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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

追悼・新世界レコード社

2007-07-11 04:28:52 | いわゆる日記


 しばらく前からホームページが更新されなくなり、不定期に送られてきていた新入荷品カタログも途絶えたきりになっていたので気になっていたのだが、新世界レコード社がやはり閉店していたようだ。見てきた人の話によれば、この3日に店が閉ざされ、閉店する旨の張り紙があったそうな。ロシア音楽専門の、ユニークな店だったのだが。

 まあ、ロシアの音楽は好きだったので、東京は神田の古書センターにあった店には何度か足を運んだのだが、そもそもロシア音楽の知識もなければロシア文字も読めず、店頭に並んでいる品のどれに手を出していいものやら分からず。はじめは手探りのジャケ買いで、まるでピント外れのものを手に入れてしまったりの連続だった。

 素直に”お勧めの品”など尋ねればいいものを、そこが音楽ファンとしてのプライドだけは膨れ上がっているマニアの浅ましさ、店に入り店員を前にすると”すべてに通暁した客”を無駄に演じてしまうのだ。バカだねえ。
 素直に店と付き合えるようになったのは、東京を離れ、郷里に都落ちして通信販売を利用するようになってからだ。電話やらメールやらで注文しだしたおかげで、素直に「何を聴いたらいいのだろう?」という、今思えばなんでもない質問が素直に出来るようになったのだった。なにをやっとるのか。

 それにしてもかの店の開店裏事情というもの、興味は惹かれたのだが尋ねることもなく終わってしまった。

 ロシアの文物専門に扱う輸入品店を営むに至った理由というのは、純粋にロシア文化に関心があったせいか、それとも政治的理由のシッポくらいはくっ付いていたのか。それとも、かっての歌声喫茶ブームなんかの流れを汲むロシア民謡好みの流れを汲むのだろうか。今となっては知る由もなし。
 ”新世界”なる訳ありっぽい、今日の感性からすると”新”ゆえに逆に古臭いような、さらに一回りしてまた新しいようなネーミングが気になる。

 何しろことがロシア絡みなので、勝手に一世代(やら二世代やら)前の青春群像の幻など思い浮かべて、五木寛之好み(?)の波乱万丈の物語など作り上げていたのだが。
 それがあなた、戦前の満州国まで遡る国際間の陰謀物語で、白系ロシア人の少女と旧日本軍の諜報員との禁じられた恋物語など横糸に絡めて。うん、この話、書いてみれば面白いかも知れんな。まあ現実は、絶対にそんな面白いものではありえないのだが、普通。

 しかし、当方の新世界レコード社との今となって思えば最後の取引は、こちらのオーディオでは再生できない、まあ不良品のCDが届いてしまったので、それの返品をした、なんてものだったので、なかなかこれも後味の悪いものがある。

 長い音楽ファン稼業、さまざまなレコード店との付き合いがあったものだった。そしてその付き合いはいつもこんな風に突然に断ち切られて終わる。行き慣れた店に出かけてみると、ある日、その場はもぬけのカラになっていて、閉店事情を告げる短い文章が書かれた一片のメモ用紙が貼られている・・・なんてのはまだマシな方で、ただ何も言わずにいなくなっただけ、なんてのも普通にあったなあ。

 そうそう、あの店の主人、今はどうしているんだろうなあ、などともう20年も前の付き合いを思い出して遠い目になったりするのだが、なに、こちらだっていつ失職してCDを買いたくても買えなくなり、あえなく音楽ファン引退、なんて事にならないとも限らないのさ。諸行無常。
 
 さて、それでは逝ってしまった新世界レコード社を悼み、これからロシア民謡集でも聴きまくるか。それとも、ロシアン・ポップスにしておいたほうが前向きだろうか。
 時はもう夜明け近く、窓の外はひどい雨降りになっている。

祭り太鼓が聴こえる

2007-07-10 02:18:15 | その他の日本の音楽


 わが町の夏祭りもこの15&16日に迫り、各町内の祭太鼓の練習にもひときわ熱が入っているようだ。で・・・あ~もう、うっとうしいなあ。このクソ暑いのによう、やる気出してんじゃねーよ。と私は、町の辻々に響く太鼓の音に、な~んか苛立っちゃっている昨今だったりするのである。

 まあ、「祭りだ祭りだ祭りでぃっ!」とか言って盛り上がっていられる立場の者は、そりゃ楽しかろうが。

 私なんかの場合はねえ、町内の山車運行の手はずを整え、警察との連絡、弁当の手配、いやあ、あんた、すみませんが2日目の昼間、神輿のほうにも出てもらえないかな、担ぎ手が全然足りないんだよ、おいおい、そんなのは青年部のほうに頼めって、こちとらは夜昼祭りに出ている体力もうないってば、とかなんとか祭りの運行上の世話役を務めなけりゃならない身の上なんであって、もうどうでもいいからとっとと終わってくれないものか、祭りなんて。くだらない揉め事で手を煩わされることなく、な。とか、そういうことしか考えられないんだよな。

 いやもう、酔っ払ってひとの町内の山車に乗り込んで浮かれ騒いだ挙句、勝手に滑り落ちて怪我しておいて賠償金よこせとか言ってんじゃねーよ、ばかやろーめが。
 という気分なのである、当方としては。祭りなんか楽しみにしていられるもんか。その世話をする立場になってみればこれはもう、明確に”やって来た災難”なのよな。

 そりゃまあ、子供の頃は、確かに祭りが来るのが楽しみではあったんだけどね。いつの間にやら厄介ごとでしかなくなっていった。いや、根が祭り好きな奴は、そんなゴタゴタも含めての祭りであって、いくつになっても夏がやって来ると血が騒いだりするんだろうけれど。

 祭り太鼓の練習と書いたが、あのリズムのパターンというものがさっぱり覚えられない、というか、その構造が理解できない私であって、これは音楽ファン、しかもワールドもののファンとしては、かなりヤバい話ではないかと思う。

 子供の頃からめちゃくちゃ聴き馴染んでいるはずなのに、なぜ、あの音構造が理解できないんだろう。リズムを真似て叩くのは可能だが、それがどのような美意識によって成立しているのかがどうにも理解できない私なのである。
 たとえばブルースコードがどこでサブ・ドミナントへ行くのかなんてことは、ちょっと音楽をかじれば理解は可能なはずなのに、そのようなレベルで祭り太鼓の”曲”の成り立ちの根拠が理解できないのである、私は。(書いている意味がお分かりだろうか?)

