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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

遠い街、遠いタンゴ

2008-11-02 01:29:02 | 南アメリカ


 ”Sanchez Gorio y sus Cantores”

 サンチェス・ゴリオは1920年、スペイン生まれのバンドネオン弾きで、40年代頃からアルゼンチンでタンゴのプレイヤーとしての活動を始めている。
 センチメンタルに異国情緒を歌い上げるスタイルで人気を得ていたとか、最初のヒット曲はウクライナの流行り唄をタンゴにアレンジしたものだったとかで、ちょっと聴いてみたかったのだ、彼の音を。なんともワールドミュージック好きの嗅覚を刺激する話じゃないか。

 そんなわけで手に入れた、サンチェス楽団の1950年代から60年代にかけての録音を収めたこのCDである。

 確かに、と頷きたくなる遠方への憧憬やら心に秘めた旅愁に溢れた作品集と感じられる。
 まあ、当時のアルゼンチンの人々にとっての”エキゾティック”とはそもそもどういうものかなんて事、わかりゃしないのだが、音楽のうちに響いている一色変わったカラフルな哀感は、時間と空間を遠く隔てたこちらにも判別可能である。

 普通のタンゴ楽団の専属歌手のような官能性の強い歌唱ではなく、どこか芝居がかったものを基調に感ずるサンチェス楽団の歌手たちの歌いぶりにまず心を惹かれた。
 そして、いわゆるタンゴ楽団の得意とするたぐいの甘く切ないものでありつつも、どこかにひんやりとした独特の手触りを持つ、ストリングスの響き。
 それらが、収録曲のそれぞれに配された、どれも一癖ある”異国情緒”の仕掛けを効果的に演出しているのだった。

 異国情緒と言っても”異国”が具体的にどの国と特定できるわけでもない。また、特定できるほどの音楽的根拠が提示されているのでもない。
 ただ遠い国の珍奇な風物への淡い憧れがゆらゆらと現われては消えて行くばかり。
 そこには、タンゴお得意の南欧風の恋愛模様のセンティメントより、たとえば吹きつける北風に外套の襟を合わせる、遠い街への孤独な旅に寄せる感傷が吹き零れている。

 というか・・・なんだか聴いているうちにサンチェス・ゴリオなる奇妙な名前の、このタンゴバンドのリーダーに、あの”あがた森魚”のイメージが二重写しになって来たのだった。
 かの日本のベテラン・シンガー・ソングライターがずっとこだわり、展開してきた異郷幻視の旅、あれのタンゴ版がゴリオの音楽と言えるんじゃないだろうか。

 そう思ってジャケを見ていると、いかにもラテン風の色男、みたいな口髭をたくわえたゴリオの風貌の向こうに浮んできたのだ。
 病室の窓から見える寂しい港の風景ごしに、遠い異国のロマンスの幻に憧れの翼を羽ばたかせていた、病気がちな男の子とその夢想、なんてものが。
 体質と言うか気質と言うか、両者はほんとに似ているんじゃないかなあ。

人の心を腐らせる携帯

2008-11-01 05:33:30 | 時事


 ○【働く女子の実態】働く女子が通勤電車でちょっと気になる行為
 (escala cafe - 10月31日 11:52)
 ★ escala cafe

 この記事に呼応して書かれたWeb日記の中に、電車内での携帯電話使用がペースメーカーを装着している心臓病患者への悪影響を及ぼすと懸念されている件に関して意見を述べたものがあった。
 その内容に唖然としてしまったのだが。いわく、”今の携帯電話の普及率を思ったら、電車どころか街も歩けないはずだ”と。

 つまり、「ペースメーカーを埋めている奴は携帯するのに邪魔だから街に出るな」と言うのだろうか、この人々は?
 気になったので、この件に関する意見が述べられているサイトをあちこち見て廻ったのだが。出てくる出てくる。

 いわく、”携帯使用者に比べればペースメーカー使用者はずっと少数派なのだから、問題に対するケアはペースメーカーのメーカーならびに使用者が行なうべきだ”

 いわく、”携帯電話に影響を受けるのは古い形のペースメーカーなのだから、古い機種使用者はとっとと新機種に代える手術を受けるべきだ”

