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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

アクロス・ザ・ボーダーライン

2007-08-09 03:02:24 | 北アメリカ


 ライ・クーダーのファン・コミュニティに、彼の初期3作、つまり”1st””Into The Purple Valley ””Boomer's Story ”の3枚のアルバムに関して書き込みがあったので、さっそく私も呼応したつもりのコメントを下のように書き込んだのでした。私もその辺が好きなんでねえ。

 ~~~~~

 1st以来、ほぼリアルタイムでライのファンをやってきましたが、今となってはこの3枚だけあればいいって感じですね。実際、この3枚だけCDで買い直して聴き返していますが、それ以降の作品は、アナログ盤置き場の中でほこりをかぶったままです。

 この3枚の滋味、ひときわ深い!セピア色に霞む風景のむこうに、噛めば噛むほど味わいの深い音楽世界が広がっています。あちこちライの導きによって音楽の旅をしたものだけど、いつの間にかここに帰ってきてしまっている。心のふるさとって奴ですかねえ。

 ~~~~~

 まあ、しかし・・・(笑)こんな、「ライは初期の3枚だけあればいい」なんて意見は、ライ・クーダー好きが集まる場に発表するには辛口過ぎましょうねえ。

 いや私も、あの輝ける”70年代”に次々に発表されたライの新譜をリアルタイムで追っていた頃は、どのアルバムも素晴らしい出来と感じていたんです。メキシコ音楽、ハワイ音楽、あるいは沖縄の音楽への関心の示しよう、などなど・・・
 ライがその卓越したギター・テクニックと鋭い音楽センスとで次々に扉を開いて見せてくれた音楽の新世界は、どれも新鮮な驚きに満ちていたものです。

 が、70年代も後半に至ると、ライの”3枚目以降”のアルバムになんだか輝きを感じられなくなってしまった私なのでした。
 その頃になると、ライの”その後の新譜”もまた、なんだかくすんだ印象しか、私には与えてくれなくなってしまった。いや、それら新譜がパッとしないゆえ、旧作にも疑いの視線が向いてしまったのかも知れません。

 かっては、”俺は音楽の水先案内人じゃない”とか、新しい”世界の音楽”の紹介を彼に求めるファンたちに苛立ちを表明していたライですが、その後の、”Bop Till You Drop ”あたりからはじまる”R&B路線”は、なんだか挑むべき新しい音楽ネタが見つからないゆえの、あんまり面白くない苦し紛れの時間稼ぎみたいに感じられていました。
 さらにその後の映画音楽製作に至っては、まるで”余生の仕事”にしか見えなかった、私には。
 
 結局、初期の3枚で展開されていたアメリカ合衆国の大衆音楽の古層を掘り起こす作業現場こそが、ライ・クーダーというミュージシャンの個性に見合った、本来の活動の場であったんじゃないですかね。あの、1930年代、ウディ・ガスリーが歌ったダストボウル・バラッドと白黒庶民混合文化のモノクロームの世界。

 ライが国境線を越えて行った、今の言葉で言えばワールドミュージック的作業は、彼の音楽家としての個性には、実はあまり向いていない仕事だったとはいえないでしょうか。国境線の向こうは、夢見るだけにしておけば良かった世界であり。でも、そこは若気の至りもあり。抗しがたい好奇心もあり。そしてライには、無理めの音楽でもどうにか格好をつけてしまえる技術とセンスがあった。

 だからライはギター一本担いでライはフラリと砂漠の向こうの町めざして旅立ち・・・その結末をどう締めくくったらいいのか分からなくなってしまった、ってのが、実は彼のほんとの消息ではないか、なんて思ったりするのですがね。

公開質問 8・6は9・11ですか、大島さん?

