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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ビヤンカとロシアの夏

2008-10-16 03:14:15 | ヨーロッパ


 ”夏について”by ビヤンカ(Бьянка)

 ありゃりゃ。”夏について”ってタイトルだから夏に聞くつもりだったのに、この盤を買ったことさえ忘れていて、今頃引っ張り出す始末。
 昨年、デビュー盤の”ロシア・ポップスR&B”をこの場所でも取り上げたロシアのファンキー娘、ビヤンカ嬢の2ndアルバムがとっくの昔に出ていたんでした。相変らずエッチなヴィジュアルで嬉しい彼女でありますが、さて、今回は。

 なにやらリラックスしきった感触の、フェイク気味のオープニングに導かれて始まりましたるは、シンプルな、でもちょっぴり民俗調の響きがないでもない打ち込みリズムに乗ったビヤンカ嬢が、ラフな女声コーラスを従えて、前作よりさらにハスキー度を増した声で歌い上げる、”哀愁のロシア歌謡”チックなメロディ。

 目立たない形でバラライカやアコーディオンがオブリガートを奏でます。電気楽器はほとんど気にならない程度に後ろに下がり、アコースティックな響きが強調されたサウンドとなっています。
 前作の、まあ世界中、どこへ参りましても若い人々の流行りものとして聞くことの出来るであろう”R&Bっぽさ”はかなり後退し、全体のベクトルは相当に大きくロシア民族調へとハンドルを切ってますな。

 ひょっとして、本気でロシア独自のR&Bの地平を切り開こうとか志を固めたのではないかなんて思ったりしますが、まあ、なんの資料もないんで、その辺は分かりませんがね。
 この、アコースティックでスカスカ気味のサウンドに乗りシャウトするビアンカ嬢の息使いの狭間からロシアの土の匂いが伝わってくる、みたいな音の手触りは相当に良いです。

 この辺はビアンカ嬢の好みが反映されているのか、それともプロデューサーの意向なのか、そして営業的にそれが成功しているのか、この辺もまったく分からないんだけど、こちらの都合を言えば、この路線で大いに行って欲しい。というか、こんなに私好みの音楽をやってくれるようになるとは思わなかった。

 ともかくイメージは曇天。なにやら迷子みたいな佇まいで、でもやっぱりエッチな衣装は身にまとい、空き地に佇むビヤンカ嬢の姿が音の向こうに浮んできます。
 彼女の髪をなびかせながら吹きつける風が運んでくるのは、遠くの荒原の枯れ草の匂いだったり、大都会からの煤けた工業地帯の匂いだったりします。
 なんとなく行き所のないやるせなさみたいなものがひとしきりわだかまり、そして消えてゆく短いロシアの夏だったりするのでした。
 

夜汽車は今、どこを走るか?

2008-10-14 03:49:40 | 北アメリカ


 ”Jimmy Rodgers ”

 夕食後、寝転がってテレビを見ていたらそのまま寝入ってしまって、目が覚めたら真夜中だった。

 つけっ放しになっていたテレビは深夜のドキュメンタリー番組を映し出していた。若年性認知症に襲われた”団塊の世代”の夫婦の物語。ダンナが40代の終わりに発症したという。起き上がるのもなんだかだるく、そのまま見ていた。
 これからが人生の収穫の時という時点でダンナにそのような状態になられてしまった奥さんの日記が映し出される。彼女の不安と孤独の記録。”明るくなりたい”と、何度も繰り返し書き込まれている。もともとがよく笑う陽気な性格の人だったようだ。

 見ているうちに、「他人の困窮をしたり顔で放送して」とか、突然腹が立って来る。そりゃ、製作者側には「このような現実もあるのだと知らしめるために」とか理屈はあって、怒る私の方が言いがかりなんだろうけど。

 もう深夜一時を過ぎてウォーキングに出るような時間ではなくなっているのだが、歩くのが習慣になっているのでそのままでいるのも気持ちが悪く、深夜の町に出て歩き始める。
 連休の割には深夜に騒いでいる若い連中の姿もなく、空疎な表情の夜の街である。
 まあ、これが普通なんだろうけど、観光地としてはやはり寂しい。街は寝静まって見えても、あちこちの飲み屋では夜更けても盛り上がるのが盛り場ってものじゃないか。

 静か過ぎる夜の街を薄ら寒い気分で歩きながら、先ほどのドキュメンタリー番組を思い出した。私より、ちょっと上の世代の夫婦。私と同じような時代の移ろいを眺めながら、彼らは生活を築いて来たのだ。突然の病がすべてを破壊するまで。
 ここで振り返るのは自分自身の来し方行く末。あれは他人事で済むのかどうか。など。
 何度もぼやいて来たが、昔の仲間はもう誰もこの町に残ってはいない。気の利いた奴らは斜陽のこの街から逃げ出して行き、気の早い奴はもう死んでしまった。

