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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

それは演歌ではなく

2009-01-19 15:28:39 | その他の日本の音楽


 ””マディソン郡の恋”by 秋元順子

 ブログ仲間のNAKAさんが、ご母堂から薦められた盤、ということで”秋元順子 / マディソン郡の恋”なるアルバムを話題にしておられた。ああ、なんか紅白歌合戦に60代、最年長の初出場とか騒がれていた人のアルバムだね。それにしても凄いタイトル。これは2006年に出た、デビューアルバムだそうだ。

 NAKAさんが紹介しておられるプロフィールには、ジャズ、シャンソン、カンツォーネ、ラテン、ハワイアンと、秋元女史の音楽遍歴が記述されている。まあこの世代の人にとっての”オシャレな洋楽”を経巡って来た人のようです。典型的な例、と言えるのかもしれない。
 身近かなもう一つの例を挙げれば、私のいとこがこんな道を歩いてますよ。ピアノの稽古に通うかと思えばシャンソン習ったりカンツオーネの先生に付いたり。やはり、いろいろ音楽遍歴を重ねている。こういうのも”ワールドミュージック的展開”と呼んでいいのかどうか分かりませんが。

 これを、「いろいろ音楽を巡った末に演歌の世界に帰着した」と受け取っている人もおられるみたいですな。けど・・・そうかなあ?
 「愛のままで・・・」は、私は演歌ではないような気がします。なんか短調のメロディでベターっと重苦しい世界を歌ってるから演歌、なんてのはちょっと短絡的な理解でしょう。
 では何かといえば、こいつは”いわゆるインターナショナルにベタな歌謡曲”ではあるまいかと。

 「愛のままで・・・」って歌、イタリアとかフランスとか、あるいはロシアみたいな短調の重たいバラードが好まれる傾向の国に持って行って、現地の言語の歌詞をつけて歌ったら、何の違和感も無く受け入れられるって気がしますもん。もう、国際的に普遍性のある”歌謡曲”なんじゃないでしょうか。
 だから、あれこれ”洋楽”を消化して来た人には自分のものにし易かった。そんな音楽でしょ、あれ。

 これが”無法松の一生”とかの決定的な演歌だったら、そんなことにはならないですもんね、いくらフランス語の歌詞をつけてもガイジンにゃ受けません。あ、”趣味の人”は別ですよ、ワールドミュージック趣味の人。いや、そんな少数の物好きはいちいち計算に入れることもないか。
 演歌はやっぱり、古賀政夫先生が朝鮮半島の民謡にインスパイヤされて創造した特殊ポップス。それなりの修行が必要で、”西洋の洋楽”の素養しか持っていない秋元オバサマには、容易には歌いきれないでしょう。

 では秋元オバサマが歌っているのはなんなのか?と言えば。
 これは筒井康隆のフレーズの盗用ですが、”日本人の贅肉”である、と。そんなところじゃないでしょうかねえ。今日、多くの人がカラオケとかで歌っている”演歌”なんかもこれの一種ではないかと思いますねえ。オリジナルの歌唱は演歌だったのかも知れないけど。

丸太小屋と黒いドレス

2009-01-18 04:07:51 | ヨーロッパ

 ”Taus”by Sigrid Moldestad

 北欧のトラッド世界で好んで使われている独特の変形バイオリン、ハーディング・フェーレ。
 ボディの中に本来の弦と別に4本の共鳴弦が張られていて、非常に分厚い玄妙な響きのする楽器です。北欧トラッドを特徴つけている楽器ですが、おそらく、弾きこなすのは至難の業ではあるまいか。というか、共鳴弦のチューニングの段階でほとんどの人が挫折するのではないですかね。
 これは、そんな楽器のプレイヤーであり、歌手でもあり、北欧の民謡のフォームに沿ったオリジナル曲も書き下ろすノルウェーの民謡プレイヤー、Sigrid Moldestadの新譜です。

 冒頭、自身のペンになる静かなバラードを柔らかな声で歌いだすSigrid は、とかく孤高のイメージをかもし出してしまう北欧のトラッド・ミュージシャンらしくもない、非常に暖かく身近かなぬくもりを感じさせます。
 奏でられる音楽は、凍りついた空気の中で屹立する針葉樹林と降り積もった雪、なんて光景がどうしても浮んでしまう北欧トラッドの凛としたメロディを芯に置くものなので、冒頭の曲の、まるで暖炉の前の打ち明け話みたいな暖かさが妙に心に残ります。

