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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ラゴス・夜の最前線

2008-11-20 22:56:38 | アフリカ

 ”LAGOS STORI PLENTI (Urban Sounds From Nigeria)”

 アフリカはナイジェリアの首都、ラゴスで今日、活躍する、”ストリート系”と言うのか、ラップやらヒップホップなどのミュージシャンを集めたコンピレーション盤である。

 こちらとしてはナイジェリアといえば、やはりフジやアパラといったイスラム系音楽の、太いアフリカン・ビートとイスラム色濃いコブシ付き歌唱のぶつかり合う世界に血が騒ぎ、そちらが気になって仕方がないのではあるが、ともかくなかなか盤が手に入らないし、フジやアパラのシーン自体も、こちらが熱狂した当時の音から大分、様相を変えてしまった部分もあるようだ。

 たとえば80年代のフジの持っていた、地の底で煮えたぎるような重くどす黒いビートは、こちらが現地の音を聴けずにいた空白期間のうちにすっかり変質し、数倍のスピード感を持って疾走するようなものに変わってしまっている。
 スピード感を獲得した代わりに、それら今日のフジは重さや黒さはずいぶん希薄なものになっていて、なおかつ、本来それら音楽には入らなかったはずのシンセ等のメロディ楽器が幅を利かせるようになっていたり。なんか薄くないか?これがあのフジかなあ?

 それが今日を生きるナイジェリアのイスラム系ポップスの姿なのだと言われれば、もとより他国の音楽、あれこれ文句をつける筋合いもないのではあるが。
 とはいえ、やはりナイジェリア音楽の熱さに入れ込んだ、かっての想いは簡単には忘れられず、こうして本来は苦手であるヒップホップなどにもとりあえず耳を通してみる次第である。

 ああでも、これも”あり”じゃないのかなあ、と思うよ。聞き始めは、何しろ大嫌いなラップなんで嫌悪感ばかりだったのだが、聴き進むに連れ、結構引き込まれる瞬間にも遭遇できるのだった。
 かってここで西アフリカ風に変形されたファンク音楽の話などしたのだが、あそこで遭遇したアメリカの黒人音楽のアフリカ風変質はここでも起こっている。

 ナイジェリア風に誤読されたヒップホップやラップは、グニャリとデフォルメされるうち、いつのまにか太古のアフリカにまで遡り、ラゴスの”今”の夜に、ドロリと熱い汗を分泌しているのだった。
 そいつはある意味、かってフジやアパラが持っていた、熱気を孕んだアフリカ独自の黒光りのする美学の実現を果たしていると感じられる。

 おそらくは誤解や勘違いに元を発するのだろうが、本家・アメリカのそれよりずっとプリミティヴな響きを獲得している打ち込みのリズムをバックに歌い交わされる、野太い声のラップのフレーズや、そいつを煽り立てるコーラス隊は、いつの間にかラップより発してラップではない、
 やってる奴ら自身は結構、”アメリカ風のナウ”の猿真似以上の意識はなかったりするのかも知れないが。いや実際、そんなものだろう。この段階では。でも、こいつはもしかしたら、面白い化け方をするかも知れないぜ。

 かってアフリカに先祖がえりをしたアフロ・キューバン音楽が、アフリカ的洗練を経てアフリカ独自のハイライフやリンガラ・ポップスなどに進化していったように、このあたりからとんでもないものが生まれ出てくるような、予感を感ずるラゴスの夜だったりするのだった。


ドイツの暗い森から

2008-11-19 05:08:00 | ヨーロッパ


 ”Ungezwungen”by Ougenweide

 ”中世音楽を演奏する田園調のフォークロックバンド”とか呼ばれていたようだ、この、なんと発音すれば良いのか分からない名前のドイツのバンドは。
 70年代の初めに活動を始め80年代の初めまで存在したバンドの、これは77年度に発表されたライブ盤である。

 その頃、自国の民謡のロック化というユニークなサウンド作りで成果を出していたイギリスのバンド、フェアポート・コンベンションの仕事に刺激され、ヨーロッパのあちこちで同様の試みを行なう連中が出て来ていたようだ。もちろん、リアルタイムでこちらはそんな事は知らず、フェアポートのアルバムを聴いては「へえ、イギリスにも独自の民謡というものがあるんだ」なんて当たり前のことに感心するレベルでしかなかったのだが。
 それら70年代のヨーロッパ各国における”ロックによる民謡再発見・再開発”の試みが、CD再発という形で耳に出来るようになってきているが、これもその一つ。