 前回のエイモス・ギャレットの項の続きみたいだが。70年代のアタマに盛り上がった私小説派とも言うべきシンガー・ソングライターたちの音楽が、早くも翳りを見せ始めた70年代の半ば、アメリカのルーツ系音楽をやる連中の間で、戦前のカントリー・ミュージックのスターだった”ジミー・ロジャース”の唄を取り上げるのが小ブームになった事があった。
 あれはどういうことだったのだろう。単なるミュージシャンの気まぐれか。それとも、なにごとか彼らの感性が時代に反応した結果だったのか。

 ジミー・ロジャースはアメリカ南部はミシシッピィ州出身の元鉄道員の歌い手。30代の半ばで、当時不治の病だった肺結核によりこの世を去る。その短い生涯(1897~1933)に多くの歌を残した。
 黒人のブルースやボードビル・ミュージック、はてはハワイアン・ミュージックからスチール・ギターを、ついにはヨーデルまでを自分の音楽に取り入れる雑食性のミュージシャンで、カントリー・ミュージックの表現の幅を革命的に押し広げた。ために”カントリー・ミュージックのバッハ”などとも一部で呼ばれているようだ。

 といっても、歌われる歌詞は、古き南部への郷愁に満たされていたのだが。いや、それは現代の耳で聞いてそう感じるのであって、リアルタイムでは当たり前のご当地ソング、それだけのことだったろうけど。
 ともあれ、今となっては。古めかしく懐かしく、そしてどこか哀切な響きのある古いロジャースの唄は、容赦なく流れ過ぎる時の流れの中で、”70年代音楽の理想”が静かに崩壊して行く、そんな時代を覆った夕暮れ気分に、確かによく合っているようにも思えた。

 ジミーはよく、いわゆるレイルロード・バム、鉄道にただ乗りして各地を流浪する宿無したちをその唄の題材に取り上げた。現実に大恐慌によって住処を失った人々が、仕事にありつける土地を求めて貨物列車に飛び乗り流浪する、そんな時代でもあった。

 リアルタイムでそれらの唄はどのように受け入れられていたのだろう。
 時も場所も遠くはなれたこの地でそれを聴く我々にとっては、その”辛い旅路”はむしろ、胸躍るロマンスの色合いを持ってさえ映る。
 そう、小林旭だって、”ギターを持った渡り鳥”とか、歌っていたものな。くすんだ現実生活に飽いた力無き庶民にとって、行方定めぬ放浪者は、手が届きそうでいて実はどうにも届かないはかない憧れだ。

 ウォーキングから帰って汗をぬぐい、家族、と言っても母親しかいないのだが、すでに寝に就いた母を起こさぬようシャワーなど浴びてから明日の予定に目を通す。つまらぬ雑用が、けれども解決せねばならない諸々が連休の間に溜まっている。こんな事のためにすり減らすべき命であるとすれば・・・
 ギターを抱えて気ままな旅をしていた能天気な若い日を思う。過ぎ去った時間を思う。あのことやこのことが終わってしまってから、どれほどの時間が流れ過ぎたことだろう。あれらの世界から自分は、どれほど遠くに旅して来たのだろう。私の事を覚えている者が、この道の続く向こうに、さて、一人でも残っているのだろうか。

 そういえば・・・番組の途中でウォーキングに出てしまったので、あの後が分からないのだが、あの認知症のダンナと、その世話に押しつぶされそうになっていた奥さんはあのあと、どうなったのだろう?
 どうにもならないのだろうな。あのまま時は過ぎ、症状は確実に重篤になって行き、そう遠くない未来、ダンナは奥さんを自分にどうかかわりがある人かもわからなくなって行き・・・奥さんの孤独は、さらに増殖して行くのだろう。

 我々はどこから来て、どこへ行くのか。

 ふと気が向いたので、ジミー・ロジャースの代表的放浪歌、”waiting for a train”という歌の歌詞を下に訳出してみる。
 もう20年以上も聴いていない唄の、うろ覚えの歌詞をいい加減に訳すのだから、変なところがあったからって文句は言わないよう、お願いしたい。

 ”汽車を待ちながら”

 給水塔に寄りかかり、汽車が来るのを待っていた。
 故郷を離れて1000マイル、夜の駅で雨の中、やっと眠りをとった。
 俺は汽車のブレーキ係にもう一駅乗せてくれないかと頼み、そして彼は
 俺を文無しと知るとただ「出て失せろ」と怒鳴って貨車のドアを閉めた。