 非常に気になるのが、インナー・スリーブに掲げられた、おそらくは過去においてノルウェーの地に生きた無名の女性たちの何枚も何枚もの写真。なにしろノルウェー語なんて一言も分からないから、それら写真に付された長い解説も当然ながら読めず。ただ写真と演奏内容から、その意味を想像するしかない。
 写真の画像から古いノルウェーの日々を想うに、それは決して気楽な暮らしではなかったろうな、と。北の厳しい自然との戦いの中で生き延びて行くことの辛さ、それゆえ抱え込んでしまった貧しさ、などが強烈な圧迫感を持って迫ってくる写真群です。

 その中で精一杯やりくりしたのだろう、着飾った女性たちがこちらを向いてポーズを取っている。硬い表情は、写真など普段は撮った事がないからだろうと想像されます。
 そして、そんな彼女たちの思い出を包み込むように歌うSigrid 。
 ジャケ写真の彼女が毛皮を首に巻いただけのヌード状態なのも、女性たちの古い写真と関連するなにごとかを表しているような気がします。それはおそらく、過去にノルウェーの大地に生きた女性たちへの深い共感を表しているのではないだろうか。そんな気がするのだけれど。

 弾けば弾くほどシンと静まり返った極北の国の大気の静けさがリアルに伝わってくる、そんなノルウェーの伝承歌の数々が、Sigridのハーディング・フェーレで奏でられる。
 聴いているこちらはヨーロッパ最北端の名もない村に吹く風を、いつか感じ始めている。中ジャケ写真にある、霧に巻かれた湖畔に建つ粗末な丸木小屋でおくられたいくつもの人生などに想いをはせている。行った事もない土地。会った事もない人々。彼らと自分とを隔てる時間と空間の巨大さに、途方に暮れる夜更けなのだった。
 


説教唄の消長

2009-01-17 04:53:34 | 音楽論など


 昨日、城南海ちゃんのデビュー曲の歌詞に関して、「歌詞のメッセージ調がウザイと感じられないでもない、と書きました。
 そしてこれを、民謡にたまにある”説教もの”の一種と想定すれば納得できないでもない」とも。(まあ、故意の誤解釈って奴ですが)
 そこで”説教もの”の一例として、沖縄の島唄である”てぃんさぐの花”をあげたのだが、それがどんな歌詞内容か、訳詞を掲げてみます。

”てぃんさぐの花の汁で指先に色をつける時のように
 親の教えを心に染めなさい。
 どんな宝も磨かねば錆びる。
 まして人間は朝に夕に心を磨いて
 人生をわたらねばならない。
 成せば成る 成さねばならぬ何ごとも
 成らぬは人の成さぬなりけり”

 という、大変にうっとうしい内容のようで。最後の一節、これは意訳じゃなくて、直訳でこうなるそうなんだからたまりません。ちなみにこの部分の原詞をあげてみますと。

 >なしば何事ん ないる事やしが
 >なさぬ故からど ならぬかなみ

 まあ、困ったことで。こちらは歌詞内容なんてはじめは分からず、メロディの美しさに惹かれて、いいかげんなウチナーグチで歌ってみたりしていたのだが、意味を知ってみれば、なんだこれは、だ。そんな事を言われたかあねえやなあ。

 まあ大衆文化の中で、洋の東西を問わず、説教ものってのがなんらかの存在意義を持っていたのは確かのようで、大衆音楽の古層を探ると、この種のものは宗教なんかをバックグラウンドに持ちつつ、かなりの頻度で存在していますな。
 もともとが仏教説話である河内音頭などには当然、生な形で出てくるし、アメリカのオールドタイム・ミュージックの歌詞の中にも教会から直送みたいな説教臭が漂っていたりする。
 遠くナイジェリアのジュジュ・ミュージックの大物、エベネザ・オベイなんて人の歌詞も相当なものだと聞きました。何しろ彼の芸名そのものが、”文句を言う前にまず目上の者に服従せよ”から来ているとかですからね。

 その種の唄を聴いて、「なーにを言いやがる、この野郎、偉そうに!」とか反応するのはインテリの近代人だけと、むしろ考えるべきなのかも知れないんですな。
 民衆の心の中に”説教されたいとの欲求”がある、と想定してみるべきではないか。
 このような歌詞は、たとえば支配する側の大衆コントロールの目的からとか、そんな事情で生み出されたり流布させられて来たってわけじゃないだろう。いや、最初はそのような都合から発生して来た説教唄かもしれないが、いつしかそれは無名の大衆一人一人から、むしろ好んで聴かれてきたと考えるべきではないか。

