「男の性欲」を自然化、本質化せずに性風俗、AVなどについて考えること/女性のBL趣味、「推し活」などについて
セックスワーク論者の欺瞞と「男の性欲」の自明視
買春、性風俗、AV、ポルノ、痴漢、レイプ、不倫・浮気…どの話でもすぐに男の性欲の本質化、自然化がなされる、あるいは前提にされる。
実際は動機の語彙だったり正当化・合理化の方便だったりに過ぎず、性差別意識、支配欲、権力欲、破壊衝動、ストレス、現実逃避などが働いている。問題はそれらがどうして性的行動の形を取るか、女性の対象化・モノ化という形を取るか。それはジェンダー秩序/規範/慣習の下で学習され反復、強化されているし、条件付けがされているのであって、本能としての性的欲求の水準ではなく、構築的な性的欲望の水準。
そして、AVや性風俗業も、様々な性的表現も、否「ふつう」の作品、番組等から日常会話や習慣に至るまで組み込まれているメッセージもその再帰的な構築に作用する。だから、もはやどこが起点か、本源かという探索は意味をなさず、どこをどう変えていくかが、性被害をなくすために、性的関係や性的行動に係る暴力性・加害性・非対称性を排除するために、必要なこと。
「男の性欲はそういうものだから仕方がない」ではなく、そう思ってしまう、そう言われてしまう自明性こそ俎上に乗せ解体していかなければならない。問題は「性欲をどうやって抑えるか」ではない。だから、禁欲とか性道徳とかの次元で考えることに意味はないしむしろ有害。男の性にまつわる認知、思考、行動が孕む非対称性、権力性、支配性、攻撃性、衝動性、暴力性、加害性…を当然のもの、自明のものとしてどう対処、対応するかという問題設定から抜け出すこと。
AVや性風俗等で「性は人間の本質」のようなそれ自体は正しい話が、本質、自然であるものとしての男の性欲、性的幻想に応えるという話にずらされ、当然のように接続され、それがAV、性風俗等の意義であり仕事の誇りであり…というストーリーがしばしば語られるし、当事者が取り込んでいく。それ自体が性的幻想の効果であり再帰的に強化していくものであるし、そうして男の性欲が自然化、本質化されていく。この循環に切れ目を入れ、断つということ。
人間の性は幻想と切り離せず、その幻想が性的主体を構築し、欲望を構築、刺激する。性的眼差しを構築する。その性的幻想は無から、歪みのないところから紡がれるものではない。生まれてこの方置かれてきた環境、目にしたこと、耳にしたこと、経験したこと、晒されたこと…に影響され制約されながら築かれていく。だからこそ、知識という意味だけでなく異なる複数の視点を得ていくという意味で性教育の重要性があるし、大量の種々雑多な情報に晒される中で継続的に学び直し、自分の「当たり前」を疑っていくことが必要になる。
そのことはAV、性風俗等々でも同じだ。「人間の性はこういうもの」「男の性はこういうもの」を自明のものとし、それを前提として「セックスワーカー」の地位や権利を考えるのではなく、所与とされている前提から問い返していくこと。
もちろん、すぐには大きな変化は現実的には起こらないし、上に述べた通り性産業の中で完結する問題ではないので、現状において客や業者などに対して当事者の権利を守ることや当事者が社会的に差別、偏見に晒され制度や行政サービスから排除される状況を改めることは必要だ。でも、それが現状を肯定し強化する傾きを持つことには自覚的であらねばならない。
その意味で、AVや性風俗等における被害の訴えを否定したり、「そんなケースばかりではない。一般化するな」と矮小化したりするのではなく、それを受け止め、なぜそれが起こったのかを問い、必要な取り組みを考え、実行することが不可欠だ。
同時に、AVや性風俗等を考えるにあたって、自由意思か強制かの二項対立は意味をなさない。明白な強制や騙しだけでなく、様々な事情で選択肢がなく就くこともあれば、誘導的なものも含め特定のイメージに基づいて選択することもある。そして従事した以上、自分の「選択」を否定しないため、ひいては自己否定に陥らず自分を守るために、遡及的に「自由意思」「主体性」のストーリーを紡いで自分のものとしていくこともある。
