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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

今年もNYロックフェスは

2008-01-07 23:48:43 | その他の日本の音楽


 見ても不愉快になるに決まっているんだからよせばいいのに、今年も見てしまったユーヤさんプロデュースのニューイヤーズ・ロックフェスのテレビ中継。
 いやいや今年は”ニューイヤーズワールドロックフェスティバル35”なる名称が正しいんですな、これは失礼。

 始まった頃にはそれなりの意義を感じ取れなくも無かったんだけど、いまや漂うは腐臭のみですな。やってる音楽はどれも空疎な十年一日の繰り返しだけ。新しい発見なんかかけらも見つからない。それどころかシーナ&ロケッツなんかは「進化を拒否する」なんてコメント発していたんで呆れてしまう。ロックってそんなもんでしたか。

 などと毎年、文句ばっかり言っているんだからテレビで中継なんか見なけりゃいいのに、何で見てしまうんですかねえ。
 まあ、癖のものなんでしょう。第1回の中継から毎年、見続けてきたんだから我ながら呆れますわ。

 今年は”地球温暖化を考える”とかがテーマとなっているらしい。とはいえ、何か格別な動きがあるでもなし。ミュージシャンが出番前のインタビューで「このままじゃいけないんで、俺たちの力で小さなことからやって行きたい。それじゃ行くぜ!イェ~ッ」とか言うだけで、まあ、確かに小さなことですわ。

 つまりそんな看板を掲げてみることで箔を付ける、ユーヤさん一流の権威主義なんでしょ。海外からの中継を組み込み、”国際化”を謳うのも同じことで。

 そして昨年(一昨年だったっけ?毎年、同じような感じなんで区別がつかないよ)見ていて腹が立った件、つまり中国や韓国のミュージシャンに対しては勝手に”兄貴分”の位置に居座り”指導”してやったり”お褒めの言葉”を偉そうに下す、そんな日本側の姿勢は相変らず。

 かと思えば出演バンドの一つがアメリカのマスコミに取り上げられたと言っては、はしゃぐ。同じアジア人に対しては居丈高に振舞うが、白人に頭を撫でられればシッポ振って大喜びかい?

 絵に描いたようなアジア蔑視と欧米追従。
 なんだよなんだよ。ロックンロールは教えてくれたんじゃなかったのか、そんな薄汚いものの見方には唾を吐きかけてやろうと。
 なんか強力に空しくなってきたんで、この辺で。まあ、来年もきっと悪口書く事であろうし、ね。いいや今年はこのくらいで。それでは、腐り果てた日本の”ロック”よ、それまでグッバイ。

 ~~~~~

 ロックンローラー・内田裕也が中心となる恒例の年越しイベント「ニューイヤーロックフェスティバル」=写真はパンフレット=の模様が、1月8日深夜にフジテレビで放送される。

 今年で33回目。31日から1日にかけ、東京・浅草ロック座、韓国・ソウル、中国・上海で同時開催される。上海は2年連続で、内田は「今年は反日デモがあったけど、ロックは国境を超える文化。こういう時こそ交流が必要だ」と語る。

 上海ではジョー山中、ソウルでは白竜らが参加。東京会場には、内田のほか、シーナ&ロケッツや若手バンドがそろう。

(2005年12月20日 読売新聞)

奄美島歌中間報告

2008-01-06 05:10:46 | 奄美の音楽


 ”Kafu ”by 中村瑞希

 奄美島歌関係のその後なのだが。

 奄美のレコード店から第2弾の商品送付が昨年の29日になされているようなのだが、それがまだ届かず。大丈夫だろうな。と言う気分になってきた今日この頃。まあ、発送告知メールには「年末年始が挟まるので一週間ほどかかるかも」とあったので、もう少し待ってみようか。とは言え、昨日がその一週間目だったのだが。
