響きの経だった。聞いていてもまったく意味の取れないそれはいわゆる梵語、サンスクリット語そのままなんだろうか。

 その節回しもまたかなりディープなもので、心なしかインド古典声楽などを想起させられる響きがないでもない。遠い遠い過去の仏教伝来の旅など、そりゃ私にはろくに知識もありませんが、その場の事情が事情だけに非常に生々しいものとして感じさせられたものだった。

 そういえばその辺の音楽も最近、聴いていないな。今日あたり、就寝前に法要の意味でも聴いてみるのも一興か、などと思いつつ式も終わり。まあとりあえず雨にやられなくて良かったよ、天気予報じゃ一雨来るみたいな感じだったが、などと言いつつ、我々は現世に還って来たのであった。

”熱血、オヤジバトル”を見たものの・・・

2007-04-18 04:30:02 | その他の日本の音楽

 夜更け、なんとなくつけておいたテレビが”第10回 熱血!オヤジバトル”なんて番組を流し始めた。
 NHKの番組表を見ると、”平均年齢40歳以上のグループを対象としたバンドコンテスト「熱血!オヤジバトル」。全国各地から応募してきたバンドは233組。選りすぐりの8組が熱演を繰り広げる”とある。

 そういえば、時々こんなアマチュアのコンテストを夜中にやっていたが、そうか、平均年齢が40歳以上に限定されていたとは知らなかった。
 へえ、日本のオヤジたちのバンド・シーンってのは今、どうなっているのかと興味を惹かれ、私はこの番組をはじめて気を入れて見たのであるが。

 う~む、なんとも重苦しい気持ちになるばかりなんだよなあ。これってなぜなんだ?と3秒ほど考えてみるに。

 たとえばさあ。
 飲み屋を経営する参加者中最高齢者が率いるバンドが歌うのは、その飲み屋の常連である、今は定年暮らしの典型的サラリーマンであった親父に捧げる歌だなんて。そもそも、爺さんが親父に捧げる歌なんて作るなよ、気色悪い。日本を支えてくれた産業戦士の皆さん、お疲れさま、かい?まさかNHKにあてがわれた曲じゃないだろうなあ、うさんくさいなあ、出来すぎじゃないか。

 しかもその歌詞内容ときたら。そのオヤジの生涯をテーマとした内容なんだけど、娘の結婚相手にむかっ腹が立ったとか、さだまさしあたりが大得意とするような生ぬるい、ユーモアとも言えない様な月並みなクソフレーズの連発である。ああ、臭い。

 ほかにも、コンサート本番直前に奥さんが亡くなったとか、難病に犯されて楽器の弾けなくなってしまったギター弾きと彼を支える奥さん、夫婦揃ってのバンド活動とか。
 そんな、いかにもな”健全な国民の皆様の共感を呼ぶような”予定調和の物語にドラマを誘導しようとする、ごり押しのわざとらしさが、たまらなくいやらしいんだよな、気になり始めると。

 やがて、ゲストの”ゴダイゴ”が演奏を始めるにいたり、ああそうなのか、そういうやっぱり生ぬるい奴らがゲストで出てくるような番組であったのかと私は納得をしたのである。
 だから私は、お呼びでない、お呼びでないね?と呟き、そっとテレビのチャンネルを変えたのであった。

ライブにおける同時通訳

2007-04-16 21:59:53 | いわゆる日記


 1960年代に、来日した歌手のコンサートで歌詞の同時通訳が行なわれていた、という事実があるらしく、その詳細を知りたく思っているのだが、どうも資料に出会えない。そもそも、何をどのように調べたら良いのやら。

 歌詞が訳されたというくらいだから、当然、歌詞部分に重きを置くタイプの歌手のコンサートにおいて、ということになるのだろうが。

 それがどのようなものだったかを知るよすがとして、70年代に来日してライブを行なっていったアメリカのフォークシンガー、レン・チャンドラーのライブ盤がある。
 このライブで60年代風(?)の同時通訳が行なわれ、その様子が盤には収められているのだ。とは言うものの、実はその盤は大分以前にひょんなことから売り払ってしまっていて手元になく、また、今のところCD化再発の気配もない。
 仕方がないので記憶の中のその盤の様子を書くが。

