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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ケニア・ナイロビ80's

2007-08-23 01:42:05 | アフリカ


 ”Kenya dance mania”

 日本においてザイール(当時は、その国名だった。今はコンゴである)原産のリンガラ・ミュージックに注目が集まり始めたのはやはり80年代の始め頃と考えていいのだろうか。ルンバ=ロックなる今日的リンガラのパターンをぶち上げたパパ・ウェンバなんて”スター”も生まれたりしたのだった。

 そのあたりにはいろいろ不思議な騒ぎも起こったりしたようだが、ちょうどその頃、田舎暮らしを始めてしまった当方は”東京リンガラ・シーン”の活況を具体的には知らない。どなたか詳しい向きが書き記して下さるのを待つのみである。

 ところであの頃、本場であるコンゴはキンシャサから、はるか離れて東アフリカめざして辺境巡業の旅に出たバンドたちに思い入れていた方は、どのくらいおられたのだろうか。

 オンボロ・トラックに楽器とバンドのメンバーを積み込み、大平原を東へと旅に出る”放浪のバンド”のロマンはなかなかおいしい幻想をかき立てる。 が、もちろん現実は厳しいものだったろう。それでも出かける東アフリカ、ケニアのナイロビなどには、それなりの稼ぎの場が控えていたのだろうか。

 ・・・なんか話の運びがギクシャクしてしまうが、実は暑さのゆえに頭が少々茹っている、お許し願いたい。

 あの80年代、我が日本のリンガラ・ファンの皆がルンバ・ロックに狂い、パパ・ウェンバの動向に注目していた頃、私はそっぽを向いてケニアの音楽シーンに思いをはせ、国境線をまたいでコンゴからケニアに流入したバンドたちの音を追いかけたりしていた。
 まあ、生来のへそ曲がり、という事情もあるが、それ以上にリンガラ音楽展開の地としては”辺境”である東アフリカで、ある意味、歪んだ形に表現を尖らせている連中の音に、不思議に血が騒ぐ、そんな事情もあったのである。

 これに関してはブログをはじめたばかりの頃に、大好きだった在ケニアのコンゴ人バンド、”モジャ・ワン”についての記事も書いたので、参照願いたいが。

 で、この盤、”ケニア・ダンスマニア”は、70年代終わりから80年代にかけての、ケニアにおける音楽シーンを飾った歴史的録音を集めたアルバムである。現地ケニアのバンドあり、コンゴからの、あるいは南の隣国タンザニアからの、国境超えのバンドあり。
 80年代当時は、このような音に焦がれて、ケニアからの直輸入のシングル盤など、どうして見つけ出したのか我ながら驚いてしまうのだが、ともかく買い集めて聴きまくっていたのだった。

 ”本家”たるコンゴのリンガラポップスの音はケニアにおいて、ルオーやキクユといった現地の部族ポップスの影響を受けつつ変質していった。その変質具合に、現実との感性高いバンドマンたちの切り結びようが窺われて、実にスリリングである。

 先に、これもケニアの部族ポップスとして気を惹かれる、ベンガ・ビートについても感じたのだが、バンドの音は、コンゴのものよりずっと”ロックバンド”っぽくなる。よりコンパクトにまとまり、都会の喧騒を駆け抜ける要領を身に付けた、みたいなシャープさを感ずるのだ。

 南アフリカ共和国から、ここケニアあたりにかけての地域における低音楽器の充実を指摘していたのは中村とうよう氏だったか?ともかくここにおいてもベースギターのプレイは確かに素晴らしいものがあり、その方面のプレイヤーの方は是非御一聴をお願いしたいものである。かっこいいぞ。

 ともかく。80年代頃のケニアの文化的状況というもの、どうなっていたのだろう、などと思いをはせてしまう。ここには明らかに、ある一面において、世界の最先鋭に触れた瞬間がある。80年代のケニアはナイロビ!多くの音楽ファンには知られることなく、しかし、最高に弾けていた!

ダマスカスは燃えているか

2007-08-20 23:43:57 | イスラム世界


 ”Moshtaqa” by Asaalah

 シリアのトップ・女性シンガーとのこと。いや、トップも何も、シリアのポップスを聴くこと自体、初めての体験だったのだった。

 まあ、激しく煽り立てるパーカッション群、妖しく揺れ動くユニゾンのストリングス、そして妖艶にしてテンション高いヴォーカルが鳴り渡る、そんなアラブの女性ポップスの定番に沿った出来上がりなのだが、なかなかに凛とした個性を持っていて、さすがは一国のトップシンガーと、ちょっと惚れてしまう。