 そのココロは?と申しますに、寄る辺なき大衆は”偉い人”にハハーッと頭を下げてしまえば”価値観を巡る戦い”なんてややこしいものに関わらずに済む、という事情がある。
 「偉い旦那衆の言われる事、なんだかおかしいんじゃねえか?」なんて考え始めて階級闘争に目覚めちゃったりするより、「旦那方に逆らうなんて、恐ろしいこんだよ、オメエは何を言うだっ!」と互いをけん制しあい、揃って土下座しつつ年貢米を収めているほうが、そりゃ辛くとも面倒くさいことは考えずに済むのであって。

 そのように反応するように”躾けられて”来た大衆でもありますし、その結果得られる”奴隷の平安”の甘き泥沼の心地良さもありましょう。
 そいつから抜け出して寒風にさらされつつ自立を目指す、なんてしんどい思いはしたくないよ。ただでさえ日々の農作業も辛過ぎるというのに。

 などなど。毎度、まとまらない話で恐縮ですが。
 さて、本日の課題。”演歌・蟹工船”って歌をちょっと作ってみてください。

アイツムギ紡げば

2009-01-15 21:40:12 | 奄美の音楽
 ”アイツムギ”by 城南海(きずきみなみ)

 正月2日、早朝のラジオに生出演しているのを聞いてファンになった、なんて記事を先にここに書いた奄美の民謡系アイドル歌手(?)の城南海ちゃんだけど、その後、デビュー・シングル”アイツムギ”を入手し、聴いてみた感想など。
 まあ、デビュー盤はラジオで聴いたときにすでに気に入っていたんで、それを手元に確保してより良い音で確認したというだけなんだけど、改めてきちんとした形で聴きなおしてますますファンになりましたね。

 デビュー曲の、アイドル歌手的可愛さと幼いながらも島唄歌いの魅力と、彼女の歌声が持っている二つの持ち味を上手く生かす味付け具合は上手いものだと思いました。
 郷愁を誘うような唱歌調Jポップ(?)のメロディ・ラインのあちこちに、巧妙にコブシを効かせて歌える箇所を配備した曲構成とかね。
 まあ、計算ずくなのか偶然そうなったのか分からないけど。ちなみに作詞作曲者の素性、不勉強で私は知りません。

 城南海の歌唱の個性についても、奄美の島唄シーンの一方を古くからリードしてきた”セントラル楽器”のサイトが彼女の歌声に、”これまであまり聴いたことのないタイプ”と呼び、”ゆっくりとした奄美がよみがえるような”なんて評価を加えている。
 そうですね。他の、どこかストイックでハードエッジな感触のある奄美の島唄の歌い手たちとはどこか違う、ホッコリとのどかな手触りがある。
 なんか悠然たる時の流れ、みたいなものを彼女の歌から確かに感じます。十代の女の子のデビュー・シングルを、そんな具合に評するのも妙かもしれないけど。

 今回の盤で唯一、どうなのかなと首を傾げてしまったのは、その歌詞内容です。
 なんかメッセージ・ソング風な臭みがかなりあるんだけど、そんなものはこの歌手では聴きたくないな、と思った。いや、どの歌手でもあんまり聴きたくはないけどさ。聴いていて、若干、気持ちが白む部分がある。

 もっとも、民謡には説教調というか教訓唄というか、そのような方向の歌詞を持つものがあって、たとえば沖縄島唄のスタンダードである”てぃんさぐの花”なんかがそうですな。「どんな才能でも磨かねば錆びる」なんて歌詞内容でしょう、あれは。
 で、この唄もそんな説教調民謡の味わいを生かそうとした作品なのである、という方向で無理やり納得しようと思えば出来ないこともない。実際、私はそうして聴いているんだけど。

 けどまあ、そんな細工をせずに済めばそれに越したことはないんで、関係者ご一同はこの辺、ご一考願いたいものである。これを作品評と思うな、ファンからの要望です。
 まあ、とりあえずこんなところで。ああ、早くアルバムも聴きたいなあ。



夜汽車よ、シンチョンへ

2009-01-14 00:29:07 | アジア


”1st albam”by Lim U Kyung & Dallae Band

 イム・ウキョンとタレルバンドの1stアルバム。それにしても、どうして韓国のアルバムって、こんな無味乾燥なタイトルが多いのだろう。まあ、いいけどさ。
 どうやらアルバムの主人公であるイム・ウキョン嬢、このほど韓国でCDデビューした脱北者の歌い手、ということのようです。

