横から失礼致します。
貴方の論理には2点の誤謬がありますね。
①「相関関係と因果関係」の混同
②検証可能性の無視
まず①に関する有名な寓話がありますので、読んでみて下さい。
昔々、ある小さな村に、一人の年老いた老婆が住んでいました。家には一羽の立派な雄鶏がいて、毎朝早くに「コケコッコー」と高らかに鳴くのが日課でした。
ある朝のことです。老婆はいつものように目を覚まし、窓から外を眺めました。ちょうどその時、鶏が鳴き始めました。「コケコッコー!」――すると、間もなく東の空が赤く染まり、ぽっかりと朝日が昇ってきたのです。老婆は目を丸くして思いました。「あら、まあ! 鶏が鳴いたら、すぐに太陽が上がってきたわ。これはきっと、鶏の鳴き声が太陽を呼び起こしているんだわ!」
翌朝も、同じことが起きました。鶏が鳴く → 太陽が昇る。老婆はますます確信を深めました。三日目、四日目……毎日毎日、鶏の鳴き声の直後に太陽が顔を出すのです。老婆は興奮して近所の村人たちに言いふらしました。「私の鶏はすごいんだよ! あの子が鳴かないと、太陽は昇らないんだ。世界は私の鶏のおかげで明るくなるんだよ!」
村人たちは最初は笑っていましたが、老婆は本気でした。彼女は鶏を大切に扱うようになり、特別な餌を与え、夜は暖かく寝かせ、朝は必ず鳴くように祈りを捧げました。「お前がいなければ、世界は暗闇のままさ!」と鶏に語りかけるのです。老婆は鶏を「太陽の使い」「世界の守り神」と呼ぶようになりました。
ある日、村に旅の商人がやってきました。老婆は自慢げに鶏の話をしました。「見てごらん、この鶏が鳴くと太陽が昇るんだよ!」商人は不思議に思い、試してみることにしました。翌朝、商人はこっそり鶏を捕まえ、遠くの森に連れて行ってしまいました。鶏は鳴けなくなりました。
朝がやってきて、老婆は鶏を探しましたが、見当たりません。「まあ、どうしたんだろう?」と心配しながら窓辺に立ちました。すると……「コケコッコー!」という鳴き声はなくとも、東の空が明るくなり、朝日がいつも通り昇ってきたのです。太陽は鶏とは関係なく、変わらず輝いていました。
老婆は驚愕しました。「ええっ! 鶏がいなくても太陽が昇るなんて……!」彼女は自分の誤りを悟り、顔を赤らめました。商人が戻ってきて鶏を返し、優しく諭しました。「おばあさん、鶏の鳴き声はただの合図さ。太陽は自分で昇るものだよ。鳴き声の後に昇るからといって、鶏が原因だと思い込むのは間違いだ」
■おしまい■
ベルねこさんが「飯山さんからのいいね」について語られた結論は、「だから、スネークは飯山さんから信用されていない」という事です。ベルねこさんは、飯山さんからのいいね欲しさに「手八丁口八丁で何でもいいから藤木派を叩きのめしてやる!」なんて、一言も言ってません。あなたがそう解釈しているんだとしたら、「鶏の鳴き声が朝日を上らせている」と勘違いした老婆と同じですよ。相関関係と因果関係をごっちゃにしてはいけない。
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②の論点についてです。
実際、ベルねこさんは飯山さんからいいねをもらって、嬉しかったかどうか、という事に関して言えば、きっと嬉しかったんじゃないかと思いますよ。でもそういった感情は、遍く全ての人間に当てはまる事ですよね?
蛇の目さんだって、藤木さんからいいねをもらったら嬉しいでしょ?別に藤木さんからじゃなくてもいいですよ。誰かから褒められたり、評価されたら、人間って嬉しいものです。
では、蛇の目さんだって、「テキサス組からのいいね欲しさに飯山さん支持者を叩いている可能性」もありますよね?
しかし、これは人の内面にある感情の問題であり、それを人様に対して客観的に証明できる類のものではありません。こういった事に関する問題を「検証可能性」と言います。
つまり、蛇の目さんが論点にしている事には、検証可能性がないんですよ。あなただって、「自分はいいね欲しさにやってるんじゃない!」って事を明確に示すことはできないのだから、人にもそれを求める事はできません。そして、そういった議論は須く終わりなき水掛け論となって、どこにも収斂することがないんですよ。だから、検証可能性のない問題を論点にした時点で、あなたの論理はナンセンスなんです。
大事な事は、「ベルねこさんが蛇の目さんに対して問題提起されている本質は何か?」という事であり、それに対して検証可能性のない問題に置き換えて、見え透いたストローマン論法に終始するというのは、そもそも問いかけられている問題に真正面から答えられないんじゃないの?
って思われちゃいますから、あなた自身が損をしますよ。
まずは、文脈を読む訓練をなさって下さい。ではでは。