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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

猿芝居、残念ながら

2007-12-20 23:09:37 | 時事


 失笑してしまったのだ。原告の一人が記者会見で「今日ですべてが変わる 今日ですべてがむくわれる、と思っていたけど」とか、イズミヤの歌の文句なんかまじえながら語っていたので。気の利いた表現とでも思ったのか?もの凄く恥ずかしいよ、それ。

 ともかく今回の原告団の人たちの言葉って、あまりに芝居がかり、作り物っぽ過ぎる。
 だからかえって、”後ろにいる、運動をオルガナイズする存在”の気配が、うさんくさい匂いを放ちつつ立ち上がってしまうのだ。

 そんな昔ながらの市民運動臭ふんぷんたる戦い方って、もう破産しているんじゃないのか。
 まさに時代の空気が読めていないのであって。何で左翼がいまどき流行らない存在になってしまったのか、良く考えてみてくれ。

 あっと。戦いのどちらに正義があってとか、ここでは私は語ってないよ。闘いの方法論がピント外れではないかと疑問を投げかけているのである。
 トンチンカンな反論を用意し始めた頭の悪い人のために言っておくけど。

 ○原告側の対応批判=「司法判断どうお考えか」-町村官房長官
 (時事通信社 - 12月20日 19:02)
 町村信孝官房長官は20日午後の記者会見で、薬害C型肝炎訴訟の和解協議で原告側が国の修正案を拒否したことについて「大変残念だ」とした上で、「『この案でなければ受け入れられない』と言うのは、司法の立場をどういうふうにお考えなのか。ただ、簡単に駄目というだけでなく、何らかの対応を考えてほしい」と述べた。全員一律救済を主張する原告側の対応に疑問を呈し、問題解決へ一定の歩み寄りを求めたものだ。 


レバノンのハードボイルドな一夜

2007-12-19 00:16:06 | イスラム世界


 ”Ya Baher”by Walid Toufic

 たいていのアラブ・ポップスのファンの方と言うのは、美人歌手が鉄火肌で歌い上げる妖艶な世界を愛好されていると思うんだけど、というか、アラブのポップス愛好家そのものがどれほど我が日本におられるのかがそもそも分かっていないんだけど、私のようにオヤジ歌手たちの盤を好んで聴いているなんて人はあんまりいないんではないか。

 まあ、奇をてらっているんでも変な趣味があるわけでもなし、これは私がロックとかブルースを聞く延長線上にワールドものを聴いている証拠ってことなのだけれど。(正直言いますが、男臭~い写真が何枚も掲載されてるジャケやら歌詞カード、あんまり見直したくありませんが。というか、どうせ当方には全然読めないアラビア文字しか記されていない歌詞カード、何度見直したってしょうがないですな)

 と言うわけでレバノンの大歌手、ワリド・タウフィクの、これはジャケに”2007”と大書されているとおり、バリバリの新譜であります。
 いや、大歌手とか書きましたが、そのように教わったというだけで、この人を聞くのは実は初めて。でも、その無骨な貫禄ものの歌声を一声聴けば、確かにこれは大物と理解は可能であります。

 当地の土着系ポップスとなれば当然出てくるアラブのパーカッション群は、枕詞みたいになっている”狂乱の”というよりはむしろ、”フォーメーション・プレイ”なんて言葉を使いたくなるくらいの引き締まった連携プレイを聞かせてくれる。
 そのくらいの空間の感覚があるんですな。ビッシリ音が密集している感じではなく、各楽器がお互いに距離を保ちつつ、緊密に反応し合い、非常に刺激的なリズムを繰り出している。

 同じくアラブ名物のユニゾン・ストリングスも当然絡んでくる訳ですが、これも、通例の怪しげな甘美さよりもクールさを演出するアレンジとなっている。
 全体としてアラブの現代都市の洗練された空気感が非常に感じられる音作りであり、アラブの民俗音楽的響きというのは、もはや”遠きにありて思うもの”となりつつあるんではないかと近未来を想ってみたり。

 そこに響き渡るワリドのしわがれたワイルドな歌声。都会の無頼派、ちょい、どころか非常に悪いオヤジ的荒くれた感傷が都会の夜を吹きぬける。バックに従えたクールめの音構造のど真ん中で、ワリドのアラブの血はますます濃厚に煮えたぎっているようであります。