 アコーディオン弾き語りでトロット演歌を歌う人と聞いたので、前面にド演歌の泥沼みたいなものが広がっているのかと思ったが、冒頭、短調のワルツが始まり、アコーディオンが流麗なイントロを奏でる。結構オシャレで、多少リズムがブンチャカしているが、なんかシャンソンみたいな曲じゃないか。
 と見直しかけるのだが、サビに至れば、これはもう東アジアの住人ならば国境を越えて共有できるであろうベタな歌謡曲世界に突入する。やっぱりね。

 昔の日本でも聞かれたような古いタイプの歌謡曲が冒頭には並んでいて、でも、妙にホームソング調というか、将軍様お気に入りの群集によるマスゲームの伴奏にも使えそうな健全っぽい雰囲気がソコハカとなく底の方に流れていて、やっぱり北の歌い手なんだなあ、と思わせる。
 その辺の物珍しさがウリだったりするのだろうか。悪い言い方をすれば、さらしものだよね。
 どのような経緯で脱北をしたのか知らないが、勝手の分からぬ”南朝鮮”での暮らしも楽じゃないんだろうな。

 それにしても、デビュー当時のモーニング娘。って、この種の顔が目立ったよね。というルックスをしています、彼女。といって通じる人がどれだけいるか。
 いや、ちょっとクセはあるが清楚な美女といっていい顔立ちである。そして、きれいな声をコロコロと転がすように歌う人である。良い歌手といっていいと思う。時代遅れではあるが。いや、それだって売り物にはなるだろう、トロット演歌の世界では。

 歌詞カードに添えられている写真では、いろいろ韓国において最新流行なのであろうファッションに身を包んでポーズをとり、笑顔を浮かべているが、いかにも素朴そうな彼女は、そんな仕事に戸惑いはあったろうか?
 それとも、北の”ショービジネス界”においても、”喜び組”ってんだっけ、あそこだったらこの程度のミニスカートははき慣れているんだろうなあ・・・とか、どうも色眼鏡で見てしまっていけないね。

 などと言っていると、途中でいきなりテナーサックスむせび泣く夜のムード演歌タイムに突入。この”資本主義的退廃”の世界も器用にコロコロコブシを廻してこなしてしまう彼女に感心する。と同時に、彼女の本音はどの辺りにあるのか、ちょっと分からなくなってしまう。
 やっぱり鍛え抜かれたプロの技なんだろうね。健全なる国民歌謡と紫煙煙るナイトクラブのテナーサックスの退廃。どっちも本気に聞こえてしまうんだなあ。

 その後も、ウキョン嬢の可憐な歌声はあちらに揺れこちらに揺れつつ、朝鮮半島を南北に貫く大衆歌謡の水脈を汲み歩く。南の人々が彼女の音楽をどう受け止めているのか分からないのだが、彼女がそれなりの居場所を南の地で見つけられる事を祈ろう。
 なんて言葉で締めくくろうとしたのだが。
 末尾に二曲収められたカラオケを計算に入れなければ最終曲である14曲目、こいつを聴いてすべてがひっくり返った。

 あちらにはいくつもの曲形式があるらしい国民歌謡”アリラン”の一ヴァージョンを、ここで彼女は歌い上げているのだが、こいつが素晴らしいのだ。
 聖なる祈りが魂の内から溢れ出るような見事な歌唱で、うん、この一曲だけで、イム・ウキョンなる歌い手を本物の歌手として認めていいんではないか。”営業”としてどんな歌を歌おうと、そんな事はどうでもいいこと。なんて気になった。

 変に力んだ”絶唱”をしているわけじゃない。むしろ整然と抑制された歌唱の中に、歌い手の誠意が滲む、そんな歌声だ。
 いやあ、野次馬気分で高みの見物を決め込んでいたのだが、最後で一発、やられちゃったなあ。彼女自身も、最後できっちり落とし前をつけてやろう、なんて思っていたのかもね。

森と自転車

2009-01-13 04:26:33 | ヨーロッパ


 ”Under Himmelens Faste”by Kraja

 冬になるとこういうものが聴きたくなるってのも反応が単純過ぎるって気はするんですが、北欧トラッド関係など引っ張り出してみました。
 スエーデンの女の子4人組みアカペラ・ユニットであります。ほんとにアカペラなんだから、といちいち断るのも変ですが、まったく伴奏というもの無しで、女の子4人だけによる実に素朴なコーラスを響かせております。