 そもそもあの和太鼓の譜面というもの、これが読めない。これも情けない。
 なんだか白黒の丸が十数個並んでいて、それにあちこち”返り点”みたいなものが打ってある、それだけのものなのに、あんなものに拠るだけで、何で延々と太鼓音楽が再現できるのだろう?
 なんだかなあ。まるで、初めてロックバンドに参加したクラシック育ちの学生が、コードネーム頼りにプレイする譜面も読めない仲間たちに「どうしてそんな化学記号みたいなものを見ただけで音楽が演奏できるんだ?」と首をかしげているのと同じじゃないか、その方面に知識のない私は。

 私の町内では山車の上に乗って太鼓を叩く役割は子供たちがやる慣わしだが、その子等は太鼓の練習場に立てかけられた譜面を覗き込んで、フムフムとか頷き、ストトトスットンといつもの夏祭りのリズムを、当たり前の顔をして叩き出しているのであって。
 が、いまさら、「それ何なの?」とは訊けません。生まれてこの方、ずっとこの街に住んでいるんじゃないのか。どちらかといえば、それを教える立場だろうがと言われれば一言もないのである、私は。

 私が子供の頃は、祭りの太鼓は大人たちが叩いていた。子供らは綿飴食って山車を引っ張っていれば良かった。当時、基本的に”学習の意欲”のない私は、太鼓の叩き方なんかに興味も持った事がなかった。そのうち、我が温泉町に斜陽の色が忍び寄り、町内の人口も一気に減少して行った。大人たちは、子供たちに任せるわけには行かない山車の運行にかかりきりになり、太鼓叩きは、なし崩し的に子供たちの役割になった。

 と、時代の流れのせいにするのもいかがなものか、だな。なんとなく見ているだけでも知識を身に付ける機会は十分あったのであって。というか、まともに教えられても多分私は、太鼓を叩けるようにはならなかっただろう、という予感はある。
 要するに私に和太鼓音楽は向いていないんだろうなあ。と、間の抜けた断念を胸に抱きつつ夏の夜は更けて行くのだった。ああ、早く終わってしまわないかなあ、夏祭り。何も事故がなく、でお願いしたい。今年は。

南部の塀の向こうで

2007-07-09 03:04:44 | 北アメリカ


 ”Praise God I'm Satisfied ”by Blind Willie Johnson

 これは以前、サリフ・ケイタが来日した時のことなんだけど。誰だったかなあ、名前は忘れちゃったんだけど、ある日本の、”その辺のサウンド好きにはそこそこ人気がある”みたいなポジションにいるミュージシャンがインタビューのような対談のような事をしたわけです。

 で、彼はサリフに向ってこう言った。「自分は、アフリカの多彩なリズムと、ブラジルの複雑なコード進行を組み合わせた音楽をやってみたく思っている」と。
 それに対するサリフの答えは、「その実験を成功させるには、高度のセンスが必要だね」とか、そんなものだったと記憶している。まあ、この回答をさらにもう一度、日本語に訳し直せば、「俺、お前がどんな音楽をやるかなんて全然興味がないし、勝手にやったら?」となるんではないかと思うのだが、それはともかく。

 で、私は雑誌の記事でその発言を読み、ははあ、人それぞれに音楽の好みはあるのだなあ、確かに、と改めて思ったのですね。
 というのも、私はブラジル音楽の、あのややこしいコード進行がどうも好きになれなくて、おかげでブラジル音楽そのものも苦手にしているからなんですが。
 どうもねえ、あのポルトガル語のモヤモヤした響きと、ブラジル音楽特有の複雑なコード進行が合いまって醸し出す、亡きウチのおばあちゃんの言い回しを使えば、「煮えた~だか煮えないだか、ハア、わからねえ」な雰囲気が、私はどうも好きになれないんですわ、いやまったく。

 コードなんて3つも知っていれば十分、とか言った高田渡の立場を私は支持するものである。音を足したり引いたりしてややこしい和音の流れを作り、それに則って構築的に作り上げたメロディよりも、ノリ一発で作ってしまった、みたいな原始的な響きを持つメロディが好きだ。

 例えて言うなら。音楽ファンを始めた頃から好ましいと感じていたメロディラインのパターンの代表例が、60年代にエリック・バートンのアニマルズが歌った、”Inside Looking Out”であります。邦題が”孤独の叫び”だったか。後年、グランド・ファンク・レイルロードがカバーしたりしました。

 あんなの、コード一つ知っていれば伴奏は十分間に合う原始的な、もう呻きや雄たけびがズラズラと連なった、みたいなメロディラインですな。ああいうのが好きだなあ。もうちょっと音楽的な表現をすれば、モード進行がどうの、ということになるんだろうけど、きちんと説明しきる自信がないんで、やめときますが。
 まあその辺が、ナイジェリアのフジとかアパラみたいなイスラム系のコブシ回しで進行して行くメロディラインを好む私のワールド方向への趣味にも通底しているのでしょうけど。