 いわく、”ペースメーカー使用者は電車に乗る際、周囲の乗客に携帯の使用の件で配慮してくれるよう、口頭で、自己責任で頼むべきだ”

 などなど。この、”ペースメーカーを埋め込む”というハンディを抱え込んだ社会的弱者への配慮を欠いた、を通り越して”弱者は鞭打て”みたいな発想。こんなものの考え方が当たり前の世の中になってしまったのかね、我々の社会は。

 確かにペースメーカーへの携帯の影響に関しては諸説ある。けど、ひとかけらでも危険の可能性があるのなら、携帯を使用する側が出来る限りの配慮をしてやる、それが当たり前になるのがまっとうな社会というものではないのかね。
 なんともやりきれない気分になった夜でありました。

 参考までに
  ↓

 携帯電話と電波・ペースメーカのなぞ・東京都福祉保健局 健康安全室
 (http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/anzen/mame/device/pacemake.html)

 新方式携帯電話端末による植込み型医療機器(心臓ペースメーカ及び除細動器)への影響について
 (http://www.info.pmda.go.jp/iyaku_anzen/PMDSI226d.html#chapter1)

ラプラタ河の風

2008-10-31 02:26:14 | 南アメリカ


 ”SUDESTADA ”by MARIA VOLONTE

 日常の雑記のようなものを日記に書きたい気持ちがないので(なんだそれは)ここには書かなかったが、このところずっと、心がささくれ立つような日々が続いている。その原因と言ってもまあ誰にでもあるであろう生活上のゴタゴタなので、いちいち挙げない。そんなものは、書くほうも読むほうもつまらない。
 ただ心象風景として、砂埃を上げて吹き過ぎて行く空っ風のようなものがここのところずっと心中にある。

 さっきまでさっぱり実りのない会話を交わしていた、たとえば仕事上の交渉相手に対する呪詛の思いがわだかまっていたりする。あのバカが、と。ほんの30分前には彼は、初対面の人物であったのだが。
 どこかで運命のボタンの掛け違いのようなものがあり、私を含めた人間たちは皆、壊れた機械人形のようにピントはずれの動きを繰り返しているように見える。

 もう何度か書いたことだが。10年以上前、椎名誠の書いた南アメリカ最南端、パダゴニア地方への旅行記を読んでいるうちに、なぜか分からないが「タンゴを聴きたい」という焼け付くような欲求が生まれた。
 何も分からず買ってきたCDのうちの一枚が、今回取り上げるマリア・ボロンテのタンゴ歌手としてのデビュー・アルバムである「タンゴとその他の情熱と」だった。

 その、古臭いタンゴ曲ばかりをギターとバンドネオンのみの伴奏で歌った物寂しいアルバムが妙に心にフィットしてしまい、以来ずっと、私は時代遅れのタンゴ・ファンを続けているのだが。

 この盤はそのマリアが昨年発表した今のところ最新作。もうすっかり彼女もタンゴ歌手の中堅どころとして貫禄を示すようになっている。
 ほとんどの曲で、いわゆるタンゴ”のあの、タッタッタッと刻まれる四角四面のリズムの提示がない。代わりに、ほとんどフリーリズムで静かに和音を奏でるピアノやギターによる隙間の多い音空間がある。そこに一つ一つ言葉を乗せて行く様に語り歌うマリア・ボロンテがいる。非常に内省的というか瞑想的な歌唱である。

 なんだかシャンソンかサンバ・カンシォンのような、あるいは深夜過ぎのジャズ・クラブのような感触も忍び寄る、文学臭の強い世界である。あらわな感情の表出はなく、すべては流れ過ぎた時の中で抽象化され、ジャケ写真を染めているのと同じセピア色に包まれて揺れている。

 だから初聴きの際には、「これはどういう企画のアルバムなんだ?」と何度も歌詞カードの表記を検めた。
 と言っても、そこにあるのはアルゼンチン盤だから当たり前と言おうか、私にはほんの少ししか理解の出来ない、スペイン語の文章ばかりである。
 なんとか読める英語表記部分には、彼女がラプラタ河に面した家に住んでいた頃に心に行き来していた想いを記した詩のような言葉があるだけで、アルバムの音楽的狙いなどを知る助けにはならない。