 ジャケや歌詞カードに添えられている写真には、4人が森の小道をサイクリングしている途中のスナップ、てな場面が続いております。多少、寒々しくはありますが、緑豊かなお伽噺の中みたいな風景が広がっておりましてね。そんな田舎への小旅行に出た彼女たちからのなにげない便りみたいなものなのでしょうね、このアルバムは。

 スエーデンとかノルウエイあたりの、シンと寒気の染み透った空気の中で人々の胸にいつの間にか宿っていた、みたいな繊細で透明感があり、そしてどこか儚げな美しさのあるメロディを、共感を持って聴けるのは、実際、冬の楽しみの一つと言えましょうなあ。

 アルバムタイトルは”空の下で”って意味らしいんだけど、この”Himmelens”って単語には”天国”って意味もあったんじゃなかったっけ?
 なんかほんとにね、彼女たちの素朴な歌声で、北国独特の凛と引き締まった叙情を伝える民謡の数々を聴いているうち、空の上とつかの間通信できる見えないパイプみたいなものがスッと開けてね、神様と世間話の一つも出来そうな気分になってくるみたいな、ね。

 何を言いたいのやら良く分からん文章で恐縮ですが、まあ、そういうことで。寒いっスね。
 

キムチな熱帯魚

2009-01-11 02:13:25 | アジア


 ”ALBUM 01”by Wink

 あっ、やっぱりそうか!このアルバム、来るかも?って気がしていたんだ。
 ああ去年の我がベストアルバム10選に入れておけば良かったと、私は歯噛みしたのであります、これを聴いて。
 いやあ、私は昨年のベストアルバムの選考を、これを注文しながらやってたんですよ。「もしかしたらこの盤、入れておくべき一枚なのかも知れないぞ」なんて、頭の隅に過ぎりはしたんだけどねえ。
 というわけで、昨年末、韓国より届けられた、民衆の汗と涙がベットリと染み付いたダイナマイトの紹介であります。

 冒頭に収められている「プクプク」なる曲は、ハウス系のリズムと韓国伝統の演歌をバッティングさせた代物なんだそうです。言葉の意味的には日本の若者の使うところの「恥ずい」に相当するようだ。「恥ずかしい」の省略形ですな。その調子で、歌詞には韓国の若者言葉が散りばめられているらしい。
 この辺が韓国のディスコ演歌・トロットの最前線なのでありましょう。

 このアルバムの主人公は、カン・ジュヒ&カン・スンヒなる実の姉妹なんだけど、なにしろユニット名が堂々と”Wink”だから、たまりません。去年の暮れに出たばかりの”ウィンクのファーストアルバム”だよ、お立会い!

 知らずに偶然つけてしまった名前じゃないと思うよ。おそらく日本にかって存在したデュオを意識しての命名であるのは確実。
 だってこの韓国のカン姉妹の歌声、節回しなんかモロにあの相田翔子&鈴木早智子による日本のウィンクにそっくりなんだもん。クールを装いつつ、ちょっと切なげに声を絞り出す感じなんか、まったくウィンク。
 この臆面もなさ、なんだか聴いているこっちを恥ずかしいような嬉しいような気分に追い込む感触、まさに大衆音楽トロットの醍醐味と言えましょう。

 ウィンクのファンだった人は聴いて御覧なさい、笑っちゃうから。あの二人に韓国語で演歌を歌わせたらこうなるであろうって感じを見事にとらえてる。きっと韓国の若者たちには強烈に”今時の女の子の歌声”として響いているんではないだろうか。
 で、取り上げられるのが韓国の、いやになるくらいのド演歌ばかりです。”マウヤケソ”なんて曲は、昔、ダウンタウンの連中がカバーしてたから覚えている人もいるだろうけど、ともかくコテコテのド演歌を、途中に「ンッチャ~カチャッカチャッカ~♪」なんて口三味線まで差し挟みつつ進行して行く、オシャレなディスコ演歌の世界!