 私は勝手にアラブのポップスで一番テンションの高いのがトルコのもの、などと決め付けている。で、もっとも男気のあるというか剛直な印象があるのがイラクのもの。シリアもそんな、アラブポップス界を貫く硬派ラインの一角を担う国と考えていいのではないか。とかなんとか、CDをたった一枚聴いただけで、よく言うが私も。
 なんと申しましょうか。湾岸から発し北へ向うハード系のアラブポップスの版図など想定して悦に入っているのですな。

 聴いていて、”アラブポップスにおける都会的と田舎的なるもの”なんて事をふと考えた。このアルバムにおいては、かなりワイルドにパーカッションが鳴り響いたりするのだが、田舎っぽい感じにはならず、あくまでも都会派のクールなサウンド統制下における激情の発露、抽象化された民俗性、みたいに私には感ぜられるのだ。
 そのあたり、結構、土俗的にドロドロの世界に突入して行くエジプトなど北アフリカ勢、つまりマグレブ勢とは、一線を画している。

 なんか都会的にきりりと締まった、小股の切れ上がった鉄火肌の姐さんの歌って感じでね、かっこいいです。アラブっぽいエキゾチックな感触はきちんと生きているし。”今日を生きる都市、ダマスカス”における街の鼓動、雑踏の血の騒ぎ、なんてものが伝わってくるのですね。

Summer In The City

2007-08-19 23:47:51 | 北アメリカ


 先にこの話に関連する話題は書いているのだが。

 60年代のニューポート・フォークフェスティバルにおいて、ボブ・ディランが始めてロックバンドをバックにつけて歌い、観客からの大ブーイングを浴びた有名な事件の翌年、自身がロックバンドであるラヴィン・スプーンフルがフェスティバルのトリをとり、今度は大いに喝采を浴びた、とのこと。
 たった一年で観客の意識もずいぶん変わるものである、と私が読んだ(もちろん、日本語訳)アメリカの音楽雑誌の記事は、風刺的なニュアンスよりはむしろ本気で不思議がっているような調子で結ばれていたと記憶している。

 で、それは電気楽器使用云々というよりもむしろ、ラヴィン・スプーンフルというバンドがジャグバンドミュージックなど、ニューポートの客好みのトラディショナル・ミュージックの要素を色濃く取り入れたバンドであるゆえに、観客には仲間意識を持って迎えられたのであろう、と私は推測するのであるが。

 ところで、そのスプーンズ(とアメリカ風に略する)のヒット曲中、もっともロック的というか、やかましい響きを持つ”サマー・イン・ザ・シティ”なんて曲(1966)はどうなんだろう?あの曲は、ガチャガチャとかき鳴らされるエレキギターのコード弾きをバックに、マイナー・キーの、いかにも”エレキでゴーゴー”なメロディラインを持っていて、スプーンズの得意とするトラディショナル・ミュージックの要素を生かしたロックとは別物のような印象を受けるのだが。

 もっとも、それは私が無知なだけであって、あの曲を、たとえば生まれて一度もアパラチア山脈の奥地を出たことがありません、みたいなアメリカ伝統音楽で煮染めたみたいな爺さんを連れてきてバンジョー弾き語りで、山地でアメリカ開闢以来変化もせずに伝承されてきた、なんてスタイルで歌わせれば、「ああなるほど、あれはあの曲が元ネタなのか。アイルランド民謡までさかのぼるわけだな」とか納得できたりするのかも知れない。
 不思議な転調のし具合といい、なんかそんな予感もしないではない旋律ではあるのだが。どうなんだい、ジョン・セバスティアン?

 それにしても、複数のギターが、特に目に付くフレーズも無しにただコード弾きでガチャガチャとかき鳴らされる、あの間奏のカオス状態(?)は、まさに熱気にゆだったような夏の街の埃っぽい喧騒を見事に表現していると思う。妙なダルさと苛立ちとが焼け付くような陽光の中で燻られているような、夏の街の空気感覚。

 もはやあやふやな記憶になっているのだが、確か”サマー・イン・ザ・シティ”は、アメリカでヒットしてから日本盤のシングルが出るまで、何の事情があったのか知らないが、時間がかかったのではなかったかなあ?
 それで、当時、大橋巨泉がやっていたプロモーション・ビデオを紹介する洋楽ベストテン形式のテレビ番組で、早回しとスローモーションを交互に使った、なかなかひょうきんな出来上がりのあの曲のビデオを見ながら焦れていた記憶があるのだが。

 しかし気になるなあ、”サマー・イン・ザ・シティ”のメロディの成立由来。裏話をご存知の方、ご教示のほど、よろしくお願いします。
 それにしても暑いですねえ。

On a Foggy Night

2007-08-18 23:01:28 | ものがたり


 灼熱地獄の昼間にまさか日課のウォーキングは出来ないので、このところ日が暮れて少しは涼しくなってから歩き始めているのだが、今日も今日とて遅めの夕食を終えて海岸に出てみたら、街は霧に包まれていた。