 まあ、同時通訳と言ってもすべての曲に始終、通訳の歌詞日本語訳が被さる、などということはなかった。基本は、曲のイントロや間奏の間に舞台下手(か上手か知らないが)のマイクの前に控えた通訳が歌詞の大意を語り上げる、という形である。
 しかし、スローバラードのある曲などでは、歌手が一節歌うたびに休符の間に訳詩を放り込み、訳詩は歌唱と同時進行し、歌の邪魔にもならず、歌手と絶妙のパートナー・シップを見せたりもする。見事なタイミングのとり方であり、ある種の”芸”としての熟練を感じさせるものがある。

 それなどを聞いていると、60年代当時は結構頻繁に通訳付きの海外アーティストのライブが行なわれていたのでは?なんて気もしてくるのだ。

 ここで話題にしているレン・チャンドラーとは、フォーク歌手であると同時に、60年代の黒人公民権運動の闘士として鳴らし、何度も投獄の経験さえあるという豪の者である。そのような歌手であるから当然、社会派としてのメッセージ色の強い歌もレパートリーに加わっていて、おそらくはそのようなタイプの歌手たちが、同時通訳付きのライブを行なっていたのではないか。普通のポップス歌手たちはむしろ、そんなものは邪魔臭がる筈である、当然。

 となると、まず思い起こされるのが反戦フォークの大家、なんていい方でいいのかどうか、アメリカの大ベテラン歌手、ピート・シーガーである。彼などは歌に込められたメッセージに大いにこだわりそうだし、「日本の民衆とのコミュニケーションを大事にしたい」とか言って通訳付きのライブを好んで行なっていたのではあるまいか。
 とは言うものの、いくら激動の60年代とは言え、彼のようなタイプの”メッセージ派”の歌手たちがそんなにたびたび来日していたとも思えず、となると、レン・チャンドラー盤における通訳の熟練振りはどこから来るのか?と、謎はますます深まる。

 ライブにおける同時通訳の存在に関してのもう一つの”証言”として、五木寛之の”闇からの声”という短編小説が挙げられる。
 これはまさに、来日した社会派のフォーク歌手のステージにおいて同時通訳を行なった女性を主人公にして描かれていた。その歌手のライブを担当するようになった日から彼女の元に毎夜、正体不明の脅迫電話が来るようになり、恐ろしくなった彼女は、その電話の主の命ずるままに、歌手のメッセージを故意に捻じ曲げた通訳を行なうようになるのだが・・・といった物語。

 初期の五木作品に多い、芸能界絡みのサスペンスであり、その種の作品ばかりを集めた”男だけの世界”なるタイトルの短編集に収められていた。(この本、版元には何とか再販をお願いしたい。私の一番好きな五木の作品集なのだ)
 ともあれ。このような形で小説に取り上げられているのだから、ライブにおける同時通訳はそれなりに普通に行なわれていたと、やはり考えざるを得ない。

 以上、ライブにおける同時通訳に関して私の知っている事をすべて書いてみた。これに付いて何かご存知の方、ご教示いただければ幸いです。若い皆さん、昔はそんなことが行なわれていたんだよ。

もしも平和になったなら

2007-04-14 00:41:26 | アジア


 ”Trinh Cong Son,1939年2月28日 - 2001年4月1日”

 ブログの相互リンクを結んでくだすっているNAKAさんが、ベトナムのシンガー・ソングライターである、故チン・コン・ソンの作品ばかりを取り上げたベトナムの女性歌手の新作アルバムをレヴューされていて、それを読んでいるうちに、私にとってのチン・コンソン史(?)など書いてみたくなった。まあ、当然ながらたいしたものではないのだが。

 そもそも私がチン・コン・ソンに関して知っているところは少ない。60年代の終わりに、森山良子が彼の作った「坊や大きくならないで」をヒットさせた。ベトナム戦争が醜惨をきわめているさなかのことだった。
 生まれた男の子に、”どうかこのまま大人にならないでくれ。お前が大人になると他の男たちのように戦場に狩り出され、そして硝煙の彼方に消えて行ってしまう。だから大きくならずに、このまま眠りなさい”と祈る母親の独白を歌にしたものだった。

