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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

風は知らない

2008-05-20 05:23:05 | 60~70年代音楽


 人生にはさまざまな局面がある。その一方の極限はトイレで用を済ませた直後、ズボンのファスナーにオチンチンの皮を挟んでしまうことだろう。これは進退窮まる。

 どうするったってファスナーを押し下げてオチンチンを責め苦から開放してやるしかないのだが、しっかと皮に食い込んだファスナーを動かすのは痛いだろうなあと当然予想はつき、容易に決心はつかない。男なら誰でも一度はやったことがあるはず、と言いたいところなのだが、いや、そう決まったものかどうか。まあ、とりあえず、私には経験がある。それも、いくらなんでも、と言った状況下に。

 あれは高校3年の春だったと記憶している。放課後、下校しようとして私は、ちょっとオシッコしたくなったので下駄箱の隣にあるトイレに入ったのである。そこは、男子トイレの”小”をする場所に曇りガラスの嵌められた窓があり、オシッコしながら微妙に外が見えるようになっていた。さすがに場所が場所なので窓は全開にはならず、外の様子はちょっとだけ開けられたガラス戸の向こうに見えたり見えなかったり、と言ったところである。

 そこで私は用を済まし、さて、とズボンのファスナーを上げたのだが、これがどういう成り行きだったかオチンチンの皮に食い込んでしまった。うわっ、こりゃ困ったな、とファスナーを下げようとしたのだが痛くてできない。とはいえ、そのままにしておくのも痛いのに変りはなく、ええいどうすりゃいいんだ、こんなザマを晒しているのを悪友たちに発見されたらえらい事だぞと焦れどもいかんともしがたく。
 
 その最中。窓の向こうで聞き覚えのある声がした。それはなんと、私がその頃、”これはちょっと注目ではないか”と意識しかけていた隣のクラスのM子と、生徒会でなにやら役をやっている、学生運動の闘士で何かとうっとうしいTだったのだ。おやおや、なんて組み合わせだい。

 ファスナーのもたらす激痛と戦いつつ二人の話を聞いていると、さらになんてこったい、どうやらTがMに思いを告白などしているようなのだ。おいおいTの奴、政治の話が大好きでえらく堅物のキャラ設定で行ってるくせして、M子みたいな、おとなしそうでいて実は男から声のかかるの待ってそうなタイプが好きなのかよ。おいおい。などと意外に思いつつ、ええいくそ、ここで思い切ってファスナーを下げてしまおうか、このままドツボにはまり続けていても埒があかないものな、ええいくそっ!

 ・・・と私が渾身の力を込めてファスナーを押し下げるのと同時に、M子はTに対し、交際をOKする言葉を口にしたのだった。

 私はファスナーのアギトから救い出したオチンチンをパンツの中に納めた。皮が破れて出血、と想像していたのだが、そちらはどうやら無事だったようだ。そして。股間の痛みにガニマタとなってトイレから出た私が見たのは、なにやら親しげに話しながら下校して行くM子とTの後姿だった。
 校門を出ると、薄汚い感じの青空がドヨ~ンとどこまでも頭上に広がっていた。
 高校の前を通る国道を、土埃を上げて何台も何台もの建築資材を積んだトラックが走り過ぎて行った。

 どこからか当時流行っていたグループサウンズの”タイガース”が歌う、「風は知らない」というフォーク調の歌が聞こえてきた。そうかあ、あれが俺のブザマな青春の思い出の一曲になるんだなあ、などとぼんやりと思ったものだった。その通りになったのだったが。

 しかし人生、何があるやら分からんよ、あなた。あなたが愛の告白を受けている、その同じ場所、同じ瞬間に、オチンチンの皮をズボンのファスナーに挟んで悪戦苦闘している男がいて、しかもその男もあなたをにくからず思っている、なんて事だってあるんだからね。