 ドイツの民謡というのも、もう一つイメージがわかないので、その辺も興味津々なのだが、
 聴いていてやはり耳に付くのはフェアポート・コンベンションの影響というものであって。ギター、ベース、ドラムといったロックの基本編成とヨーロッパの民族楽器とのブレンドの具合や、どのあたりに聴かせどころを持ってくるのかといった演出など、もういちいちがフェアポートの強力な影響下にあり、なんだか微笑ましくなってくるのだった。

 大体が”ロックの響きの狭間から聴こえてくるドイツ語の歌”というのが聴き慣れなかったりするのであるが、その違和感が逆に面白かったりする。歌われる歌は教会音階というのか、いかにも中欧、いかにも中世、みたいな暗く湿った旋律によるものが多い。そいつが男女ボーカリストによる無防備とも言いたい素朴な歌声で提示される。
 その上この連中は独特の神秘主義的美学とでもいうべきものがあり、闇に沈み込むような、サイケデリックとも呼びたい内省的サウンドが妙な眩暈を喚起する。
 その中から浮かび上がってくるのは、宗教上の戒律やら迷信やらの暗黒に閉ざされていた中世ドイツの民衆の抱えていた心の闇のありようか。

 フルートが瞑想的なソロを取り、続いて打楽器のアンサンブルが中世音楽と現代音楽の間を行ったり来たりしながら、長い奇妙な会話を交わす。
 各メンバーがソロで、コーラスで、素朴な民謡のメロディを歌い交わし、その狭間でエレキギターがプリミティブな旋律を咆哮して、ほの暗い古の夜祭のイメージをかき立てて行く。このあたりでは彼らはフェアポートの呪縛を脱し、ドイツ民謡現代化のための、独自の表現方法を確立しかけている。

 オリジナルのアナログ盤では2枚組で世に出たアルバムだそうだが、中盤あたりから本格的に姿を現す、そんな中世の闇の祭りの演出が最大の聴き所だろうか。
 そして一転、夜明けのイメージ提示があって、ロックのリズム・セクションにバックアップされつつヨーロッパ伝統の民族楽器が奏でる、春の祭りの陽気なダンスのリズム。こいつも楽しい。

 まあともかくドイツの民謡なんてまるで不案内な当方なのであって、彼らの残した数多くのアルバムをもっともっと聴きたい気分にもなってくるのだった。

棄てるものがあるうちはいい

2008-11-16 04:32:31 | その他の日本の音楽


 ”棄てるものがあるうちはいい”by 北原ミレイ

 なんとなくシュールな絵画を連想させるモノクロームの風景の中に、奇妙に歪んだ姿で現われ、消えて行く人々。
 寄る辺なく街角の占いを訪ねる少女や、これから別離の旅に出かけるのか、それとも心中行なのか、うら寂しい男女の後姿や、いったい受け取ってから何度読み返したのか、ぼろぼろになった別れの手紙を懐に、酔いどれて明けることのない酒場巡りを続ける女。そんな傷ついた人々の面影がスケッチ風に描かれて行く。

 そして、そんな人々の背中に覆い被せるように繰り返されるサビのメロディ。
 ”泣くことはない 死ぬことはない 棄てるものがあるうちはいい”と。

 これは1970年代初頭の北原ミレイが、デビュー曲でありヒット曲である、「ざんげの値打ちもない」のすぐあとにリリースした曲だったか。
 リアルタイムで私は、このような”歌謡曲”を嫌悪するピュアでもあり頑なでもあるロック少年だったから特に興味もなく、この曲がどの程度のヒットをしたのか、まるで記憶がない。
 「ざんげの・・・」ほどあちこちで流れていた感じでもないので、それほどの売れ行きを示した訳でもないのかも知れない。が、今日、あちこちネットを覗いてみると、この曲の支持者はかなり多いようだ。