 それ以外にも当時、チン・コン・ソンの歌をいくつか、フォーク好きの友人から教えられた記憶がある。”戦争が終わったら、復興の槌音が鳴り響く平和なこの国を北から南まで旅をしよう。遠くの友を訪ねて、語り明かそう”と歌う、明るい曲調の”もしも平和になったなら”などは印象に残った。高石友也が日本語に訳して歌っていた。

 歌を作ったチン・コン・ソンとは、どのような人なのだろう。その種の反戦歌というか社会派の歌ばかりを作り続けている硬骨漢であるようだったが。
 アメリカ政府の援助を受け、軍事力で圧政を敷き、力ずくで政府が延命を図る南ベトナムに身を置きながらそのような反戦歌を作り歌うなど、当然のことながら気楽な人生などであるはずはないのだが。

 などと想像してみたのだが、その回答はどこを覗けば得られるのやら分からず、こちらとしてもそのようなフォークソングよりはロックに夢中の少年であったので、そのままなんとなく忘れて行ってしまったのだが。

 チン・コン・ソンの名をその後、久しぶりに聞いたのは、ベトナムからアメリカ軍が撤退し、南ベトナム政府が崩壊、南北ベトナムが統一されてからほどなくだった。仔細は忘れたが、チン・コン・ソンが反政府的言動を行なったかどにより、ベトナム統一政権から思想教育センター送りの処置を受けたとのことだった。

 そんなことになるんじゃないかと思っていたよ。それが、その知らせを聞いた時の私の感想だった。物事の真相を見極め、その矛盾を穿つような作風の表現者は、政権が右だろうと左だろうと疎ましく思われる。そんなものだ。と、相変らずチン・コン・ソンの生活と意見がいかようなものかも知らぬまま、生意気盛りの青二才だった私は知った風に頷いたものだった。そんなダルい絶望のポーズが当時の精神のトレンドだった。と、とりあえず私は記憶している。

 その後。アメリカとの長過ぎる戦争に勝利したばかりの統一ベトナム政府は、軍をカンボジアに進めた。その行為は、”ベトナム反戦”を世界平和を希求するものの聖なる合言葉として来た人々への大きな裏切りとなった。絶望やら脱力感やら。新生ベトナムの社会を生き辛いと感じる人々が外洋に出るには頼りなさ過ぎるボートを仕立てて近隣の国に逃げ出す”ベトナム難民”も、ただ事ではない数になろうとしていた。

 ようやく自分でもつたない歌を作り、人前で歌い始めていた当時の私は、学生時代に友人のレコードで覚えた”もしも平和になったなら”を、苦い皮肉として何度もステージで歌った。ようやく大地に平和が訪れたのに、始めてしまうのがやっぱり戦争だなんて、なんと人類の愚かしいことか。

 と茶化してみたところで。人類がバカと証明されることで自分が得する気配も、特になかったのであるが。

 さらに時が流れ。もうステージで歌うこともなくなってしまった私は、ネットの向こうのある通販サイトを眺めている。どうやらそこでチン・コン・ソンのアルバムが入手可能らしいのだが、どうしたものか。そう、実は彼のアルバムを持っていない、というよりその歌も一度も聴いてはいないのだった、正直を言えば。

 いつか知らぬ間に故人となってしまっていたチン・コン・ソンの歌を、今の自分が聴いて、どれほど楽しめるだろうか?私なりの”青春残侠伝”として、それを聴いておくべきだ、そんな思いもないではなかったが、その一方、いまさらそれを聴いて、反応すべき何かが自分のうちにあるとも思えなかった。

 チン・コン・ソン。どのような人生だったのだろうね。幸福だったのか、そうでもなかったのか。そもそもそれは、ハッピーエンドだったのか。それとも、そんな具合に人生を考える人ではなかったのか。そして彼の残した歌は今、ベトナムの地でどのような存在なのか。私には何も分かっていない。昔も今も。
 私は散々悩んだ挙句、後日また、このサイトを訪れることでもあったら考えようなどとぬるい結論を出し、ネットとの接続を切ったのだった。

