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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

しわいなる時制の果てに

2008-12-17 05:04:26 | その他の日本の音楽

 この間、”年間ベストヒット歌謡曲”みたいな2時間特番を見ていたら、以前この場で「なんかいけ好かない曲」みたいな悪口を行った記憶のある”青山テルマ”が出て来て、その問題の歌「ここにいるよ」を歌った。
 実はあの歌、こうしてテレビ等で流れるたびに、歌詞の一部に「不思議だなあ?」と思われてならない箇所が私にはある。歌いだしの部分、私にはこう聴こえるのだが。

 ”あなたのこと しわいまでも 思い続けているよ”

 しわい?そりゃ何かね?歌の文句がその後、”いくら時流れ行こうと”と続くところから、何がしか時制を現す言葉のようなのだが。

 たとえば億とか京とか、数の数え方が巨大な、いわゆる天文学的なレベルに達すると、数の単位を表す奇妙な言葉が出てくる。”不可思議”とか”那由多”とか。そんな種類の言葉なのだろうか?
 そんな言葉を引っ張り出さねば間に合わないほど、自分の想いは途切れることがないのだ、という表現なのか。「しわいの時が流れても、私のあなたへの想いは変わらない」とか。

 まあ、こんなネタを延々と引っ張ったってしょうがないからすぐにオチに行くが、その時テレビの画面に出た歌詞は、

 ”あなたのこと私は今でも思い続けているよ”

 だった。

 あ、ああ、なるほど。「わたしは」の、「わた」の部分が歌い方の問題だか私の聴き方のせいだか知らないが私には聴こえなくて、それで妙なことになってしまったわけだね。
 調べてみるとこの曲、今年の一月の発売なのであって。そうか、私はこの歌の文句をほぼ一年間にわたって「?」状態で受け止めていたのだ。調べなかったら今でも、いやこの先ずっと、誤解したままだったろうな。そう、しわいの時が流れても分からないまま。

 以上、無意味ですまんこってす。年の瀬ですね。


チェコのフォークヴィレッジ

2008-12-16 04:15:23 | ヨーロッパ


 ”KYTAROVÁ”by VĚRA MARTINOVÁ

 ヴォーラ・マルチノワ。チェコのフォークシンガーのようです。タイトルの意味は”ギター弾きの女”というものだそうで。その通り、CDの表も裏もフォークギターを傍らに立てかけ、微笑む彼女がいる。控えめな、大人のインテリ女性、という感じですな。

 聴いてみると、ほとんどが生ギターの弾き語り中心の素朴極まる音作り。ほんとに今どき珍しいくらいのフォーク・シンガーぶりです。マルチノワ女史、非常に歌い方も端正で、ギターもやたらと上手であります。
 で、冒頭の曲なんか、チェコ語のブルースですよ。それがあんまり堂に入っているんでなんだか60年代アメリカの、まだボブ・ディランが新人だった頃のフォーク・シーンなど連想してしまうのですが。ちなみにこの盤、2004年度作品。

 実際、収められているその他の曲も、繊細なギターの弾き語り中心で歌われる、のびのびとした旋律の、昼下がりの農場に降り注ぐ日の光と干草の匂いなんかを連想させる、見事なばかりの”フォークソング”ぶりであります。それこそ60年代のアメリカンフォークのまったく正統的な嫡子って感じだ。
 何かのアイロニーって感じでもないです。素直に、この音楽が好きという気持ちが伝わってくる。アメリカン・フォークの息遣いが、この中欧はチェコの地にそっと、でも地の底深く根を生やしているみたいです。

 で、何でこんな音楽がチェコの地にあるんだろう?実はマルチノワ女史について調べたくてネットをあちこち検索していたら、チェコのレコード通販サイトに”フォーク&カントリー”なんてコーナーがあるのを発見してるんですわ、私は。どうやらこの種の音楽、ほかにもかの地には存在しているようなんですな。