 まだ昼間の熱気が地面から立ち込める街は、上からは霧に蓋をされ、ひどく蒸れた風呂場の脱衣場みたいなうっとうしさで、いずれにせよウォーキングなんか出来る日ではないのだと思い知ったのだが、もうこちらの体が一日歩かないと気持ちが悪いと感ずるようになってしまっているので、そのまま海岸遊歩道を行くよりしかたない。
 それでも夜の砂浜では蒸すような熱気の中、ビーチバレーに興ずる若者たちなどもいて、若さと言うものの持つ果てしなく無駄で猥雑なエネルギーに呆れさせられてしまうのだった。

 そして夏の夜の海岸における定番のお楽しみ、自主・花火大会。
 観光客がコンビニで仕入れてきた大型の打ち上げ花火を、砂浜のあちこちに陣取り盛大に打ち上げているのだ。夜の砂浜付近がそのせいでひどく火薬臭いのも、もう夏の風物詩として我々浜辺の住人は認知しかけている。
 ちなみに、砂浜での花火は禁止なのだが、というかそもそも夕刻を過ぎての海水浴場への立ち入り自体も本来は禁止なのだが、もはや誰もそんな事は気にかけていない。

 ライトアップされた砂浜は、際限なく打ち上げられる花火が上げる硝煙と、上空を漂う濃い霧とが入り混じり、白いもやの塊があちこちで渦を巻くような状態にあった。その中で三々五々打ち上げられる大小の花火は、妙に音が伸びず、ポンと気の抜けたような炸裂音を響かせる。

 ”ザ・フォッグ”と言う映画は、仰ぎ見るような出来ではなかったが、結構気に入ってはいた。今蘇る百年以上前の恩讐と、海からの怪異の襲来。それらが、孤独な人々が日を送る物寂しい海辺の小村を覆った霧の神秘に絡めて語られる様子が、良い雰囲気を出していた。
 私が見たのは90年代に作られた初代作だったのだが、その後に作られたリメイクの出来はどうだったのだろう。

 先日、交通事故死したばかりの、知り合いのA氏の事が妙に心に引っかかっている。長いこと、私の車の面倒を見てくれていたのだし、それが突然の訃報が入り、その時点でもう葬儀が終わってしまっていたので死に顔も見ていない。会葬者も駆けつける間もないうちに早々と葬儀を終えたのは、奥さんたちの看病で親族たちが大変だろうとの配慮のようだが、なるほどそりゃそうだと、今となっては納得出来る。

 それはそうなのだが、どうにもA氏が亡くなったという実感がわかないのだ。そのうちひょっこり、いつものようにその辺に顔を見せるのではないかという気がして仕方がないし、そうしたら一言、言ってやりたいこともある。

 「何やってんの?あんな場所で無茶なスピード出して、曲がり切れるわけないじゃない。あんたらしくもないなあ。奥さんも娘さんもいまだに助かるかどうか分からない状態なんだよ。ひどいこと、やっちまったなあ」
 「ウチの女房と娘が「ですか?なにかありましたか?」
 「何をとぼけた事をいってるんだよ。あんたが事故を起こして大怪我させちゃったんじゃないか。わすれちゃったのかい」
 「えーと・・・そうですかねえ・・・あ、あのバイクですけど、マフラーに問題がありまして。部品が入ったらすぐに直して、そちらに持って行きますよ」
 「いや、それはいいけどさあ、あんた、その」
 「・・・部品が・・・あればすぐに・・・直せたんですがねえ・・・入ったらすぐに・・・」

 A氏の姿はゆっくりと崩れ落ち、あたりに立ち込める霧の中に同化して、見えなくなってしまう。後には、今夜は妙にオレンジ色が強く感じられる街路灯の光の下に放置された私のバイクと、ただ立ちすくむ私自身、それだけが残されている。あとは立ち込める霧、霧、霧・・・

 海岸からは、相変らず花火が打ち上げられる音が遠く近く響いている。ずっと遠くの県道を、救急車のサイレンが行くのが聞こえた。
 街のホテルや飲み屋の発する明かりは、淀む大気の中で混じりあい、不思議に郷愁を誘う黄色く曖昧なひとかたまりの輝きと化している。
 街を覆った厚い霧は、その黄色い光を内に飲んだまま、まるで葛で作った和菓子のような、つるりとした半透明の固形物の感触をいつの間にか感じさせつつ、中空に淀み、動こうとしない。いや、ほんとうに霧は、固形物と化し、街を覆い始めているのかも知れない。

 固形物と化した霧に街もろとも飲まれ閉じ込められてしまう前に、一刻も早くこの街を出るのが得策のような気もするのだが、私のバイクの調子が悪く、動けない。そして、バイクの面倒を見てくれていたA氏が死んでしまった今となっては、どうすることも出来ないのだった。