 びっくりしたのは奄美関係の書籍を注文したアマゾンだ。昨日注文したら今日届いた。逆にアマゾンは暇なのか?あるいは奄美ものも年が明けてから頼んだ方が早かった?なにやら分からんです、流通業界。

 奄美のレコード店通販サイトの試聴コーナーで音楽の断片を試し食いするうち、かの地特有の音楽として”民謡”と”新民謡”とがあるらしいことが分かってきた。(まあ、それ以外にもあれこれあるのだろうけれど)いわゆる”民謡”と、いわゆる”本土”の歌謡曲の奄美版みたいな”新民謡”なるものと。
 で、文頭に第2弾の注文などと書いてあるのがそのあたりの事情に絡んでいるのだった。

 つまり試聴コーナーを聴いているうち、学究的音楽ファンは無視しそうな(つまり、いわゆる歌謡曲風で奄美の民族色薄いように感ぜられる)新民謡の数々が、私の本来の興味の対象であるアジアの裏町歌謡の体系に連なるものではないかとの予測が出て来たのだ。

 そんな訳で、注文済みの奄美民謡中心にセレクトした荷が届くのも待てず、慌てて新民謡中心の追加注文を行なったのだが、その第2弾目の注文品が先に述べたとおり宙ぶらりんの状態となっていて、非常に中途半端な気分だ。

 まあ、まだ奄美の音楽に興味を惹かれてから一月も経っていない、こんなジタバタする事はないんだけどね。とは言いつつも、聴きたい知りたいとなったら一刻も早く、となるのがマニア気質と言うもので。おそらくは正気の沙汰で無い文章になっているかと思うがお許し願いたい。

 ともあれ。まだ何枚も聴いていない奄美ものだが、”日本の伝承音楽”として民謡を聴き、”アジアポップス連続体に連なるもの”として新民謡を聴くと言う二本立てになって行くのではないか?という予感がしている。

 そんな次第で、今は第1弾の注文によって届いている”Kafu / 中村瑞希”なるアルバムを繰り返し聞いている現状である。
 奄美島歌を紹介するオムニバス盤にも中村瑞希の歌は何曲も収められていたり、とりあえずのとっかかりとして彼女あたりが適当だろうと見当をつけたのだ。

 パワフルで鋭い歌声である。期待を裏切らない好ましい響きで、彼女のほかの作品もいずれ買っておかねばと思う。
 沖縄のものより乾いていて細く高音域で鳴っている感じの三線。その繰り出すフレーズと歌声を聴いているうち、アメリカ南部の黒人たちのバンジョー音楽を想起した。
 あの、”アコースティックなファンク”みたいなバネを秘めつつ跳ね上がり絡み合う楽器の爪弾きと歌声。共通するものがある。この盤はほぼ三線の弾き語りで出来上がっているようだが、音楽的にはこれで十分、他の楽器の介入は必要ないのではないか。

 想像していたよりも”南島”の感触はない。むしろ、どこだっけなあ、奄美島歌の歌詞に関していろいろ検索しているうちに出会った”万葉”って言葉がふさわしい、なにやら柳田国男の民俗学本とか引っ張り出したくなってしまう、古代日本に通ずる感触を受け取った。つまり南へ向う横の移動感覚よりも過去に向うタイムマシン感覚。

 歌詞について、もっと知りたいと思った。能なんかに通ずる幼形成熟的美学で出来上がっているようで、こいつは突っ込めばかなり面白い世界が見えてくるのではないか。
 なんとなく以前より曲名だけ知っていた” 上がれ世ぬはる加那”をはじめ、歌詞の意味が今では良く分からなくなってしまっている歌も多い、などと知るとますますムズムズするものを覚え。

 あーもう、早く第2次注文分が届かないかな。そいつを聴いた結果では、即、第3次注文も出ようというものを。え、購入予算はどうするのかって?いや、生活費はケチっても、音楽に使う金はケチケチしたくないと思ってるんで。家庭?もう10数年前に崩壊してますが、なにか?

