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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

文観と後醍醐天皇(11) 真言律宗(2) 文観・後醍醐天皇は、ともに道順から灌頂

2018-11-05 07:35:04 | 文観と後醍醐天皇

     文観の西大寺の僧に

 文観は、弘安元年(1278)に播磨国(はりまのくに)に生まれ、13歳のときに法華山一乗寺(ほつけさんいちじょうじ)(兵庫県加西(かさい)市)で出家し、僧になりました。

 法華山は、真言律宗の開祖叡尊(えいぞん)ゆかりの寺院であり、法華山で僧になった文観は、二年後には、叡尊がかつて住職であった奈良西大寺へはいり、西大寺二世長老の信空(しんくう)から教えを受けました。

 正安三年(1302)に、西大寺の信空から教えを受け秘法を授けられた文観は、同年に醍醐寺報恩院の道順から阿闇梨(あじゃり:真言・天台の高僧)の位を持つ正規の僧となっています。

 醍醐寺で得度した叡尊が、西大寺流の律宗をおこしたのちも、醍醐寺や高野山と関係を持ちつづけたように、文観もまた、正規の真言僧でありつつ、西大寺流の律僧としての活動をつづけました。

   文観・後醍醐天皇は、ともに道順から灌頂

 文観に灌頂(かんじょう:僧につく儀式)を授けた醍醐寺報恩院の道順は、皇太子時代の後醍醐天皇にも灌頂を授けています。

 道順は、後醍醐天皇からずいぶん信頼された僧でした。

 文観は、その道順からをも教えを受けています。

 元亨三年(1323)に、文観は道順(元亨元年没)の高弟として内裏(御所)に召されました。

 後醍醐天皇は、正中二年(1325)に文観を内供奉(ないぐぶ:天皇に特別に仕える職)に任じ、嘉暦二年(1327)、元徳二年(1322)には真言宗の秘法を、いずれも文観から受けています。

 文観は猛烈なスピード出世をしました。

 文観は、後醍醐天皇からずいぶん信頼されていたようです。(no4542)

  *挿絵:後醍醐天皇

 ◇きのう(11/4)(10.490歩)

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文観と後醍醐天皇(10) 真言律宗(1)

2018-11-04 09:59:53 | 文観と後醍醐天皇

    真言律宗(1)

 西大寺が創建されたのは奈良時代ですが、当初は、興福寺や薬師寺を越える壮麗な寺院でした。

 しかし、称徳天皇が亡くなり、道鏡が東国へ左遷されると、西大寺に対する関心はうすれ、平安時代には衰退の一途をたどりました。

 鎌倉時代には、所有していたすべての荘園を失いました。これを再生したのが叡尊(えいぞん:1201-1290)です。

 叡尊は、当時の戒律を守らない、特に浄土系の僧侶・人々(庶民)のあり方に疑問をもちました。

 西大寺に住み、深く戒律を学びました。

 西大寺に住んで10年が過ぎたころ、叡尊は仲間とともに誓いを立てました。

 お釈迦さまの弟子として、生まれ変わっても、浄土へは行かず、かつてお釈迦さまがしたように、諸仏の救いからもれた人々を救いたい。

 そのためには、地獄の苦しみも忍ぼうと叡尊は述べています。

 真言律宗寺院の活動は、多方面に及びました。

  第一は「戒律を守る」ことにあることは当然です。

  その他、貧民・人非・らい患者の救済にも取り組みました。

 また、幅広い技術集団を抱え、道路・橋・泊・港の整備などを行いました。つまり、当時のインフラ整備のエキスパート集団を抱えて活動しました。

 中でも西大寺系の石工集団は「伊派」とよばれ、優れた石造太を多く残しています。

 特に加古川近辺では数々の伊派の石造物が残されています。

 真言律宗の戒律、「伊派」の石工集団については後に紹介します。

 「文観と後醍醐天皇」では後醍醐天皇が登場していません。西大寺・真言律宗について述べる中で登場を願うことにします。(no4541)

 *写真:叡尊(えいぞん)

 ◇きのう(11/3)の散歩(11.639歩)