 リアルタイム、ということで言えば、70年代のほんの初め頃に早川義夫が雑誌連載していたエッセイで「今の自分は、むしろこの曲のようなものに”ロック”を感じる」と、この曲の名を挙げていたのが、妙に印象に残っている。
 それから20年も過ぎ、普通に演歌も聴けるようになってから、気まぐれでこの唄のCDを買ってみる気になったのは、あの早川義夫の文章が心に引っかかっていたせいもあろうか。聴いてみれば一発で、「傑作!」と断じ、以来ずっと”マイ・フェバリット・演歌”の最上位に置いている曲である。

 ところで。
 ”泣くことはない 死ぬことはない”とのリフの歌詞があることで、「これは”生きて行こう”と人々に呼びかける唄なのだ。前向きの人類愛の唄なのだ」と論ずる人が多いようだが、それはどうかな。
 確かに、「そんな事で泣く事も死ぬこともないのだ」と歌い手は失意の人々に呼びかけているのだが、といって、明るい明日を指し示している気配もない。歌を覆う暗い翳りは、歌が進行するに連れ、さらに重く淀んで行くように感ずる。

 むしろそんな失意と、またその逆の明るい明日も含めた人間の営為すべてを、重量級のブルドーザーで一気に踏み潰すようなニヒルな”ビート感覚”が濃厚に漂う曲じゃないのか。そしてその感触に打ちのめされることの快感が、この歌を聴く際の醍醐味というものじゃないか。
 そのあたりを当時の早川義夫も”ロック”と感じていたんだと想像するのだ。
 うん、普通に”ハードロック”な歌だと思うんだよね、この曲。そういう意味でロックな演歌、ゆえに傑作、と私は信じている。

メキシコの閃光、リラ・ダウンズ

2008-11-14 04:32:22 | 南アメリカ


 ”Shake Away/Ojo de Culebra ”by Lila Downs

 リラ・ダウンズのアルバムはこの場でも以前、触れた記憶がある。
 メキシコの生んだ、鮮烈な作風と苛烈な人生で強烈な印象を残す土俗系シュールリアリズム画家のフリーダ・カーロ。彼女の生涯を描いた映画の主題歌をリラ・ダウンズが歌い、それに絡めてリラに関する文章を書いてみたのだった。

 その情感の濃さにおいて大画家フリーダと計り合えるくらいのリラであり、主題歌を歌ったのではなく、彼女が映画の主演をしたような気がしてならない、いや、そうであってもまったく不思議はない、なんて事を書いた。

 1968年、アメリカ人の父親とメキシコのアメリカ大陸先住民の母親との間に生まれ、メキシコとアメリカを往復しながら成長したリラ・ダウンズは、当然というべきか、アメリカとメキシコ、先住民と西欧などの文化の軋み合いの狭間で、錯綜した感情を持って成長していった。

 その想いを、アメリカ大陸先住民の伝統的衣装に身を包み、今日的問題意識を持ちつつメキシコの伝統文化に切り込む、みたいな屈折したポジションを取るシンガー・ソングライターとしての自己表現に託したリラの重く深い音楽は、まさに画家フリーダの後継者みたいに、私には見えたものだった。二つの文化の間で引き裂かれた自己を抱えつつ、メキシコの血と大地の伝承を歌う者。

 とか言いつつも、あちこちの音楽をつまみ食いする浮気者の悲しさ、そんなリラが今年になって、このような別の意味で問題作を夜に問うていた事を私はつい最近まで知らずにいたのだった。
 今回のアルバム、まずジャケからして違う。まるでアメリカン・コミックスの登場人物みたいにワイルド&セクシーなポーズをとったリラであり、これまでの文学少女的翳りを感じさせる姿とは180度の転換を感じさせる。

 その内容もまた同様に。なにごとか吹っ切れたかのように、バッキングのメンバーの多彩な国籍が象徴するような、メキシコとアメリカ、北アメリカと南アメリカを一跨ぎに踏まえた”ロックでポップなメキシコ大衆音楽”を彼女は演じている。

 そいつを象徴するナンバーが、たとえばラテン・ジャズ調のアレンジのほどこされた、おなじみのナンバー、”ブラック・マジック・ウーマン”だろう。これまでのリラなら非常に地に足のついた泥臭い処理を行なうところである。
 が、今回の、ファンキーなホーン・セクションに煽られつつ、ジャズィーにシャウトするリラは、ジャケ写真のままの非常にポップなパフォーマーとしての姿を表している。