 ところであのメロディ、アニマルズのメンバーとマネージャーがコンサート・ツァーの際、アメリカ南部の刑務所に赴き、そこで歌い継がれている囚人歌を採取し、その中の一曲をロックにアレンジしたなんて事情があるようですな。

 刑務所の伝承歌に注目した音楽上の作業というのは我が日本でも演歌の故・古賀政男先生なども”演歌の源流を求めて”みたいな形でやっておられますが、アニマルズのメンバーもその辺からアメリカ大衆音楽の根幹にいたろうとするとは、なかなかに地を這うような探究心を持っているんで驚いてしまいますが。

 それにしても、”Inside Looking Out”の原型となった音楽とは、どのような佇まいの音楽だったのだろう?これは一度聴いてみたく思える。
 上の話が紹介されていた60年代の音楽雑誌の記事ではぼかされていたけど、メロディのありようから考えてあの歌は黒人ルーツのものと考えるのが自然じゃないですかね?

 たとえばこんな形のものだったのでは、と私がにらんでいるのが、戦前のアメリカでギターを弾き語りしつつゴスペルのタグイを歌っていた、ブラインド・ウイリー・ジョンソンあたりであります。彼の歌なんか、それに近かったんではないかな。あの、地の底で蠢くようなどす黒い(褒め言葉です)ギターと重苦しいうめき声である歌声。それは、劣悪な環境で生きていた当時の黒人たちの命の叫びそのものに聴こえます。

 まあ、ギター・エヴァンジェリストって言うらしい、つまりは勝手に路上でギターをかき鳴らして歌っているだけだったとは言え、でも形としてはそれなりに神の教えを伝える”聖職者”と、詠み人知らずの刑務所の労働歌歌いとおなじ扱いにしたら怒る人が出てくるかもしれませんが。
 でも、こちらとしては自分なりの価値観に従い、すぐれた大衆芸術家であると賞賛しているんだから、お願いだから納得して欲しい。

 彼の音楽を聴いたことのない人に説明するのに、ライ・クーダーが映画「パリ・テキサス」のサウンドトラックで弾きまくっていたテキサスの砂漠のガラガラヘビがとぐろを巻くようなスライドギター、あれがブラインド・ウイリー・ジョンソンのスタイルなんですよ、と言うのも良いかも知れない。ライのスライド・ギターにも多くの影響を与えてます、ウイリー・ジョンソンは。

 そしてウイリー・ジョンソンの歌には。旋律と言うよりは”フレーズの連なり”といった表現の方が似つかわしいようなメロディ・ラインが飛び交っているんですな。そいつはほんとに、アフリカに先祖がえりさせてナイジェリアのフジヤアパラとサシで勝負させても十分互角にやれるんじゃないか。なんて想像すると、ドキドキしてくるんですがね。

赤道直下のヒイラギの葉

2007-07-07 01:54:17 | アジア

 ”Joy Tobing”

 う~ん、これから話題にしようとしたアルバムに関する情報が欲しくて検索をかけたんだけど、まるで情報が上がってこないし、ジャケの画像も見つからない。購入したお店でも「現地でも品薄だった」と聞いたけど、ひょっとして限定発売とか途中でなにか問題があって発売中止にでもなったんだろうか?なにしろよく分からないジャンルの音楽であるゆえ、なにか文章を書くヒントなど欲しかったんだけど・・・

 え~、そういうわけで。”rindu akan mu”なるアルバムに関して、なんですが。

 これはインドネシアのアイドルスター、ジョイ・トビンが歌うキリスト教の宗教歌謡集であります。この種の歌は、”ロハニ (rohani)”と呼ばれているようです。
 このアルバムのジャケには”Praise & Worship”というサブ・タイトル(?)が付いてますな。これは礼拝の形式名だそうなんだけど、クリスチャンではないこちらとしては、そんな説明を聞かされてもピンと来るものではないですね。

 インドネシアといえばイスラム教国というイメージがあるんで、このようなものが存在すること自体が不思議な気がするけど、かの地はむしろ他民族他宗教国家と考えるべきなんでしょう。

 実は私、以前からこのインドネシアのキリスト歌謡ものに興味を惹かれていて、機会があるごとに買い込んできたのです。まあ、音楽の大つかみなところは、非常に清潔な響きを持ったポップ・インドネシア、と言う感じの音楽なんですが。私なんかにも聴き覚えのある賛美歌のメロディなんかも飛び出してきたりで、なかなか心洗われるような気分になったりする。

 そうそう、初めて聴いたロハニのアルバムは、インドネシア・ポップス界の大スター、ルース・サハナヤのものだったんだけど、聴いていたら、あのアメリカ南部ロックのドン・ニックスのアルバムに入っていた曲が、当然ながらインドネシア語の歌詞を伴って飛び出して来たんで、面白くなって入れ込んでしまった、なんて経緯もありました、今思い出したが。

 この新進、ジョイ・トビンもキリスト歌謡を得意としているようですが、そのようになる背景、たとえばアメリカの黒人歌手だったら子供の頃から教会に通ってゴスペルに馴染んでいたとか、それにあたるものがあるんですかねえ。検索では、そのような事実は見当たらなかったんだけど。

 ともあれ、ややハスキー気味のトビンのアイドル声がパワフルに敬虔な祈りのメロディを歌い上げる。これはなかなか切なくて良いものなんですが、良いんですかね、信者でもないものがこんな具合に楽しんでしまって。・・・と一応言ってはみるが大して気にしてはいません、CDを買ってしまえばこちらの勝手だ。