 霧は立ち込め、夜は更けて行く。

8月15日。2日遅れで

2007-08-17 02:47:16 | 時事


”ピース・ナイン”by 笠木透と雑花塾

 8月15日と言うことで、それにちなんだ話でも書こうかと思っていたのだが、知人がお盆の帰省ラッシュで混雑する国道で車を駆っていて交通事故を起こし、亡くなってしまうという出来事があった。
 さらには車に同乗していた彼の女房子供も怪我を負い、生死の境をさまよっているのであって。当方としても、まとまった文章が書ける状態ではない。いつもだってまとまっていないじゃないかといわれれば、それまでだが。

 目の前に、超ベテランのフォーク歌手である笠木透のアルバムがあって、そこに”あの日の授業・新しい憲法の話”なんて歌が収められている。
 このテーマを笠木は別のアルバムでも取り上げていて、どうやら”子供の頃に戦争を体験した社会派フォークシンガー”たる彼にとって、ライフワークとでも言うべきテーマなのだろう。

 第2次大戦後、発布されたばかりの新憲法、それも第9条に付いて論じていた先生の思い出。泡を吹いて怒鳴ったり吠えたり、熱っぽく語っていた先生だが、こちらは何の話か分からなかった。
 「これから我が国は軍隊を持たない国になるのです。軍隊がなくなっても心細く思うことはない。日本は正しい事を世界に先駆けてやるのです。世の中に何が強いと言って、正しいことほど強いものはありません」と、先生はおっしゃっていたのだが。

 時は流れ、今、先生のあの時の気持ちが良く分かる。教え子を戦場に送ってしまった心の傷のいえない先生の、訴えかけたかったことが。・・・そのような歌なのだが。
 そういわれてもなあ。これがネット右翼諸君の言う「左翼のお花畑理論」と言う奴なのだろう。「だったらお前よう、その”正義”とやらで北朝鮮のミサイルを止められるのかよ。拉致された人たちを奪い返せるのかよ」と、非難されたりする事になるんだが、これで返せる言葉はあるんだろうか。

 CDの中の笠木透の歌声も、なんだか昔話をする人の良いお爺さんみたいで(まあ実際、年齢的にもそうなのだが)物語はすでに語り終えられ、良いおじいさんも悪いおじいさんも鬼が島の鬼も皆、とうに死に絶えてしまっている、みたいに感じられ、これを機会に”憲法を考えてみよう”などという思いは、笠木には悪いが湧いて来ない。

 このような生のテーマを掲げるよりも、いつものように大自然への愛や子供たちの夢について歌うのが笠木の本来の仕事であろうし、それが結局は、彼の想いを人に、より効果的に伝える事になるに違いないのだが。

 私の父は戦争中、関東軍の兵士として中国東北部、ロシアとの国境付近に駐屯していた。
 父が関東軍兵士の軍務として戦時中、一貫して直面していた最大の問題は、日々振るわれる上官の暴力といかに対峙するかだったようだ。「そんなに不満なら、今からでも遅くはない、元上官に仕返しに行けばいいのに」子供の頃、父の昔話に接するたびに、私はそう思った。

 最大にして唯一の”敵”は、国境の向こうにいる外国人でも、理想でも理念でもない。軍規にかこつけて陰惨なイジメ願望を思い切り発動させていた同胞の湿った心だった。

 なにが「靖国で会おう」だ。そんな事を言い交わしていたのは一部”マニア”だけだったのであって、大多数の日本人は途方に暮れ、恐怖に打ちのめされつつ戦場に引き出されていったのだ。そして、砂のごとき庶民の心根に、戦前も戦後も、なにが変わりがあるものか。

 この時期、軍神のなんのと言う上っ面の話を聞くたび、上官の鉄拳制裁をただ恐れ、腹いっぱい飯を食うのがともかく夢だった、そんな情けない兵士だった 亡父の思い出話を、私は彼のための勲章として胸に飾りたくなるのだった。

グッバイ、ホーミー

2007-08-15 06:33:08 | アジア


 深夜の好事家の皆さん。先週の土曜日の深夜と言いますか12日日曜日の早朝、午前3時から4時頃あたりのNHK総合テレビをご覧になってはおられませんでしたか?

 その辺の時間帯のNHKの番組を愛好する方は知っておられようが、”世界の民族音楽”なんて趣向の番組が時たま放映されております。世界のあちこちの風景をバックに、その土地に伝わる民族音楽を流すって趣向の番組なんだけど、まあ、その時間帯の番組の常として、フィルムは使い回しです。どのシリーズも、もう何度見たかも分からん、という状態にある。

 その日も、まあ、特に期待もせずにチャンネルをあわせたんですが、はじまったのが”世界の民族音楽・モンゴル篇”であったので、なんだか笑ってしまった私なのでした。

 だってさあ、その日の昼間にテレビのワイドショーで、相撲協会から言い渡された処分の厳しさから来るショックで横綱・朝青龍が自宅に引きこもって、暗くした部屋でテレビの画面だけ見つめ、自閉している、なんてニュースを見たばかりだったから。

 あれってさあ、一人、部屋に引きこもってテレビの画面だけを見つめ暮らしている朝青龍を放送スタッフは確実に意識していると思わないか、お立会い!
 「横綱がこの番組を偶然見たら驚くぜえ!突然、故郷モンゴルの草原が大写しになり、延々、モンゴル民謡が流されるんだからなあ」とか言って、ニタニタしてたんじゃないのか?