 どのような経緯があったのかは想像するしかないのだが、ともかく、より広い世界目指して走り始めたリラの姿勢を、ここでは全面支持しておきたく思う。というか、こいつはかっこいいぜ、リラ!と一言、掛け声を。

 とはいえ。アルバムを聴き重ねるうちに、いくつか複雑な思いに囚われる瞬間もないではないのであって。
 そいつはたとえば、陽気なラテンリズム炸裂する各ナンバーの狭間に収められた、” Would Never ”とか” I Envy the Wind ”といった、いかにもアメリカの白人シンガー・ソングライターが作った、みたいな(実際、そうなのだろうが)曲におけるリラの歌唱のはまり具合である。

 良いのである。聴いているこちらもスッと落ち着ける気分になるし、歌っているリラ自身も、安らぎのうちにそれらのナンバーを歌っているのがこちらにも伝わってくる。彼女の安楽椅子は、こちら側にあるのだ。
 あれこれ言いつつも、実際のところ、父の故郷であるアメリカ合衆国の大学で学位を修めているリラなのである。

 それ以外の、混交文化の相克の中から生まれ出たナンバーが、かなりの努力の元に音楽として成立させられている、やっぱり頭でっかちの”創作物”である事実が、ここで逆に照射されてくる。
 とはいえ。その”力技の創造”が彼女の選び取った戦いであり、ポップな姿をとろうと彼女は退くわけには行かない。それが彼女の背負った”業”であるのだから。

 などと思い始めると、装いはポップではあるものの、やはりこれは従来のリラのアルバムと同じ流れのうちにある、重さを量ってみれば変わりはない作品であると再認識されても来るのである。そんな受け取り方を彼女は望まないかも知れないが。

我が心、新疆に

2008-11-13 04:40:34 | イスラム世界


 ”阿曼尼薩汗”by ワン・イエリン

 先に、漢民族の人気コーラスグループ、黒鴨子が新疆地区のウイグル民謡ばかりを歌ったアルバムをここで取り上げたことがあったが、今度は新疆生まれの女性歌手が現地の民歌を歌った一作。

 まさに”西域の音楽”という響きのエキゾティックな曲想と演奏が展開され、心は砂嵐吹きすさぶタクラマカン砂漠の旅に。昔NHKでやっていた”シルクロード”なんてドキュメンタリーのシリーズも、当然思い出される。
 ともかく前面に渡って、中央アジアから中東にまで至る様々な民族の音楽乱れ舞う新疆の、非常に興味深い音楽層が提示されて行くのだが、この奥行き深い秘境イメージは魅惑的だ。

 もっともアルバムの主である歌手、ワン・イエリンに関しては、資料に”新疆生まれ”という表記だけがあったのだが、この辺が微妙だ。甲高く朗々と響き渡るこの歌い方はウイグル民族のものと言うよりは漢民族の歌唱法ではないか?歌詞も中国語で歌われているようだ。新疆地区出身の漢民族の歌手なのかもしれない。
 このあたり、このCDのリスナーとして想定される漢民族に理解可能なように配慮された新疆音楽と考えておくべきかも。

 タイトルは16世紀新疆南部にあった王国の皇后の名前だそうな。そしてこれは新疆の民間音楽に貢献のあった彼女を記念するアルバム、とのこと。
 などと、サイト上に見つけた解説の文章をそのまま写しているが、”民間音楽に貢献した皇后”というのはなんだろう?あの梁塵秘抄を編んだ日本の天皇みたいな作業をしたのか、それとも民間の音楽家を厚遇でもしたのだろうか。
 豪華なケース、というよりCD付きの本みたいな装丁のジャケにはその辺の詳細が書いてあるようなのだが、中国語なので読めず。せめて中共独特の簡体字でなければ、知っている単語を辿って行けるのだが。

 などとぼやいているうちにも、演奏は完全にアラビア音楽の状態になっており、その響きの向こうに見え隠れする歴史のロマンに血の騒ぎは押さえ切れない。皇后の愛したウイグルの旋律は、いまだ響きやまず。

 20世紀前半、この新疆地区にウイグル系の住民たちによって”東トルキスタン共和国”が2度にわたって樹立されたが、どちらも中国政府によって鎮圧、消滅させられている。その後も、国外に活動の中心を移して東トルキスタンの独立は画策されているとのこと。
 そういえば、北京オリンピックの開催前には、新疆におけるウイグル人の自治を求める行動とそれに対する中国政府の弾圧の様子など切れ切れの情報が伝わってきたのだが、その後、どうなっているのか。気になるところである。

 以上、一日遅れになってしまったが、かっての東トルキスタン共和国の独立記念日を祝して、記す。

モロッコ、本日も暴走!