 ”昨日鳴る 鐘も明日は無い 大空の広さを 風は知らない~♪”ってかぁ・・・

地中海が聞こえてくる

2008-05-18 03:06:55 | ヨーロッパ


 ”CHE IL MEDITERRANEO SIA”by Eugenio Bennato

 60年代から活動を続けている伝統あるナポリ民謡復興グループ、NCCP(Nuova Compagnia di Canto Popolare )のメンバーだったこともあるエウジェニオ・ベンナートのソロ・アルバムである。2002年作。
 実は何作かある彼のアルバムを聞くのはこれが初めて。そのキャリアから考えて、またマンドチェロを抱えた渋いジャケ写真からも、おそらくはNCCP時代から継続するイタリア南部の民俗音楽探求の旅、みたいなものであろうと内容を想像していたのだった。

 が。音を聞いてみれば、まあ確かに民俗音楽をベースの音作りに違いはないのだが、結構メロディラインなどにポップなものも内包する堂々のシンガー・ソングライターぶりで、意外だったのだ。
 収められているのはすべて彼の作曲になるものなのだが、どれも上手い具合に南イタリアの音楽風土を生かした、泥臭くもある種神秘的な響きを持つおいしい曲ばかりなのだった。

 彼はこの時期、”タランタ・パワー”なるプロジェクトを立ち上げ、南イタリアを中心として南欧すべてにアラブ世界やアフリカまでも含む地中海新音楽創造の試みを実行に移していたようだ。
 このアルバムもその構想の一部として製作されたもののようで、確かに録音メンバーにも黒人やアラブ人のミュージシャンが加わり、各地の民族色濃い音を聴かせている。

 ことに、各人種入り乱れた女性コーラス陣の、時に地中海の陽光が降り注ぎ、時にサハラ砂漠の風が吹きすさぶ、ザラザラした手触りの力強い歌声が印象的だ。
 それらをバックにしたベンナート本人の歌唱は、あの天高く鳴り響くようにナポリ民謡を歌い上げていたNCCPのメンバーだったのが信じられないくらいの落ち着いた内省的なもの。しわがれて呟くように、やや斜に構えた様子はイタリア名物(?)の、チョイ悪オヤジ的風情も醸し出す。

 各所に配された、汎地中海的とも言いたい民俗楽器群の響きの間をユラユラと彷徨うように歌を紡いで行くベンナートに、ふとヴィスコンティの映画”異邦人”におけるマルチェロ・マストロヤンニの演技など重ね合わせてみたりしたのだった。
 こうして聞いてみるとタランタ・パワー、確かに興味深い試みで、NCCP以後のベンナートの動きも真面目に追っておくべきだったと今頃になって思い知ったりしている次第である。

世界の合言葉は森

2008-05-16 04:16:13 | アフリカ


 ”LIVE EN HOLLANDE”by FRANCO ET LE T.P.OK JAZZ

 アフリカン・ポップスの総本山とも言われるコンゴ(当方としては呼び馴染んだ”ザイール”という旧国名でないとしっくりこないんだが)のルンバ音楽。我が国では、その使用言語名を採って”リンガラ・ポップス”なんて呼ばれているが。
 概要を言えば、アフリカに先祖がえりしたアフロ・キューバン音楽がアフリカ的洗練を経て独自の表現を獲得したもの、とでも言えばいいのか。サハラ以南、ブラックアフリカ全土で愛好されている汎アフリカ的大衆音楽となって久しい。

 これはその巨大な音楽体系の頂点に、その生成期からまさしく君臨していた偉大なるミュージシャン、フランコと彼の楽団が80年代初めに行なった、ヨーロッパにおけるライブ録音である。
 フランコも楽団もまさに何度目かの絶頂期にあり、また、当時興隆しかけていた”ワールドミュージック”のブームの後押しもあり、異郷であるヨーロッパの地でも、その音楽はまさに横綱相撲の貫禄を見せつつ激しく燃え盛っている。

 名盤と評価も高いこのアルバム、なぜか入手しそこなっていた(まったく違う方面の音楽にでも夢中になっていたのだろう)ので、昨年末の日本盤による再発を歓喜して購入したものだ。

