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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

メコン河ナイトクラブ

2008-12-04 02:59:49 | アジア


 ”Tinh”by Le Kieu Nhu

 何しろ当方、同じジャンルの音楽を、アルバムで言えば2枚続けて聴いていると、なんだか煮詰まってくるような精神衛生上良くないような気分になってしまうという落ち着かない性格で、まあ、ワールドミュージックのファンになるべくしてなったというべきか。
 そんな事情も一方にはあって、世界中のあちこちの音楽を無軌道につまみ食いしているのだが、もちろん、どこの音楽もオッケーというわけには行かなくて、ある地域の音楽を苦手としていたりもする。
 それにはさまざまな事情があって、ほんのちょっとした取っ掛かりというのか、その地域の音楽を楽しむための私なりの手がかりがつかめないがゆえのもの苦しい関係であったりする。

 たとえばベトナムのポップス。今のところ、かの国の音楽で一番親しめているのが、ここにも書いた事のある大歌手カン・リーが、ほぼギター一本の伴奏で歌ったアルバムだったりする。
 この音楽、どう考えてもベトナム音楽としては例外的なものであろうし、なによりギター一本によるサウンドというあたり、私の感性がベトナムの土俗を避けているとの解釈も成り立ちそうな感じで、なかなかに苦しいものがある。
 というわけでベトナムの音楽、私にとっては今のところ、取っ掛かりがつかめない音楽の状態にある。

 まだべトナムのポップスなど入手も叶わない頃、というかベトナム戦争の戦火が終結を見て程ない頃、共産化したベトナムに馴染めず、アメリカに亡命したベトナムの人々の小社会で流通している音楽に関するレポートを読んだことがあった。
 そこには、「ベトナム人はタンゴが好きで、ニューヨークのベトナム人ばかりが立ち寄るクラブにおいては、退嬰的雰囲気を醸しつつ、けだるくベトナム語によるタンゴが歌われている」なんてことが書いてあったものだ。

 タンゴといえば、当方の時代錯誤的偏愛物であり、おお、それに乗った!と思ったものだった。それは聴いてみたい。時代の流れに翻弄されるままに異郷に流れ着いた根無し草のベトナム人が、明日から目を逸らしつつのめりこむ甘美なるタンゴの響き。こいつはたまらないシュチュエーションじゃないか。
 などと思ったものの、その後、”ニューヨークのベトナム系タンゴ状況”の実際の音が届けられることもなく(噂と現実の齟齬。ワールド物を聴いていると、こういう体験が結構あるね)いつの間にか私は、ベトナム音楽に馴染む道を見つけられず、置いてけぼりを食って立ち尽くしている自分に気が付くのだった。

 前置きが長過ぎたが、そんな私にとって今回のこのアルバム、長いこと待ちぼうけを食わされていた”ベトナムの罪深き夜”を体現する音楽とも言えるものなのであった。ジャケ写真など見ると、もう”これでもか!”と言わんばかりにセクシー歌手たるオノレをアピールする女性歌手による新作アルバムである。
 昭和30年代の我が国で隆盛を極めた”都会調・夜のムード歌謡”みたいな曲調の内に、どこか汎東南アジア的田園ポップスの香りを秘めたメロディを、重く湿ったナイトクラブ風のアジア系ラテンサウンドに乗せて、哀感の陰に隠しても隠しきれぬ淫らな節回しで彼女は、ウッフンアッハンと歌い上げる。(まあ、タンゴはないんだけどね)

 とはいえこのアルバム、別にニューヨーク発なのではなくて、現地ベトナム製なのである。退嬰は時を経、ベトナム本土の岸部まで逆流をしたのか、それとも、この熱く湿った気だるい夜の退廃はメコン河の底深くに染み付いて、西洋人の鉄の雨でもホーおじさんの赤い小さな本でも消し去ることは不可能な技である、と理解すべきなのだろうか。
 バックを受け持つバンドの、夜の盛り場の紫煙とアルコールで煮締めたような汚れたサウンドの快感も、付記すべきだろう。

 終幕は、これも妙に淀んだ気配漂うロックンロール・ショウ。もちろんそれも、”大人の夜の社交場”のくくりの中におけるそれ、なのであるが。客とホステスが興に乗って踊り明かすんだろうか。
 うわあ、この重い暗い湿った、禁じられた快楽の気配、たまらないね。気に入ったよ、このアルバム。