 ・・・などとバタバタしている神話時代が、音楽ファンとしては一番幸せな時期かもしれないんですがね。まあそれは、あとで振り返ってそう思うことで。とかなんとか歌謡曲の歌詞みたいな事を言いつつ、中間報告を終わります。

懐かしの台湾

2008-01-04 01:35:20 | アジア


 ”淑樺的台湾歌”by 陳淑樺

 別に新年を寿ぐ意味でリリースされた作品でもないのに、妙に新春の空気に触れると聴きたくなってしまう音楽と言うのがあって、このアルバムなどもその一つ。もはや本当にアルバムを引っ張り出す事もなくなってしまっていたが、正月の街を歩いているとふと思い出す音楽ではあり続けている。

 歌われているのは台湾の古い歌謡曲、懐メロ、とでも解釈すればいいのだろうか。楽曲の持つレトロな雰囲気とややジャズっぽい香りを漂わせた瀟洒なアレンジの、そのブレンドの妙が当方の正月気分に個人的にシンクロして感じられる、というそれだけの話で恐縮なのだが。
 ついでに言えば、アジアのポップスに興味を持って聴いてきた人ならとうに馴染みの作品で”何をいまさら”と思われるであろう、そいつも申し訳ない。いつか文章にしておきたかったんで、お付き合い願いたい。

 第2次大戦終了後、台湾を支配することとなった中華民国・国民党政権によってワンランク下の存在であるかのように位置付けられて行った台湾固有の文化だった。
 大衆音楽家の間でその見直し、名誉回復の機運が盛り上がり、台湾語のラップを発表したグループ、黒名単工作室や大物シンガー・ソングライターである陳明章などが意欲的な創作活動を行なった、その運動に呼応するかのように世に出たのが、このアルバムだった。

 彼女は、もともとはフォーク調の歌謡曲を歌って人気を博したというのが良く分かる清純な美声の持ち主で、その陳淑樺が下品で泥臭いとのイメージで見られていた台湾の懐メロ系歌謡曲を歌ったことに意味があった。

 ちょっぴりジャズの香りを漂わせたシンプルで上品なアレンジ、爽やかな陳淑樺の歌声が、さりげなくベタつかない郷愁を含みつつ流れて行く。ここでは台湾の懐メロはむしろきわめてオシャレな音楽として存在している。我々日本人にもその”懐かしさ”は共有可能とまで感じさせられてしまう。
 押し付けがましいシュプレヒコールではなく、一輪の花として讃え祝福を与える、そんな形で祖先から受け継いだ文化の名誉回復の運動となす。美しい志の作品として支持したい。

 アルバムの静かな音の流れの中で、さまざまな運命に翻弄されてきた台湾の地への思いを、破れた魚網を繕う漁民の姿に託して歌った”補破網”などがひときわ胸にしみる。
 このアルバムがリリースされた時、淑樺の祖母は「はじめて私の分かる言葉で歌を歌ったねえ」と相好を崩したと聞いた。

 このアルバムを手に入れた際、歌い手の陳淑樺なる歌手は、台湾の”知的でオシャレな女性”を目指す人たちに一つの目標とされている、なんて話を聞いたものだった。生き方やらファッションやら。彼女が髪を短くすれば、台湾の女性の間でショートカットが流行る・・・
 今でも彼女はそのような存在なのかなあ?と思いつつジャケを検めてみると、製作年度・1992年。うわあ、このアルバムを初めて聴いてから、もうそんな歳月が流れていたのか。その後の彼女はどんな人生を歩んでいたのだろう?と、ふと思いついてWikipediaなど紐解いてみたら以下のような記述に出会い、なんだそりゃ?と。

 ~~~~~

”1958年5月14日台湾台北市生まれ。1979年に歌手デビュー。1997年、聞くところによると陳淑樺はアンフェタミン入りのダイエット食品を誤って食べてしまい、歌手人生を中断する。1998年にある理由で台湾芸能界からフェード・アウトして、後に復帰することを言い伝えるが、いまだに復帰していない。”

 ~~~~~

 人は知らないところでいろいろな目に遭っているのですねえ。このアルバム後、私の台湾音楽への興味はより泥臭い演歌などに向ってしまい、陳淑樺への興味はひとまずこっちへおいといて、という状態で放って置いたままだったのだが。彼女が良い方向へ人生を取り戻される事を祈っておきましょう。

 ”走馬燈”(作詞・呉景中)