 現地を知る人の話では、このキリスト教ポップスが昨今、なかなかの人気のようなんですね。これにはどのような背景があるのやら、ちょっと知りたい気分であったりします。もしかして私のように宗教は関係無しで、ただシンプルに美しいメロディを実力派の歌手が歌うのを楽しんでいるだけだなんて。そんなこともあるんじゃないかなんて想像しているんですが。

60'ハコバン事情

2007-07-05 03:13:07 | 60~70年代音楽

 さらに先日の”日本のロック・ベスト”の余波が続いていて恐縮ですが。
 たとえばダイナマイツのアルバムなどを高評価する根拠としての”60年代末のディスコの湿った空気感”などと言った話。

 とりあえず当時、街には不良少年少女たちの遊技場としてのディスコ、当時は”ゴーゴークラブ”なんて呼び方もあったのだが、そのようなものが日々の娯楽を提供していたものだ。ただそれは今の”クラブ”なんてものの持つ、まるで運動会みたいな日向臭さを持ったものではなく、より湿った後ろめたさ、陰気さが支配していた。

 当時、”不良であること”は明らかに”いけないこと”であり、今日のようにそれなりの認知はされていなかった。その証拠に、その場には、シノギにつながるなにやらおいしいネタが転がっているのであろう、”営業中”のヤクザが当たり前の顔をして徘徊していた。
 あの頃の日本のバンドの持つ湿った暗さ重さは、そのような”都市の悪場所”の発していた感触と無縁ではないと思う。

 当時は、そのような場には生のバンドが入るのが流行しており、多くの場合、一晩に二つのバンドが交互に演奏して、喧騒のうちに朝を迎える、そんな仕組みになっていたのだった。店の専属となる事を”ハコバンで入る”などと称した。

 そんな”ゴーゴークラブのハコバン”の身分からスカウトされ、人気GSとして名を成す、なんて道は狭いながらも開けていた。たとえばタイガースやらテンプターズやら、といった超人気バンドは、そのようにしてスターになっていったのであり、それに続いた有名無名のバンドは数知れない。それらすべてが、過ぎてしまえば虚しい日々の泡であるのは、言うまでもないが。

 そのうち家出をしてGSの世界に身を投じようか、などと半分本気で思いつめていた私としては、そのような連中の底辺とそれなりの繋がりもあるにはあったのだが、たとえば彼らは、広間は仕事場であるディスコの床で寝ていた。GSとして名を成す道は開けているとはいえ、それはまさに雲を掴むような話であり、彼らの日々は目先の小金、女とクスリ、なんてものの間で荒み、鈍磨して行った。

 ディスコの客の中には、その店を”締める”番長、なんて存在もいて、バンドの演奏上のとりあえずの使命としては、彼がかっこよく踊れるようなリズムを提供することにあり、それに答えることが出来れば、番長お気に入りのバンドとしてそれなりの扱いのよさを手に入れることが出来た。

 なかなかな情けない話だが、そんなバンドに時に加わって演奏していた私としては、そのような”ともかく踊りに奉仕するリズムを繰り出すこと”を体の芯から覚えたことは意味がなくもなかったな、とは思っている。「タラタラ演奏していたらぶっ飛ばされるぞ」なんて恐怖を背に感じながら、その感触を身に付けていったのだ。

 そのようなヒリヒリした空気感を伝えるものがあるゆえ、ダイナマイツやらの演奏するR&Bナンバーなどに高評価を与えずにはいられない私なのである。まあ、場末もいいとこ、の私の体験と最前線で戦っていたダイナマイツを同列に語るのも申し訳ない話だが。

 まだ”青い珊瑚礁”のヒットを出す以前の”実力派GS”たるズー・ニー・ヴーのデビューアルバム、”ズー・ニー・ヴーの世界”などは、GS歌謡の1曲も収められていず、当時のR&Bの定番メニュー連発の、まさに当時のディスコから直送の雰囲気を伝える。
 
 ホールド・オン -HOLD ON I'M COMING
 マンズ・マンズ・ワールド -IT'S A MAN'S MAN'S WORLD
 青い影 -A WHITER SHADE OF PALE-
 グリーン・オニオン -GREEN ONIONS
 ドック・オブ・ザ・ベイ -Sittn' On THE DOCK OF THE DAY
 僕のベイビーに何か? -WHEN SOMETHING IS WRONG WITH MY BABY
 マイ・ガール -MY GIRL
 アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥ・ロング -I'VE BEEN LOVEING YOU TO LONG
 リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア -REACH OUT I'LL BE THERE

 そうだよあの頃、こんな曲が受けていたんだよ。・・・と、これらのラインナップが喚起するあの頃の個人的な思い出には事欠かない。

 ”実力派R&Bバンド”と高評価を受けつつデビューしたものの、あまり後味が良いとは言えないある事情で、アルバム1枚を世に問うただけで消えていった”ボルテージ”の残した音などは、今でも有効と感じられる独自のファンキーさに捨てがたい魅力を感ずる。

 そぞろGS時代にも陰りが差した時期にデビューした彼らは、ゴールデン・カップスのようにアーティスト然としたアピールではなく、無口な職人ぽい姿勢で黒人音楽に対峙していて、なんだかそれも魅力に感じられた。
 が、本当の成果が問われる前に彼らは、メンバーがファンの女の子に性的暴行したとかつまらない事件が原因で、芸能界を追われていった。

 先に述べた”ゴーゴークラブの番長”をやっていた男の一人と私は、30過ぎてからある飲み屋で再会し、しばらく飲み仲間として付き合った事がある。

 「その後、学校を中途で放り出された後、遠洋漁業の仕事に就いた」と、大の男が辛さに涙さえするというあるいは南太平洋の、あるいはアフリカ沖の体験を語る彼に私は、ははあなるほど、あなたがあんまりおっかない人だから、日本国内に誰も置いておきたくなかったんだね、と言ってはおいたが。

