朝日町甲地区は、高山市役所の南東約11km、高山市役所朝日支所の西約1.5kmのところですが高山市役所から行きます
高山市役所南側の道路を東へ、約200mの「西小学校南」信号を右(南)へ、県道460号線です
約300mで、右手に国分寺の三重塔が見えます、少し先の「国分寺東」信号を左(東)へ、国道158号線です
約800mの「宝橋」信号を斜め右(南東)へ、道成りに約1.3kmの一字停止で左からの県道462号線に合流します
道成に約2.2kmの交差点を左(東北東)へ、「⇐高根・朝日・久々野」の案内板が有ります
約350mの一時停止を右(南西)へ、国道361号線です、ここから坂道を上って「飛騨ふる里トンネル」(延長2075m)を越えて行きます
約5.6kmの一時停止を左(北東)へ、まだまだ国道361号線です
約1.9kmの右カーブのところ左に「小屋名八幡神社」、「飛騨川」の「日の出橋」を渡って約400m左手に「長圓寺」です
更に東へ約1.4kmで道路左に目的のサワラが見えて来ます



南側から見上げました

釈迦堂です

石碑は割れてしまったらしく文字が読めません

脇に「県指定 天然記念物 七本サワラ」の標柱です、側面には・・・
目通り8.9m、樹高は36m、伝承では、甲村文作が仏道に入り諸国遍歴後、村に帰り亡くなった。
遺骸は経書とともに埋められ、その上に彼の七人の息子にちなみ、6本のサワラとサクラ1本を植えた。
サクラは枯れ、サワラ6幹となった。



西側から、合体木ですが日本で2番目の太さです(日本一は福島県いわき市の国指定「沢尻の大サワラ」目通り10m)



北西側から、6本の幹が広がらずに纏まっています



北側から



東側から見上げました

東側に義人市左エ門の「釋浄春」の墓標です

公園東端に説明版です
釈迦堂
永禄6年(1563年)、永瀬の同弥兵エ、小兵エ市左エ門が相計り、七本椹の下に建てた釈迦如来石像の(高さ1尺5寸5分)を安置したに創まり、現在の堂宇(縦5尺、横6尺1寸)は安政2年に改築したもので、屋根は近年葺替えた。
甲村名主 市左エ門の墓 法名 釈浄春
安永3年正月16日没、施主甲組下5ヶ村百姓中
世に、大原騒動というのは、安永(代官大原彦四郎紹正の時)と天明(その子郡代大原亀五郎正純の時)の2回に及ぶ騒動で、ここに祀る甲村名主市左エ門(又の名を伝十郎ともいう)の物語は、安永2年、過大な年貢の調達、御用水元伐の休止、代官借用という名にかくれた体のいい仝子の取り上げ、更には厳しい地改め(量)の議を発し、年貢米の増高など、過酷な圧政に苦しむ宮、久々野、阿多野郷の百姓達が、遂に堪忍袋の緒を切らし、宮、川原に相集い、謀逆の幡を挙げその数万余に達したという。
代官大原は、到底尋常の手段では解決し得ぬとみて、幕府の許しを得、諸藩の兵を借りてこれを鎮圧したが、一時は数百人の科人が出、高山の牢屋を増築してこれを収容したという。
これが世にいう大原騒動で、市左エ門は巧みにその渦中を脱して密かに江戸に至り、飛騨の住民の代表となって、代官の苛政を上訴するととなり、遂に捕らえられて獄にながれ、安永3年(1774)正月16日、斬首の刑に処せられた。
その後、五ヶ村の百姓達が相計って碑石を建て、その功績を讃えると共に、霊を祀った。
高山市教育委員会・高山市観光協会
*高山市一之宮町獅子山の「 往還寺」にあった、「又四郎・長次郎の墓」もこの大原騒動の関係者です。
その後、大原親子、安永6年5月 加増等の功績で郡代に昇進した大原紹正でしたが、同年7月に妻が自害してしまい、その翌年に眼疾により失明し、更に翌年には急病により大原紹正は死去した。
子の大原亀五郎正純は、寛政元年(1789)12月25日 飛州一件(業務上横領)につきは八丈島に流罪となっています。
では、次へ行きましょう

2025・8・5・10・20