ボコノン風のカリプソの歌い方

2007-04-13 04:50:20 | いわゆる日記


 作家のカート・ヴォネガットが亡くなったそうだ。下の引用記事によると死因は不明のようだが、84歳。まあ、そんなものか。

 代表作として「猫のゆりかご」「スローターハウス5」「タイタンの妖女」などが挙げられているが、映画版の「スローターハウス5」がそれなりに名高い作品となっていて、それの原作者という形で多くの人に認知されていたと知った。今、ヴォネガットに関するWeb日記を読んで回って。

 先物買いを自慢するわけじゃないが、日本の読書好きの人々がヴォネガットに注目する以前、SFマガジンの隅っこにチョコチョコと訳出されていた頃の、つまりは、まだメインストリームの文学界では無名だった頃のヴォネガットは、普通に好きだった。それはたとえば、人間の魂が自在に肉体を離れ、また戻ってくることが出来るようになった、そんな世界を描いた小品だった。

 その作品の、それまでのSF作家には感じられなかった、陽だまりの中で昼寝している世界からの報告みたいな、独特の時の流れのたゆたい具合が快かった。その感触は、当時、のんきな中学生生活を送っていた私の、白昼夢に酔いしれるSF少年の日々のリズムと、ほどよく共鳴してくれたのだった。

 そして後年。時代を象徴する作家と認知され、”大作家”になってからの彼の作品は、興味を惹かれつつ手にとってはみるものの、好ましい作品と言っていいのか、毎度、私には判断に困るものだった。

 作品の根幹を成す奇想や、そのユーモア感覚などは好ましく思えた。が、”悲痛なる世界を前にして誠意を持って傷付く精一杯の良心”みたいな彼の立ち位置が、なんだか私にはうっとうしくてならなかったのだ。そんな誠意なんか、自己満足以外の何の役に立つのか、さっぱり分からなかったから。(なんて、当時はいえなかったよ、アホ扱いされるのが目に見えていたから)

 そして、そんな私の当惑が増すのに反比例するように、ヴォネガットの文学の世界における評判はうなぎ登りとなっていたのだった。
 
 で、そんな私は今、何をしようとしていたのかといえば。ヴォネガットの”単なるSF書きではない文学者”としての評価を決定つけたといっていいのだろう作品、”猫のゆりかご”に出てくるインチキ宗教、”ボコノン教”の教義を説くために作中でたびたび歌われる”カリプソ”を、あくまでも音楽的に批評してみようと思ったのだが。

 う~ん、ちょっとそれは無理だなあ。今、ざっと読み返して分かったんだが、作中の”カリプソ”の音楽的部分に関する描写ってまるでないんだからね。

 とりあえず、ヴォネガットの頭の中にイメージされてあったカリプソって、どのようなものだったのだろう?カリブ海はトリニダッド諸島に存在する”本物のカリプソ”、社会を皮肉な視線で眺め、笑いのめすあの音楽の様相はきちんと視点に入っていたのだろう。”猫のゆりかご”ではカリプソは、あくまでも風刺歌の姿で描かれているのだから。

 ”我々の周囲にある矛盾に満ちた現実を認めつつ希望を持って生きる、そのための支えになる概念、フォーマ(無害な非真実)を伝えるための歌”が、”猫のゆりかご”におけるカリプソ、なのらしいが、これをヴォネガットは現実のカリプソの、あの猥雑なエネルギーに溢れた歌唱を聴きつつ思いついたのだろうか?