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文観と後醍醐天皇(9) 西大寺の末寺

2018-11-03 09:59:22 | 文観と後醍醐天皇

      西大寺の末寺

 前号では、文観、西大寺(奈良)と大野(加古川町大野)の常楽寺とのつながりを見ました。

 今日の報告は、1月27日の氷丘公民館地域学講座で報告された、兵庫大学の金子教授の報告からです。

  西大寺直参末寺

 私たちの地域では、西大寺の末寺は常楽寺だけで張りません。

 西大寺の末寺帳には次の寺が挙げられています。

   加古川市加古川町本町  常佳寺 元は寺家町

   加古川市平荘町山角   報恩寺

   加古川市尾上町     成福寺(不明)

 *常樂寺は西大寺直参末寺の中でも、最も格が高いグルーブに入っています。

 以上の4寺の内、成福寺は名前のみで詳細は分かりません。

 尾上神社あたりあった寺院ではないかと想像しています。

 続けて、兵庫大学の金子先生は西大寺流の寺院として次の2寺を指摘されています。

   西大寺流寺院

  稲美町中村       円光寺(元は国安)

  加古川市加古川町稲屋  福田寺

 

 加古川地域は、真言律宗西大寺とつながりが特に強固な地域でした。

   真言律宗が私たちの地域に果たした役割を見ていきたいのですが、私たちの地域では天台律僧も活躍もしています。

 天台律僧の活躍については、さいわい『室町お坊さん物語(田中貴族子著)』(講談社新書)がありますのでご覧ください。

 律僧(鎮増)の目を通した加古川地方(米田)の水害などのようすも紹介されています。(no4541)

 *写真:加古川にある西大寺の末寺の一寺:報恩時

 きのう(11/2)の散歩(13210歩)

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文観と後醍醐天皇(8) 常楽寺は西大寺系の真言律宗寺院

2018-11-02 09:25:00 | 文観と後醍醐天皇

     新仏教と旧仏教

 鎌倉仏教の話をしましょう。

 鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。

 その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。

 こんな時、人々は、仏様に救いをもとめます。

 この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えを広めようようとしたのです。

 それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという教えでした。

 そのため、庶民は救いを仏様に求めたのです。この浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。

 当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきました。

    常楽寺は西大寺系の真言律宗の寺院

 旧仏教側にも反省がおきました。 

 「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの時代に呼び興こそう」という声が高まりました。

 信者は「戒律」を守ってこそ人は救われるとする教団が真言宗・天台宗を中心にして生まれました。

 特に、真言宗から規律(律)を大事にする声が上がり、奈良の西大寺を再興した、叡尊(えいぞん)を中心にして真言律宗がつくられました。

 真言律宗は、歴史の教科書にはあまり登場しませんが、時代に大きな影響をあたえました。

 永仁3年(1295)、文観は西大寺に入り受戒(真言律宗の僧としての戒名をもらう)しています。

 この時の戒名は「殊音」でした。

 大野(加古川町大野)の常楽寺は、もともと西大寺とつながりをもっていましたが、さらに西大寺系の真言律宗の寺としてさかえていったのです。

 ここに、文観(殊音)・西大寺・常楽寺のつながりができてきました。(no4540)

 *写真:西大寺(奈良)

◇きのう(11/1)の散歩(11.444歩)

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文観と後醍醐天皇(7) 文観って誰?

2018-11-01 07:40:41 | 文観と後醍醐天皇

   〈コーヒー・タイム〉 文観って誰?

 いま、「文観(もんかん)」をとり上げています。二度目です。このあたりで、少しコーヒー・タイムにしましょう。

 