 フォルクローレの大物がプロデュースしているとのことで、タンゴの民謡的展開を意図したアルバムなのかも知れない。
 などと戸惑いつつ聞き返すうち、冒頭の”マリア”なる曲、タンゴ界の大物、アニバル・トロイロの作だそうだが、この曲などは不思議な形はしているものの、じっくり味わえば実に深いタンゴ表現となっていて、気が付けば何度も聞き返している。

 アルバム・タイトルは、ラプラタ地方を吹き抜ける荒風を表すとか。こんなに静けさに満ちた音楽世界なのに?この辺も深いものがある。のだろう。
 などと適当な事を呟くうち、ふと脳裏に浮かび来るのは、吹き止まない荒野の風に晒され、すべての感傷を剥ぎ取られた貧しい土地の上の人生。壊れた船着き場と、地平線に沈んで行く遠い夕日。
 遠い昔に見たタイトルも忘れた映画の記憶の断片。大地に置き忘れられた人々の物語と歌。

東欧の幻灯機

2008-10-27 22:06:48 | ヨーロッパ


 ”kytytsi”by SVITLANA NIANIO

 そもそも紙ジャケ嫌いの私なのだが、こんなのを作られると許しそうになってしまうのだなあ。かなり”粗末”と言っていい段ボールを3つ折りにしたものに、子供の頃の駄菓子のパッケージがこんなだったよなあ、なんて言いたくなるレトロな雰囲気の彩色でジャケ写真が印刷されている。
 そこに同じ色彩感覚の、これは歌手本人が描いたのだろうなあ、民俗調のイラスト・カードが何枚か封入され、どうやら低予算を逆手にとって何とか楽しいビジュアルにしてしまおうとする製作者側の心意気が嬉しくなってくるのだった。

 というわけで、女性シンガー・ソングライターのSVITLANA NIANIO が1999年にリリースしたこのアルバム。
 困惑してしまうのは、このCDをリリースしているKokaレコードというのは、旧ソ連のウクライナの大衆音楽を扱うレーベルらしいのだが、ジャケに記されたデータでは録音はポーランドで行なわれ、”ポーランド語の翻訳担当は”なんて記述もあり、この女性歌手、SVITLANA NIANIO はポーランドのアーティストなのかウクライナの人なのか、どっちだ?
 まあ、ポーランドの歌手が、なぜかウクライナのローカル・レーベルでCDをリリースした、と考えるのが正しいような気がするが、そうするにいたった事情などまったく分からず。まあ、この種のものを聴いている場合、わけ分からん部分が出てくるのは、もうしょうがないと諦めるしかないんですが。

 SVITLANAは英国の女性トラッド・シンガーみたいな繊細なソプラノで、どこかに干し草の香りのする、民謡調の素朴な歌声を響かせる。東欧と言うよりはむしろ北欧の民謡っぽい、涼やかなメロディラインが特徴的だ。民謡調と、現代音楽の影響下にもあると思われる無調っぽさとの奇妙な同居。
 涼やかで、なんだか子供の頃の記憶を追いつつ歌っているような、不思議な懐かしさを秘めた音楽。ピン・ホール写真機の向こうに浮かび上がった映像、あるいは昔、幻灯機で見た映像の記憶、そんなものが連想される。あるいはNHKの”みんなの歌”なんて番組で子供の頃聴いた歌なんかが思い出されたり。
 どこから来るんだろうなあ、この懐かしさは?

 あるときはアコーディオンだけの伴奏で、またあるときはハープを中心としたギター系民俗弦楽器群の流麗なアンサンブルを、さらにはクラシックの弦楽四重奏、はたまた、電気ピアノやエレキ・ギターも聴こえる、というと賑やかな作品か思われてしまうか。むしろ逆で、どの曲も音は最小限にとどめ、モノクロームな印象。あくまでも室内楽的な展開をみせて、終始内省的なSVITLANA NIANIO の歌の世界を静かにサポートしている。

 もちろん当方には彼女が何を歌っているのか一言も分からないのだが、おそらく子供の頃に見た、曇り空の下、風吹く寂しい野原でひっそりと公演を行い、いつの間にかいなくなっていた謎のサーカス団の消息に関して、とかそんな事を歌っているに違いない。としておこう。

