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西村賢太『藤澤清造全集』内容見本

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 二十代の頃、明治文学に熱中していた時期がある。理由はうまく思い出せないが、気がつけば古本屋を巡り、明治の作家の本ばかりを読み漁っていた。好きだった山田風太郎の明治ものを追いかけていくうちに、資料として明治の作家たちに手を伸ばしたのかもしれないし、たまたま当時住んでいたのが雑司ヶ谷霊園の近くで、墓と文学が頭の中で勝手に結び付いていったのかもしれない。理由は曖昧なままだが、とにかく読みはじめ、それなりに古本も蒐集した。

 そんな時期に、「あるマイナー作家の全集が出るらしい」という噂をどこかで聞いた。それが西村賢太・編纂『藤澤清造全集』だった。大正期の私小説家で、最後は芝公園で凍死した──そんな断片的な情報だけで、こちらの想像力は勝手に膨らんでいく。どうにかして刊行前の内容見本を手に入れたのは、その延長線上の出来事だった。

 内容見本の冒頭には、版元による「刊行のことば」が載っている。久しぶりに読み返してみる。

 西村賢太氏より、藤澤清造の全集刊行計画を相談されましたのは三年前のことでありました。恥ずかしい話ですが、当初、氏の言われるその作家についての知識は、大正期のマイナーな私小説家、消えるべくして消え、最後は野垂れ死にした不幸な人、という程度の浅薄なものしかありませんでした。もっとも、おおかたの文学年表の類にもその名や作品名が採られていない点などをみますと、その認識もさして間違いではなさそうにも思われ、現在のこの時代に、そうした作家の全集刊行を企てることには甚だ懐疑的でした。
(中略)
 そしてまた、この全集が、西村賢太氏という最も熱心な藤澤清造の研究者であり、善くも悪くもその常識外れの人格、私生活がどこか藤澤清造とオーバーラップする若き編纂者によって成ることも一つの因縁であり、今、この時を逸すれば、おそらくは世にあらわれぬ全集として、まさにただ一度の時宜を得たものではないかとの念を持っております。
 

朝日書林「刊行のことば」

 朝日書林という版元の名前も、このとき初めて知った。何よりも目を引いたのは「若き編纂者」として登場する西村賢太という人名だった。大正期の忘れられた私小説家の全集を、わざわざ企画し、資料を集め、情熱的な推薦文まで書かせている。その事実だけで、ずいぶん奇特な人間がいるんだなと二十代の私は印象を強く持ったのをおぼえている。この人物がのちに芥川賞作家になるなどとは、もちろん想像もしていなかった。

 肝心の「藤澤清造」その人については、内容見本にいくつかの紹介文と評が引かれている。そのなかでも、いちばん印象に残っているのが三上於菟吉による一節だ。

 額に汗して筆を援るも、筆行かず。
 騅、行かず焉。筆行かず。
 嗟す、今晩の食を如何にせんや。
 食はなほ忍ぶべし、飲と淫と、
 一日、一宵、忍ぶべからず。
 天、清造を艱むる、何ぞそれ酷だしき。
 憤然、筆を捨てて門外に出で、
 游歩して鬱を散ぜんとすれば、雙脚攣る。
 淋、治せず。淋、治せず。
 貧なるかな、命なるかな。歎息して頭を垂れて、陋室に歸る。

三上於菟吉『随筆わが漂泊』昭和十年六月 サイレン社刊) 

 旧字体と漢文調のリズムが相まって、とにかく生活の苦しさだけがじわじわと伝わってくる。「食はなほ忍ぶべし、飲と淫と、一日、一宵、忍ぶべからず。」ときて、「淋、治せず。淋、治せず。」でとどめを刺される。読んでいるこちらまで鬱々とした気分になってくるのだが……そこがいい。堪らなくいい。明治や大正の赤貧文士像というより、もっと生々しい生き恥の手触りが、短い一節の中に凝縮されている。

 内容見本にはこのほか、今東光や藤本義一による紹介文も続いていた。いずれも伝説的な作家の凄みを証言するものだった。そしてダメ押しとして巻末近くに置かれているのが、編纂者・西村賢太自身による長文「編輯にあたって」である。

 当然、面白いと思う人もいれば、自分とは無関係に感じる人もいるであろう。だが、そこには、なんびとの意見も批評も介在する余地は全くない。おのれの感性と好みだけが羅針盤となるのである。その状況が私にはたまらなくうれしい。藤澤清造の誤解と偏見を解くのにこれ以上の方法がないだけに、この全集が発刊されること、そしてその編集に携われることが、実際、涙の出るほどうれしい。
(中略)
 その、約四年前に勝手に藤澤清造の霊へ誓い、自分に課した約束のひとつに、力不足には違いないが、いま、ともかく取りかかることが出来た。それが一人よがりだろうと何だろうと糞食らえ。私には、ただムヤミにそいつがうれしくてならないのだ。同時に、その責任ある大役を前にしての、謙遜ぬきの力不足が悔しくてならない。が、コケの一念ということに、いまは自分をのり移らせたい。
(中略)
 この全集さえ完結できたら、もう、あとはいつ死んでもいい。全力で編輯にあたらせていただく。

「編輯にあたって」

 ここまで煽られて、読みたくならないほうが不思議である。二十代の自分にも、これはやけにしっくりきた。「なんびとの意見も批評も介在する余地は全くない。おのれの感性と好みだけが羅針盤となるのである。」という一節は、当時の自分にとって読書の理想そのものだった。少なくとも、そんなふうに読んでいたつもりだった。

 だからこそ、「それで、いつだ、いつ刊行されるんだ?」という気分で、首を長くして待っていた記憶がある。新刊案内をチェックし、書店を覗き、古書店に立ち寄るたびに藤澤清造の名前を探した。だが、待てど暮らせど全集は出ない。内容見本だけが、いつまでも「もうすぐ出るはずの本」の予告編として、手元に残り続けた。

 そのあいだに状況のほうが変わっていった。編纂者だったはずの西村賢太は、いつの間にか小説家・西村賢太としてデビューし、芥川賞を取り、私小説を次々と発表して、一気に「売れっ子作家」になってしまった。テレビで見かける彼は、内容見本の文章で想像していた奇特な若き編纂者の姿と、どこか重なりながらも、まるで別人のようでもあった。

 そうこうしているうちに、今度は西村賢太の訃報が届く。藤澤清造の全集は、とうとう現物としてはこの世に現れなかった。引用した「この全集さえ完結できたら、もう、あとはいつ死んでもいい。」という一文だけが、妙に重たく響く。あの時点での「コケの一念」が、どこまで果たされ、どこから先が中断されたのか。内容見本を前にして考え込んでしまう。

 机の上に、その薄い冊子を広げる。三上於菟吉が書きつけた「額に汗して筆を援るも、筆行かず。」という一行と、西村賢太の「糞食らえ」という一語とが、遠い時代を挟んで、紙の上で向かい合っているように見える。どちらも、決して恰好のよい文学的標語ではない。むしろ、みっともない日々の、みっともない言葉だ。それでも、二十代の自分はそこに励まされ、今の自分もやはり少しだけ励まされている。

 全集そのものはついに手に取ることができなかったが、この内容見本だけは、なぜか手放せずにいる。明治文学を読み漁っていた頃の空気と、出版されなかった全集への期待と、すでにこの世にいない書き手の体温が、薄い紙の間にいまだ残っているような気がするからだ。


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