 聞き始めると、気分はまさに赤道直下アフリカ気分だ。アフリカ人特有のモッコリと分厚いコーラスと、各楽器による複雑に交錯するリズムの魔力が奥深い幻惑を演出し、アフリカど真ん中、奥深いイトゥリの森のざわめきにスポンと包まれる幻想に聞き手を連れ去る。
 盤の解説にも書かれているが、ギター弾き8人、歌手だけでも7人を擁する、総勢30人近い大所帯の、しかも腕利きばかりが集まった豪華客船状態のバンドが一体となって強力にスイングするのである。これは豪華な快楽だ。

 快調なダンスナンバーが続いた後に現われる、ひときわ印象深い、語り中心のスローナンバー、”ミゲル”などは、まさにフランコの独壇場といったところで、こんな深い味わいは、もう出せる歌手はいないのではないか。
 かって人類が深い森の中で、木々のざわめきや風の語りかけと共に暮らしていた太古の記憶を呼び起こすような、つややかに交錯するコーラスと果てしなく鳴り渡り響きあうギター群。しなやかに打ち寄せては永遠を謳う複合リズム。生命賛歌の輝きに終わりはない。

 この録音を残してほどなく巨人フランコは、彼自身も「豊かな国は、殺し合いのための武器ではなく、これと戦うための武器を供与して欲しい」と訴えかけていたエイズ渦に犯され、1989年、命を落とす。だが、彼の音楽は今日も、いやこれからもずっと輝きを失うことはない。

古いトルコの街角で

2008-05-15 03:07:21 | イスラム世界


 ”Kraliçeden Nostaljiler”by Muazzez Ersoy

 トルコの民謡調ポップス、”サナート”界の実力者、ムアッゼス・エルソイが放つ、トルコ歌謡の歴代名曲集とか。オールタイム・ヒット集と考えたらいいんだろうか。そもそもが彼女は、懐メロ曲を近代化されたアレンジで歌って人気を博している人とも聞いている。

 弓が弦に当たるキュッキュとした感触までもが伝わってくるような、緊迫したストリングスに導かれて始まる荘重なアラブ・ポップスが冒頭を飾り、それに次ぐのはギリシャ風の広々とした海の広がりが目の前に浮かぶような、光溢れる地中海ポップスと、多彩な曲調の展開が楽しい。”分かりやすいトルコ古典音楽”のショーケース的な感じもあり。

 余談だけれど、トルコ語も日本人としてはいろいろ引っかかる響きの多い語ですな。ここでも、”昼間の珊瑚礁で下痢やぁ~♪”とかいう空耳アワー(?)など差し挟みつつ、アルバムは進行する。

 民俗楽器を中心にコンパクトにまとめられたアレンジを施された、トルコの人々にじっくり時間をかけて愛されて来たいくつものメロディを聴き進んで行くと、古いアラブの街角、庶民の暮らしのただ中にさ迷い込んだ気分になってくる。市場の物売りの声、翳り行く石畳の道、トルコ名物の羊肉料理の匂いなどなど。

 そんな気のおけない人々の暮らしの手触りが、温もりが込められた作品集なのである。アラブ伝統のメロディと、我々日本人には”歌謡曲的”と認識可能なメロディが交錯する瞬間がスリリングでもある。

 それにしてもコワモテというのか、気高く張り詰めたテンション高い歌い方をする人で、トルコにはこういう人はよくいるけれど、たまに見る彼女の、若作りのセクシー・アイドル系のグラビア写真を思い起こしつつ聞いていると、なんか鞭持って責め立てられてる雰囲気もあり。
 私には良く分からないけど、そういう趣味の人にはたまらないか?いや、そういう趣味がなくとも十分興味深いトルコの伝統派ポップスの傑作ですが。
 なんという締めの文章だ、おい。

ベトナム・ルーツポップス最前線

2008-05-14 04:46:04 | アジア


 ”Biet Dau Nguon Coi”by Thanh Thao

 ベトナムの伝統系ポップス界の若手実力派シンガー、という位置付けでいいのだろうか、この人は?ベトナム・ポップスはまるで詳しくないのが非常にもどかしく思われる。こんな痛快な出来上がりのアルバムに出会ってしまうとね。
 ともかくめちゃくちゃに出しにくい構造の紙ジャケからCDをやっとのことで引っ張り出し、飛び出してきた音に、こりゃ一本とられたなとのけぞった私なのであった。