 ラジオかなんかから流れてきたカリプソのムチャクチャな歌詞を聴き、こいつは面白いや、これをど真ん中に置いて小説をでっち上げたら愉快だろうな、とか。

 でもねえ、現実のカリプソ歌手たちは”猫のゆりかご”を読んだら、どんな感想を抱いたのかな?風刺歌の歌い手たる自負を持っている筈の彼らは、「俺は無害な非真実など歌っていない。権力者にとっては大いに害のある真実を歌っているぞ」とか、反論もあるかも知れないんだから。

 なんて・・・やっぱり私はヴォネガットをあんまり好きではないらしいと書いて行くうちに分かってきて、実は我ながら驚いているのだが。いや、好きだったんだよ、はじめに書いた通り。昔はね。好きだったんだよ。

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 ★カート・ボネガット氏(米小説家)ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、ニューヨーク・マンハッタンで11日死去。84歳。死因は不明だが、数週間前に倒れ、頭部を負傷していた。1922年、米インディアナ州インディアナポリス生まれ。50年代にSF作家としてデビュー。代表作として「猫のゆりかご」「スローターハウス5」「タイタンの妖女」などが邦訳されている。(ニューヨーク支局)
 (読売新聞 - 04月12日 14:01)

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ドブロの消息

2007-04-12 04:46:11 | いわゆる日記


 先に、田端義夫氏のギターについて触れた際、ソウルマンという方に、その記事に関するコメントをいただき、ナショナルのギターについての話などが出たので思い出した話を。

 今はもう店じまいしてしまって久しいのだが、かってよく通ったMという飲み屋をやっていたTさんは、昔々のロカビリーのブームだった頃、”ダイアナ”のヒットで有名な山下敬二郎のバックバンドのギイター弾きだった過去があった。それ以前にも進駐軍のキャンプ周りなどなど、終戦直後のバンドマンの典型とも言える生活をしていたようだ。

 その後、私の街に流れてきて、ジャズ歌手だった奥さんと飲み屋を営む一方、時々ホテルのクラブなどでギターを弾いていたのだが。そんな次第なので飲み屋の客も昔上海のクラブでピアノを弾いていたなどという老年バンドマンなどが多く、なかなか面白い話が聞けるので、私もその店を贔屓にしていたのだ。

 その店でTさん相手に世間話をしているうち、どんな経緯だったか、ナショナルのドブロの話になった。ドブロというのはかって、まだエレクトリック・ギターが開発される以前に、より大きくより持続する音を出すために作られた音量増幅器付きのギターのことだ。ボディにコーンと呼ばれる反響箱が組み込まれ、また、ボディそのものも金属製で、かなり異様な外見となっている。

 これは多くはスチールギターの前身としてスチール・バーによるスライド演奏を行なう際に使用されたりしていたのだが、戦前のブルースマンたちが普通のギターのように横抱えにして弾き語りにしても使っていた。

 これがなかなか風情のある響きを成していたので私も欲しいなあ、とは思うのだが今となっては安いものではない、なんて話をしてみたらTさんは、それなら昔、進駐軍回りをしていた頃、帰国するアメリカ兵から買い取って一時仕事に使っていた事がある、なんて意外な話を聞かせてくれた。

 何しろ形が面白いので、当時在籍していたバンドで使ってみたが、そのバンドのアコーディオン弾きに「妙な音のするギターを使わないでくれ」と不評だったので使用を諦めたと。その後、私の町に流れてきた頃に、バンドマン仲間が喫茶店を開業した際、店のインテリアに使ってくれと寄贈してしまったそうな。

 その店の名を聞き驚いてしまったのだが、私の家から200メートル足らずの場所にある「喫茶K」だった。店が開店され、その壁にドブロが飾られたのは、どうやら私が中学生の頃らしい。

 へえ。そんなに身近かにドブロが存在していたのに、知らずに生活していたのか。何かの拍子にその店に入っていれば、壁に飾られたドブロに出会うことも可能だったのだ。まあ、中学生当時の私といえば、音楽ファンを始めたばかりの頃で、もちろんドブロの何たるかなど知りはしなかったのだが。

 Tさんは、もしそのドブロが現存していたらあなたにあげてもいいと言ってくれたのだが、残念ながらとうの昔に店は経営者も変わり、店の改装の際、ドブロは破棄されてしまったようだ。まあ、なんともったいないと思ったのだが、Tさんによれば、その時点でもうネックも曲がってしまっていて使用には耐えない状態だったとのこと。