 是幸福 是不幸 環境来造成
 恩恩怨怨分不清 何必抱不平
 星光月光転無停 人生牙人生
 冷暖世情多演変 人生宛如走馬燈

上がる日ぬはる加那に向いて

2008-01-01 23:57:52 | 奄美の音楽

 明けましておめでとうございます。今年もヨロシク。

 昨夜は久しぶりに本気で酒を飲んでしまった。脂肪肝の件、ドロドロ血の件などから医師に酒をひかえるように言われ、ほぼ(ほぼ)そのように暮らしてきたこの4年ほどだったのだが、まあ、正月くらい良いでしょ。3が日明けたら、また酒ご法度の修道院生活を再開するから許しておくんなさい。てことで。このところずっと血液検査の結果も良好だしね。

 朝目覚めたが、予想した二日酔いはなかった。やはり飲んでいなかった分だけ体が回復力を取り戻していたのだろうか。
 その代り、なんとなくあまずっぱいような感傷が心の隅にあった。それはたとえば気になっていた女の子と上手く行きそうな予感とか、そんな胸騒ぎ。現実にはそのような兆候は私の生活にはかけらもない、そんなものとはまるで無縁の日々を長いこと送っているのだが。

 ”怒れる大家”としての私の昨年の仕事納めは、我がアパートの貸借人の一人(いろいろ問題あり)への説教だった。「一人前の社会人としての常識を知れ」などなど、自分でも信じていないような事を切々と説いた。小一時間。いや、そんなに長時間ではないがね。そんなの、こちらの根気が続かないよ。

 それはともかく。ともかく、「何を考えてるんだよ」と相手の非常識を責め、「しまいにゃアパート追い出すぞ」と説いた。ちなみに相手は私よりずーーーっと年長者である。相手は、「ハア、申し訳ありません」と頭を下げてはいたが、分かっているやらいないやら。
 もう情けなくてね。説教されてる相手も、している自分も。もう少しマシな事をするために我々は生まれてきたんじゃないのか。いやなにも「より意識の高い生活を」とかスカした話をしたいわけじゃない。ただ、「俺たちの人生って、ゴミみたいなものだなあ」とか実感しながら生きていたくないってそれだけの話なんだが。

 昨年の夏は、ブログで相互リンクを結んでくれているNAKAさんが突然、奄美の島歌を取り付かれたように聞き始め、驚かされたものだった。NAKAさんは同じワールドミュージック系の音楽のファンでおられるのだが、「この音楽を聴いてみたいが、自分の今聴いているのがこれだから、まずこの辺を聞いてからその次に」とかトライする音楽の段取りを考えたりして、万事アバウトな私から見ると几帳面過ぎるほどの音楽へのアプローチをされる方なのだ。

 そんな定規で測ったような(?)音楽ファン道を歩むNAKAさんにしてからが、突然、レコード店頭における何の気なしの試聴により、それまで興味もなかった奄美島歌の強力なファンとなり、それ以外の音楽を聴かなくなってしまったりするのだから人生、そりゃ何が起こるか分かりません。
 ともかく一時、NAKAさんのブログは奄美民謡に関する記事で一杯になり、「どうしちゃったの、これ?」とか呆れてそいつを読んでいるうち、ついには自分も奄美の音楽を聴いてみたくなり、現地のレコード店にオーダーを出してしまった私なのだった。

 それまでに奄美方面の音楽に興味を持ったことはない。強いて言えばバタヤン、田端義夫氏が奄美ネタの歌謡曲(現地奄美ではその種のものが”新民謡”と呼ばれていると、今回、知った)を歌っているので、その背景を知りたいと思ったことがある、その程度のものだった。

 いずれにせよ、かっては奄美も沖縄も区別のついていなかった当方であり、左翼の人が何かというと「沖縄の音楽こそ最高!」みたいな、音楽そのものとは別のところに価値基準を置いた上での無条件の持ち上げ方をしたり、また沖縄のミュージシャンも、あまりにも沖縄の人と風土に撞着し過ぎているような感触があり、沖縄方面の音楽は、照屋林助氏とかの一部の例外を除いて、あんまり聴いてみたいとも思わなかった。

 だからそれと区別のつかなかった奄美の音楽も積極的に聴く気など起こしはしなかったのだが、NAKAさんの記事を読むうち、奄美の音楽が沖縄とは異質の個性ある世界を形成している事実を知りジワジワと興味が湧いて来た次第で。