2008-11-12 04:55:08 | イスラム世界


 ”SIDI BABA ”by JALAL EL HAMDAOUI

 今のところ当方にとっては最注目の音楽が、モロッコのレッガーダ・ミュージックである。かの土地に古くから住まいするベルベル民族が生み出した独特のローカル・ポップス。
 つんのめりそうなせわしいリズム提示とボコーダーを使った奇妙なロボット声のボーカルには一発でやられてしまったのだった。スリランカのバイラをふと連想させたり、その猥雑な庶民パワーに、韓国のポンチャクに通呈するものを感じてみたり。

 そしてこれが、その狂騒音楽レッガーダ界の大スター(?)であるジャラルの新譜である。
 相変らず、薄化粧をほどこしたジャラルのオヤジ顔が気色悪いジャケ写真に閉口しながらCDを取り出す。

 冒頭、なんだか”ランバダ”みたいなイントロに驚かされるが、まあ、なんでもありの音楽ですから。以後、ライやらシャアビやら、その他、アラブ圏も飛び出してバングラやらと、さまざまな音楽要素を節操なく取り入れつつ、いつもの狂騒世界がカラフルに提示されて行く。
 ほとんど”間”というものを置かずに高音域を舞うように歌い上げられる、狂おしいアラビックな旋律。それに絡む、砂漠をのた打ち回る毒蛇みたいな強硬な毒を秘めた鞭の一打ち一打ちを思わせるパーカッション群のざわめき。ジャラルに負けず劣らずの猥雑さで迫るバック・コーラス隊。

 徹底して濃密な音楽空間である。ともかく押して押して押しまくる。始まりはミステリアスなスローバラードでも、あっという間にリズム・イン、あらえっさっさ状態という業の深さ。
 あの特徴あるロボ声は今回、使用されておらず、終始ナマ声で歌唱が行なわれており、そいつがちと寂しいのであるが、ひょっとしてジャラル、レッガーダの”異形部分”を洗い流して汎アラブ的人気歌手の座でも狙っているのだろうか?

 とはいえ、ジャラルのレッガーダ魂はそんな小細工でも薄まることはなく、暑苦しく燃え盛っているので、当方、何も心配はしていない。彼が毒を失うことはないだろう。
 というか、根っからローカル・ヒーローだと思うんだけどね、彼の体質は。


グッバイ、デイヴ

2008-11-11 05:38:03 | 60~70年代音楽


 ゴールデン・カップスのボーカル、デイヴ平尾氏が死去(読売新聞 - 11月10日 21:29)
 デイヴ平尾氏(でいぶ・ひらお、本名・平尾時宗=ひらお・ときむね=歌手)10日、食道がんで死去。63歳。告別式は近親者で行う。
 1967年にデビューしたゴールデン・カップスのリーダー。ボーカルとして活躍。「長い髪の少女」などをヒットさせ、グループ・サウンズブームの一翼を担った。

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 もう何度もした昔話だけどさ。
 入った高校が、教師も生徒も鼻持ちならない、かつ中途半端なエリート意識の塊みたいな臭い臭い学校でさ。うんざりだったんだよ。で、半ば登校拒否状態に成り果てた。
 ほんとは手のつけられない不良という方向も考えたんだけどね、ああいうイナカにおけるそれってのはホコリ臭いばかりの体育会系の腕力自慢ばかりでね。しかもヤクザ社会へ直結だから、それはない、と。

 その頃、学校への反発と比べあうようにロックへの思いが自分の心ではメチャクチャ重くなっていった。安物の再生装置にすがりつくようにして、手に入れたロックの新譜を聴いていた。それだけが生きる証しみたいに思えた。それこそRCが歌っていたみたいな”ベイエリアからリバプールから”って奴だね。
 何度も夢見たんだよ、ギター一本抱えて家出して、夜汽車に乗って東京へ行き、当時全盛を誇っていたGSの世界にもぐりこもうなんて。まあ、東京へ行くまではいいけど、その先どうすれば芸能界への道が開けるのか見当も付かなかったから、実行に移しようもなかったんだが。