 こうして奴は俺を麗しきテキサスに置き去りにした。
 俺の周りにはだだっ広い荒野が広がり、お月様が上がる。
 誰も俺を必要となんかしてないし、手を貸してくれようともしない。
 おれはあのサンフランシスコから、懐かしい南部へ帰ろうとしている。
 俺のポケットはカラッポで心は悲しみで溢れそうだ。
 俺は故郷から1000マイルも離れたここで
 通りかかる汽車を待っている。

 (ジミー・ロジャース作詞、意訳・マリーナ号)


エイモスの陽だまり

2008-10-12 02:11:59 | 北アメリカ


 ”Get Way Back : A Tribute to Percy Mayfield ”by Amos Garrett

 エイモスと言えば、私なんかの世代にはちょっとした伝説のギター弾きで。
 あの頃。というのは70年代の初め頃の話なんだけど。
 あの頃、私小説系フォーク歌手とでも言えばいいのか、髭面でフォークギターを抱えて、放浪とか孤独なんかについてのパーソナルな歌を歌うシンガー・ソングライターたちの音楽がちょっとしたブームだった。

 で、皆は誰も聴いたことのないようなマイナーな歌手のアルバムを”幻の名盤”と噂しあい、探し回ったりしていたものだった。
 そして、そんな”幻の名盤”にやたらと参加してギターを弾きまくり、伝説の名手の呼び名をほしいままにしていたのがエイモスだった。
 ”通好み”の激渋歌手連中に彼のギターのプレイがことのほか好まれたのか、それともエイモスをゲストに迎えてアルバムを吹き込めば自身の作品が伝説化すると歌手連中が考えたのか。ってのは後になって思いついたジョークだが。

 実際、そんな事情をとっぱずして聴いてみても、エイモスのギターはユニークだった。ブルースの弾き方が根っこにありそうだなとまでは想像がつくものの、彼の奏でる間奏のフレーズはどこから発想を得たのかと唖然とするような奇天烈な音の選び方をしていて、ヒラヒラと舞うその音は、まるで天上の音楽が降ってきたような、カラフルな”極楽”のイメージがあった。どこからあんな音の選び方を思いついたのだろう。そういえば”星空ギター”なんて呼び名もあったなあ。

 その後。時代はさまざまに変わってもエイモスはマイペースのまま、地味な歌手たちの後ろで不思議な味わいのギターを奏で続けて来た。
 その間、来日した彼のプレイに直に触れる機会もあり、それまで気ままなアドリブと思ったそのプレイが、実はきっちりと構成が考えられた”演奏”であることや、彼は実は左利きであり、が、左利きの人がよくやるようにギターを逆に構えたりせず、普通に抱えていること、高校時代に吹いていたジャズ・トロンボーンから多くの演奏上のヒントを得た、などという事を知ったりもした。

 ・・・どうも、穏やかな性格の職人的ギター引きである彼の話を書いてみても、あんまり劇的な盛り上がりと言うものがないが。
 エイモスは人のバックでギターを弾くだけでなく、自分名義のアルバムも何枚か出して来ていて、これはその最新作。彼がこれまでも何度かその作品を取り上げてきている、リズム&ブルースの歌手であり作曲家である、Percy Mayfieldへのトリビュート・アルバムである。

 今、ジャケの解説を読んでいてそのPercy Mayfieldが、昔、レイ・チャールスの唄でヒットした”旅立てジャック”の作者であると知り驚いているのだが、とりあえず私は、Percy Mayfield自身の唄は聴いたことがない。と思うんだが、どこかで知らずに耳にしているのかも知れない。
 このアルバムを聴く限りでは、Percy Mayfieldとは渋くて味わい深い作風のR&B作家、との印象を受けるが、それはエイモスが歌い、演奏しているからそんな感じになっているので、Percy Mayfieldご本人は、もっと生々しいパフォーマーだったのではないか、なんて気もする。

 それはともかく。このアルバムの5曲目に”The Country”って唄が入っているのだが、こいつが、ままならない人生のさまざまな局面を経験して来た、もう若くはない一人の男が故郷に還り木漏れ日の中を散歩している、みたいな風景が浮かんでくる曲で(曲内容は、必ずしもそのようなものではないのだが)これを聴いているうちに、エイモスはPercy Mayfield作の曲ばかり取り上げたこのアルバムを作ることで、心の故郷に還ったのではないかなあ、なんて思えてくるのだった。

 ジャケ写真を見れば、70年代、私がはじめてエイモスを知った頃の素朴なカナダのギター弾き青年の面影は遠く、頭髪も白くなり、かつ後ろに後退し、顔には皺が刻まれ、もうすっかり”老人”と化した男が一人、穏やかな笑みをたたえている。

 収められているのは、安らぎに満ちた唄と演奏。ギターのフレーズはやはり不思議の面影が漂うものだが、かってのように奇天烈な響きはない。そのようなプレイが出来なくなったのではない、する必要がなくなった、そんな感じの”普通さ”に満たされている。
 ああ、逆に言えばエイモスにも彼なりの”若さゆえの野望”なんてものがあったのだろうな、なんて当たり前のことに気がつき、微笑ましいものを感じたりする。

 こんな風に森の木立の日差しの中を自分なりに歩いて行く。それだけのこと。

奴隷の歓び

2008-10-10 15:07:23 | その他の日本の音楽


 ”「AKB48商法」今度の特典は?”