 それにしても、帰国の際にTさんにドブロを売り渡して行ったアメリカ兵は、なんだってそのようなものを持ち歩いていたのか。実態は、なんとボディが金属製で丈夫だったから、戦場で持ち歩くのに都合が良かったからだそうで、戦前の日本軍に、あくまでも趣味でギター抱えて従軍した兵士など、まあ考えられないのであって、そりゃあアメリカ軍には勝てませんでしょう。

 それにしてもねえ。ドブロがそんな形で目と鼻の先に転がっていたのに気がつかずに生活していたとは。権利者(?)のTさんが、もし見つかったらあなたにあげると言ってくれただけに、ますます惜しくてならなかったりするのだった。なんて言ってみてもしょうがないんだけどね。

ナポリの大衆音楽

2007-04-10 05:28:40 | ヨーロッパ


 ”Li sarracini adorano lu sole”by Nuova Compagnia di Canto Popolare

 南イタリアのトラディショナル音楽が気になり始めたのは、以前書いた、元PFMのマウロ・パガーニの初ソロ・アルバムで”ヨーロッパ、一皮向いたらアラブ世界”みたいな非常に刺激的な音楽創造の素地形作を、ナポリの民謡グループが担当しているのを聴いたあたりか。

 だが、クラシックの演奏家によるものではない、生の形の南イタリアの民謡のレコードなどというもの、どこで手に入れたらよいのやら分からず、その大分あとになってから、一部のキトクなレコード店が私のようなもの好きの期待に応えて店頭に並べてくれるまで、実際の音は聴くことも出来ずにいたのだが。

 そうして遅ればせながらも手に入った最初の何枚かの南イタリア音楽、そのアルバムの内の一枚がこれだった。まさにマウロ・パガーニのあのアルバムで演奏している、あのバンドの代表作と聞いた。バンド名は”大衆歌の新集団”とでも解釈すればいいのか。

 ナポリの名高い仮面祭の一場面だろうか、山車の上で仮面の道化師らしき者が見栄を切るジャケ写真。アルバムタイトルは”太陽を崇拝するサラセン人”という意味だそうで、それを見ているだけでも”異郷の文化”の匂いが濃厚に漂い、大いに好奇心が刺激されたものだった。

 そして盤面に針を落とすと、確かにそれは聴いたこともない世界が展開されたのであって。それまで聞き知っていたクラシックの歌手などによって歌われる”イタリア民謡”などの光溢れる世界とはまるで逆の、地の底から湧き上がってきた様な、闇の世界のエネルギッシュなパワーを持っていた。

 打ち鳴らされるタンバリンの重たいリズムと、コーランの詠唱を想起させる呪文のごとき歌声。それはまさに、”東方”の香気漂う響きであり、なるほど、キリスト教文明とイスラム教文明の激突によって生み出された音楽なのだなあと納得させられたものだった。

 その後、それが東地中海の近隣文化の影響ばかりでなく、ナポリを一時支配していたスペインや、スペイン経由でやって来たアラビアの文化などなど、さまざまな文化が複雑に混交した結果であると知るのであるが。

 さらにその後知ったいくつかのこと。

 奇妙なタイトル曲の歌詞の大意は、「サラセン人は太陽を崇拝し、トルコ人は月を崇拝し、そして私は一人の女の虜となっている」というものであること。

 このアルバムには、リーダーのロベルト・デ・シモーネのペンになる、17世紀にスペインの悪政に抗議して立ち上がったナポリの漁師、マザッチョアリネッロへの賛歌や、第2次大戦直後に作られた、「黒いタンバリン」なる曲(アメリカ軍進駐の結果、イタリアで多くの肌の黒い子供が生まれた事件を歌ったもの)なども含まれており、民謡に対する学究的な視点から作られたばかりではなく、なかなかに生々しい内容を持っているものである事など。

 ともあれ。このアルバムに響き渡っていたタランテッラのリズムの独特の響きに導かれ、私はイタリアのトラッドのアルバムを求めて、あちこちのレコード店をさ迷い歩く羽目になるのだったが。

マドロスと永遠

2007-04-08 02:41:50 | その他の日本の音楽


 ”涙そうそう”by 田端義夫

 この土曜日の朝、というか毎日のことではあるけれど、世間様がそろそろ目を覚まして一日の生活を始めようかという早朝に、申し訳なくも就寝しようとベッドにもぐりこんだ私だったのだが。