 ときに、この歌手は私は初聴きなのだが、これが2作目の新人歌手で、前作はまさにタンゴを演じたアルバムなのだそうな。おお、もう一歩のところでの行き違いはまだまだ続いているようだ。



ロバート・ジョンソンの見えない顔

2008-12-03 03:42:02 | 北アメリカ


 冒頭から話が横にずれて恐縮だが。昨日書いた流行語大賞に関する話の続きを。
 やはり”金髪豚野郎”を落としてはいかんでしょ、という気はする。
 うん、今年の前半の流行り言葉なんか覚えちゃいないし、そうなると後半のハイライトはあれだろう。まあ、ご当人以外、口にする理由もないんで流行のしようがなかったのが惜しいところだが。
 ちょっと「金髪豚野郎」と口ずさんでみるだけでも、なにか痛快な、溜飲の下がる心地がするよなあ、あの言葉は。別に落語家・小朝に関しては、「なんか虫の好かない野郎だなあ」以上の、特筆すべき感想も持ってはいないのだが。

 泰葉に関しても、皆、批判的だったが、私なんかはそれが理解できないね。あんな面白いキャラ、言いたい事を言うだけ言わせてやればよかったじゃないか。もっともっと面白いフレーズが出てきたかもしれないのに。
 新しく所属した会社も、暴言をしないことまで契約条項に含めたなんて、なんてつまらない対処を。”小心な小市民”というのは、ああいう連中を指すのだろうね。すぐに破綻するんじゃないの、契約関係。

 で、本題。
 
 ネット上の知り合いののプカさんが、”相方”さんがお聴きのラジオから、偶然にロバート・ジョンソンのブルースが流れて来た、という日記をつけておられた。
 プカさんは、あの戦前デルタブルースの巨人、ロバジョンの残したレコーディングの曲名を、そこに列挙しておられたのだが、うん、あんな具合にタイトルを列挙するだけでも、ある種の風情が生まれてくるな。

 もう何十年も前にアメリカ合衆国深南部に生きたしがない黒人たちの日々から生まれた、ロバート・ジョンソンのブルースが聞こえて来る。
 かなりテンション高くチューニングされたみたいな響きのギターの弦が独特のボトルネック奏法で擦り立てられ、張り詰めた甲高い叫びであるボーカルが重なる。

十字路
河沿いをうろついてるよ
飲んだくれ
うちの台所へ来いよ
虚しい恋
かわいいスペードの女王
うろつき回る 
説教ブルース~悪魔なんざ、またいでやるさ~
蓄音機
真っ赤で辛いんだ、あれは
海老が死んでた
最後の審判の日が、俺のものになるんなら
行く手には石が
俺と悪魔のブルース

 ロバート・ジョンソンは学生時代、アルバムを(もちろん、アナログ時代の話だからLPを)持っていたんだけど、どこへ行ってしまったのか?

 金はなく暇をもてあましていたあの頃、そのギター弾き語りの地味な音楽を、何度も何度も狭い下宿で聴いていたものだった。楽しんで聴いていたといえるかどうか。伝説のミュージシャンだからとお勉強として義務的に聴いているうちに耳に馴染んでしまった、みたいな感じではなかったか。
 古いブルースを聴くにはおあつらえ向きに薄ら寒い長雨の季節が続いていたような記憶がある。本当にロバート・ジョンソンの良さが身に染みて分かるようになるのは、気楽な学生の身分を追われて、とりあえず食って行く金を自力で稼がねばならなくなってからだ。

 あの頃聴いていた盤は、まだロバート・ジョンソンの顔写真が発見されない時代のこととて、うつむいてギターを爪弾くイラストのジャケだったんだけど、それが逆にイメージの広がりがあって良い感じだった。冒頭に掲げたのが、それなんだけどね。

 今日、流布している、”発見された”ロバート・ジョンソンの笑顔を浮かべた写真をあしらったCDのジャケには馴染めない。”全曲集”とかいう、その二枚組だったかのCDは、ついに好きになれないまま何度も聴くことなく手放してしまった。
 本当にそれがロバート・ジョンソンの写真なのかがまず信じきれないし、こちらは長年、あのイラストのジャケに馴染んできたのだ。一緒に歴史を刻んできたのだ。その立場からすれば、あの写真は生々し過ぎ安っぽ過ぎる。