 ちょっと興味を惹かれたのが、裏ジャケで歌手本人が抱えているギター。物自体は普通のクラシック・ギターなんだけど、弦が4本しか張ってないのですな。1,2,3弦と6弦だけ。4弦と5弦は張られていない。
 これ、おそらくはアラブの何らかの楽器と同じ要領でプレイできるように、あえて弦を外しちゃっているんだろうけど、どんなチューニングになっているんだろうな。演奏しているところ、ぜひ生で見て見たいと思う次第でありました。

日々のブルース

2007-12-18 03:52:00 | いわゆる日記


 ”Sandman”by Harry Nilsson

 知り合いのバッキンガム爺さんさんが、月曜日の通勤の不快さに引っかけて、『アイ・ドント・ライク・マ~ンデー~』なる歌について書いておられた。
 その歌は知らない。が、月曜日の、つまりは週の初めの仕事の世界に帰って行く苦痛は容易に想像がつく。こちらも3年ほど前まではその世界にいたのだし。

 その関係の歌では、私はファッツ・ドミノの”ブルー・マンディ”が親しい。もちろん、あんな50年代のR&Bをリアルタイムで聴いちゃいない、オトナになってから後追いで親しんだのだが。
 ニューオリンズ特有のまったりと撥ねる3連ビートを従えて、ファッツはピアノの鍵盤を叩きまくりながら、暖かくてちょっぴり悲しげないつもの歌を温泉気分で歌っていた。”月曜日は、月曜日は やりきれない♪”と。

 他に曜日関連の歌で印象に残っているのが、クリス・クリストファーソンが創唱した、「日曜の朝がやって来る」だなあ。”日曜の朝、俺は寂しさで死にそうになる。だって日曜の朝は人をやりきれなくさせる何かを持ってるからな”と言う奴。年を重ねるほどにリアルに心にのしかかってくる歌になって来る歌だ。
 実際、あの日曜のやりきれなさの正体ってのはなんなのだろう?本来は楽しかるべき休日なのに、どこか時間や社会の流れから置き忘れられたみたいな、灰色の孤独の影が心の底にシンと忍び寄る。

 親しい人々と愉快な休日を送っていれば、そんな事はないって?
 あなた、人生の機微と言うものを何もわかっておらんなあ。そんな楽しい時間を送っている者の心を、ふとよぎって行く、「こんな楽しい時間を送ってはいても、人間は結局は一人ぼっちだ」なんて、冷たい風のような想いについて話しているのだよ。そんなガラじゃない奴にまで、嫌でも”人生とは?”とか考えさせてしまう、そんなひとときについて。

 それからニルソンの「俺が木曜日に仕事に行きたくない訳」なんて歌もあった。あれの歌詞はどういう意味だったのかなあ?あの歌を含むアルバム、”サンドマン”が出た70年代中頃には、私はもう真面目に英語の歌の歌詞の意味を追って聴いたりしなくなっていた。自堕落に再生装置の前で飲んだくれていただけ。で、そんな自堕落な姿勢にいかにも似つかわしい、レイジーでジャズィーな歌だった。

 その歌の直前には、いかにも大学の真面目なコーラス部みたいな意匠で学生時代の思い出が歌われている。そいつが途中でぶった切られるように終わって、ニルソンのダミ声が「俺が今日、仕事に行きたくない理由は~♪」と始まる、そんな構成になっていた。
 で、これは美しかりき青春時代と、社会に出て以後、泥沼にのたうちつつの宮仕えの日々の対照の妙を皮肉な視点で歌っているのだろうなと見当はついたのだが。

 一方、英国のひねくれロックバンドのキンクスは、アルバム・”マスウェル・ヒルビリーズ”所収の”複雑な人生”なる歌の中で、医者に体調がボロボロだから体に無理をさせるなと言われたのを守り、何曜日と言わず会社に行くこと自体をやめてしまい、ベッドから起き上がることもやめてしまった男の物語を歌う。
 男はもう起き上がることもないべッドの中から部屋の窓の向こうにそびえ立つ大きなビルを日がな一日眺め、暮らす。”人生は複雑だ♪”とコーラスは繰り返される。