 それから私は店に置かれていたギターで思い出のR&Bあれこれのフレーズを弾き、歌ってみせた。相好を崩して頷き、良い調子で酔っ払った彼は、「日本中のディスコのバンドは俺が鍛えた!」とグラスを掲げて叫んだ。

 次の漁に出た後の彼はなぜか街に帰っては来ず、私もそんな夜があったのも忘れたまま、もう長い歳月が流れ過ぎた。彼や私がダルい青春を燃やした”ゴーゴークラブ”はとうの昔に建物ごと取り壊されて英会話学校となっており、そのようなものがあった面影さえ残っていない。

”ラストチャンス”に耳をふさいで

2007-07-03 03:15:01 | 60~70年代音楽

 ”日本のロック・ベスト”の企画の余波がまだ心のうちに残っていて、ゆえにまたも日本のロック昔話をしてしまうが、どうかお許し願いたい。

 麻生京子=麻生レミに関しては以前、文章を書いているが、まだ書き足りないものがあるのでこれも再登場お許しを。
 麻生京子は1960年代はじめに、そのワイルドな歌声を売り物に”日本のブレンダ・リー”などとも仇名されつつデビューした、のだそうだ。さすがに私もそこまでリアルタイムに知ってはいない。

 デビュー当時の彼女の録音を集めたP-VINE編集盤の”ハンガリアロック・麻生京子”を聞くと、フルバンドとともにスイングしまくる表題作やブルーコメッツをバックにワイルドなシャウトを聞かせる”のっぽのサリー”などなど、当時としてはかなり濃厚にロックの魂を持っていた歌い手と思え、嬉しくなってしまうのだが。

 私にとっての彼女の最初の記憶は、ある日のテレビの画面にエレキギターを抱えて現われ、男どもによるエレキバンドを従えて”セブンアップ!セブンアップ!のっみっまあしょう~♪”とCMソングを歌う姿である。

 1960年代半ばである。ギターなど弾く者は即、不良の判定が下ったそんな時代において、女だてらにエレキを抱えてロックを歌うその姿のあまりのかっこ良さにすっかり魅せられてしまったのだが、その時期、そのCM以外に彼女の歌うのを見たことはなかった。ヒット曲ってなかったんだろうなあ、彼女には。

 というか、”日本最初のロック少女”とも言うべき彼女にふさわしい活動の場は、当時の日本にはまだ存在しなかったと考えたい。そして、そのすぐ後に、すべてを少女たちの嬌声で塗りつぶしてグループサウンズの全盛時代がやって来る。

 麻生京子が麻生レミと改名して、内田裕也が”日本発の本格的サイケデリックバンド”として組織した”フラワーズ”に加入したのは資料によると1967年の出来事となっているが、私の記憶ではもう少し後、GSが完全に退潮の兆しを見せ始めた頃に、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのコピーをメインに押し立て、盛んに活動をはじめたような印象がある。

 どちらかと言えば旧来のポップソングの枠組みの中で窮屈そうにしていたデビュー当時に比べ、その資質をより生かせる”ロックバンドのボーカル”のポジションを得た彼女は、ずいぶんと生き生きとして見えた。

 また、サイケバンドと名乗りつつもバンドの中央になぜかペダル・スチールギタリストがいたフラワーズのサウンドも、独特の色合いを持っていた。
 ファズのかかったリードギタリストのインド音楽色濃いアドリブと、スライド・バーで押さえるがゆえに微妙に揺れ動くスチールギターの響きは不思議なブレンド具合を示し、何がなにやらまだ分かっていない少年ロックファンの当方は、なるほどサイケなサウンドだと大いに納得させられたものだった。

 当時のロック少年の”聖典”の一つであった、土曜の午後のフジテレビで放映されていた”ビートポップス”への出演時、番組司会の大橋巨泉に、「あんたはサラブレッツってジャズバンドを持っているらしいが、俺にはこのバンドがある!」などといいつつ、本来ジャズ畑の曲ではある”サマータイム”をフラワーズに演奏させた内田裕也の心の高ぶりなど、今思い出すとなかなか微笑ましいものがあった。

 まあ、その”サマータイム”は、フラワーズの演奏も麻生レミのボーカルも、ジャニス・ジョプリンとそのバックバンドの丸々コピーではあったのだが。いや、当時はそれで十分に驚嘆に値したのだった。日本のロックのレベルから言えば。

 だが、もう残された時間は少なかった。フラワーズはその頃、”ラストチャンス”なるシングル盤を発売する。それは彼らが標榜していた最先鋭のサイケなサウンドではなく、ブルーコメッツの井上忠夫のペンになるマイナー・キーの辛気臭い、典型的な”GS歌謡”だった。要するにサイケの理想は理想として、とりあえず手っ取り早く金が必要だったのだろう。GSのブームはとっくに去り、有名バンドにさえ解散の噂が出ていた。

 もっとも私は、この”ラストチャンス”なる曲、嫌いではなかった。
 歴史の転換期とて激動していた時代の空気と、そいつに追立てられる様にして暮れていったあの頃の街角のあちこちに、そして人の心に淀んでいた陰りを、あの物悲しい別れの歌がとてもよく表現していたと思えるからだ。
 それは滅び失われて行くGSたちへの挽歌であり、抱え込んだ激しい熱を、だがどこへも叩きつける道を見つけられずに忘れてしまうしかなかった”60年代の終わり”への頌歌だった。

 フラワーズ自身にしてみればおそらく好きでもなんでもない、ただ金儲けのために歌わされたのであろう歌が、奇妙に歪んだ輝きで時代の貌を映し出して見せる。そんな瞬間もまた、大衆音楽の孕みうる栄光と言えよう。もちろん、誰もそれを讃えたりはしない、それでいいのだが。