 そういえば”全曲集”というのも物欲しげで下品な気がするぞ。最初に出回っていた公式盤の14曲、あれだけで十分じゃないのか、ええ?
 とはいえロバート・ジョンソンの曲というと、それをコピーしたアメリカのポール・バタフィールド・ブルースバンドの、そのまたコピーであるゴールデン・カップスの演奏による”ウォーキング・ブルース”をまず、思い出してしまうんだけどね、実は。


オヤジの寝言としての「流行語大賞」

2008-12-02 04:05:45 | 時事


 毎年、受賞作を知るたびに「そんな言葉、流行っていたっけな?」と大いに疑問に感ずる流行語大賞の2008年度版が発表になったが、今年も同じくである。そんな言葉、流行っていたか?
 まあ、そもそも何が面白いのかまったく理解できないグロテスクなだけのタレント、エドはるみは論外として、「アラフォー」なんてのも、広告屋がありもしない”価値”をでっち上げるためのツールとしてごり押しで使っていただけだろう。

 その他の”特別賞”を見ても、ここで初めて聞いたような言葉が並んでいる。
 「蟹工船」なんてのは、そんなタイトルの本が予想外に売れたというだけで、特に言葉としては流行らなかったはずだ。「上野の413球」だと?「名ばかり管理職」だと?「ゲリラ豪雨」だと?
 そんな言葉が流行していた現場があったなら教えて欲しいものだ。どういう世界に生きてるんだよ、審査員連中は。
 ともかく、全体を支配するオヤジ臭に辟易する。

 また、政治家の発した、特に機転も聞いていない、もちろん流行りもしなかった言葉が毎年必ず候補に挙がっているのも、審査員たちのカビの生えたような権力志向が伺われ、ますますしらける。
 いや、そもそもこの賞の基本が、「ワシらは今年の日本の”潮流”はこのようなものであったと断ずる」とか”有識者”を気取って言い張りたい主催者および審査員連中の権力欲の提示、それだけのものなのだろう。

 この賞、いつの間にこんなことになってしまったのかね。始まった頃にはもっと世相に対する痛快な批評を孕んだものだったような記憶があるのだが。
 今年取り上げられた言葉の中では唯一、元首相フクダの「あなたとは違うんです」くらいのものだよなあ、選出が痛快に思えるのは。それだって、発言直後にネットでさんざん騒がれたものであり、特に斬新なネタでもなんともないのではあるが。

 ○2008年『流行語大賞』は「アラフォー」「グ~!」 福田前首相は受賞“辞退”
 (ORICON STYLE - 12月01日 17:02)
 師走の風物詩『現代用語の基礎知識 選「2008 ユーキャン新語・流行語大賞」』が1日(月)、発表され、年間大賞に40歳前後の女性を指す「アラフォー」、タレントのエド・はるみのギャグ「グ~!」の2語が選出された。また審査員特別賞として北京五輪から「上野の413球」が受賞。そのほかトップテンには、今年も猛威をふるった「ゲリラ豪雨」、福田康夫前首相が辞任会見の最後に述べた「あなたとは違うんです」などが選出されたが、候補者辞退のため“該当者なし”となった。
 年間大賞語を受賞した「アラフォー」は、言葉を広めるキッカケとなったTBS系ドラマ『Around40~注文の多いオンナたち~』に主演した女優・天海祐希が受賞。また今年のお笑い界を「グ~!」で席巻したエド・はるみも受賞した。審査員特別賞の「上野の413球」は、文字どおり北京五輪女子ソフトボール金メダル獲得の原動力となった上野由岐子投手が受賞した。
 トップテン語は以下。
★大賞「アラフォー」受賞者:天海祐希
★大賞「グ~!」受賞者:エド・はるみ
★審査員特別賞
「上野の413球」受賞者:上野由岐子
「あなたとは違うんです」受賞者:受賞候補者辞退のため、該当者なし
「居酒屋タクシー」受賞者:衆議院議員 長妻昭 ※会見は欠席
「蟹工船」受賞者:長谷川仁美(書店員)
「ゲリラ豪雨」受賞者:株式会社ウェザーニューズ社
「後期高齢者」受賞者:山崎英也
「名ばかり管理職」受賞者:高野広志
「埋蔵金」受賞者:衆議院議員 中川秀直