台湾小路のたそがれは

2008-10-26 02:57:49 | アジア


 ”傷心酒杯”by 黄千芸

 黄千芸。台湾の新人(?)演歌歌手らしいんだが、情報を求めて検索を繰り返すも、見つかったのは上のちっぽけなジャケ写真だけ。簡単なプロフィールさえ見当たらないってのも酷い話で。演歌ファンにパソコンなんか操る奴はいないって事か?
 この辺、現地というか、あるいはもっと大きく中国人社会におけるでもいいが、演歌なる音楽ジャンルがいかにないがしろにされているかが伺えるエピソードでもある。

 まあ、台湾演歌のファンである裏町詩人の当方としては、「ネットなんてオシャレなものは、アタシら裏町のしがない演歌うたいには関係ございません」と目を伏せて去って行く決して若くはない”新人”演歌歌手の後姿に喝采を送りたい気分なのだが。

 このCDのジャケ写真を見た瞬間、私は「お、良い女!」と思ったのだが、よく見てみれば・・・あんまりそうでもなかったのだった。
 ああ、この感じを昔に経験したことがあるな。そうだ、自販機で売られているエロ本がサブ・カルチャーの世界(?)で小ブームだった頃だ。

 私も面白がって百円玉何枚かを握り締めては深夜、国道沿いの自販機の前に何度も立ったものだった。が、出てくるのは、なんとも汚らしい、といってエロ本と言うほどの濃厚さもない曖昧なグラビア誌でしかなかった。
 なんであんなものがブームになったのだろうかと思うが、自分も買っていたからケチもつけにくく、そして今回紹介のCDの主人公、黄千芸なる演歌歌手は、その種の自販機雑誌でよく見たモデルのような顔(以下、自粛)

 収められている曲はどれも、日本人たるこちらにとってはすべて予定調和に聞こえる、旧態依然たる演歌世界。ただそいつがどぎつい発音の台湾語で歌われているだけのことでね、違いは。
 ここにあるのは、日本の演歌シーンのメイン・ストリームが忘れてしまって久しいもの、昭和30年代の日本から直送されたみたいな定番演歌のつましい感傷の世界だ。

 黄千芸の歌声は、たとえば蔡秋鳳のような鮮烈な個性を売り物にしている感じではない。どちらかと言えばくすんだ声質で、裏町酒場の哀感を伏目がちに歌い継ぐ。
 その歌声の後ろには化粧疲れのした、もう若くはないホステスが身にまとう、よれたドレスの酒の染み、そんなものの気配が漂っている。そんな女と騙し騙されの酒場定番の安いドラマを夢想して店に通いつめたバカな男の欲望が風に吹かれている。

 黄千芸の唄がどこからか聞こえる。遠く台湾の場末の飲み屋街に灯る紅い灯青い灯の面影が漂う。
 夕闇が迫り、安い飲み屋が軒を並べた場末の通りに繰り出す。気のおけないサンダル履きの台湾庶民の享楽が扉を開く。
 そう、台湾の演歌が日本の演歌に似ていて、でも決定的に違うのは、こののどかさ、意識の底まで染み込んだ丸っこい楽天性だろう。南国ゆえに育まれた気性から来るんだろうか、それとも、もともとの民族性?

 と言うわけで、そろそろこちらも呑みたくなったんで、まとまらないけど東シナ海に乾杯して終わろうと思う。


新たなるサティアンへの道

2008-10-24 23:46:57 | 時事


岩井俊二監督が加護ちゃんに一目ぼれ?「大女優になるはず!」と大絶賛の嵐!!【第21回東京国際映画祭】

 オウム真理教の発祥と発展に関する文章を読んだことがあるんだけど、初期の集会はちょうどこんな雰囲気だったみたいね。下に引用した文章があまり感触が似ているんで、気持ちが悪くなった。

 ”監督”氏の異様なテンションの上げように、おそらく裏で話が付いていて、はじめからこういう話の運びになるのは承知していたのであろう加護も一瞬、唖然としてしまった様子が下のレポートから読み取れる。
 いや、”監督の過剰な反応に唖然とする”ってのも、この茶番劇の台本にはあらかじめ折り込み済みだったのかな?