 それでも、あれは高校2年のころだったなあ、あるつてを辿って某弱小プロダクションが新たにデビューさせるGSのメンバーにスカウトされるところまで行ったんだけどね。あんまり話したくない理由でその話はポシャってしまった。
 今でも時々思うけどね、あのままGSの世界に身を投じていたら、その後、俺の人生はどんなだったろうなあ、なんてさ。まあ、ろくなことにはなっていないだろうけど、今送っている人生と、ろくでもなさにおいてはどっちがましか、なんて。

 こんな話をダラダラ続けていてもしょうがないんだが、自分としては追悼の辞のつもりなのさ。その当時の、まあGSの世界におけるヒーローがデイブの率いるゴールデンカップスだったから、という次第でさ。

 かっこ良かったよねえ、カップス。やっぱり”本牧ブルース”が一番深かったか。あの当時憧れた、なりたかった、”都会の不良”の匂いを強力に漂わせていた曲だから。もちろん、ルイズルイスの高速リード・ベースが走りまくる”銀色のグラス”やら、カップス自身はむしろこちらを聞いてもらいたかったんだろう、外国曲のカバーなどなど、忘れられない曲を挙げていったらきりがない。

 そういえばその当時、「この唄は、オトナになって歌ったらしっくり来るんだろうなあ」なんて思えた”もう一度人生を”なんて歌があったが、冗談じゃないやね、この歳になったら、リアル過ぎて歌えるもんか、”もう一度人生を 遅くはないのさ今からでも”とか、”歩くのに疲れた私に 新しい靴をおくれ”とかさ。

 というわけで、グッバイ、ディブ。あの頃は、いろいろありがとう。あなたがあちらで、具合の良い新しい靴とゴキゲンなR&Bの新譜に出会えますように。


 最後に。以前、ある雑誌社で書評の仕事を一緒にしていた尊敬するM女史が、ご自身のブログで”アンチエイジング”について述べておられた。それに対してふと寄せてみた私のコメントなど、ここに再録します。

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 アンチエイジング以前の問題というのでしょうか・・・私の場合、十代の頃の人生上の悩みとかの前でいまだに先へ進めずにいる私自身を置き去りにして、現実の年齢だけがずっと先に歩み去ってしまったような気がします。
 ××××さんが挙げられているような、”かくあるべきである”みたいな事は考えたこともありません。私はただ途方にくれつつ、日々に流されて行くだけ。
 自分の実年齢は遥か彼方に歩み去って、もう追いつくすべもないように見えます。もっとも、見晴るかす山は夕焼け、残された時間は決められている通りなのですが。

トルクメニスタンの衝撃

2008-11-09 03:42:55 | イスラム世界


 ”Gunesh”by Rishad Shafi
 
 中央アジアはトルクメニスタンのジャズロック・バンドということで、辺境ロック愛好家がマニアの道を突き進む際の一里塚の一つとでもいう存在ですかね。
 と、ワールドミュージック側からこのアルバムにたどり着いた当方としては高みの見物みたいな気分になるのですが。

 そもそも、かの国に対するこちらの知識がはなはだ頼りない。砂漠にラクダが歩いている風景くらいしかイメージとして浮かんでこないわけで、そのような土地にこんな洗練された音を出すバンドがいるのかと唖然とするよりない。

 冒頭、まったく西欧諸国のバンドと区別の付かない感触の、クールでスピーディなジャズロックが展開されます。
 この勢いでは、その国名から当然期待される民族色は持ち合わせない志向のバンドなのかなと心配になってくるのですが、いや、大丈夫だ。
 すぐに素朴な木管楽器のソロに導かれて、コブシがコロコロのボーカルが荘重にイスラム色濃いメロディを歌い上げ、中央アジア気分はいやがうえにも盛り上がります。

 それにしても、今、久しぶりにこの盤を聴き返しているのだけれど、あまりに高度なテクニックを持ったバンドで、なんか笑っちゃう気分ですな。旧ソ連圏に属する中央アジアの国で20年以上も前にこんな音を出すバンドが存在していたなんて、どう想像力を逞しくしても信じられないよ。