 全世界的に打ち込みリズム全盛のダンスミュージックの世界で、あえて24人編成のフルバンドをバックに配したという、このゴージャスさを見逃すな!偉大なる無駄使いとでも言いましょうか。
 今回に限って何でそんな事をしたのか、もちろん私は知りませんよ。

 やあ、凄いよね。私、この頃思うのですよ。韓国の人々にとって演歌というのはロックンロールの一種なんじゃないのかって。


2008年・再発CDベスト10

2009-01-10 03:45:47 | 年間ベストCD10選

 昨年末、2008年度のワールドもの新作CDベスト10など発表したけど、それに続く企画として、2008年度に出た再発盤のベストなど選んでみました。実は、某所からの依頼に応えて、選んでみただけなんだけどね。どこかで正式発表されているのを見かけたら、「ああこれか」と思ってください。
 まあ、これは、「去年、結構インパクトを感じたんで年間ベストに入れたかったんだけどアナログ時代に出たもののCD再発では選ぶわけにも行かず」なんて、悔しい思いをしたものを並べてみただけなんですがね。
 これだって”2008年に出会ったアルバムなんだから2008年のアルバム”とか居直って年間ベストに入れちゃう手もあったんだけど、ここは穏便に行っておきました。では。いざ。

 
1) CONGO 70, RUMBA ROCK by Various Artists (Congo)
2) LAS CANCIONES DE SUS PELICULAS by Carlos Gardel (Argentina)
3) AFRICAN SCREAM CONTEST by Various Artists (Benin & Togo)
4) DER MONCH VON SALZBURG by Barengasslin (Deutschland)
5) CHAABI BY NIGHT VOL.2 by Various Artists (Morocco)
6) AU NOM DE TOUS LES MIENS by Lounes Matoub (Algeria)
7) ドラム・ドラム・ドラム by 小山ルミ (Japan)
8) SOUL MESSAGES FROM DIMONA by Various Artists (Israel?)
9) SHARON SINGS VALERA by sharon cuneta (Philippines)
10) 続歌謡曲番外地 -恋のコマンドby Various Artists (Japan)

1) CONGO 70, RUMBA ROCK by Various Artists
 アフリカへ逆輸入されたアフロ・キューバン音楽がアフリカ的洗練を経て生まれ変わった結果生まれたコンゴリーズ・ルンバ。日本で言うところのリンガラ・ポップスだが、この音楽もまた、ロック世代の台頭に揺れ動いた。
 その記録であるこの盤、”ルンバ・ロック”が最初の炎を上げた70年代の現場アフリカの熱狂を伝えて、聞く者の血をも熱くさせる。
2) LAS CANCIONES DE SUS PELICULAS by Carlos Gardel
 戦前、それまでダンスの伴奏音楽としか認知されていなかったタンゴに、声楽としての可能性を切り開いた歌謡タンゴの父ガルデルの、映画出演時の歌唱を集めたアルバムがCDとして世に出た。まさに”歌う映画スター”の面目躍如たるところであろう、「スタジオ録音よりも良い」という声もある。
3) African Scream Contest by Various Artists
  <Raw & Psychedelic Afro Beat From Benin & Togo 70's>
 70年代の西アフリカで燃え上がっていたファンク・ミュージック。アフリカ風に捻じ曲げられた、さまざまにユニークな表現が沸き立っていたそのシーンの貴重な記録。
4) DER MONCH VON SALZBURG by Barengasslin
 1980年のドイツに人知れず(?)咲いていた中欧トラッドの傑作が、今回のCD化により、世界中のスキモノたちの元にも届けられる事となった。
 典雅な古楽系の唄と演奏は、まさにドイツらしい気品に溢れた逸品である。
5) CHAABI BY NIGHT VOL.2 by Various Artists
 モロッコ在住のベルベル人による大衆唄”シャアビ”は、同じマグレブ世界の住人であるアラブ系のそれよりも、より騒々しくアフリカ的なトランス感覚を秘めた魅力がある。
 そんなシャアビの快演&怪演が押し込まれた、ビックリ箱みたいな4枚組。
6) AU NOM DE TOUS LES MIENS by Lounes Matoub
 アルジェリアのボブ・ディラン、だそうな。アルジェリアやヨーロッパに住む、北アフリカ原住の小数民族カビール人の生活と文化のために、ときに政治的、社会的な題材をカビール語で歌い続け、98年に射殺されてしまう彼の、晩年の作品集。
7) ドラム・ドラム・ドラム by 小山ルミ
 2007年から08年にかけて、ベンチャーズ集、ビートルズ集、ロックンロール集とさまざまある小山ルミのアルバムが続々と陽の目を見た。そのどれもが素晴らしいが代表として、発売当時テープでしか発売されなかったというたまらないエピソード込みで、これを挙げたい。
8) Soul Messages From Dimona by Various Artists
 ブラック・モスレムというのはお馴染みだが、これはブラック・ヘブライなる連中のバンドである。
 そのような思想や立場があると初めて知ったが、これは、”黒いユダヤ人”を標榜する彼らがアメリカを離れ、流れ着いたイスラエルの地で放ち続けた奇妙なファンク・ミュージックの記録。
9) Sharon Sings Valera by sharon cuneta
 フィリピンのタガログ語ポップスの秀作。同国の名作曲家、レイ・ヴァレラ作品集で、流麗な旋律、華麗な歌唱が非在の桃源郷へと誘う。
10) 続歌謡曲番外地 -恋のコマンドby Various Artists
 いわゆる日本の脇道ポップス発掘盤だが、キャンディーズのバッタもんグループとしてマニアの心をくすぐった、”ラブ・ウインクス”に焦点を当ててくれた、それが泣けたのさっ。