 ともかくここでの”監督”氏は、噂に聞く、信者をオルグする際のアサハラの”勧誘芸”とまったく同じ手際を見せる。

 「お前は素晴らしい才能を持っているのに、周囲の者はそれに気がつけない。酷い話だ。
 だが超越者の私は、お前の持つ、人より優れた力を分かってやれる。
 惜しい!お前の能力を眠らせておくのは非常に惜しい!俺のところで修行をしてみないか!」

 とか言われると、自尊心ばかりが膨れ上がっているけど、現実面では情けないくらい無能な若者たちはコロッといかれちゃうんだなあ。「この人について行けばきっと、でかい顔して俺をコケにしたオトナたちに一泡吹かせてやれる筈だ」

 観客席の連中は、すでに”信者”として釈伏済みのようだから、ここで新しい才能の前に素直にひざまずける監督の澄んだ心の偉大さについて認識を新たにし、加護と言う”新たなる奇跡”の誕生の場に居合わせた幸運を噛み締めるわけだ。

 ここに敬虔なる信者、”側近中の側近”がまた一人誕生。さて、この先に待っているものは・・・


 ○岩井俊二監督が加護ちゃんに一目ぼれ?「大女優になるはず!」と大絶賛の嵐!!
 (シネマトゥデイ - 10月23日 12:30)
 岩井監督は大物ゲストが次々に登場しては、自分とのエピソードを披露する中、言葉少なに照れくさそうにしていた。そんな監督の様子が突如変わったのは、最近芸能界に復帰したばかりの加護亜依が登場したときだった。それまでのクールで落ち着いた様子とは一変し、前のめりになって「バッシングされて大変だったでしょ」と加護に興味津々の様子。というのも監督はバッシング報道されていた加護をテレビで初めて見たとき、アイドルの加護ちゃんという認識はまったくなく「えっ、この子誰だ!?」とほほをたたかれたような衝撃を受けたそうだ。「あんな状況、普通の女の子だったら耐えられるはずがない。それでも立っていられるなんて相当選ばれた人。すごいパワーの持ち主だから、絶対に女優に向いている!」と大絶賛。
 さらに賞賛の嵐は続き、「目がいい。息の長い女優になると思うから、自分を信じて頑張ればいい」とヒートアップし、「いいと思いませんか?」と会場のお客さんたちをあおるほど。加護もまさか岩井監督にここまで絶賛されるとは思ってもいなかったようで、きょとんとしていたが「いろいろあって、人生について考えました。今は表現する人になりたいと思っています」と女優として歩みだす決意を新たにした。その言葉に満足そうなほほ笑みを見せた監督は「絶対何か一緒に作ろう!」と熱意を込めて加護と固い握手を交わした。

アラブの夜・アフリカの夢

2008-10-23 01:30:35 | イスラム世界


 ”Muzahara Nesaiea”by Shams

 そもそもアラブの音楽と言うものが普通に演奏しても我々異邦人にはエキゾティックなものだが、そんな音楽を普通にやっている連中が、”彼らにとってのエキゾティックな音楽”をやったらどういうことになるのか?なんてあたりが、このアルバムの楽しみどころかな。
 レバノンの女性歌手、2005年の作品であります。

 猟銃を肩にライオン(の剥製)に身を寄せる迷彩服を着た歌手本人、という奇妙なジャケに包まれたこの盤、”アラブ女性のアフリカ探検”みたいな秘境冒険もののファンタジィでも展開してみせているのだろうか。
 歌詞が、アラビア語が分からないのがもどかしい。けどまあ、収められた音楽の方向性からも、そんな盤である雰囲気濃厚である。あるいは錯綜する恋愛を、ジャングルの夜に蠢くケモノたちの生存競争になぞらえてみた、とか・・・

 ともかく、ミステリアスにしてクール、かつワイルドな音のつくりが、異郷の夜の妖しい血の騒ぎを演出して不思議な世界に我々を誘ってくれる、なかなかにエキサイティングな作品である。
 あるいは、”アラブ人が持っているアフリカのイメージ”とはどのようなものであるかが提示されているので、こいつをネタに比較文明論まがいのことなど思いを寄せてみるのも一興かと。