ナポリの霧の夜

2008-12-01 05:14:44 | ヨーロッパ


 ”La vita e un'altra”by Eduardo De Crescenzo

 Eduardo De Crescenzo はイタリアはナポリ出身のシンガー・ソングライター。この”ナポリ出身”というところと、よくアコーディオンを抱えている写真を見るのが気になって聴いてみた歌手だった。音楽的にという以前に文化的に凄く興味をそそられるナポリの出身で、しかも今どき、アコ-ディオンなんか抱えてステージに出てくる歌手も珍しいから、どんな音楽をやるのかと興味をそそられたのだった。

 実際に音を聴いてみると彼の音楽、アコーディオンから期待された民族色はさほどでもなく、アコーディオン自体の音もときおり聞こえて来る程度のものだった。が、その音楽はなかなか上品で洗練された中にかすかに哀感漂う大人のポップスで、その狭間に伺えるナポリ出身らしい人懐こい表情もワールドもの好きには嬉しく、ひそかに贔屓にして来た歌手だったのだ。

 いや、なにも”ひそかに”なんてコソコソする必要もないのだが、相変らず情報不足のイタリア・ポップスであり、Crescenzoに関して基本的な部分で誤解している可能性もあり、それよしなにより、彼のアルバムのすべてを聴いたわけでもないので、あーだこーだ言うのはもう一つ気が引けるのだった。

 それをなぜ、こうして文章にしてしまっているかといえば、夜更けに気まぐれで聴き始めたCrescenzoのアルバムがあまりにも今の自分の気持ちにフィットするので、まあいいや、なんていい加減な気分になったから。
 うん、いつもの休日の深夜の憂鬱にふさがれながら音楽を聴いていたら、今回のこのアルバムの音にコロッとやられちゃったのさっ。

 Crescenzoは1950年代の生まれで70年代の終わりにデビューしている。デビュー当時は専門の作曲家が作った歌を歌う普通の”歌手”で、途中から、アルバムでいうと5枚目から自作の歌を歌うようになったようだ。途中で自作の歌を専門に歌うようになるというパターンもちょっと珍しい。で、そのころからトレードマークのアコーディオンも登場している。
 独特の甲高い声で洗練された都会風のポップスを歌うのだけれど、どこかに不思議な人懐かしい哀感が漂う、みたいないわくいいがたい魅力のある歌手である。その道に詳しい人なら、そんな彼の音楽の陰に潜んだナポリ民謡の血の一筋を指摘することも可能なのではなかろうか。

 そんな彼の、これは2002年のアルバムである。
 いつもはトレードマークのメガネと口ひげで、柔和な笑顔を浮かべてジャケ写真に収まっている Crescenzo が、ここでは何か疲れた表情で流れ行く夜の都会のネオンを見つめている。なんだかその横顔には”老い”なんてものの気配さえも感じられてしまう。Crescenzo になにかあったのだろうか?それともこれが彼の、歌手としての新機軸?

 収められている音楽も、メジャー・セブンスの和音を効果的に使った、霧が立ち込めるような都会的で幻想的なサウンド。
 その中で Crescenzo の高く澄んだ声が、遠い昔に失ったなにごとかに向けて遠く呼びかけるみたいな、ほのかな悲しみのエコーを響かせる。そんな作品となっている。
 そいつが休日終わりの夜の憂鬱に妙にフィットしてしまってね、何度も聞き返すうちに、ありゃりゃ、このまま行くと夜が明けてしまうな・・・

ヤースガース・ファームを後にして

2008-11-30 05:04:14 | いわゆる日記


 これはまあ、わざわざ書くような話でもないのかも知れないんだけど。

 古内東子とか言う歌い手の昔の歌が今、コマーシャルで使われているでしょう。
 ”大事なものが どんどん 増えて行く 一つ一つ守ってく~♪”などと始まり、”そんな自分でいたい~♪”とか、そんな具合に締めるんですが、なんかあの歌が流れてくるたびに妙な気分になってねえ。

 ”守らなければならない大事なものがどんどん増えて行く”ってのは、そんなに幸せなことだろうか?憧れる価値があるだろうか?
 私はむしろねえ、そんな諸々のこだわりから解き放たれ、価値もないものに振り回されることから自由になり、余計なものをどんどん捨てていけたらと憧れるんですが。

 ただ風に吹かれるままに生きている。何も必要としない。”そんな自分でいたい~♪”と思うんですがね。いわゆる解脱ってやつですか。そりゃまあ、なかなかそんな境地になれるもんじゃないが。
 いや、こんなことは各々の哲学に関わることで、どう考えるべきだとか言ってみても仕方ないのであるんですがね。

