”Tinh”by Le Kieu Nhu
何しろ当方、同じジャンルの音楽を、アルバムで言えば2枚続けて聴いていると、なんだか煮詰まってくるような精神衛生上良くないような気分になってしまうという落ち着かない性格で、まあ、ワールドミュージックのファンになるべくしてなったというべきか。
そんな事情も一方にはあって、世界中のあちこちの音楽を無軌道につまみ食いしているのだが、もちろん、どこの音楽もオッケーというわけには行かなくて、ある地域の音楽を苦手としていたりもする。
それにはさまざまな事情があって、ほんのちょっとした取っ掛かりというのか、その地域の音楽を楽しむための私なりの手がかりがつかめないがゆえのもの苦しい関係であったりする。
たとえばベトナムのポップス。今のところ、かの国の音楽で一番親しめているのが、ここにも書いた事のある大歌手カン・リーが、ほぼギター一本の伴奏で歌ったアルバムだったりする。
この音楽、どう考えてもベトナム音楽としては例外的なものであろうし、なによりギター一本によるサウンドというあたり、私の感性がベトナムの土俗を避けているとの解釈も成り立ちそうな感じで、なかなかに苦しいものがある。
というわけでベトナムの音楽、私にとっては今のところ、取っ掛かりがつかめない音楽の状態にある。
まだべトナムのポップスなど入手も叶わない頃、というかベトナム戦争の戦火が終結を見て程ない頃、共産化したベトナムに馴染めず、アメリカに亡命したベトナムの人々の小社会で流通している音楽に関するレポートを読んだことがあった。
そこには、「ベトナム人はタンゴが好きで、ニューヨークのベトナム人ばかりが立ち寄るクラブにおいては、退嬰的雰囲気を醸しつつ、けだるくベトナム語によるタンゴが歌われている」なんてことが書いてあったものだ。
タンゴといえば、当方の時代錯誤的偏愛物であり、おお、それに乗った!と思ったものだった。それは聴いてみたい。時代の流れに翻弄されるままに異郷に流れ着いた根無し草のベトナム人が、明日から目を逸らしつつのめりこむ甘美なるタンゴの響き。こいつはたまらないシュチュエーションじゃないか。
などと思ったものの、その後、”ニューヨークのベトナム系タンゴ状況”の実際の音が届けられることもなく(噂と現実の齟齬。ワールド物を聴いていると、こういう体験が結構あるね)いつの間にか私は、ベトナム音楽に馴染む道を見つけられず、置いてけぼりを食って立ち尽くしている自分に気が付くのだった。
前置きが長過ぎたが、そんな私にとって今回のこのアルバム、長いこと待ちぼうけを食わされていた”ベトナムの罪深き夜”を体現する音楽とも言えるものなのであった。ジャケ写真など見ると、もう”これでもか!”と言わんばかりにセクシー歌手たるオノレをアピールする女性歌手による新作アルバムである。
昭和30年代の我が国で隆盛を極めた”都会調・夜のムード歌謡”みたいな曲調の内に、どこか汎東南アジア的田園ポップスの香りを秘めたメロディを、重く湿ったナイトクラブ風のアジア系ラテンサウンドに乗せて、哀感の陰に隠しても隠しきれぬ淫らな節回しで彼女は、ウッフンアッハンと歌い上げる。(まあ、タンゴはないんだけどね)
とはいえこのアルバム、別にニューヨーク発なのではなくて、現地ベトナム製なのである。退嬰は時を経、ベトナム本土の岸部まで逆流をしたのか、それとも、この熱く湿った気だるい夜の退廃はメコン河の底深くに染み付いて、西洋人の鉄の雨でもホーおじさんの赤い小さな本でも消し去ることは不可能な技である、と理解すべきなのだろうか。
バックを受け持つバンドの、夜の盛り場の紫煙とアルコールで煮締めたような汚れたサウンドの快感も、付記すべきだろう。
終幕は、これも妙に淀んだ気配漂うロックンロール・ショウ。もちろんそれも、”大人の夜の社交場”のくくりの中におけるそれ、なのであるが。客とホステスが興に乗って踊り明かすんだろうか。
うわあ、この重い暗い湿った、禁じられた快楽の気配、たまらないね。気に入ったよ、このアルバム。
ときに、この歌手は私は初聴きなのだが、これが2作目の新人歌手で、前作はまさにタンゴを演じたアルバムなのだそうな。おお、もう一歩のところでの行き違いはまだまだ続いているようだ。