再び「射精責任」批判と、その目次でいいのか問題
ガブリエル・ブレアの「射精責任」のヒットを受けて、「日本の『射精責任』」なる本が出ることに落ち込んでいる。あの本はまぎれもなく、「反中絶を不可侵なものとしながら、安全に家族形成の計画を立てるためのマニュアル本」であり、別に(女性の主体性を守るという意味での)フェミニズムの本でも何でもない。
https://note.com/famous_bear75/n/n5e35ff710b99
本書でガブリエル・ブレアはプロ・チョイスだと名乗りながらモルモン教(LDS)がリプロダクティブヘルス&ライツを否定していることを批判しない。また、モルモン教が生殖に権力的に介入することで数々の問題を起こしてきた歴史も無視している。宗教的な背景を「書いていない」からこそ、やっかいだ。宗教勧誘だと名乗らず勧誘することが公平ではないことと、全く同じことである。
おそらく「日本の『射精責任』」の執筆者陣には、そうしたモルモン教の、言ってしまえば生殖に関する「カルト」性にに言及する者はいないだろう。しかし、アメリカ本国でも深刻な二世問題を生み出す(男女問わず。セクシュアルマイノリティは言わずもがな。)LDSの「教え」の範疇を遵守する前提でデザインされた本書を、国内のこの状況下で肯定することは全くすじが通らない。
アメリカで起こっている根強い反中絶への誘導は主にキリスト教福音派が担っているが、モルモン教ももちろん無関係ではない。モルモン教はむしろ、ここ数年、trad wifeムーブメントをはじめ、バラエティ番組を制作するなどソフト路線に方針を移しつつ、家族をデザインニングすることの意味と価値を煽ってきた。「射精責任」のガブリエル・ブレアも間違いなく、こうしたtrad wifeムーブメントの系譜にあると言えるだろう。
しかし、家族のモデリングを提供して、生殖のあり方に介入する宗教、そしてその結果、女性の権利が搾取されることや、生まれる子どもたちが宗教の抑圧に巻き込まれるとう構造は、何もモルモン教に限ったことではない。それは、山上徹也による安部元総理の襲撃によって、再び明るみになった「二世問題」と旧統一教会を見ればわかることだろう。ルックマンやバーガーの議論が示す通り、家族をモデリングすることは宗教が信徒を確保する重要なリソースだからである。
特に日本では戦前から戦後にかけて、新宗教が「良き妻」「良き母」であることの意味と価値を強調して、教団に女性の社会的地位を与えてきた。それを女性の社会参加と捉える議論もあるが、そうした側面を全面的に肯定することはできない。それは戦後から揺らいできた「母」の価値や意味を、明瞭な型にはめる行為だったからである。女性の社会進出が一般的でなかった時代において、文字通りそれを「自ら望んだ」女性にとって価値のあるものであったことは否定しない。しかし時が経って、生まれてきた子どもたちが引き受けざるを得なかった課題や、宗教の「外」にある女性の権利にリーチすることが出来なかった女性たちの抱える問題が、今は問われている。
宗教が家族や生殖に介入することに、私は基本的に反対している。リプロを踏みつけにすることの方が圧倒的に大きいし、子どもへの虐待にもつながるからである。そして「射精責任」は、宗教的背景を語らず巧みに隠すことで、口当たりのいいフェミニズムを「装った」本でしかない。もし本書がリプロやフェミニズムを重視する本なのであれば、真っ先に家族をデザイニングして生殖に口を挟むという宗教のあり方自体を批判的に述べるだろう。増して、子どもの条件としてDNAを引き継いでいることを恥ずかしげもなく開陳することは、考えられない。
そしてtrad wifeムーブメントの系譜にあたる本書を、宗教(特にキリスト教)と生殖に関わる専門家を抜きにして再び論じることでいいのか。宗教による生殖の介入、セクシュアリティへの抑圧に対して警戒しなければならない今、そこは看過してはならない点だろう。


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