「他に選択肢があったらやっていなかった」も「それでもやっていた」も中立的、静態的な言明ではなく、一連のプロセスの中で揺れ動き、遡及的に構築されあるいは更新されていくものだ。もちろんそこには、以前の虐待、性被害などの体験、トラウマなどが作用している場合もあろう。選択肢を持てるか、それぞれの選択肢の正負の効果、影響を理解しているか。二者択一を突き付ける、あるいはどちらかを頭ごなしに否定してみせるのでなく、特定の誰か、特定の側の意見や視点だけに支配させるのでもなく、当事者が選択できること。ただし「自己責任」の問題に切り詰めず選択の過程と結果を支えること。
実際、民間の若年女性支援活動で行われているのはこういうことだ。中には「売春や性風俗をしているなら支援しない」とか、無理やり、性急に「足抜け」させようとか、そういう例もあるが、多くは長期的に支える、揺れ動きに寄り添っていくということを大事にしている。そういうところにすら、セックスアーク論者などから「セックスワーカー差別」「性道徳の押し付け」といったレッテル貼り、バッシングが繰り返されてきたことは問題だし端的に誤りだ。性産業における被害を取り上げ問題視するだけでそうなってしまうというのはあまりに歪んでいる。
セックスワーク論者が、叩きやすいように、自分たちの主張を正当化しやすいように「仮想敵」を造形して論点をすり替えるというのは前から指摘しているけど深刻な問題だと思う。 そのストーリーを解釈枠組みにして当事者などの主張が全く歪めてまとめられ攻撃されるということが繰り返されている。それがアンフェのエサになっているし、性差別的、搾取的な業者や客、消費者を喜ばせている。
部分部分には納得できる重要な指摘もあるのだけど、論点すり替えが重ねられながら構成されているストーリーで、読んでいてクラクラする。
ストリップ擁護が隠すもの
今度はストリップで騒がしいけども、ジェンダー非対称性、男の視線/性的視線、見る-見られるというストリップの成立条件と構造をまず捉えるべきだし、興行主や劇場といった存在があることも捨象してはならない。男=見る主体ー女=見られる客体という初源と反復を通じてストリッパー=演じる主体が立ち上がるというメカニズムを無視して、主体性あるプロとしてのストリッパ-に焦点化するのは欺瞞的だと言える。「AV女優」「セックスワーカー」も同じだが、この「主体化」のプロセス、メカニズムを透明化、所与化する議論には致命的な欠落がある。
なお、このことはアイドルなど「見られる」職業にも当てはまる論点であり、そこに分け入ったのが田中東子『オタク文化とフェミニズム』であるし、そこでも性的消費、性的幻想の問題が生じているのだが、芸術性・技術性云々の前に前提条件として性的視線、性的幻想、性的消費があるのがストリップであり、粗雑な議論、論点すり替えをするべきでないことは当たり前。
もちろん、性風俗業同様、公権力が恣意性、二重基準を以ってコントロールし、介入することや、特に、不利益をもたらす時だけ性道徳、公序良俗に訴えることの欺瞞性については大いに問題がある。もっと言えば、平常時においては公権力こそが性差別を是認・放置し、その管理を通じてある種の利益を得ている。その矛盾も問われなければならない。
ストリップでもAVでも性風俗等でも、女性は主体という自己意識で振舞っている一方で、男の側は専ら性的に眼差し、性的対象物/モノとして扱っているという二重性がしばしばある。もちろん、男は男でそれを否定し性的動機以外のストーリー、幻想を貼り付けもするのだし、性的以外の動機で性的対象物/モノ化することも少なくはない。
いずれにせよ、女性に主体意識、自由意思があることのみでこの場面が正当化されるかと言えばそうではない。まさに女性のそのようなあり様が客・視聴者や業者から「搾取」され(exploit=付け込まれ)、管理されていると言えるからだ。
女性が売る=買われる側、見せる=見られる側であり、支払われる側であることが圧倒的多数であるという、歴史的な既成事実でしかないことが、それ故に反復されますます前提化、所与化、自明視されてきたということを不問にし続けることに正当性はなく正義に反する。
セックスワーク論者や表自がすぐに非難の矛先を向ける「性道徳」とはまずもってこの不正義を再生産し続けているものであるのだ。その意味で、道徳保守と裏で共謀しているのは彼らの方ではないかという問いが成り立つ。
セックスワーク論者の暇空問題への加担