去り行く今(Adesso si )

2009-01-07 05:00:59 | ヨーロッパ
 ”Sergio Endrigo ”

 その女性のアナウンサーはそこで、「次に、カンツォーネの話題です。セルジオ・エンドリゴの新譜が出ました」と言ったのだった。
 その際”セルジオ・エンドリゴ”の名の発音の仕方に、彼女がその歌手を、何か特別のものと思っているのだろうな、というニュアンスを私は感じたのを覚えている。と言ってもそれまでの話で、そぞろロックファンとしての自覚の出て来ていた私は、「カンツォーネの話か。そっちはもういいや」とか思ってラジオを切ってしまったのだが。

 よくもまあこんな昔の、しかもそれだけの話を覚えていたと思うのだが、その当時はまだイタリアの歌謡曲であるカンツォーネの人気は我が国でも高く、ジリオラ・チンクエッティの新譜とローリング・ストーンズの新譜が、私の聞いていたようなラジオの”洋楽ヒットパレード”関係の番組で首位を争う、なんてことも普通にあったものだった。
 いまや、カンツォーネのファンなどこの日本では見つけるのも難しく、今年のサンレモ音楽祭で誰のなんという曲が優勝したか、なんて話題がかって我が国の芸能誌の一面を飾ったなんて、もやは信じられない話となってはいるが。

 今、それなりの歳になってワールド・ミュージック・ファンとしての立場から聞き直してみるとこのカンツォーネ、なかなかに味わい深い大衆音楽であって、思春期の思い出の中に甘美な記憶としていくつかのヒット曲が鳴り響いている事を僥倖と感ぜずにはいられない。

 で、カンツォーネ歌手のセルジオ・エンドリゴである。
 この人の歌はその当時、聞いたことがあったのかどうか。まるで記憶にない。
 あそこでラジオを切らねば良かったとか言う問題でもないだろう。当時聴いて面白く感じられたかどうかは分からないし。ただ、その女性アナウンサーが、エンドリゴの名を発音する際にある種敬意を込めていたこと、こいつだけは確かだ。我が国においても、地味ながらそれなりの尊敬を集めていた歌手だったのではないか、などと勝手に想像してしまうが。

 セルジオ・エンドリゴは1933年、イタリアはアドリア海に面した町で生まれ、60年代初めにレコード・デビューして着実にヒット曲を重ね、スターの座を確実なものにしている。
 日本では66年、初めてのサンレモ参加曲である”Adesso sì(去り行く今)”で人気を博し、70年には当時開かれた万国博に絡めた企画であるイタリア音楽祭で来日しているそうな。

 エンドリゴに関して特筆すべきなのは、彼がカンタウトゥーレ、つまり自作自演歌手であること。60年代のイタリアを代表するシンガー・ソングライターの一人でもあったのだ。
 シンガー・ソングライター、などというと私などの世代は髭に長髪、破れジーンズにギターを抱えて反抗的目つきで、あるいは世捨て人的態度で反体制的言動をなす、みたいなパターンを想像するが、エンドリゴが世に出た頃、まだ芸能界は古い殻の中にいた。
 だから彼はスーツにネクタイ、きちっと髪を刈り、いかにも”ショー・ビジネスの世界の人”っぽい風体でステージに登場し、礼儀正しく一礼してからマイクに向っていた。いや、時代ばかりのせいかどうかは分からない。彼自身の性格が、そのような古めかしい折り目正しさを善しとしていた節も見受けられるのだが。

 そして、そんなエンドリゴの作り出した音楽は確かに、今日のイタリアンポップスの礎となる新しい感覚を秘めていたのだった。
 彼の個性をジャンル分けすれば、”叙情派カンツォーネ”の歌い手、となるようだ。
 その曲調はあくまでもイタリアっぽくカンツォーネらしさを伝えるものだったが、あまりオリーブ油臭くは無く、高々と熱情を歌い上げる風ではない。
 どこかフォークっぽいというか、空行く雲を追いかけて旅する青春、みたいな孤独な感傷の風が吹き抜けるものだった。そこがまた、彼の感覚の新しさでもあったのだが。