 そういえば、あのロシア民謡、”一週間”なる歌。”月曜日に市場に行って~♪”とかいう歌詞を、「一日がかりで風呂を沸かすのもおかしいし、それに翌日入ったって冷めてるに決まってるじゃないか」とか突っ込む人も多いが、そもそもあれはな~んにもしたくない怠け者が「この一週間、何をしていたのだ」と叱責され、苦し紛れに作り話をしている、そんな設定の歌なんだそうですね。

 ところで。経営していた店を3年前に閉じてしまい、今は副業だったはずのアパート経営で食っている私、あの歌のように”月曜日は水道局との交渉で終わり、火曜日は家賃を二世帯分集金して終わり、水曜日は五号室の合鍵を作りに行った”なんて間延びのする日々を送っております。で、クリストファーソンの歌った”休日の孤独”は連日、この身に降り注ぐ。

大盛りサイケデリック丼

2007-12-16 01:42:33 | ヨーロッパ


 ”Trip - Flip Out - Meditation”by ZWEISTEIN

 以前、テレビのバラエティ番組で、若手コメディアンがさまざまな意匠を凝らした球の中に入って感想を述べる、なんて”体験レポート”を披露していた。

 最初のうちは素通しの球に入って坂道を転がり落ちる、なんてものだったが、番組進行にしたがって凝ったものになって行き、最後には内部全面が鏡張りになった球の中に入って何が見えるかを語ると言う、江戸川乱歩の「鏡地獄」そのまんまと言った趣向となったので笑ってしまったのだった。

 結果は、乱歩が空想したように被験者が発狂するような運びにはならなかったが、背後から現われた”もう一人の自分”と対面したりの、なかなか不思議な映像が現出し、興味深いひとときだった。

 と言うわけで、何ヶ月かまえに手に入れて以来、もう何度も妙な思いを楽しませてもらっている代物、1970年のドイツに生まれたサイケ大作盤、ツヴァインシュタインの恐怖の3枚組CDであります。

 そもそもは69年、アイドル歌手としてそれなりの人気を持っていたスザンヌ・ドゥーシェなる女の子が妹のダイアンとともに、手に入れたばかりのカセットレコーダーを携えてミュンヘンの遊園地からプラハの教会へと、あちこち気ままに街の音をフィールド・レコーディングをして歩き、そいつを元にサウンド・コラージュ作品を作り上げた。(何でそんな事をしたかと言えば、それこそ時代の気分だろうねえ、騒乱の1969年だもの)

 出来上がった作品を偶然耳にした作曲家でありプロデューサーであったクリスティアン・ブルーンは、その異様な音像に衝撃を受けた。彼は自身の作・演奏になる曲をテープに付け加え、あるいはまた、適当に呼び集めた音楽的にはシロウトの若者数人の即興演奏を、テープの音の上にダビングした。

 こうして”ツヴァイシュタイン”なる架空のサイケ・バンドの3枚組の大作デビュー・アルバムが出来上がった。と言うかでっち上げられた。1970年、発売当時の実売数は6000枚程度だったそうだが、時の流れとともにこの作品は、スキモノの間で伝説化していった。
 そして今年、この作品を物好きにもCD再発するレコード会社が現われ、そしてスキモノの一人たる私は物好きにもそいつをさっそく買い込んで聴いてみた、という次第である。

 なにしろ3枚組の大作、しかも聴いても聴いても訳の分からん音世界が続く、という悪夢のアルバムなのであって、この代物に対して評論めいた事をあれこれ言ってみても仕方がないのだが、言える事を言ってみる。

 まず、歌やギターの演奏がまともに聞こえてくる、いわゆる”音楽的”な部分ほど、さすがに古びている感じはある。”ロックの前衛”の技術的部分は、彼らの、もうずっと先に行ってしまった。
 とは言え、その古び方がなかなか良い具合の”古きよきサイケ”の味を醸し出しており、その事はマインス・ポイントではないのだが。

 一方、姉妹のレコーディングによる、いわばツヴァイシュタインのサウンドの幹となる部分は、やはり異様な輝きをいまだ失っていない。おそらくはドラッグをバリバリにきめて彷徨する姉妹によって切り取られた街の音。それは要するに、変哲もない街頭のスケッチでしかないはずなのだが。はずなのだが。何なんだろうね、これは?