 ふとつけた枕もとのラジオからバタヤンこと田端義夫氏の”芸能生活65周年記念シングル”であるらしい「涙そうそう」が流れてきて、どうしたらいいのか分からないみたいな気分になってしまったのだった。

 思えば、かっては小坂忠の曲を不意に吹き込んだり、意外なレコーディングを結構平気でやっているバタヤンであるから、あの曲を吹き込んでいても驚きはしなかったのだが。

 芸能生活65周年って、15の時にデビューしたとしたって今、80歳だぞ。現実には田端義夫氏、88歳だそうだが。そしてもちろん、その年齢のレコーディングであるから、全盛期のパワーなどと比べるのも余計な事なのだが、それでもいつものバタヤン節、ちょっと鼻にかけて、肩のギターを揺すり上げるようにコブシを廻した、あの歌いっぷりはまだまだ健在なのだった。

 音程が危うくなるかな、と思わせて狂わず、例のあのメロディをゆっくりと辿って行く。悠揚迫らざるそのペースは、得意のマドロス姿の氏が、天高くを横切って行くお日様を追って静かに船を大海に走らせて行く姿などを、こちらのまぶたの裏に描いて見せもしたのだった。

 ラジオは小林克也の番組だったのだが、この曲の前にジョン・レノンの”アクロス・ザ・ユニバース”が、小林氏の日本語訳詞朗読付きで流れたりしたのも、大いに雰囲気作りに貢献していた。

 田端義夫氏といえば、やはり「帰り船」だろう。波の瀬の瀬に揺られて揺れて~♪と、まるで華やかなんかではない、手垢のついた日常としての海の生活の感傷を伝えるかの歌、朝鮮半島からの”引揚者”である五木寛之は、敗戦後の”植民地朝鮮”からの引き揚げ体験を思い起こさせて好きではない、などと言っていた。

 海沿いの観光地の生まれである私にはあの歌、島巡りの観光船の、潮風の染み付き、あちこちペンキなど剥げかけた姿や、笑いさざめく観光客たちの姿など、不思議な懐かしい光景を喚起する歌であったのだが。

 今回の「涙そうそう」は、田端氏の”十九の春”とか”島育ち”といった”島もの”の延長線上に歌われたものだったのだろう。粋なマドロス、晩年の航海に乗り出す。
 長い長い時が過ぎて。静かに凪いだ海を、ギターを抱えたマドロスを乗せた船は、ゆっくりとゆっくりと、太陽を追って進んで行く。

 ところで氏の使っているギターは、どこのメーカーなのか。誰かがレスポールとか言っていて、それは絶対違うと思うんだが。リッケンパッカーと言う説もあり、あれは誰が言ったのだっけな。

 どこのメーカーだったとしても。我々なんかが弾くギターとは全然ニュアンスの違う、こいつも盛り場育ちの私には懐かしい”流しのギター”のタッチを今に伝える、氏のギターの響きであったのだった。

港の彼岸花

2007-04-07 05:58:05 | 60~70年代音楽


 まれに、「夫がオオアリクイに殺されて1年がたちました」とか、ムチャクチャな発想の代物に出会えて笑わされるスパムメールの世界だけど、このところ、ろくな代物が入信しませんね。あの世界にも好調不調があるんでしょうか。

 まあ、ろくな代物であろうとなかろうとスパムはスパム、ハナからろくでもないんですが。入信しないのが一番いいんですが。それはそうなんですが。
 最近の印象に残ったものといえば、こんなところですかね。

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 送信者・stotomi
 件名・目隠ししたままボンジュール

 本文

 先日男の鳥だった私は、赤い箸を髪に刺し、船に乗せられてまわされました。

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 これだけなんですが。何を言いたいんですかね、これは?これを読んで、なにをどう騙されたらいいんでしょうか?送信者は、受信者がどんな期待やら妄想を抱いて、貼られたURLにアクセスする事を想定しているんでしょうか?さっぱり分からない。