 で、まあ、毎度お馴染みの生煮えの決着で恐縮なんですが、何でこんな音楽がチェコの地に根ついてしまったは分からない。チェコ人の感性に、このアメリカ風のシンプルなフォークのメロディとサウンドが、なんとなくはまり込んでしまった、という事なんだろうなあ、なんて考えなくとも分かるような答えしか思いつかないのですが。

 なんとなく思い出したのが60年代、かの”プラハの春圧殺”がソ連軍によって行なわれた時代。あの時代にチェコの地でもアメリカ風のフォークソングが好んで歌われていた、なんてドキュメンタリーを見た記憶があるんです。
 その直後、チェコはいわゆる”鉄のカーテン”の内側に国体ごと幽閉されてしまうのだけれど、チェコ人たちは監視の目を逃れて密かに、まさに花開かんとする直前、奪われてしまったプラハの街と自由な空気の思い出を伝える、この、スラブ民族の地にはあんまり似合わないかも知れないアメリカ風のフォークを歌い続けていたのではないかと。

 いや、私の勝手な想像ですけどね、すべては。それにしても、何と優しい曲ばかりであることか。小春日和のある日、窓辺に差したお日様一筋、みたいな、ね。

不滅のビビアン

2008-12-14 03:37:47 | アジア


 あれれれ。ここへ来て、”芸能ニュース”でビビアン・チョウの名前を聞く事になるとは思わなかった。そうか、長年の恋人と別れたのか。良い知らせと言えるかも知れないね(笑)

 かって中国本土への”返還”を目の前にして、不思議な焦燥感で行き場のない熱を孕んで燃え盛っていた香港ポップスだった。
 オシャレな国際都市・香港が返還によって”中国本土”の政治と人の波に飲み込まれ、ついにはかってそうだったように華南のありふれた貧しい漁村に成り果ててしまうのではないか。
 ”返還”を目の前にした香港市民の夜毎の夢を過ぎる暗い幻想。そのような不安から目をそらさんがために、明けることのない夜を踊り明かす、そんな歪んだ終末観で煮え立っているような香港ポップスを聴くのが、私は好きだったのだ。

 当時のそんな香港ポップスのある部分を象徴する存在がビビアン・チョウだったと、私は考えている。
 稀代の名花と称された愛らしいルックスがあり、なおかつ、その清純イメージを自ら裏切って見せるかのような巨乳の持ち主であり、さらには、そのすべてをぶち壊しにするへったくそな歌、と。なんとも妙なバランスのアイドルぶりであり、それはまさに、避けようのない明日に炒り立てられる香港人の欲望の歪んだ体現とも見えた。

 そんな彼女のアルバムを私は、「そんなへたくそな歌のどこがいいの?」と同じアジア音楽ファンからは顰蹙を買いつつも聴き続けたものだった。そもそも香港は男性歌手上位の世界であり、私みたいに女性歌手のアルバムばかり聞いている奴は”外道”であったようだし。
 でも、あの蜃気楼みたいな香港の街と人の輪郭を描くのに、洗練された広東ポップスのサウンドに乗ったビビアンのへたくそな歌は、実に過不足のない”効果”を発揮していたのだ。
 あるはずのない都会がそこにある・・・99年の租借期間も使い果たし、もうじき終わりを告げようとする”借り物の土地と借り物の時間”の物語。

 「ビビアンの名は漢字では”周慧敏”であり、香港の広東語で発音すると”チュウ・ワイマン”となり、その響きを彼女自身は嫌っている」
 これが日本の男性誌に載ったビビアン・チョウに関する最初の記事の、締めの一節だった。などという、どうでもいい事を覚えている。だが、ビビアン・チョウの日本芸能界進出は成功することなく、そして私は”返還”と同時に香港ポップスに対する興味を失ってしまう。

 その後、ビビアンは芸能界を引退したと伝え聞いていたのだが?
 さて、男と別れて彼女は、また芸能界で活躍してくれるのだろうか?などと、対して興味もないくせに書いてみる私である。と言うか彼女、何歳になるんだろう?もう、かなり厳しいところに来ているはずだが。
 あ、そうか。ビビアンの久方ぶりのニュースを聞いての私の戸惑いって、「お前が興味を失った後でも、香港の人々の暮らしは続いているんだぞ」ってメッセージを突きつけられた気分になっているんだな、きっと。