 ただ、テレビからあの歌が流れてくるたびに、強欲そうな女が部屋一杯ブランドものを積み上げている光景とか浮んで、なんか気が重くなってしまうんでね。こんな事を書いてみたわけですわ。

 なんて事を考えてしまうのは、若き日、影響を受けたヒッピーの考え方とか、そんなものの名残りが心の中に燃え残っているのかなと、オーバー・ウエイト気味の己の身を嘆きつつ、ふと思う。
 昔の仲間は、どうしているだろうなあ。長い歳月のうちに、便りも途絶えたままだけれど、元気でやっているのか。
 今年ももう、12月かあ。早いねえ。

セドロンの花束

2008-11-29 04:01:58 | 南アメリカ

 ”RAMITO DE CEDRON”by LIDIA BORDA

 ちょうど私がタンゴを聴き始めた頃、新進タンゴ歌手としてデビューしたリディア・ボルダであり、私は勝手に”同級生”みたいな親しみを感じていたのだった。
 それにしても1995年のデビューで、今年発表されたこれが3枚目のアルバムとは寡作だなあ。それ以外に、客演したプロジェクトなどがあるとはいうものの。何か事情があって、作品を連発しないのだろうか。

 どちらかといえば鉄火肌の女性がテンション高く歌い上げる、みたいなタンゴの女性歌手の中にあって、その繊細な歌唱スタイルと、低く落ち着いたアルトの声が伝える楚々たる雰囲気。加えて、ショートカットの髪が印象的なその美貌もあいまって、ある種の同時代的共感を伴いつつ、なかなかに切ない存在だったのだ、デビュー当時の彼女は。
 ピンクが基調になったデビュー盤のジャケの可憐な感触がいかにもふさわしく感じられた。とはいえ、デビュー当時の彼女の年齢はもう、30代にさしかかっていた筈なのだが。

 人々が忘れかけていた30~40年代の古い歌を好んで歌うリディアであり、その、時を隔てたセピア色の感傷を見据える思索的な姿勢と選曲のセンスの良さが、彼女の大きな魅力となっていた。

 そんなリディアの最新盤である。

 まずジャケ写真を見て、その容貌の変化にちょっと驚いてしまったのだった。ショートカットの快活な少女(という年齢では、デビュー時、すでになかったにしろ)の印象が強かったリディアが、今回はなんだかすっかり貫禄が付いていたのだ。

 ジャケ写真やインナー・スリーブで、少し伸ばした髪と黒いドレスで笑顔を見せる彼女は、タンゴの生まれた頃の植民都市ブエノスアイレスにおいて名うての悪場所を取り仕切る凄腕の女将、みたいな図で写っていた。まあ、収められている曲に合わせたキャラを演じているのかも知れないが。

 取り上げられているのはすべて、ファン・タタ・セドロンなる作曲家のペンになるものばかり。もちろん、この人物についても詳しい知識はないのだが、独特の”都市のフォルクローレ”みたいな感触があり、興味をそそられる。
 なんでもセドロンは1970年代、軍政を逃れてアルゼンチンからフランスに移り住み、主にヨーロッパでタンゴ活動をしていた人とのことで、歌詞が分かればますます奥深いものを受け取れるかと思われる。そもそもリディアはなぜ、この人の作品集にトライしたのだろう。

 今回のアルバムで見せるリディアの歌唱も、いつもの楚々たる印象のものから若干踏み出し、女の業みたいなものを掘り下げる、濃厚なものへと変化を遂げていた。やっぱりどこか非合法の酒場の女将っぽいかなあ・・・
 考えてみればリディアの歌を初めて聴いてから、もう10数年が経っていたのだった。先に述べたように寡作の彼女ゆえ、その歳月を意識したことがあまり無かったのだが。
 この後のアルバムは、一体いつになるのだろう。また、長いこと待たされねばならないのだろうか。なにやら気になるのだかど、この先の展開が。

 余談。歌詞カードに添えられている奇妙なオブジェの写真が気になる。段ボールのデコボコを利用した、おそらくはブエノスアイレスの古い町並みを表現したものらしいのだが。
 なんだか当時の人々の生活のぬくもりみたいなものが凄くリアルに伝わってくる作品である。そいつはリディアの今回のアルバムを読み解く大きな鍵となってくれるようにも感ぜられているのだった。