 ここで歌われている歌はジャンル的には”民歌”と呼ばれるものらしい。さっきネットで知った。民謡調の流行り歌、程度のニュアンスだろうか。
 実際、ここに収められたような歌を伝統的なアレンジでじっくり歌ったら、しみじみとベトナム田園風情にひたれるのどかな音楽に仕上がっていたに違いない。ところがそいつがここではとんでもないぶっ飛んだアレンジを施され、かっこいい民俗派ポップスとなっている。

 泥臭いのか洗練されているのか、どちらとも取れる不思議なニュアンスのタィン・タオ嬢のクールで諧謔味を含んだ歌声に絡むのは、ベトナムの民族楽器群ともうやりたい放題というべき奔放なプレイを聞かせるエレキギターを中心とした電気楽器群。
 テクノの要素もあり、ヒップホップの影響もあり、ラップも紛れ込み。それらが特に気負いもなしに”ベトナム民歌”と自然に融合し、泥臭くて洗練されていてルーツ音楽でありながらシュールにお洒落、なんてとんでもないポップスが出来上がっている。

 思わずジャケ裏を検めてしまったのは、こんなに民謡調の歌をクールに突き放して料理できるのは、外国人、それも欧米人かあるいは日本人あたりの手が加わっているのではあるまいかと想像したから。
 が、ジャケのどこにも外国人らしき名前はない。(”キャディラック”とか”ベビィ・ミッキィ”とかいうのは、きっとホー・チ・ミン市の夜のクラブ・シーンをリードする、ナウいにーちゃんたちなんだろうな)

 へええええ~。ここまでベトナムのポップス界が成熟していようとはね。不明を恥じる、という奴だ。今後、もっと注目して行くべきなんだろう、この国のポップス。(2006年作)

三界稔の”奄美便り”

2008-05-12 02:55:42 | 奄美の音楽


 三界稔(1901~1961)

 またも思い出したように奄美話で恐縮です。

 奄美の音楽に興味を持ち、あれこれ島歌のCDなど聴き始めると、まあそのついでと言ってはなんだが昭和30年代に田端義夫が取り上げて”奄美ブーム”を起こすに至った”奄美の島歌”なるものの正体が気になってくる。あれは奄美の民謡とも違うものだし、なんだったのだろう?
 その後、あれらの歌は現地では”新民謡”と呼ばれるジャンルの、奄美ローカルの歌謡曲であると知るわけだが。

 そもそもの奄美ブームの始まりは昭和30年代当時、田端義夫がふと立ち寄った東京は新橋の沖縄料理店で聴いた奄美の歌、”島育ち”に魅せられ、周囲の反対を押し切ってレコーディングする、という形だったようだ。
 その曲のヒットに引っ張られ、奄美や、時に沖縄のローカル・ポップスが当時、中央の歌謡曲シーンで活躍していた歌手たちに取り上げられ、”全国ネット”のヒットとなって行った。”島のブルース”やら”永良部百合の花”などなど。

 これらの音楽がどのように”内地”の人々に受け入れられていったのか、などなどいろいろ知りたい事も出てきているのではあるが、現在までのところ、有効な資料を掴むにいたってはいない。

 なかでも正体が気になってくるのは、そもそもの起爆薬となった”島育ち”の作曲者、三界稔なる人物とは何者かである。
 これまでは「子供の頃に聴いた覚えがある」程度の認識しかしていなかった”島育ち”は、あらためて聴き直してみればやはり名曲といってよく、曲の内に脈打つ、彩なす波を掻き分けて進み行くようなリズムの反復の小気味よさなど、島歌の風情を見事に演出していて憎い限りなのだ。
 また、三界の晩年に世に出た”奄美小唄”の、ほのかにエキゾチックでほのかに切ない、いかにも歌謡曲の”小唄”と言える小粋な味わいに当方、惚れてしまったという事情もある。