 ○香港不滅の「清純派」ビビアン・チョウ、20年の交際に終止符
 (Record China - 12月13日 18:23)

 2008年12月12日、今年デビュー20周年を迎え、「永遠の清純派」として知られる香港の歌手、ビビアン・チョウ(周慧敏)が交際20年の恋人との破局を宣言した。先日より各紙をにぎわせている恋人の浮気騒動が引き金となったようだ。台湾紙・聯合報の報道。
 香港誌・3週刊では「ジョーは19年で9回の浮気を重ねた。ビビアンはついに愛想を尽かし、彼の元を離れた」としている。確かにこれまで、ジョーはミシェール・リー(李嘉)やモニカ・チャン(陳法蓉)など多数の美女らと浮名を流してきた。
 このほどの「破局」という結末に、ジョーは「これは極刑だ」と自身の気持ちを表現している。反してビビアンは、「彼との日々を忘れることは永遠にありませんし、後悔もしていません」と毅然とした対応をした。さらに、「よき友人関係に戻り、互いを責め立てあう日々を離れ、互いの立場が変われば、互いを思いあう気持ちが消えることはないと思う」と、含みのある発言をしている。(翻訳・編集/愛玉)


古きトバ湖の畔に

2008-12-13 04:22:37 | アジア

 ”14 LAGU POP BATAK HORAS PILIHAN TERBAIK HORAS”

 感動した、なんて形容は今どき、めったに遣うことのないものなのだけれど、このアルバムにはちょっとやられてしまったのだった。
 まあ、このあたりの音楽には興味はあるものの、まるで手付かずでいたので、免疫出来てないですからね、私は。でも、たとえようもなく土俗系の美しさ溢れる音楽だと思うよ。

 これはインドネシアはスマトラ島で、かの国最大の湖トバ湖の畔に住む歴史の古い民族、バタック人の音楽、”ポップ・バタック”の今日を伝えるコンピレーション盤である。
 ・・・と、これ以上のことは知りません。バタックとその音楽に関し、もっと詳しい知識が欲しい向きは他の、もっと博学の人のブログをあたってください・・・って、居直ってどうする。

 まあ、しょうがないです。筒井康隆の言うとおり、すべてのジャンルの熱狂的ファンであることは物理的に不可能なんだから。これをきっかけに調べて行くから、長~い目で見てください。
 でも、あれこれ調べて行くうち、私がこれまで親しんできたインドネシアのキリスト教ポップス、”ロハニ”の歌い手なんかでこの民族出身の人もかなりいる、なんて事を知り、驚く。あれらの歌い手を育んだ土壌が、バタックの地だったんだ。まったく知らない道を歩いているつもりが、いつもの道とほんの一筋違いだったんだなあ。

 そもそも、このアルバムを飾っているジャケ写真を見る限り、キリスト教の面影は、私には感じられない。地元原始宗教、もしくはイスラム教を信仰していると言われたほうが納得出来る気がする。
 収められているのも、一聴、大いなるトバ湖の幻想的な風景に抱かれて古い文化を今に伝える神秘的な民族の伝承歌、朝霧を衝いて玄妙に聴こえ来る、みたいな、どこか浮世離れのした蒼古的な美しさのある歌ばかりなんでね。

 でも言われてみれば、寄せては返すリズムの波に揺られ、フルートやキーボードのオブリガードを伴い、滑らかにクロマティックな音階を上下するメロディラインなど、確かにそこに差し込む西欧文明の影、賛美歌の影響は聞き進むにつれ、大きなものと感じられてくる。。
 基本、ヨーロッパ風な可憐なメロディではあるんだよ、どの曲も。さすがロハニの歌い手を何人も産んだ土地というべきか、ゴスペルみたいな曲調まで現われてくる。