 非常に凝ったレコードジャケットであって、見開きのそれを広げて付録の鏡など使って中を覗き込むと、なにやら非常に精神世界的にはありがたいものが見える仕組みになっているようだ。まあ、さすがにそんな事をいちいちやってみる気持ちは、もう失くしてしまった当方であるのだが。

 おお、遥かなりサイケの大河よ。今はいずこを流れる?

タンゴの流れの果てに

2007-12-14 03:30:26 | 音楽論など


 昨日に続いてタンゴの話ですが。
 アルゼンチンで生まれたタンゴにインスパイアされてヨーロッパの人たちが作り出したの、コンチネンタル・タンゴという代物もありますね。こちらもいずれ、別の方向から探求してみたく思っています。

 面白いのは、あのタンゴのカチカチと律儀に刻まれるリズムを真正面から受け止めたのが、あの几帳面なドイツ人たちであったという事実。ああいうの、やっぱりドイツの人々は生理的に好きなんでしょうか。
 なんかその後、ずっと時代が下ってのドイツにおけるテクノポップの発生とも繋がるんではないか、などと思ってしまいます。

 というか、私の感性にしてみれば、テクノのクラフトワークなんて連中も、今日的コンチネンタル・タンゴのバンドに思えてなりません。 あの、機械の刻む冷徹なピコピコとしたリズムって、情け容赦もなく(?)タンタンと打ち込まれるタンゴのリズムのドイツ人的解釈の果てに生まれた鬼っ子って思えてきませんか?

 下は、知り合いのプカさんが見つけてきた日本製タンゴのシングル盤収集サイト。

 日本のタンゴ・コレクション・シングルレコードの部

 これなんか見ていると、一度聴いてみたい!と思うものもあれば、聞く機会がなくて幸いだったと思うもの(主にコミック系)もあり、でして(笑)
 しかし、日本人もタンゴ好きなんだって改めて思いますねえ。日向に出ることはあんまりないが、実は昔から結構、日本人の日常にぴったり寄り添ってきたのだなあ、と。

 (添付した写真は、ドイツの元祖テクノポップバンド、”Kraftwerk ”のアルバム、”Trans-Europe Express”のジャケのもの)

忘れられた楽譜から

2007-12-13 01:13:58 | 南アメリカ


 ”Raras Partituras”by Ramiro Gallo Quinteto 

 国立図書館の奥に眠っていた、忘れられていたタンゴの楽譜を発掘して演奏するという、なかなか心躍る企画のライブを収めた盤であります。

 かって、非常に和声に凝った、洗練されたサロン風のタンゴが一部のミュージシャンたちによってしきりに作られた、そんな時代があったのだそうですよ、アルゼンチンには。その時代の詳細については、毎度すみません、良く分かっていなくていまだ調査中なんだけど。

 いずれにせよその片隅のブームというもの、タンゴの主流を成すほどの流れにもならずに、いつか時代の中で忘れ去られてしまった。今回、それらの作品群に今日のタンゴ界でも非常に個性的な演奏活動で知られるラミロ・カージョの五重奏団がスポットライトをあて、”古きよき時代の前衛”とも言うべき作品群に新しい生命を与えている訳であります。

 上のような次第なので、タンゴの重要な構成要素とも言うべき裏町のうらぶれ感や都市の悪場所のやさぐれ美学、そのような尖った個性の発露は希薄です。あくまでも室内楽的良さの探求とでも申しましょうか。
 実は楽団、結構凝ったことやってるんですが、伝わってくるのはあくまでも物静かな安らぎに満ちた音楽で、旋律のうちに脈打つ、南欧風の甘美なセンチメンタリズムが光ります。

 長過ぎる灰色の冬に飽いた窓にふと小春日和の陽光が差し、遠い南の輝く青空の気配がつかの間、部屋を満たした、そんな手触りの音楽。こんなのも良いですねえ、たまには。

 何曲かではゲスト歌手も登場し、この独特の音楽世界にふさわしい優雅な歌唱を聞かせてくれます。ことに、なんでもっとアルバムを出してくれないのかなあ、と毎度、嘆息させてくれる私のヒイキのリディア・ボルダの歌声が3曲ほどで聴けるのが嬉しいです。