 CDを買ってくれたファンと抱き合えだの、目標達成できなければ”卒業という刑罰”が待っているとかの嫌味な”課題”を与え、その年齢を”弱み”と見切った上で年長メンバーをこずき倒す。
 これは完全に”いじめ”でしょう。

 その他、悪名高き数々の”特典商法”といい、このグループの営業展開の芯には業界人の性格の下劣さ陰湿さが公然と横たわっている。

 そしてファン諸君は「こいつを楽しめなけりゃね」と通人を気取った笑顔を浮かべて”売り手の思惑”に従順に従い、同じCDを何枚も無意味に買い漁り、奴隷の快楽に酔い痴れる。
 ”ご主人様”の意思には絶対に疑問など抱かず、常に賞賛の言葉だけ口にしていれば、それで自分も”勝ち組”の列に加えてもらえるのだとの、とんでもない勘違いを胸に抱きしめながら。


 ○もはや風俗!? 「AKB48商法」今度の特典はアイドルの"ハグ"!
 (日刊サイゾー - 10月10日 08:10)
 アイドルグループ「AKB48」のメンバー・大堀恵(25)が「大堀めしべ」として10月15日に発売するCD『甘い股関節』に、前代未聞の購入特典がついてくることが明らかになった。東京・秋葉原の石丸ソフト1、同ソフト2でこのCDを予約、購入すると、大堀本人に「ハグ」してもらえるというのである。
 同グループはこれまでも「握手会」や「イベント参加権」など様々な特典を用いてCD販売数を伸ばす「特典商法」を繰り広げてきたが、ここまで露骨にアイドル自身の"肉体"を売りにしたイベントは初めてのこと。大堀によるハグは「お一人様1回限り」とのことだが、ネット上でファンが集まるコミュニティでは「もはや風俗だな」「1回って何時間までだよ!?」「これが本当の抱き合わせ販売」「行きたいけど、抱かれに行く服がない」など大盛り上がりを見せている。
 同グループのプロデューサー・秋元康はこの楽曲のCD売り上げ目標を「1万枚」に設定しており、未達成の場合、大堀がAKB48から"卒業"することになるという。
 なお、イベント参加チケットの取得は一人1枚限りとなっているが、この参加チケットの抽選に参加するための抽選券はCDの購入枚数分配られることになっており、例によって同じCDの複数購入者が続発しそうだ。

大韓ツイスト演歌で踊り明かそう

2008-10-09 02:31:57 | アジア


 ”TWIST ”by JANG YOON JEONG

 チャン・ユンジャン。これまで何人かの韓国アイドル系演歌歌手ってのを紹介してきましたが、この人がその元祖と言えるのかも知れない。”韓流”とかに入れ込んでおられる人たちの間では”韓国の演ドル”なんて呼び名もすでにあるんだそうな。

 彼女は、それまでオヤジ連中の愛玩物だった暗いイメージの韓国演歌、いわゆる”トロット”の世界に、アイドルのルックスをもって殴りこみ、華やかなステージ衣装とダンス、そして何より生き生きとした歌唱で若年層のファンをも演歌の世界に引きずり込み、”トロット界のシンデレラ”とか、現地では呼ばれているそうです。
 確かにジャケ写真なんかを見ても、人の良さそうな明るい笑顔を全開にさせて(日本のグラビアアイドル、”田代さやか”にちょっと似ている?)爽やかで好感の持てるキャラを前面に押し出しているし、歌声も溌剌としていて気持ちか良いですな。

 ともかく冒頭のタイトルナンバー、韓国伝統のド演歌をめちゃくちゃノリの良いツイストにアレンジしちゃった一発にはやられた。こりゃ名曲、名演ですぜ!爆走するリズムとチャン・ユンジャンの軽くコブシを廻しつつの明るい歌声が痛快です。

 この調子で最後まで突っ走られたらどうしようかと思ったけど、まあ、ポンチャクじゃあるまいし、といいますか(笑)ラストにリミックス・ヴァージョンとカラオケが収められているだけ。それ以外はかなり多彩な曲目が収められたアルバムとなっております。
 打ち込み4つ打ちリズム炸裂のディスコ演歌的なものから、切々と歌い上げる伝統的な韓国バラード、かと思えば、完全にロック仕立ての曲調でかっこ良いシャウトを聴かせる”One Night Only ”なんて曲もあり、かと思えば”内山田洋とクールファイブ”調のムード演歌”梧桐島ブルース ”を本格的にこなしてみたり、まあ、器用なものですな。