2007-08-06 22:16:45 | 時事

”原爆を投下するまで日本を降伏させるな
 トルーマンとバーンズの陰謀 (鳥居 民著 草思社)”


 拝啓・大島豊様
 2002年暮れに行いました最初の質問以来、再々質問差し上げましたが回答がいただけないままなので、改めて公開質問させていただきます。

 ラテン音楽誌、「ラティーナ」の2002年11月号における、「アルタン」のメンバーへのインタビューを読ませていただきました。その際の大島さんの発言の一部に納得できないものを感じました。広島への原爆投下を「我々にとっての9・11なのです」などと”説明”しておられる部分です。我々日本人の被爆体験を、そこまで矮小化して語ってしまって良いものか。
 「ある意味で」なる注釈は付いていたものの、その理不尽さへのフォローにはとてもなっていないと感じました。さっそく、それに関する疑問文を、ラティーナ誌の読者投稿スペースである”オピニオン”のページに送りました。そして後日発売された12月号。同ページにそれに対する回答とおぼしきものが掲載されましたが、編集部の不手際が原因であるとの、なんとも因果関係の釈然としない内容でした。そこで、まことにぶしつけなお願いで恐縮ですが、大島さんご自身から、この件に関する説明をいただけたらと思い、ここに公開質問させていただく次第です。よろしくお願いいたします。

 皆さまへ・下が、ラティーナ誌に送付したメールの全文です。文中、”インタビュアーのかた”とあるのは、大島氏を指します。念の為。

    #       #       #

 ラティーナ11月号の、「アルタンまつり2002とマレード・ニ・ウィニー・インタビュー」においてインタビュアーのかたが、広島への原爆投下を「8月6日はある意味でわれわれにとっての9・11なのです」などと表現しておられるのには唖然としました。
 「世界のあちこちにおいて”テロ”を繰り返してきた”テロ国家”であるアメリカが、もう一つのテロ勢力によって攻撃を受けた」すべての民族、国家を公平に考えればそのようにしか要約できない、あの”9・11”の事件と、人類史上初めて行われた、同じ人類に対する核爆弾の投下という重すぎる出来事が、果たしてイコールで結べるものなのでしょうか。(「ある意味で」の一言は、それに対する補足には、まったくなっていないでしょう)
 インタビュアーの方の、あまりにも欧米に対して隷属的過ぎる価値観には、唖然とするよりありません。まるで、「崇高な欧米の皆さんの世界の出来事に比べたら、卑しい我々の世界に起こった事など、持ち出すことさえはばかられる小さな出来事なのですが」とでも言わんばかり。
 平和記念館を訪れ、広島への原爆投下について学ぶべきは、アルタンのメンバーよりもまず、あのインタビュアーのかたではないでしょうか。

不可能なビートルズ

2007-08-05 02:23:13 | いわゆる日記


 ちょうど、ビートルズがヒット曲を連発している時期に洋楽ファンを始めました。それでそのままファンになってしまえばよかったんですが、そうは行かなかった。
 当時、いろいろなヒット曲を聴きたくて、あの頃では重要な情報源だったラジオの洋楽ベストテン関係の番組をあれこれ聴いてみるのですが、どの番組もベスト10内にビートルズの曲が何曲もランクインしていて、結局、聴けるのはビートルズの曲ばかりという始末。もっと他のバンドの音も聴きたいのになあ・・・
 辟易してしまいましてね。おかげですっかりビートルズに対しては”アンチ”の状態になってしまった。珍しいんじゃないですか、私の年代の洋楽ファンで、中学から高校にかけて、ビートルズのレコードを一枚も買わずに終わった、という者も。

 でもまあ、同じ事情があっても、それでますますビートルズ好きになる者もいただろうし、要するに私はビートルズとあんまりそりが合わなかったんでしょうね、「何が気に入らなかった?」と問われても答えようもないんですが。
 あえて答えを探してみれば、彼らのもてなしの良さが逆に居心地が悪かったと言えるのかも。良過ぎて良くない、というのか。

 当時、たとえばローリング・ストーンズを聴いてみると、何が面白いのかよく分からない部分も少なからずあった。そのあたりを耐えつつ聴くのが快かった、みたいな感覚があります。
 たとえば私は納豆が嫌いなんですが、寿司とか食べに行くと、一個だけ納豆巻きが食べたくなったりする。そのまずさが旨い、なんて妙な話ですが。そんな”不快な美味しさ”が、ビートルズには感じられなかったんですなあ。

