南北朝・室町時代
後嵯峨天皇の後、皇位継承争いが。
鎌倉幕府の執権「北条時宗」が調停して、持明院統と大覚寺統が交互に即位するこになった。
大覚寺統の後醍醐天皇は、いずれ持明院統に譲位しなければならないが、君主独裁を目指し、譲位どころか倒幕を企てた。
後醍醐天皇は、挙兵したが捕らわれ「隠岐」へ流された。しかし、護良親王と楠木正成が戦闘を続け、天皇も隠岐を脱出し諸国に挙兵を呼び掛けた。
幕府軍「足利尊氏」内応して「六波羅探題」を攻め落とし、また、関東では、朝廷の「新田義貞」が鎌倉幕府を攻め滅ぼした。
足利尊氏は、持明院統の光明天皇・北朝二代を即位させて、「室町幕府」を開いたが、幕府内部分裂し争乱が続いた。
やがて、細川頼之が幕府権力確立し「三代足利義満・(室町時代の名はここから)」将軍権力強化し南北朝合一を成し遂げている。
私鉄京王線「分倍川原」駅(大正5年京王電気軌道開通)

「分倍河原の戦」
鎌倉時代後期の(元弘3年5月15日・5月16日)戦い。
武蔵国多摩川河畔の分倍河原において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
JR南武線も乗り入れている。

「新田義貞」 1301-38 足利尊氏と抗争に敗れ討死した勇将。
源氏の名族新田氏の嫡流、千早城攻めに加わる。北条氏打倒の兵を挙げて鎌倉攻略し北条を滅亡へと追い込んだ。
鎌倉攻め稲村ヶ崎「潮を万里の外に退け給え」と竜神に祈り太刀を海中に投げ入れた、海は干潟となって鎌倉を攻略できた話は知られている。
義貞の子義顕・義興も南朝方につくし、悲劇的な最期を遂げている。
府中は武蔵国の国府所在地

「北条泰家」 1335年頃 北条貞時の四男 第9代執権
鎌倉からその後、
京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し、1335年、公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害されたと云う。
ただし、泰家は追手の追跡から逃れ、市河文書によれば
建武3年、南朝に呼応して信濃国麻績御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。
一説には建武2年末に野盗によって殺害されたとも言われているが、「太平記」においても建武2年の記述を最後に登場することが無い。
新田義貞像

「旧鎌倉街道上道」
新田義貞進撃路の「分倍河原古戦場(府中~関戸)」
現在の府中駅前は、「源義家」の寄進で 植えられたと伝わる馬場大門欅並木がある。
府中 大和朝廷の時代から国衙の置かれた府中 は、武蔵の国の中心として当初は東山道武蔵路にあり、上州からの武蔵路を朝廷から の使者や荷駄の往来が在って栄えと所。
品川路、大宮路、金井路、是政から川崎 路等が交わり、交通の要所でもある。
戦いのたびに、戦陣の置かれた町で、 その後の770年頃は東海道に組み換えられますが、それまでは、中心であった。
大国魂 神社は、武蔵国の一の宮。
分量橋ー多摩川左岸に位置する。

府中の田畑は、多摩川を水源とした灌漑用水路である。 取水の分量水路跡
雑田堀緑遊

鎌倉街道分梅町ー宿場・市場町で栄えた


分倍河原古戦場碑

鎌倉街道



国府国分寺は、ここから約6.1km

分倍河原古戦場 碑

都指定旧跡



府中の北条・豊臣・徳川御殿

2月3日から「梅まつり(森博物館)」

東京競馬場が昭和7年に目黒区から移転・昭和10年以降軍需工場、戦後は、宅地化・学園地域と変わっていった。
後嵯峨天皇の後、皇位継承争いが。
鎌倉幕府の執権「北条時宗」が調停して、持明院統と大覚寺統が交互に即位するこになった。
大覚寺統の後醍醐天皇は、いずれ持明院統に譲位しなければならないが、君主独裁を目指し、譲位どころか倒幕を企てた。
後醍醐天皇は、挙兵したが捕らわれ「隠岐」へ流された。しかし、護良親王と楠木正成が戦闘を続け、天皇も隠岐を脱出し諸国に挙兵を呼び掛けた。
幕府軍「足利尊氏」内応して「六波羅探題」を攻め落とし、また、関東では、朝廷の「新田義貞」が鎌倉幕府を攻め滅ぼした。
足利尊氏は、持明院統の光明天皇・北朝二代を即位させて、「室町幕府」を開いたが、幕府内部分裂し争乱が続いた。
やがて、細川頼之が幕府権力確立し「三代足利義満・(室町時代の名はここから)」将軍権力強化し南北朝合一を成し遂げている。
私鉄京王線「分倍川原」駅(大正5年京王電気軌道開通)
「分倍河原の戦」
鎌倉時代後期の(元弘3年5月15日・5月16日)戦い。
武蔵国多摩川河畔の分倍河原において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
JR南武線も乗り入れている。
「新田義貞」 1301-38 足利尊氏と抗争に敗れ討死した勇将。
源氏の名族新田氏の嫡流、千早城攻めに加わる。北条氏打倒の兵を挙げて鎌倉攻略し北条を滅亡へと追い込んだ。
鎌倉攻め稲村ヶ崎「潮を万里の外に退け給え」と竜神に祈り太刀を海中に投げ入れた、海は干潟となって鎌倉を攻略できた話は知られている。
義貞の子義顕・義興も南朝方につくし、悲劇的な最期を遂げている。
府中は武蔵国の国府所在地
「北条泰家」 1335年頃 北条貞時の四男 第9代執権
鎌倉からその後、
京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し、1335年、公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害されたと云う。
ただし、泰家は追手の追跡から逃れ、市河文書によれば
建武3年、南朝に呼応して信濃国麻績御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。
一説には建武2年末に野盗によって殺害されたとも言われているが、「太平記」においても建武2年の記述を最後に登場することが無い。
新田義貞像
「旧鎌倉街道上道」
新田義貞進撃路の「分倍河原古戦場(府中~関戸)」
現在の府中駅前は、「源義家」の寄進で 植えられたと伝わる馬場大門欅並木がある。
府中 大和朝廷の時代から国衙の置かれた府中 は、武蔵の国の中心として当初は東山道武蔵路にあり、上州からの武蔵路を朝廷から の使者や荷駄の往来が在って栄えと所。
品川路、大宮路、金井路、是政から川崎 路等が交わり、交通の要所でもある。
戦いのたびに、戦陣の置かれた町で、 その後の770年頃は東海道に組み換えられますが、それまでは、中心であった。
大国魂 神社は、武蔵国の一の宮。
分量橋ー多摩川左岸に位置する。
府中の田畑は、多摩川を水源とした灌漑用水路である。 取水の分量水路跡
雑田堀緑遊
鎌倉街道分梅町ー宿場・市場町で栄えた
分倍河原古戦場碑
鎌倉街道
国府国分寺は、ここから約6.1km
分倍河原古戦場 碑
都指定旧跡
府中の北条・豊臣・徳川御殿
2月3日から「梅まつり(森博物館)」
東京競馬場が昭和7年に目黒区から移転・昭和10年以降軍需工場、戦後は、宅地化・学園地域と変わっていった。