 私的に気になってならない韓国アイドル演歌路線ですが、ここに来て”本家”が堂々の登場、凄い一発を決めてみせた、というところでしょうか。ともかくタイトルナンバー最高。あ、ジャケも可愛くて良いです。

☆収録曲
 
01 チャン・ユンジョン・ツイスト
02 思い焦がれて
03 嘘
04 もう一度
05 私をつかまえて
06 女の一生
07 ぎゅっとブビブビ
08 ひまわり
09 男が必要
10 梧桐島ブルース
11 One Night Only
12 軽やかに
13 カプセル
14 チャン・ユンジョン・ツイスト Remix
15 チャン・ユンジョン・ツイスト MR

「カリブ諸島の手がかり」を読む

2008-10-08 05:11:56 | その他の評論


 「カリブ諸島の手がかり」(T・S・ストリブリング著、河出書房新社・刊)を読む。80年も前に書かれ、忘れられていたミステリー小説である。
 なんでもミステリー界の巨人、エラリー・クイーンがひそかに贔屓にしていた作品とかで、音楽の世界で言えばこの一冊、通にのみ評判の高かった地味な名盤がやっとCD化された、みたいなものなのだろう。

 ノンフィクションばかり読んでいて、小説はホラーものと昔のSFくらいしか読まない当方が柄にもなくそんなものに手を出したのは、それが当時のカリブ諸島を舞台にした作品だったから。
 カリブ海といえば、いつでもワールドミュージック好きを惹きつけて止まない、島ごとにカラフルに移り変わるリズムの宝庫としての”海流の中の島々”である。
 まだハイチくらいしか独立国もなく、そのほとんどがヨーロッパ諸国の植民地支配下にあった頃のカリブ諸島の生活がどのように描かれているか、非常に興味があったのだ。

 読んでみれば期待通り、さまざまな民族の文化が混交し論理と呪術が入り乱れる、大変な矛盾を孕んだ逆パラダイスともいうべき島々と人々の暮らしが、そこには描かれていた。

 当然といえば当然なのだが、当時の価値観でしかものを見ていない作家の筆は、貧困と迷信のうちにのたうつ黒人たちと、その地から搾取した富の上にふんぞり返ってにわか貴族を気取る”白人のダンナ”たちの織りなす歪んだ日々を、当たり前の風景として描き出す。なるほど、こんな具合だったのか。
 そして、その日々を切り裂くように起こる、これもなんだか関節の狂ったような奇怪な犯罪。

 なんとなく行き掛りから事件の解決に当たる羽目に陥るのは、アメリカ合衆国から観光旅行にやって来た一人の心理学者。この人物がまた、颯爽たる探偵像とは程遠いドジぶりを発揮しつつ事件の謎の周りをうろつき、なにやら中途半端な謎解きの提示へと辿りつく。アンチ・ヒーローもいいところだ。
 この、”探偵小説の理想像”の裏を掻き、その意義を問うような作品のありようを、エラリー・クィーンなどは評価していたようなのだが、なにしろミステリーなど読む習慣のない身の悲しさ、どの程度ありがたいものなのか、さほどピンとは来ないのだが。

 などと言っているうち、主人公は捜査の進展にともない、カリブ社会のさらなる闇へと踏み込んで行き・・・そしてついには、「え?そんなのありかよ?」と絶句するような終幕に、読み手は遭遇することとなる。
 その衝撃に足をすくわれたその隙を突いて、小説の底にわだかまる悪夢の姿をしたカリブ社会の湿った喜怒哀楽は、妙にリアルに読み手の心に染み入り、読み手は強力な余韻を抱えて本のページを閉じることとなる。

 なるほど、ユニークな作品もあったもので。これはマニアの支持も分かるなあ。
 これでもう少し、作品の中に音楽の描写があったらねえと、いまさら遅すぎるが惜しく思う次第である。

ベイルートの夜

2008-10-06 01:22:22 | イスラム世界


 ”KHALAS SAMAHET ”by NAWAL EL ZOGHBI

 当方、アラブ圏の音楽というと、どうもサハラ砂漠からの砂嵐が音楽の中にまでハードに吹き抜けているみたいなモロッコものや、アルジェリアのヤクザなライ・ミュージックなんかの、辺境ものと言っていいんですかねえ、そのあたりに惹かれてしまってね。
 王道というんですか本場というんですか、中東ど真ん中産のアラブ・ポップスを醒めて聴いてしまう傾向がある。もともと、完成された音楽よりラフな音楽が好きって事情もあるんですがね。