主よ、人の望みの喜びよ

2008-11-27 00:29:17 | アンビエント、その他


 Choral "Jesus bleibet meine Freude"

 夜、コンビニに買い物に行くときに気が付いたのだが、知らぬうちに近所のヨットハーバーにクリスマスのモニュメントが出来上がっていた。
 まあ、それはいいのだが、こう時期も早くそそり立ってしまうと、なんだか「このあたりもワシら”年末商戦組合”が抑えたけんね」と宣言されているみたいな被占領気分にもなったりする。

 いつの間にか”年末”というものがどんどん前倒しになり、この頃は12月のすべてが、そしてついには11月までもがことごとくクリスマスの、というかクリスマス商戦の助走のためだけにある、みたいになっている。
 そして街にはしばらく、あの、マライヤ・キャリーのなんたらいう浮かれたお祭りソングが一ヶ月も二ヶ月も休みなく喧しく鳴り渡り続けるようになる。ようやく街に静けさが戻ってくるのは、やっと年末になってからである。

 なんとも我慢がならない季節になってしまったものだが、子供の頃はそれなりにクリスマスも楽しみな催しだった記憶はある。そいつは今の豪奢な祭りとは比べものにならない質素なものだったのだが。いや、だからこそ、そのささやかな祭りが心優しい時代の記憶として残り得ているのだろう。
 あの頃自分は、世の人々すべてが幸福に包まれ得る、と普通に信じ込んでいた。時は流れ、そんな事はありえない、と今は知ってしまっている。だからどうした。どうもせずに、ただ人々は生き続ける。

 この辺の時期になってくると、シンと冷え切った夜空を眺めながら演奏してみたくなる曲というものがあって、それがバッハのコラール、「主よ、ヒトの望みの喜びよ」である。
 なんだか知らないが私には、年末の足音が聞こえ始めて街の空気が気ぜわしくなってくると、この曲を演奏してみたくなるのだ。聴きたくなるのではなく、自分で演奏してみたくなる。

 といったって、この曲の正しい演奏法を知っているわけではない。
 有名なメインのメロディを奏で、ブリッジ(と、クラシックの世界で呼ぶのかどうか知らないが)の部分を弾き、元のメロディに還り、そこでただ決まったメロディを奏でるだけでは芸がないななどと余計な考えを起こし、元のメロディにブルースっぽいフレーズを紛れ込ませたアドリブを奏で、そのあたりでどこを弾いているのか分からなくなって曖昧に演奏を終える。そのレベルのものだが。

 何でこの時期にこの曲を弾いてみたくなるかと不思議なのだが、その典雅なメロディに”遠い時代に失われた静かな冬の祭り”へ寄せる私の追慕の感情を刺激するものが、どうやらあるようだ。
 とはいえ、この曲の由来など調べてみると、処女懐胎を告げられた聖母マリアに捧げる曲であるようで、私たち異教徒に簡単に理解可能なものでもない。私の感傷もきっと的外れなものであるのだろう。

 なぜかこの曲はギター弾き、それもクラシック外の弾き手に好まれていて、手元にある盤のいくつかにも、この曲が収められている。一番刺激的なのが、やはりアルゼンチンのフォルクローレの巨人、アタウアルパ・ユパンキによるギター・ソロ作だろう。
 主題の提示後、瞑想的な雰囲気を振りまきつつ転調し、とんでもない方向にポンと音は飛んでどうなることかと思わせつつ、見事に元のテーマに演奏を収束させてみせる。名刀一閃、みたいな鮮烈な演奏だ。

 聴いていると、深夜、雪に閉ざされたアンデス山脈のどこかで、孤独に祈りを捧げるインディオの姿などが浮んでくる。キリストの名によって、彼らアメリカ大陸先住民たちの上に、どれほどの災禍がもたらされたか、などということはもちろん、彼は学ぶことは許されなかった。ただ彼は祈り続ける。山々は眠る。夜は更ける。雪は降り続ける。

 何年前だったかなあ、もうその年も何日も残っていない、なんて時期に、暮れかけた空にまるで天使みたいに見える雲の塊を見て、「うひゃあ、俺も頭がおかしくなったかな」なんて驚いたものだった。天使を思わせる、大きく翼を広げた雲の後ろに月があって、その光をなにやら神秘的に海の上の暗い空に滲ませていた。
 気が付けば海岸には私の他にもその雲に見入っている人々がいて、どうやらそれが私一人に見える幻覚でもないらしいと知って安堵したのではあるが。

