映画を見終えてなおもマイマイ新子の世界に浸りたい方があったなら、東京近郊では大田区の「昭和のくらし博物館」に残る昭和の雰囲気が心地よいかもしれません。

この博物館のことは、以前にもこのブログに書いたことがあります。館長であり生活史研究家である小泉和子さんのいくつもの著書からは、膨大なイメージをいただいています。小泉さんの生活史の研究は平安時代の生活にさえ及んでいるのです。

この場所は「昭和のくらし博物館」という名ではあるものの、実は小泉和子さんの実家そのものが丸々一軒保存されたものです。家の中には、そこかしこにひとつの家族の歴史を偲ぶ残り香が潜んでいます。
この家のお父様の書斎には、女学生時代の和子さんが描いた父親の働く姿のスケッチが飾られていました。その絵を眺めているうちに、唐突に、貴伊子の母が娘に残したものがあってもよいなあ、と思い至りました。
母親が描いた「赤ん坊の貴伊子のスケッチ」。

貴伊子の母の絵は、作画監督の浦谷さんが下図を描き、途中からスタッフに参加した制作進行・小林紗英さんがたまたま美大出身だというので、描き込んでもらうことにしました。
こちらでは深くは説明しなかったはずなのですが、彼女は、貴伊子の母の性格を見抜いてしまったようです。よほど絵コンテを読み込んでくれたのでしょうか。
「途中までできました」
と、持ってきた赤ん坊の絵の背景には、たくさんの蝶や花が舞っていました。
「こういうのが、貴伊子のお母さんらしいと思ったんです」
しかも、ピンクを多用した大胆な色使い。
ああ、貴伊子ってこんな母親から生まれた子だったんだ・・・・・・。
新人の小林に教えられた思いです。
ほんとうに残念なのですが、小林さんは体を壊し、仕事半ばでこの職を辞めなければならなくなってしまいました。そのとき、貴伊子の母の絵はまだ未完成のまま残されていましたが、
「これだけは家で必ず完成させてきますから」
と、約束してくれました。
絵が完成し、彼女が自分の手でそれを届けにきてくれたのは、それから数ヵ月後のことです。

彼女は、ほんのわずかな間しか仕事仲間でいられなかったけれど、画面に登場しない貴伊子の母のイメージをこの絵を通じて作り上げてくれました。そのことでもっと大きな意味での仲間になってくれました。
(この絵は下絵からすべて小林紗英の作品。映画の中ではあまり目立ちませんが、どこに登場しているか、探してみてください)
この博物館のことは、以前にもこのブログに書いたことがあります。館長であり生活史研究家である小泉和子さんのいくつもの著書からは、膨大なイメージをいただいています。小泉さんの生活史の研究は平安時代の生活にさえ及んでいるのです。
この場所は「昭和のくらし博物館」という名ではあるものの、実は小泉和子さんの実家そのものが丸々一軒保存されたものです。家の中には、そこかしこにひとつの家族の歴史を偲ぶ残り香が潜んでいます。
この家のお父様の書斎には、女学生時代の和子さんが描いた父親の働く姿のスケッチが飾られていました。その絵を眺めているうちに、唐突に、貴伊子の母が娘に残したものがあってもよいなあ、と思い至りました。
母親が描いた「赤ん坊の貴伊子のスケッチ」。
貴伊子の母の絵は、作画監督の浦谷さんが下図を描き、途中からスタッフに参加した制作進行・小林紗英さんがたまたま美大出身だというので、描き込んでもらうことにしました。
こちらでは深くは説明しなかったはずなのですが、彼女は、貴伊子の母の性格を見抜いてしまったようです。よほど絵コンテを読み込んでくれたのでしょうか。
「途中までできました」
と、持ってきた赤ん坊の絵の背景には、たくさんの蝶や花が舞っていました。
「こういうのが、貴伊子のお母さんらしいと思ったんです」
しかも、ピンクを多用した大胆な色使い。
ああ、貴伊子ってこんな母親から生まれた子だったんだ・・・・・・。
新人の小林に教えられた思いです。
ほんとうに残念なのですが、小林さんは体を壊し、仕事半ばでこの職を辞めなければならなくなってしまいました。そのとき、貴伊子の母の絵はまだ未完成のまま残されていましたが、
「これだけは家で必ず完成させてきますから」
と、約束してくれました。
絵が完成し、彼女が自分の手でそれを届けにきてくれたのは、それから数ヵ月後のことです。
彼女は、ほんのわずかな間しか仕事仲間でいられなかったけれど、画面に登場しない貴伊子の母のイメージをこの絵を通じて作り上げてくれました。そのことでもっと大きな意味での仲間になってくれました。
(この絵は下絵からすべて小林紗英の作品。映画の中ではあまり目立ちませんが、どこに登場しているか、探してみてください)