 時代・人物ともにとんでもなく重要な歴史を扱います。が、歴史の授業でもほとんど取り上げられていません。

 そのため、「文観って誰?」という人がほとんどではないかと思います。

 「アクセスが少なくなるのでは?」と若干心配しています。

 文観は、後醍醐天皇の影の人として活躍しています。

 そして、後醍醐の政治は日本の歴史を大きく動かしました。

 でも、不思議なことに、いままで文観について、また、加古川のつながりに関してはほとんど紹介されていません。

 最近ようやく明らかになってきました。

 また、文観については、「分からないことだらけの人物です」でした。

 後醍醐の政治そして文観を紹介したいのですが、なにせ歴史学者でも困難な作業です。

 素人が手に負える課題ではありません。

 そのため、研究者の成果をかじり、それに想像を少しだけ加えて紹介します。

 当然とんでもない、間違いをしでかすかもしれません。でも、私には強みがあります。

 「素人」ということです。

 したがって、あまり影響力がありません。間違っていたところで「ごめんなさい」とあやまればよいと居直ることができます。

 専門家(学者)であれば、そうはいきません。

 そのつもりでお読みください。 とはいうものの、出来るだけのことはします。

 あとは皆さんで訂正していただきたいと考えています。

 そして、少しはましな文観像を作り上げ、加古川発全国の皆さんへの歴史として広く紹介したいのです。

 すっきりした筋にはならないと思いますが、ご了解ください。(no4539)

 *挿絵:若い時代の文観のつもり(絵:Y・I)

  ◇きのう(10/31)の散歩(10.484歩)

 

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文観と後醍醐天皇(6) 大野(加古川市)は北條郷

2018-10-31 07:41:37 | 文観と後醍醐天皇

 「思い込み」というのは怖いですね。

 私は、「文観は、北条の法華山一乗寺の僧侶であり、そこから奈良の大寺に移り後醍醐天皇の保護のもとで大活躍した人物である」と当然のように北条(加西市)で誕生した人物であると思い込んでいました。

 『加西郡誌』を読んでみます。

      文観、『加西郡誌』より

 *以下は、「加西郡誌」より文観を説明した個所の最初の部分の記述です。

 「・・・ 文観僧正は、我が郷土(加西市)から出た人物中の傑物である。

 ・・・・また、その革命家的素質はよく後醍瑚天皇を助けて、北條氏からの政権奪還の計画を(一時)成功させました。

 そして、鎌倉末期の仏教美術家として絶大の手腕を揮うたことは、遺品によって明らかに証明されています。

 文観僧正については、多くの書物で見ることができます。

 太平記には「文観僧正は、元は播磨国、法華寺(一乗寺)の住僧で壮年の頃より、醍醐寺に移つり、東寺の長者、醍醐寺の座主に任命され・・・」(文は、少し読みやすくしています)

          加古川市大野は北條郷

 どこにも、「北条(加西)生まれた」とは書いていません。

 最近の網野善彦氏を中心とする研究でも、文観の生まれは加古川市大野であるしています。

 「北条」の件ですが、中世、大野あたりは北條郷でした。「北条」と言えば加西の北条がよく知られているため加西と思い込みがちですが、加古川市大野は中世、北條郷でした。

 最近では、文観は加古川の北條郷で生まれたとされています。(no4537)

 *写真:北条の一乗寺(本堂)

◇きのう(10/30)の散歩(10.572歩)

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文観と後醍醐天皇(5) 常楽寺について

2018-10-30 09:07:20 | 文観と後醍醐天皇

      常楽寺について

 文観は「常楽寺」に小僧として入りました。日岡神社の東隣にある常楽寺(加古川町大野)のことです。

 もう少し常楽寺について少し学習しておきます。

       常楽寺の盛衰 

 (常楽寺は)正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇はほとんど破壊されました。
 その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営されました。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、その多くは低地部にあり、寺領も三百石もあったといいます。

 ずいぶん大きなお寺だったようです。

      大野は洪水に見舞われやすい所

 鎌倉時代です。

 加古川に丈夫な堤防を造るということは経済的にも、技術の面からいっても当時は十分ではありません。
 
そのため、大野辺りは、しばしば洪水に見舞われました。
 
というのは、「(大野の北側を流れる)曇川は、曇ったときだけ水がある」といわれるのですが、いったん大雨の時は、曇川の大量の水は加古川に流れてくれません。
 
水は、堤防の外(東側)と日岡山の間を大野に向けて一気に大野に押し寄せ、しばしば大洪水になりました。
 
曇川の水だけではありません。大川(加古川本流)による洪水も幾度となく経験しました。

 正嘉二年(1258)の暴風雨の時は、特に大規模な加古川本流が引き起こした大洪水でした。
 常楽寺は、ほとんど流されたと伝えてられています。
      
  常楽寺の再興 
 この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようですが、『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。
 
常楽寺には、西大寺系の石工が造った宝塔があります。

 「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。
 
が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像されます。
 
再建は、この塔の造立された正和四年(1315)ごろのようです。

 当時、文観は37才でした。
 
まだ、後醍醐天皇との関係は薄かったのですが、すでに、西大寺の実力者として活躍しています。

 西大寺、西大寺系の石工(技術集団)・文観が説明のないままに登場しました。後に説明しましょう。(no4536)

 *写真:現在の常楽寺本堂

 ◇きのう(10/29)の散歩(11.838歩)

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文観と後醍醐天皇(4) 不遇な少年時代か?