 よしと思い立ち奄美のレコード会社に若干のCDを注文する頃には「これはずっと以前に聴いておくべき音楽だったのだ」なんて気持ちになっていて、一刻も早く聴きたいなんて焦燥感で一杯になっていたのだから、私と言う人間もなんて奴だろうか。

 注文した奄美島歌のCDは昨年の暮れの30日にギリギリで届いた。そして”年末年始特赦”で自分に酒解禁をしたハレの日の夜は、小包みから出て来た奄美発の音盤群を相手に過ぎて行ったのだった。

 まだ聴き始めたばかりの奄美島歌についてあれこれ語る事はまだ出来ないのだが、南国の島歌というよりは、昔良く聞いたアメリカ南部のデルタ・ブルースあたりを想起させる硬質でモノクロな叙情が三線の響きと独特の裏声に乗って一幕の物語を提示する、その世界にまあ、まだ分かっていない部分も大半だろうが、とりあえずスッと入って行け、聴いて楽しめたのが幸運と思えた。

 そういえば。冒頭に書いた、心の底に漂っていた正体不明の甘酸っぱい幸福感て、「これから奄美の音楽でしばらく、楽しめそうだな」って期待感だったと今、分かった。想いが女性絡みだったのは、今回購入したCDが若い女性歌手のものばかりだったせいなんじゃないか。
 なんつーか、くだらないというか寂しい話だろうなあ、傍目には。いいのさ、音楽ファンとしてはこれで十分。以上、年頭の所感でした。今年はまず、奄美で行く。それでは今年もヨロシク。と言うことで。

渡るアラブのポップスの

2007-12-30 23:58:00 | イスラム世界

 ”alemtaha” by Mohamed Abdu

 アラブの盟主を自らもって任ずるサウジアラビアでありますが、かの国の誇る大歌手、となればこれはますますゴージャス!というわけで、アラブ・ポップスの大物・ムハマド・アブドゥの、ちょっぴり不思議作。
 なにしろ数多いアルバムのジャケ写真のほとんどではアラブの民族衣装に身を固めて、コワモテ状態でこちらを睨んでいたアブドゥが、ここではスーツに身を固め、ニッコリと微笑んでいる。これがまず不思議だ。

 とは言え、アーティスト名とアルバムタイトル以外、アラビア語表記のジャケをいくら眺めても、たとえば企画盤であるとか新境地に挑んだ作品であるとかは分かりはしないんですが、なにかどこかへんてこな雰囲気漂う音の響きではある。といっても御大アブドゥのことですからね、やっぱり堂々の貫禄ではあります。

 冒頭、まずは切ないストリングスの響きで始まります。アラブポップスお得意の官能的な響きのユニゾンものじゃない、アラン・ドロンとかマルチェロ・マストロヤンニとかが顔を出しそうな、昔のヨーロッパ製恋愛映画のサントラみたいなオシャレな響き。しばらくして、それに被さる切なくも俗っぽい感傷を撒き散らすムードミュージック系ピアノ。
 なんかテレビドラマ”渡る世間は鬼ばかり”のテーマ曲みたいなピアノソロがストリングスのど真ん中を突っ切って行くのであります。

 なんだなんだ何が始まるのだと首をかしげていると、やがてハッシとアラブの民俗打楽器が鳴り渡りまして、アブドゥの渋い声がコブシコロコロと響き渡る。これがなんか妙な取り合わせでねえ。
 古きよき欧州恋愛映画の世界にアラブ遊牧民乱入、みたいな音像。しかも空耳アワー的な話ですが歌詞の中に「後ろ。後ろ後ろ」と聞こえる箇所が頻出し、夜中に聞いていると、ちょっと怖い。俺の後ろに何かいるのか?

 なんて、”笑っちゃう”ってレベルまでは行かないものの、なんとなくむずがゆい気分を喚起する不思議なバラードものが気を惹く作りになっているのであります。
 その間に挟まる、勇壮なコーラスを従えたアップテンポの曲はいつも通りのゴージャスな湾岸系アラブポップスなんだけど、今回に限り、それよりもやっぱり”渡鬼”風ムードピアノ大活躍の不思議なムーディ・アブドゥがちゃららっちゃっちゃらっちゃ~♪と左に受け流すバラードものに目が行ってしまう。

 変な世界なんだけどね、一度聞いちゃうと妙にクセになるのさ。

 これってアブドゥの新境地なんでしょうか?面白いからもっとやって欲しいような、やめといた方が良いような。アラブの人たちからの評価はどうなんでしょう?