 毎度お馴染みのアラブ伝統のパーカッション群は、どこかサハラ以南、ブラック・アフリカを思わせる響きがしているし、バックに控えるコーラス隊も、あえてラフな手触りのハーモニーを用い、時にイコール&レスポンス状態ともなり、かなり無骨な”野生”を演じてみせる。差し挟まれるバイオリン系の楽器も、マグレブの薫り高い奔放なソロを聴かせる。

 タイトル・ナンバーの冒頭の部分などは、パーカッション群の響きや、それとボーカルの絡み具合など、ナイジェリアのフジ・ミュージックを一瞬、連想させるものがあり、相当に血が騒ぐ。
 もしかして、アラブ音楽の妖しさから湿度を排するとアフリカ音楽となる、なんて雑な方程式は成立可能か?などとも思う。

 戦前、我々日本人が”手ごろな異郷”である隣国・中国を夢想の対象として、”蘇州夜曲”あたりに代表される中華幻想系歌謡曲をいくつも作ったように、アラブにはこのようなアルバムがあり・・・さて、アラブの人々はどのような夢を、この音の向こうに結ぶのだろうか?

スコットランドに秋は沈む

2008-10-21 01:26:25 | ヨーロッパ


 ”Stubhal”by James Graham

 どうも浮世の雑事というのですか、いろいろつまんない事に関わらざるを得ない日々が続いています。本来なら今が一番好きな季節なんですがねえ、そいつを落ち着いて満喫出来ないのが残念です。小旅行の一つにも行くあてもなし、と。

 もっとも、古い歌人が”目にはさやかに見えねども”と詠ったような静かで深い秋の訪れなんてものはもう、昔の思い出の中にしかないようです。この頃の季節の移り変わりようと言ったら、昨日、夏の酷暑に音をあげていたと思ったら翌日には木枯しの気配に震えながら街を行く、なんて具合で。
 なんだか四季の中で真夏と真冬ばかりが生き残り、春や秋といった穏やかな季節はどこかへ吹き飛ばされてしまったみたいだ。これもあの、地球温暖化とか言う奴の影がさしているんですかね?

 こんな時代に、何か遠くの方で聞き取れないほど静かで、でも深いものがシンと一つ音を立てて地面に沈んで行く、染み渡る、そんな風に秋が橋頭堡を築く気配にある日ある時にふと気が付く、あの秋の醍醐味を取り戻す方策はないものだろうか?
 と言うわけで今夜はスコティッシュ・トラッドの盤など取り出してみたわけです。秋はスコットランド、そりゃそうだよなあ。”James Graham”なる、現地であればどこにでもいくらでもいそうな名前の青年のアルバム。

 ジャケ写真には、「今どき、こんな奴、いるのかよ」などとからかいたくなる様な地味で垢抜けない印象を与える”スコットランドの田舎の青年”の横顔が写っています。なんか、セピア色に着色して「戦前のトラッド歌手の写真」とか嘘をついても通りそう。
 ジャケ裏の解説によれば、英国BBCラジオが主催したスコットランドの若いトラッド・ミュージシャンの大会における2004年度の優勝者だそうな。

 盤を廻してみると、まるで良質のクリームみたいな柔らかで芳醇な高音が、澄み切ったスコットランド高原のメロディを歌い始めます。あ、この歌い口の甘さは、スコットランド民謡界の偉大なる先達、マイク・マコーマックなんかの流れを引いているのかな、などと想像されます。
 この強力な洗練の具合。素朴な田舎の青年なんかじゃないよ、こいつは。いや、田舎の青年には違いないんだろうけど、こんなに妖しい民謡歌唱のテクニックを若くして操りきるなんて、相当にクセモノの表現者としか思えない。

 全曲、例のケルト民族の残していった不思議な響きの言葉、”ゲール語”の歌詞を持った曲です。そいつがJames Grahamの甘い声で静かに歌い出されると、太古の幻想が遠い霧の向こうに浮ぶ、みたいな独特の幻想味が醸し出され、これはたまりませんな。
 伴奏は、邪魔にならないように配慮したかのような遠慮深さでピアノやチェロが軽く絡む程度で、ほとんど無伴奏に近い感触。これは良い判断ですな。おかげでアルバム全体が淡い彩色のなされたガラスを通して世界を見る、みたいな淡い幻想味で統一されました。