2018-10-29 09:35:09 | 文観と後醍醐天皇

 文観を追いかけたいのですが、謎だらけ人物です。

 特に、子供の時代の文観についてはほとんど分かりません。自分のことを語っていないのです。語りたくなかったのかもしれません。

 そのため、伝承では子ども時代に文観は「播磨の農民の子として生まれ、幼少時に天台宗の僧に130文の銭で買われた」という伝承まであります。

     不遇な少年時代か?

 前回の史料「瑜伽伝(ゆかでん)」から彼について想像してみます。

 彼の直弟子の宝連(ほうれん)が書いています。

 おそらく文観から直接聞いた内容でしょう。そのため、信用してよい史料と思われます。

 少し気になるか所があります。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子・・・・」の部分です。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也」と書いており、お爺さんが登場し父のことを書いていません。

 何か理由がありそうです。彼の父が亡くなっているのであれば別の書きようがあるはずです。

 母については「非母可生孝子」と書いています。

 少年時代、どのような家族構成で生活したのかはわかりませんが、家族問題をかかえていたようです。

 このような家庭環境のためか、聡明な少年であった後の文観は、父、母あるいわ世話をする人により寺に預けられたのかもしれません。

 その寺が大野の常樂寺だったのでしょう。(no4535)

 *写真:常楽寺

 ◇きのう(10/28)の散歩(10.488歩)

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文観と後醍醐天皇(3) 文観、加古川の大野で誕生

2018-10-28 06:57:38 | 文観と後醍醐天皇

   文観、加古川の大野で誕生

 以前、私は「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、てっきりその生まれは、現在の現在の加西市の一乗寺で勉強をした僧侶ぐらいに思っていました。

 それ以上、深く考えませんでした。

  それが入門書ばかりですが、中世史の網野善彦先生の著書を読んでいると、「文観は加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めた」と思えてきました。

    文観の誕生:弘安元年(1278 )1月11日

 また、昭和29年度氷丘公民館地域学講座(1/27)で、兵庫大学教授の金子哲先生が「日岡の文観」というテーマで講義をされました。

 きょうは、その講義から次の史料を紹介します。大切な史料ですから掲載させていただきますが、少し読みづらいので今日のところはチラッと見るだけでけっこうです。

  (史料1)

 宝連 「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条

 第廿九伝法務大僧正弘真  号小野僧正一長者座主

 左大臣雅信公十三代後胤大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年

 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子、祈誓如意

 輪白衣二尊、(後略)

  〈史料1〉からわかること

 この史料は、文観の直弟子の宝蓮の書いたもので、史料の内容は信用してよいと思われます。

 次のこと確かめておいてください。

 「弘真」は、文観のことです。弘真については後に説明をしましょう。

 お爺さんは、大野源太夫重貞、

 文観の誕生は、弘安元年(1278 )1月11日。(母に関しては、「非母可生孝子」と記しています。何か事情があるようですが、今のところはこのままにしておきます。父に関しては不明です)

 時代から考えて元関東(武士)だったのかもしれません。

 文観は播州の人

 史料によれば文観は「播州の人」であり、名前が「大野」であるところから、加古川の大野の人であることが推察されます。

 でも、今日の史料だけでは、文観についての詳しいことは分かりません。が、少し文観の輪郭が現れてきました。(no4533)

 *写真:現在の常楽寺

 ◇きのう(10/27)の散歩(110.357歩)

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文観と後醍醐天皇(2) 内藤湖南(ないとうこなん)

2018-10-27 08:24:15 | 文観と後醍醐天皇

 

            内藤湖南(ないとうこなん)