 などと言いつつ。久しぶりに聞くことになったモンゴルの民謡ですが、これがまったく当方の心の琴線を震わせないのが、ちょっと意外でしたね。

 かってはモンゴル、と言うよりもっと広く中央アジアのあたりというのは憧れの場所でした。シルクロード関連の番組などは欠かさず見るようにいていたし、司馬遼太郎先生(外語大モンゴル語学科卒業!)の、新疆あたりを舞台にした小説やエッセイなど、夢中で読み漁ったものでした。
 漢民族と、その国土を北方から脅かす剽悍な騎馬民族とが重ねた歴史絵巻には、いつも血が騒いだものです。

 その辺の趣味ってのは、どこから始まったのかなあ。光瀬龍の”たそがれに還る”なんてSF小説が、意外にきっかけかも。あれには、太古に新疆に埋もれた宇宙船なんて出てくるから。
 そんな中央アジアの歴史への関心はいまだ衰えないのですが、同時に楽しんでいたはずのモンゴルの民族音楽、今聴いてみるとさっぱり楽しめないのですなあ。

 たとえば、もはやモンゴル音楽の代名詞となった感のあるホーミーって奴。あの、一度に二つの声を出す発声法。かっては「凄いなあ」とか思いつつ聴いていたけど、聴きなれてしまえば、あれは単なる曲芸の一種に過ぎないのね。でしょう?奇矯な技で、一聴、驚かされるけれど、その裏に芸術的感動ってのはあんまりないよね。

 こけおどしである、とか言う批判よりも、つまりはあれはそういう種類の芸なのであり、そのことで貶してみたところで仕方ないんだけれど。
 と気が付くのに、何年かかったのだろうなと過去を振り返り、若干の冷や汗。いや、今だって、なんか似たような事をやっているかも知れませんて。訳の分からん外国の音楽ばかり聴いているんだから。

 で、NHKさん、横綱から、なんか反応はありましたか?(笑)

水底の小石のように

2007-08-13 22:19:11 | 音楽論など


 容赦なく過ぎ行く時の流れの中に、沈んだ一個の小石程度の変わらぬ真実なんてものはありえるんだろうか?なんて柄にもなく考えてしまったりした物語。

 あれは何日前だったかな、「ライ・クーダーのファン・コミュニティで持論の、”ライは初期の3枚だけで十分だ。彼の音楽は実は70年代初頭で終わっていたのだ”を披露したのだけれど、誰も賛同してくれなかった。まあ、そりゃそうですね」なんて話を書いた。

 その後も、そこのコミュでは「80年代のライの仕事は素晴らしい。90年代の新しい挑戦にも注目」なんて話は続いていて、私にしてみれば「ええ?本気かい?」とか首をひねってしまうんだけど、これもまあ、グダグダ文句つけても仕方がないのであって。

 私にしてみれば、音楽上のひらめきもまるで感じられず、ただただ煮つまりの方向に転がり落ちて行くだけとしか感じられない、70年代後半以降のライ・クーダー作品なんだけど、それのどこかに面白さを感じる人がいる。それはしょうがないです。人それぞれに違う価値観と言うものは存在するものだからね。

 けどなあ。いや、その場で、それ以上に意外な意見に出会いましてね、心からたまげた次第。

 どんな論かというと、”ポピュラー・ミュージックの栄光の年が1978年である”とか言うんですが・・・まあ、どこから見ても70年代後半なんて、ロックをはじめとした”先進諸国”のポピュラー・ミュージックが雪崩をうって腐敗の淵に落ち込んでいった時期なんであって。それが栄光の年だなんて。書き込みを読んで、自分の目を疑いましたよ。

 まあ、その後に、その方がお好きな音楽家らしき、、”YMO、パットメセニーグループ、ウェザー・リポート、チック・コリア”なんてミュージシャン名が列挙されているんで、その辺の音楽が好きな人にとっては、いろんな”栄光”が顕された年だったんでしょうね、きっと。

 私などには何が面白いのやらさっぱり理解できないし、先に私が”腐敗”と表現した当時の音楽の現象面をある意味、体現していたミュージシャンばかり挙げておられるものなあ。分かり合えなくて当たり前です。
 けど、そういう趣味の人って、ライ・クーダーなんて聴いて面白いのかい?私が評価する”初期の3枚”における泥臭いライの音楽をも楽しんでおられるのかしら?というかそもそもなんだってライ・クーダーなんかをこの人は聴く気になったのだろう?