 やがて、あっけなく年は明けて1970年がやってきて、麻生レミはフラワーズを脱退してソロの道を歩んだ。フラワーズは代わりのボーカルにジョー山中を迎え、ご存知、フラワー・トラベリンバンドとして、ハードロックのバンドに生まれ変わった。
 そして私は、ジャニス・ジョプリンに傾斜するあまり、そのそっくりさんと化して行く麻生レミにも、あの不安定な音を出すサイケのバンドから、”ハードロック”とはっきり割り切れる音を出すようになったトラベリンバンドにも、もう興味が持てず、そんなもののファンであったことなど一度もないような顔をして暮らす事を覚えていったのだった。

はっぴいえんど伝説を疑え

2007-07-02 02:32:30 | 60~70年代音楽

 昨日の日記に書きましたけど、あの【マイミク横断企画・日本のロック・アルバム・ベスト25】企画は私などが予想したよりずっと参加者も多く、凄い盛り上がりで。やっぱ、良いよなあ、音楽の話は。

 で、他の人のセレクトを覗かせていただいたり自分の選んだものの再確認などして、いろいろ、はからずも見えてきたものがあったり。これは思っていた以上の収穫がありそうです。

 たとえば、過去の名作の掘り起しなど進んでも、岡林信康なんて存在は蚊帳の外である、なんてのは痛快な話ですわな。そういえばそうなんだよ。あの男、今、あんまり語られることはないですね。
 いや私、あの男の正義のヒーロー気取りって、大嫌いだったんです、昔から。ああいう奴の再評価の動きとか始まらない事を切に願う、いやほんとに。

 それとも、そのうち、「あのような、本当のメッセージソングが歌える人に、もういちど注目が集まるべきなんです」とか余計な事を言い出す奴が出てくるんだろうか。いるかもな。レコード会社が岡林をもう一度売りたくなれば、当然。勘弁して欲しいなあ。他にも金儲けのネタはあるでしょ?

 それから、うん、こちらの話をしたかったんだ、ほんとは。

 はっぴいえんどの”日本語のロックの問題”は、ここでもいまだ持ち出されています。
 あの、もはや伝説のバンドなんでしょう、”はっぴいえんど”が、ロックを日本語で歌うべくさまざまな実験を重ねた、とか言う話。

 これも”日本のロック史”を語る際、繰り返し語られるわけですが。
 私は、この話題も昔から不思議でならなくてねえ。
 はっぴいえんど登場以前のGS連中や、さらに以前のロカビリーの歌手の人たちって、英語だけで”ロック”を歌っていたの?違うでしょ?

 ”恋に破れた 若者たちで いつでも混んでる ハートブレイク・ホテル~♪”なんて具合に、はっぴいえんどなんてバンドが世に出るずーーーっと以前から、日本の歌手たちは日本語でロックを歌って来たんだから。漣健児の必殺訳詞ワールドをなめるなよ、やいこら。

 あ、漣健児氏というのは、60年代アメリカンポップスの日本語訳詞を大量に行なった、当時の訳詞界の大家です。今挙げた”ハートブレイクホテル”や”恋の片道切符”や”シェリー”や”ダイアナ”などなど、人々に愛されたその訳詞作品は枚挙にいとまがない。

 そんな人もおられたというのに。
 それをねえ。皆はまるで、はっぴいえんどがデビューするまで誰も日本語でロックを歌ったことがなかったかのように言う。なにこれ?いっそ不気味でさえあります。

 はっぴいえんどが、GSや日本のロカビリー歌手たち、あるいは漣健児先生の作業と、革命的に違う事をしたとは思えないのです、私には。違うとすれば、何がどう違うの?説明して欲しいや、一度、きっちりと。誰にも分かる形で。
 という問いにまともに答えの返って来たためしもないんですが。

 なんか無理やり事を神秘めかした過大評価に思えてならないんですがね。

日本のロックアルバム・ベスト

2007-07-01 05:04:37 | その他の日本の音楽


 ただいま、mixi内部で行なわれております【マイミク横断企画・日本のロック・アルバム・ベスト25】であります。祭の運びは以下のようになっております。

 1、60年代~現在までで
 2、和モノの・・・日本語にこだわらず
 3、各自がロックと思うアルバムを(ジヤンルがかなりフリー)
 4、25選する(一応順位付けする)
 5、その作業を今月末までに完了し
 6、7月1日~7日の間に自分の日記で公開する
 7、神風おぢは、その集計を行い
 8、順位の結果を日記で発表する

 これに参加すべく、私も下のように25種、選んでみました。
 「どこがロックだっ」とお怒りの向きもあるであろうセレクトですが、しょうがないじゃないか、私にとってはこれがロックなんだから、と居直るより仕方ないですわ。
 まあでも、それ以外のルール破りはなんとそしられても致し方ないところで、なにしろアルバム単位で選ばねばならぬところをシングルが3種、さらには音盤になっていない曲が1種ある。でも、どうしても入れたかったんだ、許してくだせえと土下座しつつ発表する次第であります。