 うん、まあ、それだけの話だ。寒いねえ。

マレーの風の歌

2008-11-26 02:57:31 | アジア


 ”Tiupan Seruling Bambu”by Mohar

 東南アジア音楽のファンにはお馴染み、かの国々の流行り歌に独特の、熱帯の哀愁を振りまく竹笛、”スリン”の名手であるモハルのソロ・アルバム(2003年)というのは珍しいんじゃないだろうか。
 なんかジャケ写真を見るとモハルの容貌は、「ヒミコさま~っ!」とかいうネタをやる漫才コンビの髪の長いほうに似ていて、ちゅっとガックリ来るんだけど、まあ、それは音楽には関係ないか。

 彼がいつもバックを受け持っているマレーの人気歌手たちのヒット曲を、丁寧にスリンで吹き上げたもので、サウンドは相当に洗練されている。
 ことにマンドリン奏者のプレイなんかは、アメリカのブルーグラス系のミュージシャンでジャズっぽいプレイをする、あの一連の連中を思わせるものがあり、全体にかなりのインテリっぽいクールな手触りだったりする。
 この辺、オシャレを狙ったのか、それとも腕利きミュージシャンの矜持から来る”高レベル気取り”なんだろうか。

 いずれにせよこの感触が、どちらかといえばねちっこいマレー歌謡から脂を抜いたみたいな効果を生んでいて、なかなか面白いアルバムとなっている。いつもとは別の角度から見たマレー歌謡と言うべきか。

 熱帯らしい生々しさが薄れ、スコールの上がった夕暮れ時、つかの間の涼を振りまきながら林の間を風が渡って行くように、モハルのスリンが響く。なんだかマレーのメロディが持つ微妙な陰影が浮き彫りになった感じなのだ。
 繊細なアジアの心の綾みたいなものがモハルの竹笛の調べのうちから吹き零れ、つかの間、空気を揺らして消えて行く。こいつは切なくて良いやね。

ボローニャの憂鬱

2008-11-24 03:47:37 | ヨーロッパ


 ”DALLAMERICARUSO”by LUCIO DALLA

 ルチオ・ダルラ。イタリアはボローニャ出身のシンガー・ソングライター。60年代から活躍している大ベテランですな。

 彼は1971年、イタリアでは紅白歌合戦とレコード大賞を混ぜたくらいおめでたい催しである(んだろうと思う。最近は、そのご威光も薄れてしまったみたいだけど)サンレモ音楽祭において、「自分は第2次大戦後、進駐して来たアメリカ兵と、彼にレイプされたイタリア女性との間に生まれた」なんて衝撃的内容の”自伝的”な歌を歌いヒットさせてしまった。

 どこまでこの歌がドキュメンタリーなのか分からないけど、なんとエグいといいますかベタに芸能界っぽい名前の売り方でございましょう、と呆れますわ。
 なおかつ、その後の彼の音楽活動というのは実に堅実な実力派ぶりで、スキャンダラスな名の売り方が今となっては不釣合いに思える。まあ、”若気の至り”ってのもあるでしょうけどね。

 これは、ダルラが伝説のテナー(なんだそうですな。私はクラシックの知識は全然ないんで、そのありがたみが分からないんだが)のエンリコ・カルーソーをテーマにして作り、クラシック界からポップス界までの、数多くの歌手たちに歌われた曲、”カルーソー”をメインに置いたアルバム。この曲はイタリアン・ポップスの歴史に残る名曲とか言われているようです。

 収められているそれ以外の曲も、彼の代表的ヒット曲ばかり。ダルラの魅力を知るのには手っ取り早い、というよりこのアルバム自体が、”カルーソー”でダルラの名を知った人たちに効率よく彼を認知してもらおうと作られたもののような気もします。

 肝心の”カルーソー”なんだけど、深い情感を込めて盛り上がる、みたいな曲調なんだけど、オノレの作ったメロディにダルラ自身の歌唱力が付いて行けていない感もあり、そこがある意味、笑える。
 だからこの曲、ダルラ自身の歌うヴァージョンより、ダルラとパヴァロッティのデュエット・ヴァージョンの方がベストって人が多かったりするのでしょう。私なんかは、そのちょっと情けない感じが逆に哀愁漂っていいじゃないかとか思ったりもするんだが。