 最初私は、奄美以外では無名の、ローカルな活動をしていた音楽家と想像していたのだが、調べてみると第二次世界大戦中、戦時歌謡の”上海便り”の作曲をしていることが分かり、認識を改めさせられるのであった。そのジャンルには詳しくない私も、”上海便り”の”拝啓ご無沙汰しましたが♪”あたりのメロディならなんとなく記憶にある。
 あれれ、結構メジャーな作曲活動をしていた人なんじゃないかと、三界のライフストーリーを知りたく思いあれこれあたってみるのだが、こいつもまるで資料に出会えずにいる。これはこちらの捜査の要領の悪さもあるのだろうけれど。

 田端義夫が奄美の歌謡に出会った際の詳細を知りたいと言う願望はここでも頭をもたげてくる。田端が”島育ち”に魅せられてその曲をレパートリーに加える際、「おや、これは”上海便り”の作曲者の作品じゃないか」などといった驚きはあったのだろうか?
 三界にはそれ以外にも全国規模のヒット曲があるようで、その辺の事情が分からないのがなんとももどかしい。どうやら奄美出身で奄美で生涯を終えた三界であるようだが、青年期から壮年期にかけてはどのような作曲家活動を行なっていたのか?

 奄美の大衆音楽界で重要な位置を占める会社、”セントラル楽器”を創業し、多くの奄美島歌や新民謡のレコードを世に送り出した指宿良彦氏の回顧録のうちに描かれた三界の晩年の姿は、なかなか寂しい。自分の曲の版権を切り売りして戦後の混乱期を生き延びようとする悲しい様子が伝わってくる。
 そして三界の亡くなって後、曲の初出からは23年後の昭和37年、田端義夫による”島育ち”の大ヒットがやって来るのだ。

アフリカン・ゴスペルの世界

2008-05-08 03:43:11 | アフリカ


 ”HIGH RISE ”by OYIND AMOLA ADEJUMO

 タイだったら仏教ポップスのレー、インドネシアだったらキリスト教ポップスのロハニ、パキスタンだったらお馴染みイスラム教神秘主義派の音楽、カッワーリーと、おっと、中華文化圏に散在するお経にフォーク調のメロディをつけて歌い上げるナンマイダ・フォーク(?)も忘れるな。

 というわけで、別に信心深いわけでもないのに、妙に宗教絡みの音楽に惹かれてしまう私なのでありまして、この嗜好がどこから来ているのかいつかきっちり分析してみなければと思っている次第ではあります。
 そうこうするうちに、こんなアルバムが手に入った。ナイジェリアのゴスペル系音楽だそうです。なんかジャンル名があるのやら分かりませんが。

 ナイジェリアのゴスペルというと、80年代、ナイジェリア音楽聴き始めの頃に見て強烈な印象を受けた、かの国の音楽探訪ビデオ”コンコンベ”に収められていた現地の教会の風景です。酷暑の中で炸裂する、アメリカ南部の黒人教会におけるミサをさらに濃厚にしたような激しい叫びとダンスが印象的でした。

 そのようなものが聞こえてくるのかなと予想しながら聞いてみると、流れ出たのはずっと爽やかな音楽。ナイジェリアにおけるキリスト教内部のことは何も知らないけれど、より穏やかな宗派の音楽なのか、それとも、この音楽も”ライブ”となるとあの狂乱の世界に突入して行くのだろうか?

 終始バックに流れるのは、ヨルバ民族の世界では定番のトーキング・ドラムをメインとする打楽器のアンサンブル。最近のフジ・ミュージックに聴かれるようなかなりの高速な疾走感のあるビートがたたき出されている。、しかしかってのフジのような粘り付き、地を這いまわるような重さはないパターンのもの。
 それに軽やかに乗るOYIND AMOLA ADEJUMO の爽やかなボーカル。ずいぶんと洗練された印象で、むしろ猛暑のナイジェリアをクールに吹き抜けるんじゃないかなあ、この音楽は。

 曲想は、アメリカ南部のジュビリーソングというんですかね、こちらとしてもある程度聴き慣れているゴスペル音楽的なもののようでもあれば、古いカリプソに通ずるハイライフ・ミュージックのような、あるいは初期のジュジュ・ミュージックのようでもある。それらの音楽の交差点を浮遊するようなメロディが歌い上げられて行く。
 ヨーロッパとアフリカとアメリカと。大西洋を越え、各大陸を結んで展開された文化の混交が体現されている感があり、この辺はやはり興奮させられますな。