1.パンタ/クリスタル・ナハト(1987)(画像)
2.ゴールデン・カップス/スーパー・ライブ・セッション(1969)
3.カリプソ娘/浜村美智子(2003)
4.ザ・ダイナマイツ/ヤングサウンドR&Bはこれだ!(1968)
5.ビバ!ビーバーズ!(1968)
6.DEW/布谷文夫LIVE (1998)
7.幻の名盤開放歌集・藤本卓也作品集(1993)
8.幻の名盤開放歌集・日本コロムビア篇(1992)
9.ゴールデン・カップス/第一集(1968)
10.北原ミレイ/棄てるものがあるうちはいい(シングル・1971)
11.パワー・ハウス/ブルースの新星(1969) 
12.ザ・ヘルプフル・ソウル/ ソウルの追求(1969)
13.麻生レミ&フラワーズ /ラストチャンス(シングル・1969)
14.パンタ/PANTAX’S WORLD(1976)
15.早川義夫/かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう(1969)
16.ザ・ボルテージ/シェイキン・マイ・ソウル(シングル・1968)
17.ズー・ニー・ヴー/ズー・ニー・ヴーの世界(1968)
18.ジャックス/ジャックスの世界(1968)
19.セブンアップ!/麻生京子(CMソング・1966)
20.頭脳警察/セカンド(1972)
21.三上寛 /ひらく夢などあるじゃなし(1972)
22.冠二郎/バイキング(シングル・1998)
23.谷山浩子/鏡の中のあなたへ(1978)
24.はちみつぱい/センチメンタル通り(1973)
25.はっぴいえんど/1st(1970)

 基本的に私は日本のロックというもの、60年代の末に産声を上げ、その後、何年も生きることなく、幼くして死んでしまった不幸な幼児と捉えています。(日本のロックは70年代の末にはほぼ死滅、ととらえております)
 成長する可能性があったとすれば、それはロックバンドたちの側にではなく、ここで挙げたもので言えば3、7、8、10、あたりの、暴走する演歌・歌謡曲界の異端勢力たちの延長線上ではなかったかと。

 このランクではとりあえず、パンタのファシズムへの恐怖と憧憬がないまぜとなった暗黒の幻想が美しかった1、何ごとかが生まれ出ようとする混沌に胸騒ぐ2、あたりを上位にしております。
 でも私がリアルに”ロック”を感じるのは、4,5,9、16,17、あたりの、街の悪場所の血の騒ぎみたいなものを孕んでいる音楽。まあ私のランクは、60年代末の場末のディスコに淀んでいた空気感の偏重ではありますが、この暗くて湿った重たさは、その後のロックには求むべくもないものです。

 誰にもなにやら分からないであろうものが19です。これはまだGSブームさえやって来ていない60年代中頃のテレビで、ジーンズはいてエレキギターをかき鳴らしながらセブンアップのCMソングを歌っていた、かっこいいお姉ちゃんがいたんですよ。それが麻生京子。
 その彼女が後に麻生レミと改名し、”内田裕也とフラワーズ”のボーカルとなり、13でGSの時代の、つまりは訳の分からない熱気に満ちた60年代の終焉を歌うわけですが。

 25ですが、以前、”ロック画報”の編集長氏にお会いした時、「”はっぴいえんど”の1stを私は、漫画誌”ガロ”をそのまま音楽にしたような感じで面白く感じたが、2ndの”風街ろまん”は、日本のロックを良くない方へ導いたと思い、嫌悪している」と言って「それはまたユニークな見解で」と苦笑させた事がある。
 ちなみに私は、”風街ろまん”の製作が成されているまさにその時、バイトで”はっぴいえんど”のアンプ運びをしていましたとさ。いやあ、人生いろいろです。

70'野音・尋ねバンド

2007-06-30 23:21:39 | 60~70年代音楽


 野音、といいますが、要するに東京は日比谷の野外音楽堂。そこにおいて70年代のドアタマに、もう毎週のようにロックコンサートが行われていた時期がありましてね、まあ、ちょうど東京に出たばかりの私などは好きなものだからさんざん通いつめた。その頃見聞きした事を記憶の彼方から掘り起こして書いてみようかな、と思った次第。

 まあ当時は”ウッドストック”とか、あんな大型の野外ロックフェスティバルが話題になっていましたからね、それに刺激されて、という側面は大いにあったでしょう。
 コンサートは大体、昼過ぎ頃始まって、夜、8時9時頃まで行われた。出演したのは有名無名の日本のロックバンドたち。それが入れ替わり立ち代り、何曲かずつ演奏を披露して行く訳ですな。
 当然、というべきか、まだ日の高い頃に出てくるのはアマチュアに毛が生えたようなというか、いや、アマチュアそのものだったかも知れないバンドたちでした。
 やがて夕暮れが迫る頃にはだんだんと大物が登場して来る訳だけれど、大物ったってレコードはまだ出していなかったりするのが”日本のロック”の当時の状態だった。

 そもそも、そんなにも頻繁に、そのような総花的なコンサートがたびたび行われたというのも、当時は今日のようにあちこちにライブハウスなんてなかったし、演奏者側にもファンの側にも、他にロックのための場が無かったからだ。”ロックが存在可能なのは、東京の山手線の輪の内側だけ”なんて言葉もあった。当時、町に流れる流行歌といえば演歌が大々的に主流だったし、ロックで食って行けてるバンドなんてあったのかどうか。レコードだって、リリースは簡単なことではなかった。
 ロックを演奏できる場って、そんな野音みたいな所にしかなかったし、当然、ロックを聞きたい側にとっても事情は同じだった。

 その野音の「8時間ロックフェスティバル」の入場料、よく憶えていないんですが、500円だった時があって、「高いなあ」と感じたのを記憶しています。だから、普段の料金、推して知るべし!現在との物価の違いを考えても。やっぱり安い!
 まあ、当時はロックそのものが商売にも何もならなかったし、そこで採算取るとか考えていなかったんじゃないでしょうか。まず、日本にロックを根付かせたい、そしてなにより、自分たちの音を聞いてもらいたい、そんな情熱優先でやっていたと思います、皆。それは観客も同じ事、でしたね。そんな熱気に溢れていた時代でした。

