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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

皇居外苑

2014-02-09 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 元 日

午 前 1 1 時 3 3 分

東 京 都 千 代 田 区

桜 田 門





皇居ランナーの出発地でもある桜田門【国指定重要文化財】に到達した私とママチャリ「飛電」は、このあたりで休憩をとった。



皇居外苑にある楠公レストハウスで一時の休憩をとったあとは、鎮座する楠公像(楠正成像)を拝見する。





楠木正成(楠正成)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、鎌倉幕府からは悪党と呼ばれる大阪河内の豪族であった。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の挙兵に応じ、鎌倉幕府の大軍を千早城で迎え撃ち、ゲリラ戦法や糞尿攻撃(!!)で撃退。足利高氏(尊氏)らとともに鎌倉幕府打倒の立役者となった。
だが、後醍醐天皇の指導する建武の新政は破たんを迎え、足利尊氏が離反する。鎮守府将軍・北畠顕家(あきいえ)らとともにいったんは尊氏を破るも、勢力を盛り返し九州から西上する尊氏の大軍と戦うこととなる。
正成は尊氏の実力を認め、これと和睦すべきと進言するが拒否される。絶対的な劣勢のもと、嫡子・正行と今生の別れをしたうえで(桜井の別れ)、兵庫の湊川で尊氏軍と戦い、自刃した。
その事績は「忠臣の鑑」とされ、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。





皇室を護るという意味合いから、楠公像は甲冑に身をまとい皇居にはせ参じる騎馬像となっており、像の正面から見て顔が反対側を向いているという珍しいつくりになっている。



臣の祖先友信伊豫(いよ)別子(べっし)山に銅坑を開きてより、子孫業二百季を継ぐ。
(臣の祖先である友信が伊予国の別子山に銅坑を開いてより、子孫が200年にわたり事業を継いでまいりました)

亡き兄友忠深く国恩を感ぢ、その銅を用ゐ楠公正成像を鋳造しこれを闕下に献ぜんと欲すれども、家允いまだ果たさず。
(臣の亡き兄である友忠は国恩に深く感じ入り、別子の銅を用いて楠正成公の銅像を鋳造し、天皇陛下の御前に献上しようと望んだのですが、志半ばで没し後継ぎもこれを果たせないでおりました)

臣その志を継ぎ、(わづ)かに工事し、竣工するに及び、謹みて献ず。
(そこで臣がその遺志を継ぎ、わずかに手を加えて竣工の運びとなりまして、ここに謹んで献上いたす次第です)

明治三十年一月  従五位 臣 住友吉左衛門 謹みて記す


碑文にあるとおり、楠公像は住友財閥第13代当主・住友友忠の発案により鋳造が始まり、第15代当主・友純(ともいと)のときに完成し、皇居に献上された。
なお「吉左衛門」は、住友家当主が代々襲名する名である。(片倉小十郎の「小十郎」と同じ)
このとき製作を担当したのは、楠公の像が東京美術学校(現東京芸術大学)教授であった高村光雲、馬の像が後藤貞行である。










楠公の銅像はどの角度で見てもすばらしいですなぁ。



さて私と「飛電」は、皇居外苑のお濠に沿って歩みを進める。



祝田橋から国道1号に沿って進む。

 (画像の左隅が祝田橋)

祝田橋は、皇居外苑を縦断する「凱旋道路」(現在の都道301号)を通すにあたり造成された土橋で、もともとは桜田門からの水濠が続いていた。
日露戦争の勝利を記念して道路が造成され、もとの水濠は二分された。
桜田門から祝田橋までの水濠は凱旋濠と呼ばれるようになる。

そして日比谷濠は、祝田橋から日比谷通りに沿ったところをいう。
楠公像のあるあたりは、日比谷濠の向こう側になる。





日比谷濠の石垣はまっすぐな区画ではなく、ところどころに凹凸が仕組まれる横矢懸りの構造となっている。





日比谷濠の終着となるところに存在した馬場先門
この門内にはかつて馬場があったので、馬場先門と呼ばれるようになった。
この門も大手門や桜田門と同様に枡形門の構造であったが、日露戦争勝利の提灯行列がこの門にはばまれて大勢の死傷者を出したため、明治39年(1906年)に撤去された。

馬場先門から北側は馬場先濠となる。


日比谷通りと行幸(みゆき)通りとの交差点。
馬場先濠はここで尽き、この北側は和田倉濠となる。



行幸通りは、皇居正門と東京駅を結んでいる。
通りの中央は普段歩行者天国となっているが、行幸や外国大使の信任状捧呈の際に車馬が通行するときのみ専用道となる。






和田倉濠にかかる橋の先にはかつて和田倉門があった。




お濠にたたずむ冬鳥たち。
だがこの白鳥はいつまでたっても北に帰らない。
夏には白鳥だけがお濠をぽつんと漂流している。



私はいつまでも皇居あたりで漂流しているわけにはいかない。
新年祝賀の儀は元日ではなく1月2日なので、いつまで待っても皇居に入ることはできない。

ということで、寄り道することなくそうそうに自宅に戻ることとした。