「まずは当事者の権利を守るべきだ」と言われたらその通りだし、誰も反対していない。むしろ、積極的に主張されているし、女性支援団体などは実践的にやっている。その女性支援団体などを叩いてきたのがセックスワーク論者や表自だし、団体や当事者が現場の問題や被害事例を指摘すると、それを「セックスワーカー差別」だ「AV女優差別」だと話をすり替えて叩く材料にしてきた(支持者・擁護者の中に差別意識を見せる者がいることは事実だが当の団体はそうではない)。暇空問題に直接、間接に加担、同調した者も多い。
暇空らは「コンドーム配布」しかりホスト問題への取り組みしかり、まさに「セックスワーカー差別」やミソジニーを露にして団体や若年女性当事者を叩いてきたが、それに対してセックスワーク論者や表自が批判や異議を述べたことはまずない(少なくとも主要な者たちからは出ていないはずだ)。これは看過できないダブルスタンダードだ。
仮想敵・仮想の論点を立てたり、論点や文脈、階層をすり替えたり、レトリカルなズラシや変換を用いたりとあらゆる方策を用いて、女性を性的対象物/モノとすること、性を商品とすることを正当化、合理化しようという感情、欲望をまず問うこと、向き合うことが最初のステップなのかもしれない。
「AV新法で地下化」の歪曲
AV新法などで言われる「規制と地下化」というのは多分に予言の自己成就の側面があるのと、実際に観察された事象についてそのストーリーありきで因果関係が構築される誤謬が大きい。
「地下化」が叫ばれるほどそのストーリーが加害者、搾取者に利用されて、対象選定と勧誘に使われる。「仕事がないから、稼げないから地下化」ではなく「『仕事がない』『稼げない』という不安が煽られて地下に誘われたり自ら近づいてしまったりする」という経路に平、要、月島らも事実上加担していることにいい加減自覚的になるべき。
仮想敵と仮想の論点を立てて騒ぎ叩くことが結果的に当事者の不利益や危険につながる。もっと言えば、「地下化」の被害者が出ることはそういう者たちにとって都合がよい。自覚的ではなくても、そういう顛倒によるプロパガンダが延々繰り返されている訳で、確信犯と同等の責任があると言える。
これはこれで断片的、一面的な記事なのだが、あるポイントはついている。要は、「高報酬」「海外の方が稼げる」といった誘いで「スカウト」してくる者たちは前からいるし、それが彼らにとっていい儲けになるということ。AV女優や性風俗従事者などもSNSを駆使して自己宣伝に努める時代だからこそ、海外からのアプローチも容易になっている。
それでだよ、平、要、月島らのロジックからしたら、海外からの誘いに「自発的」に応じて「出稼ぎ」に行くことに、日本でAVに出演したり「セックスワーク」に従事したりすることとは違った問題性を認めるというのは整合性が取れないのではないか。これを「地下化」だなんだと劣ったものとするのはそれこそ「差別」ではないのか?
「海外だから危険」「素性が知れないから危険」というのであれば、なぜ日本国内でのAVや性風俗についての被害の訴えを躍起になって攻撃し、黙らせようとするのか。
暇空、表自らのミソジニー
暇空問題の始まりがフェミニスト、女性への顛倒した憎悪、恨みで、ずっとミソジニー、性差別意識が駆動している。それを含めて自我を防衛したいという絶望的な衝動が根源にあるから、NPO叩き、リベラル叩きなどとも一体化するし、堀口叩きもそう。暇空に同調する者も、どこにより憎悪を募らせエネルギーを注ぐかはそれぞれだが、メカニズムは同じだし、ミソジニー、性差別意識は必ず現れる。言葉上は見えづらく、当然自覚はないにせよ。
暇空たちにしても、表現規制反対派~表自にしても、何でここまでフェミニスト/フェミニズムを憎悪するかと言えば、見たくない、認めたくない自分の姿、欲望、弱さ、無意識を抉り出して突き付けていることに無意識にに気付いているからということもあるんだよね。
それを否認・抑圧して投影し、またエネルギーとして充当するから攻撃性が高まるし、ますます認知・信念が歪む。こうやって再帰的に敵意を募らせていく。BLとか「推し活」とかに関することに過敏に反応しミラーリングして叩くのもそういうこと。
自分と向き合い、他者と向き合い、葛藤し、対峙しといったことの積み重ねがフェミニズムの歴史。フェミニズムの中でも権威性、差別・抑圧・排除といったことが厳しく問われてきた。黒人フェミニストの白人フェミニストへの異議申し立てから提起されてきたインターセクショナリティが強調されるようになったのもその歴史を表すもの。
そういうことを無視し、それ以前に知らず、知ろうともせず、戯画化し悪魔化して叩くだけなのが暇空たちであるし、表現規制反対派~表自がずっとしてきたこと。自分自身のことは一切問わないし向き合わない。