 その一方で、出演するバンドの側も、そりゃ、トリを取ったりする大物連中はともかく、早い時間に出てくる無名のバンドに関しては、今から考えると、かなり貧相な音を誇る(?)連中も、相当数、いたわけでしてね。そうそう、”バンド変われど音変わらず”なんて言葉もありました。まだまだ幼かったんですよ、日本のロック全体のレベルも。
 どいつもこいつもジミヘンやクリームなんかの下手な模造品を演じていただけって事実は確かにあった。きっちりとしたバンドとしてのパフォーマンスを提示出来る実力を持つバンドなんて珍しかったし、独自のサウンドなんて、ほとんどのバンドにとって、まだずっと先の話だった。

 だから、同世代で”野音通い”をしていた人と話なんかすると、夕闇迫り、最後の方の大物バンドが出る辺りを見計らって野音に出かけた、なんて体験談を聞くこともあり。まあ、そちらのほうが賢い選択といえるんでしょうが、私は、そんな”昼の部”のパッとしない無名バンドもまた、愛していたんで、昼過ぎには必ず出かけていきましたね。それに、そんな時間帯だって、思わぬ拾い物がないでもなかった。まれではあるけれど。

 たとえばそんな”昼の部”で一度だけ忘れがたいステージを見せてくれたバンド、なんてのもいた訳です。ライフだったかライブだったか、よく名前を憶えていないってのも間抜けな話なんですが、彼等なんかもそんな忘れがたき無名バンドの一つでした。

 ギター二人にベースとドラム、4人組のバンドでしてね、見た目もなんだかアマチュア臭く。ステージに出てきて開口一番、「僕たち、解散する事になりました。これが最後のステージです」とか言って演奏を始めた。
 それがまた渋く、されど軽快なブギの連発だったんです。当時の流行で、重苦しいブルースを延々とやるバンドは多かったけれど、同じブルース族でもブギ専門とは一本取られたね、でありました。聞く側にとっても。

 とにかくバンドの個性、一言で言えばマニアックで、かつ人懐こい!矛盾している表現ではありますが、だって、そうだったんだもの。
 自然に手拍子が起こりましたね、観客の間から。当時の野音で、そんなの初めて見たなあ。一発で観衆の心を捉えた、って奴だった。1曲2曲と演奏が続くうち、野音を埋めた観衆の中に、非常に和やかな空気が広がって行くのが見えるようだった。
 彼等自身も、解散するってんで気分的にも吹っ切れていたんじゃないですか。飄々としたステージには、凄く好感が持てた。

 だから、そんな彼らが10日ほど後の、やはり野音のステージに「この間のみんなの声援に力を得たんで、もう一度やってみることにしました」と言いつつ帰って来た時は、皆、歓声を持って、それに答えたものでした。
 その日の彼らのステージは、やはり飄々としてリズミックで、非常に楽しめるものだった。けど結局、それが私が見た彼らの最後のステージでしたね。その後、どうなってしまったのだろう、彼等。予定通り(?)やっぱり解散してしまったんだろうか。今頃になって、彼らのその後を知りたくて、当時に詳しい人に尋ねたりもしたんだけど、そもそもそんなバンドを記憶している人に逢った事がない。

 どうなったのかなあ、彼等。まだ青臭いガキで、そんな世代の思い込み一杯でコチコチになっていた私に、楽しみながら音楽をする道もある事を教えてくれたバンドだったんだけど。せめて日本のロック史にひとかけらでも足跡が残らないかと思って、折あらば彼らの事を語ってみるのだけれど。などと言ってはみても、なにしろバンドの名前自体がはっきりしないんでは、どうしようもないんだけど(苦笑)

 どなたかご存知ありませんかねえ、このバンド?何かご存知でしたら、あるいは”そのバンド、見たことがあるぞ”という方、おられましたらご一報をいただければ幸いです。それにしても、どうしてるんだろうなあ今頃、あの連中は。

サイケな街だぜ、イスタンブール

2007-06-29 02:24:21 | イスラム世界


 ”GENCLIK ILE ELELE ”by MUSTAFA OZKENT

 とりあえず、”70年代前半にレコーディングされたトルコのサイケデリック・幻の名品”なんて話だったんで、物は試しと聴いてみたんですが。ハハ、これは一本取られたね。

 冒頭の何曲かは70年代と言うより、ゴールデン・カップスあたりが”最も先鋭的な存在”として幅を利かせていたGS時代末期の日本のサイケな状況とか想起させる60年代末の”あの音”です。

 ともかく”あの時代”につながるダサい熱気が横溢していたので、なんだか笑えて来てしまって、「ギャハハ、やったれやったれ、この分だと”ルイズルイス・フセイン”とかもいるんだろ?そいつのベースソロを聞かせろ」などと軽薄に受けていたのであります。

 サイケなフレーズを飽くことなく繰り出す”ファズ”のかかったギターのソロやら、まさに”GS時代のミッキー吉野”を彷彿、のハモンドの響きなど、懐かしい限りでありました、あの時代に青春を送ったものとしては。当時、トルコの街角で熱い音を響かせていたのですかねえ、こんな連中が。

 けど、トルコの民族色が濃く出て来た中盤以降(と言っても、たかが知れているんだが。まあ、そんなに深いものではないです。”それらしい音階を使った観光地音楽”程度の扱い)を聴くにいたり、こりゃあんまり笑ってもいられないぞと。

 アラビックな音階を上下して執拗に絡みつくようなギター・ソロを繰り広げるうち、本当にとんでもない世界へ飛んで行きそうな空気が立ち込める”Emmioglu”など、底は浅いながらも聴いているとうっかり手に汗を握ってしまうような瞬間もあるわけで。

 こりゃ当時、確かにこのバンドの周辺にはトルコ民族独自の”サイケへの扉”が開きかけていたのかも知れないな、なんて、ふと思ってしまったのであります。