 大正時代、京都大学の内藤湖南(ないとうこなん)先生の発言です。湖南氏の著作『日本文化史研究』(講談社学術文庫)で読むことができます。

 「・・・今日の日本を知るために、日本の歴史を研究するためには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありません。

 応仁の乱以後の歴史を知っておれば、それでたくさんです。

 それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませんが、応仁の乱以後は、われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本の歴史は充分だと言っていいのであります・・・」という一節です。

いかがですか。「当時(大正時代〉としてはかなり思い切った発言であったと言ってよいと思います。

 当時、内藤さんのこの発言が一般の方の間に浸透していたとはおもわれませんが、日本の歴史全体を知る時、「南北朝・応仁の乱以前と以後」は非常に大きな違いがあり、応仁の乱以前の歴史というのは、まったく外国の歴史と同じような意味しか持たないのです」と主張されています。

 現在の歴史とのつながりを考えるとき、内藤氏の歴史観は間違いがないと考えられます。

 当時は天皇中心の歴史観より認めていなかった時代です。ずいぶん思い切った、勇気ある発言でした。

現在、私たちは時代をいくつかに区分します。例えば「戦前・戦後」という分け方などはそれです。

 それでは、日本史全体を二つに分けるとしたら、どこで線を引くのでしょうか。

内藤氏が言うように、南北朝・応仁の乱前後を歴史の分水嶺にしてよいと思われます。

 南北朝・応仁の乱はそれほど大きく日本社会を変化させた時代でした。

 その歴史(観)については「文観と後醍醐天皇」でも、できるだけ取り上げましょう。

 この大きな歴史の引き金を引いたのは、間違いなく後醍醐天皇です。そして、彼のブレーンの一人が加古川出身の僧・文観です。

 決して、奇をてらう日本史話ではありません。(no4532) 

 *写真:内藤湖南氏(1934年4月9日撮影)

 ◇きのう(10/26)の散歩(11.182歩)

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文観と後醍醐天皇(1) 再度、文観を追いかけます 

2018-10-26 09:53:36 | 文観と後醍醐天皇

 「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」を書き直してみました。いかがでしたか。

 「以前書いた内容と重なるので、アクセスは減るだろう」と心配していたのですが、むしろ読者は増えています。

 このシリーズを終えたので次は「近世の加古川地域」を予定していました。

 「近世の加古川地域の歴史」は、次回とします。

 先にもう一度、南北朝について書きなおしてみます。

      文観と後醍醐天皇

 今年(2018)「文観を追え」と題して紹介した記事を再度まとめてみたくなりました。

 というのは、「4月以来の〝文観を追え〟のですが、余韻が続いているのと、この時代は日本の歴史で一番大事な時代ではないか」と思えてきたからです。

 でも、南北朝時代については、教科書でもほとんど紹介されていません。

 この理由については、その都度述べていきたいと思います。

 この時代に興味を持ったとはいえ、年齢(75才)のせいですかね・・・

 何度読んでもストーリーがすっきり整理できません。

 人間関係が複雑すぎます。

 ですが、この時代の中心になっている人物は、間違いなく後醍醐天皇です。

 その後醍醐天皇を支えている重要人物の一人が、僧の文観(もんかん)でした。

 しかし、文観は、自分のことをほとんど語っていません。

 そのため、後醍醐天皇の護持僧になってからの活躍はある程度分かるのですが、出生や子供の時代の文観については謎だらけです。

 *(護持僧:御持僧とも書きます。天皇のために特設された加持祈祷をする僧職。天台・真言の高僧を選んでこれに任じられました)

 最近の歴史学では、彼の生まれは加古川市であることが確実な事実として浮かび上がってきました。

 日本史の分水嶺(日本史二つに分ける時代区分)となった南北朝時代、その中心にいたのは後醍醐天皇です。

 その後醍醐天皇を支えた文観が加古川の人であったとしたら、私たちとしても黙っておくことはできません。

 しかし、僧:文観について地元でもほとんど紹介されていません。

 文観さん追いかけることにしましょう。(no4531)

 *挿絵:法服をまとった後醍醐天皇(清浄光寺所蔵)

 ◇きのう(10/25/18)の散歩(11.100歩)

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