 それにしても敬虔で爽やかで、ある種ゴージャスでもある音楽世界。歌い手はナイジェリアの有名コメディアンを父に持ち、本人も大学も出たインテリとの事で、今日のナイジェリアの、まさに”ハイライフ”な富裕層を象徴する音楽なのだろうか?
 いやいや実はこのような音楽が意外に普通の庶民に愛好されているのかな?などと想像をめぐらすのですが、まあとりあえず、いつか真相を知る日もあるでしょう、と気長にかまえる・・・しかないですな、何の情報もない今のところは。

”正義の勝訴”と、ある違和感

2008-05-07 04:28:51 | 時事


 先日の日曜日、テレビで「薬害肝炎訴訟の20年」ってドキュメンタリーを見ていたわけですよ。これについて、以前私はどこかに書いたことがあるんだけれど。
 裁判結果が思わしくなかった際の原告のコメントに、「今日ですべてが変わる、今日ですべてが報われる、と信じて頑張ってきたけれど」なんてフォーク歌手の泉谷の歌の文句が引用されているのが、なんかぎこちなくて不自然で異様な感じを受けた、というのがその文章の論旨だった。

 今回、そのまとめをドキュメンタリー番組として改めて見てみて、やっぱりその妙な感じってのが拭えないんだな。
 いや、そりゃ、薬害訴訟は大変な戦いであったと思うし、それで勝訴を勝ち取ったのは偉大な出来事だった。それはそうですよ。それはそうなんだけどね・・・
 でもなんか、それとは関係のないところで、どこか納得出来ないな、なんて思いが私の心の底にジワジワ積もって行くのですね。

 たとえば、戦いが進むにつれて、どこにでもいる市井の母親だった人々の言葉使いが変容して行く、なんてあたり。勝訴に向けての戦いのための専門用語というべきか、法律の専門用語は仕方ないとしても、”ある種の党派に属する人々”特有の慣用句を当たり前の顔をして使うようになる、その異様さ、そんなものの話をしている訳ですが。
 あるいは、あんた、そんな歌に思い入れなんかないだろう?と疑うしかない泉谷の歌を引用して、”判決への原告の見解”を語る事の不自然さ、ですね。

 原告の人たちは、本当に自らの言葉で語れているのか?本当に自分の想いで戦えているのか?

 これと比べて良いのか悪いのか分からないけれども、例の光市の母子殺人事件の被告が弁護団が代わった途端に「殺人ではなく復活の儀式」とか「ドラエモンが何とかしてくれると思った」とか、妙な事を言い出した件なども思い出してしまうんですな。
 あるいは、もう昔々の話になってしまうけれど三里塚の闘争の過程で、素朴な農家のおばあちゃんがいつの間にか、”高度な階級意識を身に付けた者”の物言いでテレビのインタビューに答えるようになっていたりする姿に感じた、納得の行かない思いなどにも、それは通ずる。

 まあ要するに。
 あえて良くない表現をするけど、こういう場面って、無知蒙昧だった依頼人がそんな形で”自立”するのを、担当弁護士の先生方が、まるで猿回しの猿が立派に芸をするようになったその様子を顔をほころばせて見ている、高所から見下している、そんな光景が連想されてならないんですがね。

 本当に原告の人たちは”勝った”のだろうか?なんて首を傾げてしまう部分もないではないのですよ。”補償を勝ち取る”というのとはまた別の世界の話をしているんですが。
 なんか、上手く言葉に出来ないんだけれどね。この違和感はどうしても拭えないままだ。

トラウマのジェルソミーナ

2008-05-06 05:31:44 | 北アメリカ


 今頃になって気がついたんだが、先日のペリー・コモのイタリアものアルバムに関する文章も”新大陸の大衆音楽に差すイタリアの影”シリーズの一つといえましょうね。今頃になってリストに加えちゃうが。