 それでも大学に入り、仲間を見つけてバンドを作っては壊し、みたいな日々を送るうち、周囲の者の影響でビートルズの盤を物は試しと聴いてみて、なるほど、このあたりが面白かったのか、この辺が斬新だったのか、などと後追いで確認したりもしたのですが、それはやはり十代の頃の熱狂とは質の違うものですね。”観察者による冷静な鑑賞”に過ぎない。ついに私はビートルズへの偏愛とは無縁のまま洋楽ファン人生を送ってしまったと言えましょう。

 そんな私がこんな事を書くのもなんですが、映画「Let It Be」の話が出ていたので。

 あの映画で私が最も愛するのは、ジョージとリンゴがピアノを前に”オクトパス・ガーデン”を歌うシーンでした。なんか二人とも無邪気な子供に帰った感じで、こちらまであったかい気持ちになりました。
 が、そんな時間もひととき。いかにも”大物!”みたいな貫禄でスタジオのドアを開けてド~ンとポールが現われ、厳しいまなざしでスタジオを見回す。「さあ、お遊びの時間は終わりだ!」と言わんばかり。
 するとジョージとリンゴは、まるで悪戯が見つかってしまった子供みたいにすごすごと自らの持ち場に帰り、そしてセッションはまた始まるのでありました。

 あれを見て、「リバプールの不良少年だった頃の上下関係が、あそこまで行ってもまだ生きているのか」と驚いてしまったんだけど、それにしてもポールって嫌な奴だなあ、と私はしみじみ思ってしまったのです。こういうこと言ってると叱られますかね、やっぱり?すいません、ともかく上のような事情で、ビートルズにはシロウトですんで。

ジャマイカのカリプソ60'

2007-08-04 06:07:45 | 南アメリカ


 ”Trojan Calypso Box Set ”

 レゲ関係の古参レーベル、トロージャンから60年代の、主にジャマイカのミュージシャンによってレコーディングされたカリプソを集めたCD3枚組が出ていた。これがなかなかにいなたくもホット&スィートな出来上がりの愛すべき佳曲揃いで嬉しくなってしまうのだった。

 あのハリー・ベラフォンテが”さらばジャマイカ”をヒットさせたあたりから広まってしまったのであろう、”ジャマイカで聴かれている一般的な大衆音楽はカリプソである”なんて見解があり、カリブ海を舞台にした古い冒険小説などにも、”ジャマイカの原住民が物悲しいカリプソを歌っていた”なんて描写が見られたりする。

 そのようなものを読んで「違うんだよ、その時期のジャマイカなら、もうレゲとかが聴こえてくるはずだろ」とか突っ込むわけだが、やはり同じ英語圏、このようなものもレコーディングされていたのだ。

 もっとも、さらに古い時代に遡れば、メントなどというジャマイカ産のカリプソ的な音楽は当地に普通に存在していたし、”現地人の歌うカリプソ”でも間違ってはいないのであって。当方も古いメントの録音が収められたSP盤からのダビングもののカセットなど何本か持っているのだが、それらのレコーディングは1930年代のようだ。

 レゲの発展の影で、ジャマイカにおけるカリプソ系の音楽はどのような歴史を刻んできたのだろうか。こんなものを聴いてしまうと、そのあたりにも大いに興味を惹かれるのだが。

 何曲か含まれているインストは、どれも興味深い仕上がりとなっている。

 たとえば、古いミュージカル・ナンバーとして知られる”時間通りに教会へ”なんて曲(Get Me To The Church On Time - Tommy McCook)は、なんだかチンドン・ミュージックを思わせる猥雑な下町の祝祭パワーを漲らせており、これは拾いものかと思われる。
 また、題名がそのまんま曲内容のすべて、という感じの Reggae Merengue - Tommy McCook なども不思議な複合リズムで突っ走っており、こいつも嬉しい出来上がり。

 これならインストものだけ集めた編集物をもう一発お願いしたくなるのだが、何とかならないかなあ。

 トロージャン・レーベルの、この編集ものCD3枚組のシリーズは長大なカタログになっているが、内容はどれも面白そうで、今後散財させられそうな雰囲気はある。

ルイジアナに抱かれて

2007-08-02 02:34:01 | 北アメリカ


 ”Dunice Theriot / the Essential Collection ”