 いやまあ、それもまた大きなお世話、きっと私なんかとは全然別の部分を楽しんでおられるのでしょうね。世の中、ほんとに広いよ。なんて当たり前の事を改めて思い知らされた次第。

 そして、彼らは私の音楽観に対して「なにをピント外れの事を言っているんだ。我々若い世代は、こんなにも真実に近付いているのに、このトシヨリは何も分かっていない」と、当然、呆れているんでしょうね。あるいはもっと年上の世代から、「この若造めが。見当はずれなことばかり言いおって」と不評を買っているのかも知れない。

 なにやら分からないうちに・・・ただ我々は時の流れの中に浮かぶ泡のごときものに浮かれ、真実を掴んだと信じ込み、ひとときの踊りを踊り、そしてある時ふと倒れ、とわに帰らぬ旅に出てしまうのだ。そんな事を人間はただ、繰り返して来た。連鎖を抜け出る道はない。多分。

 (昨日、盆休みの渋滞の中で起こった交通事故に巻き込まれ、亡くなった知人、A氏に捧ぐ)

The Russians are coming!!

2007-08-12 03:32:34 | 南アメリカ


 先に、英トロージャン・レーベルからのヴィンテージ・ジャマイカンミュージックの3枚組シリーズの話など書いたが、あのカリプソ篇の他にもスカやロックスタディなど、”前レゲ音楽”を特集したセットなども購入済みだ。が、まだまだ興味深い組があり、これでは欲しいものを皆買っていたら経済的に相当追い詰められる。と言いつつも、そうなりかねない予感はしているのである。

 そんな事をぼやきながら未購入のセットの収録曲目などぼんやり眺めていたら、”The Russians are coming”なんて曲名に気が付いた。へえ、面白い曲をやっているんだなと、感心してしまったのだが。

 ”The Russians are coming”は、それが私の知っているあの曲ならば、であるが、我が国では”アメリカ上陸作戦”なる邦題で公開されたアメリカ製のコメディ映画の主題歌である。(そして、映画の原題でもある)
 これは良く知られたロシア民謡、”ポルシュカ・ポーレ”と、呑気なカントリー&ウエスタン・ナンバーがゴタマゼになったメロディを持つ怪曲であって、ジャマイカのミュージシャンたちがいつものとぼけたノリで演じているのなら、それは相当な聴きものと言うことになる。

 ”アメリカ上陸作戦”は、米ソ冷戦の最中に作られた反戦コメディとも言うべき作品である。物語は、アメリカとロシアが核戦争寸前の緊迫した状態にあった時期に、領海侵犯してアメリカ沿岸をうろついていたロシアの原子力潜水艦が、ド田舎の漁村の海岸に座礁するところから始まる。

 そのようなとんでもないものがやってきてしまった事の重大さを理解できず、ピントはずれな言動を繰り返す漁村のマヌケなアメリカ人たち。カチカチの石頭状態で臨戦態勢にあって空気の読めないロシアの軍人たち。その辺の食い違いで大いに笑わせるうちにも、無意味な軍拡競争に励むアメリカとロシア、両国の滑稽さが浮かび上がる、という映画だった。

 非常に気に入ったシーン。漁村のちっぽけな警察の、いかにも頑迷な署長が、艦橋でふんぞり返るロシアの潜水艦の艦長に向い、「どうしてこんなところに停めた。駐車違反だ。免許証を見せろ。逮捕する」とかメチャクチャな事をヤケクソで言い出すところだ。たとえ相手が核ミサイルを装備した原潜であろうと、通すべきスジは通す、みたいな破れかぶれのプライドの発露が、なんだか爽快だった。

 まあそんなこんなですれ違いが続うち、ひょんなきっかけでアメリカの田舎者たちとロシアの軍人たちは心を通わせるようになる。そして、力をあわせて原潜を入り込んだ入り江から抜け出させることに成功する。そこに、原潜の存在に気が付き、撃沈せんと飛んでくるアメリカ空軍の爆撃機群。そこで漁村の漁師たちは自分たちの船を出してロシアの原潜を囲み、爆撃を受けずにロシア人たちが公海上に逃げ出せるように力をあわせるのだった、といったストーリー。

 今見てどうなのか分からない。あの映画程度の素朴なヒューマニズムが、今日の世界情勢を生きる人々の共感を得るのは可能かどうか。
 とりあえず70年代のはじめに、映画ファンのメッカだった東京は池袋の”文芸座”で常連客を相手に行なわれたアンケート、”オールタイム洋画ベスト選”では、”アメリカ上陸作戦”は、第2位に輝いていた。ちなみに1位は”ニュールンベルグ裁判”だったと記憶している。