 でも、レバノンの妖艶なる歌姫、NAWAL EL ZOGHBIの近作であるこの盤なんぞは傑作と評判高いですからね、どうも気になって聴いてみようじゃないかなんてえんで。

 これはアラブ全域で流行なんですかね、扇情的にコブシを廻しつつ声を揺すり上げるところで、一瞬、電気的に声を変調させて、オーガニックとエレクトリックのダブル・コブシで迫るやりかたは?このパターンはモロッコのレッガーダ・ミュージックでことのほか気に入っている部分でもあり、すぐに反応してしまった。
 でも、やはり洗練されたシティ感覚のレバノン録音ですね、声の電気的変調と言っても、ほんとに微妙な絡ませ方で、モロッコのベルベルの人々がやるような泥臭いものではない。あくまでオシャレです。

 ことのほか印象に残ったのがタイトル曲。イントロのコード進行が一瞬、テレサ・テンの何とか言う歌に似ていたものだから、その後の展開が我が日本の、それもベタな歌謡曲に似ているように感じられてならなくて。
 いや実際、似てもいるんでしょうね。この曲の構造は、ことのほか歌謡曲っぽいです。分厚いストリングスに煽られるように哀愁のメロデイを切なげに歌い上げ、そこにエレキギターのすすり泣きが絡んでみたり、ね。
 コード進行はほんと、日本の歌謡曲と変わらないです。誰かが主張していた”ユーラシア演歌ベルト”など想起され、興味深いですねえ、この辺は。

 その他の曲も、リズムの提示の仕方といい、曲のアレンジにはさまざまな工夫がなされているし、ともかくアラブポップス最前線と納得させられる行き届いた出来上がりであります。
 NAWAL EL ZOGHBI姐さんの歌声もアラビックなコブシも妖しげに、ともかく全曲ミディアム・テンポで絡みつくように迫ってまいります。

 これはやっぱり相当な傑作と言えるんでしょうねえ。とは言うものの、なんども聞き返すうちに(全部聞いても32分しかないからね。なんかアラブもののアルバムって妙に収録時間が短いものが多いよねえ。どうなってるの?)荒っぽいサハラ砂漠の風の音が恋しくなって来たりして。
 これは、やっぱり私が”通人”なんかにゃ永遠になれない、基本的にガサツな人間だからでありましょうかねえ。などと言いつつ、ベイルートの夜は更け行く。

グッバイ恋愛・・・

2008-10-05 03:20:53 | その他の評論


 ”Mills Brothers ”

 いやあ、昨夜のmixiニュースのアレは面白かったなあ。まあ、正確に言うと、mixiで紹介されていたニュースと、それに反応して皆が書いた日記の数々が面白かったんだけどさ。
 そうそう、これこれ。
  ↓
 恋愛に乗り出さない男子が増えている!? 
 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=625930&media_id=60

 この文の末尾にニュースは引用しておくけれど、ほんとに面白かった皆の日記は、著作権の事を思えばそうも出来ず残念だ。いや、何しろこれに呼応して書かれたmixi内部の日記の数は2872件にも及ぶんだから、膨大過ぎてはじめから引用のしようもないんだけれどね。

 ニュースの概要は要するに、”最近の男子は恋愛のタグイにはあまり積極的に関わろうとしなくなっていて、女子の側は困惑している”ってな所なんだけど。

 それについての男子たちの感想は、「そんなこと言ったって、女と付き合ったってろくな目に会わないんだからしょうがねーだろっ」って居直り派から、「そりゃ情けないですね。そういえば、かく言う私もご同様で。いや、面目ない」なんて反省派までいろいろなんだけど、つまりは皆一様に、”恋愛”なるものが我々の生活から失われつつある習慣である事をうすうす認めている。

 そして女子たちの反応も、「まったく今の男たちはっ」との憤慨もありつつも、(日記で、「そんな男は相手にしないから。私は積極的な男の方に行くから、意気地のない男たちは勝手にしてればっ!」とかイカっていた女子のヒト、だからさあ、その”積極的な男”ってのが絶滅寸前だって話なんだってばさ)「そういえば私も恋愛は面倒くさいかも」と、脱落派に合流する動きも見られたりした。

 ここでいろいろ社会学的に分析してみたり時代を読んでみたりするのが有識者ってものなんだろうけど、私は単に、「へー、今、そうなってるのか」と無責任に面白がってみただけだ。
 いやもうこの歳になったらさあ、恋愛とかからは引退させてもらいたいもんですわい、このトシヨリは。
 ってなこと言うけど、それじゃ若い頃はバリバリだったのかというと、まあ、そうでもないなあ。
 もてたの、もてなかったのって話はこっちへおいといて、本能というか性欲方面も外して考えたら、恋愛なんてほんとに関心あったかどうか。”風景の中に女の子もいる若き日の冒険”てのに憧れてたんじゃないのかなあ、あの頃は。