 けど、その歌唱の粘度の高い感情表現というものは、やはり歴史のあるアジアの地方文化の奥深さを感じずにはいられないものがある。
 たとえば、この分野の名歌手と聞かされていた”エディ・シリトンガ”の歌唱などは一度聞いたら忘れられないもので、確かにこれは、ほかに類を見ない歌い手だ。
 静々と敬虔に歌いだされ、が、いつかこみ上げる感情に突き動かされるままに激情の慟哭に至る、彼の感情表現は、まさにアジア的な業の深さを体現していると言えよう。
 そしてそこに吹き抜けて行く、太平洋からのほのかに漂う潮の香り。

 山地深くの湖の畔で、アジアとヨーロッパの要素をユニークな形で折衷した、不思議な音楽を育んで来た人々がいたなんて、なんだかおとぎ話が現実になったような気分だ。。
 う~ん、深いな、アジアのローカルポップス。もっと真面目に追求しておかなきゃな、と反省しきりの年の暮れなのでありました。


その後・・・

2008-12-13 04:15:05 | いわゆる日記


本日、セブンアンドワイより、返品分の入金がありました。
3週間の空しい戦いでした。

しかしなぜ、アマゾンが一日でやってしまうことを
セブンアンドワイでは3週間もかかるのか、ということであります。

皆さんのご声援に感謝します。


成り行きが注目されます(笑)

2008-12-12 04:18:33 | いわゆる日記


 というわけで、昨日の続きです。
 問題の通販サイトのカスタマー・センターから、一日遅れの返事がありました。何はともあれ、まずそれをお読みいただきましょう。


>【ご連絡・ご回答】
>お問合せいただきまして、ありがとうございます。

>この度は、××様にご迷惑をおかけしてしまい、
>誠に申し訳ございませんでした。

>ご返金の日時につきましては、担当部署に確認の上、
>詳細が分かり次第、メールにてご連絡致します。
>恐れ入りますが、今しばらくお待ち下さい。

>お待たせしてしまい、大変恐縮でございますが、
>何卒、ご容赦いただけますようお願い申し上げます。


 (笑)、ですかね。引用したってしょうがないみたいな、もう「私はそんなこと、どうでもいいです」と言っているも同然の文章です。
 それにしても、「すぐにご返金いたします」ではなくて、「ご連絡いたします」なんですね。この文章を書いた人物、おそらくこの返事を書いただけで、事態の解決のためになにか行なうなんて事、絶対にないんでしょうね。これ、確実だと思う。そんな気配がヒシヒシと伝わってくるもの(笑)

 この件であちらとは3往復かな、やり取りをしたんだけど、そのたびごとに相手の署名が違う。これは本当に担当者が頻繁に入れ替わっているのか、それとも責任回避のために、署名をランダムに変えているんだろうか?いずれにせよ、「何とかしよう」という意欲はまったく感じません、どの回答文を読んでも。

 知人は、「この回答文を書くのは”派遣”の仕事であり、社員連中はクレームなどに関わらず、別のところで別の仕事をしている。が、返品に伴う返金の作業にGOサインを与える資格があるのは社員だけなのであり、派遣の連中には何も決める資格がない。それゆえ客のクレームには、このような毒にも薬にもならない回答しか返せない」と考察しました。私もそんなところではないかと思っています。

 あ、予想通り誠意の感じられない答えが返ってきたので、相手の会社名を発表します。”セブン&ワイ”です。例の注文品をセブン・イレブンで受け取れるところですね。
 知ってる人は知ってるが、ここはとうに絶版になってしまった商品が結構売れ残っていたりするんで、意外に穴場なのです。まあ、もうここで買う気はないですがね(笑)

某通販サイトの呑気な稼業に関して

2008-12-11 01:57:08 | いわゆる日記


 先月、こんな話を書きましたね。

 ”ある通販サイトにCDを注文したのだけれど、届いたものを見てみたらCCCDだった。サイトを見直しても、そのような商品説明はない。「CCCDであるのなら注文はしなかったのに」とクレームを出した”なんて話。