 しかし、意味不明ながらも独特の雰囲気は醸し出されています。タイトルと内容のミスマッチのようなこれでいいような感じもいい。送信者の名前も、なんと読んでよいのかわからないのが逆に不安感をかき立て、面白い味となっています。

 なんだか、和風のシュールレアリズム絵画を見ているような手触りもあり、また、寺山修司の世界なども思い出させる。

 そういえば昔々、まだ寺山色の濃かった頃の浅川マキが歌っていた”港の彼岸花”なんて歌を思い出してしまったりします。
 曇り空が広がっていて、灰色一色の世界にポツンと一色、赤が置かれている。そんな風景。シンと静まりかえり、思い切り呼べども声はどこへも届かない、そんな寂寥感に満たされて。

 あのような感覚も、もうずいぶん遠い気がします。ふと目覚めた深夜に聞いた夜汽車の汽笛と、それが呼び起こす身を引き裂くような孤独感。夜はいつの間にか光に満たされたもう一つの昼間””になってしまって、あの秘めやかな夜の感触は失われて久しい。我々はずいぶん遠いところに来てしまった。

 浅川マキといえば。以下は私のつまらん思い出話ですが。
 
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  あれは70年代の初め、場所は東京は新宿の厚生年金会館だったはずだ。私の立場としては、毎度お馴染み、”はっぴいえんど”のアンプ運びのバイト君であって、コンサートの形も、はっぴいえんどをバックにした岡林信康がトリ、その他、何組かのミュージシャンが出演と言う、当時ありがちな幕の内弁当的各種詰め合わせコンサートだった。

 楽器の搬入も終わり、あちこちでステージの進行に関する最終打ち合わせなどが行われるなかで、ステージ中央、突然にそれは始まったのだった。まあ、時間が空いたからちょっと音を合わせておこう、くらいの事の次第だったのだろう。
 バラバラとバンドのメンバーが集まり、いつの間にかその中央に浅川マキ本人がやってきていて、いかにもプロの音って感じのピアノのイントロが流れ、「え?なに?」と振り返ったら、それは始まっていたのだ。

 黒く長い髪で黒く長い服を着た人という、写真でさんざん見てきた浅川マキのイメージそのままの彼女がそこにいて、バンドのリズムに合わせてゆらゆらと揺れていた。始まった曲がなんだったのか、まるで覚えていない。「カモメ」だったような気もするが、何の確信もなし。
 ともかく、仕事仲間同士で立ち話をしていたら音楽が始まって、振り向いたら手を伸ばせば届くあたりで浅川マキが歌っている、と言うのはなかなかに不思議な気分だった。

 不思議と言えば、そこは開演前のステージであり、変哲もない照明が点けられているだけだったのに、彼女のいる周辺だけがなんとなく”夜”の雰囲気に染まって行く気配があり、これも相当な不思議現象。
 コンサートの開演前だから、まだ時刻としては夕方早くであり、周囲には舞台装置の直しのためにトンカチを持った人がウロウロするという色気のない環境にも関わらず、浅川マキが歌うその周りだけが勝手に”深夜”にタイムスリップしてしまって、なんだか照明までもが暗くなって来ているようで、これも芸の力と解釈するべきなのか、ちょっと感心してしまったなあ。

 とりあえず、その場を去りたくなかったのであくまで関係者ズラをしつつ、が、心中は完全に野次馬状態で音合わせの進行を覗いていたのだが、そこで気がついたこと。彼女のバンドの体制は、歌がどこから入ってもかまわないような構造になっているようだった。
 何小節イントロがあり、そこで歌が始まる、と言う構造ではないような。一定のフレーズを適当に繰り返しているから気が向いたら入って来て。あとは俺たちが適当につじつまを合わすから。そんな乗りで彼女を支えるバンドの空気が、至近距離で見ているからこそ、生々しく肌で感じられた。

 そのようなルーズな乗りこそ彼女の音楽世界に、まさにふさわしいのだろう。もしかしてそうしないと歌えない、なんて事情もあっても意外ではない。そしてそれは彼女の不名誉でも何でもないわけだけれども。
 時間としては、ほんの数分間の出来事だったのだが、貴重な体験ではあった。

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