 で、気になるのは、この映画のテーマ曲をレコーディングしたジャマイカのミュージシャンたちは、この映画にどのような感想を抱いていたのか?と言ったところだが、とりあえず調べようもなく、ただ、また1セット、買わねばならないCDが増えた、それだけは確かだったりするのである。

楽園の脂肪=イズラエル・カマカヴィヴォオレ

2007-08-11 01:54:58 | 太平洋地域


 ”Alone in Iz World ”by Israel Kamakawiwo'ole

 昨日のケアリィ・レイシェルに関する文章は、長いばかりで意味不明だったかなあと反省しきりなのであります。
 まあ要するに、インテリのミュージシャンが「大衆音楽、かくあらねばならぬ」なんて導き出した理論の元に伝津音楽の再生とかやると、なんかちょっと無理が出る場合があるなあ、というだけのオハナシでした。

 プライベートでは愛聴盤はモーツァルトで、時には家族そろってスーツにネクタイ締めてディナーに出かける人が、仕事だってんで裸になって褌締めて「ウケレレハヤマカ、ハレウォウッ!」とか、アダモちゃん(なんてたとえ、”ひょうきん族”を見てた人でなけりゃ通じないか)みたいなノリで”チャント”とかやっても、なんか見ている側も辛いものがあったりするでしょう?

 アメリカン・フォークっぽい音が好きならそういう音楽をやればいいじゃない、無理して伝統回帰なんかせずに。とか言ってしまいますが、その一方、そんなインテリの表現者のやせ我慢からクリエイトされるなにものかもあるってのもまた、認めておかなければならないんだけれど。

 で、本日はそんな心配もない、同じくハワイ音楽界の、これは天然の鬼才、イズラエル・カマカヴィヴォオレのアルバムなど。彼をここで取り上げるのは2度目です。

 まあとりあえず上に掲げましたジャケ写真をご覧ください。CGとかじゃないよ、ほんとにこんな体型をしているの。相撲取りも顔負けの偉丈夫だったんだけど、実は彼の場合は単に不健康に太っていただけで、ついに体が耐えられず、1997年、38歳という若さでこの世を去ってしまった。自分の体型を支えきれなかったというか、心臓が耐え切れなかったみたいね。

 ハワイというかポリネシア方面には、こんな具合に驚異的に太った人ってのがよくいるんだけど、ただ太っているからって、ポリネシア文化を深く理解し、身に付けた表現者であるなんて考える理由はどこにもない。けど、もしかしたらそうなんじゃないかなんてふと思わせてしまうミュージシャン、それが”イズ”でありました。

 さすがにその体型ならでは、という、もうソウル・ミュージックの歌手とサシで十分張り合えそうな野太い声が、まるでそれに不釣合いに思える非常にデリケートな歌いまわしでハワイ伝統のフラの小曲など歌い上げる。こいつがなかなか風情のあるものだったんだなあ。

 何も無理して作り上げることはない、”イズ”という歌手のフタを開ければ、そこには古きハワイ文化のエッセンスが流れ出して来た。いや、実情はそんなもんじゃない、イズラエルも自らの表現を求めて悩んだ日々もあったかも知れないんだけど、でも、その巨体を見ると、なんだかはじめからポリネシア音楽の才能は彼の体に刷り込み済みだったみたいに思えてならないのであります。

 これはそんな歌手・イズラエルの死後、4年ほどたってから彼を偲んでリリースされた未発表録音集。ハワイ民謡の定番もあれば、ナット・キングコールのヒット曲、”モナリザ”のハワイアン・ヴァージョンなんてのも収められています。
 スタジオでテスト版として吹き込まれたものなのかも知れない。非常にリラックスした表情のイズラエルの歌が聞ける。音の方も、ほとんどがイズラエル自身によるウクレレの弾き語りがメイン。何曲かで、簡単なギターの伴奏が付けられていたり、静かにストリングスがかぶっていたり。

 紺碧のハワイの海の広がりを前に、気ままにハワイの神々と対話を交わすイズラエルの姿が浮かんできて、こいつは非常に気持ちのいいハワイ音楽のアルバムです。
 

楽園喪失=ケアリイ・レイシェル

2007-08-10 03:07:09 | 太平洋地域


 ”Kawaipunahele” by Keali`i Reichel

 ケアリイ・レイシェル。ハワイのコンテンポラリー・ポップスを代表する人気歌手、というのが、彼への一般的評価であろう。
 我々日本人としては、あの「涙そうそう」にハワイ語の歌詞をつけ、メロディにもポリネシアの伝承歌の旋律を忍び込ませた、あの歌の”レイシェル・ヴァージョン”を発表、ハワイでヒットさせた人物、という理解の方が親しみ易いかもしれない。