 この不思議なむずがゆさを楽しむ瞬間、ワールドもののファンになって良かったなあと思える・・・ような、妙なものにかかわりを持っちゃったなあと反省したくなるような・・・なんともいえない皮膜の間で今年も暮れて行くのでありました。

英国聖歌集

2007-12-29 04:20:01 | ヨーロッパ


 ”Sound,Sound,Your Instruments of Joy” by WATERSONS

 押し詰まりまして、と言うやつで。もう日付けもここまで来てしまうとどうにもならん、という気がする。まあ、時間なんてハナからどうにもならないものだけど、それにしても。
 いっそのこと、このところひかえていた酒でも飲んでボロボロに酔っ払ってみようか、なんてふと思う深夜。雨が降っている。そのおかげで、もう二日続けて日課のウォーキングに行けていない。なんか気持ちが悪い。

 ちょっと話題は古いがクリスマスの翌日の街を車で走り抜けていて、疲弊した街そのものが師走の空気の中でホッと一息ついている、その声が聞こえたような感触があった。

 気の早い連中は秋風が吹き始める頃からもうクリスマス商戦を開始して、お調子者たちの心を煽る。バカ騒ぎはやむことなく、そのまま12月まで走り抜けるのだが、さすがに日付け上のクリスマスが終わってしまっては、どうにもならない。あとは、「初詣は西新井大師へ」なんてCMが流れるにまかせるだけだ。
 ここにいたって、やっと休息を得た街は、無理やり追いやられた激走からやっと開放され、静かに時の流れに身をゆだねている、そんな風に思えたのだった。

 というわけで、「クリスマスが終わったのなら、安心してクリスマスの話が出来るな」とか他人には良く分からないであろう理屈で取り出したのが、ウォーターソンズのこのアルバムである。が。

 ありゃりゃ。これ、長年、クリスマスアルバムと信じ込んできたけど、特にそういう趣旨で作られたものでもないんだな。ただ、冒頭の曲がクリスマスを寿ぐ曲だというだけで、その他は聖歌賛美歌のタグイを集めた、それだけのアルバムだったんだな。まあ、用途としては似たようなものだから、そう信じ込んできたんだろうけど。

 ウォーターソンズといえば英国民謡界に、その渋い渋い無伴奏のコーラスを売り物に、いぶし銀の輝きを放ちつつ屹立する名門である。
 まあ要するに兄弟姉妹で英国民謡を歌うファミリー・コーラスなのだが、そのディープなハーモニーの響きは英国民謡の核のあたりにド~ンと鎮座ましましていて、彼らの名を出せばうるさ型のファンもハハーッとひれ伏す黄門様みたいな連中。

 今回、このアルバムで歌われているのは、先に述べたように聖歌集、それも巷間、庶民の素朴な祈りを込めて歌われてきた、民衆の手のぬくもりが伝わってくるような歌たち。信心深い人たちがあまり熱心に磨くものだから顔の造作が磨り減っちゃったお地蔵様、みたいな感触の素朴な祈りの心が伝わってくる。

 なんでも、ここで聴かれるコーラスのスタイルが移民たちによって新大陸に持ち込まれ、そいつの影響下で、まだドレイの地位に置かれていた黒人たちがゴスペルのコーラスのスタイルを作り上げたんだそうで、そういう興味で聞いても意義あるアルバムである。渋過ぎだけどね。

 このアルバムをこんな風に地味な気分で聞いていると、過酷な運命に翻弄され、でもじっと耐え続け、生活を築いて来た、名もない庶民のパワーが地の底から湧いて出るのを見るようでもある。形は賛美歌なれど、言葉少なく地道に働く庶民の労働歌である。
 賛美歌と言えど華美に走らぬ、そんな無骨さがウォーターソンズの、そして英国庶民の、矜持の輝きとなって灰色の空の下に屹立している。
 そいつを見上げつつ、時の流れにまた一つ耐えて行く。
 

ロシアン・ルーツロックの女神

2007-12-27 03:28:10 | ヨーロッパ


 ”Девушкины песни(The Girl's Songs)”
           by ПЕЛАГЕЯ(ペラゲーヤ)

 ロシア・ポップス界で実力派の呼び声も高いペラゲーヤ。
 彼女はロシアのポップスやロック界と民謡の世界と、何股もかけて活躍する多彩な才能の持ち主とのことで、楽しみに聞いてみたのだ。

 なるほど、冒頭の曲など、エレキ・ギターのアルペジオに導かれて始まり、やがてザクザクと刻まれる生ギターとパーカッションが織り成すリズムがいきなり快感だ。なんだか”ロシア風の70年代アメリカ・サザンロック”みたいな陰りのある重たいノリが快い。

 毎度ロシアのポップスと言うと硬直した表情のエレクトリック・ポップスの作りが多くて辟易しないでもないのだが、このアルバムはキーボードよりはギター、打ち込みのリズムよりはドラムスの響きが際立つ音作りで、その広がりある世界が嬉しい。

 もちろん主役のペラゲーヤのボーカルも自由自在の飛び回りようで、ロシア民謡調のロックを歌っていたかと思えば終盤はイタリアのオペラの歌曲にいつのまにかなって、そのまま終わり、なんて人を食ったところも見せる。

 5曲目の、効果音的に鳴らされるパーカッションを除けばほぼ無伴奏で歌いだされる”詠唱”ってな雰囲気の曲もひときわ印象深く。彼女の本領発揮らしいロシア民謡で、なるほど根の深い歌唱で聴きごたえがある。
 しかし、なんだか日本語の歌詞をつければ日本民謡にも、英語の歌詞をつければブリティッシュ・トラッドにも聞こえそうな曲だなあ。根に至れば通ずるものはあり、と言うことか。

 全体に、もともとの彼女の出自らしいロシア民謡の素地を生かしつつ、完全にロックを自家薬籠中のものにしていて、獲得したその広い世界の中で生き生きと彼女独特の表現を繰り広げてくれる、このあたり、ロシアのルーツロック誕生!みたいで、こちらのようなワールド物好きには嬉しい存在といえよう。
 なにより終始歌唱に安定感があるんで、ハードなロックの後に感傷的なバラードを歌っても音楽の電圧が下がらなくて良い。

 ステージ映像など見ると、ビジュアルも音楽も、かなり民俗調というか土俗調を強調しているようで、地盤ロシアではどのような存在なのか興味がそそられる。というか、スタジオ録音ものでもあのくらいどぎつくやってくれるとさらに私好みなのだが。

 それにしても彼女、写真の写りようで素朴な村娘にも派手なロックねーちゃんにも辺境のシャーマンにも見え、そしてこのCDのジャケの彼女は、そのうちのどれでもなく写っている。実像はどれなんだ?