 ”強大な勢力に周囲を囲まれた無力な少数民族の中で機能する大衆音楽の歌手においては、女性歌手はなぜか力強い歌声を響かせ、男性歌手はなぜか弱々しい歌声で甘い歌を歌う”なんて事を言ったのは誰だったか。

 本当にそのような法則があるのか知らないが、この歌手の残した歌の数々を聴いていると、なるほどと頷かされる感じもなくはない。

 1944年にアメリカ南部はルイジアナで生まれ、1990年にその地でこの世を去った歌い手、Dunice Theriotは、その長からぬ生涯で数え切れぬほどのシングル盤を地元のローカル・レーベルからリリースしている。が、それらがアルバムという形でまとめられたのは、この2006年発売のCDが最初であるようだ。

 同じアメリカ南部はテキサスのダグ・サムなどが得意としたようなロッカ・バラードが、Dunice Theriotのレパートリーにも多いが、その歌声はダグ・サムほど男っぽいものではなく、あくまでも頼りなげにヒラヒラと高音域を舞う。他には、ワルツやツー・ステップなどというリズムが耳につく。

 歌の半数ほどは英語ではなくフランス語で歌われている。Duniceは、まさに強大な異民族に周囲を囲まれた少数民族たる、ルイジアナ州在住のフランス系アメリカ人、いわゆる”ケイジャン”の社会で生まれ、育ち、歌い続けたローカル・ヒーローなのである。

 ねっとりと粘りつくルイジアナの湿地帯の暑気の中で、濃厚なマグノリアの花の香気が漂い、貧しいフランス系白人たちの文化が同じく弱小民族たる黒人たちの文化といつの間にか混じり合う。
 Dunice のヒラヒラと宙を舞うような頼りない歌声が、その内で育まれた固有のノリのハチロクのリズムに乗ったロッカバラードで、あくまでも甘いラブ・ソングを歌い上げる。それは独特の哀感を漂わせ、南部の夕暮れの中を流れていったのだろう。

 彼の歌は、ついに全米を巻き込むようなヒット曲にはならなかったが、ルイジアナの人々はそれを愛し、家に古くからある粗末なラジオのチューナーを廻しては、彼の歌を空気の中に探しまわった。いや、本当に。

 何しろこのCDがリリースされたのも、もはやデジタルなソースしか使用しなくなっているルイジアナのラジオ局がDunice の歌をオンエアしてくれるようにと、Dunice のファンたちがレコード会社にリクエストした結果だというのだから。

 それにしても冒頭に挙げた”法則”って、どんな事情から出来上がっているのだろうね・・・

60年代の3年間

2007-08-01 02:04:42 | 60~70年代音楽


 またも過去検証ネタで申し訳ない。他の人が”60年代ロック・ベスト25”をやっているのを見ていたら、自分もやってみたくなってしまったのだ。もっとも60年代の場合、当方には問題がある。

 ともかく私のポリシーとしては、自分が体験していない時代のベストを選んだりしたくないのだ。リアルタイムで知らない時代のベストを後追いの知識だけで選んだりしたくない。そして私は、音楽ファンになったのが60年代の後半なので、65年以前のベストは選出できない。

 なおかつ。これは別の場所で違和感を唱えたりしたのだが、主にシングル盤で音楽を聴いていた60年代のベストをアルバム単位で選出するのも筋違いという気がする。ゆえに、私としてはLPで音楽を聴き始めた69年とそれ以前とは、同じ基準でベストを選びようがないのだ。

 そんな事情がありで、以下は1966、67,68年の3年分のみから選んだシングル盤のベスト25となっている。まあ、あまりにも特殊な年だった69年の分は、それだけで一本、別立てのベストをアルバム単位でいつか選んでみたい。(とかなんとか言っているが今回、65年や69年発売の盤も入っているかも知れない。まあその辺は、誤差の範囲内ということでよろしく目こぼしのほど、お願いしたい)

 また、上で述べたように、下のベストには後で得た知識によって選出した盤は入っていない。すべて、リアルタイムで体験した結果、選んだ音楽である。そして選出の基本は”優れているか否か”ではなく、”楽しめたかどうか”だ、あくまでも。
 結構、凡人のベスト、という気もするが、そりゃしょうがないじゃないか、はじめから通人なんて奴はいないよ。でも、後の好みの萌芽など垣間見えて自分としては楽しい。

