大光山 福海興国禅寺
(だいこうざん ふくかいこうこくぜんじ)
神戸市兵庫区西柳原町10-10
福原西国33ヶ所霊場・第23番札所
兵庫七福神・大黒天
〔宗派〕
臨済宗 南禅寺派
〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらいぞう)
毎年1月9日から11日にかけて、全国各地の戎社ではえびす大祭が執り行われ、商売繁盛を祈願する多くの参拝客で賑わいを見せます。兵庫県で特に有名なのが、阪神電車「西宮駅」のすぐ南にある西宮神社と、JR「兵庫駅」の東にある柳原蛭子神社で行われるえびす大祭です。そして、柳原蛭子神社に隣接する禅寺・福海寺でも同じ時期に大黒祭が執り行われ、「えべっさん」同様に多くの参拝客で境内が埋め尽くされます。
開基・足利尊氏公を讃える石碑(左)と、大黒天が安置されている本堂(右)。
南北朝の争乱が続いていた1336(建武3)年、京都での戦いに敗れた足利尊氏公は西国へと撤退する途中、兵庫の地で後醍醐天皇方の武将・新田義貞公の軍勢の追撃に遭います。この時足利尊氏公は、福海寺の前身であった針が崎観音堂に身を隠して九死に一生を得たといわれています。こうして何とか追撃を凌いだ足利尊氏公は海路西へと脱出し、九州で軍勢を整えて再び反撃を開始。湊川の合戦で楠木正成公と新田義貞公の軍勢を打ち破りました。
その後室町幕府を樹立した足利尊氏公は、自らを守ってくれた針が崎観音堂への感謝の気持ちと戦乱で亡くなった多くの人々の供養、そして国家安泰への思いを込めて、京都・正伝寺から在庵圓有禅師を開山として招き、1344(康永3)年に臨済宗寺院・福海寺を創建しました。代々足利将軍家から厚い崇敬を受けて栄えた福海寺は、1441(嘉吉元)年に播磨・備前・美作の守護だった赤松満祐公が室町幕府第6代将軍・足利義教公を暗殺した事に端を発して起こった嘉吉の乱の兵火に巻き込まれて焼失、当初JR兵庫駅の辺りにあったといわれる境内は、この時現在の場所に移されて再興されました。
鎮守社の義高稲荷神社(左)と、平清盛公ゆかりの時雨之松跡の石碑(右)。
福海寺は、「兵庫七福神」の大黒天を祀る寺院としても知られています。ちなみに「兵庫七福神」は、蛭子大神を祀る柳原蛭子神社、毘沙門天を祀る能福寺、弁天さまを祀る和田神社、布袋さまを祀る柳原天神社、寿老人を祀る薬仙寺、福禄寿を祀る真光寺で構成されています。
アクセス
・JR神戸線「兵庫駅」下車、東へ徒歩5分
拝観料
・無料
拝観時間
・詳細は福海寺までお問い合わせ下さい (078-671-6242)
さっそく弊ブログで紹介させていただきました。
またリンクも張らせていただきました。
これからも時々訪問させていただきます。
どうぞよろしくお願いいたしま
拙い写真ですが、これからも気に入ったものがあれば遠慮なくおっしゃってください。今後ともよろしくお願いします!
ネットで知りました。
柳原のえびすさん自体そんなに古い祭りではなく、前の前の宮司さんが、柳原町内や柳原商店街や福海寺の協力をえて、西宮のえべっさんの繁栄を参考に始めたようです。
えべっさんは境内が今よりもっと境内が狭かったため、近隣の協力無しではお祭りが出来なかったようです。最初の頃はぜんぜん賑わってなく、宮司さん自身が鍋釜を棒でたたいて、兵庫駅に汽車が着く時間を見て、お客を呼びに行っていたほどらしいです。出店が出だしてようやく盛り上がったようです。
何年か前にドラマ水戸黄門で柳原十日えびすの場面が出ていたようですが、えびす神社は古くからあっても祭礼はありませんでした。全くのフィクションです。
明治の頃までは宮司さんは存在せず、近隣の住民によってお守りされていました。明治に出版された兵庫史のバイブル「西摂大観」にも記載無く神社の記載も有りません。その他兵庫史の有名どころの兵庫名所記、摂津名所図会などにも同じです。
大黒さんの福海寺にも観音さんや尊氏の記事はあっても、大黒さんの記述はまったくありません。
お札を購入したとき、大黒さんのお坊さんに昔の大黒さんとくに江戸期の福海寺の大黒さんについて聞いてみると、台所に守り神としてお祀りしていただけのようです。
阪神大震災で全壊した臨済宗・福海ふっかい寺本堂(神戸市兵庫区)で奇跡的に残った本尊・釈迦如来坐像ざぞう(高さ69センチ)が、奈良時代後期(8世紀後半)に制作された可能性の高いことが松浦正昭・元富山大教授(仏教美術史)の調査でわかった。エックス線撮影で、8世紀後半に盛んだった技法「木心乾漆造もくしんかんしつづくり」が使われていたことを確認した。
福海寺は、室町幕府を開いた足利尊氏が1344年に創建し、この像も当時からあったと伝わる。戦時中に流出したが、空襲で焼失した寺を戦後に再興する際、先々代の住職の親族が買い戻した。1995年の阪神大震災では本堂から無事に発見。住民からは「不死身の仏像」と呼ばれている。
昨年11月、松浦元教授がエックス線で内部構造を調べた。その結果、木製の原型(心)が確認でき、木心乾漆造りと判断した。さらに、松浦元教授は、衣装のひだやしわの表現が法隆寺(奈良県斑鳩町)に伝わる同じ造りの弥勒みろく菩薩坐像(奈良時代後期、重要文化財)と似ており、蓮はすをかたどった台座も同寺伝法堂の阿弥陀あみだ三尊像(同)と共通しているとみる。
松浦元教授は「福海寺近くにあった古代の港・大輪田泊の周辺には、奈良時代に法隆寺の修行場や荘園があったとされており、修行のため奈良から持ち込まれたのだろう」と推測する。
また、漆は少量しか採れず高級品だった。漆をふんだんに使っていることなどから、大橋一章・早稲田大名誉教授(東洋美術史)は、平城京の官営工房で造られた可能性を指摘。「技法と外観の特徴から見て国の工房で造られたのではないか。貴重な木心乾漆像が奈良の都以外で見つかったことは意義深い」と語る。
本尊の由緒を知らされた福海寺の中野文吾住職(41)は「阪神大震災のみならず、奈良時代から幾多の困難を乗り越えてこられた仏様だったとわかり、感動している。大切に後世に受け継いでいきたい」と話している。
(2014年1月5日 読売新聞)