 ああ時は秋。スコットランドに行きたしと思えども、って奴ですな。それにしても、James Grahamはこの次のアルバムとか出していないんだろうか。このアルバムはコンテストの優勝記念に過ぎなくて、唄に関してはアマチュアに徹するつもり、とかそんなんだろうか?
 James Grahamの歌唱による、この秋の国からの便りをもう何通でもいいから、今後も受け取りたく思うんだけど。

イラクとニューオリンズの間に

2008-10-19 01:01:27 | 北アメリカ


 ”Between Iraq and a Hard Place New Orleans,USA ”
  by Smoky Greenwell and the Blues Gnus

 あれは3年前ということになるのか、アメリカの白人ブルース・ハーモニカ奏者、Smoky Greenwellの出たばかりのアルバム、”スモーキン・クラシックス”に出会い、そのパワフルにしてイマジネイティヴにしてファンキーな。なんだかカタカナばかりで芸がない文章だが、ともかくSmoky Greenwellのかっこ良いプレイにすっかり惹かれてしまったのは。

 自分の中にまだブルース・ハーモニカの世界などに魅了される感性が残っていたのかと新鮮な驚きを味わったなあ。とうの昔に”ワールド・ミュージック耳”と化してしまって、ブルースなど、過去に愛した事のある音楽くらいにしか思っていないつもりったが。

 またそのアルバムの選曲が憎かった。
 いろいろ”ニューロック世代”の当方には思い出のあるブルース・クラシックである”スプーンフル”もあれば、同時代の白人ブルースバンド、キャンド・ヒートのヒット曲、”オン・ザ・ロード・アゲイン”もある。
 そしてR&Bの名曲、”男が女を愛する時”からカントリー・ハーモニカの巨匠、チャーリー・マッコイの70年代のヒット曲、”今夜、また君を愛しはじめて”で締めるなんぞは反則といいたいほどの行き届きようである。

 それらを、時にクールに、時に熱くブロウしまくるSmoky Greenwellのぶっとい音のハモニカ・プレイ!夜更けにこのアルバムを聴きながら一杯呑めば、こーりゃ気持ち良いわい!という次第でね。果てしなくグラスを重ねる羽目になる。

 時は流れて。その間も、Smoky Greenwellの過去のアルバムなどを探しては買い求めなどするうちに届けられたのが、今回のこの新作、”しんどい土地ニューオリンズからイラクの間に”である。

 ともかくタイトルがただ事ではないが、ジャケ写真も同様。まさに”お手上げ”の姿勢で肩をすくめるSmoky Greenwellの後ろに、全壊状態の住宅がある。これがスモーキィの本物の自宅か、何か適当な物件をあしらったものなのかは分からない。
 が、アルバムのビジュアル全体が主張しているのは、かのハリケーン禍に襲われ、いまだ負った傷から回復しきれずにいるニューオリンズ、Smoky Greenwellの住処でもあるニューオリンズの街の現状と、困窮する住人たちのやるせない想いである。

 そいつと”イラク”を結びつけるあたりは、なんだかアメリカ人らしからぬとも言えそうなインターナショナルな発想であるのだが、そんなガラにもない発想をせざるを得ない所まで追い詰められた”平凡なアメリカ人”たるSmoky Greenwellの姿、とも言えよう。

 収められているのは、相変らずパワフルなハーモニカのプレイと力強いバンド・サウンドなのだが、全体のノリは、これまで発表してきた作品の”ハーモニカとブルースの求道者”然とした、あのSmoky Greenwellとは違っている。

 まず耳に付くのは、いつになくボーカルがフィーチュアされているところ。自身のボーカルを聴かせるばかりではなく、ゲストに女性ボーカルを迎えたり、バックのギタリストに歌わせたりしている。
 これまではストイックなほどにソロ楽器としてのハーモニカの可能性を追求してきたスモーキィなのに、ここでは一人の”バンドのメンバー”として、皆と協調して音を出すことに終始している。