 で、あのアルバムの中に「Love Theme from "La Strada"」って曲が収められています。我が国では”ジェルソミーナの歌”と呼ばれていたのではなかったかな?
 この曲、イタリアのフェデリコ・フェリーニ監督の映画、1954年作の邦題「道」の主題歌として知られている。音楽はニーノ・ロータ。
 名作と名高い作品なので、ご覧になった方も多いかと思います。私は見てないけどね。

 フェリーニの映画は好きで結構見ているんだけれど、なにしろ「フェリーニのローマ」を見てファンになったので、それ以前のリアリズム時代(?)には、あんまり興味がない。
 というか。なんかこの映画、子供の頃に、なんとなく伝わってきた評判から、”もの凄く悲しくてやりきれない映画である”ようなイメージを抱いていた。そんな映画が自分の町の映画館の暗闇で上映されている事を思っただけでも、ほとんど恐怖といってよい感情がガキの頃の私の心に湧いたものだった。見るどころじゃなかったんだよ。

 これって、私なんかの世代では、子供の頃に学校単位で映画を見に行ったりしたものなんだけど、あれの悪影響もあるんじゃないかと思っている。
 あくまでも教育の一環として授業の時間を使って行なわれる「映画見学」なのであって、娯楽映画なんか、もちろん見せてはもらえない。”辺地の農村の貧しい暮らしの中で健気に生き抜く子どもたち”とか”原爆症に苦しむ少女の送る日々”なんてのを描いた作品ばかりが選ばれていたものだ。

 小学生の身としては、そんな辛く悲しい映画を見るのは苦痛でしかない。映画が終わって学校に帰る際、コワモテのガキ大将が目を真っ赤に泣き腫らしていたりするのを見るのが唯一の楽しみらしきものであって。いつも映画見学の時間は、映画館の椅子の上で早く時が過ぎないかとそればかり願っていたものだった。

、で、フェリーニの「道」もまた、そんな学校の映画見学の対象となるような性格の映画なんじゃないかと、子供の頃の私は疑ったわけだ。
 なにしろ芸能雑誌とかで紹介されていた映画の紹介が「貧しく粗野な旅芸人に買われて旅をする知的障害のある少女の物語」といったものだったから、こちらとしては、「これも学校の映画見学で見せられるタグイの、死ぬほど悲しい”良質な映画”なんだろうな、見たくないな」と判断するしかなかった。
 また、その映画の主題歌、「ジェルソミーナの歌」の旋律もまた、そんな想像を補填するような哀愁に満ちた、うら寂しい感傷で満たされていると感じられた。

 そいつがほとんどトラウマとなって心の隅にあり続けたんで、オトナになりフェリーニのファンになって後も、この映画は見に行く気にはなれなかった次第。
 今になって映画の紹介を読み返せば、たしかに”ぶっ飛んでしまう”以前のフェリーニの作品とは言え、旅のサーカスが舞台だったり、のちのフェリーニの見世物世界の萌芽は覗えるのであって。
 いや、興味は惹かれるものの、やっぱり見に行く気にはなれません。こうして文章にしてみると、ほとんど八つ当たりみたいな話だが。

 こんな風に幼い子供の心に無用な屈折を抱かせてしまったんだから、当時の教師たちは大いに反省してもらいたく思うのだが。
 まあ、当時の凡庸な教師たちのせいいっぱいの教条主義が、「映画鑑賞の時間に子供たちに見せる映画は社会派の辛く悲しい映画に限る」なんてものだったんだろうなあ。そっちの方がよっぽど貧しいやね、つまり、そんな固定概念を持つことがさ。

 そしていったい今回、何を言いたかったのかといえば。

 あの「イタリアの旅」に収められたペリー・コモ版の「ジェルソミーナの歌」は、コモの明るく優しい個性が、かの哀愁に満ちた旋律に陽気な日の光を大量に注ぎ込んでいて、そいつは私が子供の頃から抱き続けて来た”ジェルソミーナ恐怖”を解凍し、あのメロディを”普通のイタリアの懐メロ”として楽しむ事を可能にしてくれていた、というお話でありました。長いわりに実がなくてごめん。

