5月8日 埼玉遠征3日目の最終日。
今日は早くから活動する代わりに、昨日も車中連泊した、道の駅あぐりパークゆめすぎとの公園テーブルにパソコンを置いて、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像の「熟覧」申請に必要な、所有者の許可書の原紙を作成。
9時に見沼の正法院にお伺いし、作成した許可書の原紙に押印をいただきながら追加でお話を伺った後、10時に拝観をお願いした越谷市の安国寺に向かう。
越谷市も、かつての利根川本流である大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)などに接する洪水などの多かった土地。
利根川が現在のように関宿から取手・佐原を流れて銚子沖の太平洋に流れたのは、承応3(1654)年以降で、それ以前は、会の川と越谷市の東端を流れる大落古利根川が利根川の本流だった。
しかし、徳川家康の関東入府とともに、利根川をはじめとする河川の瀬替えや分離、統合等の事業が行われ、江戸へ通じる舟運路の整備や新田開発が積極的に進められた。
そのうち、利根川の流路の付け替え(利根川東遷事業)は文禄年間(1592年~1596年)に始まったとされる。
「大落」とは、農業排水を落とす幹線排水路の意味で、源流から切り離され、悪水がたまりやすい川だったのではないだろうか。
大龍山安國寺は、越谷市大泊にある浄土宗の寺院で、延文6(1361)年、称阿上人により開基されたとされ、法然上人の門徒となり蓮生上人と呼ばれた熊谷直実との関わりについても言い伝えがある。
その後、紀州国熊野大泊村安國寺の住職・誓譽専故上人が、諸国行脚のおり、康安元(1361)年に当地に寺院を再興し、故郷と同じ地名を当寺に称したことが始まりとされる。
徳川家康によって、朱印状を得ていたといい、家光以降の朱印状が残されている、当地でも格式のある寺院。
それでは、お邪魔いたします。
ご住職に本堂の内陣左側に、鎌倉期の作とみられる阿弥陀如来像と並んだ厨子の中に、円空像が三体納められている。
中央が観音坐像で、足もとに水瓶に差された柳の枝があることから、楊柳観音とされている。
建築古材と見られるヒノキ材が使用されており、像高70.5㎝。
右は、善財童子立像(52.2㎝)。左は、護法童子立像(51.1㎝)とされるが、頭上に龍の頭を置き宝珠を持つので、善女竜王像とすべきなのでは。
両脇の像は、虫に食われ、摩耗も著しい。キリの丸材を二つ割りにしたその木表部分に彫刻し、背面は割ったままとなっている。
それにしても、楊柳観音坐像は、図録の画像では、彫り口が重たるそうで、やや野暮ったく見えたのに、実際に拝すると、はるかに見目麗しく、女性的な顔をされている。
頭上に化仏があるが、全体のフォルムや頭上の部分は、さいたま市見沼区の正法院の末である同区蓮沼の西福寺の十一面観音座像と、大変よく似ている。
埼玉県に伝わる50㎝以上の大ぶりな観音菩薩坐像は、➀不動院の末となる蓮田市黒浜久伊豆神社の別当寺宝蔵院に伝わった十一面観音坐像と、➁正法院の末となる見沼区蓮沼の正福寺(文末メモ参照)の十一面観音座像、そして③越谷市安國寺に伝わる楊柳観音坐像の三体がある。
➀の頭上化仏は、円空が従来作って来た形(ただし頭頂の部分は独特)
➁は、頭巾でも被ったような、春日部市小渕観音院の観音像に通ずる形
③は、化仏は一体ながら➁に似た形をしている。
完成度の高さからしても、制作の順は➀→➁→③ではないだろうか。
さて、その楊柳観音坐像の膝下部分だが、左側には雲に包まれた龍がおとなしくたたずみ、水瓶には水鳥らしき鳥が止まり、よく見ると中央には魚もはねている。
楊柳観音は、三十三観音の一つで、病苦からの救済を使命とするとされる。
あるいは、円空は観音と阿弥陀を合体した像などを作っているから、この像も楊柳観音と竜頭観音を合体させた像なのかもしれない。
円空が埼玉県に残した像には、水を治める祈りとともに、特に見沼区では、薬師如来やその眷属の十二神将など病を癒す祈りが込められた像が多い。それは、悪疫なども流行りやすいこの土地の切実な願いだったからだろう。
その中で、安國寺の御像は穏やかに微笑まれ、龍はまどろむようで、水辺の平和な風景が浮かぶような表現がされている。
円空は、当地での大仕事の終盤あたりに、この地が平安であるよう祈りつつ、心穏やかに・遊び心もひそませて、この像を彫ったのではないだろうか。