 11)17)20)あたりの甘ったるいコーラスものとか14)24)などのムードミュージックまがいのインストものとかを挙げるのをかってはかっこ悪いと思っていたのだが、今では”甘ったるい音楽の深さ怖さが分からない奴は人生の深淵が分かっておらん”と断じる様になっていて、もはや平気である。

 まあとりあえず私はこのあたりからやって来た、ということだ。

1)ギミ・サム・ラヴィン=スペンサー・デイヴィス・グループ
2)孤独の叫び=アニマルズ
3)黒く塗れ=ローリングストーンズ
4)グッド・ヴァイブレーション=ビーチボーイズ
5)ブラック・イズ・ブラック=ロス・ブラボーズ
6)サマー・イン・ザ・シティ=ラヴィン・スプーンフル
7)サニー・アフタヌーン=キンクス
8)ワンモア・タイム=ゼム
9)CCライダー=アニマルズ
10)マザーズ・リトルヘルパー=ストーンズ
11)ビコーズ=デイヴ・クラーク5
12)キープ・オン・ランニング=スペンサー・デイヴィス・グループ
13)ミスター・タンブリンマン=バーズ
14)ブルースター=シャドウズ
15)ラストタイム=クリス・ファーロー
16)ヴィレッジ・グリーン=キンクス
17)恋はお預け=クリッターズ
18)アイム・ア・ボーイ=ザ・フー
19)レイン・オン・ザ・ルーフ=ラヴィン・スプーンフル
20)サイレンス・イズ・ゴールデン=トレメローズ
21)霧の五次元=バーズ
22)ハンバーグ=プロコル・ハルム
23)悪魔とモーリー=ミッチー・ライダーとデトロイト・ホイールズ
24)霧のカレリア=スプートニクス
25)リリー・ザ・ピンク=スキャッフォールド

レユニオン島からの便り

2007-07-31 04:19:00 | アフリカ


 ”Sitantelman”by Tifred

 アフリカの東海岸に浮かぶ小島、レユニオン島のローカルポップスである”マロヤ”・・・なんてものがたびたび話題になるなんて場はここぐらいのものだぞ、と無意味に威張っておくけど。
 これは、そのマロヤ・ミュージックのの新人である”ティフレッド”のデビュー・アルバムであります。

 ジャケの、昭和30年代の日本風の版画(?)が気になる。
 あの頃のアクションものの貸本漫画に出て来た”殺し屋”みたいなシルエットが佇んでいる。胸にハート型の風穴が空いていて。

 昔の漫画に出て来た殺し屋ってイメージを受けてしまったのは、その斜めにかぶった帽子や大き目のコートのせいだけれど、これはもしかしたら1940年代のアメリカの黒人たちの間で流行ったズートスーツという奴を身にまとっているのかも知れない。

 聴こえてくるのはいつものマロヤのシンプルなサウンド。メロディ楽器は一切使われていない。パーカッション群とコーラスのみをバックに、ティフレッドの錆びた歌声が、時におどけて、時にしみじみと響き渡る。使われている言葉は、もの凄く訛ったフランス語。おそらく普通のフランス人には理解できないであろうと思われるくらいの、アフリカ語化したフランス語である。

 どれも、長くても8小説ほどのシンプルな、どこか悲しげな風の吹くメロディだ。マロヤを聴くたびに思うのだ、このメロディの中に漂う独特の哀愁はどこからやって来たのだ?と。インド洋に面したアフリカ東海岸の音楽というより、むしろある種のサンバなんかを連想させる部分もなくはない。

 打楽器群だけをバックに、男女数名のコーラスとコール&レスポンスしながら進む歌といえば、まず頭に浮かぶのはナイジェリアのフジやアパラだが、あのような凶悪な熱狂とは程遠い、素朴な民謡調の不思議な哀感を伴う瀟洒な音楽。どこかに潮風の香りも漂っていて。