 これです。
 ↓
  ●CCCDの亡霊

 その後日談なのですが。その通販サイトからは不備に関する謝罪と共に、

 >弊社より着払い伝票を郵送いたしております。
 >お手元に届きましたら、お手数をおかけいたしますが、
 >不備のございます商品のご返送をお願いいたします。 

 と返事がありました。
 まあ、その”事故”が起こったのが11月末の連休の前で、すぐにその伝票なるものを送って来たならまだしも、あちらから発送されたのが、連休が終わった25日過ぎというのどかさで。やる気あるんかいなと呆れたんですが、まあ、ここは我慢しておきました。

 で、私は伝票が届いて即、商品を返品しました。そいつは先月の29日に先方に届いているようなのですが。
 あちらからの返信には、以下のような説明も書かれていました。

 >ご返金のお時間として、弊社にて返送商品確認後、
 >7営業日ほど頂戴いたしております。
 >大変お待たせしてしまい誠に恐縮でございますが

 こいつものどかな話だなあ、アマゾンなんかは事故発生と知ったその日に代替品を発送してくるぜ、とまたも呆れつつも待ちましたよ、私は。
 時は流れて。本日。もう月も替わって12月の中旬だ。返品後、”7営業日”も、どう数えても過ぎている。

 が、こちらの口座に、返金はありません。なんだこれはと説明を求める文章を送ったのですが、あちらからの返信メールは来ない。どう思われますか?
 そろそろ戦闘開始かな、と覚悟を決めつつある私なのであります。あの、この相手の通販サイトというのは、誰でもその名を知ってるような大手ですよ。それがねえ・・・

 さて、今後もこんな状態が続くようなら、次回からその通販サイトの実名を出して行きます。

アラブのキャンディーポップス

2008-12-10 03:00:51 | イスラム世界


 ”Enta Meen”by Dana

 これは今、ちょっと気に入ってますね。レバノンのセクシー系アイドル歌手、Danaのアルバムであります。
 これまでアラブ圏では聞いたことないんじゃないかと思われるタイプの歌声を聞かせてくれます。
 まるでアメリカのキャンディ・ポップ、なんて言葉があるのかないのか、ひたすら陽気で甘ったるく、かつセクシーに迫る、Danaのちょっぴり舌足らずな歌声。

 いろいろ厳格なお小言の多いアラブ圏で、こんなにアメリカっぽく開けっぴろげにスィートなお色気路線って、ありなの?いいのかなあ、こんなに明るいセクシー・アイドルがいてしまって?
 なおかつ、曲調もサウンドもアラブのポップスの本道を外していない、そのあたりがまた嬉しくさせてくれます。アラブ・ポップスの持っているミステリアスな音要素をDanaは、自身の健康的なお色気を効果的に見せ付けるツールとしてうまいこと使ってしまっているんですな。

 レバノン製とはいえ、かの国独特の洗練された出来上がりというよりは、もう少し泥臭く、伝統に忠実なアラブ本道民族派の音作りで進行しますが、上に乗っかるのが甘ったるいDanaのセクシー・ボイスなんだから、これはたまりません。
 民族打楽器のディープなアンサンブルがハッシと打ち込まれ、アラブ伝統のメロディが妖しくうねるその中央に、屈託のない笑顔を見せながらアイスクリーム舐めつつ歌っているみたいなコケティッシュな歌声を聞かせるDanaが鎮座ましましている、この新鮮さ。

 リフレインの部分がどうしても「洗濯、洗濯、洗濯機♪」と聞こえてしまう”Sympetheec”なんかのあっけらかんとした明るさなんて、アラブ・ポップスのルネッサンスではあるまいか、とかオーバーな事を言いたくなって来ますな。ともかく収められている各曲、どれもユニークで楽しいものばかり。
 ともかく聞いていて気持ちが明るくなってよろしいです。荘重なモスクをバックに満面の笑顔を浮かべ、ミニスカートで踊りまくる、なんてプロモーション・ボデオがあっても良さそうな気がする。いやもうあっても不思議でもなんでもない。