 やあ、早く憂鬱な冬なんか終わってしまって、光溢れる春がやってこないものかなあ、などと冬は始まったばかりなのにもう考えさせられてしまう、そんな一枚なのでありました。

鋼鉄の夢

2007-12-12 05:17:16 | その他の評論

 見てもいない映画の話で恐縮ですが。

 知り合いのVARIさんが先日の日記で触れておられた『リベリオン』(02・米 監督:カート・ウィマー)なる映画の話が妙に印象に残ったんで、ちょっと文章にしてみます。
 なにしろ見てもいない映画の話、全面的に見当違いの可能性、大いにありですが。

 まずは以下に、VARIさんが引用されていた”ストーリー紹介”を孫引きします。

 【第3次世界大戦後、人間は戦争の根源である「人間の感情」を抑制する薬、プロジウムを開発した。人々は毎日薬の投与を義務付けられ、本や絵画、音楽は一切禁止された。違反者の取り締まりを行うプレストン(クリスチャン・ベール)は、最小限の空間で銃の威力を最大限に伸ばす武道ガン・カタの達人。ある日プレストンは、誤ってプロジウムの瓶を割り、投与をしないまま仕事に就く。それは、プレストンが長い間忘れていた「感情」のかけらを、ゆっくりと目覚めさせていった…】

 なんじゃこりゃあ?なんてムチャクチャな反戦思想(?)だろう。「戦争の根源」は、「人間の感情」ですかね?

 戦争ってのは逆に、人間の感情などと言う”低劣”なものは無視して粛々と行なわれる冷徹なる国家プロジェクトでしょう。どういう発想をしているのかね、この映画の作者は?
 そんな”お上”の意向に沿い、尻馬に乗って騒ぎまくるお調子者、自らの死に直面してはじめて事態の真相に気がつくのだが、もちろんもう遅い。これが庶民の姿であるのであって。

 実際はどのような映画か知りません。ただ、上のストーリー紹介を読む限りでは”そりゃ話が全部逆だろう”みたいな、非常な理不尽さの連続と感じられる。
 まあ何のことはない、映画”ランボー”を見ただけで国際政治を学んだ気になっている頭の軽い人物が、一風変わったアクション映画をでっち上げるためにテキトーに思いついた舞台設定なんでしょうけどね。

 それにしても、描かれている感情抑制剤や「違反者」の取り締まりは、戦争を根絶やしにするというより、国民が政府の政策に反発して暴動を起こしたりしないように工作している、そんな風景にしか思えないのであって。
 製作者の心の底の泥沼に棲んでいるのは、実際のところ、そんな抑圧によって支えられた全体主義社会への歪んだ渇望、つまりは権力志向じゃないのかね。などと考えると、そんな渇望を底流に孕ませる時代の精神がなにやら不気味に感じられる今日この頃だったりするのでありました。


行け行け、レッガーダ!

2007-12-11 04:00:34 | イスラム世界


 ”BNAT REGGADA avac CHABA WAFAE, LIVE ”

 今年もそろそろ”本年の年間ベスト”など選出してみようかな、などと書いてみて、毎年毎年、時の流れの素早さについて行けなくなっている自分に弱ってしまうのであります。「今年も余すところ」などと言われたって、こちらの感覚では「そろそろ秋かな」くらいのものなのであって。

 昨年の今頃は、ちょうどそんな事を言っている最中に北アフリカから飛び込んできた謎の音楽、”レガーダ”を紹介するコンピレーション・アルバムに一発でやられてしまい、そのままそのアルバムを年間第1位に押し立ててしまったのだが、今年もインパクトで行くとあれを超えるものはないような気がする。

 とは言えまだまだ得体の知れない代物であり、いや、訳の分からないうちが一番おいしいと言うべきか、ほんとに吹けば飛ぶようなローカル音楽、つかの間の仇花とも思え、明日の風の吹きようで消し飛ぶかも知れず、今聴いておかねば聞く時はないのかも知れないのである。

 で、このレガーダなる音楽なのだが。と始めようにも、この音楽について当方は何も知らないに等しいのであった。
 北アフリカはモロッコ、アトラス山系の懐に抱かれたあたり(何度も言うが、良く分からないまま書いているので、ご注意を)に住まいするベルベル人なる民族の伝統音楽が現代化したもの、といって良さそうなのだが、そもそもその伝統音楽なるものがどのようなものやら、その辺の知識からしてこちらは持ち合わせない。すまん。