 「涙そうそう」を作曲した”ビギン”のメンバーがハワイのレイシェルの自宅を訪ね、歌を披露しあう趣旨のドキュメンタリーをテレビで見た記憶がある。”現地の大物”を目の前にしたビギンの連中が、妙に緊張しているのがはっきり分かり、なんだかおかしかった。
 まあ私としては、あのようなポジションにある歌に目ざとく注目し、自らの持ち歌としてしまうのがいかにもレイシェル、なんて底意地の悪い想いを弄びつつ、日本とハワイの二組のミュージシャンの交歓風景を見ていたのだが。

 いや、本当にいやがらせ的視線を送ってしまっているのだが、それほど素直にレイシェルの活動を受け入れられないのだ、私は。

 ケアリイ・レイシェルはまだ10代のうちにハワイの伝統的な詠唱、いわゆる”チャント”を独学で学んだりフラ団体を発足させたり、その一方でハワイ大学でハワイ語を研究し、ハワイ語復活のプログラムに関わったりもしてきた。つまり、相当に意識的にハワイの文化のありようと向き合いつつ、ミュージシャンとしてのキャリアを積んできたといえるだろう。
 そのあたりが、レイシェルという歌手の強みでもあり、また弱みでもあろうと、私はこの頃、考え始めているのだが。

 上に添付したのが1995年に発表され、ハワイにおいて驚異的大ヒットを記録した、レイシェルのデビュー・アルバムのジャケなのだが、異郷に住む我々には奇矯と写る姿である。六尺褌としか見えない下穿きのみを身に付けた半裸で、背中まで伸ばした髪を風になびかせ、なにやら宗教儀式を思わせるポーズをとっている。
 ハワイ文化の伝統にこそ連ならん、との彼の心意気がここに表明されているのですなあ。そして普通にステージにも、その姿で臨むようだ。
 そのあたりがハワイ文化にこだわる男、レイシェルの面目躍如と言ったところなのでしょう。

 普通、インテリの歌手はこんな格好はしませんてば。しても、まあ、さまにはならない。とりあえずやってる音楽が安く見えかねないからやめた方がいいんじゃないかと私は思うんだが。まあ、ヨソモノの推測以上の話はしていないのだが。

 その彼の音楽世界なのだが、70年代アメリカ西海岸のフォーク志向のシンガー・ソングライターたちが”売り”にしていた心優しきアコースティック・サウンドとハワイ伝統のフラ音楽の混交した、なかなかに繊細な響きを持っている。そのサウンドでビートルズなどのハワイ風のカヴァーなどやられると、「待ってました」と拍手を送りたくなるような心地良さなのだが、ただ、上に述べた褌姿でそれを歌われてもね。

 と、こんな文章でニュアンスが伝わるかどうか自信がないのだが、なんだかどこか、レイシェルって人は頭先行で音楽活動を行なっているゆえの無理、みたいなものが感じられて仕方ないのだ、私には。
 レイシェルのご自慢の”チャント”にしても、なんかとって付けたようでねえ。普通にハワイアン・フォーク(?)を歌ってくれていればそれで十分、心地良いのに、ハワイの伝統だからって、無理やり妙な呪文を挟み込まれても。

 レイシェルって、つまりは70年代のアメリカ西海岸風のシンガーソングライター、というのが本来の資質なのではないか。
 でも彼の場合、その上に、”ハワイの伝統を受け継ぐワンランク上の意識の高い芸術家たる自分は、こうあるべきである”なんてタテマエがそびえ立ってる。それが音楽全体をゆがめている。
 そんなものをそびえ立たせてしまったのがつまり、先に言った”ハワイ文化研究家”でもある歌手、たるレイシェルの抱える問題点じゃないか。”天然”でいられない中途半端に知性派のミュージシャンだけが抱えるタイプの。

 私は「あんなこと、やらなけりゃいいのになあ」と思っている。褌姿の”チャント”やらで神秘めかすのは。なんか安易な神秘主義にハワイの音楽を封じ込めてしまう結果になりそうな気がしてならないのだ。それよりなにより、音楽の佇まいがヘルスセンターなどの余興っぽく見えてくる。
 いやまあ、やっぱりこれもヨソモノの余計な一言なんですよ、基本的には。答えは、ハワイの人々が出すべきなのであって。

 ・・・一貫して嫌味な書き方をしているなあ。レイシェルって、それほど嫌いな歌手じゃなかった筈なんだが、いざ文章にしてみたらこんなことになってしまった。
 でもって、このように自らの音楽をもって伝統文化にこそ連ならんと志した若者に、当たり前のように”歪み”を背負わせてしまうハワイの近代史の裏面、という風に話は続くのであるが、書ききる自信はないので、すみません、今回のところは中途半端にフェイドアウトさせてください。(腰砕けだね、しかし)