 そんな次第ですっかり私、Danaのファンです。さあ、あとは中東発のモーニング娘とか、そういうものの登場を待つだけだな、うん。

マリカミズキ

2008-12-08 03:38:21 | 奄美の音楽

 ”Song Fruits” by MaricaMizki

 というわけで。いい加減にしろよっと言いたくなるくらいにいつの間にか寒くなっていて、やっぱり今年も秋をすっ飛ばして、いきなり冬がやって来ている。何だよ最近の気候と言う奴は。春と秋というちょうどいい気候はどこへ行ってしまったんだ。
 そして。酷暑と酷寒に直結されたんではやりきれないなと愚痴を言っているうちに気が付けば年末。
 久しぶりに奄美民謡のCDを引っ張り出して聴いてみると、これが実に良いのだった。

 夏の暑さの中で今年は、ひたすら沖縄の音楽を聴きまくった。それなのにお隣の奄美の音楽は放り出したままだった。それがここまで寒くなったら急に奄美の民謡を聴きたくなって来たというあたり、やっぱり自分は奄美の民謡を”南国の便り”ではなく、”今に生きる古代歌謡”という方向で捉えているようである。

 深夜、ストーブの前に身をこごめて、昔放浪したあれこれの土地のことなど振り返り、またあの場所に、昔と同じ気ままなヒッピー(死語。苦笑)として訪れることが出来ないものだろうか、なんてあてもない事を考え、もう逢う事もなくなって久しい懐かしい人々を思い出しながら、”らんかん橋”を聴く。”上がれ日ぬはる加那”を聴く。
 そんな風にしていると、夜闇の向こうの静まり返った国道を吹き抜ける寒風に耳を澄ませて、遠い昔に過ぎ去ってしまった人々の日々の生活の残滓を聞き取ろうとしているみたいな気分になったりするのである。

 というわけで、奄美の若手女性歌手二人、吉原まりかと中村瑞希による民謡ユニット、”マリカミズキ”の1stを聴いている。
 このコンビで3枚、アルバムを出しているようだが、まだこの盤しか聞いていないせいか、あえてデュエットのチームを組む意味は当方、まだよく分からずにいる。
 掛け合いの妙を聴かせるのか、普通はソロで歌われる民謡をコーラスで聞かせる試みなのか。あるいはそれ以外。いずれにせよ、いつものソロとは一味違うなにごとかを目論んでいるのだろう。

 二人とも、一人で歌っている時より歌の表情が柔らかく聴こえる。あるいはそれは、ギターやウクレレといった、いつもは民謡では使われない楽器がバックに加わっていて、演奏にふくらみが出ているせいでそう聴こえるのか。
 実は、あんまりそれらの楽器の導入が成功しているとは思わないのだが、今はその柔らかな響きが”癒し”と響き、救われた気分だ。なんかこの年末、いろいろ心が擦り切れるようなことが多いんでね。
 それでもやっぱり、ギターの音がメインの1曲目が終わり、三線の鳴り渡る2曲目になると音に気合が入るようで、聞き手のこちらの気持ちも湧き立つ。この辺は難しいかなあ。

 サウンド面で言えば、”赤木名観音堂”に始まるメドレーでパーカッションのアンサンブルをバックに聴かせ、なかなか血の騒ぐ出来上がり。
 これには相当な可能性を感じる。複数の打楽器の織り成すリズムに乗った二人の歌声は、非常に自由でパワフルに飛翔している。
 もともとがモノトーンの奄美民謡、旋律楽器も和音楽器もいらないと言うか邪魔になるんじゃないか。その代り、音の隙間をリズムのみで埋めて行く、というのはかなりいけるんじゃないかな。

 けれど、製作サイドはそのような風には考えなかったのか、その後、この路線で行ったという話は聞いていない。この次のアルバムはバリに行ってガムランをバックにしたもののようだけど、それは違うだろうなあ、ちょっと。まあ、聴いてみないとなんとも分かりませんが。行くならアフリカでしょ、アフリカ。
 相当良いんだがな、パーカッション群をバックに歌う二人は。私がプロデューサーだったら、バックに専門的な打楽器プレイヤーを揃えて二人に歌わせ、フル・アルバムを作りたいね。絶対に良いものが出来ると思う。あるいは全然逆方向で、打ち込みリズムのみをバックに、テクノなファンクで迫るのも一興かと。まあこれは冒険になるけど。