 リーダーのラシッド・シャフィの、いわゆる超絶技巧のドラミングに導かれ、息つく暇もない、みたいな各楽器の高速フレーズの応報が行なわれる。そこに巧妙に忍び込む中央アジアっぽいイスラムのメロディの詠唱。
 ドゥドゥックやシタールといった民俗楽器がエスニックな迷宮のメロディを奏で、そこにヘヴィな音色のギターが切り込み、クールな電気ピアノがソロを取り、分厚いホーンセクションが煽り立て、その狭間を縫って、これはザッパあたりの影響なんだろうか、シロフォンの軽妙な響きが駆け抜ける。

 この、ハイテクなジャズロックと中央アジアの民族色の入り乱れる特異な音世界は、ともかく全編、今の耳で聴いてもまだ古くなっていないです、そこが凄い。

 全然資料もないんで分からないんだけど、その後、どうなったんだろうな、このバンド?このアルバム、1984年のレコーディングですぜ。そもそもこんなバンド、なんで存在し得たんだろう?う~むむむむ・・・

奄美島唄と酒

2008-11-07 03:30:04 | 奄美の音楽


 前回、懸念の(?)里アンナの「吾島」に関する文章を書いてしまえたので余勢をかって、というかついでにと言うか、以前から興味深く思っていることなど。
 いつぞや奄美島唄についてあれこれ考えた際から、なにかというと沖縄島唄と比べる習慣が付いてしまい、まあお隣なのだから両者を比較して考えると分かりやすいから、ということでやっているのだが、こいつもあんまり良い習慣ではないのかもしれない。まあでもとりあえず書いてしまうが。

 で、両者を比べてもっとも気になる案件は、”沖縄の島唄は一杯呑みながら聴くことが出来るが、奄美の島唄はそうではない”というあたりで。

 沖縄の島唄は一杯機嫌でいい加減な気分になりつつ聴ける、と言うかその方が気分が出るのだが、奄美の島唄は違う。シラフで、真正面から受け止めたい種類の音楽だ。というか、酒に酔っている状態では、すんなり心に入ってこない感じがある。
 これは相当な違いで、ここらに何かありはしないかと考えているのだが。

 もっともこれは私だけの現象で、他の人は奄美の島唄と別の付き合い方をしているのかも知れない。「俺は酒がなけりゃ始まらないぞ、奄美はっ!」と言うかた、おられましたら、お話をお聞かせいただけたら幸いです。
 あるいは奄美の出身で、奄美の島唄に幼い頃から馴染んでいるという人にしてみれば、「え?何を言っているんだ?」と言われるかも。その場合もお話をお聞かせ願えれば幸いです。どうか一つ・・・

 以上、「なんだよ、奄美の音楽、全然分かっていないじゃないか」と馬鹿にされる可能性大で、ビクビクもので記す(笑)
 ちなみに今、上にジャケ写真を挙げた坪山豊氏のCDを聴きながらこの文章を打っているんだけど、氏の渋い歌声と三線からは、「島の名物、黒糖焼酎でも呑みながら聴いてくれよ」みたいなメッセージは伝わって来ている・・・ような気もするんだけどね。

里アンナの「吾島」

2008-11-05 05:27:34 | 奄美の音楽


 ”吾島(Wan Shima)”by ANNA

 この盤、しばらく前に手に入れておいたものの、どうも聴くのが恐ろしくて(!)放っておいたものだが、まあ、聴かなきゃしょうがないからね。
 奄美の民謡コンテストで十代の頃に見出され、その後、いわゆるJーポップのフィールドでの成功を視野に入れて、奄美から東京に移り住み歌手活動を続けている里アンナのアルバム。それもこれは、彼女が”ワールドミュージックの歌い手”である事を意識して製作された初のアルバムである。アーティスト名の表記も里アンナではなく”ANNA”となっている。

 それをなぜ、聞く事を躊躇などしていたかといえば。これはアマゾンで購入したものなのだが、そこに掲載されていた”カスタマーズ・レビュー”の内容に、音そのものを聴く前に考えさせられてしまったからなのだ。

 そこには二人の評者による正反対の内容のレビューが発表されていた。
 かたや、”奄美発、極上ワールドミュージック!”と五つ星、満点を与え、かたや”凡庸なワールド&エイジアン・ミュージックとしか評価できません”と、二つ星で酷評している。
 まあ、他人の評価などいつもなら気にもしないのだが、今回、否定派の文章に”こいつは共鳴してしまうかも”との懸念が生まれてしまったので。里アンナのファンとしては、悪い結果も予期せねばならないかと暗い気持ちになるのを禁じ得なかったのだ。