安國寺の本堂は昭和50年新築のものだが、欄間の中央に葵の御紋が付けられ大龍山という山号に合わせて龍の幕が掛けられ、徳川家との関わりや、格の高さを感じさせられる。
ご住職は、女性の方で、寺にまつわる熊谷直実ゆかりの「念佛橋」、徳川家康が松の木の下で杖を振り、寺領を示し与えたという「杖振りの松」の話や、当方が円空の山岳修行や当地を訪れた背景などのお話をしたら、やはり相当な修行を積まれたとのお話をお聞かせいただいた。
いろいろ、ありがとうございました。
寺の近傍には、利根川水系の場所らしく香取神社があった。
その由緒書きも興味深く読んだ(画像にて手抜きさせてもらいます)。
見沼に引き返し、圓蔵院の長老さまに、「熟覧」申請に添付する、所有者の許可書に押印をいただきつつ、改めてお話を伺う。
圓蔵院のすぐ先が「見沼田んぼ」といわれる、かつてあった広大な見沼を新田開発した場所にあたり、そこはよく洪水に見舞われたこと、悪疫で子供らがなくなることが多かったことを伺う。いろいろヒントになるお話ありがとうございました。
寺を辞して、見沼田んぼに出てみる。
田植えを終わったばかりの水の張られた広大な田んぼは、埼玉新都心地区のすぐ近くなのに、かつてあった見沼を彷彿させる。
埼玉のソウルフードともいえる「山田うどん」で遅い昼食後、見沼区東大宮の正雲寺地蔵院へ。かつては砂村といわれた場所。
正雲寺も正法院末の真言宗智山派(かつては真言宗仁和寺派)の寺院だが、今は廃寺となっている。
右手の六地蔵の中央にある地蔵には、正保4(1647)年の銘がある。右手の石塔は、阿弥陀如来像塔で、 寛文10(1670)年の銘がある。これらの石仏を円空も見ていたのだろうか。
ここにあった不動明王坐像(48.5㎝)も、やはり埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている。
、
ほかに、旧砂村には、地蔵院末の砂観音堂に聖観音像(113.8㎝)と、菩薩像(94.2㎝)が伝わる。
場所が見沼区大宮1丁目としか分からないので、うろうろするばかりで、特定できなかった。
大宮市の天然記念物に指定された推定樹齢600年の砂の大ケヤキの傍らに、馬頭観音堂があったが、ここかもしれない。
砂観音堂の像は、いずれも子供の遊び道具になっていたといい摩耗が激しい。
観音菩薩立像は、頭上に龍が彫られているようで、宝珠も持つので、竜頭観音ではないだろうか。
こんな場所にたたずむと、子供たちが円空像で遊ぶ姿が目に浮かぶよう。
以上、巡っていたら、肝心の薬王寺に伺う時間が遅くなってしまった。さあ、急がねば。(続く)
8日(水) 曇時々雨帰路は一時大雨
道の駅ー見沼区正法院(拝観許可書受領)9:00ー越谷市安楽寺10:00~11:00-見沼区圓蔵院(拝観許可書受領)12:00-(昼食)ー正雲寺地蔵院(廃寺)13:00~13:10―砂の大ケヤキ13:15ー見沼区薬王寺14:55~15:25-岩槻区谷下自治会長宅(谷下久伊豆神社像拝観許可書受領)15:50ー自宅22:00
<メモ>
・正福寺は、『新編武蔵風土記稿』に「新義眞言宗、中野村正法院門徒、自在山蓮華院と號す、本尊十一面観音を安せり」とされる。
・見沼区には、ほかに真言宗智山派の多聞院、曹洞宗の宝積寺院にも円空像がある。
そのうち、同区丸ヶ崎の多聞院には、菩薩坐像(21.0㎝)が伝わる。『新編武蔵風土記稿』には、「(丸ヶ崎村)多聞院新義眞言宗、山城國嵯峨大覺寺末、持寶山太子寺と號す、開山俊幸寂年を傳へず、中興永鑁は弘治三(1557)年寂す、本尊聖徳太子を安ず。鷲明神社、観音堂。」と記される。この寺は、正法院の末寺ではなさそう。
同区深作の曹洞宗の宝積寺については、役行者像(62.0㎝)が伝わる。『新編武蔵風土記稿』には、「(深作村)寶積寺 曹洞宗、大成村普門院末、深作山延命院と號す、本尊は延命地蔵なり、開山實州参和尚は寛永六年四月廿五日寂す、開基は密庵俊茂寂年を失す」と記される。民間を除き見沼区で唯一真言宗以外の円空像の伝わる寺院で、電話でお伺いしたところ、過去より寺の位置は変わっておらず、像は、どこかから移入されたとは伝わっていない。曹洞宗のお寺に修験系の役行者像が伝わる理由は不明とのこと。見沼周辺を領していた旗本青木家との関係は特に伝わっていないとのこと。