 こいつはつまり、「苦難に負けず力を合わせて進んで行こう」という、Smoky Greenwellのアルバムまるごとのメッセージなのだろう。ニューオリンズの仲間たちに、そしてその想いはイラクをはじめとして全世界にまで広がって行く。
 ために・・・これを言うのはちょっと辛いんだけど、これまでのSmoky Greenwellのアルバムからすると、ちょっと刺激に欠ける出来上がりと言わざるを得ない部分もある。
 やっぱり彼にはスター・プレイヤーとして前面に出て来て、思う存分吹きまくって欲しいんだよね、聴き手としては。

 この辺、どう評価していいのか、実は当方としてもまだ結論が出ていないんだけど・・・ともかく今年、忘れられないアルバムとなるのは確実な一枚と言えよう。

ナポリの100年を歌う

2008-10-17 02:13:00 | ヨーロッパ


 ”Napulitanata” by Eddy Napoli

 エディ・ナポリの盤を聴くのは久しぶりだ。なんていうとこの歌手に詳しいみたいだが、何のことはない、ナポリの民俗派ポップス歌手としてはもうベテランの彼の盤を聴くのは、当方、これが2枚目。

 それにしても前に聞いた盤は日本盤だったんだから今思い出しても驚き呆れる。あれはオーマガトキ・レーベルだったっけ?こんな、日本においては何の知名度もない、興味を持つ人もあんまりいそうにない人の盤をよく出したなあ。
 売れなかったろうなあ。マニアとしてはありがたい話だけど、そういう商売、きつかろうなあ。ありがたい話だけどなあ。あんまり無理しないで、とか心配になってしまうよなあ。

 で、前回のその盤、もう軽く10年は前に出た盤と記憶しているんだけど(探せばどこかにあるんだけど、面倒でね)いかにもディープにナポリの伝統音楽を探求するアーティストの作品、という重い出来上がりで聴き応えあり、当方としては、う~むと唸って感心し、そして大事にレコード棚にしまい込んで、そのまま盤の存在自体を忘れてしまった。
 敬して遠ざける、ってのはこういうのを言うのかね。どうも情けないが当方、基本的に軽薄なポップスファンなんで学術的な奴とか相手にするとこうなってしまう。お許し願いたい。 

 けど、今回のこの盤はそのようなこともなく、たびたび引っ張り出して聴くことになりそうだ。なにしろ今回は、いかにも庶民に愛されて来た巷間の流行り歌、みたいな親しみやすい”歌謡曲”が満載の一発だから。
 イタリア人の、というかやっぱりナポリ人のと言うべきなんだろうな、普段着の彼らの体温が伝わってくるような気のおけないメロディが目白押し。聴いていると南イタリアの陽光溢れる青空がスコンと頭上に開ける感じだ。これは無条件で楽しいね。

 エディはシリアスな研究家の貌をかなぐり捨て、あるときは臆面もなく哀感を込め、あるときは思い切り楽しげに声を張り上げて、それら人々の心の襞にしっかりと馴染んだ歌歌歌を歌いつくす。
 マンドリンやアコーディオンやタンバリンなどを全面に押し出した、イタリアの民族色を濃厚に漂わせた伴奏もイナたくて実に良い感じ。マンドリンの運ぶ海の香りがことに嬉しい。

 何しろジャケにはイタリア語の解説しかないんで、どのようないわくのある歌が収められているのかは分からない。曲目の下に書かれている数字がそれぞれの曲が世に出た年を指すなら、冒頭のタイトル・ナンバーが1884年製で最古の曲、以下、20世紀のあっちこちの年代から満遍なく曲を拾い集めて、最後にエディ自身の作になる2007年製の曲で締めるという形だ。
 100年を超えるスパンでナポリの大衆歌謡の歴史を俯瞰してしまった訳で、これはとんでもないアルバムと言うべきなのかも知れないな。収められている音楽の楽しさゆえに、そんな事はまるで頭に入ってこないんだけどね。
 
 それにしても、エディ・ナポリって芸名(?)も凄いよね。こんな名前でナポリ歌謡を歌う稼業をやってきてるんだから。日本で言えば、フランキー・博多とか中洲のジョニーとか名乗るようなものでしょ?どういうつもりで・・・まあ、どうでもいい話だけどさ♪