 とりあえず現代化とは言うものの、基本的にはルーツ・ミュージック丸出しの泥臭い風体をしているので、現地の非常にドメスティックな環境で機能している音楽なのだろうと想像される。
 そしてその音楽の輪郭が非常にダンサブルなものなので、おそらく現地ではダンスミュージック、あるいはもう少し範囲を広げて祝祭音楽として機能しているのだろうなと想像するくらいがせいぜいのもの。

 雑に言えば電気楽器などを導入してもともと騒がしいものがますます騒がしくなった素朴なアラブの民謡、そのような感じの音楽である(ひどいね、どうも)
 基本は打ち鳴らされる民族打楽器であり、吹き鳴らされる民族管楽器。そもそもがサハラ砂漠からの風に吹かれて乾ききったような、ハードボイルドな手触りを持つモロッコ方面の音楽なのであって、そいつが強力なトランス系反復ビートで突っ込むだけ突っ込む。前のめり一本調子の、ただもう前進あるのみみたいな脳内カラッポ音楽(あ、これ、全部褒め言葉ですからね、念のため)

 もっとも特徴的というか当方が魅力的に感じているのが、そのボーカルにかけられたヴォコーダーの効果。
 イスラム世界の音楽であるから当然、イスラミックなコブシというものが歌声にはかかるのだけれど、ええい面倒くさいや、普通に歌った歌声を電子的に変調させてキカイでコブシをかけてしまおう。と考えたのかどうか知らないが、ともかくレガーダの多くには、このイスラム系ヴォコーダー・コブシがギンギンに効いているのである。

 その結果、なんだかロボットが砂漠の真ん中でコーランを読み上げているようなみょうちきりんな風景が、レッガーダを聴く者の目の前に広がることとなる。しかもその歌声にエコーかなんかかけられていた日には。
 歌声は、サハラ砂漠からの風を受けてヒラヒラと舞い上がり、屹立するアトラス山脈の彼方へ飛んでいってしまう。

 狂騒の反復リズムと、その上を舞うロボット系コブシ・ヴォーカル。めちゃくちゃ泥臭くてアホらしい。この卑近美に溢れた音楽の手触りは、ヨーロッパの白人の息のかかったオシャレなワールドミュージック工房からは生まれようのないものだ。

 レッガーダはまだまだメインストリームの音楽界では無名の存在。なんとかこのまま西欧音楽等のつまらない影響など受けず、ムチャクチャで下品な生命力を堅持しつつ、大きく伸びていって欲しいと願うものである。

 冒頭に掲げたジャケは、何枚か聞いたレッガーダのうち、初の女性ボーカルもの。いかにもマグレブ女らしいタフな歌声(もちろん、ヴォコーダーによる工業コブシ付き)で、聴衆を煽る煽る。ほんとのライブか怪しい気もするが、そんなのはどうでもいいやね、確かに。

くだらねえ邦題、邦訳に関して

2007-12-09 23:44:03 | その他の評論

 知り合いのバッキンガム爺さんさんのところで、「バーズのどの辺の盤が最高か?」みたいな話題が出ていました。

 私はバーズに関しては”サイケな世界に色気を出してるフォークロックバンド”であった時代がやっぱりあの連中、創造的だったし刺激的だったとおもってるんで、その辺を推します。後のカントリーめいた時代って、完成度はどうだか知らないが、音楽的なスリルが感じられなくてね、なんか退屈じゃないか。

 で、そこの皆さんの書き込みを読みながらふと、「バーズって、そもそもどんなアルバムをどの位のペースで出してきたんだろう?」と気になって調べてみたのです。
 そしたら、昨年、ボックス物が出ていて、その邦題が「巡る季節の中で」なんですね。

 なんだよ、このタイトルは?今、初めて知ったんだけど、かっこわり~!