 シンプルなリズムやメロディを執拗に反復するうちに、どんどん熱くなって行くのがアフリカ音楽の一典型と言えるのだが、マロヤの場合そうはならず、静かな反復のうちに、ただ進んで行く。ある意味、クールである。ミニマル・ミュージックなんて言葉もふと思い浮かんだりするが、それがこの場合、適切であるのかどうかは分からず。

 そしてある時、ふと思いついたからとでもいう感じで、まるで気ままな散歩の終わりみたいに音楽は立ち止まり、終わる。それから再び”詠唱”なんて表現を持ち出したい感じの無伴奏のメロディが歌い上げられ、リズムが入り、次の曲がはじまる。

 聞けば聴くほど、奇妙な音楽だなあとの思いが濃くなる。時の止ったような、古代の世界を描いた絵画から聴こえてくるみたいな、乾いた哀感が吹き抜ける音楽。まだ生まれて間もないこの音楽がどのように変化して行くのか、非常に気になる。そして、音のうちに漂う、正体不明の独特の哀愁の出所も。

ディランへの道・第1章(?)

2007-07-30 02:16:39 | 60~70年代音楽


 先日来のベストアルバム選考騒ぎ(?)の余波、いまだ治まらず、音楽ファンとしての自分の過去検証が実は面白くなってしまって、ついでに、ボケて思い出せなくなる前に昔の事を書いてしまおうという思惑もありで、昔話が続きます、お許しを。
 で、今回のテーマは、”日本の音楽ファンは、そして私は、ボブ・ディランをいつ頃から普通に聴くようになったのか?”である。

 まあ、ディランの昔の記録フィルム、”ドント・ルック・バック”の完全版のリリースが音楽雑誌で大きく取り上げられたり、ベスト企画でディランのアルバムがランクインしたりしているのを見て、「そういえばディランて、いつ頃から普通に聞かれるようになったんだろう?」と不思議に思ったのがそもそもの話で。だって、ディラン個人の日本におけるヒット曲なんてあっただろうか?

 いや、史実なんてものはレコード会社の売り上げ資料でも当たってもらえばいいとして、私は音楽ファンとしての断片的な思い出話を並べ立てるしかないのだが。
 そもそも私が音楽ファン稼業をはじめた当時、ディランなんか日本の音楽ファンは聴いていなかったと思うのだ。

 当時、有力な海外の音楽情報を得る場だったラジオのヒットパレード番組でディランの曲がかかるなんてこともなかったわけで。「風に吹かれて」なんて曲が森山良子ヴァージョンの甘ったるい”訳詞”を付けられた状態でアマチュアのフォークグループに愛唱はされていたものの。また、当時のフォークファンというのは、まあ90パーセント以上はピーター・ポール&マリーの小奇麗なコーラスのファンで、ディランのようなアクの強い歌手に注目はしていなかったはずだ。

 おっと、当時というのは大体60年代半ばくらい、ディランが生ギター弾き語りからロック路線に転じた頃を指す。これに関してはちょっと挿話あり。

 当時、私は音楽雑誌でニューポート・フォークフェスティバルに関する記事を読んだ。普通のロックファンだった私はフォーク情報に興味はなかったのだが、好きだったロックバンド、”ラヴィン・スプーンフル”のステージ写真が掲載されており、気を惹かれたのだ。
 そこには、「昨年、フォークのプリンス(と書いてあった)のディランがロックバンドをバックに歌を披露して観客から顰蹙を買った同じステージで、今年はロックバンドのラヴィン・スプーンフルがトリを取り逆に大喝采を浴びた。たった一年でずいぶん観客の意識も変わるものである」なんて文章があった。

 まあ、それだけの話なんだけど、ディランが顰蹙を買った話は何度も語られているものの、翌年のラヴィン・スプーンフルとの対照の妙の話は誰もしていないようなので、ここに記録しておく。

 かく言う私自身も当時、ディラン本人の歌は聴いていない。その代り、バーズをはじめとして、ちょっと面白い音を出す興味を惹かれるバンドが決まってディランの歌を取り上げているので、「こいつは何かありそうだ」とは感じていた。ロックバンドの音を追いかけるのに忙しく、ディランの音楽まで聴く気まぐれは起こす余裕はなかったが。