フランダース、その他の多湿世界

2007-12-26 05:11:44 | その他の評論


 それは「滅びの美学」なんて立派なものなのか?世界の中心でなんたらとかガッキーの主演でこの間映画化されたケータイ小説とやら、あのへんのゴミみたいな物語を涙を流して愛好する癖も、「滅びの美学」なのか?

 とりあえずこのジメジメメソメソした精神風土に、もううんざりしてるんだが。
 けど、この記事に対応して書かれた他の人の日記は圧倒的に”フラ犬支持”なのなあ。皆、この焼き鳥屋のカウンターみたいにベッタベタの世界が居心地が良いらしい。救いはない。
 
 いっそ人影の絶えた深夜の乾燥機の展示場で、ドライフルーツとか干物とか握り締めて死んでしまったら。天使たちは俺の死体を、ゴビ砂漠とかサハラ砂漠とかへ運んでくれるんだろうか。

 ○「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画
 (読売新聞 - 12月25日 09:14)
 【ブリュッセル=尾関航也】ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。

 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36)。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。

 物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。

M-1グランプリ 2007

2007-12-24 01:34:06 | その他の評論


 ともかく冒頭に出て来た笑い飯をはじめ数組のあまりのつまらなさに呆れ、逆に興味が出て最後まで全部見てしまった。
 「こんなつまらない事やって一千万円もらえるのかよ!?」あるいは、「こんなものが”日本漫才シーンの頂点”でいいの?」という唖然。または、「こんなんで番組成立するのか?」という疑問。

 実際、笑い飯とあとその次の何とか言うコンビ(名前なんか覚えてるもんか)が終わったあたりで番組制作サイドも青くなってたんじゃないかと想像する。「おい、やばいよ、全然笑いが起こらない!」とか。
 それでもそれなりにドラマは起こり、敗者復活組が優勝のサプライズと、何とか番組の恰好がつくんだねえ。不思議なものです。

 でもなあ、何度も奇跡は起こらないし、そもそも毎年、大賞にふさわしい漫才を披露できるコンビが次々と登場するなんてありえないんだから、M-1の企画そのものに無理があるだろう。冒頭のしらけようを思うにつけても、そう確信する。来年あたりひどいことになるぞ、きっと。もう今年、すでにやばかったんだから。

 しかし、あの笑い飯という連中は最悪だなあ、いつも思うんだが。
 ダウンタウンのマッチャンに気に入られてるんだか知らないが、それに寄りかかって何の実績もないのに大御所みたいな気分になってる。漫才やるんだって、気持ちは完全に審査員のほうに向いてしまっていて、「ボクたち、いけてますよね」と審査員連中に媚売ることしか考えていなくて、客を相手に漫才をやっていないんだから、そりゃ受けるわけないわな。

 あと、これに関する他の人の日記を一渡り読ませていただいたが、「漫才は関西固有の文化です」なんて思い込みというか縄張り意識にカチカチになっている人が結構いて、「関西のコンビ以外が優勝すること自体、間違いなのである」と、洞穴にこもって拗ねているのには苦笑させられました次第で。

 ○敗者復活サンドウィッチマンがM1初優勝
 (日刊スポーツ - 12月23日 21:23)
 07年M-1グランプリ決勝が23日、テレビ朝日で行われ、7代目チャンピオンにサンドウィッチマンが輝いた。敗者復活組からの優勝。審査員8人のうち島田紳助、松本人志ら4人の得票を集め、参加コンビ過去最多の4239組のトップに立った。