 そもそも、人間というものがことごとく恋愛をせねばならぬ、というものでもないでしょ。そうせねばならぬ、というのはどこかの文明がいつかの時代に生み出した”流行の思想”の一つってこと、ないですか?とか思ったりするのですがね。

 というところで、ジャズ・コーラスの古典、ミルス・ブラザースの歌う”オールドファッションド・ラブ”など聴きたくなってきましたな。
 この古いジュビリーソングから来ているみたいなメロディは、もしかして日本人にすれば戦前の寮歌みたいな心の中のポジションに収まっているのでしょうかね、アメリカ人の。

 初期のミルス独特の、楽器の音色声帯模写をまじえた暖かいコーラスで歌われるこの歌は、いかにも甘酸っぱい青春の、みたいな響きがあり、人類から失われようとする古き善き恋愛の思い出が夕日と共に地球の淵に永遠に沈んで行くのを見守る、みたいに聴こえて、なかなかに切ないのであります。

 ~~~~~

 ○恋愛に乗り出さない男子が増えている!? 
 (escala cafe - 10月03日 11:51)
最近、「男の子から声をかけられない」「誘われない」という女子の愚痴をよく聞きます。さらに、「ご飯とか食べたり、映画へ行ったりしても相手の男性が、それ以上関係を深めようとしない」(24歳/看護師)という声も。
男子から積極性がなくなった、という話は女性誌だけではなく男性誌の特集でもよく目にします。確かに僕の周囲でも、なかなか恋愛に乗り出さない若い男性、増えてます。しかもこの人たち、別にモテないとか、恋愛に臆病というわけではなく、ただ単に「面倒くさい」という理由で恋愛から退却しているようで……。
「恋愛ってお金も時間もストレスもかかるし、だったら他のことをやっていたほうがいい」(23歳/SE)
「女性と付き合いたくないってわけじゃないけど、誘うのが億劫」(24歳/営業)
「今まで3人の女の子と計4年間付き合ったけど、なんていうか、もう満腹。しばらくいいや」(23歳/営業)
情けない! と批判したくなりますが、僕自身、そういう彼らの気持ちがなんとなくわかってしまいます。恋愛って結構面倒くさいですもんね。だったら、仕事や趣味や友人と戯れていたほうが、ストレスも少なく、心地よく日々を過ごせるっていうメンタリティはよくわかるのです。
さらに今、メールやチャット、セカンドライフ内で恋愛をする人も増えている様子。
「性的なこともネットで、ある程度満足できちゃう」(23歳/クリエイター)
なんていう意見も。ネットのストレスのない恋愛や性的活動で満足できるから、わざわざリアルな恋愛には乗り出さない!?
さて、こうした恋愛退却男子に対して、気になるのは女子の眼差し。ど、どう思ってるんですか?
「情けないけど、したくないならしょうがないんじゃない?」(23歳/営業)
「女の子で恋愛したくないっていう子はあんまり見ない気がするけど。まあ、恋愛したいもの同士がするものだから、したくない男性がいてもいいと思います」(23歳/販売)
「女の子って積極的なタイプに惹かれることが多いので、自分から恋愛に積極的じゃない人は女の子の眼中に入らないんじゃないかなあ」(25歳/秘書)
「自分の好きになった相手がそういう人だったらさみしいけれど、興味のない人だったらどーでもいい」(24歳/販売)
うわあ……。結構、突き放し状態。
最後の意見にありましたが、自分の好きになった男性が恋愛退却男子だという可能性もあるわけですよ。そういう場合、どうしますか? 実際に、消極的な男性に恋してしまった女性に聞いてみました。
「付き合うまでも付き合ってからも自分からは何も行動してくれないので物足りなく感じることもあるけど、もう慣れました。全部私が仕切ってます」(25歳/事務)
「恋愛に興味がなさそうに見える人ほど、こっちから誘えば簡単に振り向いたりしますよ。女の子に誘われるのを待ってるんじゃないのかな?」(26歳/ライター)
やはり、消極男子を救うのは積極的な女子の力。「引っ張ってくれる人が好き」という傾向は、女性から男性へ変わりつつあるのかも?
ということは、女子に対するアドバイスはこの一言。
押しの強い女子になれ!
……いや、なってください、お願いします。という情けない男子からの結論で終わりたいと思います。恋愛積極派の男性からの反論、お待ちしております。
(根本和義/プレスラボ)

シェーンベルグの夜

2008-10-04 15:29:03 | ヨーロッパ


 ”SCHONBERG KABARETT” by DONELLA DEL MONACO

