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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

伊藤博著『萬葉集 釈注一』より巻一を読む

2006-01-15 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
表題部分215頁を一応読んだ。色々歴史の勉強にもなった。巻一は、舒明皇統系(舒明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、元明天皇等)の世を大きくは寿ぐ歌の集成である。伊藤博さんは親切にも皇統系図(50、51頁)や諸種地図(紀伊75頁、近江99頁、明日香・吉野113頁、藤原宮造営木材運搬経路図155頁)を掲げてくれているので参照して理解しやすい。又、先にも述べたように(ブログ1月5日、12日参照)一首一首を取り上げるというより、歌群、システム・構造として「萬葉集」を捉え、かつかなり自由な解釈もされているので、伊藤釈として楽しめる。詠まれた場所・空間は、都としての明日香、大津(天智天皇時代)、明日香(天武天皇時代)、藤原京(持統天皇以後)、奈良の都のほか、行幸地として難波、伊勢、紀伊、三河、近江、吉野等がある。「にぎたつ」という松山の辺りもあるし更に遣唐使のことを入れると唐の国も含まれよう。巻一の終末は、元明天皇(天智天皇の皇女、草壁皇子の后、女帝)が藤原京から平城京に遷都した状況が反映しており、最後の84番歌が、唯一遷都された710年以後の奈良時代のものである。
寧楽の宮
長皇子(ながのみこ)、志貴皇子(しきのみこ)と佐紀の宮(さきのみや)にしてともに宴(うたげ)する歌
秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿鳴かむ山ぞ 高野原の上
右の一首は長皇子。
長皇子は天武天皇の皇子、志貴皇子は天智天皇の皇子で従兄弟である。二人とも奈良時代に入ってすぐ715年頃に亡くなっている。
伊藤博さんは、上に「右の一首は長皇子」と注記がある点を捉え、また「志貴皇子と佐紀の宮にしてともに宴する」なら本来、ここに志貴皇子の歌もあってもおかしくない、との考えを示し、仮説として元々あったのは有名な巻八の冒頭歌の「石走る(いわばしる)垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」ではないか、と言っておられて興味深い。私の疑問として残るのは、現在の「高の原」は、長皇子のこの巻一最終歌、正に奈良時代最初の歌から命名されたのは良いとして、佐紀の宮(さきのみや)が「高の原」の近くにあったのかどうか、ということである。仮に、その宮が現在の奈良市佐紀町付近としたら少し離れている、つまり平城宮の北が佐紀町で、その北が歌姫町、そして平城相楽ニュータウンとなる。まあこれ位は「近い」と認識すれば問題はないが・・。