 そんなある日、東京でフォークゲリラをやっている高校の先輩なる人が帰郷してきた。その辺の運動に興味を持っている友人に誘われ、その先輩の家に遊びに行ったのだが、そこで私はディランの音楽に初対面したのだった。

 先輩が彼のコレクションの中からまず聴かせてくれたのが、”ライク・ア・ローリングストーン”だった。
 予想したよりワイルドな音で感触は良かったのだが、レコード購入予定に入れるほどほれ込みはしなかった。私がその頃好んで聴いていたストーンズやアニマルズの音楽にあった禍々しい不良性が、ディランの音楽には感じられなかったのが大きいだろう。

 それにそもそも、その音楽のうちでもっともかっこよかったのはディランの歌声ではなく、アル・クーパーの弾く(と、後で知った)ハモンド・オルガンの響きだったのだし。

 その先輩の部屋には、モジリアニの展覧会のポスターが貼られ、いかにも「愛読書」といった感じで”都市の論理”なんて本が書棚に置かれ、”フォークリポート”やら”ガロ”なんて雑誌が積み上げられ、まだ会員制でしか手に入らなかったURCレコードの全種揃いがあり・・・というかそもそも彼がレコードをシングルではなくLP中心で持っている事実に圧倒された。先輩は、彼の戦ってきた学生運動の話を聞いて欲しそうだったが、我々はそんなものには興味はなかった。

 今思い返せば、その先輩氏はいかにも当時風のスノッブだった気がしてくるのだが、まだ純朴というかアホだった私は、「うん、こんな部屋に住むようなかっこいい人になりたいかも」などと志を持ったりもした。
 まあ当時、ディランのレコードが流れるのはそんな場所だった、というお話。文章が長くなるばかりで話がさっぱり進まないなあ。退屈だろうと思われるので、とりあえずここで中断しときます。

スイートルーム遊牧

2007-07-28 23:57:07 | イスラム世界


”Ensan Akthar” by Abdul Majeed Abdullah

 アラブの大富豪ネタのジョークの中で私が好きなのが。

 ”華のパリ~♪の超一流ホテルに宿泊した、あるアラブの富豪の一家。最上階の最高級スイートルームで旅装を解いた。
 彼らは部屋のど真ん中に砂漠で使うテントを張り、そして高価な絨毯の上に火をおこし、周囲に凄い匂いを撒き散らしながら羊の丸焼きを作り盛大にしてワイルドな晩餐を行なう。
 翌日、ひどい状態になった部屋の修繕費をポンと全額支払った彼らは、悠然と次の目的地に旅立つ”

 という話なんですが。いや、これは実話であって欲しい。

 高級ホテルの権威などハナから認めないアラブの民のマイペース振りが嬉しい、遊牧民の末裔たる誇りに溢れた良い話じゃあありませんか。
 そんな挿話が似合う音楽といったら、たとえばこのAbdullah氏のアルバムなど、いかがなもんでしょうか。

 いわゆるアラブ・ポップスの常道である扇情的なパーカッション群の響きに、怪しげに鳴り響くユニゾンのストリングスの音、といった世界が、一味も二味も奥行き深く展開されていて、さすがに”アラブの盟主”たるサウジアラビアのトップ・シンガーの自信作と唸らされます。

 イスラミックな旋律を奏でるストリングスの響きは、ここではいつものように圧倒的音圧ですべてを覆い尽くすのではなく、妖しげな気配を仄めかすにとどまる。上品な関西風薄味と申しましょうか。

 そしてその後に広がるのは重みのある、豊富なバリエーションを誇るリズム・パターンを駆使するパーカッション群。それらが描くアラブ音楽の豊饒です。
 まさに、ド~ンと広大なサウジアラビアの大地が目の前に広がるような雄大な音像の世界。ゴージャスであります。
 そして、ややハスキーながらも上品な美声の持ち主、Abdullah氏の歌声のむこうから伝わってくるのは、やはりアラブ文化の豊かさ。