 恥ずかしいから、この商品がカタログから姿を消すまで、「バーズなんてバンドは聞いたこともない、なんだそれは?」ってな顔して生きて行こうと思います。
 それにしてもギョーカイの人間のセンスのなさって、どうにかならんの?フォークロックがどうの、カントリーがどうの、なんて語ってみても空しいですよ、マツヤマチハルと同じ扱いじゃさあ。

 そういえば昔、心の底から呆れた、「ハエハエカカカザッパッパ」なんてフランク・ザッパの作品に付けられた実にくだらん邦題、あれはまだ生きてるんですかね?面白いですか、ザッパの曲にそんな邦題を付けることが?
 このあたりに如実に現われている、レコード会社の洋楽担当者の趣味の悪さって、ほんと絶望的ですね。ザッパの名に”雑派”なんて漢字をあてたりしてさ。中学生の世間話か?と言うのだよ。

 以前、この”雑派”の件を、所属していた某メーリングリスト(音楽ライターなど、業界人多数参加)で話題にしてみたら、「ザッパ本人に確認を取っているんで、かまわないんじゃないの?」なんて返事が返って来てますます呆れたものでした。

 そりゃザッパにしてみたら、遠い東洋の国に演奏旅行に行った際、「俺らの国ではお前の名前をこう書くんだけど、これで良いよな?」とか訳の分からない文字を見せられたら、「オウイェ~、そいつはゴキゲンだぜ」とか、ご祝儀で言ったりもするだろうよ。それをもって「ザッパ本人もみとめた」ってのはいかがなものか。

 本来であれば、日本、そして東洋における漢字の歴史とその存在、いかなるものかなどを詳細に解説し、”雑派”なる文字表現のいかなるものかを完全にザッパ本人に理解させたのちに、それを名前の表記に使うか否か承諾を迫る、それがスジじゃないのか。
 うん、そんな面倒くさいことはやっちゃいられない。だろ?だからさ、やっちゃいけないんだよ、安易に”雑派”とかさ。

 あと、「××さんの許可取ったから良いんじゃないの?」って発言にも呆れたものでした。”××さん”ってのは、どうやら日本におけるザッパ研究の権威者らしいんだけどね。そんな奴には謹んで「引っ込んでいろ、バカ」と申し上げたい。何が許可だ。手前はザッパ本人じゃねーだろ。根拠のない図に乗り方をしやがってからに。

 それでは、そんなたちの悪いレコード会社の担当者諸氏に捧げるパスティーシュなど。

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 ☆セックスピストルズの最終決定版ボックスセット!

  邦題・”このぬくもり君に伝えたくて”

 ☆キング・クリムゾン、デビュー当時の未発表音源、集大成を公開!

  邦題・”思いやり”

 ☆シド・バレット、知られていなかった本当のラストアルバム発掘さる!

  邦題・”欽ちゃんに会いたかったんだよ”

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 悪ふざけ書いてますけどね、ありえないことじゃないですから。だって、あの”ミスター・タンブリンマン”のバーズのボックス名が”巡る季節の中で”なんだからさあ。

グギャアとガキは吠え倒す

2007-12-08 22:31:30 | 時事


 今、テレビから盛んに「マリと子犬の物語」とかいう映画のコマーシャルが流れてきますな。

 映画のストーリーは、あの新潟地震に取材した実話が元になっているそうで、”地震で全村避難した村に取り残された母犬と、地震当日に生まれた3匹の子犬を巡る物語”とか。「泣かせておけば金が入る」という世情、どういう魂胆で作られた映画か、もう丸分かりです。

 私なんかの世代には、「おいおい、どこかで聞いた話だぞ?あの無人の、極寒の基地に一年間も取り残されながらも生きていた南極観測隊の飼い犬、タロとジロの物語の二番煎じじゃないか」としか思えないんだが、製作者、恥ずかしくないのか。
 いや、それどころじゃない、すっごい良心的な映画を作ったつもりでいる気配があるな。

 そして我が日本国国民の皆様、コロッと丸め込まれちゃって見に行くんでしょうな、この映画。雁首そろえて。

 とにかくねえ、この映画のコマーシャルの冒頭、主演のガキが割れ切った喉で「グギャーッ!」とか絶叫するのが聴こえるたびに、ついに我々はこんな貧困な文化しか持てなかったのか。と、もう絶望の淵に落っこちるのである、当方の気分としては。

 泣けば感動、怒鳴れば熱演、ですか。シンプルなお仕事で、芸能人の皆さんも気楽でよろしいですねえ、いや、ほんと。