 クラシックとロックの独特の融合を果たしたイタリアのユニークな音楽集団、”オパス・アヴァントラ”の歌手であるドネッラ・デル・モナコが発表した、いくつかのソロ・アルバムのうちの一枚。

 彼女のソロ・アルバムはユニークな作品ばかりで、どれも好きなのだが、これは20世紀初頭に12音階の採用をはじめとして、先鋭的な作曲家として世間を騒がせた、ウィーン生まれの作曲家、シェーンベルグの小品集。なんとも複雑怪奇なキャバレーミュージックをドネッラは、ピアノだけをバックに
、売り物のソプラノ・ヴォイスでダイナミックに歌い上げる。

 ここにはロックの影はかけらも差さず、ちょっと風変わりなクラシックの声楽アルバムのようなもの(?)があるだけだ。
 クラシックを聴く習慣のない当方にはよく分からないのだが、ドレッラのソプラノの歌唱はクラシックの耳からすれば結構ポップであり、また、ゲルマン方面の曲のイタリア的解釈がなされているとのこと。

 その迷宮的音楽世界の濃厚な美学に、ヨーロッパの心臓辺りに迷い込んだような錯覚に陥る。そんな幻想を抱かせる音楽だ。濃厚な芸術趣味の中に、時代への不安がひっそりと息ずいている。ヨーロッパには戦争の萌芽がゆっくりと、だが確実に膨らみつつあった。

 この盤、あるネット・オークションを見ていたら、78年に発表したオリジナルのアナログ盤がとんでもない価格でやり取りされていてビックリした。
 当方の手元にあるのはもちろんそんな畏れ多いものではなくて、単なるルクセンブルグ製のCD再発盤だが、この種の音楽のファンて凄いねえ。

 それにしても当時のヨーロッパ人種は、こんなややこしい音楽を一杯機嫌で聴いていたのか!と、ある意味、呆れるのだが。
 果てしない時の流れの、その流れの果てで振り向いて、ただ遥かなるベル・エポックの栄光を偲ぶのみ。

ラゴスの沖でパイプライン

2008-10-03 02:16:53 | アフリカ


 ”AFRICAN MUMMY JUJU ”by QUEEN OLADUNNI DECENCY

 ナイジェリアのジュジュ・ミュージック界の、珍しい女性アーティストである、QUEEN OLADUNNI DECENCY の70年度作品をCD化したもの。
 彼女は1950年代の生まれで28歳で亡くなってしまったそうだ。ジャケに、”ナイジェリアで最初の女性ギタリスト”とある。
 これまで聴いてきた男性によるジュジュ・ミュージックよりも、なんだか輪郭のくっきりした骨太の押しの強いサウンドと感じるのは私だけ?複雑に絡み合うギター群も、おなじみトーキング・ドラムの音も、その他のパーカッションの響きも、なんだか妙に生々しい手触りの音で跳ね回る。

 バックバンドのリーダーは彼女の夫だそうだが、サウンド作りの実権は彼女と夫、どちらが握っていたのだろう?まだまだ男権社会であったろう当時のナイジェリアで、その辺の力関係はどうなっていたのか、気になるところだ。
 これまで聴いてきた、どことなくホワホワした印象の男性ジュジュ歌手に比べると、芯が強く粘着力のある感じのQUEEN OLADUNNI DECENCY のボーカルであり、迫力あるその声を聴いていると、バンドの実権も彼女が握っていたと考えたくなって来るのだが。

 複数聞こえるギターの、どのパートを彼女が弾いていたのか分からないのだが、軽くディストーション(というか、”ファズ”と呼びたい、ある種、古めかしい響きなのだが)のかかった音で、かなり自由な感じで間奏を弾きまくるのがQUEEN OLADUNNI DECENCY と、これも信じたいところ。
 これは、このようなプレイが他のジュジュのアルバムで聴かれないところから、そう断じてもいいのではないか。
 なんだかサイケというか日本のグループサウンズなどにも通じるような”エレキでゴーゴー”な響きのギターなのだ、意味が分かる人とそうでない人がいる表現で申し訳ないが。

 ベンチャーズがアフリカに与えた影響、なんてことも脳裏に浮ぶ。かのバンドがアフリカで人気があったのかどうか知らないが、ともかくトーキングドラムの叩き出す南国のリズムに乗って、”エレキでゴーゴー”的な、良い意味で60年代風の軽薄な(?)フレーズ連発が嬉しい。
 ここまで来たら、いっそ”パイプライン”とか”十番街の殺人”とかを弾いてしまってくれたらいいのに、なんてめちゃくちゃな事まで言い出したくなる当方なのである。

 こういうのを”同時代感”というのかどうか。ともかく独特の刺激的なジュジュ・ミュージックが演じられていて、QUEEN OLADUNNI DECENCY の夭折は、ほんとにもったいないことだったなあと言わずにはいられないのだった。