 厚みのある文化を背にした者の余裕、優雅さ・・・でも、その背中合わせに、やっぱりワイルドな遊牧民の激情の血が潜んでいて、いつでも出番を待っている。
 一朝、事あれば高級ホテルのスイートルームで羊を屠り、丸焼きの一つもしてくれようという過剰な魂は、豊饒なサウンドと上品な語り口の歌声の裏側に脈々と生き続けている。

 その辺の優雅さとワイルドさのバランスが非常に魅力的な一枚なのであります。

ハワイアン・ミュージックへの断念

2007-07-27 05:28:33 | 太平洋地域


 ギャビー・パヒヌイ(1921~1980)

 雑誌広告に、「パニニ・レーベルからギャビー・パヒヌイをはじめとしたハワイ音楽の名盤各種がCD復刻」なんて書いてあって、なんだか「もういいよ」みたいな疲れた気分でそれを眺めてしまったのだった。
 そこに紹介されているアイテムのうち、ほとんどを私はかなり前に(もちろんアナログ盤時代に)手に入れ、そしていつの間にか手放してしまっている。”疲れた気分”というのはすなわち、ハワイ音楽へのある種の諦念のようなものだ。これらのアルバムはとうに聴き馴染み、そしてついに何も分からなかった、という・・・

 市民プールのBGM、くらいの認識しかなかったハワイアンを”探求する価値のある音楽”と認識させてくれたのは、ありがちな話ではあるが、ライ・クーダーの”チキン・スキン・ミュージック”だった。あのアルバムでスラックキー・ギターなるハワイ独特のオープン・チューニングのギターの弾き方を知り、巨匠、というかハワイ音楽中興の祖、ギャビーの存在を知った。

 その演奏に興味を惹かれてハワイ音楽のレコードを集め、と行きたいところだが、そうは行かなかった。ハワイの音楽などその辺に普通に転がっているだろうくらいに思っていたのに、たいした盤にお目にかかれない。売っている店自体に出会えない。読むべき解説書のタグイにも出会えず知識も深まっていないので、そもそも何を買えばいいのか、音楽の勘所はどこなのかなども分かっていなかったりもしたのだが。

 仕方がないので、ライ・クーダーとギャビーとのセッションアルバムや、ギャビーのソロ、あるいは所属していたバンドのアルバムなど数少ない獲物を繰り返し聴いてみるのだが、「なるほど良い感じの演奏だな」とは感じるものの、それ以上に踏み込めるものがない。”白熱のアドリブ合戦”とか”A民族とB民族、奇跡の文化混交”みたいな派手な見所聴き所があればまだしも、なのだが、そのような分かりやすいフックもなく、ハワイ音楽はただのどかに流れて行くばかり。

 出会いのはじめは目新しく思えたスラックキー・ギターも聴きなれてしまえば「どれを聴いてもただぼんやりとした響きがあるだけだなあ」との感想があるばかりなのだった。

 いや、突っ込んで聞けばそれなりのものがあるのだろうが、私にはその”音楽のシッポ”とでも言うべきものをついに掴むことができずに終わった。
 他の人はどうなんだろう?同じように”チキン・スキン・ミュージック”でハワイ音楽に興味を持った人は少なからずいるはずなのに、”その後の成果”を誇っている人に、あまり逢ったことはないのだが。

 まあ、他の人の事情はともかく、ギャビーのアルバム群はそんな私の、ついにものにできなかったハワイ音楽への敗北の記念碑みたいなもので、苦い思いばかりが残る代物なのだ。

 おかしいのは、私はそのくせして、たとえば日系2世のウクレレ名人、オータサンことハーブ・オオタの音楽が大好きだったりすることだ。
 オータサンの音楽はバンドのスタイルがハワイ音楽風だったりするけれども、その実態はウクレレを使ったジャズだったりイージー・リスニングだったりする。あるいはボサノバを演じてみたりの逸脱を繰り返している。全編、バッハをソロで演奏したアルバムさえある。

 そんなオータサンや、あるいは彼のスタイルのフォロワーたるウクレレ弾きたちの音楽を愛好することは、単にウクレレの音が好き、といった事情以外の何があるのか。
 ん、まあ、考えたって分からないことだろうな~。うん、もうハワイ音楽近辺に関してはあれこれ考えることはやめたの。ホイホイっと。