 サンドウィッチマンは伊達みきお、富沢たけし(ともに33)のコンビ。賞金1000万円を手にした2人は「何も覚えてない。夢見心地」と話していた。

天使とギター弾き

2007-12-22 04:18:14 | 北アメリカ


 ”The Heart of the Minstrel on Christmas Day”by Harvey Reid

 日課のウォーキングは、このクソ寒い状態になっても今だ宵の口に続けていて、「馬鹿じゃねーの、こんな夜風に身をすくめながら歩くなんて健康のためにはむしろ悪いぞ、、暖かい日中に歩けば良かろうに」と自分でも思うのだが、なんとなく生活時間の流れがそんな具合になってしまっているので、どうにもならない。

 と言うわけで物好きにも寒風吹きすさぶ夜の街をウインド・ブレーカー羽織って競歩状態で歩いていると、クリスマスの電飾を飾っている家がずいぶん増えてきているのに驚かされる。以前は公の建物や水商売関係で主に飾られていたが、最近ではまったくの一般家庭でも電飾は普通に飾られるようになっているんだなあ。

 そんななか、キリスト教の教会なんて場所における電飾状況はなかなか味わい深い。「一応は飾っておきますが、世間のにわかクリスチャンと違ってこちらは”本気”なんですからね、軽薄な真似はしませんよ」とでも言いたいような、あくまでも簡素な飾り付けに終始している。それが夜闇の中、孤高の姿を屹立させているのが、逆にユーモラスに見えてきたりする。

 そういえば今日、いやもう暦の上では昨夜になってしまうのか、ともかく何時間か前に歩きながら見たのだが、カトリックの教会はいつも通り地味な電飾が輝いていたのにプロテスタントのそれでは、すべて消されていたのだった。あれって宗派により、電飾を消す日とかあったりするのかなあ?そんな深い意味はない?

 どうも私はクリスマスというのが苦手で、クリスマス商戦で儲けようとて街に景気つけの空騒ぎのクリスマス・ソングなど流れてくると、心に墨汁を流し込まれたみたいな気持ちになってくる。

 いや、「クリスチャンでもないのに、キリストの誕生日が何がめでたい」などとありがちな事を言い出す気もない。では何かといえば。その後の人生を生きてみた結果、自分は子供の頃のように無邪気にクリスマスを楽しみにするには、幻滅ばかりを心に抱え込み過ぎてしまった、というような。これだってありきたりか。

 などとブツブツ呟きながら、ひたすらクリスマスが頭上を通り過ぎるのを待つ。毎年の楽しみはただ深夜のテレビで、”明石家サンタのクリスマス”を見て、他人の不幸話に腹を抱える、そのことだけである。

 と言うわけで。アメリカの白人土俗系ギター弾き、ハーベィ・リードのクリスマス・ソング集など取り出す。

 このアルバムで取り上げられている曲は、純然たる賛美歌から大定番・”清しこの夜”を経て”赤鼻のトナカイ”みたいなお楽しみ曲、あるいはベートーベンの”喜びの歌”や”樅の木”などの周辺曲(?)など、「思いついた曲は全部弾いてみました”みたいなゴタマゼかげんが楽しい。

 リードは、ブルーグラス調と言って良いのか、豪快にスイングするフラットピッキングの切れ味も爽やかな生ギターの早弾きと、アパラチア山系で古くから愛されている小型の自動ハープや軽やかなバンジョーの演奏が看板の、つまりはアメリカン・トラディショナル・フォーク系列のプレイヤー。
 ともかく思い切りの良い演奏をするので、ほぼギター等の楽器一本、または自身の演奏の多重録音と言う出来上がりの地味さながらも、ドライブのBGMに最適だったりする。

 そんな彼の演奏するクリスマス・ソングは、素朴な庶民の祈りの心がシンプルにストレートに表出された好盤で、こうなってしまうと宗教上のあれこれは超えて、普遍的な祈りの音楽と感じられ、車をのんびり流しながら聞いていると、彼と心臓のリズムを、タイミングを共有するような、あったかい気分になってくるのだった。さしも、クリスマス嫌いの私でさえ。

 そんな次第でこの先一週間足らず、私はこのアルバムのお世話になるのであろう、今年も。