 とかなんとか。いやまあ、里アンナが”吾島”であれだけ頑張ったんだから、今度はこの二人に一発やってみせて欲しいな、とかひそかに期待しているんだけどね。
 

ロボット、故郷に帰る

2008-12-06 01:51:24 | ヨーロッパ


 ”Die Mensch Maschine”by Kraftwerk

 こんなもの、いまさら麗々しく取り上げるまでもない、テクノ・ポップの名盤ですな。ドイツのバンド、クラフトワークの、邦題・人間解体って奴です。

 おなじみ、オール電子楽器の陣容で、例の打ち込みピコピコ・リズム全開、ロボットやらメトロポリスやらネオンライトやらと、なにやらもはや懐かしい”レトロな未来”のオブジェを、ボコーダーを通した無表情な機械の声で弄ぶように歌っている運び。
 なんて説明も要らないでしょうね。1978年度発表のこの作品の影響下、かのYMOをはじめとしたテクノポップのブームが展開されて行った次第で。
 こういう有名な作品は、なんかこう、説明すればするほど間が抜けて行くのでもうやめておきますが。

 なんでこんなアルバムを今頃引っ張り出したかといえば先日、レコード店頭でこれのドイツ語盤というのを見つけてふと買い求めたら、ゴツゴツしたドイツ語の響きがなかなかに快くてすっかり嬉しくなってしまったから。
 ちょっと各曲のドイツ語タイトルをコピペします。

1. Die Roboter
2. Spacelab
3. Metropolis
4. Modell
5. Neonlicht
6. Die Mensch-Maschine

 やあ、良いですなあ。はじめにドイツ語版があって、その後に世界市場に進出するために英語版が出たというんじゃなくてその逆、国際的に名を成してからドイツ語版も製作したってことらしい。そう説明されてから聴いたせいでしょうか、こちらドイツ語版のほうが歌唱が字余りっぽく、ぎこちなく聴こえるような気がする。そこがまたロボットっぽい発音に聴こえて楽しいてんだから妙なもので。

 ワールドミュージック・ファンでクラフトワークのファンなんてのは珍しいのかよくある話か分からないんですが、とりあえず私は普通のテクノのファン期を送ってはおりません。ドイツの大衆音楽を探求していて、この辺の電子音楽に辿り着いた次第で。
 だから今、発表当時から30年もの時を経て、もう流行とか何とかの話題から解き放たれたこの盤の、しかもミュージシャンの母語であるドイツ語で歌われた盤を改めて聴き返すと、故郷に帰ったみたいな安らぎを感じます。

 優しいんです、シンセの音も機械のリズムも。今となっては古臭い機材の音なんでしょうが、そこがまた切ない。発表当時は”冷たい機械の音”だったものが、もう我々の意識にすっかり馴染んで、暖かい人間の血が通い始めたかの感触がある。「ほとんどアコースティック!」と、わけの分からない賛辞を送りたくなるほど。
 描かれている”未来”も、ついに来ることのなかった、ユーモアさえ漂うピントはずれの未来であり、そこが微笑ましいのです。ほとんどこれは、”ドイツ民族のフォークソング”ではないですかねえ。

 思えば”テクノの人々”はこの時代は、まだまだ未開発だった電子楽器というオモチャをいじって遊んでいる子供みたいなものでした。そんな遊戯の楽しさが、この盤なんかではある意味、頂点に達しているのでしょう。
 その後、YMOなんかが率先して切り開いた路線により、テクノの世界は”ダンスミュージック化=銭儲け”というショービジネスのシステムに引きずり込まれ、過酷にもチクタクとシビアな現実世界の時は刻まれて行くのですが。

 最新盤”Minimum-Maximum”など聴くにつけてもクラフトワーク、すっかり”営業に使える踊れるバンド”として現実世界に適応しておりますもんね、機械いじりにしか興味のないオタクではなく。
 それにしても。不覚にも知らなかったんだけど、クラフトワークのほかの各盤も、それぞれドイツ語ヴァージョンが出ているみたいですな。ああ、これも買っておかなくちゃいけなかったな、ファンとしては。