 そんな彼のルックスが、いかにも悩める若者っぽい陰のある二枚目とかであったらますます好都合(?)なのであるが、それが残念ながらややごつく男臭い顔立ちで、そのスーツ姿など、”オヤジ臭漂わす中年教師”みたいに見えてしまうのがまことに残念であった。
 また、ハードボイルド小説を映画化する際、主演させても良いような男っぽいその顔立ちでありながら、万雷の拍手に迎えられてステージに上がった際、舞台上の何かにつまずいてよろける、なんて形で足腰の弱さを露呈してしまう画像を見たことがあるのだが、その辺のドジ具合もまた、味わい深いエピソードと受け止めうる。

 青春とか孤独とか言うのは美しげな言葉の上っ面の反面、裏腹にブザマなものを孕んでいるものでもあるのだが、かっこよく決めかけては、肝心なところでずっこけて台無しにしてしまう彼の存在と、そんな彼が書き下ろし歌う感傷的なメロディのたまらない美しさ。その両者を含めて60年代青春叙情派カンツォーネの王者セルジオ、と受け取るべきである。などと主張しておく。

 それにしてもリアルタイムで彼の音楽を受け止め損なっているのがなんとも惜しい、と言うべきか。それともまだ単なるロック小僧であった当時の私には、その辺の機微を理解は出来なかったろうから、これから存分に彼の音楽を楽しむ余地があると喜んでしまうべきか。
 いずれにせよ青春はとうに過ぎ去り、はるか水平線の彼方にその後姿が浮ぶばかりである。

 セルジオ・エンドリゴは2005年に亡くなっている。彼が21世紀の風景を見ていたという事実が、なぜか不思議に思えてならない。

アイツムギ

2009-01-03 04:49:45 | 奄美の音楽
 ”アイツムギ”BY 城南海

 このところの私の日記を読んでくだすっているかたはお感じだろうが、昨年の暮れからこの正月にかけて私は、「新年の景気付けに酒を飲みたいのだが、あいにく風邪気味である。でも、飲みたいなあ。飲んじゃダメかなあ」と、そんなことしか考えていない。まったく、情けない人間である。
 天国で植木等大僧正が、「みっともないからおよしなさい もっとでっかいこと なぜ出来ぬ~♪」と私を見下ろしながら唄っているような気がしてならない。まあ、今に始まったことでもないのだけれど。

 一月二日の早朝、寝ようとしてベッドに入ると、枕元に置いたラジオから三線弾き語りの奄美の民謡が流れてきた。おや、なんだなんだと首を傾げたが、番組に、今度デビューする奄美出身の少女歌手がゲストに出ていたのだった。

 彼女の名は城南海(キズキミナミ)といい、まだ18歳とのこと。人に”石原さとみに似ていると言われる”と言っていたが、何しろラジオのこととて、そいつがリアルか勘違いか、今のところ私には判断出来ない。
 でも、最後にかかった彼女のデビュー・シングル「アイツムギ」が、民謡の響きを残しつつのアイドルソング的なものになっていて、それがちょっと良い味を出している。それなりに気に入ったのでとりあえずファンになっておくことにした。

 その後、調べたところによると、彼女は兄の影響で奄美民謡を歌い始め、レコード会社の目にとまったのは、奄美から鹿児島に出て来て民謡の路上ライブをやっていた時だったそうな。
 つまり、すでに名のある奄美の歌手たちのように、地元の民謡コンテストに優勝することによって歌手として頭角を現したわけではないようで、この辺、ちょっと面白いかも知れない。民謡の世界の厳格な”縛り”から、どの程度か知らぬが”自己流”ゆえの自由な部分もあるのではないかと期待するのだ。

 そういえば彼女が番組の中で、奄美の民謡独特の裏声混じりの発声法を、羊の鳴き声の物真似の延長線上にあるものと捉えて説明していたのは面白かったな。

 ところで彼女、「天(そら)の才が宿る歌」とか、「人が最後に還る声」とか、そんなキャッチフレーズで売られる予定とかで、この辺のレコード会社のセンスの無さにはすっかり脱力。
 どうせ同じ奄美出身の元ちとせがそんなキャッチフレーズで受けたから、その真似してるんだろうけど、もはやなにやらの一つ覚えみたいな雰囲気も漂い、なんか聞いていて恥ずかしいからやめて欲しいね。