アトラスの轟き

2008-05-04 02:56:59 | イスラム世界


 ”Les Maitres De La Chanson Atlas 1 & 2”

 この時期に年間ベスト10の話もないものだけれど、この2年続けて”レッガーダ”なる奇天烈音楽をベスト1に選んでしまっている。こんな、世界規模で探しても聴いたことのある人が何人いるやら、みたいな音楽に入れ込んでしまうのも物好きワールドミュージック者の因果と言うしかないのであるが。
 ”レッガーダ”を簡単に紹介すれば、北アフリカはモロッコに在住する少数民族、”ベルベル人”の間で生まれたローカル・ポップスということになる。

 壮大なるアラブの大衆音楽の一支流を成す訳だが、ともかくその前のめりに突き進むごり押しのリズム展開と、歌声にヴォーコーダー処理を施してアラビア風コブシを電気的に作り出す奇矯なアイディアとが相まって醸し出す素っ頓狂な音楽世界には、いやもう一本取られましたと頭を下げるしかない。
 一体明日があるやらないやら見当もつかない音楽ではあるのだが、盛り上がる限りはどこまでも付いて行きますとこちらも根性を決めている。

 で、今回取り上げるのは、そのレッガーダを育んだモロッコのアトラス山系に展開しているベルベル系の民族ポップスを集めたコンピレーション。聴いてみれば出て来る出て来る、さすがレッガーダの親族と括目させられるワイルドなノリを秘めた音楽ばかりで、その名も物々しきアトラス山系の住人たちに敬意を表するよりない。

 ここで、そのそもベルベル人とは何なのだ?と振り返ってみるのだが。

 古くから北アフリカ一帯に住まいしている民族で、その数一千万から一千五百万くらい、とのアバウトな情報を掴んでいる。
 コーカサス系という説もあるが確たるルーツが判明しているわけでもないようだ。ヨーロッパの白人的風貌を持つ者も多いかと思えば、その一方で東アジアっぽい外見の者も存在し、そもそもベルベル人は幼児期に蒙古班を持つなどと聞かされると何が何やらで、お手上げ気分となってしまう。

 そんなベルベル人が、周囲に大量に展開するアラブ系の人々に同化しつつ民族の歴史を展開して来ているというわけである。
 モロッコにおいて彼らは国の人口のほぼ半数を占めていて、ここまで来れば少数民族とも言えないような気もするが、砂漠の果てに峻峰を連ねるアトラス山脈などを住処に選ぶにはそれなりの事情もあったに違いなく、それほど気楽な歴史を生きて来たとも思えない。

 アルバムに戻るが、次々に飛び出してくるのは、民俗音楽と呼ぶには世俗の垢にまみれ過ぎ、といってポップスと呼ぶには素朴過ぎる、アトラス山系の各部族発の大衆音楽である。

 特徴的なのは、寿司屋が出前に使う寿司桶に非常に外見の似た片面太鼓、ベンティールから打ち出されるパワフルな複合リズムで、それに乗って多くは男女に分かれたコーラス隊が同じメロディを繰り返し歌いあうパターンが多い。そのありようは、「あの子が欲しい」「あの子じゃ分からん」などと呼び交わす我が国の遊び歌、”花いちもんめ”など連想させる。いわゆる相聞歌的内容が歌われているのだろうか。

 歌声の狭間を縫って奏でられる、シンセによる安っぽいアラビックなメロディが楽しい。そして、ここでもすでに差すレッガーダの影というべきか、ほとんどの歌声にはヴォコーダー処理が加えられている。
 そもそもがイスラミックなうねりを成すメロディが機械的に捻じ曲げられてさらに歪む、その素朴な退廃美とでも言うしかない世界はやっぱり魅力的で、願わくば”先進国”からの”センスの良い”プロデューサーなどの手が加わり、この混乱世界につまらない洗練などが加えられることのなきよう祈るばかりである。

 というか、入手困難な地球の裏側のローカルポップスの話であって、この先も新譜がなんとか手に入り、この音楽の更なる行く先を聞き続けられますようにと、そっちの方を祈っておくべきかもな、であるのが苦しいのだが。