 たとえば、アメリカ人のアレンジャーが起用されていて、その手になる伴奏が”やたらうるさい”とのこと。アメリカ人の今日の大衆音楽のフィールドにおけるセンスなどまったく評価しない当方でもあり、これは大きな不安要素と受け止められた。
 西洋人のセンスなど導入してインターナショナルなイメージを強調する。そんな、今どき、90年代の”パリ発・ワールドミュージック”の幻など追う時代錯誤を演じてしまっては良い結果が出るとも思えない。

 その不安に輪をかけるのが、”古臭い山本寛斎のジャポネスク・ファッションに身を包んだジャケット写真”なる一言。なるほど、”なぜ、奄美の伝統衣装にしなかったのか?”なる評者の指摘は妥当なものに思える。やっぱり”何をいまさら”な、ありふれたワールドものになってしまっているのか?
 などと悪い空想ばかり溜め込んでいても仕方がないので、ここらで現物を聴いてしまうこととしよう。

 ここで当方の里アンナに対するポジションを明らかにしておくと、奄美のローカル・レコード会社のカタログで里アンナが十代の頃に出したデビュー・アルバム”きょらうた”のジャケ写真を見、その美少女ぶりに惹かれ、即、アルバムを購入。収められていた歌声にもすっかり魅了されてしまった、と言う次第。
 だから、と言うべきか、その後に発表された何枚かの里アンナの”ポップス歌手”路線のアルバムには、あまり興味が持てずにいる。「島唄をまた歌ってくれないものかなあ」などと思いつつ、彼女の活動を見守っている状態。
 上記アマゾンの否定的レビューを書いたのは里アンナのポップス作を評価している人であり、それに比べれば当方はさらに”右派”の聴き手である訳で、これはますます・・・

 などとゴタゴタ言いつつCDを再生してみる。
 ・・・う~む、やはり微妙だ。

 とりあえず気になるのは、やはり全体を覆うジャパネスク気分である。
 たとえば、奄美の伝統音楽にはあまり関係がないと思われる尺八が全編に渡って鳴り渡っているが、これはいかがなものか。
 里アンナのライブ写真など見ると、バックバンドに尺八のようなものを吹くメンバーがいるのを見ることがあり、この尺八の響きは今の彼女の音楽には定番として存在しているのかも知れないが。私としては、導入しないほうがいいのではないかと思う、この盤の出来を聞いての感想として。
 どうしても木管の響きが必要なら、民族性をあまり主張しないフルートなどのほうが、ここではむしろ効果的なのではないかと考える。

 また曲によっては、中国の二胡や津軽三味線なども参加しているのだが、これの効果もどうか? 
 いまさら手垢の付いた”汎アジア”などを演じてみせるよりも、奄美ローカルにこだわることのほうが逆にインターナショナルな成果への近道ではあるまいか?

 まあ、聴き馴染むにつれて、静かにうねる南の海が夜の月に照らされる悠然たる情景が浮んでくる、全体のイメージなどが段々に好ましいものに感じられてくるのも事実。「なかなか良い感じだな」とも思いかけるのだが・・・
 しかし、そこで最小限の伴奏しか付いていない奄美民謡、”黒だんど節”などが始まると、どうしてもそちらの歌声の表現の深さに感じ入ってしまうのである。島唄を歌うアンナは良いなあ、やっぱり。

 そして時に、打ち込みの野太いリズムをバックに「壮大なるワールドミュージック」を演じる里アンナの様子が意外に線が細くて、ちと痛々しく感じられる瞬間もあり。そうすると元ちとせというのは相当に逞しい女なんだな、などと変なことに感心してしまったり(?)

 などなど。やっぱり否定的な方向に傾き気味の感想になってしまったのだが、不愉快な出来のアルバムとは思っていない。これからも聴き返すことはあると思う。そして里アンナには、さらに2度でも3度でもワールド志向の音楽にトライして欲しく思っている。
 彼女の資質なら良いものが出来ると思うのだ。楽しみに思うのだ。”島の唄者”としての里アンナの一ファンとしては、それをこれからも待ち続けようと思う。