 それしにてもこのダルラの作る歌というのはクセモノで、私は彼の作るバラードが大好きなんだけど、その音楽性、親しみ易いようでいて、どこかへんちくりんなメロディや和音の進行だったりする。人懐こいようでいて、うっかり気安くすると撥ねつけられるようなひんやりした感触をときおり覗かせる曲の数々。

 もしかしてダルラは、相当に深い孤独を抱きつつ歌を作り続けている人なのかも知れない。
 その、歌の底に横たわるヒリヒリするような孤独の手触りがまた、聴き慣れるとクセになってしまうのよなあ。
 不思議な歌い手だと思う。そういう人が大衆的スターであるイタリアという国も込みで、

CCCDの亡霊

2008-11-23 04:17:49 | 音楽論など


 下の文章は先日、ある通販サイトに出したメールなんですが。まあ、今、冷静になって読み返すと、我ながら何を熱くなっているんだと気恥ずかしくなってくるんですがね。
 でも、違法コピーへの対策との名目のもとに顧客を公然と犯罪者扱いにしていた、あの失礼な物件、CCCDを今どき知らずに買わされたら、そりゃ頭に来ますって。

 CCCDを日本に広めようとしていたA級戦犯と言いましょうか、最大の推進者だったエイベックス社のヨーダ氏も、とうの昔に失脚した今日でありましょう?いまや、CD購入から音源ダウンロードの時代だ、なんて掛け声も高く聞こえる現状。
 もうCCCDなんてものは過去の遺物、そいつが納められて棺の蓋を覆った土を、我々は踏みしめたと信じ込んでいたのに。

 何でいまさらコピー・コントロールCDなんて過去の亡霊みたいなものに出くわさなけりゃならないのか。もの凄い不合理と感ずる。
 とっくに卒業したはずの学校で苦手な教科のテストを受けさせられ、さっぱり解けずに冷や汗かいている古典的な悪夢の中にいるような気分だ。どういう意図を持っていまさらこんなものを世に出す気になったのか、教えて欲しいものだよ、まったく。

 そんな訳で、EMIミュージック・ジャパン!今どきCCCDなんて間抜なものを製作してんじゃねーよ!皆、気をつけろよ、クラフトワークの”ミニマム/マキシマム”の日本盤はCCCDだからなっ!

 ここでふと思い出したんだけど、ミュージシャンの中でも例外的にCCCD支持だった、たとえば吉田美奈子なんかは今、どうしてるのかね?多くのミュージシャンがCCCDに否定的反応を示すなかで、彼女はあれを、CDコピーを防ぎミュージシャンの権利を守るための、正しい処置と論じていたと記憶している。
 今、アマゾンを開いて、彼女の作品をチェックしてみたんだけどね。確かにいくつかのアルバムはCCCD仕様のようだ。

BELLS-Special Edition (CCCD- 2002)
Stable (CCCD- 2002)
REVELATION (CCCD - 2003)
RECONSTRUCTION(CCCD- 2004)

 などなどが見受けられる。
 だが、すべての作品がそうではないのは納得できないね。そんなに良いシステムなら、自身が関わった全作品を、なぜすべてCCCD化しないのか?
 どうやら最新盤らしい、渡辺香津美 との”nowadays ”なんかもCCCDじゃないようだけど、どうしたの?

 CCCD是非論争が喧しかった当時、あれだけ声高にCCCD支持を謳っていたんだからさ、世界中のミュージシャンがそんなシステムに目もくれない時代になっても、”世界でただ一人、CCCDで新譜を出し続ける歌手”であり続けるのが”筋を通す”ということじゃないのかね、ええ、吉田美奈子?

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 注文番号”××××”商品名 :ミニマム/マキシマム(ドイツ語ヴァージョン)の商品に関して。
 本日、該当商品を受け取って非常に驚きました。それがCCCDだったからです。
 私はCCCDを問題ある商品と考えておりますので、該当商品がCCCDと知っていたら、はじめから注文はしませんでした。
 が、そちらのサイトの表示を見ても”盤種”は”CD”となっております。また、該当ページのどこを見ても、この商品がCCCDである旨の標示はありません。これはつまり、貴社が該当商品をCCCDである事を隠し、普通のCDであるように見せかけて私に売りつけた、ということにもなりましょう。
 こちらの返品要求は受け入れてもらえると信じます。
 返品方法をお知らせください。そして、支払った代金の返還をお願いします。
 あるいは該当商品で、CCCDでなくCDであるものが存在するならば、交換願いたいのですが。

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