まずもって心底怒りを覚えるのは暇空らのこのグロテスクさなんだよ。歪み、顛倒した誇大感と被害者意識。その反省なき発露。
BL、「女オタク」、「推し活」……田中東子さん叩きの醜悪さ
最近では田中東子『オタク文化とフェミニズム』だけでなく、堀あきこ・森如子編『BLの教科書』、香月孝史・上岡磨奈・中村香住編『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』といった重要な書籍が出ているし、高橋幸さんなども重要な論考や記事を出している。
女性と性(的)表現、女性が性(的)表現を描き、演じる等すること、女性が読み、見、あるいは享受、消費することについても、フェミニズムはずっと取り組んできたし、特に最近ではBL、オタク、アイドル、推し活といったことについて、当事者性を持った研究者、書き手が自身と向き合い、葛藤、逡巡しながら、大事なことにそれを自己開示しながら、真摯に取り組んでいる。
ポルノを規制すると、それが真っ先に転用、流用されてレズビアンやゲイなど性的マイノリティの表現が標的にされる、女性の自己表現、抗議、攪乱としての表現が標的にされるという重要な懸念、批判があり、実際ドゥオーキン、マッキノンの取り組みが道徳保守に領有されてしまった面もある。例えば、バトラーのマッキノン批判はそういう面を含めて衝いたもの(『触発する言葉』)。
文脈を切り離し表面的に捉えれば「わいせつな」「道徳的に問題のある」、その価値判断を離れても「過度に性的な」「過激な」と見られるような表現が、制作者や消費者のマイノリティ性ゆえに、マジョリティの一方的な基準、目線で解釈され断罪される。最近ではLGBTQ+の表現へのバッシングがすぐ起こる。
あるいは田中東子さんの件に限らず、女性のBL趣味、「推し活」、「腐女子」といったことが、男目線で、興味本位で歪められ、重要なことに、《男が解釈権を行使する》形で、叩かれたり揶揄されたりする。ここに常に既にミソジニー/性差別が発動されているし、権力行使がなされている。
暇空問題はバックラッシュの現れの一つで、ミソジニーに駆動されているのだが、結局それは、女性の表現はもちろん、女性が行う活動、女性が受ける支援、女性が発する言葉…のあらゆることについて暇空らが解釈権を行使し、それを正当化、合理化しながら、女性の発話を、行動を封じ込めようとする、信じられないようにするという運動なんだよね。
表現規制反対派~表自がずっとやってきたことも、#MeToo やフラワーデモへの攻撃もそうだし、共同親権運動がやってきたこともそう。また、捩れた形でセックスワーク論者・セックスワーカー差別反対運動もこうしたことに実質的に加担してきた。
もう一つ重要なことは、ネトウヨ、ヘイトは元々ミソジニーと不可分なのだが、これらの動き、流れと表現規制反対などの動き、流れがSNSを主舞台にしながら2010年代を通じてますます重なり合い、つながり合い、合流しあるいは増幅し合うようになってきたこと。
「援助交際」が騒がれた頃の「性的弱者」論から「インセル」、「弱者男性」論へと展開してきた流れもこれと重なる。 兵庫県知事選のことを含め日本国内で加速している事態も、アメリカ、ヨーロッパなど海外で進行している事態も、ミソジニー抜きでは捉えられないし、ジェンダーの視点抜きで対処しようとすることは大間違い。
厄介なのは、「リーンイン」「ポストフェミニズム」は、一方でアンチフェミニスト/フェミニズムの攻撃対象でありながら、他方でネオリベやバックラッシュ状況への適応として進んでいるということ。この捩れた事態がフェミニズム、女性運動にもリベラル、左派にも対立・分断を持ち込むこととなっていて、ミソジニー、バックラッシュに対抗する力が削がれている。
トランスジェンダーを巡る対立・分断のようには目立っていないが、この二つが同時に起こっていることの影響は重大だと思っている。
メタ的な観察としては以上のように言えるのだけど、この状況に対して具体的に取り組み、行動する上でほんと厄介でややこしいのよ。研究者等含め声を上げられない、声を上げることを控えざるを得ない人も多いし。
暇空たちはフェミニズムについて全く無知で、顛倒した憎悪から叩くことありきだから、フェミニストの発言や取り組みを全く理解できず歪めた読解しかできない。だから、暇空たちの言っていることこそ辻褄が合わず、非論理的で矛盾だらけ。でもそれがエコチェンで事実として扱われてしまうし歪んだ認知・信念、妄想が再帰的に強化されてしまう。
