先週土曜日、日本のSFとファンダムの大恩人である柴野拓美さんの追悼イベントに出席した。
柴野さんとのご縁については、追悼出版物(「塵もつもれば星となる」)にも書かせていただいたが、中学生時代にカルト的なUFO団体にかかわった時に、柴野さんの批判文を読んで目をさまされたり、同人誌でインタビューさせていただいたり、1982年のTOKON8(第21回日本SF大会)以降、SFファンジン大賞の審査委員長をお願いしたり、日本のUFO研究についておしえていただいたりと、いろいろあった。
考えてみれば、ニコラ・テスラというオカルトに誘惑されがちな題材を扱いながら、なんとか踏みとどまれたのも、柴野さんのCBA批判のおかげだっただろう。お世話になりっぱなしだったが、拙いオカルト批判本(『逆立ちしたフランケンシュタイン』)を上梓し、お褒めの手紙をいただけたのが、せめてものご恩返しになったかもしれない。
追悼イベントでは、弟子にあたる酒井昭伸氏や鍛冶靖子さんが語られた翻訳家としての姿が印象的だった。
柴野さんは下訳を一種の安全弁として使っておられた。これは翻訳には必ず間違いが出るから、安全弁を設けることでそれを極力減らすという東京工大出のエンジニアの発想だとか、物語性の乏しいハードSFは好きではなく、シェフィールドよりはクレメントを好んだとか、ニーヴンと出会うことで、翻訳家を天命と自覚したとか、ほかにもいろいろおもしろい話が聞けた。
他のゲストの方の話も興味深く、あらためて柴野さんの大きさを感じることができた。
生前からSF界の大先達として畏敬してきたが、物書き人生の上では「ハードSFの雄」柴野さんが、わたしのような文弱の徒と交わることは少ないと思ってきた。
ところが故人になって思い返してみると、いかに大きな影響を受けてきたか。あらためて驚くことが多い。もっと早くわかっているべきだったと、われながら情けないが、影響というのはそんなものではないかとも思う。
これからも物書きを続けるかぎり、どこかで柴野さんが顔を出し、叱咤してくれるにちがいない。それを励みに書き続けていこうと思っている。
柴野さんとのご縁については、追悼出版物(「塵もつもれば星となる」)にも書かせていただいたが、中学生時代にカルト的なUFO団体にかかわった時に、柴野さんの批判文を読んで目をさまされたり、同人誌でインタビューさせていただいたり、1982年のTOKON8(第21回日本SF大会)以降、SFファンジン大賞の審査委員長をお願いしたり、日本のUFO研究についておしえていただいたりと、いろいろあった。
考えてみれば、ニコラ・テスラというオカルトに誘惑されがちな題材を扱いながら、なんとか踏みとどまれたのも、柴野さんのCBA批判のおかげだっただろう。お世話になりっぱなしだったが、拙いオカルト批判本(『逆立ちしたフランケンシュタイン』)を上梓し、お褒めの手紙をいただけたのが、せめてものご恩返しになったかもしれない。
追悼イベントでは、弟子にあたる酒井昭伸氏や鍛冶靖子さんが語られた翻訳家としての姿が印象的だった。
柴野さんは下訳を一種の安全弁として使っておられた。これは翻訳には必ず間違いが出るから、安全弁を設けることでそれを極力減らすという東京工大出のエンジニアの発想だとか、物語性の乏しいハードSFは好きではなく、シェフィールドよりはクレメントを好んだとか、ニーヴンと出会うことで、翻訳家を天命と自覚したとか、ほかにもいろいろおもしろい話が聞けた。
他のゲストの方の話も興味深く、あらためて柴野さんの大きさを感じることができた。
生前からSF界の大先達として畏敬してきたが、物書き人生の上では「ハードSFの雄」柴野さんが、わたしのような文弱の徒と交わることは少ないと思ってきた。
ところが故人になって思い返してみると、いかに大きな影響を受けてきたか。あらためて驚くことが多い。もっと早くわかっているべきだったと、われながら情けないが、影響というのはそんなものではないかとも思う。
これからも物書きを続けるかぎり、どこかで柴野さんが顔を出し、叱咤してくれるにちがいない。それを励みに書き続けていこうと思っている。