それと、疑似相関ですらないことを因果関係として特定又は推定してみせて、断定的なストーリーにしてみせることね。それも吟味、検証されずに事実、真実として拡散され前提化される。Colabo・仁藤さん叩きの最初からそう。
田中東子さんに対して今暇空らがやっていることにはこの両方が総動員されているし、ミソジニーに駆動された妄想、そのストーリーを補強、強化するものとして急速に展開されている。事実の断片がストーリーに選択的にはめ込まれていて、その根幹は妄想。ただただ醜悪で有害。
暇空はBLに対して無知で偏見しかないし女性が男性を見る側だというのが気に食わない。
ジャニーズ問題は批判者にフェミニストなど気に食わない人たちがいるのと、性暴力の告発ということが気に食わない。
天才の自分のnoteを強く批判しプライドを傷つけた上に思い通りにならない堀口さんが気に食わない(元々は東野篤子さんを叩いたら思い通りにならず、批判、嘲笑も浴びたのが気に食わない)。
Colaboなどを叩いたものの一向に勝てずますます不利になっているのが気に食わない。
その堀口さんやColaboを擁護してあれこれいじってくる面々が気に食わない。
こういう身勝手な恨みから膨らませに膨らませた妄想の産物が田中東子さん攻撃。
現実逃避の先を求めて方々に当たり散らかしている時に、都合よく妄想の結節点になったということ。 ただただ醜悪で悪辣。
高橋雄一郎も東浩紀もこんな暇空に乗り続けて本当に酷い。彼らのミソジニーが存分に現れている。暇空に歯止めがないのはこういう支えがあるからということも大きくて、初期に乗った者を含め、議員、弁護士、研究者、言論人、ジャーナリスト、メディアの責任は重いし、未だ乗る者は極めて悪質。暇空問題はバックラッシュの現れと繰り返してきたが、ずっと土壌を耕してきた者たちがいて暇空が暴れられる。
RTが増えたのでフェミニストもいろいろだとかBL研究の最前線を知らないとか反論が寄せられているけど、ぼくが指摘したのは、「日本のフェミニストはオタクを叩きすぎてきたのでそりゃ逆襲にあうよな」というだけの話であって、それ以上の難しい話ではありません。該当研究者さんは気の毒でしたね。
— 東浩紀@巻頭言集2巻本、文フリで発売 (@hazuma) November 26, 2024
これも典型だけど、文脈と理路を捨象したミラーリングというのがフェミニスト叩きの常套手段なんだよね。立場を入れ替えても妥当するかの論とか、「どっちもどっち」論とか、ジェンダー非対称性を全く無視した、それ自体が差別の実践、権力行使。自らの加害者性、差別性を否認し被害者ポジションを取る典型的振る舞い。
暇空のこの読解・理解のおかしさはどう丁寧に説明しても、暇空・暇アノン、表自には理解されない。一応、言っておくと、
・胸を不自然に強調し性的に描いたキャラクターを献血の広告で用いる理由が、特定の男性層への訴求という他に、ないこと(特定の男性層への訴求目的だとしても、不特定多数を対象とする広告手段とは釣り合わない)。
・写真・絵に関わらず、男性=見る主体-女性=見られる客体かつ性的に眼差される客体という構図、構造は性差別的であること。
・その上で、任意に、選択的に購買・視聴等される媒体でも、専らターゲット層が訪れる場所に掲示されるものでもなく、女性を当然に含む不特定多数の目に触れる広告であったこと。
以上の意味でこの広告が問題となったという事実に田中東子さんは言及し、この企画・作成が男性の視点、意見だけで進み、広告を見る側、特に女性の視点が欠けていたのではないかと問うている。極めてオーソドックスな見解。
「萌え絵」に関していつもごっちゃにされるのはここ。
まず、キャラの描き方、構図、設定・ストーリーが性差別的等と否定的評価がされるが、それはあくまで評価であって、その表現・思想そのものや、その作品そのものを規制せよとは誰も言っていない。
その上で、広告等そのキャラが不特定多数の目に触れる形で使われる場面、手段が不適切だと批判、抗議がされる。これをフェミニスト・女性が行うと、その広告等がが訴求する及びそのキャラ、作品を愛好する特定層がいきり立って、「燃やした」と騒ぐ。この繰り返し。



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